『日本を不幸にした藤原一族の謎』
関裕二 PHP研究所 2006/10/1
<近衛文麿>
・元首相・細川護熙の外祖父・近衛文麿は、泣く子も黙る藤原北家の嫡流である。その近衛文麿が昭和天皇の前で足を組んで平然としていたというのは、有名な話。
ではなぜ、この男にそんな大それたことができたかと言えば、近衛文麿自身が皇族の血を継承していたこと、それよりも、「藤原」の末裔だったという自負が、この男にあったからだろう。
一般庶民から見れば、「天皇」は「神のようなお方」だが、藤原から見れば、「傀儡」なのだった。だから近衛文麿には、「藤原が卑下する必要がどこにある」という気概があったのだろう。
なにしろ、日本で一番皇族を殺めている氏族といえば、「藤原」なのであり、それはなぜかと言えば、「気に入らない者」「邪魔になった者」は、たとえそれが皇族でも容赦しないというのが、「藤原」のやり方だったからである。
・どうやら中臣鎌足は、改革潰しをしておきながら、うまいこと「蘇我」の改革事業の手柄だけを横取りしていたようなのだ。そして鎌足の息子の藤原不比等に至っては、「律令制度を整備しましょう」というお題目を唱え、長年の朝廷の夢を継承するふりをして、「藤原のための法制度」を整えてゆく。
・「律令」は、行政法と刑法のことだが、土地制度改革をも意味していた。一度国家に集めた土地を、百姓に公平に分配するシステムを作り上げようとする運動でもあったのだ。
<修正される律令>
・一方、人口増によって、次第に口分田が足らなくなるという事態も同時に出来した。そこで朝廷は、養老七年(723)、三世一身法を発布するが、これは、口分田の不足を補うために開墾を奨励し、律令の土地制度の欠点を補うための施策である。
律令の規定では、百姓が新たに土地を開墾することを想定していなかった。豪族の土地をいったん国家のものにしたあと、公平に分配し、その口分田から採れる稲などから税(祖・庸・調)を徴収するというのが、律令土地制度の理念であるとともに、それ以上の想定を設けていなかった。
しかし現実には、小規模な開墾は各地で行われていて、この百姓の「努力」を無駄にしないためにも、灌漑施設を造り、新たに開墾した土地は、孫の代まで使用を認めた。
・そこで、天平十五年(743)五月二十七日、聖武天皇は、次のような詔(墾田永年私財法)を発した。
聞くところによれば、墾田は三世一身法により、期限が来ると収公されてしまう。このため、農夫は怠け、一度開墾しても、田は荒れてしまうという。そうであるならば、開墾田の私有を認め、永久に収公することをやめよう。
・これは、画期的な詔だった。原始共産主義から、資本主義への移行のような内容である。まじめに働いた者には、農地の私有を子々孫々まで保障しようというのである。
・それどころか、こののち、貴族はこの法の不備を悪用して、土地をどんどんわがものにしていった。これがいわゆる「荘園」であり、最終的に、日本中をたった一つの家が囲い込むという深刻な事態が出来するわけである。それが、平安時代の藤原氏(北家)による、領土と財の独占なのである。
・平安中期の公卿・藤原実資の日記『小右記』には、このあたりの事情がよく分かる記事が残されている。そこには、
「天下の土地のことごとくは藤原北家の領土となって、錐をさし込むほどの余地も残っていない」
と書かれている。藤原一族の高笑いする様が目に浮かぶようではないか。
・律令制度の整備事業は、藤原氏の祖の中臣鎌足が蘇我入鹿を殺すことで、大きく前進した。そして中臣鎌足の子の藤原不比等は、大宝律令を撰進し、ここに日本の律令は完成したのである。
そうすると、律令は「藤原」の手で作られたということになり、この一連の歴史はこれまで、好意的に受け入れられてきたわけである。
だが、よくよく考えてみれば、律令土地制度の欠陥によって、「農地は百姓すべてに公平に分配しよう」という当初の理念は、完璧に忘れ去られ、貴族や寺社が、それこそ血眼になって土地をかき集め、結局最後に笑ったのは藤原ただひとりだった。そうなると、律令制度とはいったい、何のための法制度だったのか、という疑念に行き着く。
・たまたま、藤原の手元に、土地が転がり込んでいっただけなのか、そうではなく、藤原が最初から「日本を乗っ取ろう」と考え、律令制度の主導権を握っていたとでもいうのだろうか。
あるいは、中臣鎌足はたしかに、憂国の士で、日本の国家体制整備に真剣に取り組んでいたが、藤原氏が権力の中枢に登るにつれて、私腹を肥やすことにのみ執念を燃やすようになったということだろうか。
<けっして欠けることのない満月>
・「藤原」は、天皇家を「食い物」にして権力を高めていったようなところがある。
皇族間の権力闘争をあおり、政敵を陰謀によって抹殺し、即位した天皇に女人を送り込み、「藤原腹」の息子を生ませるのである。
犠牲となったのは、古人大兄皇子、大津皇子や長屋王、安積親王、井上内親王、他戸親王などなど、数え上げたらきりがない。しかもその手口が陰惨だった。長屋王に至っては、罪もない子供たちも、道連れにせざるを得ない状況に追い込まれている。
もちろん、長屋王本人も、無実の罪で断罪されていた。朝廷に「長屋王謀反‼ 」と密告していた人間が、後日「あれはウソだった」と証言していた様子が、正史『続日本紀』に、記されている。すべて、「藤原」の仕組んだ狂言である。
こんな有り様だから、「藤原」は、平安時代絶対的な権力を掌握するが、尊敬され、好かれていたかというと、首をかしげざるを得ない。
・「この事実を世に訴えなければ、恨みをあの世に持っていくことになる」と、書きとめている。
本来同等の地位にあった斎部と中臣なのに、権勢をほしいままにして、斎部を軽視しているというのである。
斎部広成の訴えは、藤原全盛時代だっただけに、命がけの発言であり、ウソ偽りのない本音であろう。
こうして、藤原だけが栄え、あとの者たちはどうでもよいという暗黒の時代が始まったのだ。これが「平安時代」の正体である。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば
つまり、藤原の世を「けっして欠けることのない満月だ」と臆面もなく謳い上げているわけだ。
こうしてみてくると、はたして中臣鎌足から藤原不比等、さらにその子孫たちが築き上げた「藤原の世」は、これまでわれわれが漠然と信じていた、「正義の時代」だったのかどうか、じつに疑わしくなってきたのである。
・それどころか、われわれは大きな勘違いをしていたのではないかと思えてくる。ひょっとして中臣鎌足の蘇我入鹿殺しも、裏があったのではなかったか。
そして、ここで二つの疑問に突き当たるのである。
それは、なぜ藤原は、一族だけで日本をひとり占めすることができたのか、ということ。そして第二に、なぜ藤原は、貪欲に他人を蹴落とし、一族の繁栄だけを願ったのか、ということだ。
<逆転する図式>
<誰が猫に鈴を書けたのか>
・これまでの古代史研究は、「律令制度」を軽視してきたと思う。だから「藤原」の正体を見誤ってきたように思えてならないのである。
・この一点にしばらくこだわってみたいのは、旧豪族層たちがすべて土地を手放し、律令制へ移行しようとしたちょうどその時、「藤原」が頭角を現し、豪族たちが手放した土地を、貪欲にかき集めていったと考えられるからである。
つまり、こういうことではなかったか。
「藤原」は、「ここしかない」という瞬間、ヤマトに現れたのだろう。ヤマトを乗っ取るなら、この一瞬しかチャンスはなかったのだ。たまたま「藤原」は、その千年に一度のチャンスに、藤原不比等という「知恵者」を出したがために、日本を独り占めすることができたのである。
<考古学が明かした「ヤマトは合議の国」>
<律令制度の本当の難問>
・なぜ藤原の話をするために、五世紀の雄略にまで遡ったかというと、「律令整備」最大の難関が、いったい何であったかを知って欲しかったからなのである。
律令制度の目玉「公地公民」とは、ようするに、それまで広大な領土を保有していた大豪族たちから、力の源泉を一度奪い取るという作業なのであり、それは、おそらく明治維新の「廃藩置県」よりも困難を極めただろうということである。
・蘇我氏は守旧派を代表していたのであり、律令の導入に反発していたのだから、朝廷は、いかに蘇我氏を叩き潰し、律令制度を軌道に乗せるか、それがもっとも頭の痛い問題だった、ということになる。
だが、この常識にはいくつもの落とし穴がある。
入鹿暗殺現場で、事態の説明を求めた皇極女帝に対し、息子の中大兄皇子は、次のように叫んだ。
「蘇我入鹿は王族(具体的には山背大兄王の一族)を滅亡に追い込み、王位を狙っている‼ 」というのである。すなわちこれは謀反であり、入鹿は殺されて当然だ、ということになる。
また、入鹿暗殺を目撃した古人大兄皇子は、館にもどり、「韓人が入鹿を殺した‼ 胸が張り裂けそうだ!」と叫び、暗殺犯は、朝鮮半島出身者だったと言及している。ただし、暗殺現場にそれらしい人が見あたらない。そこで『日本書紀』は、韓人について、「韓政」のことだ、と補注を加えている。つまり、外交問題のこじれで、蘇我入鹿は殺されたというのである。
こうしてみてみると、蘇我入鹿が律令制度の邪魔になったのは、どこにも書いていないことに気づかされる。
それどころか、近年の史学界は、律令制度の前段階の屯倉制を積極的に推進していたのが蘇我氏であったと指摘しているし、王家に血を送り込んで外戚の地位を確立していた蘇我氏は、むしろ中央集権化に前向きだったのではないかと考えられるようになってきている。
<正義は蘇我入鹿にある?>
・七世紀の蘇我本宗家の真実の姿を、『日本書紀』が必死になって抹殺してしまったという話は、他の拙著の中で繰り返し述べてきたので、ここでは簡潔に説明しておこう。
結論から先に言えば、律令制度を導入しようと考えていたのは蘇我本宗家で、これを中太兄皇子と中臣鎌足が邪魔だてしたというのが、真実に近い。
<手柄を「藤原」に横取りされていた蘇我入鹿>
たとえば、蘇我入鹿とそっくりな人物が存在する。それが、学問の神様として名高い菅原道真である。
平安時代前期、藤原の天下のもとで、なぜ菅原道真が頭角を現したのかというと、藤原の血を受けていない宇多天皇に抜擢されたからだった。宇多天皇は藤原の長者・時平を煙たく思い、道真や源氏を重用したのだった。右大臣にまで登りつめた道真だったが、結局「藤原」に包囲され、失脚。九州大宰府に左遷された。左遷といっても、実質的な流罪であり、家族はてんでんばらばらにされ、道真は配所で憤死する。
・『日本書紀』編纂時、中臣鎌足の子の藤原不比等がほぼ権力を掌握していたわけで、この文書に「藤原」の意向が反映されていたであろうことは間違いなく不比等は積極的に関与したに違いない。そうであるならば、不比等は父の正当性を証明(捏造)するためにも、中臣鎌足が律令制度の邪魔になった蘇我入鹿を殺した、という図式をどうしても用意しなければならなかったのだろう。
他の拙著の中で何度も繰り返し述べてきたように「聖徳太子」という聖者も、蘇我本宗家の律令制度構築の功労者という側面を抹殺するために、『日本書紀』編者が編み出した偶像であったと思われる。
<本当に中太兄皇子は改新政府で実験を握っていたのか>
・蘇我本宗家が実際には改革事業の先頭を走っていたという話は、『日本書紀』の描いた大化改新の周辺を洗っていけば、自然に割り出せるはずだ。
・これまで述べてきたように、大化改新を「めぐる本来の政治地図は、「蘇我=革新派」、「中大兄皇子 + 中臣鎌足=守旧派」であった。しかも孝徳天皇は「改革派」なのだから、孝徳朝で中大兄皇子や中臣鎌足は、冷遇されていたのだろう。
<天皇家よりも早くヤマト入りした物部>
・ヤマト一番乗りは、出雲神大物主神なのだが、実在した初代王とされる第十代崇神天皇は、大物主神を指して、「ヤマトを造成した神」と称えている。
・さて、大物主神に続いてヤマトに舞い降りたのが、物部氏の祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)である。
<日本のために物部は腹をくくった?>
・もし加藤氏の言うように、物部氏の「財」を蘇我氏が収奪していったのなら、理解できないことが起きてくる。それは物部系の伝承『先代旧事本紀』が、「蘇我の犯罪行為を責めていない」ことである。
・『先代旧事本紀』の謎は、これだけではない。『日本書紀』の記述を信じれば、物部守屋の滅亡によって、「物部」はほぼ消滅したかのような書きぶりである。
だが、七世紀後半から八世紀の初頭にかけて、物部から、石上(物部)麻呂が出ている。「物部」は、けっして消えて無くなったわけではなかったのである。
<土地を貪りはじめた「藤原」>
・こののち、「藤原」は、律令の理念などお構いなく、貪欲に土地をかき集め、ついには「錐を差しはさむ余地もなくなった」と言わしめるに至る。日本はこうして、「藤原」の私物と化したのである。
「藤原」が律令制度の整備に積極的だったのは、律令によって大豪族が裸になり、その手放した土地を、横取りするためだったのである。
・ところが、「藤原」は、長い日本の歴史の中で、例外中の例外であった。他の豪族との共存を、まったく望まなかったからである。
モグラ叩きではないが、出てくる杭は、かならず叩き潰し、闇に葬っている。いったい「藤原」とは何者なのだろう。
なぜ、彼らは、異常な執念を抱き、土地を貪りとったというのだろう。
<中臣鎌足を豊璋と考えると多くの謎が解ける>
・中臣鎌足を百済王子・豊璋と考えると、これまで説明不可能だった多くの謎が、すんなり解けてくる。
・おそらく、蘇我入鹿が「韓人」に殺されたことは、誰もが知る常識だったのだろう。その「韓人」の正体を抹殺し、「韓人」を英雄に仕立て上げるための文書が『日本書紀』なのだから、『日本書紀』は、やむなく、別の言い訳を用意せざるを得なかった。
<蛇と犬が交尾して仲良く死ぬとはどういう意味か>
<『竹取物語』が伝え残した「藤原」の罪>
<有間皇子の「陽狂」をせせら笑った「藤原」>
・「藤原」の犯した罪は、限りなく大きい。
彼らは人の土地を奪っただけではない。逆らう者、邪魔になった者を、容赦なく、次々に抹殺していった。
それに、奪い取った土地は、「物部」らの善意によって寄せ集められた土地である。その善意をせせら笑い、豪族たちが素っ裸になったところで、土地を天皇から賜り、また、律令の不備を放置し、土地と財が転がり込むシステムを作り上げ、独裁権力を握ったのが、「藤原」である。
<『竹取物語』に秘められた藤原批判>
・平安時代を開いた英傑といえば、桓武天皇が有名だ。だがこの帝も、他戸親王が殺されなければ、皇位につくことはできなかったことになる。この点、桓武天皇は、「藤原が生み落とした最初の天皇」ということができるかもしれない。桓武天皇の母が「百済王家」出身だったことも、意味のないことではないだろう。「藤原」は、ようやく、真の意味での「百済の王家」を、日本の地に誕生させたつもりになっていたのではなかろうか。
・それはともかく、桓武天皇はどこか「ヤマト」の怨霊を恐れていたところがあって、だからこそ、長岡京や平安京を、尋常ならざる執念をもって造営したのだろう。
桓武天皇は新たな都に「平安の世」を期待したのだろうが、「藤原」はその後も、「自家の繁栄」のみを願い続けたから、多くの人びとが「藤原」を憎み、「藤原糾弾の書」が、記されるようになっていく。
すでに触れた斎部広成の『古語拾遺』がそのなかのひとつだ。さらに辛辣な批判を展開しているのが、誰もが知る『竹取物語』である。
紫式部が「物語の出で来はじめの祖」と称えた『竹取物語』は、どうやら、「お伽噺の仮面をかぶった権力者(具体的にはもちろん「藤原」)糾弾の書」だったようである。
・その暗黒の時代を作り上げた真の犯人は藤原不比等であり、『竹取物語』は、不比等を批判してもいるのだ。
だから、「くらもちの皇子」は、『竹取物語』がようやくの思いで工夫した、「藤原不比等」の隠語であり、それは、あまり似過ぎていてもまずかったのである。
似ているようで似ていない………。けれども、ある程度事情を知っている者が読めば、「含み笑い」をするような、そういう隠語である。「藤原」の世の中で、はっきり「藤原不比等」と特定できる名で描いては、作者の命がいくつあっても足りなかったのだ。
なぜそのようなことを言えるかというと、かぐや姫に求婚する五人の貴公子の中で、実在の名から一番遠いところにいる「くらもちの皇子」が、もっとも卑怯で残酷な人として描かれているからだ。
<くらもちの皇子(藤原不比等)は策略好き>
・いったい何を目的に、『竹取物語』は書かれたのだろう。
<かぐや姫を騙した「くらもちの皇子」>
<唯一かぐや姫に同情された「いそのかみまろたり」>
<古き良き時代のヤマトをぶちこわした「藤原」>
・たしかにそのとおりであろう。物部一族の、悲しい斜陽である。
そしてこれに、「律令の歴史」を組み込むと、物部の悲劇がはっきりとしてくる。
・「藤原」は、こうして、日本を不幸にするシナリオをいくつも拵えてきては、多くの「善意」を持った人びとの「人の良さ」を逆手にとり、食い物にし、袖の下で笑ってきたのである。
「なぜそこまで、藤原を悪く書くのか」と問う読者もいる。
「藤原」によって地獄を味わわされてきたわれらの先祖が、おそらく私を突き動かしているのにちがいないのである。そして、「藤原」の行為を、先入観なく書くからこそ、「藤原」が悪く見えるだけの話である。
すくなくとも、「藤原」は、けっして日本人を幸せにする一族ではない。それは、歴史が証明しているのである。
<高松塚古墳>
・奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳といえば、知らぬ者はいないほど、名の通った遺跡だ。近年では、石室にカビが生えて大騒ぎになっているが、発見当初から、謎を秘めた古墳として知られている。
まず、東西南北の壁には、青龍、白虎、朱雀、玄武の絵が描かれていたが、なぜか正面北壁の「王者の象徴」としての玄武の絵だけが傷つけられていた。
盗掘されたときにやられたとは考えられず、何者か、「悪意をもった者」が、故意に削り落とした疑いが強い。
傷つけられていたのは、玄武だけではない。東側の壁の四人の男子像の中の「もっとも位階の高い二人の人物」が、まるで鋭利な刃物で、斬りつけられたように、傷を残していたのである。
これも、盗人の仕業ではない。何かしらの「恨み」「妬み」「悪意」を感じずにはいられないのである。
・それはともかく、近年、高松塚の被葬者を、「石上麻呂」とみる説が急速に有力視されてきていることは、無視できない。根拠は、古墳の造営年代と石上麻呂の没年がほぼ合致していること、壁画の人物が持っていた蓋の色が、儀制令の「一位=深い縁」という記述に合致し、石上麻呂がもっとも相応しいからである。
石上麻呂説が確定されたわけではない。だが、「藤原」が朝堂を独り占めにした時代が、「恨み」や「悪意」に満ちた時代であったことだけは、高松塚古墳から読み取れる。そしてもし、本当に遺骸が石上麻呂であるならば、首を持ち去ったのは「藤原」であろうし、その執念に、言葉を失うのである。
・「藤原」の正体を知る上で、格好のサンプルがある。それが、藤原不比等の孫の仲麻呂(恵美押勝)だ。
あまり有名でないが、奈良時代後期、独裁権力を握り、「皇帝」になろうとした、問題の男である。
藤原不比等には四人の男子がいて、藤原不比等亡き後、朝堂をわが物顔で歩き回り、邪魔になった長屋王(天武天皇の孫)の一族を陰謀によって滅亡させると、わが世の春を謳歌していた。ところが、はやりの天然痘の病魔に、四兄弟が全滅。その後、いったん「藤原」は没落するが、不比等の孫に当たる藤原仲麻呂が、聖武天皇の時代、反藤原派に囲まれ聖武を揺さぶり、あの挙げ句に、安積親王(聖武天皇の皇子)を暗殺した疑いが強く(通説も有力視している)、ついに聖武を引きずり下ろし、暴走をはじめたのである。
・まず仲麻呂は、聖武の娘の孝謙天皇が即位すると、皇后宮職を紫微中台という新たな役所に組み替え、その長官(内相)に座った。そして、仲麻呂派の太政官に紫微中台の役職を兼任させることで、国政の最高機関である太政官と同等の力を持つ組織に仕立て上げ、「二つの政府」を樹立してしまったのだ。
・仲麻呂の暴走は、さらに拍車がかかる。
乱の翌年、即位した淳仁天皇から、仲麻呂の類いまれな活躍を称賛する詔を引き出し、「恵美」の姓をもらい受けた。また、乱の制圧の功績を称えられ、「押勝」の名を与えられ、恵美押勝と名乗ると、淳仁天皇に「朕が父」と呼ばせ、また、淳仁の父親の舎人親王に「皇帝」の称号を与えさせた。こうすることで、回りくどい法方だが、「もう一人の父親・恵美押勝も皇帝」という形を作り上げた。
事実、恵美押勝は皇帝となんら変わるところがなかった。単なる皇帝ではない。手のつけられない暴君でもあった。
貨幣を勝手に鋳造する権利と、「恵美家印」の所持を認められた。
貨幣を造ることは、本来なら国家の仕事であり、恵美押勝のような「私人」が好き勝手に金銭を鋳造すれば、当然のことながら、インフレに見舞われる。だから恵美押勝はいっそう貨幣を鋳造しただろうし、事実、この時代、インフレが「恵美」藤原)家」以外の人びとを苦しめた。
・さらに、「恵美家印」とは何かというと、「天皇御璽」と同等の力を有すると定められた「印」である。
律令で定められた天皇の政治的な役割は、太政官で決議された議案に対し、追認することであり、天皇に政治を動かす力は、根本的にはなかった。ただし、政策は文書によって下達され、その書類には、天皇御璽が捺印されていなければ、効力を発揮しなかった。その天皇御璽は、太政官が管理していたから、やはり、天皇にとっては、天皇御璽が力の源泉とはならなかったのである。
・一方「恵美家印」の場合は、意味合いが違う。
すなわち、恵美押勝が太政官の審議を通さずに自分勝手な命令を文書にしても、「恵美家印」を捺印すれば、それだけで正式な文書として独り歩きをはじめてしまうのである。
これは、「合議」を基本とした律令のシステムを、根本から否定するものであり、恵美押勝は「皇帝」と同等の力を得たことになる。
では、この後恵美押勝はどういう末路をたどったかというと、「藤原」ではなく、「恵美家」の独裁政権だったことから、他の「藤原」に疎まれ、また、「恵美押勝の子=淳仁天皇」と孝謙上皇の折り合いがつかず、両者のいがみ合いを端緒に、「御璽」の奪い合いが起き、乱にまで発展。恵美押勝は殺されてしまうのである。
・律令制度は、もともとは中国の隋や唐で生まれて発展した法制度で、これをヤマト朝廷が学び取って導入しようと考えた。
ただし、隋や唐では、独裁権力握った皇帝を中心とする中央集権国家のための法制度だったのに対し、日本の場合、中央集権国家であることは確かかもしれないが、「天皇に権力が集まる」という形にはならなかったのである。
<物部氏の正体は何者であるのか>
<多次元同時存在の法則>
・実際、縄文人だという人あれば、典型的な弥生人だという人あり、邪馬台国の王族であったという人あらば、いや邪馬台国を征服した勢力であるという人あり、渡来人だという人、さらには騎馬民族だという人、実にさまざまな説が、それこそ百家争鳴状態となっている。名のある学者の方々の論文さえ、邪馬台国論争以上に諸説入り乱れているのだ。
日ユ同祖論というジャンルにおいても、そうだ。古代イスラエル人の日本渡来という視点から見ても、物部氏がいったい失われたイスラエル10支族なのか、秦氏と同じユダヤ人原始キリスト教徒なのか、それともまったく違う経路でやってきたイスラエル人なのか、説得力のある説に出会ったことは一度もない。言葉は悪いが、みな肝心なところでごまかしているか、そもそもまったくわかっていないのだ。
<秘密組織「八咫烏」>
・いわば天皇家の守護神ともいうべき八咫烏の名を秘密組織は冠する。組織のメンバーは、みな「陰陽師」である。昨今の安倍晴明ブームで知られるようになった「陰陽道」は古代日本の呪術的宗教である。七五三や節句などの神道祭礼の根幹をなす思想であり、日本文化の隅々にまで影響を与えているといっても過言ではない。
だが、森羅万象、すべては陰と陽から成るように、陰陽道にも表と裏がある。まさに八咫烏は裏の陰陽師であり、日本の神道を仕切っている。闇夜の鳥のごとく、彼らは静寂に潜み、歴史を裏で動かしてきた。
八咫烏を名乗る構成員はわかっているだけで、約70人。周辺には伝令役ともいうべき「烏天狗」が控え、上層部には12人から成る組織があり、彼らは「大烏」と呼ばれる。さらに大烏の上位3人、すなわち「三羽烏」は特別に「金鵄」という称号をもつ。
実は、この金鵄こそ、密かに古神道の世界で噂されてきた「裏天皇」にほかならない。3人でひとりの裏天皇として、彼らは表の天皇ができない儀式一切を執り行っている。長い歴史のなかで、さまざまな困難が天皇家には降りかかった。戦乱や南北朝といった混乱期にあっても、八咫烏は連綿と秘儀を執行してきたのである。
当然ながら、八咫烏に近づくことは危険を伴う。
<古代豪族「物部氏」>
・物部氏である。古代日本の謎をさぐるうえで避けることができない豪族にして、古代天皇の外戚。その権力と権威は日本史上最大にして最高を誇った。
・名前の頭に「天照」とあるように、ニギハヤヒ命は太陽神である。天皇家の祖神、つまり皇祖神である「天照大神」が女神であるのに対して、ニギハヤヒ命は男神である。興味深いことに、『古事記』や『日本書紀』には、太陽神がふたり登場するのである。神道では八百万の神々を拝むとはいうものの、山や海、川、草木とは違い、太陽はひとつ。天空に輝くひとつの太陽を神格化した存在がふたり、まったく別の神々として存在するのは、どう考えても変である。
・奇妙といえば、神社の名前もそうである。奈良時代以前にまで遡る神社のうち、その名に「天照」を冠した神社の主催神は、いずれも女神、天照大神ではない。
・これはいったい何を意味しているのか。考えられることは、ひとつしかない。もともと神道における太陽神は、物部氏が祖神として崇める天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命、つまりニギハヤヒ命だった。
・しかし、大王として君臨することはなかったものの、物部氏の勢力は強大だった。大和朝廷も、最後までニギハヤヒ命を抹殺することはできなかった。物部氏が祀る神社が冠する「天照」を黙認したのも、彼らが神道祭祀を担い、神秘的な呪術を行っていたからにほかならない。
<ニギハヤヒ命の物部王国「日本」>
・記紀神話によると、皇祖・天照大神の孫、すなわち天孫「ニニギ命」は高天ヶ原から多くの神々を引き連れて、九州の高千穂に降臨する。
・世にいう「神武東征」の出陣、いざ出発という段階で、神武天皇は「塩土翁」という神からひょんなことを聞く。なんでも、すでに幾内には「天磐船」に乗って、ひと足早く降臨した神がいるというのだ。
・同じ天孫族といえども、外からやってきた神武天皇にとって、被征服民である物部氏の女を皇后にすることは、物部王国の民を懐柔することでもあり、ふたつの国がひとつになるための重要な戦略だったのだ。それほどまでに、物部氏は天皇家にとって重要な存在だったのである。
ちなみに、初代神武天皇から第9代開化天皇までは、皇居を大和の西側に置いたことから「葛城王朝」と呼ぶこともある。いうなれば、葛城王朝は天皇家と合体した後期・物部王国として位置づけることができるだろう。
<崇神としての大物主命>
・古代天皇の性格がガラリと変わるのが第10代「崇神天皇」からである。初代神武天皇のエピソードがあまりにも神話的であること、それに続く第2~9代の記述が極端に少なく、通称「欠史八代」と呼ばれることから、これらの天皇はすべて実在しない架空の存在だと考える学者も少なくない。
実際のところ、神武天皇の諡「ハツクニシラススメラミコト」とまったく同じ読み方をする諡が崇神天皇にはある。そのため、崇神天皇こそ、実在する最初の天皇だとする学説もある。
もし仮に、葛城王朝が幻だとした場合、物部氏の立場はどうなのか。これを如実に物語るエピソードが崇神天皇の時代に起こっている。すなわち、突如、国中に疫病が流行したのである。民が次々と死に、国中が大混乱に陥った。
『日本書紀』では巫女に神託を伺わせ、一方の『古事記』では崇神天皇王が自身が夢の中でお告げを聞くのだが、「いずれにしても原因は祟りであった。三輪山の大物主神が怒っているという。なんでも、大物主神の子孫である「大田田根子」なる男を捜して、彼に御魂を祀らせるならば怒りも収まり、疫病も鎮まるのだ。
神意を知った崇神天皇は、すぐさま大田田根子を見つけだし、お告げのとおりに大物主神を祀らせたところ、確かに疫病の流行はやんだとある。
さて、注目は大物主神である。先述したように、大物主神とはニギハヤヒ命の別名にほかならない。
<蘇我氏との確執と崇仏論争>
・当時の様子を記した『日本書紀』によると、百済の聖名王から贈られた美しい仏像を見ていたく感動した欽明天皇が、これを拝したいが、いかがなものかと群臣に問うた際、積極的推進派の「蘇我氏」を率いる蘇我稲目は西方の諸国が仏教を信仰していることを理由に、日本もこれにならうべきであると主張した。
だが、この事態に猛反発したのが物部氏である。神道を第一と考える物部氏を率いる物部尾輿は、同じく神道の祭祀を執り行う「中臣氏」を率いる中臣鎌子とともに、外来宗教である仏教排斥を主張。
・587年、かくして仏教導入の是非という大義名分のもと、物部氏と蘇我氏の戦争、すなわち世にいう「丁未の役」が勃発。激しい戦いの末、蘇我氏の軍勢を率いる弱冠14歳の聖徳太子の前に物部守屋は壮絶な死を遂げる。大将の討ち死によって総崩れとなった物部氏の軍勢は、そのまま敗走。ここにおいて仏教導入が決定的となった。
戦いの英雄、聖徳太子は推古天皇の摂政となり、国策で仏教の布教を推奨。
・一方、敗れた物部氏の勢力は縮小。天皇家の外戚としての地位は完全に蘇我氏に取って代わられ、権力の座からことごとく退けられていく。仏教の隆盛は、そのまま物部氏の衰退を意味していたといっていいだろう。
・宿敵であった物部氏を退け、念願の仏教導入を国家公認とした今、蘇我氏にとってもはや恐れるものは何もない。天皇家の外戚として蘇我馬子は政治を裏で操り、摂政となった甥の聖徳太子とともに、蘇我王朝ともいうべき体制を築きあげた。
しかし、蘇我氏の栄華は長くは続かなかった。蘇我馬子の子「蘇我蝦夷」と孫である「蘇我入鹿」の代になると、東アジアの国際情勢が騒がしくなり、これを受けて日本もまた、国防を含めて新たな政治体制を作る必要性に迫られる。こうした状況下にあって、645年、ついに事件が起こる。
・その一方で、藤原不比等は記紀編纂にあたって、古代からの系譜や歴史を記した古文書を石上神宮や大神神社から没収し、事実上、物部氏の歴史を闇に葬った。
<平安京遷都によって藤原氏の支配は決定的となり、以後、明治時代にまで続く>
・かくて物部氏は没落し、その名は古代豪族として記憶されるのみとなった。穂積や鈴木など派生した名字はあまたあれど、今日、物部氏を名乗るのは秋田の唐松神社の宮司一族だけとなったのである。
しかし、物部氏は生きている。中央の天皇祭祀は藤原氏の独占となったものの、全国の神社の神官、神主、神職の多くは物部氏が担っている。今でも、物部氏は古代の神道を守りつづけている。
・籠神社の極秘伝からすれば、邪馬台国の所在地は畿内。したがって、畿内説の解釈が正しいように見える。畿内説の大きな弱点は突きつめると方位だけである。
<卑弥呼は物部=海部氏だった‼ >
・邪馬台国の女王、卑弥呼が九州にルーツをもつヤマト族であることが正しければ、同時に彼女は物部氏であった可能性が出てくる。実は、これを裏づける証拠がある。
・籠神社の極秘伝によると、記紀に記された神武天皇の物語は基本的に神話、すなわちフィクションであり史実ではないとしながらも、あえて神武天皇的な存在を挙げるなら、それは海部氏の祖先である倭宿弥命であるという。もっとも、倭宿弥命にしても、神話的な存在に変わりはなく、その意味で「多次元同時存在の法則」を適用して分析する必要があるのだが、古代天皇に関しては注目すべき極秘伝はほかにある。