日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

「うちの先祖は江戸時代に釜石にやってきて、そこで河童をつかまえたという話があってね、実家にはいまでも先祖代々に伝わる河童の掌紋が残っているんだよ」(1)

 

 

『悪党』

小沢一郎に仕えて

石川知裕  朝日新聞出版    2011/7/7

 

 

 

悪党

私は小沢一郎に20年近くも仕えてきた。その日々をある人は「薫陶」と呼び、ある人は「洗脳」と呼ぶ。

 カネを増やし、子分を束ね、権力を自ら握って、世の中を動かそうとする。たとえ少数派であっても、流れに逆らうことをいとわない。謀略の限りを尽くし、敵と見なした勢力を奈落の底に追い込む。しかし、いつも最後は、英雄になれない。

 人は、そんな小沢一郎を「悪党」と呼ぶ。

 そして、私はそんな悪党の一味と見られている。

 

・私淑する作家の佐藤優さんは、かつてライブドア・ニュースに寄せたコラムで小沢一郎のことを「平成の悪党になれ」と書いた。彼の意図するところは、マスコミが多用する「犯罪者」ではない。南北朝時代南朝後醍醐天皇として大暴れした楠木正成が束ねた野武士集団をイメージしている。

 

小沢一郎をテーマにした著書もさまざまだ。調べられる範囲で100冊を超える。

 

水沢暮らしで学んだ「攻略法」

・小沢が中学生まで過ごした水沢の家に、私は「小沢家のすべてを知る女性」と一つ屋根の下で暮らし始めた。

 女性の名は小野寺サチ。周囲から「さらバア」と呼ばれていた。市の野球協会の会長をしていた彼女の兄が「うちのサチを使ってくれ」と言ったそうだ。小沢が小学校5年生の頃から小沢家に仕えた。「わだしは50年以上もいるんだから」というのが口ぐせで、小沢一郎の留守を預かっていることを誰よりも自負していた。

 

・「いいか、石川。点と点を結んで面を広げるんだ」

 東京に一時的に戻った時、チュリス赤坂の部屋で小沢は、机の上に選挙区内の地図を広げ始めた。点が打たれているのは民主党公報板が置かれている地点。広報板とは、党のポストターが張ってある看板のことだ岩手県の内陸部の2郡3市にまたがる岩手4区には340カ所あった。それを、小沢は「1500に増やしてこい」と言った。

「無理っすよ」と叫びたくなったが、小沢を前に直立不動の私は反論できない。

 

・さらに小沢から追加ミッションが下された。「新聞は年4回にするぞ」

 小沢の地元では、政治活動を広報するための後援会便りを「新聞」と呼んでいた。後援会のメンバー一人当たり20部渡され、計8万部を配布する。その地域では、「新聞」はへたなコミュニティー誌より読まれている。「新聞」はそれまで数年に1度だった。

 小沢の命令は常に一方的だ。我々秘書の仕事は後援会の幹部を説得するところから始まる。そして実際に動いてもらうまでは私は連日頭を下げに走る。

 

・「石川、そろそろ行こうか」

 私の背後で親指と人さし指で作った輪を口元で45度傾けるしぐさをしているオッサンがいる。地元採用の秘書の小野寺誠太郎さんだ。40代半ばの独身だった。日も暮れてくると私は誠太郎さんに「水沢の夜」を付き合わされる。

 

・「百杯のお茶より一杯の酒

 岩手の人は口が重い。酒を飲む関係にならないと信頼は生まれない。岩手で勝つには酒が不可欠だということも、誠太郎さんに教えられた。しかし、そんな酒好きがたたったのか、誠太郎さんは2001年になって脳梗塞で倒れてしまった。いまも療養している。

 

・私は深沢時代を思い出した。事務所に入りたての頃、小沢一郎を自宅に送れば先輩は自由の身になるが、私は書類のヤマとのにらみ合いが始まる。小沢の手紙を封筒に詰める作業である。

 以前はよく地方選でも小沢一郎が応援演説に入った。そこには1千人規模の支援者が集まる。小沢が東京に帰ってきても、応援候補者を後押しするために「応援よろしく」という手紙を参加者全員に送ることにしていた。小沢が出す形なら選挙違反にならないし、有権者には「小沢一郎から手紙が来た」と喜んでもらえる。そのために、私は夜を徹して作業に明け暮れた。

 

カネとオンナと月収12万円

・小沢事務所に入った時の初任給は月12万円だった。

 秘書1年目は深沢に閉じこもり、世間との接点が薄かった。そのせいか、カネを使う機会はあまりなかったし、サラリーマンになった大学時代の同級生とは別の道を歩んでいるという自覚もあったので、「月12万円」が多いとも少ないとも感じなかった。

 

・国会議員は秘書を3人まで公費でまかなうことができる。20代だと、政策秘書で年収800万円、公設第1、第2で500万~600万円というのが相場だろう。小沢一郎は、原則的に「国会議員を目指す秘書は公設にはしない」と決めていたと思う。「政治家になりたい人間が税金で働いていいのは選挙で当選した場合」という考えがあるのだろう。

 

・それでも、公設になれるチャンスが3度訪れた。

 1度目は、大久保隆規さんに譲る形になった。大久保さんは30歳で釜石市議に初当選し、2期目の途中の1999年4月に市長選に打って出た。相手は元社会党国会議員の小野信一さん。大久保さんは自民党自由党の両方から支援を取り付けて戦ったが、僅差で落選。しかし、それがきっかけで小沢の知遇を得た。

 私は大久保さんより4年ほど早く事務所に入っているため、秘書としては一応先輩だが、年齢は大久保さんよりひと回り若い。

 

・「オレは自分の支援者を先生の支援者になってもらっているんだ。おまえらは小沢先生にただぶらさがっているだけだろう

 大久保さんは、独特の甲高い声質の早い口調で若い秘書にそう言っていた。

 木戸口さんが岩手県議選に出たため、公設秘書の枠が空いた。私はやはり大久保さんが適任だと思っていた。深沢の朝の打ち合わせで、小沢は言った。「大久保、おまえが公設をやれ」

 

・公設秘書になる2度目のチャンスでは、高木雅子さん(仮名)に譲った。「キャリアウーマン」という表現がもっとも似合う、何でもかんでもテキパキとこなしてしまう美人だ。赤裸々に書けば、私は生まれて初めて女性に嫉妬した。当時は「政治家になるのはやめよう」と思い、秘書を続けていこうと考えたこともあって、追い越されてしまって不機嫌になった。

 小沢一郎は女性に「弱い」ということはないが、「甘い」のは確かだ。

相手が政治家であっても、秘書であっても、女性からの相談には必ず時間を割く。

 

これだけ国民に嫌われる政治家も珍しいが、意外に女性には人気がある。全国後援会の一つに女性経営者の会があるぐらいだ。経営者、特に女性の場合は言いたいことを我慢して仕事をしている。いつも社会から批判されてばかりいるのに文句一つ言わない小沢と自分が重なるのだろう。秘書時代によく、「言い訳しないところが大好き」と女性にとって働きやすい職場ではあるかもしれない。選挙で男性秘書たちが応援に入っている間は、女性秘書が東京を仕切る。さまざまな責任を任されるわけだから、はじめはお茶くみばかりやらされていてもキャリアの幅は自然と広がってくる。それなりに勉強してきて、それなりの人から紹介があった女性ばかりだから、やはり仕事のおぼえも早い。

 

・公設秘書になる3度目のチャンスでは、私は候補者として選挙区が決まる直前だったため「無理」ということになった。

「石川さんは優秀な秘書を見つけるのに困らないでしょう」

 よく同僚議員からそう言われる。「系列」とか「のれん分け」とかいう形で、小沢がヒト・モノ・カネを融通してくれると思ったら大間違いだ。繰り返しになるが、小沢は身内に厳しい。秘書が政治家になったら政治家として扱う。小沢事務所が秘書をあてがうことはないし、「同窓会」なる互助会があるわけでもない。「小沢一郎にはできるだけ近づくまい」

 私は国会議員になった時、こう決意した。元秘書がその立場を都合よく利用しているように見られたら、小沢にも迷惑をかける。私は先輩の樋高さんとも馴れ合うつもりはなく、政治家として付き合っている。

 

・私は2000年9月から事務所で企業回りを任されていた。パーティ

―券を売るだけでなく、支援者から子息の就職の世話も頼まれた。そこで小沢に相談はしない。すべて自己流でこなした。

 

・私は、樋高さんの後任としてその仕事をやらされた。まず、ネットを通じて個人献金を集める仕組みを作った。「小沢一郎ホームページ」にアクセスすると陸山会政経フォーラムのアイコンがある。ネット上で入会申し込みができるようにしたのだ。

次に、献金元の新規開拓に着手した。用意したのは、最新の会社四季報と大学ノート。「岩手県出身」「慶応大学経済学部」「岩手工場」など小沢と共通点が見出せる社長がいる会社のページをコピーし、ノートに張り付け、その会社に関連したページにする。それから飛び込み営業をかける。

 

・しかし、それでも、私が担当している頃はカネ集めに苦労した。自民党幹事長になると財界が全国に後援会を作る習わしがあり、小沢にも各地に「一政会」という後援会があった。ところが、自由党参院選を戦った1998年、名簿を頼りに会員企業を回ってもまったく相手にしてもらえない。

小沢には相当こたえたのだろう。企業回りの最中、車の中で2人になるとこうぼやいた。

石川、財界なんて野党になったら全然相手にしてくれないよ

私は言葉を返すことができなかった。

 そんなこともあって、小沢は企業献金よりも個人献金に力を入れはじめた。

 

政権交代の犠牲者

・最近になってようやく一人の国会議員として小沢一郎に認識されるようになってきた。

 2011年3月初旬、私は小沢と面会した。チュリス赤坂とは別の「元赤坂タワーズ」というマンションに入る事務所で、新年会以来3カ月ぶりに顔を合わせた。

 永田町では菅政権の政権運営に危機感を抱いた民主党議員が会合を重ね、野党は倒閣の狼煙を上げはじめた。専業主婦の年金切り替え問題が転がり込み、細川律夫厚労相の問責が通れば、「いよいよ解散か総辞職」という空気が流れていた。

「細川は『知らされてなかった』と言うけれど、あれじゃ無責任だ。辞めるしかなくなるぞ」

 政局の話になると、小沢は淡々とそう語った。そして、続けた。

「管はもたないかもしれないな」

 

悪党とウェーバー

佐藤優さんとの勉強会は逮捕から3カ月後の2010年4月15日に始まった。「石川さん、独立した一人の政治家として民主党小沢一郎先生の行動をアカデミックにとらえ直してみませんか」「それ、面白そうですね」

 

・「石川さん、どうして普天間問題が迷走しているかご存知ですか」

「うーん。トップの指導力不足とか、決断力の欠如とかでしょうか」

外務官僚の集合的無意識です

「シュウゴウテキムイシキって何ですか」

 偏差値エリートが国家を支配すべきで、無知蒙昧な有象無象には任せてはおけない。そういう無意識を霞が関の官僚たちは共有しているという。たとえ政権交代で、政治主導で、政策が変更される意思が明確になろうと、霞が関の意思と反すれば官僚たちは看過しない。普天間とは、外務官僚が国家を支配することを裏付けるシンボル、つまり政治家に踏まれたくない「地雷」だったのだ。

 

天皇制と「集合的無意識

佐藤さんは勉強会のテキストをマックス・ウェーバーの『職業としての政治』に決めた。「誰が国家を支配するのか」というテーマを読み解くのに最も適した本だからだ。

 この章は他と比べて少し難しいところもあると思うが、ウェーバーの言葉をゆっくり味わいながら小沢一郎を思い浮かべてもらいたい。

「官吏にとっては、自分の上級官庁が……自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に………執行できることが名誉である。(中略)官吏として倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任であり、(中略)こうした人間が……指導的地位にいていつまでも跡を絶たないという状態、これが『官僚政治』と呼ばれているものである

 普天間に当てはめると、政治的指導者が責任を持って「移設」と言えば、官僚は自己否定してまでもそれに従わないといけない。つまり、官僚は政治をするべきではないし、巻き込まれてはならない。これをウェーバーは明記しているが、小沢一郎も同じ考え方を持っている。

 1969年、27歳の小沢一郎は初陣の選挙公報にこう書いた。

このままでは日本の行く末は暗澹たるものになる。こうした弊害をなくすため、まず官僚政治を打破し、政策決定を政治家の手に取り戻さなければならない

 

政治を天職と言える人間の資質

・検察の場合、宮内庁が語る「中立性・公平性」に当たるのは合法性、言い換えると正義になる。彼らの意思を政治家に意識させ、「正しい政治」に誘導しようとする。それが彼らの集合的無意識だ。小沢一郎つるし上げの背景にはそういうロジックがあるんだろうと、私は実際に捕まってから思い知ることになる。

善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実である(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である

 と、ウェーバーが記すのはそういった官僚の集合無意識の弊害であり、さらに次の部分から政治家としてそれにどう立ち向かうかが読み取れる。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が……どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ

 

政治には金が必要だ

・もう少しウェーバーを引用しながら、小沢一郎を思い浮かべてもらいたい。

 ウェーバーは、政治家を分けるのは「経済的な側面」であると言っている。政治のために生きる、つまり政治に専念し、結果を出すにはお金が必要になる。

「政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治『によって』生きる者であり、そうでない者は政治『のために』ということになる。(中略)ずばり言えば、恒産があるか、でなければ私生活の面で充分な収入の得られるような地位にあるか、そのどちらかが必要である

 

小沢一郎は二世政治家ではあるが、選挙民が選んだ人がその地域の代表になるべきだという考え方を持っている。恒産のある世襲議員であれ、そうでない者であれ、政治家が官僚に立ち向かうには政治家を強くする必要がある。この国には「政治資金=汚職」というイメージが根強いが、政治のために生きてもらうには、議員歳費を当てにするようなサラリーマン政治家がいては困るのだ。政治家が税金で賄われる生活に安住し、追従者に

堕してしまえば「第二官僚」に過ぎない。

「政治によって」生きる政治家が増えるとどんなことが起きるのか。小泉チルドレンがいい例だ。

 

・「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である

 これは『職業としての政治』の中でも最も有名な言葉だが、ここで示されている「判断力」とは将来を見通す力だということだ。国民が民主党政権に期待したのは、官僚主導政治の打破に違いない。その推進役になるはずだったのが副大臣政務官だった。その制度は小沢が提唱し1999年に自自公政権で合意した。

 

小沢が部屋に掲げる「原敬

民主党でなかなか進まない政策の中に、企業・団体献金の廃止がある。その抵抗勢力となっているのは意外にも岡田克也さんだが、廃止を言いだしたのも意外ながら小沢一郎なのだ。

ウェーバーはこう書く。

「国家や政党の指導が、(経済的な意味で)政治によってではなく、もっぱら政治のために生きる人によっておこなわれる場合、政治指導者層の人的補充はどうしても『金権制的』におこなわれるようになる。(中略)政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要だ」

 小沢一郎は政治家個人への企業・団体献金を禁止する代わりに、ウェーバーの言う「定期的かつ確実な収入」として政治活動費を公費で助成する考えを示した。『日本改造計画』では、中選挙区制が助長して「『政治とカネ』をめぐる問題が相次いで起こっている」として、「政治のために生きる人」が主導する政治を目指して小選挙区制度を打ち出している。

 

・チュリス赤坂の小沢の部屋には原敬の写真が飾ってある。それも、金庫の上にある。『日本改造計画』にも尊敬する政治家として原敬を挙げていたが、2人は発想が似ている。

 政党政治の実現、つまり政権交代には資金力が必要だということを小沢一郎が自覚していた。公募で選ばれた元サラリーマンたちを一人前の政治家に育て上げ、世襲自民党議員に勝たせないといけない。2009年の総選挙の直前、自らの資金管理団体を通して民主党の立候補予定者91人に総額4億5千万円を配った。それはすべての献金先と金額を「公約」どおり政治資金収支報告書に包み隠さず記載しているから国民に明らかにされている。

 

政党政治の「ボス」とは

小選挙区制度の導入によって派閥から政党中心の政治に切り替わる。小沢はそれが好ましいとするが、「党執行部に権限が集中しすぎて寡頭支配になってしまう危険性がある」とも著書で自らデメリットを指摘している。

 ウェーバーもこう書いた。

すべての権力は党の頂点に立つ少数者の手に、最後には一人の手に集中されることになった

 19世紀後半のイギリスでも、労働者にも選挙権が拡大され、小選挙区が設けられた。改革を主導したグラッドストンは保守党を離党して立ち上げた「自由党」の党首として腐敗防止に努めた。しかし、その結果、イギリスの国会議員は、「2、3の閣僚(と若干の奇人)を除いて、一般に訓練の行き届いたイエス・マンに過ぎなくなっている

 そしてウェーバーは、政党政治によって生み落とされる「ボス」についてこう書いている。「ボスは弁護士として、居酒屋の主人やそれと似た経営主、時には金貸しとして、まずわたりをつけ、そこから自分の網を広げていって、一定数の票を『コントロール』できるようになる。(中略)典型的なボスは徹頭徹尾冷静な人間である。彼は社会的名誉を求めない。『プロ』のボスは『上流社会』では軽蔑されている。彼は権力だけを求める。財源としての権力を、しかしまた権力のための権力だけを求める。(中略)公の場所でボスの演説をきくことはないであろう」まさしく、小沢一郎である。

 こうして読むと、ウェーバーの『職業としての政治』は小沢一郎を読み解く哲学書と言っても過言ではない。

 

<「共産党は一番政党らしい」と小沢は言った

ただし、ひとつだけウェーバーの「理想」にかなっていない点がある

「最も近代的な政党組織(中略)を生み出したのは民主制、普通選挙権、大衆獲得と大衆組織の必要、指導者における最高度の統一性ときわめて厳しい党規律の発達である。名望家支配と代議士による操縦は終わりを告げ、院外の『本職』の政治家が経営を握るようになる

 小沢一郎は四つの政党を作ってきた。新生党新進党自由党、そして合併による新しい民主党だ。新生党自由党には綱領が存在するが、新進党民主党には綱領が存在しない。

 

・「おい、石川、共産党は一番政党らしいんだぞ。街頭で大衆に訴え、選挙区をくまなく歩き、党収入は党員からまかなっている。厳しい党綱領もちゃんと守っている。たいしたもんだ」民主党には綱領はいまだ、ない。

 

小沢の復権シナリオ

チャーチル小沢一郎は生い立ちも似ている。互いに父は保守政治家で、チャーチルの父は蔵相、小沢の父は建設相だ。また、2人とも受験に2度失敗している。チャーチル陸軍士官学校の試験に2度失敗し、小沢も東大法学部を目指して2浪しても不合格で、仕方なく慶應義塾に入学した。2人とも何度も挫折を味わいながら、若くして父を失い、その後、政界で頭角を現した。

 

悪党とサンデル

アテルイをご存知だろうか。

 中学校の歴史教科書に載っていてもあまり触れられていない人物である。1200年前、東北地方の住民を率いた。東北地方まで勢力を広げようとした朝廷がいまの岩手に派遣したのが坂上田村麻呂である。アテルイは抵抗を続けた末に田村麻呂に捕らえられ、京都で処刑される。田村麻呂は、朝廷の意向どおりに東北を制した「征夷大将軍」として歴史に名を残すことになる。

 朝廷側から見れば、蝦夷は日本統一を妨げる「悪党」にあたり、彼らの英雄・アテルイの行動は秩序を脅かす「反乱」にとらえられている。

 しかし、小沢一郎アテルイにただならぬシンパシーを抱いてきた。

 ジャーナリストの本多勝一さんのインタビューにも、こう答えている。

「先祖はその昔『俘囚』と呼ばれ、大和朝廷に最後まで反抗した。アテルイは1200年前だ。僕は、末裔として反骨精神が強いと思うが、ものの考え方は論理的、合理的だ」

 

リーマン・ショックがなければ、政権交代もなかったかもしれない。それに、サンデル・ブームもなかったかもしれない。サンデル自身が小泉構造改革のような行き過ぎた自由主義である「リバタリアニズム」に対抗してきた論客だった。あの講義録を読み返すと、リバタリアン批判の書であることがわかる。実際にあの授業はブッシュ政権の真っただ中に撮られたそうで、まさに「小泉に挑む小沢」にも似た構図で行われたものだった。

 

対決 小沢一郎が語った「原発」「遷都」「復権

どうして岩手に原発がないのか。>

・(小沢) オレもあまり積極的に引っ張ってこようという気はなかったな。まあ、あの、みんなアレなんだよ、交付金狙いだから。だから、事故が起きない限りはカネをいっぱいもらうからいいっちゅうことになったけど、いまにして考えれば事故が起きて現地の人も大変だし、国全体が大変なんだ。

 

東京を遷都せよ

・(石川) 『日本改造計画』を先生が書いてから20年近くたっています。その続編を練られて書いているそうですが、これからの東日本、故郷・岩手の復興をどうするのか。小沢先生の考えが非常に興味深いところですが。

(小沢) うん、岩手は原発がなかったから、現時点ではそれほど(放射線による)被害はないけどね。三陸でもまるっきり被害がなかった地域が2カ所ぐらいあって、それは明治のときの村長さんが組織ぐるみで高いところに移住させたわけだ。それが先見の明というかな。今回の津波から地球を守ったちゅうことになるわね。

 

・(石川) かつて小沢先生は、遷都論、東京直下型地震が起きた場合に備えて、別の場所に都市機能を作っておくべきだと主張されていました。

(小沢) ボクは基本的に遷都論なんだ。ワシントンとニューヨークみたいに政治都市と商業都市というように分けてやったらいいと思う。都市の寿命という議論もあるんだけど、だいたい400年と言われているんだ。

 

・安全保障の問題から、それは戦争という意味じゃなくて防災とかいろいろな意味で、オレは日本も政治都市と経済都市に分けたほうがいいと考えている。

 

ゆでガエルじゃダメだ

危機だからこそ強力な政権とリーダーを作らなければならない

・(小沢) リーダーのせいではあるけど、それ以前に日本人自身の問題だな。よく言うように、国民のレベル以上のリーダーは出ねえんだよ。衆愚の中からは衆愚しか生まれない。だから国民のレベルアップをしないといいリーダーも育たない。

 

・(小沢) 「一億玉砕」と言ったら朝日新聞は嫌がるかもしれないけど、そうやって新聞が煽って、一億まとまって戦争やったら負けちまった。丸く収めようとしたら、意見は封殺される、リーダーは出てこない。日本人の泰平なゆでガエルの発想では危機は乗り越えられなかった。いまもそうだ。

 

・(小沢) お前も、まだまだだな。いまの民主党の欠陥は、俗に言う「雑巾がけ」、基礎的な鍛錬、基礎的な勉強をしないで偉くなっちゃったヤツばっかなんだよ。だから危機が起きるとどうしたらいいかわからなくなるんだよ。基礎的な修行を積み、経験を積み、知識を積み、そしてこういう時はこう、ああいう時はこうと、自分の価値判断基準、政策判断の基準っつうのが自然と作られてくる。それがピョンと偉くなっちまったもんだから。

 

被災した一人の悪党

・被災者の中に、「悪党」の一味がいた。事務所で一緒だった大久保隆規さんだ。

 2011年3月11日、岩手県釜石市を大津波が襲った。

岩手県小沢一郎に仕えた者にとって、第二のふるさとです。

 

・「大久保さん、生きているよ。奥さんと高台に駆け上がって助かったそうだ

 大久保さんの弁護人で小沢事務所の先輩でもある南さんから連絡が入ったのは、震災から1週間後だった。私は南さんに送られてきた大久保さんの写真を見せてもらった。めちゃくちゃになった自宅の前で、妻いずみさんとツーショットでスマイル。自宅の裏手にある高台に続く階段に立ってスマイル。津波が来た時は大久保さんのことだから近所に声をかけて、高台に誘導したのだろう。写真の中の大久保さんは元気そうだった。

 

・2011年のゴールデンウィーク、私は後援会の人たちと室蘭からフェリーに乗り、石巻から被災地に入り、岩手を目指した。秘書時代にお世話になった方々の安否を確かめ、復興についての政策提言を練り上げるための調査をしてきた。

 釜石港の近くも通ったが、被告同士という例の決まりで大久保さんに会ってはいない

石川ちゃん、うちの先祖は江戸時代に釜石にやってきて、そこで河童をつかまえたという話があってね、実家にはいまでも先祖代々に伝わるかtぅパの掌紋が残っているんだよ。河童の血で何かを書いたらしいけど、いま見ると墨で印を書いた感じになっていてさ

「え、それ、まじっすか。見たいっすね」

「釜石まで来たら見せてあげるよ」

 大久保家のある集落を横目で見ながら、私はそんな懐かしいやりとりを思い出し、河童の掌紋の行方を大久保さんの家族の安否と同じくらい気にしていた

 

中選挙区時代の名残か、いまでも家々には小沢一郎のポスターが張られている。

 軒先でお年寄りと立ち話になると、小沢の父・佐重喜との思い出を話す人が多い。

このあたりに電話線を引っ張ってきてくれたのは佐重喜先生なんだ

 その一帯は小選挙区制で「岩手3区」となり、小沢の選挙区ではなくなった。それでも、選挙があると支援者から小沢の応援演説をお願いされるのだが、いつも小沢の返事は同じだった。

あそこは後援会が残っているんだからオレが入る必要はねえ。おまえらでがんばれ

 

「小沢先生が地図の上でマーカーを引っ張ったらその通りに道路ができた」という伝説はその地域では枚挙にいとまがない

 現在、岩手3区の小沢大票田を守る黄川田徹先生は、もともと陸前高田市役所の職員だった。小沢後援会の陸前高田支部で幹部をしていた黄川田源吉さんの家に婿養子に入り、県議会議員になった。源吉さんは先代が急逝した折に若き小沢一郎に立候補を迫った一人。言わば「悪党」の生みの親みたいな存在だ。

 

得体の知れない白い刺し身

リアス式海岸の数ある入り江には人口1千人ほどの漁村が点在している。特に思い入れがあるのは大船渡市の北部に位置する旧三陸町の集落だ。震災後の現地に足を踏み入れると、記憶とはまったく違う風景が広がっていた。帯広から運転してきたトヨタ・ガイアで山から集落があった方向に下っていくと、瓦礫の山だけが残っていた。私は言葉を失った。

 

・テンの毛皮は高級品とされ、この辺りでは副収入源になっている。

 

・「なんですか、これ」「マンボウの刺し身だよ」

 醤油の代わりに酢味噌をつけ、口に運んだ。感動はわかなかった。味よりもコリコリした触感を楽しむ魚だ。コッテリ好きの20代には、出会うのが10年早い魚だった。

 

 

 

『雑巾がけ』   小沢一郎という試練

石川知裕   新潮社    2012/4/17

 

 

 

・一番凄いと思ったのは、先述の「年上の後輩」が辞めたときのことである。彼は運転手でもあったので、突然、運転手がいなくなってしまうことになった。その対策として小沢さんは私に、運転手を命じてきた。

 

・繰り返しになるが、すでに私は事務所のトップで資金集め等、肝になる仕事を中心にやっていた。夜も遊んでいたわけではなく、翌日の仕事の準備等をしていたのだ。そんなことにはお構いなしである。いかなる場面においても「無理です」とは言えないし、「人を増やしてください」とストレートに言っても聞いてもらえない。それどころか、もっと怒られることは目に見えている。

「お前、俺も昔、地元の爺さんと一緒に回るときは運転手をやって大変だったんだ。お前らくらいの苦労で文句を言うな」

 

理不尽な説教

ちょっと話は脇道に逸れるが、この「昔、爺さんと地元を回って大変だった」という話は口癖のように飛び出し、何度も聞かされたものである。

 

・そしてある瞬間、急に怒り始めた。「お前らは……」と言って怒りながら話したのは、おおよそ次のようなことである。

「俺は今日、大分に行って、『こんなところまでいらっしゃってくださって、岩手の選挙区のほうは大丈夫なんですか』と言われた。岩手に何人秘書がいると思っているんだ。俺が昔、〇〇という爺さんと回った時は、俺が地図を持ち、車も運転して回ったんだ。それに比べたら今、どれだけ恵まれているか。どうして俺がよそでそんな心配をされなきゃならないんだ。お前らは一体何を考えているんだ」

読者にはおわかりだろうが、この話で私をはじめ、事務所の人間には何の落ち度もない。

 

資金集めは大変

・その翌年はあの「小泉ブーム」で自民党参院選で歴史的大勝をしている。当然、このような状況では献金すら簡単に集められるものではない。

 自民党時代の小沢一郎の威光を笠に着ての集金活動は、もはや無理な時代になっていた。最盛期から比べると、パーティー券の収入も企業献金も減り始めつつあった中で、私は担当を引き継いだのである。私は自分で知恵を絞らざるを得なかった。

 

・だから過去の関係を調査して、お付き合いがあったところには再度伺うようにした。良かったことは先入観が無いことだ。だからどこにでも飛びこめた。

 

選挙にせよパーティー券売りにせよ、マーケティングである。「小沢一郎」という商品をどう売り込んでいくかが「鍵」だ。商品が受け入れられるようにしていく作業は無理だ。「小沢」は変わらないからだでは、どうしたら良いのか。「小沢」を受け入れてもらえる層を探すことだ。

 

さらに私は自民党の有力政治家の政治資金収支報告書の収入欄を読み、どういう企業が献金しているのか、パーティー券を購入している企業とライバルの企業を探し、訪問するようにした。また『会社四季報』をもとにして飛び込み営業も開始した。岩手県に工場や営業所がある企業を『会社四季報』から探す。また、岩手県出身の社長さんがいる会社を探す。

 

・アポが取れればお伺いして「御社は岩手県に工場がおありですよね」と縁を強調するのである。当時、2百社以上廻って10件程度ご協力いただいたと記憶している。成功率は5パーセントに過ぎない。しかし、この時の活動が立候補してからも大変役に立つことになる。

 

・この頃、県人会組織の担当を任されたことも大いに役立った。秘書2年目に、岩手県人会の名簿集めを担当させられたことがあった。県人会とは地方出身者が東京や大阪などで作る組織で、たいていは地域の行政組織が後援している。岩手県だと2000年当時は59市町村存在していたので(今はほぼ半分である)、50以上の県人会組織が存在していた。

 

・支援することや支援されることは、お互い何か「共有」できることを見つけることであると思う。最小単位は「家族」。次に「会社」。そして「同郷」だとか「同窓会」に広がっていく。営業とは「縁」を大切にすること、「縁」を見つけることなのである。

 

ネットの良し悪し

小沢一郎のホームページに、申し込み欄を開設するとパーティー参加者も献金申し込みもかなりの数で増えていった。

 

・手前味噌ながら、今、小沢一郎事務所の政治資金収入の中で個人献金の割合が高くなっているのは、この時の成果だと思っている。ただし、樋高さんの「懸念」が当たっていた面もあることは正直に書いておきたい。

 このネットで申し込んできた1人のパーティー参加者と、私は懇意になった。一緒に食事くらいはする間柄になったが、ちょっとした行き違いで疎遠になってしまっていた。ところがその後、その人がパーティーで知り合った別の参加者に騙されて詐欺行為に遭ってしまい。結果的に「小沢事務所」のせいだと言われてしまった。こちらが詐欺の片棒を担いだりしたわけではないのだが、週刊誌沙汰になる始末だった。「リスク」をきちんと腹に入れて、お付き合いをすることを忘れていたのが反省点である。