日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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天国の住民となれば、あの通り、男子は三十歳、女子は二十歳くらいな面貌や肉付きをしているのです。(1)

 

『みろくの世』

出口王仁三郎の世界

上田正昭   天声社   2005/8

 

 

 

「みろくの世」への誘ない

<『『霊界物語』の世界』>

・「千年に一人出るか出ぬかという人物だ」。吉川英治がかつてそう評した「巨人」出口王仁三郎。その王仁三郎の世界へ誘なう

 

王仁三郎は高熊山入山23年後の大正10年10月、“高熊山で見聞したことを開示せよ”との神命を受け、それまでに内に秘めていたその内容を初めて公表した。『霊界物語』である。

「私の霊魂は霊界に遊び、いろいろと幽界、神界の消息を実見させられた物語であります。すべて霊界にて時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来事は、いずれも平面的に映じますので、その糸口を見つけ、なるべく読者の了解しやすからんことを主眼として口述いたしました」と王仁三郎は言う。

 

・口述は朝から夕方、夜間にかけ、王仁三郎が口述台に横たわったまま、一冊の参考書も置かずに行われた。口述は、よどみなく、言い直しもない。口述中、言葉の区切りでイビキの入ることもあった。王仁三郎はふと気づき、「眠ってしまっていたな、どこまで口述したか」と尋ね、筆録者が最後の1、2行を読むと再び口述が続いた。

 口述の場面には世界中の地名や言葉が出てくる。場面が熱帯地方だと冬でも汗をかき、寒帯の場面では夏でも布団を重ね、コタツまで入れることもあった。

 

・大正15年7月までの5年間に72巻(74冊)を、さらに昭和8年10月から9巻を口述し、昭和9年12月、完結。全81巻、83冊、2047章の長編ストーリー。論説や随筆や詩歌があり、しかし全体の構成は小説的におりなされ、あらゆるテーマを内容とし、理想的な地上天国「みろくの世」へと向かう道筋が描かれている。

 

(本文修正:当ブログ)

――肉体は岩窟に端座しながら、霊魂は“旅”に出る。松岡芙蓉仙人の先導で霊界の“入り口”へ。まるで“おとぎ話”のような不思議な光景が、鮮やかに映じてくる。

 

霊界探検の始まり

・霊界には、天界と地獄界と中有界との三大境域があって、天界は正しき神々や正しき人々の霊魂の安住する国であり、地獄界は邪神の集まる国であり、罪悪者の堕ちてゆく国である。

 そして天界は至善、至美、至明、至楽の神境で、天の神界、地の神界に別れており、天の神界にも地の神界にも各自三段の区画が定まり、上中下の三段の御魂がそれぞれに鎮まる楽園である。

 地獄界も根の国、底の国にわかれ、各自三段に区画され、罪の軽重、大小によって、それぞれに堕ちてゆく至悪、至醜、至寒、至苦の刑域である。今自分はここに霊界のお許しを得て、天界、地獄界などの大要を表示してみよう。

 

<霊界>

天界  また(神界)という 天の神界(三段) 地の神界(三段)

 

有界 また(精霊界)という   浄罪界

 

地獄界 また(幽界)という 根の国(三段)  底の国(三段)

 

・霊界の大要は大略前記のとおりであるが、自分は芙蓉仙人の先導にて、霊界探検の途に上ることとなった。もちろん身は高熊山に端座して、ただ霊魂のみが往ったのである。

 行くこと数百千里、空中飛行船以上の大速力で、足も地につかず、ほとんど十分ばかり進行を続けたと思うと、たちまち芙蓉仙人は立ち留まって自分を顧み、

『いよいよこれからが霊界の関門である』

 といって、大変大きな河の辺にたった。

 ちょっと見たところでは非常に深いようであるが、渡ってみると余り深くはない。不思議にも自分の着ていた紺衣は、水に洗われたのか、たちまち純白に変じた。別に衣服の一端をも水に浸したとも思わぬに、肩先まで全部が清白になった

 芙蓉仙人とともに名も知らぬこの大河を対岸へ渡りきり、水瀬を眺めると不思議にも水の流れと思ったのは誤りか、大蛇が幾百万とも限りなきほど集まって各自に頭をもたげ、火焔の舌を吐いておるのには驚かされた。

 

それから次々に渉りきたるあまたの旅人らしきものが、いずれも皆大河と思ったと見えて、自分の渉ったように各自に裾を捲きあげておる

 そして不思議なことには各自の衣服が種々の色に変化することであった。あるいは黒に、あるいは黄色に茶褐色に、その他雑多の色に忽然として変わってくるのを、どこともなく五、六人の恐い顔をした男が一々姓名を呼びとめて、一人一人に切符のようなものをその衣服につけてやる。そして速く立てよと促す。

 旅人は各自に前方に向かって歩を進め、一里ばかりも進んだと思う所に、一つの役所のようなものが建ってあった。

 その中から四、五の番卒が現れて、その切符を剥ぎ取り、衣服の変色の模様によって、上衣を一枚脱ぎとるもあり、あるいは二枚にしられるもあり、丸裸にしられるのもある。また一枚脱ぎとらずに、他の旅人から取った衣物を、あるいは一枚あるいは二枚三枚、中には七、八枚も着せられて苦しそうにして出てゆくものもある。一人一人に番卒がつき添い、各自規定の場所へ送られて行くのを見た。

 

ここに大王の聴許をえて、自分は産土神、芙蓉仙人とともに審判廷の傍聴をなすことを得た。仰ぎ見るばかりの高座には大王出御あり、二三尺下の座には、形相すさまじき冥官らが列座している。最下の審判廷にはあまたの者が土下座になって畏まっている。

 見わたせば自分につづいて大蛇の川をわたってきた旅人も、早すでに多数の者の中に混じりこんで審判の言い渡しを持っている。日本人ばかりかと思えば、中国人、朝鮮人、西洋人などもたくさんいるのを見た。自分はある川柳に、『唐人を入り込みにせぬ地獄の絵』というのがある。それを思いだして、この光景を怪しみ、他人に耳語してそのゆえを尋ねた。何と思ったか仙人は頭を左右に振ったきり、一言も答えてくれぬ、自分もしいて尋ねることを控えた。

 ふと大王の容貌を見ると、アッと驚いて倒れんばかりになった。そこを産土の神と仙人とが左右から支えて下さった。もしこのときに二柱のご介抱がなかったら、自分は気絶したかも知れぬ。

 

・今まで温和優美にして犯すべからざる威厳を具え麗しき無限の笑みをたたえたまいし大王の形相は、たちまち真紅と変じ、眼は非常に巨大に、口は耳のあたりまで引き裂け、口内より火焔の舌を吐きたまう。冥官もまた同じく形相すさまじく、面をあげて見る能わず、審判廷はにわかに物凄さを増してきた。

 大王は中段に座せる冥官の一人を手招きしたまえば、冥官うやうやしく押しいただき元の座に帰りて、一々罪人の姓名を呼びて判決文を朗読するのである。番卒は順次に呼ばれる罪人を引き立てて幽廷を退く。現界の裁判のごとく予審だの、控訴だの、大審院だのというような設備もなければ、弁護人もなく、単に判決の言い渡しのみで、きわめて簡単である。自分は仙人を顧みて、

何ゆえに冥界の審判はかくのごとく簡単なりや』と尋ねた。仙人は答えて、『人間界の裁判は常に誤判がある。人間は形の見えぬものには一切駄目である。ゆえに幾度も慎重に審査しなくてはならぬが、冥界の審判なれば、何ほど簡単であっても毫末も過誤はない。また罪の軽重大小は、大蛇川を渡るとき着衣の変色によりて明白に判ずるをもって、ふたたび審判の必要は絶無なり』と教えられた。

 

・一順言い渡しがすむと、大王はしずかに座を立ちて、元の居間に帰られた。自分もまた再び大王の御前に招ぜられ、恐る恐る顔を上げると、コハそもいかに今までの恐ろしき形相は跡形もなく変わらせたまいて、また元の温和にして慈愛に富める、美しきご面貌に返っておられた。

 そこへ先ほどの冥官が番卒を引き連れ来り、たちまち自分の白衣を脱がせ、灰色の衣服に着替えさせ、第一の門から突き出してしまった。

 突き出されて四辺を見れば、一筋の汚い細い道路に枯草が塞がり、その枯草が皆氷の針のようになっている。後へも帰れず、進むこともできず、横へゆこうと思えば、深い広い溝が掘ってあり、その溝の中には、恐ろしい厭らしい虫が充満している。自分は進みかね、思案にくれていると、空には真っ黒な怪しい雲が現れ、雲の間から恐ろしい鬼のような物が睨みつけている。

 

「中有界」の様子

さて八衢(やちまた)(中有界)は、仏教者のいう六道の辻のようなものである。

 また人の死後、この八衢の中心なる関所に来るには、いろいろの道を辿るものである。東西南北乾坤巽艮と、各精霊は八方よりこの関所を中間として集まり来るものである。

 東から来る者は、大抵は精霊の内でも良い方の部分であり、そうして三途の川が流れている。どうしてもこの関所を通らなければならないのである。

 また西から来る者は、やや魂の曇った者が出てくるところであって、針を立てたような、いわゆる剣の山を渉ってくる者である。ここを渉るのは、わずかに足を容れるだけの細い道が、まばらに足型だけ残っておって、ちょっと油断をすればすぐに足を破り、躓いて倒れでもしようなら、体一面に、針に刺されて苦しむのである。

 また北から来る者は冷たい氷の橋を渡って来る。少しく油断をすれば、幾千丈とも知れぬ深い泥水の流れへ堕ち込み、そしてその橋の下には、なんともいえぬ厭らしい怪物が、鰐のような口をあけて、堕ちくる人を呑まんと待っている、そしてその上骨を刻むごとき寒い風が吹きまくり、手足が凍えて、ほとんど生死の程も分からぬような苦しい思いに充たされるのである。

 

・また南の方から来る精霊は、山一面に火の燃えている中を、焔と煙をくぐって来なくてはならない。これも少しく油断をすれば煙にまかれ、衣類を焼かれ、大火傷をなして苦しまなくてはならぬ。しかしながら十分に注意すれば、火傷の難を免れて、八衢の中心地へ来ることを得るのである。

 

・また善霊すなわち正守護神の精霊は、いずれの方面より来るも、あまり苦しからず、あたかも春秋の野を心地よげに旅行するようなものである。

 これは生前につくした愛善の徳と信真の徳によって、精霊界をやすやすと跋渉することを得るのである。

 善の精霊が八衢へ指して行く時は、ほとんど風景よき現世界の原野を行くごとく、あるいは美しき川を渡り、または風景よき谷道を登りなどして、漸く八衢に着くものである。

 正守護神の通過するこの八衢街道は、ほとんど最下層天国の状態に相似しているのである

 しかして八衢の関所は、正守護神も副守護神も、すべてのものの会合するところであって、ここにて善悪真偽を調べられかつ修練をさせられ、いよいよ悪の改善をする見込みのないものは、ある一定の期間を経て、地獄界に落ち、善霊はその徳の度に応じて、各段の天国へそれぞれ昇り得るものである。

 

――霊界探検は、全巻にわたっているが、ここではその“入り口”までにとどめる。有界は、死後、人間の霊魂(精霊)が例外なく進む境域である。この境域で一定期間を経たあと、天界(神界)や地獄界(幽界)など、それぞれの精霊が持つ意志想念そのままの境域へと進んでいく。

王仁三郎は、「ことさら神は地獄を造らねど己が造りておのが行くなり」と詠み、また、「人間として、その身内に天国を有しなかったならば、身外にある天国は決してその人に流れ来るものではない」などと述べている。

 

――「みろくの世」とは、理想的な地上天国のことであり、天界の住人の心(精神、意志想念)の持ち方、生き方にならい、天界をこの地上に移すことが理想である。『霊界物語』には、登場人物の言葉を通して天界の様子も口述されている。

 

天国巡覧の旅へ

治国別(はるくにわけ)、竜公(たつこう)は団体の統制者に導かれ、種々の花卉などをもって取り囲まれた、相当に美しき邸宅に入ることを得た。ここは、この団体の中心に当たり、他の天人は櫛比(しっぴ)したる家屋に住んでいるにもかかわらず、一戸分立して建っている。現界にていえば、ちょうど町村長のような役を勤めている天人の宅である。

 二人は案内されて奥の間に進むと、真善美という額がかけられ、そして床の間には、七宝をもって欄間が飾られ、玻璃水晶の茶器などがキチンと行儀よく配置され、珊瑚珠の火鉢に金瓶がかけられてある。ここは第二天国においても、もっとも証覚の優れたる天人の団体であり、主人夫婦の面貌や衣服は、特に他の天人に比して優れている。治国別は恐る恐る奥の間に導かれ、無言のまま行儀よく座っている。この天人の名を珍彦(うずひこ)といい、妻は珍姫(うずひめ)といった。

 珍彦は、治国別のいまだ現界に肉体があり、精霊として神に許され、修業のために天国巡覧に来りしことを、その鋭敏なる証覚によってわが居間に通すとともに悟りを得たのである。ここに珍彦は、初めて治国別の知れる範囲内の言語を用いて、いろいろの談話を交ゆることとなった。

 

天国人の年齢

竜公『モシ珍彦様、この団体の天人は、いずれも若い方ばかりですな。そしてどのお方の顔を見ても、本当によく似ているじゃありませんか

珍彦『左様です。人間の面貌は心の鏡でございますから、愛の善に充ちた者同士、同気相求めて群居しているのですから、内分の同じき者は、従って外分も相似るものでございます。それゆえ、天国の団体には、あまり変わった者はございません。心が一つですから、ヤハリ面貌も姿も同じ型に出来ております

竜公『なるほど、それで分かりました。しかしながら、子供はたくさんあるようですが、三十以上の面貌をした老人は、ねっから見当たりませんが、天国の養老院にでもご収容になっているのですか』

珍彦『人間の心霊は不老不死ですよ。天人だとて人間の向上発達したものですから、人間の心は、男ならば三十歳、女ならば二十歳くらいで、大抵完全に成就するでしょう。しかして、たとえ肉体は老衰しても、その心はどこまでも弱りますまい。否ますます的確明瞭になるものでしょう。天国はすべて想念の世界で、すべて事物が霊的でございますから、現界において、なにほど老人であったところが、天国の住民となれば、あの通り、男子は三十歳、女子は二十歳くらいな面貌や肉付きをしているのです。それだから天国にては不老不死といって、いまわしい老病生死の苦は絶対にありません

治国『なるほど、感心いたしました。われわれは到底容易に、肉体を脱離したところで、天国の住民になるのは難しいものですなァ。いつまでも中有に迷う八衢(やちまた)人間でしょう。実にあなた方の光明に照らされて、治国別は何とも慚愧にたえません』

 

天国人の職業

竜公『天国においては、すべての天人は、日々何を職業にしていられるのですか。田畑もあるようになり、いろいろの果樹も作ってあるようですが、あれはどこから来て作るのですか』

珍彦『天人が各自に農工商を励み、互いに喜び勇んで、その事業に汗をかいて、従事しているのですよ

竜公『そうすると、天国でもずいぶん現界同様に忙しいのですなァ』 

珍彦『現界のように、天国にては人を頤で使い、自分は、金の利息や株の収益で遊んで暮らす人間はありません。上から下まで心を一つにして共々に働くのですから、何事にも埒よく、早く事業がはかどります。

 ちょうど一団体は、人間一人の形式となっております。たとえば、ペン1本握って原稿を書くにも、外観から見れば、一方の手のみが働いておるようにみえます。その実は、脳髄も心臓肺臓は申すにおよばず、神経線維から運動器官、足の指の先まで緊張しているようなものです。今日の現界のやり方は、ペンを持つ手のみを動かして、はたの諸官能は、われ関せず焉というやり方、それではとても治まりません。

 天国では上下一致、億兆一心、大事にも小事にも当たるのですから、何事も完全無欠に成就いたしますよ。人間の肉体が、一日働いて夜になったら、すべてを忘れて、安々と眠りにつくごとく、休む時はまた団体一同に快く休むのです。私は天人の団体より選ばれて、団体長を勤めておりますが、私の心は、団体一同の心、団体一同の心は、私の心でございますから……』

治国『なるほど、現界もこの通りになれば、地上に天国が築かれるというものですなァ。たとえ一日なりとも、こんな生涯を送りたいものです。天国の団体と和合する想念の生涯が送りたいものでございます

 

天国の婚姻

竜公『時に珍彦さま、奥さまとあなたと、双子のようによく似たご面相、その理由を一つ説明していただきたいものですなァ』

珍彦『夫婦は愛と信との和合によって成立するものです。いわゆる夫の知性は、妻の意思中に入り、妻の遺志は、夫の智性中に深く入り込み、ここにはじめて天国の結婚が行われるのです。言わば、夫婦同心同体ですから、面貌の相似するのは、相応の道理によって避くべからざる情態です。

 現界人の結婚は、地位だとか名望だとか、世間の面目だとか、財産の多寡によって、婚姻を結ぶのですから、いわば虚偽の婚姻です。天国の婚姻は、すべて霊的婚姻ですから、夫婦は密着不離の情態にあるのです。ゆえに天国においては夫婦は二人とせず、一人として数えることになっています。現界のように、人口名簿に男子何名、女子何名などの面倒はありません。ただ一人二人といえば、それで一夫婦二夫婦ということが分かるのです。それで天国において、百人といえば頭が二百あります。これが現界と相違の点ですよ。

 君民一致、夫婦一体、上下和合の真相は、到底天国でなくては実見することは出来ますまい治国別様も竜公様も、現界へお下りになったら、どうか地上の世界をして、幾部分なりとも、天国気分を造ってもらいたいものですなァ

 

天国の土地

五三 『治国別様、ご覧なさいませ、天国にもやっぱり農工商の事業が営まれています。そうしてあの通り、各人は一団となってその業を楽しみ、歓喜の生活を送っております。実に見るも愉快な光景じゃありませんか』

治国 『なるほど、実に各人おのれを忘れ、一斉に業を楽しむ光景は、到底現界において夢想だもできない有り様でございますな。そうして、やはり彼の天人どもは、各自に土地を所有しているのでございますか

 

五三『イエイエ、土地は全部団体の公有です。地上の世界のごとく大地主、自作農または小作農などの忌まわしき制度はございません。皆一切平等に、何事もご神業と喜んで額に汗をし、神様のために活動しているのです。そうして事業に趣味ができて、誰一人不服をとなえる者もなく、甲の心は乙の心、乙の心は甲の心、各人みな心を合わせ、何事もみなご神業と信じ、あの通り愉快に立ち働いているのです』

 

天国の貧富

治国『そうすれば天国においては貧者の区別はなく、いわゆる社会主義的制度が行われているのですか

五三『天国にも貧富の区別があります。同じ団体の中にも富者も貧者もあります。しかしながら、貧富と事業とは別個のものです

治国『働きによってその報酬を得るにあらざれば、貧富の区別がつくはずがないじゃありませんか、同じように働き、同じ物を分配して生活をつづける天人に、どうしてまた貧富の区別がつくのでしょうか

五三『現界においては、すべて体主霊従が法則のようになっています。それゆえ優れたるもの、よく働くものが、多く報酬を得るのは自然界のやり方です

 天国においては、すべてが神様のものであり、すべての事業は神様にさしていただくという考えを、いずれの天人も持っております。それゆえ天国においては、貧富の区別があっても、貧者は決して富者を恨みません。何人も神様のお蔭によって働かしていただくのだ、神様のご神格によって生かしていただくのだと、日々感謝の生活を送らしていただくのですから、貧富などを天人は念頭におきません。

 そして、貧富はみな神様の賜うところで、天人が各自が各自の努力によって獲得したものではありません。いずれも現実界にある時に尽くした善徳の如何によりて、天国へ来てもやっぱり貧富が惟神的につくのです。貧者は、富者を見てこれを模範とし、善徳を積むことのみを考えております。天国における貧富は、一厘一毛の錯誤もなく、不公平もありません。その徳相応に神から授けられるものです』

治国『天国の富者とは、現界においていかなる事をいたしたものでごいございましょうか』

五三『天国団体の最も富めるものは、現界にあるうちに、よく神を理解し、愛のために愛をなし、善のために善をなし、真のために真を行い、自利心を捨て、そうして神の国の建設のために心をつくし身をつくし、忠実なる神の下僕となり、かつまた現界において充分に活動をし、その余財を教会のために捧げ、神の栄えと道の拡張にのみ心身を傾注したる善徳者が、いわゆる天国の富者であります。つまり現界において宝を天国の庫に積んでおいた人たちであります。

 そうして中位の富者は、自分の知己や朋友の危難を救い、また社会公共の救済のために財を散じ、陰徳を積んだ人間が、天国に来って、大神様より相応の財産を賜り、安楽に生活をつづけているのです。そして天国でいただいた財産は、すべて神様から賜ったものですから、地上の世界のごとく、自由にこれを他の天人に施すことはできません。ただその財産をもって神様の祭典の費用にあてたり、公休日に天人の団体をわが家に招き、自費を投じて馳走をこしらえ、大勢と共に楽しむのでございます。それゆえに天国の富者は、衆人尊敬の的となっております

 

「貧しきものは幸いなるかな」

・竜公はしゃしゃり出て、

竜公『モシ五三公さま、もしも私が天国へ霊肉離脱の後、上ることを得ましたならば、定めて貧乏人でしょうな

五三『アゝそうでしょう。ただ今すぐに天国の住民となられるようなことがあれば、あなたはやはり第三天国の極貧者でしょう。しかし、ふたたび現界に帰り、無形の宝という善の宝を十分お積みになれば、天国の宝となり、名誉と光栄の生涯を永遠に送ることが出来ましょう

竜公『それでは聖言に、貧しきものは幸いなるかな、富めるものの天国に到るは、針の穴を駱駝の通うよりも難し、というじゃありませんか』

五三『貧しきものは常に心驕らず、神の教えにより、神の救いを求め、尊き聖言が、比較的耳に入りやすくございますが、地上において何不自由なく財産のあるものは、知らず知らずに神の恩寵を忘れ、自己愛に流れやすいものですから、その財産が汚穢となり、暗黒となり、あるいは鬼となって地獄へ落とし行くものです

 

永遠の生命

・宇宙においては一物といえども決してうしなわれることもなく、また一物も静止しているものではない。ゆえに輪廻転生すなわち再生ということはありうべきものである。

 しかるに生前の記憶や遺志が滅亡した後に、やはり個人というものが再生して行くとすれば、つまり自分が自分であるということを知らずに再生するものならば、再生しないも同じことであると言う人がある。実にもっともな言い分である。

 すべて人間の意志や情動なるものは、どこまでも朽ちないものである以上は、霊魂不滅の上からみても記憶や遺志をもって天国へ行くものである。

 しかし現界へ再生する時はいったんその肉体が弱少となるをもって、容易に記憶を喚起することはできないのである。また記憶していても何の益するところなきのみならず、種々の人生上弊害がともなうからである。

 これに反して、天国へゆく時はその記憶も意念もますます明瞭になって来るものである。ゆえに天国にては再生といわず、復活というのである。

 

人生の目的

・人生の目的は決して現界の幸福と歓楽を味わうのみではない。すべての人間は幸福および歓楽のみに執着して苦悩と災厄を免れんとのみ焦慮し、自愛的方面に熱中しておるようだ。しかし神様が人間を世界に創造したもうた使命は、決して人間が現界における生涯の安逸を計らしむるごとき浅薄なものではない。

 

・人間は神様の目的経綸をよくよく考察して、どこまでも善徳を積み信真の光を顕し、神の生宮、天地経綸の御使いとなって、三界のために大々的活動をしなくてはならないものである。また人間には直接天国より天人の霊子を下して生まれしめたもうたものもあり、あるいは他の動物より霊化して生まれたものもある。

 大神は初めて世界に生物を造りたまうや黴菌にはじまり、蘚台となり、草木となり、進んで動物を造りたもうた。まず虫となり、魚となり、貝となり、鳥となり、獣となり、最後に人間を生み出したまい、神は自ら生物を改良して、動物畜生の終わりに総ての長所を具備して、理想のままに人間を造られたと言っている学者もある。動物発生の前後に関する問題は、霊界物語を読まれた読者の判断にお任せすることとして、すべて人間は大神の無限の力を賦与され智能を授けられておる以上は、日夜これを研いて啓発し、神の境域に到達し得る資質を具有しておるものである。

 

・春生じて夏枯れる草も、朝に生まれて夕べに死する蜻蛉のごとき小動物も、種子と子孫を遺さないものは一つもない。動植物は生じては枯れ、枯れては生じ、生まれては死し、死しては生まれる。幾百千万歳、神は同じ神業を繰り返させたまうものである。

 

・宇宙の万物は神の生成以来万年間同一体にして、幾万年の未来に至るも変わるものではない。吾人は神が生成したまいし祖先来の肉体にして幾万年の未来までもこれを伝承し得るものである。

 すべて生物に死の関門があるのは神様が進化の手段として施したまうところの神のご慈愛である。

 

王仁がこの物語を口述する趣旨も、また人生の本義を世人に覚悟せしめ、三五教の真相を天下に照会し、時代の悪弊を祓い清め地上に天国を建て、人間の死後は直ちに天界に復活し、人生の大本分を尽くさしめ、神の御目的に叶わしめんとするの微意に外ならないのであります。

 

人間の死

・人間の肉体の死なるものは、決して滅亡でも、死去でもない。ただ人間が永遠に亘る進歩の一段階に過ぎないのである。ただ人間の所在と立脚地とを変更したまでである。意念も愛情も記憶も、みな個性の各部分であって、不変不動のままに残るものである。

 

・人間はいかにして肉体を脱離し、精霊界に入るかというに、この時の人間は睡眠にもおらず、覚醒にもあらざる一種異様の情態におるものであって、この情態にある時は、その人間は、ただ自分は充分に覚醒しておるものとのみ思うておるものである。しかして、この際における諸々の感覚は醒々として、あたかも肉体の最も覚醒せる時に少しも変わりはないのである。五官の感覚も、四肢五体の触覚も、特に精妙となることは、肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざるところである。この情態ににあって、天人および精霊を見る時は、その精気凛々として活躍するを認むべく、また彼らの言語も明瞭に聞くことを得られるのである

 なおも不可思議とすべきは、彼ら天人および精霊に親しく接触し得ることである。この故は、人間肉体に属するもの、少しもこの間に混入し来ないからである。この情態を呼んで、霊界にては肉体離脱の時といい、現界より見ては、これを死と称するのである。このとき人間は、その肉体の中に自分のおることを覚えず、またその肉体の外に出ておることをも覚えないものである。

 

 

 

『地球の雛型「日本」は世界一切を救う』

出口王仁三郎の三千世界テレスコープ

宇宙時空の構造の特異な「場」

伊達宗哲   ヒカルランド   2011/9/30

 

 

 

朝鮮半島を発火点として東アジア戦争—―朝鮮から中国そして米ロの最終戦

アメリカとソ連は必ず戦争する

・太平洋戦争の最中の昭和19年6月、保釈を受けていた王仁三郎は、中矢田農園内の一室で信者に「この次の第3次世界大戦の緒戦には、小松(※石川県小松市)は家一軒残らんぞ。よほどしっかりした信仰を持っておらんとあかんぞ」と告げました。(※著者)

 この如是我聞は、大元信者の瀬領貞道氏談・油谷靖通氏筆録によるものですが、同氏は「小松はめぼしいものと言えば、小松製作所ぐらいなもので、何故こんなことを申されるのかと思うていたが、小松飛行場がそのうち出来、現在では日本有数の自衛隊の基地になっていることを今更ながら驚いている」

 

・以上の王仁三郎の予言・警告を取りまとめますと、朝鮮半島では、経済的崩壊に危機感を抱く北朝鮮を発火点とした戦乱。中国は半島の戦乱と国内の貧富の格差から来る内乱などにより大掃除(立替)されていくものと思われます。

 そして人類の最終戦は、中東発のイスラエルアラブ諸国の戦乱、朝鮮半島の戦乱を機に、ロシアと米国によって戦われ、米ロ戦の勝者は、ロシアになりそうです。

 米ロ戦の勝者がロシアということは、米国の軍事同盟国日本においては、少なくとも一時的にせよ国土の一部(北海道・東北の一部等)は、ロシアの制圧下に置かれることになりそうです。

 

・今後、世界的な戦乱に日本もまた飲み込まれていくことになりますが、日本は必ず不死鳥のように復活していきます。

 そして、この日本再生の道筋が、同時に世界が新しき文明へと向かう道筋に連なっていきます。

 米ロ戦の勝者ロシアは、最終的に大三災でその国力が削ぎ落とされ、世界支配の覇権を失っていきます。

 

日本を襲う社会主義革命――私有財産の否定から神有財産への精神革命

・私たちは、王仁三郎の警告の真意を悟り、魔の想念世界へ堕ち込む

を乗り越えなければなりません。

 以下は、表面的な出来事に相違はありますが、今後の日本を含む

本質的な混乱崩壊の流れです。

 

天変地異や大恐慌の吹き荒ぶ混迷時代に、政治家は、時代を解し的確な施政を講ずることなく、あらゆる虚偽と罪悪と権謀術数を以て施政の大本となし、国民に重税を課して膏血を絞り、貧富の格差は益々拡大していくことになります。

物価は日ごとに暴騰し、富裕層と貧困層の貧富格差があらゆる生活の隅々に行き渡り、富裕層は政治家・官僚と結託して暴利を貪り、贅の限りを尽くします。

貧困層は生活難から教育、医療も受けられず、交通機関も利用できず、日夜飢えと寒さに震え、自殺者は日々急増し、下層社会は暗黒界の様相を呈していくこととなります。

 

民衆の憤怒怨嗟の声が騰がり、全国各地で民衆大会が頻発し国政を糾弾し、全国一斉示威運動が起こります。

国家は治安維持に強権を発動し民衆を弾圧し、大規模な流血惨事を招き、独裁警察国家と化していきます。

 

人々は蔓延する絶望感から腐乱の国政に業をにやして暴徒化し、全国いたるところで治安が乱れ犯罪が横行し社会秩序は混乱を極め、そしてついに内外にうち続く経済戦・・思想戦・世界大戦の世界情勢と呼応して社会主義革命の火の手があがることとなります。

 

王仁三郎は、前述したとおり、日本の立替と世界の立替について、日本は共産主義により立替えられること、世界も米ロ戦争によって共産主義の天下となることを予言しています

 日本の社会主義革命は、世界の雛型日本で私有財産制の廃止を経て、国民の財産は全て公有財産となり、さらに昇華して公有財産の一切が、天地宇宙の霊妙な活動力が生み出した神有財産であるとの精神革命が起こり、やがて大家族主義的共同体社会へと向かう必然的道程として起こるのです。

 

聖人の国際会議による理想社会――新時代を担う12人の霊的指導者が出現

・新時代を担う12人の聖人が、世界大転換期(世の大峠)に向かう過程で、天変地異・飢饉・疫病・戦乱などが次々と発生しますが、私たちは神の内流を受けて神の摂理を理解しつつ、この転換期を乗り越えることになります。

 新時代を担う12人の聖人が、世界各地の神定の地で真に霊性に目覚めた人々の中から出現し、それぞれの地域で精神的救世主として人々を導き、真理と愛善に基づいた世界を築いていきます。

 

霊性を発達させる都市構造――人々は高原地帯に住み都市は10万人となる!

・「みろく世」では、人々は現在の都市型居住から、自然環境に富んだ山間自然ゾーンの高原地帯に居住することとなります。

 

・都市構造は、現在のように大都市人口集約型ではなく、大都市でも10万人となり、各都市は一つの地域経済ブロックに属し、各都市に住む人々の全ての生活用品を製造し供給するセンターが各地域ブロックごとに一つ作られます。

 人々は、高度に発達した通信システムを利用し、必需品を注文するとそこで制作され、各地に送られてきます。

 以上のような都市構造が、基本となり、やがて人々は、自然と同気相求め合い、同じ意思想念の者が愛の徳によって集まり、一つの団体を形成し同一住宅地域に住みます。

 

農業が中心産業となる――「みろくの世」の基幹産業と労働時間

・労働は、農業に従事することが基本となり、事実上の国民皆農制になるので、毎日国民が1時間ずつ、季節に合わせて農業に従事すれば、各自天賦的に発生する土地の生産物をもって需要供給のバランスが保たれることとなります。

 

霊徳によって治める社会の出現――基幹産業の農業を支える農村組織と政治

王仁三郎は、未来において産業は農業中心の産業構造となると言っており、その農村社会の組織について、「みろくの世」では、一人の人間が、霊徳により地域の政治経済を司る主要な役職を兼務して地域を治めるようになると予言しています。

 

「みろくの世」の労働と休暇――月に5連休の休暇を取って有意義に働く

・「みろくの世」では、霊徳に富んだ者が公的仕事に従事し、人々のために最もよく働くことになるようです。

 公的仕事に従事する者は、人々のために誠を尽くして質においても、量においても最も多く働くこととなるため、午前中のみの勤務となります。

 全ての分野の労働者に対し労働休暇日は、1月の中で5連休とされます。

 人々は自由な休暇を謳歌します。

 

機械文明の発達を意図的に止める—―オーダーメードの手作り品が主流となる

王仁三郎は、極度な機械文明の発達は、人間が身体的活動をとおして労働し物を製作する創造の喜びを奪うことになるので、「みろくの世」になったらその発達を止めると言っています。

 また、大規模工業製品は、ロボット工学などの発達より生産効率が上がり、かつ需要分のみ生産するため工場労働者の労働時間は極度に短縮されていきます。

 人々は、科学技術の粋を集約して小規模化・精巧化した製作機器を駆使して、需要分のみ工業製品を作り、工業製品は人々の役に立つ機能性・創造性に富んだオーダーメイドの手作り品が主流となるようです。

 農村共同体的な都市で、人々は農夫であるとともに、工業家、芸術家、科学者など多様な分野の労働に自由に参加したり、あるいは自分の特性に応じた分野で主たる職に従事することとなりそうです。

 また、工業製品の譲渡に際しての対価は食料品で決済されることとなります。

 

「みろくの世」の経済社会制度――私有財産制・租税制度の廃止

王仁三郎の想定している「みろくの世」の国家は、大家族主義を根幹とし、国家経済の根本義は国民全般に安定した衣食住を保証することを第一義とします。

 このため、私有財産は、基本的に神有財産として取り扱われ、租税制度は廃止されます。

 みろくの世では、食料は、日本国内において生産されるものをもって、国民の食を養い、各戸の人数に応じて頒与されます。

 衣服は気候風土に適し、人格に応じ、職業に応じ、礼節に応じ、待遇に応じたる服制を統一して数量を定め、節制をもって過不足なく提供されます。

 住宅は、職に応じ家族の多寡に応じた家屋が供給されます。

 

霊徳文明の個人資産――1人10万円しか持たせぬ

・「みろくの世」では、私有財産は制限され、人々は一定の金額しか通貨を持たず、どんなに収入を得ても一定額を超えた分は全て献上し、富より名位を求めるようになります。

 王仁三郎は、神界の神人の身魂は、その霊能の活用如何の優劣により181階級になっていると言っています。

 みろくの世では、神界と現界は、合わせ鏡のように相応して一体化するため、現界の人々は、身魂の霊性に応じて181階級になりますが、善徳に応じて自然と富が集まりますので、より善徳のある者が富を献上することとなり、階級が上がります。

 人々は、富者を見てこれを模範とし、善徳を積むことのみを考えて地上天国の建設に勤しみます。

 

・みろくの世になっても通貨はあるが、一人10万円だけしかもたせぬ。それ以上は引き上げるので引き上げられる前に献上するようになる。181階級になるが上がることは出来る。(『新月の光』昭和19年

 

高度に発達する交通と通信システム—―精巧無比の飛行体天の羽衣

・世界の立替時に今の文明の交通機関・通信機関だけが、みろくの世の建設のために残され、他は全ていったんなくなり、その後新たに創造されていきます。

 交通機関としての中空を飛ぶ飛行機は廃止物となり、飛行機に該当する空中を飛行する天の羽衣という精巧無比の機械が発明されます。

 さらに、新たな空中交通機とも呼べる鳥の翼のような飛行機械が発明され、人々はこの機械を体の一部のように身につけ、高く空中に飛び揚がり、空を飛びまわることができるようになります。

 現在の汽車に当たる交通機関は、時速5百マイル(804.7km)のスピードで宙を走ります。