日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

村人がもしこの方々に出会うと、そのまま地下の妖精国へ連れ去られると信じられた。あるいは、もっとおそろしいことに、夢の中で野猟に駆り出され、魔物にもてあそばれるのだという古老もいた。(1)

 

 

『アラマタヒロシの妖怪にされちゃったモノ事典』

アラマタ妖怪研究の集大成 ‼

荒俣宏 秀和システム  2019/7/20

 

 

 

マレビトたち

たまにきて、こわがらせて、お土産を残して去る方々

・ここでは、目に見えない恐ろしい力に対して、人間が最初にイメージ化した名前と造形について、見ていくことにする。

 仮に「マレビト」という名前をつけたけれど、このような考え方を広めた学者、折口信夫先生に敬意を表したいからという理由しかない。一般的には「精霊」とか「地霊」とか、あるいは最近では「仮面の神」「来訪神」などともいう。

 

・たとえば、大宝律令という社会制度が日本で創始されたとき、マレビトたちもそれぞれの神名と地位を手にした。その筆頭が、神名アマテラスオオミカミ、お住まいは伊勢のお宮にいらっしゃる神だ。この神をトップとする神様たちの階層ピラミッドがつくられた。

 

ナマハゲ、スネカ、アマメハギ

「名をいえぬ、あのお方」たち、誕生

・2017年にユネスコ無形文化遺産に登録された「来訪神 仮面・仮装の神々10件」は、じつのところ神々ではなく、妖怪の原イメージにとても近い「現存のバケモノ」とみなしたほうがいい。来訪神という言葉は、マレビトが「人」などでおさまりが悪いということで、動物も植物も含めることができる「神」に言い換えたものだが、かえってわかりにくくしているように思える。なぜなら、神というアイデアは、起源形態というよりも最終形態と思えるからだ。

 

パーントゥ、トシドン、カセドリ、ボゼなどを知る

南からきたバケモノたち>

一方、ユネスコ無形文化遺産の「南バージョン」は、東北勢よりもさらに原始の香りをただよわせた存在だ。まず、これはほんとに日本のバケモノなのか、と目を疑ったのが、悪石島の「ボゼ」だった。後述する太平洋の離島の精霊たちに、驚くほど似ており、その姿も草や蔦に覆われているのだ。

 以下、佐賀市見島の「カセドリ」は蓑と笠を着て一言も発しない点では、まだ東北勢との共通点がある。鹿児島県川内市の「トシドン」も、東北の鬼に似た姿をしている。

 

・鹿児島県硫黄島の「メンドン」もすごい。全身草に覆われ、赤いうずまきの耳(?)、赤と黒の格子模様の顔をした化けものが、とつぜんあらわれて祭りを妨害したり、いたずらを始めたりする。しかし、もっとも異様なのは沖縄県宮古島の「パーントゥ」だろう。全身泥だらけで草と蔓で覆われ、ふれるものすべてに泥をつける。ほとんど悪夢のような行動だ。しかも南島では、このようなマレビトの儀礼は秘密結社に守られ、よそ者には一切公開しなかった。

 

・佐賀のカセドリは、東北と同じように「小正月」に登場する。この姿は神の使いとされる鶏とされるが、人間世界に訪れる顔を伏せ、一言も発せず、青竹を畳や床に叩きつけて悪例を払う。川内氏の「トシドン」はナマハゲに似るが、怖がらせた子どもに「お年玉」の餅を与える「歳神」だ。こちらは大晦日の夜に行われる。

 

・しかし、ほかの三件は、南島のマレビトに属し、出現するのも「夏正月(お盆)」と決められている。南島では、昔は夏正月が新年の始まりだったからだ。硫黄島の「メンドン」は、島内にある神社での太鼓踊りをいきなり邪魔し、村人に悪戯を仕掛け、夜中まであちこちに出没する。

 

・悪石島の「ボゼ」はインドネシアミクロネシアの祭りと類縁関係にあるらしく、ほとんど奇祭と呼びたくなる。これもお盆が終わり死霊たちが帰ったあと、この世を清め厄払いする精霊として登場する。

 

・そして、もっとも妖怪の源を思わせるマレビトが、宮古島の「パーントゥ」だ。こちらは私も見たことがある。祭りの起源は数百年といわれるが、ここに古代の習俗が隠れていることはまちがいないと思う。

 

宮古島八重山諸島新城島などには、もっと秘密度の強い「アカマタ・クロマタ」という祭がある。ここで行われる秘儀と、登場するマレビトについては、口外すら許されず、内緒で写真撮影を行えば命の危険もあるといわれた。この存在は、ニライカナイ常世)からやってきたマレビトとされ、かなり古くパプア・ニューギニアから伝わったマレビト信仰から派生したといわれる。

 

稲生物怪録』に描かれたご近所づきあいのお化けたち

・稲生武太夫(幼名は稲生平太郎)という少年が夏の一カ月間、毎夜さまざまな妖怪の来訪を受けたのに、実害がほとんどなかった。せいぜいが妖怪に顔をなめられたりしただけだ。最後にはとうとう最後に山ン本五郎左衛門という妖怪大将までが出てきて、「以後は全てのお化けがあなたの言うことを守り、いつでもお助けに参ります」と援助まで約束してくれる。つまり、お化けは善き隣人であり、非常にフレンドリーなお仲間であったといえる。のちにこの話は絵巻や絵入り冊子に描かれ、子どもへの寝物語のような絵本的な役割を果たしたようだ。

 

トーライ族の「精霊=妖怪」

南の神様はどれも妖怪である

・自分の目で確かめたくて、仮面、下層の文化が発達したパプア・ニューギニアに出かけたことがある。

 妖怪マンガでおなじみの水木しげる先生の異文化探訪にお供するというかたちで始まった旅だったが、いきなり、水木先生が戦時中に出征したラバウルで、山の種族「バイニング族」の火祭に参加して、世にも異様な山の精霊を見てしまった。バイニング族は、「山奥の種族」を意味する名だ。しかし、元来は海に近い土地に暮らしていた人たちだった。よその土地から「トーライ族」という別文化の人たちに追われて、いたしかたなく山中深く逃げ込んだという。

 

・そんな「山にひそんだ部族」の儀礼らしく、火を焚いて踊りの儀式を開始すると、山の精霊が呼び出されるのか、どこからともなくおそろしいバケモノが加わってきた。最初はリンゲンという、草で身を包んだ「顔を隠したバケモノ」が登場する。長い竿を延ばしたような笠をかぶり、蓑を着た姿が日本のマレビトに似ていた。ちょっと西洋の森の妖精を思わせるところもある。

 

・冠婚葬祭や出産など重要な行事には精霊の火踊りが行われるという。この火の粉を浴びるのが清めや祝福になるという。ただし、精霊に化けることのできるのは男性に限られているそうだ、日本の来訪神も、それを演じることのできるのは男に限られる。外国人の研究者によると、この仮面や紛争は毎年変化するらしく、インスピレーション源はたいてい「夢」で見たバケモノだそうだ。

 それはまさしく「ナマハゲ」といえた。ついでに、海の種族とされるトーライ族のも、バイニングに負けない奇想天外な精霊=妖怪を登場させる祭り「トゥブアン・ダンス」がある。こちらは秘密結社に入会した男性しか参加できない。子どもや女は、その神聖な儀式のことをまったく知らされないという。そのため、死者をあの世に送るための儀礼だという名無しのほかは、精霊のことも秘密なのでよくわからない。

 けれども、ちょうど八重山諸島アカマタ・クロマタのように、トゥブアンと呼ばれる「母なる精霊」とその子どもだという「ドゥクドゥク」なる精霊が、セットになっている。トゥブアンはカヴァットのように大きな目玉がついた仮面をつけ、ドゥクドゥクのほうはリンゲンそっくりの「案山子」みたいな方々だ。

 トゥブアンも、やはり乱暴ではげしく踊り、入信状態になる。みんながこうして踊りながら「精霊」に化けるのだ。このようなマレビトの妖怪マスクが、夢で見たデザインにちなんでいるという話を聞くと、それがますます妖怪の元型であるように思えてくる。

 

クランプスとクリスマス祭

西洋にもあったマレビト信仰

・1950年代には来日も果たしたスラヴィクは、「マレビト」という考え方に興味をもち、自分が育ったスラブ民族の古い習俗にも、これとよく似た伝承があることに気づいた。その事例の一つが、なんと、クリスマスの習俗だったのだ。

 ヨーロッパには、季節が変わり年が新しくなる時期に、「ワイルド・ハント(野猟)」と呼ばれる魔物の来襲がある、という言い伝えがあった。バケモノや魔物や死者たちが馬を列ねたり、大群をつくったりして夜中に森や原野から村々に暴れ込む、というのだ。民俗学では、妖精の一種が野や森で狩りをするというかたちで民話化されていたけれど、夜盗の攻撃のように恐れられた。キリスト教会では、悪魔の仕業ともいわれた。村人がもしこの方々に出会うと、そのまま地下の妖精国へ連れ去られると信じられた。あるいは、もっとおそろしいことに、夢の中で野猟に駆り出され、魔物にもてあそばれるのだという古老もいた。

 

・この伝承は妖精信仰があるイギリスにもあって、古い北欧の神々による夜の狩りや夜宴と信じられていた。

 

そしてドイツ文化圏で民話や民謡を研究する民俗学が隆盛になるに従い、古代西洋に存在した古い異端の神々の信仰を伝える遺物と考えられるようになった。スラヴィクは、そうした古代西洋の「おそろしい神々や悪魔・魔女」の話に、マレビトと共通する要素を見つけたのだった。もしかすると、古代の神々を迎え清めをおこなう儀礼や習俗が、キリスト教の普及以後に「バケモノの乱暴」や「魔女の夜宴」にすり替わったのではないか。

 荒ぶる神、顔を見せない魔神、そして怖い試練を与える神を迎え、歓待し、送り帰すときに土産をもらう、という共通要素は、クリスマスの儀式にもたしかに認められる。なかでも興味深いのが、ヨーロッパ中部から北方にかけてひろがったクランプス信仰だろう

 クランプスの起源はドイツ系の古代神話にまでさかのぼる。その姿は人間と牡ヤギとを合成したものとイメージされてきた。大きなヤギ角をもち、ヤギ(あるいは馬のこともある)のような尾をもつ。まさにマレビト時代のバケモノ神様を彷彿とさせる姿だったから、ギリシアサテュロス、ローマのパンやフォース、といった野山の獣神たちと混同されて、「悪魔」のイメージを決定する切り札に使われた。

 この魔物は、文字どおり「角をもつ悪魔」として中世にひろくヨーロッパに知れ渡った。頭髪も伸び放題の乱れ神になっている。鋭いかぎ爪があり、これがクランプス(かぎ爪をもつ、の意)という名の源になっている。19世紀に流行したオカルト復興において、魔女を支配する「山羊や羊の角をはやした悪魔」の姿の源泉ともなった。というのも、魔女や夜宴伝説で有名なハルツ地方からアルプス地方にかけて、クランプスが出現する年越しの祭りがもっとも盛んだったからだ。

 クリスマス・シーズンに出現し、ドイツのバイエルン地方や、ドラキュラのふるさとトランシルヴァニア地方では、セント・ニコラウス(子どもの守護聖人といわれ、一部ではサンタクロースと呼ばれている)と一緒に村々にあらわれるそうだ。

 

・クランプスは12月の上旬、とくに12月5日の晩に村にあらわれ、村人を恐怖におとしいれる。場所によっては、子どもを捕まえて地獄に連れ去る籠を背負い、鞭を振り回して子どもを捕まえるという。このクランプスを儀式のときに演じるのが、若い男性という決まりになっているところも日本の来訪神と似ている。

 

・ちなみに、年の境目を10月末に設定していたヨーロッパ古代では、この時期に別のマレビトを迎える儀式があったらしい。しかし、これもキリスト教化されると、「ハロウィン」の名に変わり、バケモノや死者が群れをなしてこの世に返ってくるという話に変化した。

 アメリカでは、鬼や悪魔の姿をして子どもたちが、家々を回って「トリック・オア・トリート(お菓子をちょうだい。いやならいたずらをするぞ、の意味)」と声をかける。これも明らかに、マレビト儀礼の変形と考えられるのだ。

 

狸と芸能

日本でいちばん軽視されている「妖怪大将」

・この動物は、人をだます点においては天下一品の技を有する。ただし、タヌキは極東地域に住む生息域の狭い動物であり、中国や朝鮮半島以外では棲息していない。

 

・では、なぜ江戸期以降、四国のタヌキ噺のような人気が日本全国にひろがったかといえば、八十八カ所霊場巡礼や金毘羅詣のような四国観光ルートが江戸とつながったことが大きそうだ。加えて、阿波で愛染産業が発展し、産業的にも四国のステータスが高まったことも影響したとする説もあった。

 

・そこで、タヌキ問題は四国に焦点を絞る。伝説によれば、弘法大師が四国八十八霊場を開くにあたり、狡猾で陰険なキツネを追い出し、代わりに正直で親しみあるタヌキを布教に活用したことから、日本第一のタヌキ王国ができあがった、という伝承がある。

 

四国妖怪ダヌキの統領といわれる屋島太三郎狸には、弘法大師が現在、屋島寺があるあたりで道に迷ったとき、蓑をつけた老人に出会い、道案内をしてもらった故事とのつながりがある。この老人がじつは太三郎狸が化けた姿であり、そこにできた屋島寺では住職が変わるたびにタヌキが新住職の夢にあらわれ、源平合戦の一部始終を演じて見せてくれた。

 

・四国の芝居や語り芸は、源平合戦を語る琵琶法師のような人々を介して、やがてお家騒動とタヌキ合戦の話に進化したのだろう。ちなみに、屋島寺の境内には現在、この太三郎狸一家の石像が「蓑山大明神」として建立されている。

 太三郎狸は、弘法大師のためにこの地にやってきた鑑真和上の道案内もしており、高僧二人の威厳に打たれて徳を積んだおかげで、四国たぬきの総大将に上り詰めたといわれる。この太三郎狸には、「高松浄願寺のはげ狸」という弟分がいた(太三郎の別名だったともいわれる)。

 

一方、兵庫淡路島には芝右衛門狸が知られている。こちらは根っからの芝居好きで、人に化けて芝居小屋通いをした。お増という奥さんもいたところがほほえましい。

 

また、阿波徳島では金長狸が名を上げた天保8年のこと、悪童にいじめられていたタヌキが、阿波の日開野というところで紺屋を営む茂右衛門に助けられた。タヌキは恩義を感じ、霊力を修行で高めて店に繁盛をもたらしたという。主人からは「金長」の名をもらった、金長狸はのちに大明神となり、神社まで建立されている。富田狸通の『たぬきざんまい』(昭和39年)によれば、金長狸が修行したのは六右衛門という顔役の古狸の下であったが、この古狸も金長の潜在力におそれをなし、娘婿にしてなんとか金長を手の内に入れてしまおうと画策した。しかし金長狸は茂右衛門の恩義を裏切れないので、六右衛門の申し入れを断った

 

・六右衛門は方針を変えて金長狸を謀殺することにした。ところが、金長狸に惚れていた娘の鹿の子狸が父親の謀略を知り、急ぎ金長狸に知らせたのだった。金長は布団に藁束を入れて狸寝入りを装い、六右衛門の襲撃に備えた。その夜、六右衛門が60匹の郎党を率いて押し寄せた。両軍の間でおそろしい血戦が繰り広げられ、金長狸はかわいがっていた子分、藤ノ木の鷹狸を失った。金長は堪忍袋の緒が切れ、単身六右衛門の住む岩穴に乗り込み、決闘を挑もうとしたが、鹿の子狸に諫められた。鹿の子は親への孝と恋人への愛の板挟みとなり、そのまま入水した。

 

金長狸は娘の愛に感謝し、子分と娘の弔い合戦を決意した。阿波南方で一家を張る親分衆に助太刀を依頼し、淡路の芝右衛門狸も参戦してくれることになった。迎え撃つ六右衛門狸も北部の有力一家を動員し、ここに南北808狸を巻き込む世紀の阿波狸合戦がくりひろげられることになった。

両軍入り乱れての化け合戦はいつ果てることもなく続いたが、決着をつけたのは両軍の頭領の対決だった。金長狸は毒を塗りつけた刃で斬られながらも、ついに六右衛門の首級を挙げ、復讐を果たした。しかし両軍とも二代目が合戦を引き起こしたので、屋島のハゲ狸こと太三郎狸が仲裁に入り、このぽんぽこ狸合戦は幕となった(以上、『たぬきざんまい』による)。

 

・これだけでも、日本中でヒットするような物語だが、この狸合戦が天保年間の話にしてあったことが重要だ。じつはそのころ、四国八百八狸を登場させた松山藩のお家騒動噺『松の山鏡』という作者不詳の講談本が出た。元来は享保年間の飢饉に端を発した御家のっとり騒動だったが、文化二年になって『伊予名草』という講談になって注目され、天保になってこれがさらに怪談化されたのが『松の山鏡』だった。

 しかもこの怪談化し、狸の合戦などを加えた話が幕末には江戸の講談師、田辺南龍により『松山騒動八百八狸』として書き下ろされ、江戸の奇席で演じられた。天保時代は、まさに四国の狸合戦噺が妍を競う状態になったのだ。江戸から明治にかけてはこの本がベストセラーになり、版を重ねている。こうして江戸でのタヌキ講談も大きな流れをつくった。なにしろ松山お家騒動系のバケモノ合戦噺は、隠神刑部という別ヒーローが登場し、神通力を使ってお家騒動に介入し、江戸からやってきた稲生武太夫という浪人(元・芸州広島藩士)を謀反の仲間に引き入れようと、娘の狸を使って篭絡にかかるという展開になった。そう、武太夫とは、幼名が稲生平太郎なのだ。『稲生物怪録』の主人公も、この講談によって世間に知られるようになったことになりそうだ。

 こうして、幕末から明治、昭和まで、日本国内での怪異現象やバケモノ噺には、タヌキの仕業という定式が定まった。                                                                            

 

 

平田篤胤  江戸お化け研究の立役者

江戸時代に起きた妖怪ブーム

・江戸時代は怪談会や妖怪図鑑などが人気を集め、また「百物語」などのように「百」をつけた怪談や絵本も広く読まれた。なんのことはない、今の日本に妖怪天国の風景があらわれていることと、なんのかわりもない。

 

・その江戸時代、妖怪研究に画期的な進展をもたらしたのが、平田篤胤である。篤胤は、まだ31歳の若さだった奥さんの織瀬を失い、亡くなった人の魂の行き先を確かめずにいられなかった。まるで、イザナギオルフェウスの神話にみる、黄泉降りそのままなのだ。そして、死者は黄泉に降りて朽ち果てるのではなく、生者のいる世界と重なり合う幽界にちゃんと「生きて」おり、魂も残しているので、生前に愛した人と物と交流しつづけることを調べあげた。

 とすれば、本当に幽冥界を探検した人間もいるのではないのか?

 

幽冥界からの使者たち

・篤胤はそう信じて、全国に「幽冥界へ行った人」を探しに出かけた。この苦労が実を結ぶのは、文政三(1820)年の秋からだ。この年、最初に“発見”した「異世界帰りの人物」が、稲生武太夫という人だった。子どものときに一カ月にわたり妖怪の訪問を受けたそうだ。広島三次の武士だった武太夫は、江戸へ出た際にその妖怪実見談を他人に話し、その話を文章に記録することも許した。

 篤胤はこの写本の存在を知って、自分でもその写しを取った。ところが、文政三年の秋に幕府お抱えの学者、屋代弘賢という不思議研究家が絵入り物語仕立てになった武太夫の別本を手に入れた。篤胤は初めて、絵になった妖怪の姿を研究できる資料を得たのだ。篤胤は、屋代をはじめ、曲亭馬琴など有名な作家や研究家が作った不思議研究グループ「耽奇会」の仲間とも交わって、妖怪研究をすすめたらしい。

 

天狗小僧寅吉登場!

・そのとき天狗小僧と交わした問答は、山崎の手ですぐさま『平児代答』という記録にまとめられた。研究材料が出るときにはどんどん出てくるもので、江戸期最大の幽冥界体験記録が二つ、ほぼ同時期に篤胤の手に転がり込んだことになった。篤胤自身も天狗小僧を自邸に招き、聞き取り調査にあたって脈拍などをチェックするほど念をいれたという。その後、天狗小僧は篤胤の弟子になり、そのお宅を何度も訪ねるようになる。そのたびに聞き取りが行われた。

 

・また、天狗小僧が天狗のいる筑波山に修行に帰ると言い出したときには、篤胤も天狗あての挨拶書簡を預けている。ただし、返信はこなかったらしい。天狗小僧は半月あまりで篤胤邸に帰ってきて、またも驚くべき話を伝えた。たとえば、国友藤兵衛が開発した空気銃を見ては、「これなら天狗界にもある」といい、オランダ製のオルゴールを見ては、「似たものが天狗界にもある」と答えたのだ。

 

・そのあとも、超自然的な体験をもつ人物が篤胤の下につぎつぎに押しかけた。文政五年には鳥の鳴き声を理解できるという、まるで安倍晴明みたいな能力をもつ奇人、福地忠兵衛が入門する。翌六年には、前世を記憶する男、再生の勝五郎が篤胤の前にあらわれる。両人物とも屋代弘賢の紹介だから、この面での彼の貢献はまことに大きい。が、一方では篤胤を非難する声もあがる。「幽冥界研究に都合のいい山師を次々に集めることは、けしからぬ」と。また、親しい門人にも、「天狗小僧は先生をたぶらかすために妖魔が遣わした物怪ですから、どうか気をつけて」と心配する人がいた。  

 

 

 

荒俣宏妖怪探偵団  ニッポン見聞録』

荒俣宏、荻野慎諧、 峰守ひろかず Gakken    2017/8/29

 

 

 

ザシキワラシが守った家宝はホロタイプ標本?

・ここまで見てきたのは、いずれも日本中に広く伝承されている、いわば全国区の妖怪だった。では東北を代表する、東北ならではの妖怪はいないのかと聞かれれば、勿論いる。その代表格がザシキワラシだ。『遠野物語』で広く知られることとなったこの童子の伝承地域は、岩手を中心とした東北地方。宮沢賢治も『ざしき童子のはなし』で言及している。

 

佐々木喜善らの記録によれば、ザシキワラシは家の盛衰を司る童子型の妖怪………と言うより、家の神だ。いる家は繁栄し、いなくなると途端に没落する。人前にはっきりと姿を見せるのは家を出ていく時だけで、夜中に妖しい物音を立てたり、または布団を引っ張るなどの悪戯をすると語られているが、現代では、その姿を見ると幸せになる妖怪(あるいは守護神)という印象のほうが強いのではないだろうか。ザシキワラシのいる旅館があり、そこでザシキワラシを見るといいことがあるという話は、多くの人が聞いたことがあると思う。

 

そのイメージの源泉となった旅館が、ここ、二戸市金田一温泉の老舗の宿「緑風荘」だ。不幸にも2009年に火災で全焼してしまったが、今では立派に再建され、館内は明るく広々としている。荒俣さんは火災以前に訪れたことがあるそうで、その時の思い出を語ってくれた。

ザシキワラシが出る『えんじゅの間』って部屋があって、人形やおもちゃがたくさん供えてあったんですよ。あと、印象的なのはお風呂。大きくて薄暗くてタイルもかっこいい、昭和初期の雰囲気がしっかり残っているお風呂だったんだよ。建物が古くて木が伸縮するのかな、冬の夜は音が凄かったですよ。もうあちこちからギイギイバタバタ………。今ではそんなこともないだろうけどね。焼けてもしっかり立ち直るというのは、さすが東北だなあ」

 清潔感のある室内を眺めながら、荒俣さんは懐かしげに言った。

 

・ところで、先ほどから「ザシキワラシ」と呼んでしまっているが、実はここのザシキワラシは「亀麿(かめまろ)」という立派な名前をお持ちで、敷地内の神社に祀られてもいらっしゃる。怪しい妖怪ではなく、宿を守る守護神なのだ。その謂れについては、話を聞いてみることにした。

「昔、私どもの先祖は、南北朝時代南朝方に仕えていたんですよ。南朝北朝に敗れてこっちに逃れてきた時に、亀麿という幼い子供が道案内をしてくれたけれど、病で亡くなってしまった。その後、うちの守り神のザシキワラシになったという言い伝えがあるんです」

 そう教えてくれたのは、こちらの宿の当代のご主人、五日市洋さんだ。作務衣の似合う控えめで柔和なご主人に、荒俣さんが問いかける。

再建されてからも、ザシキワラシが出た、見たという話は、やっぱりあるんですか?

「そうですね。以前と変わらずに、皆さんいろんな体験をしておられますよ」

「家が一回なくなっても出てくるのか。律儀なザシキワラシだなあ!」

 荒俣さんがちょっと真剣に感嘆する。同感だ。やはり家の守り神たるもの、物理的な建築物ではなく、家、宿という概念そのものに居着き、守護しているのだろう。

 

・荒俣さんにうなずきながら、ご主人は黒ずんだ亀の化石に視線をおとした。思い入れのこもった声が静かに響く。

「火事があった時、これをたまたま親戚のところに貸していたんですよ。本当に偶然。だから、これだけが残ったんです。レプリカもあったんですが、レプリカも燃えちゃって………火災の前のものは、本当にこれしか残っていないんですよ」

 

<開かれていた遠野とハイパー文学の秘密!>

・岩手の妖怪、さらにはそこにまつわる人々を追う旅を続けてきたが、最後はやはり『遠野物語』の舞台である遠野、そしてそこの物語を集めた佐々木喜善その人にフォーカスしてみる必要があるだろう。というわけで我々は、一連の取材のひとまずの締めくくりとして、遠野伝承園を訪れた。曲り屋やオシラ堂、佐々木喜善記念館など、『遠野物語』を多面的に体感できる施設だ。

 

・「本題に入る前に、まず、喜善の時代の遠野について説明しておきますね」

 前川さんが切り出した。前川さんが言うには、喜善が『遠野物語』に出てくるような話を聞いた時代――つまり彼が幼かった頃―—は、遠野の街道筋の最後の繁栄期だったそうだ。そして、喜善が成人した後も電気はまだ通っておらず、夜はまだまだ暗かった。暗闇に対する恐怖が残っていた最後の時代でもあるんです、と前川さんは続ける

「電化が始まったのが、この少し後、大正2年(1913)ですからね。そうなるともう住人のメンタリティが変わってしまう。喜善は、変革直前のぎりぎりの時代を切り取ったんですよ」

「遠野というと、古い文化が残るひなびた山村という印象があるんですが」

「実は結構潤っていた場所なんです。塩や薪炭の陸送ルートでしたし、流通税を取ってましたから。新鮮な魚が1日で届くような流通システムもあったんですよ」

 

佐々木喜善の迷い道とその果てに残したもの>

・遠野は閉じながらも開かれていた土地であり、だからこそ民話や伝説といったハイパー文学が育まれた。私にしてみればこれだけでも十分にインパクトのある結論だったが、荒俣さんはまだまだ食い足りないようで、2人の専門家を改めて見た。次なるテーマは、物語を集めた佐々木喜善、その人である。

「遠野はいろんな話が入ってきて残る土地で、なおかつある程度裕福だった。だからこそ喜善のような人が出てきたわけですよね。その喜善って、どういう人……いや、どういう家の生まれだったんです?あと、家に語り部はいたのかも聞きたいな」

「お祖父さん豪農ですね。父はいなかったので、お祖父さんが父親代わりだったんですが、地域の肝入りさん的な存在でした。だから喜善はおぼっちゃんですね。そして語り部ですが、おヒデさんという大叔母さんがいました。さっきのオシラサマ物語を語ったのがこの人です。『遠野物語』では魔法を使って蛇を殺すと書かれていて、おそらく隠し念仏の指導者じゃないかとも………」

「おう、隠し念仏!」

 前川さんが言い終えるより先に荒俣さんが反応した。よほど嬉しかったのだろう、リアクションがおそろしく速い。「宮沢賢治のところで聞いたあれだ」「また繁がったなあ」と言いたげな、誇らしげで福々しい笑みに、前川さんもつられて微笑む。

「そういう生まれでしたから、伝説や民話に関心を持つようになって………そして、東京に行って、井上円了の妖怪学の講義を聞くも、妖怪を否定する言説に幻滅したという」

 

・「柳田は、政治の世界で大成し、民俗学を立ち上げた巨人であり苦労人なわけです。喜善にしてみれば、一つのロールモデル、憧れの存在だったんですよ。ただ、最初は慕っていたけれど、だんだん『自分だって』という気持ちが出てくる。向こうはヒーローなのに、対する自分は中途半端で、なりたかった作家にはなりきれないし、民俗学者としても不十分、柳田のように政治家の世界に行っても—―郷里に戻った後に村長になるんですが………成果を残せない。認めつつもなにくそと思っていて、なのに越えられない」

 

・「若い頃キリスト教に傾倒していたのですが、大本教に入り、最後は神職の資格もとったんです。研究者としては昔話を集めて『聴耳草紙』を編むし、一方で、作家になりたい気持ちはあっかから小説もまた書き始める。さっき言いましたように、地方行政にも首を突っ込みました」

 

・自身の感想の吐露とも同意を求めているとも取れる口調で荒俣さんが言う。よほど感銘を受けられたようだ。分かりますとうなずきつつ、私は田口先生の言葉にも深く共感していた。『遠野物語』という名著に関わっておきながら、道に迷って自分探しを延々続け、それでも最後に何かしら新しいことを—―その萌芽だけを—―世に残す。実に人間味のある生涯だ。私はメモを取り終えると、「柳田國男に遠野の伝承を語った人」としてしか佐々木喜善を認識していなかったことを恥じた。

 

鬼とともに語られた東北のイメージ

(荒俣)そういう東北をいろいろ見てきたわけだけれど、東北と鬼について話してみようか。鬼は、人間とほぼ同じ形をしているけれど、巨大で恐ろしい顔をもち、人を食うという日本独自の怪物です

(前川)遠野には鬼の伝説がないのです。鬼みたいな形で語られるのは、オオヒトの山男、山人です。角はないけれど、鬼に近い形として語られてきました顔が赤く、目が輝いて、非常に大きな人だと伝えられています。山人にさらわれて、里のものでなくなった女性が山女になる民族研究者の目で見ると、山人の姿は、金山師、修験者などの姿が複合して出てくるのではないでしょうか。

(峰守)定期的に村を襲って娘をさらったとかいう話はないのですか。

(前川)さらわれた女性自身が、そういう説明をしているからであって、それを目撃したという話はないのです女をさらうものには「猿の経立(ふったち)」という猿の妖怪がいます。

(荻野)只野真葛の『奥州ばなし』(勝山海百合現代語訳)に出てきた大猿は、いわゆる異人に含まれるものだと思いますが、大きさに具体性があるものが多いのですね。9尺くらいのかなり大きい人型のイメージです。夜行性というところが気になりますね。地元に興味を持って、記録を残した先人たちがいたから、現在、私たちが科学的視点から調査できるのです。

(田口)人は、空間の移動によって見るものが変わります。奥山では山の神、里山では狐火、集落では幽霊というように。その大猿の話も、自分たちと違った世界、価値観の違った人たちが存在するというイメージの中で見ようとする人々がいた、という話ではないかと思います。

 

・(荻野)鬼の話に戻りますが、その姿を記した描写は残っているのでしょうか。絵巻などに残っているような抽象的なものではなくて。

(荒俣)一般には、牛の角をはやして、虎の皮の褌を締め、手に鉄の棒を持っている。牙をはやして、赤や青の体色をもった大男とされている。でも、これは本来の鬼に基づいた姿ではなくて、象徴的な意味をもたされた室町時代以降のものだね。この時代から方位学で北東方向の鬼門にこだわるようになって、北東は古いいい方で丑寅に当たることから牛の角と虎皮の組み合わせになったにすぎないのです。

(峰守)『今昔物語』などでは、何尺何寸という具体的な話はあるけれど、実際に鬼を見た人がいるかとなると、そういう記録はないですよね。

(荻野)人を喰うとか、肉食のイメージを持っているけれど、角のある生き物は基本的に植物食です。角がある生き物で肉食というのは、化石を見てもいません。

 

旅の始まり、もしくは早々の前途への不安

・妖怪好きに、東北、特に岩手と言われて何を連想するか尋ねてみると、返ってくる答えはおそらく、「ザシキワラシ」や「河童」あたりだろう。「山男」や「天狗」、「マヨイガ」「オシラサマ」などを口にする人もいるかもしれない。いずれも広く知られた怪異や土着信仰の名称であるが、これら全ての出典は、1冊の本に求めることができる。『遠野物語』である。