『天御祖神(あめのみおやがみ)の降臨』
古代文献『ホツマツタエ』に記された創造神
<『ホツマツタエ』>
・まことに不思議な書物であろう。
私の2千5百書目にあたる本書こそ、現代の『ホツマツタエ』かもしれない。本書は、日本人に対しては、日本の文明化された歴史が約3千年ではなく、3万年であることを伝えている。そして現代の常識に反して、日本文明がユーラシア大陸やムー大陸に伝わったことを教えている。
さらに、日本神話に記されるべき創造神が「天御祖神(あめのみおやがみ)と呼ばれるアンドロメダ銀河から来たメシアであることを語っている。そして天空から降臨したその姿を描写した記述は、「世界初」といってもよいだろう。
<天御祖神>
・『古事記』や『日本書紀』よりも古いとされる古代文献『ホツマツタエ』に出てくる「祖」に当たる神。幸福の科学では、「イエスが『父』と呼んでいた主と同一霊存在である」と説かれている。
<日本の根本神、「天御祖神」の秘密に迫る>
<資料がほとんど存在しない『天御祖神』>
・読み方さえ、「あめのみおやかみ」なのか、「あめのみおやのかみ」なのか、「あめのみおやがみ」なのかも分かりません。神社もなければ、祀られてもいないので、よく分からないのです。
私が見たかぎりでは、『ホツマツタエ』という史料には出てくるのですが、もしかしたら、何か、ほかにも出ている可能性もあります。
ただ、『ホツマツタエ』自体も、まだ、日本史のなかでは、正式な正史としては認められてはいないものだと思われます。
・ただ、『ホツマツタエ』には、「秀真文字」という、独特の古代文字が使われていて、これは、イラク系統の古代文字、いわゆる楔型文字にも似ているし、エジプトあたりの字にも似ています。
字の形から見ると、ルーツ的にはそれらとあまり変わらないようなものから来ているのではないかと思われるので、もし、中世にこれをつくった人がいるとしたら、ラテン語とかサンスクリット語などの、人工言語をつくったのと同じくらいの能力のある人でなければ、つくれないのではないかと思うのです。
<『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタエ』の「始めの神」の違い>
・(大川隆法) 西暦712年成立と思われる『古事記』は、日本文(変体漢文)で書かれたような歴史書になっているので、神話性が非常に強く出ています。
一方、720年ぐらいに成立したと思われる『日本書紀』のほうは、全部漢文体で書かれています。これはたぶん、外国向け、外国といっても主として中国向けに、日本の歴史を示すために書かれたものだと思われますが、この『日本書紀』のほうでは、神話性がかなり削られています。
<『古事記』に登場する神>
・具体的に見てみると、『古事記』に登場する神様は、最初に出てくるのは天御祖中主神(あまみなかのおかみ)です。「天の中心、宇宙の中心の神」という感じで、「独り神」で、結婚もせず、肉体も持っていないような、天空神のようなかたちで出ています。
<『日本書紀』に登場する神>
・一方、『古事記』と成立年が8年ぐらいしか差がないと思われる『日本書紀』になると、『古事記』の最初のころの神々がサーッの消えていって、『古事記』では途中から出てくる国之常立神(くにのとこたちのかみ)が、最初に出てくるのです。「始めの神は、国之常立神」というふうに出ています。
<『ホツマツタエ』に登場する神>
・この『ホツマツタエ』のなかでは、『古事記』『日本書紀』とも違う見解が採られていて、「いちばん最初の神様」として天御祖神が出ていて、二番目が天御祖中主神、三番目が国之常立神と、この順で三人並べてあるのです。天御祖神が出ているのは、これしか私は見たことがありません。
しかも、本文中を読むかぎりは、初代天皇として国之常立神が、天上界に還って天御祖中主神になったというふうな記述もあるのです。このへんは少し矛盾するようにも見えます。
・(大川隆法) それから、「天照大神は男神だ」という説もあるのですが、『ホツマツタエ』には、これが強く出ています。
・『ホツマツタエ』を読むと天照大神が出てくるのです。『古事記』や『日本書紀』にはそんなに出てきませんが、『ホツマツタエ』には何度も出てくるのです。そして、それを天御祖神が天上界から指導しているようなかたちで出て、天照大神様は、この世で治めておられるかたちに書かれてあるのです。
『古事記』では、天照大神様も天上界におられて、その孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨されて高千穂峰に立たれ、天皇家のご先祖になられたということになっていて、邇邇芸命から以降は、肉体を持って出てきたことになっているわけです。
しかし、『ホツマツタエ』では、天照様も地上に出ておられたような感じに書かれているわけです。しかも「男神」であって、お妃がいらっしゃる。お妃の名前まで書いてあり、子供が生まれたことも、いっぱい書いてあります。
・しかし、『古事記』を読むかぎりでは、天照大神は肉体祖先ではなく、天上界の神様であって、その孫である邇邇芸命から、物質化して、肉体になって降りてきたようなかたちになっているので、肉体祖先とは必ずしも言えない書き方になっているわけです。
これが、『ホツマツタエ』が書くように、天照大神が地上に生き、お妃をもらわれて子供を産まれたということだけだとしたら、これは確かに、肉体を持ってきておられたというかたちになります。
しかも「男だった」ということになれば、男の天照大神の子孫が天皇だということになり、つながるかたちになるので、『古事記』『日本書紀』よりあとに、天皇家の支配を正当化するために書かれたという可能性も、ないとも言えないのです。しかし、古代文字との関係から見ると、不思議な感じもするわけです。
・ちなみに、『ホツマツタエ』では、月読命も須佐之男命も男神になっているので、「三貴神ともに男」ということになるわけです。
『古事記』『日本書紀』では、伊邪那岐大神が、黄泉の国から帰ってきて、阿波岐原で、伊邪那美の穢れを祓うために禊祓いをするわけですが、最初に左目を洗って天照大神が生まれて、右目を洗って月読、鼻を洗って須佐之男が生まれてきて、これが「三貴神」というわけです。
・ただし、『古事記』では、天照大神は「女性の神」として書かれていると思われるのですが、『日本書紀』のほうでは、「男の神様」にも読めるような書き方をされています。これも、712年と720年という、同じ時期に朝廷でつくられたものとしては、あまりにも矛盾しすぎていて、分かりにくいところがあります。
・ただ、霊的に視るならば、今も、われわれが調べてみても、天照大神の魂のなかには、男性霊と女性霊と両方存在しているので、「霊的に見たら、どちらとでも言える面は確かにあるのかな。そういうことなのかもしれない」ともいう気もします。
ですから、地上に生きたときの性別を調べたというよりは、もしかしたら、「神降ろし」をする人はいたであろうから、降ろしてみたときに、男性神として現れたか、女性神として現れたかによって、そういうふうに書き分けをされた可能性もあります。
<『神様には性別がない』という説>
・(大川隆法) 「持統天皇(645~703年)が、自分の女性統治を正当化するために、天照大神を女性にしたのだ」という説も立ってはいるのですが、今の日本神道、皇室、神社系統の、主とした流れから見るかぎりは、天照大神を「女神」と捉えているものが多いと思われます。
・それから、戦前、戦中に読まれた、「教育勅語」をもとに書かれたと思われる修身の本を読んでみると、天照大神は女性として描かれていますので、そのころには、女性として固まっていたのではないかと思われます。
私たちも今まで、いろいろな人の過去世を調べてみたところ、男性に生まれたり女性に生まれたりしていますので、あまり詮索してもしかたがないかもしれません。「神様には性別がない」「如来から上は、男性も女性も区別はない」という説があって、「全員中性」という説もあります。
確かに、そういうところもあるでしょう。神様は「父親的な面」と、「母親的な面」と、両方を持っているので、性別というのは、あくまでも地上に肉体を持ったときのかたちにしかすぎないので、あの世では性別はないのかもしれません。
<天御祖神とヴィシュヌ神との関係は?>
・「インド霊界ではヴィシュヌ神と呼ばれ、日本霊界では天御祖神と呼ばれる根源神がいて、分光神としてさまざまな高級霊が存在するということだ」、「日本文明のルーツはムー文明だと思われるし、インド文明のルーツはレムリア文明化かと思われるが、ムーもレムリアも、同一世界神によって指導されていたと思われる」ということを、大胆に書いてあります。
『太陽の法』では、ヴィシュヌ神とエル・カンターレとのつながりについては書かれていなかったのですが、『太陽の法』を書いた私の30歳のころには、まだ頭のなかでつながっていなかったと思われます。
<今後、ヴィシュヌ神の位置づけで変わってくるかもしれない>
・(大川隆法) 確かに、インドの、今のヒンドゥー教、昔のバラモン教では、ヴィシュヌ神というのが、圧倒的な力を持った神様として存在していて、これが根源神的な存在で、釈迦牟尼仏、仏陀も、そのヴィシュヌの分身というふうに、インドでは理解されているわけです。
ヴィシュヌにはいろいろな顔があって、仏像によくあるように、顔がたくさん描かれていますが、ああいうふうに、「ヴィシュヌの顔の一つが仏陀である」と、仏教をヒンドゥー教のなかに吸収してしまっているのが、今のインドの現状かと思います。
そういう意味では、ヒンドゥー教が仏教を否定しているわけではなくて、ヴィシュヌの“地上的な現れ方”の一つというふうに理解しているという考えだと思います。
・私も、昔の『太陽の法』を書いたころは、ヒンドゥー教を民族宗教というふうに理解していたので、あまり深入りしていないのですけれども、今のインドは13億の人口を擁し、まもなく中国を抜いて、中国以上の人口になるだろうと思われます。
<宇宙人リーディングと似ているインドの宇宙観>
・(大川隆法) ヴィシュヌ神というのは、いろいろな書き方をされていますが、「地球も含め、銀河系も含めて、この宇宙というのは、ヴィシュヌ神が天上界で蓮の葉っぱか何かの上で昼寝をして、まどろんでいるうちに、夢のなかに出てきた世界」というような書き方をされていて、話はすごく大きいのです。
<謎に包まれている日本民族の祖、天御祖神>
<「文献が遺っていないもの」については霊言を頂くしかない>
・『古事記』『日本書紀』には、いろいろな神が出てきます。天照大神が伊邪那岐の娘ということになると、数え方にもよりますが、「神としては96番目に出てくる」という話もあります。
私は正確には数えてはいないのですが、96番目に出てくる神が日本の主宰神というのは、普通に考えるとおかしいのです。おそらく、記紀編纂の時点において、天照大神信仰を立てようとしたのだろうと思います。
<日本独自の文字は楔型文字や象形文字より古い?>
・(大川隆法)『ホツマツタエ』も外伝になっていて、正統の歴史書にはなっていないのですが、これは日本の神々の歴史を“日本の言葉”で書いてあり、漢字も大和のカナも使っていません。要するに、「漢字やカナが入ってくる前の言葉で書いてある」という意味で、非常に注目すべきものなのです。
・形が似ているものがあるとすると、メソポタミアあたりで使われている楔型文字や、古代エジプトのピラミッドのなかに書かれている、絵文字も入ったような象形文字です。
・ちなみに、メソポタミアの「ハムラビ法典」などに使われている楔型文字は、古代シュメール文明で発明されたと言われていますが、古代シュメール文明においても、「宇宙から言葉を伝えられた」という伝承がはっきりと遺っています。
・そのように、宇宙人が「言葉」や(飲み物の)「ビール」など、いろいろなものを伝えたらしいということは分かっているのです。
なお、幸福の科学の霊査では、「古代エジプトの文字は、トスが伝えた」、あるいは、「諸学問を(トスが)つくった」とも言われていますが、ルーツは極めて分かりにくいものです。
・(トス) 約1万2千年前、アトランティス文明の最盛期を築いた大導師・宗教家、政治家、哲学者、科学者、芸術家を一人で兼ね備えた超天才であり、「全智全能の主」と呼ばれた。古代エジプトでは智慧の神として知られていた。地球神エル・カンターレの分身の一人。
<今、なぜ『天御祖神』を調べるのか>
・『ホツマツタエ』には、天御祖神(あめのおやがみ)がでてくることは確かで、文字などをいろいろと教えた人らしいということは分かるのですが、それ以上のことはよく分からないようになっています。
・(ベガ) 琴座にある一等星。ベガ星系に住む宇宙人は、相手に合わせて外見を自由に変えることができ、性別は男性、女性、中性が存在する。「高度な科学技術」と「ヒーリングパワー」を持つ。
・(ヴィシュヌ) ヒンドゥー教の神。バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』では太陽神と呼ばれ、後に「ブラフマー」「シバ」と共に最高神とされた。「宇宙の維持」を担うとされる。10種の姿を持って人々を救済し、ラーマ、クリシュナ、仏陀などは「ヴィシュヌの化身」とされる。
<日本列島を大陸から分離させた理由>
・そのインドの文明は、実は日本から入っている文明で、日本からインドへ行って、インドから中国へ行って、韓半島を通って、また日本にもう一回入ってきているような、こういう循環があるんだな。日本の文明は、一つはインドに行ったが、もう一つはムー大陸にも行ってはいるので。
おそらくは、日本の位置づけはね、世界史的に見れば、「かつてのギリシャ」か、あるいは、「キリスト教文明におけるユダヤの歴史」のようなもので、それが日本文明に当たると思われる。
<日本列島を大陸から分離させた理由>
・(アルファ) 地球系霊団の至高神であるエル・カンターレの本体意識の一つ。3億3千万年前、文明実験の過程で、他の惑星から飛来した宇宙種の人類と地球系の人類との間で対立が起きたため、両者を一つの教えの下にまとめるべく地上に降臨し、「地球的真理」を説いた。
・(エローヒム) 地球系霊団の至高神であるエル・カンターレの本体意識の一つ。1億5千万年前、地獄界のもととなる低位霊界ができ始めていたころ、今の中東に近い地域に下生す、「光と闇の違い」「善悪の違い」を中心に、智慧を示す教えを説いた。
<ほかの星にも「メシア」という存在はいる>
<宇宙の時間には「終わり」もなければ「始まり」もない>
・約3万年前に、アンドロメダ銀河から約20万人の大船団を組んで富士山のすそ野に着陸したと語る天御祖神。
いずれ、もっともっと具体的なことが詳しく判ってくるとは思うが、神武東征の2万7千数百年前に、日本の大神が実在したとする本書は、始原の神アルファが3億3千万年前に出現したとする「エル・カンターレの法」からみれば驚くには値しないだろう。
『信仰の法』
地球神エル・カンターレとは
<幸福実現党>
・今、幸福の科学は、そうとうな理論的主柱になっています。実は、幸福実現党以外の勢力の人々も、当会の考えを数多く勉強しているのです。
・私が、2016年の年初から、「次はトランプ政権だ。『トランプ革命』だと思って、この流れについていかなければ駄目だ。あとの執着は断ち切って、この方向に舵を切れ」ということをかなり発信したことによって、この国も、そちらの方向に向かって動いているのでしょう。
<「考え方」「理想」「思いの力」によって世界を動かす>
<世界中の戦争を終わらせるために活動を続ける>
<今、私たちは大きな「時代の変わり目」に存在している>
・今、「トランプ大統領によって、アメリカが分断されるのではないか」などと多くのテロリストから危惧の声が出ていますが、実際には、そうはならず、その正反対のことが起きてくるのではないかと私は読んでいます。アメリカが再び、アメリカらしくなり、「世界の先生」として、世界を護ってくれるようになると思うのです。
そのときの日本の果たすべき役割は、おそらく、今までよりも、もっとはるかに大きなものになってくるでしょう。アメリカのよき片腕になるはずです。
<宗教戦争のもともとの「争いの種」をなくそうとしている>
・これまで、幸福の科学は、7百人以上のスピリチュアルな存在から霊言を頂いています。本として出したものは霊言集だけで450冊を超え、外国語にも翻訳をされて発刊したものも多く、諸外国で読まれています。
・そして、私は、次のような教えを説いています。
「世界は、仏教やキリスト教、儒教、道教、イスラム教、ヒンドゥー教、日本神道など、いろいろな宗教に分かれている。これらは、交通手段も連絡手段もなかった時代にバラバラに起きた宗教である。それぞれの民族のために起こした宗教であり、現代においては、そうした世界各地の高等宗教をまとめる教えが必要だ。その教えの下、さまざまな宗教を信じる各地の民族を、もう一度、お互いに理解できるような土壌に乗せて、話し合えるようにしなければいけない」と考えているわけです。
<アジア各地で起きる戦争を乗り越えるだけの思想を提供する>
<人間を超えた存在があって初めて実現する「許し」「和解」>
・マルクス主義のなかにも、弱者に対する優しい考えが入っていることは事実です。ただ、「この世には物しかない」という唯物論のところは、やはり、明らかに間違っています。この30数年間、いろいろな霊指導を受け、霊言を送られてきた私の経験から見ても、唯物論が正しくないことは間違いありません。これはどうしても認められないことであり、「宗教はアヘンである。毒薬だ」というような考えを肯定することはできないのです。
やはり、神様なくして、人間性や、人間の道徳が向上することなどありえません。
<トランプ報道に見る「世の中に認められること」の難しさ>
・トランプ大統領は、マスコミを敵に回し、「嘘ばかり報道している」と発言していますが。それは、日本のマスコミにも同じことが言えるでしょう。
<「自助努力をしつつ信じる者」に大いなる他力が及ぶ>
・今、幸福の科学を静かに見守っている人は数多くいると思いますが、私たちの言っていることを、そのままストレートに、正直に受け取るのは怖いと思う人も、やはり、一部にはいるでしょう。
<「幸福の科学」の名前を隠さずに堂々と活動している幸福実現党>
・かつて、ある自己実現の大家が、「1回の失敗で諦める人は凡人であり、3回失敗しても諦めない人はなかなかの優れ者であり、10回失敗しても諦めない人は天才だ」というように言いました。それで言えば、幸福実現党は、まもなく、“天才”の域に入ろうとしています。おそらく、そうなるでしょう。私は、実力というものは、負ければ負けるほど出てくると思っているのです。
・本当は、幸福実現党の支持者はいろいろなところにいるのですが、「現実の政治は、ブランドのある老舗のところに任せたほうが楽だろう」と思い、そちらを支持している人も多いし、小選挙区制であると、どうしても二大政党制へと収斂していく傾向があるので、第3極以下はなかなか勝てないようになっています。
<「信じる力」の持つ本当の意味とは>
・「信じる力」というのは、本当に物理的な力を持っており、この世において生きる上で各人の道を妨げているものを打ち破り、貫いていくだけの力があるのです。
<宗教を学ぶ意味の一つは「人生学のプロ」になること>
・ただし、どこかで、全部を解決するのは無理だと気づく場合もあるでしょう。そのときに考えてほしいのは、「人生において宗教を学ぶことの意味」です。それは、「人生学におけるプロフェッショナルになろう。ほかの人たちの、いろいろな人生問題に答えられる自分になろう」と決意したということであると思うのです。これもまた、宗教に辿り着いた目的の一つなのではないでしょうか。
<奇跡が臨まなくとも「信じる心」を持ち続けよ>
・『聖書』には、イエス・キリストが、「すでに墓に葬られたラザロを、その4日後に、包帯でグルグル巻きになった姿のまま墓から呼び起こして蘇らせる」という奇跡を起こした話が載っていますが、そのラザロも、いずれ、時が来たら死んでいます。この世において、永遠の命を持ち続けることはできないのです。
やはり、困難が数多く現われてくるなかで、奇跡だけに頼って生き抜けるわけではありません。「智慧」でもって迷いを破っていかねばならないこともあるのです。
しかし、智慧にも限界があって、どうにもならないこと、にっちもさっちも行かないことも出てくるでしょう。
そのときに知っておいてほしいのは、「この世というものは、もともと、パーフェクト(完全)にはできていないのだ」ということです。この3次元の世界は、「日本にいる1億以上の人々、あるいは、世界70億以上の人々が、全員、思ったとおりの自己実現を完璧にできる」というようにはできていないのです。
・例えば、あの世の世界では、それぞれの人が、それぞれの次元で、似たような人たちと生活しています。ただ、それだけでは人生経験が不足してくるため、この世(地上)に生まれて、さまざまな世界から来た人たちと出会い、自分の人生を磨き上げるわけです。人間は、それを目標として、この世に生まれ変わってくるのです。
<少しでもこの世を神の国へ近づける「無限の未来への挑戦」を>
・しかし、そういう世界でありながら、少しでもこの世の常識を「神の国の常識」に近づけていかなくてはなりません。それが、私たちの伝道活動の意味です。
・私たちの伝道活動は、いつも、限りない限りない努力のなかにある、「無限の未来への挑戦」でもあるのです。
<そして、「許す愛」で憎しみを超える>
<「行為」を憎んでも、その人の「本質」は憎まない>
・まず、「与える愛」から始めていきなさい。
日々の努力目標を、まず、与える愛に置きなさい。
<人生の早い時期に目覚め、志を立てよう>
<“私の一生は3万日”という視点で人生を見つめてみると>
・また、30歳あたりを境にして、結婚する人も増えてきますが、結婚後は、時間というものが坂道を転げ落ちるように速く進んでいき、あっという間に、世間で「定年」といわれる年齢まで行ってしまいます。
・今、私と同じぐらいの年代の人の多くは、だいたい“終着駅”が近づいた状態にいます。
しかし、“終着駅”は“始発駅”だと思い、また頑張る人も一部にはいます。それは心掛け次第なのです。そのように、人生がまだ残されていることもあります。
私の著書『伝道の法』にも書いたように、今世生きていける時間は、おおよそ「3万日」ぐらいあれば、よいほうだと思わなければいけません。
<まず志を立て、志に向かって自分自身を説得していく>
・「一生続けて全うしたい」と思うような仕事に辿り着くのは、なかなか簡単なことではありません。多くの人々は、その前に、数限りない無駄足を踏み、試行錯誤を繰り返すことになるだろうと思います。
・私が31歳になる直前のころに説いた講演では、「最初は宗教改革。10年ぐらいはそれをやります。それからあとは、政治改革や教育改革、芸術・文化の改革等、いろいろなことを起こしていきます」ということを述べました。そして、そのとおりに今、現実にそういうことを行っていますが、これらはそれほど簡単に口で言えるようなものではなく、本当に大変なことなのです。
<人口1億人を超える日本で頭角を現すことの大変さ>
・日本だけでも、1億2千数百万人の人間が住んでいます。人口が減りつつあるとは言っても、1億人を超える人間がいるのです。そのなかで頭角を現すというのは大変なことです。それほど簡単にいくようなものではないでしょう。
・すでに活躍しているスターのような人々だけを見て、「いいなあ。あんなふうになれたらいいなあ」と思う人は多いかもしれませんが、プロとしてその道で生きていける人は、1万人に1人もいるかどうかなのです。さらに、どこにでも出演していて、誰もがよく知っているような人になると、百万人に1人ぐらいの厳しさになるのではないでしょうか。ですから、それほど簡単なことではないのです。
・スターを目指して努力をしている人も、たいていは、アルバイト生活をしながら、次から次へとオーディションを受け続け、その中で、50回受けて1つ通るとか、100回受けて1つ通るとかいった生活をしています。
こうしたことは、芸能界だけではありません。小説家志望の人々などでも、そういうところがあります。
<「未来を見通す力」を持つ幸福の科学>
<幸福の科学立宗30余年の歩みと今後の展望>
・世の中、一本の“電車道”のように勝ち進むというのは、それほど簡単なことではありません。意外に、世間で評判になっているときには、実は苦しいことが多く、世間で静かに扱われているときには、実は前進していることが多いのです。このあたりの加減はとても難しいところです。
<時間をかけて「信者」になってくださる方々をつくる>
<「一事を全体に引き寄せて考える」ことの愚>
・「金曜日の3時以降は、もう遊びましょう。有り金をはたいて、とにかく消費してくれれば、景気はよくなり、みんなハッピーになります」というような政策を取っている国もあるそうです。よくは知りませんが“地球儀の上のどこかの国”のようです。
さらに、「カジノなどを誘致するので、家族で遊んでほしい」などと言っているようです。非常に怖いことです。本当にゾクッときます。
・日本は、今、これほど停滞していて、「このままでは危ないな」と思っているのに、またぞろ、「遊びのほうへシフトし、みなさんは、消費をして浮かれてください。“浮かれ景気”で行きましょう」というような音頭を取る人が出てき始めたので、「これはまた、困るなあ。怖いなあ」と思っています。
・幸福の科学としては、世間が土日月と三連休になるのはとても“ありがたいこと”であり、私も働く機会が増えて、たいへんありがたく思っています。
ただ、世間の会社勤めの人々などは、何だか仕事が減っているということはないでしょうか。そんな気がしてしかたありません。
アメリカよりも休日が多いというのは、ちょっと困るのではありませんか。これで、本当に大丈夫でしょうか。私はとても心配です。もう少し働かなければいけないのではないでしょうか。
<バランスを欠くマスコミ情報を、どう見て、どう判断するか>
・バランスの取れた見方ということで、一つ気をつけておくべきこととしては、マスコミの人々の一部、もしくは半分以上かもしれませんが、小さなものを取り上げて大きくし、大きなものを小さくする傾向があるところです。
<未来への扉を開く鍵>
<「個人や全体を堕落させる方向に導く思想や理論」に乗るな>
・それは、大きなかたちで行われるマクロの政策、あるいは「大きな政府」が行うような政策等に頼ろうとする気持ちはあまり持たないほうがよいということです。
結果的には楽になるところも多少はあるのかもしれませんが、国民の最低賃金を政府が上げなければいけないような国は、ろくな国ではありません。これでは駄目です。すでに「自由が死んだ国」に入っています。資本主義の精神は死にかかっているし、民主主義も、もはや輝きを失いつつある時代に入っていると見たほうがよいでしょう。
・この国は、民進党であれ、自民党であれ、次第しだいに、「北欧型福祉国家」のほうへと流れていっています。しかし、日本がまねをしてもよいような国家がどこにあるのでしょうか。ノーベル賞を出せるのはよいのかもしれませんが、日本が目指すような国ではありません。
今、日本が目指すべき方向は何でしょうか。やはり、もう一段、国際競争力をつけ、教育力をつけ、さらには政治的オピニオン(意見)や経済的オピニオンを出し、世界を引っ張っていく力を持つ国となることが望まれていると思います。
・要するに、「人々を堕落させたり、あるいは世界を堕落させたりする方向に導いていくような思想には、簡単に乗ってはいけない」ということを、まず述べておきます。
<家庭でも仕事でも「一生を貫くような粘り強さ」で努力をする>
・国民各位が、もう一粘り、二粘り、「粘り続ける力」を持つ必要があるのではないでしょうか。
ところが、怖くなってやめてしまう人がたくさんいるのです。
1990年の段階でも、「まもなく日本が世界一の経済大国になりそうな予兆があったために、怖くなって退転した」というように私は見ていました。そのとき日本は、やはり、粘り続け、実際に世界のリーダーになっていくだけのいろいろな目標を立て、もう一段、国を進化させるべきであったと思っています。そのビジョンを見せられる人がいなかったということが大きかったのではないでしょうか。
<あなたの未来、死んだあとはどうなるのか?>
<人は死んでも、あの世がある>
・今の日本の文化土壌としては、例えば、教育や社会、あるいはマスコミの風潮などによって見れば、基本的に、「唯物論的無神論」もしくは「不可知論」のような、「何も分からない」という世界に持っていかれることが多いでしょう。しかし、その結果どうなるのでしょうか。
・人は死んでも、あの世での生があります。たとえ、唯物論教育を受け、「神仏などいない。天使も菩薩もいない。死んだら終わりだ」などと思っているような無神論の人々にも、死んだらあの世はあります。