<猟師・渋右衛門の話 (北安曇郡)>
・渋右衛門はたいした男だ。身の丈は六尺余り、ひげだらけのあばたづら。太い眉の下ではびっこの目がギョロッと光っている。
根っこのような足、すねの毛の長さは四寸。それをこきさげて、わらでくくれば脚絆もいらない。
山へ行く時は山刀を腰に、南蛮鉄四尺二寸と、方外に大きい鉄砲を持って出かける。
これが南の松本様から、北は越中までなりひびいた大男の猟師渋右衛門だ。
渋右衛門は北安曇の北城村の貧しい家に生れた。小さい時から猟が好きで、一年中ほとんど山を駆けめぐっていた。山へ行かない時は、一貫二百匁もある大鍬をふりふり、大きな畑を耕していたともいう。
・いい若者になった時、松本の城下に江戸角力があった。
渋右衛門は見物かたがた力だめしにでかけて、当時、音に聞こえた大力の力士を、苦もなくぐっと抱きしめて土俵の外へ出してしまった。お前は力士になれば江戸一番の男になる。と、その頃みんなからはやされたが、でも渋右衛門はやっぱり山が好きで、猟をやめる気にはならなかった。
・あるとき、渋右衛門は山で狼の子を捕まえてきた。それからは、これを飼いならして猟犬の代わりに使うようになった。
山へ入ったまま何日も帰らぬ時、渋右衛門は白馬岳の奥深くわけいり、鑓ガ岳から唐松山、五龍岳とぬけて、遠く青木湖、木崎湖の方へと渡り歩いていた。
・また、風の向きによっては、ざばざばと姫川をわたり、八方山を越えて戸隠の奥まで足をのばした。ここらあたり八里四方の山々は、いわば渋右衛門にとっては庭の中を歩いているのと同じ気持だった。
それでも、やはり、渋右衛門は神さまでも化物でもなかった。山々を歩くうちには、いろいろと珍しいことや、恐ろしいことに出遭った。
春の山の雪崩れ、夏の森での嵐、冬の峰での恐ろしい吹雪………。
そんなとき渋右衛門は人間の誰も見たことのない化物や巨人にでくわすこともあった。
そして渋右衛門はやはり人間であったから、ときには死にそうになったり、ひどいけがをしたり、得体の知れぬ熱病にやられたり………。
だが、こうして渋右衛門は、その名を知られた腕利きの猟師になった。
いつのまにか、渋右衛門の本当の名を呼ぶ者はいなくなり、村人たちは「鬼渋」と呼んである者は恐れ、ある者は親しんだ。
今でも渋右衛門のことは北安曇ばかりでなく、遠い土地にまでなりひびいているが、その物語のいくつかを話してみよう………。
一 二子岩の山の神にあったこと。
山では、人間のはかり知れない不思議な出来事が起きる。
渋右衛門が白馬岳の近くの岩穴で泊ったときがそうだった。星の美しい晩で、空を仰ぎながら弁当の麦焦粉を食っていると、急に山鳴がし、雷がなって、外はものすごい大荒れとなった。
まず、一休みと、渋右衛門は穴の中で横になった。
腰からキセルを抜いて、スポーっと煙草をふかしていると、目の前がかっと明るくなってものすごい落雷があった。渋右衛門が驚いて外を見ると、人間のような化物のようなものが、こちらを覗いている。
渋右衛門は鉄砲を引き寄せた。黒い影、たしかに人間ではない。よし、ぶち殺してやろう!
そっと鉄砲をかまえて片目をつぶると、また激しい落雷。かっと明るくなる。その青白い光りの中に浮んだ16、7のかわいい娘の顔………。
渋右衛門はふーっと息をはいて鉄砲をおろした。娘がにこにこ笑いながら入ってきた。
「渋右衛門、煙草を吸わせてけろや。」
そういって、娘は四尺もあるキセルを取り出し、渋右衛門の煙草を両手ではかりこむほど詰めて、すぽすぽと美味しそうに吸い出した。そして渋右衛門の方をちらちら見ながらまた云った。
「渋右衛門、お前の食っていた麦焦粉もくいてえなあ……。」
麦焦粉をくれると、娘は三、四升もあるのを片手にうけて、一口にぺろりとたいらげてしまった。渋右衛門はすっかり感心してしまった。
あんな小さな唇と、一合の麦焦粉ものりかねる小さな手で、よくもまああんなに食えるもんだ。ははあ、これが話に聞く山の神とか山姥とかいうもんだろう………。
山姥のことなら、渋右衛門も小さい時からよく聞かされた。なんでも小さなとっくりに、三斗ぐらいの酒をつめるというから、これが山姥なら、三、四升一口で食べるのもあたりまえだ………。
渋右衛門が一人で考えていると、娘は煙草をすい終り、「おごちそう。」と声をかけて出ていってしまった。
雨はまたひとしきり激しく降り、地鳴もしばらく止まなかった。
渋右衛門は深い眠りにおちたが、ふと誰かにおこされて目を覚ました。
そこにはさっきの娘がいた。
雨はやんで、穴の外の西の山に、大きな月がかかっていた。
「渋右衛門よ。わしは二子岩に住むものだが、これから一緒に行かないか。」
と娘がさそった。さすがの渋右衛門も二の足をふみ、
「用事があるでなあ。」とことわった。
「用事とはなんぞい。」「弾丸がつきたで家へ取りに行かねばならぬ。」
「ああ、弾丸ならわしのところにある。それもただの弾丸ではない。黄金の弾丸をくれるから来なされ。」
しきりに誘われて、とうとう渋右衛門は腰をあげ、娘の後について二子岩の岩穴にはいった。
「渋右衛門、煙草もどっさりあるで。それからお前の一番好物はなんだね。」
「おらの好きなものは餅だ。」
「そうか、じゃあすぐついてやろう。」娘は岩穴の奥に向かって叫んだ。
「おーい、渋右衛門の好物は餅だとよう。」
すると、姿は見えないのに何人もの女の声が答えて、うすだのきねだのが、ごとごとと出てきた。かまどに火がつく。餅つきが始まる。そしてたちまち熱いつきたての餅が、皿に山盛りになって運ばれてきた。
渋右衛門がほおばってみると、そのうまさといったらない。これは土産にいい、と考えていると娘はすぐ気がついて云った。
「渋右衛門よ。この餅はここで食うならいくら食ってもよいが、一つでも外に持ち出すと石になるぞ。」
「むう。」と、生返事をしながら、渋右衛門はこっそりひとつ、懐に押し込んでおいた。
さて、渋右衛門が帰る時、娘は黄金の弾丸を二つくれた。
この弾丸はなんでも好きなところへ射てば必ず命中し、左手を伸ばしていると、また、手のひらに戻ってくるという不思議な弾丸であった。
「渋右衛門、この弾丸が返ってこない時があったら、猟師はやめにするがいい。」
娘は岩穴の出口まで送ってきてそういうと、ふっと姿は消えてしまった。
渋右衛門は山を下りながら、黄金の弾丸をつくづくとながめたが、ふと気がついて懐に手を入れると、昨夜の餅は白い石に変わっていた………。
二 西山の化物を退治したこと。
渋右衛門には一人の弟がいた。弟は渋右衛門ほど強くもなく、山にもなれていなかったが、それでも兄に負けない猟師になろうと思っていた。
ある日、二人は連れ立って西山へ猟に出たが、急に夕立ちがきて谷川の水かさが増し、どうしても向うへ渡れなかった。
と、川上の方から黒い丸太が流れてきて、うまく向う側へかかり、いい橋になった。二人はようやくその上を渡った。
岸に着くと渋右衛門は黙って歩いていたが、そのうちやっと弟の方を振り向いて、「これさ、さっきの橋をてめえはなんと見たやア。」と尋ねた。
「自分は黒い大木だと思ったが……。」と弟が答えると、
「ふむ、そうだったかなア。」と渋右衛門はなさけない顔をして、またしばらく黙って歩いていたが、急に立ちどまってきっぱりと云った。
「お前、あれの正体を見極めえなかったとすると、これからは猟につれて行くわけにはならんぞ。」
その太い丸太と見たのは実は大きなうわばみ(大きな蛇)だったということである。
弟思いの渋右衛門は、それから二度と弟をつれては西の山へいかず、いつも一人で山の奥へ入っていったが、それに深いわけがあったからである。
ある日の夕暮れ。渋右衛門は西山の奥でついに化物とぶつかった。
岩の上に大釜をすえ、見たこともない老婆が苧を績んでいる。苧(お)を績むというのは、麻から糸をとることだが、その老婆が渋右衛門の方を向いてにかにかと笑った。口は耳まで裂け、白髪を釜の火の照り返しで朱に染めて笑うその物凄さ………。
これだ、こいつが俺の狙っていた化物だ!
渋右衛門は銃をかまえ、十二三発、続けざまにぶっぱなした。
たしかに手ごたえがあったと思うのに、老婆はやはりこっちを見て笑っている。釜の火は盛んに燃え、湯はがらがらと湧きたち、気味の悪いにかにか笑いは、やがて高笑いとなって深山の闇にこだまする。
このとき、渋右衛門の頭をふっとかすめたのが、山の神にもらった黄金の弾丸のことだった。「そうだ。あれだ!」
渋右衛門は急いで黄金の弾丸を銃につめ、今度は釜の火に狙いをつけてぶっぱなした。
「渋右衛門、やりよるのう。」
しわがれた声がしたかと思うと火はぱったりと消えて、苧を績む老婆の姿もかき消すようになくなってしまった。
次の日、朝日の昇る頃に行ってみると、年老いた大きなむじなが撃ち殺されていたという……。
ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)によると、「山梨県西八代郡の富士山麓の「おもいの魔物」や相州(神奈川県)の「山鬼」をはじめ、東北地方、中部地方、中国地方、九州地方など日本各地に、サルのような姿の怪物、または山男、天狗、タヌキなどが人間の心を読む妖怪の民話が伝承されており、これら一連が「サトリのワッパ」として分類されている」とのこと。
ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)によると、
「▪見附の裸祭と悉平太郎
静岡県 磐田市、淡海國玉神社の「見付天神裸祭」は台風大雨洪水となっても決行される。これは前述の「白羽の矢」の由来にもなった人身御供の儀式が、決まった日時に遅延なく行わなければならなかったことの名残であると伝わる。 その昔、遠江の見附村では毎年、どこからともなく放たれた白羽の矢が家屋に刺ささると、その家は所定の年齢にある家族(娘)を人身御供として神に差し出差ねばならなかった。ある時、神様がそんな恐ろしい要求をする筈がないと考えた旅の僧侶によって、神の正体が怪物だと発覚。僧侶はその怪物が怖れているのが信濃の山犬、悉平太郎(しっぺいたろう)であると知り、信濃国光前寺から悉平太郎を連れて来て、怪物を退治した。 人身御供の風習を止めた山犬の悉平太郎は、故郷である信濃側駒ヶ根市では「早太郎」と呼ばれている」とのこと。
▪神隠しと人身御供
人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる。
『大人の探検 奇祭』
杉岡幸徳 有楽出版社 2014/8/10
<奇祭の旅への誘い>
・日本には、恐るべきことに、30万もの祭りが存在すると言われています。これは神社本庁の調べです。それは、我国が八百万の神のいる多神教風土だからです。神が多い分、それを祀る祭りも多くなるのです。一神教のキリスト・イスラム・ユダヤ教文化圏には、ここまで多くの祭りは存在しません。
<杉;杉岡幸徳(作家・奇祭評論家)、担;担当・鈴木(本書の編集担当)>
<おんだ祭 天狗とおかめがベッドシーンを……奈良県:飛鳥坐神社>
<――「じじい」が来りて尻を打つ>
<杉岡と鈴木、奈良県明日香村の中を歩いている。>
<仮面の男、何も言わず立ち去る。>
(杉)あの男は「じじい」(翁)と呼ばれていてね、ああやってこの祭りを見に来た人のお尻を叩くのを生業としているんだよ。
<――正統的かつ奇怪な田植えの儀式>
<二人、明日香坐神社の境内を通り、拝殿の前に辿り着く。>
・そのうち、拝殿に神官が現れ、農作物をお供えし、厳かに祝詞を唱える。その後、翁と天狗と牛に扮した男が現れ、田植えの動作を無言で披露する。牛は、時々寝転がって仕事を怠けたりして、観客を笑わせる。
(担)あ、田植えが終わりましたね。今度は天狗と翁、それとお多福さんが出てきました。三人で並んで座っています。微笑ましい光景ですね。
(杉)結婚式だよ。天狗とお多福が結婚し、翁が仲人というわけさ。さあ、これからが祭りの本番だよ!
<天狗、いきなり立ち上がり、股間に竹筒をあて、何度も執拗に回転させる。>
(杉)男性器に見立てた竹筒から、精液に見立てた酒を出しているんだね。
<――絡み合う天狗とお多福、そして翁>
・天狗とお多福、神主の前から立ち上がる。お多福が拝殿に寝転がり、天狗が覆いかぶさり、腰を振り始める。
(杉)これが「おんだ祭り」のクライマックス、「種つけの儀」さ。
<――子宝成就!股間を拭いた「拭くの紙」>
・天狗の腰の動きが止まる。コトが終わったらしい。お多福がよろめきながら立ち上がる。
<――農業は、セックスだ ⁉>
・祭りが終わり、観客は三三五五帰っていく、杉岡と鈴木は境内の石の上に腰かけている。
(杉)僕は本当のことしか言わないよ。これこそ、正統的で古式ゆかしい御田植祭なのは間違いない。昔の日本人は、農作物の繁殖(五穀豊穣)と人間の生殖(子孫繁栄)を同一視していた。だから、農作を祝う祭りには性的要素がつきものだったんだよ。例えば、農作を祈願する愛知県の田縣豊年祭には、巨大な男性器の神輿が出てくるし、各地の田遊びでも、性交を演じたり、遊女が田植えに参加したりしていたんだよ。それと、こんな決定的な絵もある。(カバンの中から1枚の絵を取り出す)
・(杉)江戸時代に描かれた田植えの絵さ。これなんか、田植えとセックスが結びついていることを見事に表現したものといえるね。それと、実は、農耕とセックスが結びついているのは、実は日本だけじゃないんだよ。これは世界的な現象なんだ。例えば、中央アメリカのビビル族は、種まきの前の夜には、夫婦は必ず交わりを持たねばならなかった。ジャワでは、稲の開化の季節に、農民が夜に水田でセックスをする習慣があった。古代ギリシャやローマでも「種子」と「精液」は同じ単語で表現したんだよ。
<猿追い祭り 猿を追え!しかし追い越すな 群馬県武尊神社>
・そのうち、ようやく神官や村人たちが集まってくる。村人は境内の祠に赤飯と甘酒を供えた後、参道をはさみ、東西に分かれる。
<――ただ、猿を追え!>
・村人たちは赤飯を投げ終え、神社の社殿の中に入り、「高砂」「四海波」を歌いはじめる。歌声は、外まで響いてくる。
<白装束の男(猿役)が本殿から飛び出してくる。口に半紙を咥え、幣束を手にしている>
・猿は走って社殿の周りを回る。村人たちも走り始める。
(杉)猿を追い越すと凶作になると言われているんだよね。
・(杉)この祭りが始まったのは350年ほど前と言われ、起源としてはこんな話が伝わっている。「武尊山麓の猿岩というところに猿がいて毎夜出てきては畑の作物を荒した。そこで村人は困りはて相談した結果、その猿を神様にしようということになった。ちょうどその時、猿が出てきたので村人は猿を追いまわした。これが今のような猿追い祭りになったという」
<猿、社殿を三周し、再び社殿の中に姿を消す>
<牛乗り・くも舞 意識不明の男が牛に乗る 秋田県・東湖八坂神社>
<――男は、意識を失っていた>
・(杉)あの男は、「牛乗り」と呼ばれる存在で、いちおう須佐男命ということになっている。
<牛に乗っても、男は目をつむったままである>
<――門外不出の秘儀!その部屋で、いったい何が?>
・神輿に先導されながら、トランス状態の男は牛に乗り、町を練り歩き始める。
(杉)周りの人が牛乗りの体を支えているでしょう。あれは、自力では体を起こせないからなんだよね。この「牛乗り・くも舞」は、僕が今まで見た奇祭の中でも、一番奇怪で神秘的なものかなあ。あの牛に乗っている男は、ついさっきまでは正常な意識があったんだ。ところが、さっきの建物の奥に、ある部屋があってね。そこに入れるのはあの男と「牛曳き」と「酒部屋親爺」と呼ばれる人の三人だけ。で、そこである儀式をした後、男は意識を失い、神がかりになっているんだよ。
(担)なんと、それは不気味ですね。その部屋で、どんな儀式が行われているんですか?
(杉)わからない。その儀式は完全に門外不出で、その三人以外は誰も知らず、誰も見られず、誰にも語ってはいけないんだよ。地元の人も知らないんだ。
(担)語ってはいけない儀式ですか ⁉ 恐ろしいですね。そんなオカルトみたいなお祭りが現代日本にあるものですかね ⁉
(杉)あるから仕方ないさ。もともと祭りとは神秘的でオカルティックなものだけで、これはその中でも飛びぬけて謎に満ちているよね。
(杉)この「牛乗り・くも舞」は、東湖八坂神社の「統人行事」の中の一つの行事でね。この統人行事というのがまた、異様なまでに複雑な儀式が延々と1年も続く、不思議な行事なんだ。
<牛乗りたち、やって来た道を戻り始める。>
(杉)この祭りはね、八郎潟の豊漁と、疫病退散を祈願したものだと言われている。ちょうど季節は夏だし、かつては八郎潟から疫病が発生して人々を苦しめていたんだろうね。
(担)でも、どうしてお祭りに牛が出てくるんですか?
(杉)東湖八坂神社は、須佐男命を祀った神社なんだ。須佐男命と同一視されている神に、疫病の神の牛頭天王がいる。インドの祇園精舎の守護神であったともいわれる神で、その名からイメージされたのかもしれないね。牛がこの地で昔から農耕に使われた身近な家畜だったことも関係があるだろうね。
・(杉)不思議な祭りでしょう。これほど奇怪な祭りには、なかなかお目にかかれない。なまはげといい、男鹿半島にはまだまだ不可解な事象が隠されていそうだよね。
・(主祭神)須佐男命
<一夜官女祭り 少女をヒヒの生贄に……大阪府;野里住吉神社>
<――この世と別れの盃>
<野里住吉神社から行列が出立する、杉岡と鈴木、後を付いていく。>
(杉)4歳から8歳くらいの女の子が、7人も出てくるんだよ。みんなきらびやかに着飾って、そりゃ華やかなものさ。
・行列が当矢の家に到着し、中に入っていく。杉岡と担当も上がらせてもらう。
・(担)(同じく声を潜めて)ほんとだ!7人の女の子たちがピンクの綺麗な着物を着て、ちょこなんと座ってますね。可愛い~!
・一人の男が、盃に酒を酌み、少女たちに手渡す。少女たち、盃に唇を少し当て、飲んだふりをする。盃は後ろに控えていた男たちにも廻される。その後、少女を交えて、行列は住吉神社に向かって出立する。
(杉)この「一夜官女祭り」はね、生身の女性を人身御供に捧げる祭りなのさ。
(担)人身御供!つまりあの女の子たちが生贄ということですか ⁉
<――なぜ女は生贄になったのか>
(杉)こういう言い伝えがあってね。この地域は淀川の河口にあり、かつては近くを流れる中津川が定期的な氾濫を繰り返し、村に恐ろしい凶作と疫病をもたらしていた。「泣き村」と呼ばれるほど悲惨な村だったんだ。ある時、困り果てた村人が占い師を呼ぶと、占い師は「毎年定まった日に処女を神の生贄として捧げよ。そうすれば、水害はなくなる」というお告げを下した。村人は恐怖に打ち震えながらも、真夜中、1本の矢を弓につがえ、放った。その矢が突き刺さった家は、娘を生贄として差し出さねばならないとした。1月19日の真夜中、生贄となる娘を、煌びやかに着飾らせて唐橿(かろうど、4本または6本の脚と、かぶせ蓋の付いた箱)の中に入れ、餅、豆腐、干し柿、鯉、鮒などの供え物と共に、次の朝、村人たちが慄きながら池のそばまで行くと、唐橿(かろうど)は破られ、もはや娘の姿はどこにもなかった。辺りには添え物が食い荒らされていた。そしてその年は、不思議にも中津川の氾濫はなく、五穀も豊かに実った。村人たちは、神が娘の生贄に満足してくれたのだと思った。
・(杉)ところが、この人身御供が始まってから7年が経ったある日、1人の旅の者がこの村に現れた。旅人は村人からこの話を聞いて不審に思い、「それは妙な話だ。それなら、今年は拙者が生贄になろう」と言い出した。そして自ら娘の服を着て、唐橿の中に入り、龍の池まで運ばせた。
・(杉)夜が明け、村人たちが恐る恐る龍の池まで行くと、唐橿は破られていた。しかし、旅の者の姿はどこにもなかった。ただ、周囲におびただしい血が流れていた。村人たちが、点々と続く血の痕を追っていくと、それは隣の申村まで続き、そこには1匹の狒々(サルを大型化したような姿をしており、人間の女性を襲う)が血まみれになって息絶えていた。「神」の正体とは、これだったたんだ。そして、この旅人こそ、武者修行中の剣豪・岩見重太郎(安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した剣豪。諸国を放浪し、天橋立で父の仇を討ち、各地で狒々や山賊を退治したことが講釈や立川文庫などで語られている)だったという。この祭りは、この悲劇を後世に伝えるために、娘たちの命日を祭りの日として始められたと言われているのさ。
(担)そう言えば司馬遼太郎の小説のタイトルにもありましたよね。まさか実在する村での出来事とは……。でも、その話はどこまで本当なのでしょうね?