日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

中国は、構造的な問題を抱えて経済が失速してきた。少子高齢化だけではない。「大量投資型の経済成長モデル」が限界に達してしまったのだ。かつてのソ連でも起こった問題である。(2)

 

昔より生まれ変わるサイクルが早くなっている

・その後も、松尾先生は折りにふれて宇宙と交信されています。

 

・「肉体は、いわば『地球服』で単なる器です。体を抜けたら痛みも恐怖も何もなく、おだやかなる静寂があるのみです」

 

・地球は、さまざまな宇宙人にとっての実験場であるそうです。

「高次の宇宙人には、病気もケガも老化もありません。ヒューマノイド型であれば、みんな20歳代くらいの美しい体をしていて何の苦痛もないのです。だからこそ、あえて病気やケガや老化のある地球に、さまざまな体験をしに来るのです」

 

・同時に、生まれ変わりを待つ霊体+光体でできた人々もそばにいるのかもしれないと思うと、この地球は、私たちが認識している何倍もの存在で満ちていることになります。

 

あの世で問われるのは「私が私に何をしたか」だけ

・あの世では人に何をしたか、悪いことをしたか、善行を施したかが問われるとよくいわれますが、そうではなく、「自分が自分にしたこと」こそ大切だというのです。

 そこで重要なのは、自分の「直感・言葉・行動」を一致させることだそうです。つまり、「自分の感じるありのままを言葉にし、さらに行動にも移す」ということです。

「すると、恐れがゼロになってバケツの底が抜けたみたいに気持ちよく、スコーンと抜けますよ。それが自分を大切にするということであり、あの世でのステップアップにもつながります」と松尾先生。

 

人にはおおぜいの守護霊団がついていて究極の親心で見守っている  アカシックレコードリーダー  如月マヤ先生

守護霊団と自分はエネルギーの傾向が共通した「一族」

・「アカシックレコード」。言葉は知っていましたが、どんなものかは漠然としか知りませんでした。過去から未来までの宇宙の全情報が記録される「意識界のデータバンク」のようなものだそうです。

 地球だけでもすごいのに、宇宙のすべてとは、とてつもない情報量です。そこから、必要なときに必要な情報を読み取れる人が「アカシックレコードリーダー」で、如月マヤ先生はその第一人者です。

 

如月先生のお話でビックリしたのは、守護霊は1人や2人ではなく、無数の存在でできた「守護霊団」だということです。あらゆる時代・あらゆる地球の人間に加え、動物や宇宙人なども含まれているそうです。「自分の後ろに延々と続く行列をなしているイメージでとらえればわかりやすいでしょう」

 

・「守護霊ワークをしたときに、よくいうのですが、自分と自分の守護霊団とは、エネルギーの傾向が共通した一つの『族』、いっしょの材料でできているヨウカンみたいなものだと思ってください。でっかいヨウカンですね。その先頭にいるのが自分です」と如月先生。

 

メインの守護霊は大陸に生きたアジアの文人

・守護霊団のなかから、そのときどきでふさわしい人がメインになり、自分のすぐ後ろに来て見守ってくれているそうです。

 

本書のプロジェクトも守護霊によって見守られている

あの世を考えることはこの世の生き方を考えること

・「この体のこの人間でいられるのは今回だけ。そう思うと、生きるエネルギーの1滴1滴、ときの一瞬一瞬が愛おしくなりませんか」という言葉も胸に響きました。

 

「あの世」と「この世」を自在に行き来する人たち

死後の世界には誘導瞑想で誰でも行けて迷っている魂の救出もできる  死後探索メソッド開発者 ブルース・モーエン さん

人間の死後に強い好奇心も抱いて探究を始めた

・モーエンさんは、「死後、人間はどうなるのか」ということに強い好奇心を抱き、探究を始めました。アメリカのヴァージニア州にあるモンロー研究所で、ヘミシングの滞在型プログラムにも参加しました。

 

ヘミシンクとは、変性意識状態(通常の経済意識とは違う意識状態)をつくり、体外離脱や死後の世界への移動を可能にする技術です。

 

ヘミシンクの探索を続けるうち、モーエンさんは、死の世界の探索や魂の救済(リトリーバル)など、誘導瞑想によってもできるということを突き止めました。誘導瞑想とは、リラックスして瞑想しながら、誘導に従って、死後の世界に入っていく方法です。

 

・魂の進出とは、死後の世界を探索し、いるべきでない場所にいる人を見つけて、ヘルパーとともにいるべき場所に連れていくことです。

 ヘミシンクで名づけられたフォーカスレベル(意識領域)でいうと、孤立した世界にとらわれているフォーカス23や、特定のこだわりを持つ信念体系領域であるフォーカス24~26などにいる人(魂)を見つけて、自由度の高いフォーカス27に連れていきます。

 

亡くなった人から情報をもらって検証

・ほかにも死後探索で、第2次世界大戦中に特攻隊のパイロットとして亡くなった人と出会い、名前や生まれ育った町の名前がわかったので調べてみたところ、まさしく実在の人物だとわかったケースもあるそうです。

 

生きている間に魂が引き継がれることもある

・「どうか、死に対する恐れが取れますように、死に対する恐れを持たないように、とても大切なことです」

 

ヘミシンクで対外離脱やあの世への旅ができ亡くなった人との交流も可能になる モンロー研究所公認レジデンシャル・ファシリテーター 坂本政道さん

あの世とのコンタクト法はいろいろある

ヘミシンクは、左右の耳で異なる周波数の音を聴くことで、意識を変容させ、それによって体外離脱や死後の世界の探索などができる技術です。

 

亡くなったフォーカス27をめざせ!

・ところで、ヘミシンクでは、死後の世界はどこにあるととらえているのでしょうか。「私はよく、わかりやすい表現として『死後の世界は地球のまわりにある』といっています。空間的にまわりにあるわけではなく、周波数が違うので簡単には見えません。しかし、同じところにあって地球に不随している世界です」

 

・「フォーカス23は、場所に依存している意識状態。その部屋やその場所に幽霊が出るときは、フォーカス23の状態です。いわゆる地縛霊はこの状態といえます

 

・「フォーカス24~26は、信念体系領域と呼ばれ、特定の信念を持つ人が集まっている領域です。数人から数万人など、さまざまな人数のグループになっていますが、なかには1人でいることもあります」

 

・仏教でいう「修羅界(争いを好む世界)」や「餓鬼界(満たされず苦しむ世界)」「地獄」なども、フォーカス24~26に入っているそうです。

 

・「フォーカス27は自由度が高く、ここから次の生に転生することができます」フォーカス27には、地上さながらのさまざまな施設があるそうです。

 

私たちは夢で頻繁に死後の世界を訪れている

・「まずは亡くなったとき、お迎えに来ているガイドに気づくことが大切。死ぬ直前には、必ずそばにいますから、それに気がつきさえすれば、あとはガイドがフォーカス27に連れにいってくれます」

 

・「最近は便利になって、乗るとフォーカス27に直行できるエスカレーターやエレベーターもあります」と坂本先生。

 

・「私たちが寝ているときに見る『夢』は、あの世の一部ととらえて差し支えありません。夢の中でフォーカス27にある施設に行ったり、亡くなった人に会ったりしています。顕在意識では覚えていませんが、行ったり来たりしているんです」

 

意識とハートを広げればハイヤーセルフが見つかり過去生の自分とも会える  ヒーラー  クレッグ・ジュンジュラスさん

過去生を訪ねる旅で現在の自分も癒される

・クレッグ・ジュンジュラスさんは、アメリカ、アリゾナ州セドナ在住の形而上学教師で著述家。「ハイアーセルフディスカバリー」という手法で、人々の魂の成長を助けるヒーラーでもあります。

 

セミナーやCDによるクレッグさんの誘導によって、その練習をしていけば、自由に自分の過去生(過去世)を訪ねることができるようになるそうです。

 

草原の肝っ玉母さんやエジプト時代の科学者

・30分以上クレッグさんと見つめ合っていた私は、だんだんクレッグさんがエネルギー体のように感じられてきました。

 

光を見失ってもお迎えが来て教えてくれる

・「2011年、日本が津波に襲われたとき、私は1週間前に東京から戻ったばかりでした。すぐにでも日本に戻りたかったのですが、私のガイドから『ホテルの部屋にただ座っているだけでは何の助けにもならない』といわれました。

 そこで、私は体の外に出て、津波の現場の泥の中に飛び込みました。そして、そこに埋もれていた魂を一つひとつ泥の中から外へと救い出したのです。

 同じように魂を救おうと、海に飛び込んでいるトラベラーもいましたが、私は泥の層の中にそういう魂が多くいると感じたのです。困惑した状態で体の中にとらわれていると感じました」

 クレッグさんは泥の中にいる魂をどんどん救い出して、ほかにもトラベラーたちが助けに来ていたので、彼らに渡したそうです。

 

・最後に、クレッグさんから教わった「自分自身の救済法」を紹介します。「クライアントや生徒さんによくいうのは、『鏡で自分の顔を見て、鏡の中の人を助けてあげないさい』ということです。そんな気持ちで、鏡の中のご自身を見てみてください」

 

海の彼方にあるニライカナイという楽園で先祖は幸せに暮らし私たちを見守っている 琉球風水師 島袋千鶴子先生

沖縄の葬儀では棺桶にお土産のタオルを入れる

・高名なユタ(沖縄の霊能者)の末裔であり、著明な琉球風水師として活躍中の島袋千鶴子先生。四柱推命をベースにして開発された独自の「琉球推命」によって鑑定を行っています。

 

・「海の彼方に『ニライカナイ』と呼ばれる楽園があり、亡くなった人たちはそこで過ごしているといういい伝えです。ニライカナイでは、誰もが生前と同じような生活を送り、幸せに暮らしています。たとえば、先にお母さんが亡くなって、のちにお父さんが亡くなったら、そこで同じように夫婦として暮らすんですよ」。

 

沖縄の葬儀で独特なのは、亡くなったときの棺桶に、きれいなタオルをたくさん入れるということ

 

・私たちのそばに「ポワンと現れる」というのがかえってリアルです。あの世とこの世とは、次元が違うだけで、「どちらもいまここにある」ということなのでしょうか。

 

亡き人からのメッセージを受け取ることは誰でもできる

・島袋先生は、依頼者の求めに応じて亡くなった人を呼び出し、会話をしてメッセージを伝えることもされています。

 

・しかし、「ハッキリした姿は見えなくても、存在を感じたり、メッセージを受け取ったりすることは、一般の人でも右脳を開発すればできるようになりますよ」と島袋先生。

 

・「ふとしたときに、亡くなった人がそばにいる気がする、あるいは声が聞えた気がするということは、誰にでもあるでしょう」。

 

・すると、「沖縄では、生まれ変わりはないという考え方です」と島袋先生。

 

あの世を意識するよりいま生きていることを大切に

・「あの世を意識するより、いま生きていることを大切に、いつか訪れる死を思うことで、『好きな事をしておこう』と前向きにとらえるなら、それもいいでしょう。でも、死にとらわれて恐怖を感じないでください。あの世とは本当は身近なもので、そこにはいつも私たちを見守ってくれる人たちがいるのですから」

 

 

 

『わたしの中の阿修羅』

ひろさちや  佼成出版社  2005/4

 

 

 

古代インド神話

・古代のインド神話の二大神は、

――アスラとインドラ――

であった。アスラは「正義」の神であり、インドラは「力」の神であった。彼らは互いに相手を尊敬しつつ、天界に君臨していた。

 ところで、アスラに美貌の娘がいた。名をスジャーといい、またシャチーとも呼ばれる。神々の世界で美人コンクールがあれば、間違いなく彼女は栄冠に輝くであろう。それほどの美人、いや美神であった。

 父親のアスラは、この娘をインドラの妃にしたいと考えていた。「力」の神のインドラと「正義」の神のアスラの娘とが結婚すれば、理想のカップルになるに違いない、と信じて。

 ところが、「力」の神であるインドラは傍若無人の性格で、直情径行タイプの神格である。彼はある日、街でシャチーを見るや否や、<これはいい女だ――>と思い、彼女を拉致して自分の宮殿に連れ込み、暴力でもって犯し、自分の「女」にしてしまった。

 さ、怒ったのは父親のアスラである。<絶対に許せぬ――>アスラはそう考え、武器を持って立ち上がり、インドラに挑む。

 だが、悲しいことに、アスラは「正義」の神であり、インドラは「力」の神だ。「正義」が「力」に勝てるわけがなく、アスラは敗北する。

 しかし、アスラの怒りは激しい。たった一度の敗北でもって、彼はインドラを赦すことはできない。再度の挑戦。

 その再度の挑戦にもアスラは敗北するが、彼は三度、四度……と、執拗にインドラに挑みかかる。アスラは執念の鬼となる。

 

・それゆえ、わたしは大学は印度哲学科に籍を置いたが、印度哲学科は主として仏教を学ぶ学科であったのであるが、仏教が嫌いなわたしは仏教を忌避して現代インドの研究をテーマに選んだ。大学・大学院時代のわたしの研究テーマは、――植民地解放の哲学――

 

・ところが、三十代の半ばになって、わたしは仏教を勉強せざるを得なくなった。詳しい経緯は省くが、仏教嫌いの人間が仏教の勉強を始めて、たちまちその魅力の擒となった。仏教が大好きになったのだ。

 

・そういう状況で、わたしが直面した疑問が阿修羅であった。

――なぜ、正義の神である阿修羅が、仏教において魔類とされたのか?――この問いに答えることによって、わたしは仏教者になれるのだ。三十数年前のわたしはそう思った。

 

原初のアスラ

・阿修羅は、インド神話における特異な神である。阿修羅は、数奇なる運命を辿った存在である。

 じつは、かつて阿修羅は、栄光に輝ける神であった。魔神でも悪神でもない。正真正銘の神であった。それが時間の経過とともに転落を始め、ついに神的資格を剥奪されて地に堕とされたのであった。阿修羅はそんな悲しみの存在である。

 

アーリア人と言えば、広義にはインド・ヨーロッパ語族、つまりインド人と西洋人をひとつにした人種であるが、ふつうにはこのヨーロッパ語族の一支派で、インドとイランに定住した民族をさす。その原住地はカスピ海北西地域と推定され、紀元前17世紀のころ、人口の増加か飢饉か、なにかの理由によって彼らは原住地を離れ移住を開始した。

 このうち、西へ向かって移動した部族はヨーロッパに定住し、これがのちのヨーロッパ諸民族となったが、東へ移住した部族は、西トルキスタンの草原地帯に数世紀間定住していた。後者の部族、すなわち西トルキスタンに定住した部族を総称してインド・イラン人と呼ぶ。

 

・インド・イラン人は数世紀ののちに再び移動を開始し、一部は西南に進んでイランの地に入ってアーリヤ系イラン人となり、また一部は東南に進んでヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに入り、パンジャーブ地方を占拠した。これがインド・アーリヤ人と呼ばれる種族で、インド侵入の時期は紀元前13世紀の末ごろと推定されている。

 

西トルキスタンの草原地帯に定着していた狭義のアーリア人(インド・イラン人)が分裂して移住し、一方はインドに入ってそこでヴェーダの宗教(バラモン教)を生み出した。それが紀元前十世紀から前八世紀のころであり、このバラモン教に反発して仏教が成立したのは紀元前六世紀から前五世紀のころである。そして他方、イランの地に進んだイラン系アーリア人は、そこで伝統的な宗教を維持していたが、紀元前六世紀のころ、伝統宗教純化運動としてゾロアスター教が誕生した。そのゾロアスター教聖典が『アヴェスター』である。

 

・ところで、バラモン教聖典ヴェーダ』とゾロアスター教聖典『アヴェスター』とでは、その成立は前者が古く、後者が新しい。前者は紀元前十世紀から前八世紀。後者は紀元前六世紀というから、少なくとも三百年の差がある。にもかかわらず、奇妙なことに、ゾロアスター教のほうがバラモン教よりも古い信仰形態を残しているのである。

 

・なぜなら、バラモン教には、アーリア的な信仰形態のほかに、インド原住民の信仰と風習がかなりの程度に採り入れられているからである。それに比べるなら、ゾロアスター教のほうがより純粋なのである。

 かくて、ゾロアスター教バラモン教とを比較検討することによって、われわれはある一つの宗教信仰がどのように変化し、展開していったかを知ることができるのである。これはなんともありがたいことではいないか。というのも、われわれの阿修羅が、このゾロアスター教に起源を持っているからである。

 そう、阿修羅は、かつてゾロアスター教における輝ける神であったのだ

 

だとすれば、アスラの原初形態はゾロアスター教においてアフラと呼ばれる存在、すなわちアフラ・マズダーにある。これがアスラの原型である

 アフラ・マズダーゾロアスター教最高神である。「至賢なる神」を意味し、宇宙の創造者であるとともに世界の審判者でもあり、光明と火によって象徴される。人間世界を遠く離れた天の最高所にいますアフラ・マズダーは、にもかかわらず地上の出来事についてはすべて知悉し、表面に表われた些細なる罪行のほか、人間心理の奥底に潜在する邪念、よこしまなる思い、ねじけたる想念もきびしく摘発し、たちまちにして峻厳なる罰を下す。アフラ・マズダーはそんな畏怖すべき神であった。

 だとすれば、この「至賢なる神」を意味する“アフラ・マズダー”の名称は、案外この神の渾名であって、本命は“ヴァルナ”であったかもしれない。

 

ゾロアスター教の教説によると、アフラ・マズダーに双子の息子があった。スペンタ・マイニュとアングラ・マイニュとである。

 二人は万物の創造に先立って造られたが、そこで彼らは善と悪との選択を行なった。前者は秩序を選び、後者は虚偽を選択した。それで前者は善霊、後者は悪霊となり、相対立したが、後世の教義では、善霊のスペンタ・マイニュはアフラ・マズダーに仕える大天使となり、悪霊=アングラ・マイニュは悪神=アーリマンとされている。つまり、当初は善神=スペンタ・マイニュと悪霊=アングラ・マイニュの対立であったものが、のちには光明神=アフラ・マズダーと悪神=アーリマンとの対立に転化したわけである。

 

そして、悪と闘うこのアフラ・マズダーの姿に、われわれはわれわれの阿修羅を垣間見るのである。

 

神々の栄枯盛衰

・インド人は徐々にヴァルナ神を忘れていった。蒼空のはるけき高みにましますこの神を敬し遠ざけ、その存在を無視するに至ったのである。

 ヴァルナ神は「天則」と「掟」の神であり、厳粛なる神である。人間界のあらゆる悪事を摘発し、微細なる罪を暴き出し、これに神罰を下す。そんな神が、どうして人々から敬愛されるであろうか……。

――触らぬ神に祟りなし――

人々の気持ちは、この神から遠ざかる。それはあまりにも当然の成り行きではなかったか。

 

その代わりに、インドラ神がいる

 その代わりに――というのは、変な言い方である。けれども、インド人はどうやらヴァルナ神を天空のはるけき彼方へ追いやった代償として、身近な神、親しみ深い神をつくりだし、これを崇めてたてまつったらしい。それがインドラ神である。

 インドラは雷霆神である。一瞬の閃光でもって天空と地上を結びつける雷。

 

・結果は言わずと知れたこと。インドラ神は神々の帝王であり、これに勝てる神ははじめから存在しない。スーリヤ(太陽神)は敗れ、インドラはこの太陽神の御す馬車の車輪を戦利品として奪い取ったという。インドラ神は粗暴なる神である。

 あるときインドラは、奥方の目を盗んで、道ならぬ恋の深間にはまり込んだ。相手は猿のヴリシャーカビ、猿猴と神々の三角関係は行き着くところまで行き、夫の浮気を知ったインドラ夫人は、自己の保持する権力と嫉妬の情とを結びつけて、ヴリシャーカビを追放してしまった。

 

・それと、もう一つ。じつはインドラが浮気をした相手の猿は男性なのである。

 

それはともかく、インドラ神とは、そういった神である。磊落で、豪放でで、そしてときたま愚行を演じる神。インドラはそうした神であり、そうであるからこそ、『リグ・ヴェーダ』の詩人たちはこの神に無限の親しみを感じたようである。インドラは『リグ・ヴェーダ』賛歌全体の約四分の一を独占している。ヴァルナ神は、百分の一にもおよばない。この数字を比較するとき、インドラの人気とヴァルナ神の凋落ぶりがくっきりと浮かび出てくる。神々の世界にも、栄枯盛衰は厳としてあるのだ。

 なお、すでに明らかにしてあるが、インドラ神とは、のちに仏教において「帝釈天」と呼ばれる存在である。梵天帝釈天とは、仏教の二大護法神である。そしてアスラは、いうまでもなく阿修羅である。

 

・インドラ神とアスラは、のちに仏教においてそのように姿を変えてしまった。本来は、両者とも正真正銘の神であったにもかかわらず………。

 

・インド人はそう解釈した。そう解釈するとき、“ア”は否定詞になる。“スラ”は神または天の意である。したがって、“ア・スラ”は「神(天)でないもの」、すなわち「非神」「非天」とされた。ここでアスラの没落が決定的となったのである。

 

天界の功徳と天人の五衰

天界のうち、最も下層にあるものは須弥山である。

 須弥山はサンスクリット語名をスメール山といい、古代インド人が想像した宇宙の中心にある。いと高き山である。漢訳では、ときに“妙高”とも訳されている。高さは八万由旬。底辺も頂上も一辺八万由旬の方形というから、須弥山はいわばさいころ状の山である。なお、一由旬は約十キロメートル、したがって須弥山の高さは八十万キロメートルということになる。このどでかい山の頂上面が、忉利天と呼ばれる天界であり、ここに帝釈天をはじめとする三十三天が棲んでいる。

 また、この須弥山の中腹には、有名な四天王の住処がある。東西南北の四面の、ちょっとベランダ状にせり出したところに、四天王が棲んでいるわけである。

 四天王とは、周知のごとく、東方に持国天、南に増長天、西に広目天、そして北方に多聞天(別名、毘沙門天)の四天をいう。須弥山そのものが最下辺にある天であるが、その頂上面の忉利天よりも、四天王の住処はより下層になる。ここが天界のうちでもいちばん下部にあたる。いわゆる「下天」と呼ばれているところである。しかし、仏典の記述によれば、太陽や月はこの須弥山の中腹の高さのところを回っているというから、下天といっても相当に高いところにあることは間違いない。

 

・いま、試みに、百科事典で「月」の項目をひいてみた。わたしはうれしくなった。なんとそこには、「地球からの平均距離は384,400キロメートル」と記されているではないか。これは仏教の伝説とぴたり一致する。

なぜなら、須弥山の高さは八万由旬(八十万キロメートル)、したがってその中腹は四万由旬(四十万キロメートル)になるからである。太陽はともかくとしておいて、月が須弥山の中腹を回ることは、現代の天文学の計算に一致するのである。

 

・さて、天人の寿命である。

 帝釈天をはじめとする忉利天の天人、すなわち三十三天(三十三天は忉利天の類的存在であって、無数の天人がここにいる。そうした類的存在を三十三天に代表させたまでのことである)の寿命は、一千年である。

 といっても、天界と人間界では、時間の長さが違っている。忉利天の一日は、人間界の百年に相当するという。

 

すなわち、三千六百万歳ということになる。それが天界のうちでも下層の天、したがって比較的短命な天人の寿命なのである。

 

・それから、下天(四天王)の寿命は、人間界の五十年をこの下天の一日として、五百歳であるという。つまり九百万歳を生きるというわけだ。これが最も短命な天人の寿命である。

 かくて、下天、忉利天といった下層の天があり、その上に夜摩天、覩史多天(兜率天ともいう)、楽変化天他化自在天と、つぎつぎに高次の天がある。ただし、他化自在天が最終ではない。そして、そこに住む天人の寿命は四倍ずつ増えていく。九百万年、三千六百万年、一億四千四百万年、五億七千六百万年、……となるわけだ。そうすると、ある程度以上の数は「無限」と呼びたい誘惑に駆られる。けれども、それは決して「無限」ではない。いくら膨大な数であれ、有限数には「終わり」がある。そうでなければ、天人が輪廻することはなくなってしまう。

 

・天界に再生した者がそこで得られる果報は、なにも長寿ばかりではない。ほかにもさまざまな物質的、精神的快楽を得ることができる。つまり、天はごく平凡な意味での「天国」であり、「楽土」であるのだが、なかにはちょっと首をかしげたくなるような「果報」もある。例えば、セックスのやり方だとか……。

 セックスのやり方は、天界の上層に行くほど高尚(?)となるようだ。須弥山の天人たちは性交に際して性器をインサートする。その点では人間とちっとも変わりがないのだが、ただ天人たちは射精することがない。いや、そもそも精液そのものが欠如しているわけである。射精することなく、ただ風を漏らすだけである。それが高尚ですかね……。

 夜摩天になれば、もう性器の挿入は必要ない。女性を軽く抱き寄せるだけで、「欲望」は処理できる。覩史多天は、手をにぎるだけでよいし、それより上の天になると、お互いに見つめ合うだけで、オルガスムが訪れるそうだ。これはおそらく、インドのような暑い国では、せっせとピストン運動に励むのがわずらわしかったのだと思う。ただ、じーっとしていて、それで「満足」できれば、男にとって本望だ(女性にとってはどうか?わたしにはわからない)。しかも射精がないのであるから、事後の処理も簡単に済む。やはり「天国」だ。

 なんだか変な方向に筆がすすんでしまったが、要するに天界というのは、究極には「純粋精神」の世界だと思う。人間の持っている欲望や執着を一つ一つ断ち切っていき、ついに精神的な高みに達する。そこに得られる境地が「天」である。そう解釈することができそうである。

 

しかし、「天」は最終の世界ではない。われわれは、そのことだけはしっかり確認しておかねばならない。「天」はあくまで輪廻の世界の一環である。

 天人は長命である。帝釈天は三千六百万歳、夜摩天は一億四千四百万歳を生きる。あの梵天クラスになると、劫をもってはかるほどの長寿になる

 劫とは、インド人の時間の単位である。一辺一由旬(十キロメートル)の大石がある。さいころ状の大石であるが、一辺が十キロメートルといえば、富士山よりもはるかに大きい。この大石を、百年に一度、天女が空から舞い降りて来て、その羽衣でもってさっと摩撫する。そのとき、その羽衣がいくらしなやかであっても、ほんの少しは大石も磨滅するであろう。かくて、百年に一度の行為が積み重なって、ついに大石全体が消滅するに要した時間――その時間よりも、一劫のほうが長いというのである。まさにどでかい長さであるが、そのような劫を何倍、何十倍、いやいや何億倍もした時間を、梵天以上の天人たちは生きるのである。

 

・にもかかわらず、それは絶対に永遠ではないのだ。それが永遠であっては、話に矛盾が生じる。なぜなら、天に永遠に生き続けることは、二度と再びこの世界に帰り来ることはない――ということになる。そうなれば、天は輪廻の世界ではなくなり、輪廻を脱却した涅槃の世界になってしまう。それでは困るのだ。この世の善業によって天に生まれた凡夫も、その業の果報が尽きれば、この世界に帰り来るべきである。それが輪廻の世界に生きる――輪廻の環のうちにある――凡夫に定められた約束ごとである。

 そこで――。天人も再び死ぬのである。

 

阿修羅は大海に棲む

・仏教の阿修羅(あるいは修羅)の前身は、バラモン教のアスラである。そしてアスラは、始原的にはゾロアスター教の主神=アフラ・マズダーと同語源・同系列の神であって、輝ける正義の神であった。それがいつの間にか、人々の「正義」に対する一種屈託の感情から――「どうも、正義には弱いんですワ。しらけてしまうんです――」――、アスラは神々の座からひきずり堕とされ、ついに魔神に変じてしまった。そんなことを、すでに論じておいた。

 

・仏教における阿修羅も、ほぼこれと似たような経緯を辿るのであるが、原始仏教の当時、まだ阿修羅は魔神とされていない。神(天)としていちおう認められてはいたが、どこかちょっと異質なところがあるようである。人々は阿修羅について、漠然とではあるが、これを普通の天から区別し、一段低い存在として軽視しはじめていた。はじめは、そんなすれすれのところに阿修羅が置かれていた。

 アスラとインドラ――。バラモン教の神話において、アスラとインドラとは鋭く対立する二神であった。アスラはインドラとの闘争に破れ、その結果、神の座を追われた。

 

・わたしはこの原稿を書き続けつつ、毎夜、八部衆阿修羅を眺めてきたのだ。そして、どうやらわたしは、阿修羅に感情移入をしてしまったようである。全宇宙を支配していたアスラが――アスラは「正義」の神であったのだから、全宇宙を支配するのは当然のことなのだ――、インドラやヴィシュヌのペテンによって神々の座を負われることに、なんとも苛立たしい思いを感じはじめたのである。

 しかしともあれ、神話は神話である。バラモン教の神話にあって、アスラは鋭くインドラと対立し、そして徐々にインドラにその支配領野を席巻されていく。最後にアスラは天界を追われ、ついに魔界へと蹴落とされる。わたしがいくら感情を移入しようと、そんな神話における歴史だけは動かし難い。

 

・さて、そこで、阿修羅の住処について――。

当初、阿修羅もまた須弥山世界に住していたはずである。といったところまで話しておいた。この須弥山世界にあって、阿修羅は帝釈天と、おそらくは親子代々にわたる執拗な戦闘を続けていた。ときには、個々の戦闘において、阿修羅が幸運な戦勝を得ることもあった。しかし、暫時の勝利ののちには、阿修羅はまた敗北を喫するのである。あるいはペテンにひっかかって、せっかくの勝利をふいにしてしまうこともある。

 まあ、要するに、阿修羅の敗北は予定されていることであって、最後の最後には須弥山世界を追い出されてしまうのである。

 

・須弥山頂から放り投げ出された阿修羅の落ち行くところは、その須弥山を取り巻く大海のうちである。落下してきた重力の余勢を駆ってであろう、阿修羅はつぎに海中を底へ底へと潜り込んでいく。

 そして最後に、海底の魔境に達する。そこは、水深一万八千由旬の地点であった。

 

・『今昔物語集』にいう、「一ハ大海ノ底也」のほうの阿修羅であるが、まず、毗摩質多羅阿修羅王(ヴェーマチトラ・アスラ)がいる。彼は須弥山の東面の大海底に棲んでいる。その支配する海域は縦横八万由旬、すなわち帝釈天の住む忉利天と同じ広さになっている。

 ラーフ・アスラも有名である。その都城は須弥山の北面海域で、水深八万四千由旬、広さは八万由旬四方で、これまた忉利天と同じである。都城は七宝でもって荘厳されているという。