『俺のアラスカ』――伝説の“日本人トラッパー”が語る狩猟生活
著者――伊藤精一 編集・構成――すずきひさこ
作品社 2019/12/13
(本文修正:当ブログ)
<アラスカ中のクマから、指名手配をくっているオレ>
<森のなかで心配なのは、ヤッパリクマだね>
・やっぱり逃げると、犬なんかと習性が同じで、追っかけてくるんだよね、クマって。だから、後ろに下がる場合にも、ぜったいに背中を見せないで、後ずさりで下がらないとね。目と目で見合わせていると、だいたい襲ってこない。
こっちはもう、釣り糸にシルバー(サーモン)が引っかかっていて、クマがそれを欲しくて、そこで待ってるんだよね。だけど、こっちだって、せっかく引っかかっている魚欲しいから、やりたくないからねぇ。このやろーって、やっぱ睨むと、クマも、こいつは手ごわいなぁって思うんだろうねぇ。引き下がるよね。
・いやぁ、オレは、アラスカで何十頭もクマを撃ってきたから、アラスカ中のクマに指名手配をくってるんだな、ハハハ。
とにかく、グズリーがうろちょろしている山なかにさ、鉄砲がなかったら、夜寝られないからね。ま、1週間ぐらい一睡もしないで鉄砲なしの夜を過ごして、ほいでやっと昼間、明るいうちに寝られると思うけど、ハハハハ。とにかくね、鉄砲がなかったら寝られないよ、うん。鉄砲があればさ、とーにかく、何がなんでも、鉄砲の音だけでクマは逃げるからね、クマを倒さなくてもさ。
テントでは、地面に寝てるのと同じだから、体重の重たいクマがいくらネコ足で歩いても、ドン、ドン、ドン、ドン………って、地響きがするわけ。その地響きが、ドン、ドン、ドンって近づいてきて、テントのそばで音が止まってさ、いやぁぁ、あの恐怖感っていうのは、味わわないと、口で言ったってわからんだろうねぇ。なんていうの、自分の心臓の音があんまりうるさくてさ、とにかく、ここ(心臓)を手で押さえているんだよね。ドンドンドンドンドドン……ってね、クマに気づかれるんじゃないかってほど、響くんだ。だけど、身動きができないわけ。金縛りにあったみたいで、寝袋に入ったまま。片手がようやく寝袋から出て、ピストルのどこかを触ってるんだけど、それ以上動けないわけ。そこにだよ、テントの布切れ1枚の向こうにさ、ススススッて鼻をくっつけて、匂いを嗅いでいるのだよね。これはもぉー、あの恐怖感っていうのは、なんていうかさぁ…………。
そういうでっかいクマは、おっかないのだよね。本当に気をつけて、慎重に近づいてくるから。
・とにかく、なにも音を立てないで近づいて来るやつね。これはもぉー……、あれが、テントに手ぇ突っ込んできたら、あっという間にテントの外に引きずり出されて、もう、それでおしまいよ。
でもね、食糧をテントのなかに、いっさい入れなきゃ、だいじょうぶ。
・森のなかで心配なのは、まずクマだけだね、心配は、ほかの動物は、だいたい人間の臭いがすると、そこまでやらない。人が入ってるテントを壊してまで入ってこない。だけど、留守にしたりすると、グズリとかに、やられるからさ、テントなんかビリビリにされちゃう。なにもなくなっちゃう。なかの缶詰まで牙で噛んでさ、グチャーとやっちゃって、出てくるやつを、みんな食べちゃうわけ。
・さいわい、これはオレの経験じゃない。人がこういう目に遭ったのを、何回も見てる。泣きついてきた人もいたよ、食糧がなにも、なくなっちゃってさ。食糧だけじゃなくて、燃料のガソリンまでやられちゃった。ガソリンの容器を、グチャーッて開けて飲んじゃう、ハハハ。
<日本から来たハンターたち>
・日本の人は、せっかちなんだよね。ぱーっと来て、ま、1日か2日でハンティングを終わらせて、あとは一杯やりながら、のんびり、そんな感じで来るのですよ。だからね、最初の1日、2日、3日、4日目ぐらいまで何も捕れないと、たいがいの人は、イライラしてくるんだよね。
・その次の日は、カンカン照りになっちゃった。だからオレ、朝5時にそのお客さんを叩き起こしね。で、飯食わして、6時半ごろキャンプを出て行った。まだそのへん、いちめん霜が張っている、カーッと凍ってね。ちょうど朝日が当たって、いい時だなぁって、双眼鏡でガーって見渡したら、5、6頭、クロクマが出てるんだ。そのなかでも、いちばん、でかいやつに目星をつけて、そいつのいる方向に、だーっと歩いて行った。クマは気がつかない。夢中で喰っているからね。クマまでのあいだには、ものかげも何もないのだけどね。
・クロクマでも、けっこう、でかいヤツだったからね。おそらく500パウンド(約250キログラム)ぐらいであったね。それを二人で、エイヤーーーッ‼って引っ張り上げて、そこでオレがぜんぶ毛皮を剥いで、濡れネズミのその毛皮を背負ってキャンプへ戻った。
そしたら、飛行機がちょうどやって来た、食糧の補給にね。その飛行機に毛皮を積んじゃったおかげでさ、毛皮をきれにするとか、いつもの仕事がなくなっちゃった。
・そしたら、次の日は、雨嵐。朝起きて、ハンターの人がびっくりしているんだよね。ものすごい嵐になっているから。だからね、オレね、その時「熊嵐」っていう言葉を思い出した。北海道のクマの物語か小説かなんかで、読んだことあるんだよね。ハハハ。だから、この人にね、
「これを“熊嵐”っていうのですよ。ブラウンベアを捕るとね、必ず次の日、こういう嵐が来るのですよ」。
<弓矢ハンティングでやられた動物は、反動で走るんだ>
・鉄砲でハンティングをやるってことは、フィフティー・フィフティーじゃないって言う人がいる。ほんとうは自分は、素手で獲物を捕りたいんだけど、それはできないから、弓とナイフを使ってハンティングする、っていうハンターも、けっこういるよね。
そういう人のガイドもやったことあるけどね、たとえば、ムースが、スッと弓で倒れるだろ。もうここで、すぐ解体したほうがいいって、オレ、言うわけさ。どんどん出血しているし、ムースが苦しんでいるから、1発オレが(鉄砲で)トドメ刺して、すぐ解体しようって提案するんだけどね。
「ノー」って、腰からナイフ抜いてね、ムースに近づいていく。危ないよぉ。ムースってのは、大きいだけじゃなくて、ものすごい力があるんだ。死ぬ間際だってさ、足をこう、蹴るんだ。その足がパンと当たったら、人間の足なんて簡単に折れちゃうからね。だから、ムースが完全に死ぬまでは、ぜったいに近づくなと言われている。
・弓矢の場合、クマの頭がこっちに向いているときは、もちろんチャンスはない。ほんで、弓矢の場合は、あばら骨の隙間に射込んで、心臓でも、肺臓でも、スパッと射抜かないと出血多量で死んでくれないから、クマが真横を向いていないと、ダメなんだ。タマが真横にくる位置から、弓を放つわけ。だから、比較的、クマに襲われるチャンスはないのだけど、当たった瞬間、こう逃げるからね、ま、それでもやっぱり、怖いよね。
<クマの皮を剥ぐ>
・ま、クマの皮を剥ぐっていうのは、たいへんな仕事よ。目方で、200キロ以上、300キロぐらいあるのかなぁ。生の皮だからねぇ。それを担いで歩かなくちゃならない。すごい。乾いてないからね。それで、忙しいときで時間がないと、頭蓋骨とかそのままつけて、ぐるっと巻いて、丸めて、で、大きな背負子のでかいやつに結わいつけて、あの登山をやるときの背負子ね、で、杖ついて、まずそうね、中途半端な重さじゃないから、大の男のアメリカ人でも、30分まともに歩けないね。
<クマの胃袋は、モツ煮の神様>
・クマの肉で、いちばんうまかったのは、内臓だったね。春の、冬眠から覚めたばっかりのクロクマの内臓。それも胃袋ね。
うん、もうひと冬なにも喰ってないから、あのでかい胃袋が、こんな小さく収縮してるわけ。それがうまい。もーう、なんともいえない。なんていうのかなぁ。もう、モツ煮の神様みたいな感じで、いやぁ、うまかった。
<オレのクマ退治法>
・クマに対する恐怖心というのは、みんな持ってるようだね。(クマが)こう来たらこうする、というパターンを知らないから。クマはさ、べつに人間を襲うつもりじゃないのだけど、人間のそばに出てくると撃ち殺されちゃう。クマっていうのは怖いものだっていう先入観を、みんなが持っているからなんだよね。オレは、猟期以外だったら、クマがどんなにそばまで来ても、撃ち殺したことはないねぇ、ぜったい。鉄砲の音で脅かして、追っぱらったりはするけどね。
猟期以外の時期に殺しちゃうとね、きれいに毛皮を剥いた後、なぜそうなったのかっていうレポートをぜんぶ書いて、お役所に持っていかなくちゃならない。
<鉄砲を持たなかった星野道夫さん>
・そんななかに、カメラマンの星野さんもいたねぇ。そのころ、まだアラスカ大学の学生で、デナリ公園にいつも通っていた。フェアバンクスから公園まで、そうね、だいたい2時間半。ガッタガタで、ボッロボロの、それこそ、やっと走るくらいのダットサンだか、スバルの車に乗っててさ。このバーは、ちょうど公園に行く途中にあったからね、よくここで、ガソリン補給に停まったんだよね。
・だから、オレのほうから、星野さんがレジでガソリン代払うときに、声をかけた。「あんた、日本人?」って。そしたらさ、びっくりしてねぇ、ハハハ。で、「わたし、あの、星野といいます」って、自分の名前と住所と電話番号を書いてくれて、で、オレも自分の住所書いて、「オレ、このバーのすぐ裏に住んでますから」って。それが、星野さんと会った最初だねぇ。
・カメラと望遠レンズを1本でも多く持ちたいから、星野さんは、鉄砲をいっさい持たないわけ。あらゆるウェポン(武器)を持たない。散弾銃も持たない。ピストルも持たない。ちっちゃな小型拳銃すら持たなかったんだよね。それで、山んなか入ってやってるわけ。だから、オレ、「いつかね、一生に一度はね、(クマが襲ってくる)危険があるものだから、そんなとき、星野さん、ヤバいんじゃないの?」って言ったんだ。そしたらさ、笑ってたけどさ。
・星野さんよりも、彼の親のほうが心配していたよ。1987年に、オレは14年ぶりに日本に帰ったんだけどさ、そんなとき、星野さんの市川の自宅に遊びに行ったんだよね。
「大丈夫かな」ってね、お父さんが。
「いやぁ、とにかく、わたしは、山なかに入ったら、鉄砲がなかったら、安心していられませんよ」って言ったんだよね。そしたらお父さん、
「鉄砲がなかったら、やられる危険がありますかね?」って。だから、
「いやぁ、そりゃあ、ありますよっ」てね。本人より親父さんのほうが心配しちゃって。
・でもね、星野さん本人は、クマの習性とか、そういうものに精通しているわけ。クマの研究家みたいなものだよね。だから、クマをぜったいに刺激しないっていうやり方で、写真撮っているんだ。自分がいるところ、自分が今、こういうところにいる、なんていうの、こういう山なかのある場所で、たとえばそこでカメラを据えてクマを撮るとき、地形というのを考えて、いつもやっているんだって言ってたね。とにかく、藪なかとか、先が見えない所は、踏み込まない。 (語り、90年代初)
(編者注:写真家の星野道夫さんは、1996年8月8日、撮影で訪れたロシアのカムチャッカ半島南部のクリル湖畔で、ヒグマに襲われ、43歳で亡くなった。この話は、星野さんが亡くなる以前に録音されたものなので、当時の話のままの表現にした。なお、星野さんを襲ったヒグマは、人間に餌付けされ、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であったいう)
<空に消えた、はかないブッシュ・パイロットたち>
・とにかくアラスカは、なんていうか、その、事故で死ぬ人が多いね。とくに小型飛行機の事故というのは、軒並みある。何十年も飛行の経験があったって、そんなこと関係ない。1回、1回が、勝負だからさ。こういうワイルドネスに関わっている人は、入れ替わりが激しいもんだよ。
つい、このあいだも、一人死んだよ。それこそ、もう何十年も経験のある、アラスカでは名の知れたガイドがさ、デナリ国立公園辺りの山中でね。デナリのワイルダネス・ロッジを経営していて、すごいビジネスがうまくいっていたのに、コロッと死んじゃった。フフ、飛行機乗りってのは、はかないものだよ。
<不死身のミスター・ロチェスター>
・オレの家の隣り、ロチェスターズ・ロッジっていう民宿の旦那も、ハンティング・ガイドでブッシュ・パイロットだった。この人は、15回、飛行機を落として、15回とも、飛行機をメチャクチャにしたのに、飛行機では死ななかった。
「あの野郎は、ぜったい、今年のハンティングで死ぬな」って、近所の連中は、いつもそう噂していた。だけど、いつもカスリ傷で助かってきた。で、最後には、ガンで死んだけどね。とにかくね「あれはぁ、不思議な男だ」って、みんな言っていた。
<北極圏の空に消えたジム>
・アラスカの飛行機乗りなんて、もう、よっぽど運が良くなかったら生き残れないね。年がら年中乗っているからね。商売だから。
これ、趣味で乗っている人だったら、なにの問題もない。自分の好きなときに、いちばん天気がいいときに、あぁ、今日は気持ちいいなぁ、ちょっと飛んでみるか。30分ぐらい乗るのなら問題ない。
でも、商売となったら、もう、天気がどうであろうと、それこそエンジンの調子が少々悪くても、よっぽどのことがないかぎり、飛ばなきゃならない。ブッシュ・パイロットを専業にしていて生き残ったっていったら、よっぽど運のいい人ね。腕が良い悪いじゃなくて、運が良いか悪いか、だね。
<植村直己さんの命を奪ったマッキンリーの嵐>
・植村直己さんは、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、下山中の1984年2月13日の交信を最後に、消息不明となりました。なお、マッキンリー山の名称は、2015年、アラスカ先住民の言葉「デナリ山」(偉大な山)に改称されましたが、ここでは、当時のまま「マッキンリー」としました。
・植村直己さんは、オレの憧れの登山家だった。植村さんが、単独でマッキンリーに登ったまま行方不明になった1984年2月のことは、よく憶えている。
山、すごかったよね、マッキンリーの頂上、もう、どのくらい強風が吹いているかわかるくらい、もう、すごい!山のまわり、渦を巻いているわけ。
ほんで、ちょうど、そっちの方から3人の若いインディアンと、雪の獣道で、スノーモービルですれ違った。3人は、自分たちの猟場に、罠をかけてきてたのだ。
「マッキンリーが、あれだけ、すごい風が吹いているから、悪い天気がやってくるぞ、気をつけろ」って、言葉を交わしたんだ。
そしたら、その風で、植村さんがやられてた。うーん、ま、地上もかなり寒かったね、マイナス30度の下がっていたかな、その日。ものすごい天気のいい日だったよ。
<動物に対する思いの変化……、あるねぇ>
<30年近く、罠をかけて暮してきて>
・もう、30年近く、罠を掛けて暮してきた。朝5時から出かけていって、夜の9時、10時ごろ帰ってくるのだけど、そんなとき、空一面にオーロラが出ていても、感動とか、そんなものは味わえなかったね。あのころは。
すごいのが出ているなと思っても、罠で捕れた動物とか道具が、スノーモービルの後ろのそりに積んであって、それを早くうちに持って帰って、処理しなけりゃならない。その夜のうちに、やらなければならない、っていうのが、頭にあるから、立ち止まってオーロラを眺める余裕はなかったなぁ。なんていうかな。そのぉ、生活に追われるというか、仕事に追われてね。
・そのころ、80年代の終わりごろね、ヨーロッパで毛皮のボイコット運動が始まったのだ。アラスカの毛皮の90%がヨーロッパに行っていたから、それが売れなくなって、だぶついて、もう罠猟師たちが生活できないくらいに値段が下がっちゃった。困ったなぁ、生活できない、家族が路頭に迷っちゃうなぁ、と思ったよ。
毛皮の値打ちとかは、もうずいぶん変わっているから、おそらく以前のような相場に戻ることはないと思うね。
<罠猟というのは、スポーツじゃないんだよね>
・ハンティングのほうは猟期が限られているから、まだやってるよ。毎年9月になると、ムース(ヘラジカ)という、ウマみたいに大きな動物を捕るんだ。
地元の仲間、クリアーの隣近所の5、6人と連れだって出かけていって、1か月のあいだに、2、3頭捕ったら、それをみんなで均等に分ける。このムースの肉が、オレたちの冬の生活を支えてくれているんだよね。冷凍庫にその肉がいっぱいになると、米びつにお米がいっぱいになったような気持ちになって、もう、ひと冬心配ないと、そういう感じ。
ムース以外の狩猟としては、そうね、たとえば年取ったインディアンのオヤジから、クマ撃ちを手伝ってくれとか、近所にクマが出たから追い出してくれとか、クマを捕ったから皮を剥いてくれとか、そういう頼まれごとは、しょっちゅうあるね。
<栗秋正寿『わな猟師よの出会い』>
・栗秋正寿さんは、1998年3月8日、植村直己さんが、冬季単独登頂に成功するも帰還を果たせなかった。マッキンリーの冬季単独登頂および帰還に、日本人で初めて成功しました。栗秋さんは、下山後、リヤカーを引いて、アラスカの縦断1400キロの旅を行ない、その途中で、イトー宅にも立ち寄りました。その登頂と縦断の記録として、著書『アラスカ垂直と水平の旅』を著わされています。
・皆で夕食をとりながら、話がはずむ、精一さんが永住するようになったいきさつ、狩猟、とりわけわな猟でのエピソードなど、話のすべてが興味津々。
1940年、東京生まれの伊藤精一さんは、アラスカに移住して25年になる。狩猟・わな猟で生計をたてている唯一の日本人である。家族は、妻の久子さんと長女の七絵さん、次女の夏子さんの三人だ。
・その後、「トラッパー」と呼ばれるインディアンのわな猟師に弟子入りする。やがて師匠から猟の腕を認められ、聖域とされる狩り場の一部を譲り受けるまでになる。日本人としては初めてのことだろう。
彼の話す独特の世界に、私はすっかり引き込まれてしまった。
わな猟ではミンク、テンなどの小動物から、ビーバーやリンクス(ヤマネコ)、オオカミなどを捕る。クマやムースなどの大型動物は、わなではなくライフル銃を使う。
「狩猟の醍醐味は、動物を仕留めるまでの過程にあるんだ」と精一さんは言う。
狩猟はまさに、野生動物との知恵比べ。相手も賢いので、わなはひとつだけでなく、ニセものを仕掛ける場合もある。また、クマやドール・シープ(山岳ヒツジ)などの猟では、地形を考慮しながら風下から忍び寄り、絶対に逃げられない場所まで追い詰めていく。それが精一さんの最も充実する時であろうことは、想像に難くない。
[著者紹介]
伊藤精一 (イトー・セイイチ)
「クレイジー・ジャップ」「伝説のハンター」「トラッパー・イトー」などと呼ばれる。アラスカの猟師。
・1940年、東京都府中市に生まれる。青年時代は、オートバイに夢中になり、「カミナリ族」から始まって、モトクロスのアマチュア・レーサーとなる。しかし怪我によってレースを断念し、登山を始め、アラスカでの狩猟生活に興味を抱く。
1973年頃、アラスカに移住。フェアバンクス市の隣りのノースポール市のレストラン「クラブ・トーキョー」で何年か働いたのち、1970年代末に、デナリ山(旧マッキンリー山)のある、アラスカ内奥部のデナリ郡のクリアーで、全長150~200キロにおよぶ、広大なトラップ・ライン(罠猟場)を、先住民から譲り受け、日本人として唯一の“トラッパー”(罠猟師)となる。
以降、30年にわたり、罠猟師、ハンター、ハンティング・ガイドとして狩猟生活を送る。現在は、すでに罠猟・ハンティングともに引退し、クリアーで余生を楽しんでいる。二人の娘がいる。
本書は、生傷絶えない肉体が体験してきた“アラスカ狩猟人生”について、1986~98年頃にかけて録音された語りをまとめたものです。
[編集・構成・写真]
すずきひさこ
東京生まれ。日本大学新聞学科卒業後、編集プロダクションで編集の仕事に従事。1986年、アラスカへ長期の一人旅をした際に、伊藤精一氏と出会い、結婚。1988年、日本で産まれた長女とともに、アラスカへ移住。クリアーから、日本人罠猟師一家のアラスカ暮らしの記事を発信。2001年、東京の動禅指圧の永井幹人先生に師事し、アラスカでマッサージ師の資格を取る。2002年、フェアバンクス市へ引っ越し、施術院を開く。
著書に、『ママは陽気なアラスカン――わたしのアラスカ・デイ・ドリーム』(2002年、文芸社)
『クマ問題を考える』
野生動物生息域拡大期のリテラシー
<捕獲と威嚇のメッセージ性>
・現在、私たちが行っているツキノワグマ対策は、出没や被害の現場での「対処駆除」、いわゆる対症療法が主体である。被害に遭えば捕殺し、市街地に出てくれば捕殺する。当然のようであるが、実は肝心なことが抜け落ちている。それはクマの出没を減らすための努力である。その努力は、クマたちにこの一帯から先には行ってはいけない、人間の生活空間に出て行けば極めてリスキーである、ということがわかるように仕向ける努力のことである。
・現在のツキノワグマの推定棲息数(全国に1万6000頭前後が棲息している)がいるとすれば、年間200頭から300頭のオーダーで捕獲をつづけたとしても対処駆除は永遠につづけていかなければならない。それは被害に遭いつづけることを意味している。被害に遭いつづけることが駆除の持続性を保障するという、現在のジレンマから一向に抜け出すことができないのである。このようなジレンマの持続性を喜べる人はほとんどいないだろう。被害に遭うのは農林業に従事する人々に限られたことではない。ランダムである。散歩やジョギング中に、あるいは登下校中にクマと遭遇することもあり得る話である。実際にそのような事故が起こっている。
・問題は、ツキノワグマに限らず、野生動物たちに人間の側のメッセージをどのように伝えるか、なのである。そのための苦肉の策の一つとして行われているのが、新人ハンター(猟師やマタギ)の養成ということになる。東北地方に限って言えば、この5年あまりのなかで地域の窮状を見かねてハンターを志してくれる人々は微増とはいえ増えてきている。しかし、増える以上に熟練猟師たちの引退も増えているのである。このような新人養成は、マンパワーの維持にほかならないが、同時に捕獲と威嚇という手法、しかも野生動物たちに伝わるメッセージ性のある手法をどのように実践するか、が問われることになる。
・例えば、現在、東北地方にはマタギと呼ばれる近世以来の歴史と伝統を有する猟師たちは3000人程度存在すると見込んでいるが。このなかで経験に裏打ちされた高度な現場判断ができる猟師は500人程度に減少しているだろう。いかに東北地方といえども日常の時間を自由にでき、毎日のように山を歩いていられる人はほとんどいない。多くの人は職を持ち、猟で山に入ることが許されるのは土日だけという場合が大半を占めてきている。このような状況で、被害や出没が起きた時に直ちに現場に走れる猟師はわずかしかいない。
なかには、春のツキノワグマの生息調査や子察駆除の期間に有給休暇を溜めておいて出猟するという熱心な猟師もいるが、極めて少数である。むしろ、いくらそのような有給休暇の取り方を求めても許してくれる企業はまだまだ少ないというのが現実であろう。
・地域の山岳や沢、地名や地形に詳しく、単独で山々を歩け、クマに関する情報を収集し、クマたちの動きの先が読める猟師は育ちにくい時代である。現在、猟友会を支えている熟練した猟師たちは、ほとんど1940年代から1950年代前半に生まれた人たちである。この人たちはかろうじて親の世代の猟師たちが生計をかけて狩猟に携わっていた当時、親や近隣の先輩たちから動物の追い方など、伝統的な技術や地域の山々に関する知識を継承できたぎりぎりの世代である。この人たちが元気な内に、若い新人ハンター付いて学んでいけば10ぐらいの経験で相当の知識と技術をものにすることも可能であろう。しかし、現場を差配し安全を保ちつつ大型野生動物と向き合うにはさらに10年という歳月がかかる。この時間の短縮は難しい。バイパスはないのである。
<遭遇しないために>
・クマ鈴を腰に下げている人をよく見かけるが、遭遇した時にはよい効果をもたらさない。
・山で生きていた人たちは、大なり小なり、クマをめぐる体験を持っている人が多い。この体験の蓄積は、危険を回避するための貴重な知識となる。地域の人たちが歴史的に蓄積し、鍛え上げてきた民俗知(民族知)の世界に多くの人が触れてくれれば、事故などそうそう起こるものではない。自動車事故よりも遥かに確率が低い。もし、そんなにクマが危険な動物であれば、すでに人類は滅んでいただろう。
<東日本大震災>
・この数年来、気が晴れない日々がつづいている。それは、東日本大震災をきっかけに生じた福島第一原発の事故による野生動物の放射能汚染問題のためである。現在も数多くの方々が避難生活をされているなか、避難区域はイノシシなどの野生動物に荒らされ、これを軽減させるために日々奔走している人たちがいる。
・クマ問題の核心は、クマをいかに排除するかではない。出没をいかになくすかである。出没がなくなれば、問題は半減する。そのための努力がまだまだ足りていないと思う。
<狩猟と農耕>
・つまり、農耕によって発展してきた日本社会であるからこそ、狩猟を必要としてきたのである。農耕に依拠する社会には狩猟という営みが必要不可欠な存在であり、狩猟は農作物被害を軽減する抑止力として機能してきたのである。このような狩猟と農耕の相補的な関係は、ヨーロッパ社会にもアメリカにも、アジアやアフリカにも確認することができる。狩猟と農耕はまるで別物であるという理解は明らかに間違った考え方なのである。
・この5年あまり、アメリカを調査しはじめているが、2016(平成28)年にアイオワ州のアイオワ・シティー郊外の農家を訪ねる機会があった。
訊ねた農家のビル氏が所有する広大な畑の周辺には、隣の耕地との境に幅100メートルほどの森が残されている。その森のいたる所にハイシートやハイハットと呼ばれるシカ猟用の施設が設けられていた。ハイシートというのは日本では据木と呼ばれていたもので、中世の鎌倉時代に描かれた『粉河寺縁起絵巻』などに登場する。樹上から下を通るシカを待ちぶせして弓で射るための台のことである。アメリカではコンパウンド・ボウと呼ばれる弓やボウ・ガンを用いてシカを射る猟が盛んに行われている。そのための施設が森のいたる所につくられている。
・シカに作物を食べられながら養い、シカを狩猟している。訊ねた時、自宅から600メートルほど先の畑のなかで採食するホワイト・テール・ディアの群がいた。彼はまったく興味を示さず、私たちを家のなかに案内し、シカのトロフィーを見せながら猟の話に夢中であった。彼もまた半農半猟の暮らしをしていた。
・ドイツのヘッセン州を訪れた時も同じであった。ドイツには80万人も狩猟者がいる。猟場となるのは農村地帯に設定された猟区であった。農家の人たちが互いに耕地を提供し合って猟区をつくっていた。その猟区を猟師が訪れ、アカシカやイノシシを獲物に猟を展開しているのである。耕地を猟区に提供している農民たちは、耕地内に生息する野生動物を獲って貰うために土地を提供していたのである。
アフリカのケニアでは、農耕する部族社会の周辺に狩猟採集民の部族がいるという話を聞いた。ラオスでも中国の雲南省でも、黒竜江省でも、ロシアでも聞いた。狩猟と農耕は、これらの国や地域でやはり分かちがたい関係にあった。何という不思議だろうか?
『熊撃ち』
久保俊治 小学館 2012/2/3
<山の魔物との遭遇>
<帰国と再会>
・アイダホ、モンタナ、ワイオミング、ユタ、それにカリフォルニア北部にわたる、3ヵ月間の猟期も終わった。
各地でいろいろなプロガイドに会うことができた。だが、足跡を的確に読み、距離、時間差を正確に判断してくれる技術を、私の期待通りに示してくれるガイドには会えなかった。いっしょに行動できるガイドの数が、限られていたせいもあるだろう。そしてガイド業が、動物相手というよりも、客相手のビジネスとして成り立っていたせいかもしれない。
私が北海道でやっていたように、一人対動物という関係は、一部罠猟師や、イヌイットの人たちを除けば、もうアメリカにも存在しないのだろう。本物の猟のプロフェッショナルは、映画の中だけにしか残ってないのかもしれない。
アメリカでは、北海道の私のようなやり方、自分で獲った獲物を金にして生活するやり方の人間を、マウンテンマンと呼び、ハンターとは呼ばないようだった。
・故国へ帰る飛行機の窓から見えてきた少し雪をかぶった山々は、まさに日本の山々だった。ロッキー山脈ほどの広さはないが、それがかえって懐かしくさえ思えた。
<なくなった林>
・4月も近づき、春の気配に山が黒ずんでくる。待ちに待った熊の季節がやってきた。フチとともに、一年ぶりに標津へ向かう。
アメリカの山の、乾いたマツくさい香りとはまったく異なる。湿っぽい腐土のような懐かしい匂いを、胸いっぱいに吸い込む。北海道にいることが、アメリカから帰ってきたことが実感される。設営を終えたテントの中で、広げた寝袋の上に寝転び、翌日からの熊猟に思いを遊ばせる。
・やはりフチとの山がいい。
翌朝、硬雪を踏んで、熊が早い時期から穴を出る山へと向かう。
・解体、運搬し、街に出て売れるものは売ってしまった。このときは熊一頭とシカ二頭で、当時のお金で50万円ぐらいにはなった。山に戻ったころには雪解けも進み、テントのまわりの雪もだいぶ少なくなった。
体についた熊の匂いは、2週間ほど経っても消えず、焚火の煙の匂いとともに、自分の体臭のようになる。
<異様な吠え声>
・4月も末になり、春めいてきた山の中を歩く。8月中には再びアメリカへ行くという思いが、あまり気乗りしないものになってくる。厄介なビザの取得のことを思うと気が重い。フチを連れていけるならともかく、もう置いたままにしてはいけない気持ちが強くなっている。このまま北海道で、自分の猟を完成させることのほうが大事ではないか、と思えてくる。
アメリカでは、できることはほとんどやり尽くしたような気もする。プロのハンティングガイドとしても、あちらのプロガイドと比べて遜色はなかったとの自負も持てた。まだ行ってみたいと思う州もあるが、ガイドとして、客相手では気が弾まない。
・冷や飯に、熊の脂で炒めた味噌をつけながら夕飯を食う。フチもその味が気に入ったとみえ、旨そうに食う。
寝袋に体を入れ、オレンジ色の榾火を見ながら眠りについた。
「ウーッ」、フチの異様な唸り声に目覚める。傍らにいるフチが、ぼんやりと白っぽく見えるだけの、星明りもない闇の一点を見つめ、体に緊張感を表わし低く唸っている。焚火も消えている。
ゆっくりと寝袋から這い出し、立てかけてあるライフルを掴み、懐から懐中電灯を出し、いつでも点灯できる用意をし、闇に目を凝らす。
フチは低く唸り続けている。ゆっくりと立ち上がり、フチに行けの合図を心の中で送る。暗闇にスルスルと消えていったフチが、突然に吠え出す。吠え声が異様だ。今まで聞いたことがない怯えた吠え声なのだ。懐中電灯を点ける。ほんの一部だけ照らされた闇の中を、ライフルを構え吠え声を目指して一歩一歩と近づく。少し行くと、闇に向かい吠えているフチが、小さな明かりの輪の中にボーと浮かんでくる。尻尾を垂らし、背の毛を逆立て、怯えた声で激しく吠えたてている。熊に対してさえこんなに怯えた姿を見たことがないし、こんな怯えた吠え声を出したことがない。そのフチが闇に怯えている。懐中電灯で照らしてみても、何も見えない。熊ではないのだ。熊だとしたら、寝ている傍らで、ただ唸ったりだけしていたはずがない。足元まで唸りながら戻り、また闇に数歩踏み出しては激しく吠えることを繰り返す。
・突然に体の中を恐怖が走った。今までに感じたことのない、得体の知れない恐怖が背筋を昇り、全身の毛が逆立つ。
ああ、これが山の魔物と言われるものなのか。猟の伝承で言われてきた、「魔物に逢う」という現象なのだ。闇を見つめ、フチの怯えた吠え声を聞きながら思った。犬には魔物が見えると言われている。今フチは、その魔物を見ているのだ。そして私自身、その魔物と言われるものの前に、暗闇で対峙しているのだ。
得体の知れない恐怖感が重く体を包み込み、押し潰そうとする。まわりの暗闇よりもっと濃い暗いモノがまとわりついてくる。額に冷たく汗が滲み出てくる。今まで、人魂と言われ火の玉も、山の中で数度見たことがあるが、そのときにも感ずることのなかった恐怖感に体が包み込まれている。なんとも言い表せない。はねのけることができないような恐ろしさが感じられる。闇に目を凝らし、耳を澄ましてその恐怖を払いのけようとしながら、ただ佇んでいた。
・落ち着いてみると、地場の変化などによる電磁波を感じたのかもしれないと思う。犬は電磁波に敏感だといわれている。フチにとっては、得体の知れない電磁波の、その感覚に怯え、吠えたのかもしれない。そして私自身も、フチの傍らへ行き、それを感じ取ると同時に、フチ怯えを目の当たりにすることにより、電磁波の感覚が、恐怖という形で現れたのかもしれない。
・山の中でたった一人で生活していると、奇怪なことをたびたび経験する。そして猟の伝承の中で言われていることの一つ一つが自分なりになるほどそういう訳なのかと納得できることがよくある。
例えば、サンズナワと言われるものがある。
山で泊まるとき、なんとなく嫌な感じがする場所というところがある。そんなとき、獲物を引っ張るロープなどで、「一尋、二尋、三尋半」と唱えながら3回ロープを扱き、そのロープを寝るところのまわりに張り巡らせて、結界を作れば、魔物が入ってこず安心して寝られると言われているものだ。
・私も一人で山を泊まり歩いていたとき、熊の通りそうなところではよくやってみた。
何回か扱いたロープを張り巡らすことで、他の動物を寄せ付けない効果は確かにある。解体した獲物の肉を残しておくときに、手拭いや軍手などを肉の側に置いておくことによって、2日間ほどは、キツネなど他の動物が近づかず、肉も食い荒らされることがない。サンズナワを張り巡らすのも、これと同じような理由だと思われる。またキャンプを出るときテントの入り口に唾をつけたり、タバコの吸殻を立てておいたりすると、キツネ、イタチ、テンなどの動物にテントの中を荒らされることがないのも、サンズナワと同じようなことだと思われる。
・山の中では1回だけの呼び声には決して返事を返してはいけない。返事をすると魔物に連れていかれてしまうとも言われている。幻聴を呼び声と間違い、よく確かめもせずに返事をしてしまうという心の弱さ、注意力の乱れが方向を間違い、山に迷ってしまう原因になるのだろう。山での猟、特に単独猟では、何事も確認し直してから行動せねばならないとの戒めと思っている。
自分なりに理由をつけ納得したつもりになってみると、たわいもないことのようにも思えるが、弓矢の時代の昔から言われつづけている猟人の伝承には、山に対する大いなる畏敬と、深い尊敬の想いが込められ、そこから得られる獲物に対する愛情が感じられる。
・牧場での生活も順風満帆な時ばかりではなかった。牛の販売価格の下落によって、計画した収入が得られなかったり、白筋症という病気で半数以上の仔牛を失ったこともあった。特に全国的に騒がれたBSEの事件は経営に大打撃を与え、長くその影響を受けた。