日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

そのほかにも、1921年の原敬の首相暗殺、1931年9月18日の柳条湖事件を的中させ、王仁三郎自身もアメリカとの総力戦が始まることや、世界大戦で日本が占領されることなどを予言、見事に的中させたという。(1)

 

 

『日本のオカルト150年史』

日本人はどんな超常世界を目撃してきたか

秋山眞人   (協力)布施泰和  河出書房新社  2020/2/15

 

 

 

 

大本教 開祖が次々と予言を的中させ、勢力を拡大

オカルトと軍国主義が互いに影響を与え合いながら、それぞれが民衆の心をつかんでいったのが、大正時代の後にきた昭和の戦前期の特徴である。それを如実に、かつ、ひな型的に象徴しているのが、大本教の台頭とその弾圧の歴史であった。それは、大本、軍部、政府が入り乱れた、日本の将来の姿を決めるための主導権争いの歴史にも見える。

 

・1904年から05年には日露戦争が起こり、さらに1914年からは第1次世界大戦が始まった。

 そのほかにも、1921年原敬の首相暗殺、1931年9月18日の柳条湖事件を的中させ、王仁三郎自身もアメリカとの総力戦が始まることや、世界大戦で日本が占領されることなどを予言、見事に的中させたという。そして大本教の予言が当たるたびに、大本は勢力を伸ばし、あるいは盛り返すことができたのだ。

 そして、大本ひいては王仁三郎の熱狂的な支持者のなかには、軍関係者も多数存在していたのである。その背景については後述するとして、まずはオカルト界の巨人・出口王仁三郎とは、いかなる人物であったかについて簡単に論じていこう。

 

出口王仁三郎(1)  放蕩息子から一転して第一級の霊能者へ

出口王仁三郎(上田喜三郎)は1871年丹波国(現京都府桑田郡穴太村の農民、上田吉松の長男として生まれた。上田家は、かつては名家で、先祖には天才画師の丸山応挙がいた。ところが、どういうわけか上田家には道楽者や極道者が相次ぎ、家は次第に没落、喜三郎が生まれたときには、赤貧あえぐ小作農にまで落ちぶれていたという。

 

・転機が訪れたのは、父・吉松が亡くなった翌年の1898年、喜三郎27歳の年であった。侠客とのけんかで重傷を負った喜三郎が、気がつくと家から2キロ離れた高熊山の岩窟にいたというのだ。喜三郎はそこで、「芙蓉仙人」らに導かれ1週間の修行に明け暮れた。これによって神界や霊界について学ぶとともに、霊能力を開花させたとされている。

 生まれ変わった喜三郎は下山後、家業の牧畜業から身を引いて、幽斎の修行と布教に専念した。その霊能力はたちまち、広く知られるようになり、静岡県の稲荷講社から誘いを受ける。講社を訪れた喜三郎は、本田親徳から言霊学・鎮魂帰神学、太占学の日本三大霊学を継承した稲荷講社の総理長・長沢雄楯と面会。長沢から指導を受け、本田式鎮魂帰神法を学び、本田親徳儒学書や鎮魂石、石笛を授かった。

 

出口王仁三郎(2) 予言者・出口なおと霊能者・出口の出会い

・長沢のもとを離れて故郷の穴太に戻った喜三郎(出口王仁三郎)は、休む間もなく、守護神である素戔嗚の分霊であるという「小松林命」から「一日も早く西北の方をさしていけ。神界の仕組みがしてある。待っている人あり」という神命が下る。喜三郎が直ちに、穴太から西北の方向にある園部に向かったところ、途中の茶店でその女主人から次のように告げられる。

「実は母に艮(うしとら)の金神がお移りになって、多くの人が神徳をいただいております。その金神様がおっしゃるには、『私の身上を分けて(審神者して)くれる者は東から出てくる。そのお方さえ見えたなら、出口なおの身上もわかってくる』とおっしゃるのです。それで私たち夫婦は、ここで茶店を開いて東から出てくる人を探しておりましたが、あなたがその人だと思われてなりません。母はいま綾部におります。どうかぜひ一度、母の身上をお調べください」

 

・ここまで御筆先が続くと、なおも折れざるを得なくなった。なおは他の信者の反対を押し切って喜三郎を大本に迎え入れた。これにより大本は、開祖出口なお、聖師上田喜三郎という体制ができあがった。御筆先はさらに、なおの末子の澄を世継ぎとして喜三郎と結婚させるに至り、喜三郎は出口王仁三郎と改名した。

 それは同時に、出口王仁三郎大本教団幹部らとの強烈な確執の始まりであった。なお自身も、自分が受けた御筆先の内容に必ずしも納得しておらず、王仁三郎に不信感を抱いていたことが、教団内の混乱に拍車をかけた。

 

浅野和三郎 終末論的な予言を強調して、大本を拡大

・なおに神格を認められた王仁三郎は教団内の権威を確立、なおの御筆先を加筆・編集して、出口なおが亡くなると前後して、のちに発禁処分となる『大本神論』を仕上げていく。

 

・もっとも、大本が軍の一部に熱狂的に支持された背景には、出口王仁三郎という、強烈なカリスマ性をもったオーガナイザーがいたこともさることながら、海軍機関学校の教官でインテリであった英文学者の浅野和三郎王仁三郎に心酔、大本の霊界論を信じてオーガナイザーとなったことが大きかった。

 

・浅野は一面、大本を過激な思想へと傾斜させていった。というのも、王仁三郎が世に出した『大本神論』には、日米戦争や都市の焦土化といった終末論的な予言が盛り込まれていたからだ。急進的な浅野らは、これらの終末論的な予言を使って、明治維新以降、人々が漠然として抱いてきた不安や鬱屈した感情を煽ることによって、世の中の「立て替え立て直し」熱へと向かわせた。すると、第一次世界大戦ロシア革命米騒動などで騒然としていた人々は大本に殺到、あれよあれよという間に、信者数は30万人に達した。

 

第一次大本事件 政府による大規模なオカルト弾圧はなぜ起きたか

・時の政府は、大本が買収した新聞や機関誌などを通じて信者を拡大し軍部や上流階級まで影響力をもつようになった大本に、危機感を募らせる。

 浅野たちが「東京が焦土と化す」などと終末論的な予言を喧伝して民衆を騒然とさせるようになると、政府は大本を一掃することを決意。1921年2月12日、不敬罪・新聞法違反の容疑で弾圧を加えた。これが第一次大本事件である。

 

・そして保釈中の身でありながら、1924年2月に、王仁三郎は突然、「ミロク菩薩」「ミロクの神」と名乗って満州(モンゴル)に現れる。

 

世界宗教を目指した大本 王仁三郎の東奔西走で弾圧から復活

・この、一見突拍子もない行動の背景にはなにがあったのか。一つには国内で活動が制限されるようになったからには、国外に布教活動の道を求めたのだという見方ができる。実際、その後も王仁三郎は、アジアでの活動を重視して、1929年には中国の軍閥や日本の右翼・頭山満内田良平らと関係を結び、北京に「世界宗教連合」を設立している。同時にアジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体や心霊主義団体と連携しようとした。

 こうしたことから、王仁三郎が目指したのは、世界的な宗教連合をつくることであったといわれている。

 実際に王仁三郎は、バハイ教や紅卍教団といった、ある程度中国で発達したいくつかの宗教団体の取りまとめをしようとした形跡がある。いまでも馴染みの薄いバハイ教だが、UFO問題で注目されたアメリカのスティーヴン・グリアもバハイ教の信者であるといわれている。

 

第二次大本事件  苛烈を極めた、取り調べという名の迫害

・こうした王仁三郎の大胆な試みは、時の政府にとって危険極まりない革命的な運動に他ならなかった。これ以上の教宣拡大とその悪影響を恐れた政府は、大本教を徹底的に排除する方針を決定。1935年12月8日、治安維持法違反と不敬罪の容疑で王仁三郎ら大本関係者を次々逮捕した。これが第二次大本事件である。

 

・1940年の第一審では、幹部全員が有罪とされ、王仁三郎は無期懲役の判決を受けた。1942年の第二審判決では、治安維持法では全員無罪、不敬罪王仁三郎は有罪で懲役5年であった。

 すでに6年と8か月間投獄されていた王仁三郎は保釈出所を許され、大審院まで待ち込まれた不敬罪の裁判も、終戦後の1945年10月、敗戦による大赦令で赦免となった。

 京都・亀岡に戻った王仁三郎は、晩年は陶芸など芸術活動に情熱を注いだ。

 

奇跡のリンゴと超常体験

木村秋則氏は1949年11月8日、青森県岩木町(現・弘前市)のリンゴ農家に生まれた。機械いじりが好きな青年に育ち、ごく普通の生活をしていたが、高校生のとき不思議な体験をした。

 自転車にのって家に帰る途中、向かい側を歩く男性が突如動作の途中で動かなくなるという体験をした。

 そのとき、松の木の下に巨大なワニのような動物を見た。自転車を停めてよく見ると、それはヒゲだけでも自分の太ももくらいの大きさがある巨大な龍であった。龍は松の木の上に出て尻尾一本だけで立ち上がると、しばらくしてからそのまま飛び去ったという。

 龍が飛び去ると、不思議なことに、それまで停止していた男性が動き出し、すべてが元に戻ったのだという。私も経験したことがあるが、3日間別の世界で過ごしたのに戻ってきたら3時間しか経っていなかったということは、オカルトの世界ではよく起こるのだ。私はそれを「逆浦島現象」と呼んでいる。

 

・妻・美千子さんが農薬に弱い体質だったこともあり、木村氏は1978年に農薬を使わずにリンゴを栽培しようと決意。ところが、7年経っても8年経っても一向に成功しない。借金はかさみ、家族や親せきに迷惑をかけるばかりであった。

 そしてとうとう1985年、ねぶた祭りの前日の7月31日、前途を悲観して岩木山山中で自殺をしようとする。ところが、木にロープを掛けようとしたとき、月明かりのなかで、すくすく育っている自然のドングリの木を見て、「ハッ」として、まるで啓示を受けたように土の重要性に気づく。長年、気づかなかった謎が解けて、彼は自殺をやめ、土の改良に精を出すことにした。

 

1988年、木村氏はついに無農薬・無肥料のリンゴの自然栽培に成功した。その成功物語は2013年には『奇跡のリンゴ』として映画化され、大きな反響を呼んだ。実験田は、国連食糧農業機関(FAO)の世界重要農業資産システムに認定されている。

 実はこの成功ストーリーの背後には、数々の不思議な事件が起こっていた。まだ試行錯誤している最中に、畑で時速40キロほどのスピードで動き回る二つの不思議な光を目撃自殺しようとした直前にも、UFOをひんぱんに目撃するようになったのだ。

 バイクで帰宅途中、道をふさぐように二つの人影を見たこともあった。バイクを停めて目を凝らすと、130センチくらいの黒っぽい二つの人影と、猫の目のような形をした四つの目が見えた。とても人間とは思えず、足は宙に浮いていた。

 

・リンゴの自然栽培に成功した数年後には、もっと強烈な体験をする。自宅二階の寝室で寝ていた木村氏がフッと目が覚めて窓の外を見ると、以前帰宅途中に見た「宇宙人に違いない二人」が宙に浮きながら、目をギョロッと光らせてこちらを見ていたのだ。木村氏は金縛りにあって動けず、声も出せなかった。

 二人の宇宙人は、カギのかかっていたサッシをいとも簡単に外側から開けて、窓からなかに入ってきた。そして動けずにいる木村氏の両脇を二人で抱えて、拉致した。木村氏の記憶はここで一旦途切れる。

 

宇宙人によるアブダクト

・次に目覚めたとき、木村氏は大きな建造物のような空間にあるベンチに座っていた。

 

・一人になった木村氏はベンチの上に上がり窓から外を見た。そこには「竪穴式住居がいっぱい並んでいるように、光がずらっと見えた」という。そのとき、例の二人がやってきて、今度は木村氏を両側から抱えて、建物の奥へと連れていった。

 

・そのとき、テレパシーのように言葉が頭のなかに飛び込んできたと木村氏はいう。内容は「われわれは、256のすべての物質を知っている。地球人が知っているのは120くらいで、そのうち使っているのは20とか30くらいだ」「われわれはケーという物質を使って時間を移動している」というものだった。

 

・そこから記憶が希薄になり、気がつくと両脇を二人の宇宙人に抱えられて自宅の窓の外にいた。そして彼らと一緒に部屋に入ったかと思うと、彼らの姿は忽然と消え、木村氏もそのまま眠ってしまったという。

 翌朝目覚めても、拉致された記憶は鮮明に残っていた。だが、もらったはずの丸い玉はどこを探しても見つからなかった。あれは夢だったのだろうか、と木村氏は一瞬訝ったが、夢にしてはあまりにもリアルだった。

 それが夢ではなかったと確信できたのは、拉致から数年後、テレビでUFO番組を見ていたときだった。その番組では、自分が宇宙船のなかで見た女性と同じ金髪の女性が、宇宙人に誘拐され、ベンチに座らされ、右には海兵隊員、左には眼鏡を掛けた小柄な東洋人がいたと証言していたからだ。

 後日、番組関係者と偶然出会って、金髪女性の居場所がわかった。話を聞いた商社の人がその女性に木村氏が描いた宇宙船内部の絵を見せたところ、「眼鏡を掛けた小柄な東洋人」が木村氏に間違いないと証言したのだという。

 

宇宙人からの啓蒙  才能に目覚めるコンタクティーたち

・木村氏の場合は、宇宙人がリンゴの自然栽培の方法を直接教えたわけではなかったが、いろいろ示唆を与えながら、なんらかの影響を及ぼしたと考えられる。

 木村氏のように宇宙人から示唆を受けたり情報を得たりして農業で活躍した人は、他にもいる。メキシコでも、宇宙人から導かれた地球人に教えられた巨大野菜の栽培に成功したオスカー・アレドンドカルメン・ガルシアである。それは宇宙にある未知の力を味方につけ、種子に宿らせる方法なのだという。

 

「UFO目撃」動かぬ証拠の数々

どんなとき宇宙人は現れるのか

このように彼らスぺ―ス・ピープル(宇宙人)は、UFOを具現化させることも、見えなくさせることも自由自在にできる。また、彼らはテレポーテーションで瞬時に場所を移動させることもできる。気が遠くなるような長大な距離の宇宙空間をわざわざ物理的に移動しなくても、「次元調整」とか「波長調整」とでもいうような方法で、時空間を飛び越してやってくる「未来人」が、スぺ―ス・ピープルだと考えてもらってもいい。

 UFOを見たことがない人や、スぺ―ス・ピープルと出会ったことがない人たちには、理解するのは難しいかもしれない。

 

丹波哲郎江原啓之  沈滞したオカルト界の“復興”に貢献

・20世紀末から21世紀初頭にかけて、オカルト界に貢献した人として、丹波哲郎江原啓之両氏の活躍に触れないわけにはいかない。

 丹波哲郎は、超常現象を体験した人たちと一般人との交差点となっていた人だ。本人が有名人ということもあるが、丹波氏が動いてくれたので助かったという人や、丹波氏のおかげで有名になれたという人は多い。彼は、江原氏や私のこともよく取り上げてくれた。

 本当にオカルトに理解のある方で、1987年には『大霊界 死んだらどうなる』を学習研究社から出版。89年には映画化され、大きな流れをつくった。

 

・いまは大人気のスピリチュアル・カウンセラーとして活躍中の江原啓之氏は、脚光を浴びる前の時代は苦労も多かったようだ。しかし、2000年ごろから恋愛や子育てといった、主に女性の身近な話題に絞って、わかりやすい言葉でスピリチュアルなアドバイスをするスタイルに変更した。すると、次第に評判が評判を呼び、2001年に出版した『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』(三笠書房)は100万部を超えるベストセラーとなった。

 

陰謀論に興味を持つ女性たち 男性と女性の対立が超えるべき課題

・そして、これまで主に男性が中心となって築いてきた「男性社会」に女性が進出する。すると、女性たちが、男性たちがつくった社会の矛盾に気がつき始める。コネクションで出世する人がいると思えば、裏取引で業績を上げる人もいる。そうした男社会の本音と建て前が見えてきたときに、女性たちはその矛盾を陰謀論に投影するようになった。

 社会に矛盾や不正がはびこる現実から想像を飛躍させて、フリーメイソンイルミナティなどに代表される陰謀論に興味をもつようになっていく。男性社会がどうもたくさんの陰謀をまき散らしているように思うようになったのだ。その傾向は、この10年で非常に強くなってきた。

 『ムー』の女性購読者数が上がってきたのも、そのころだと聞いている。聞くところによると、いま、『ムー』購読者数の4割が女性であるという。以前は、ほぼ9割が男性購読者だった『ムー』が、この変わり様である。

 

・男女の別なく、人は自分が超えるべき課題に行き詰まると、社会や政治といった大枠のせいにする傾向がある。自分にとって都合の悪い人たちや権威者に責任のすべてを押しつけるという陰謀論の本質は、まさにそこにある。

 しかし、陰謀論のほとんどは架空の産物であり、もし秘密結社が裏から世界を動かしているなら、世界はとっくに彼らに支配されているだろうし、そうなれば、このような生ぬるい支配ではすまないだろう。

 

陰陽対立から和合へ 男女の役割を、それぞれの性が併せ持つ時代へ

・実際、新時代の富豪たちのなかには、反権力の意識をもっている人が増えているとのデータもある。ただし、彼らも反権力だと思ってやったことが、実は権力者と同じことをやっていたというケースもあるようだ。そういうことか起こるのも、「反フリーメーソン」や「反陰謀」を標榜している人たちが、潜在的にはフリーメーソン団体に入りたいという意識を持っているからなのかもしれない。

 自分にとって愛の手を差し伸べてくれる権力はいい人であり、自分を拒絶する権力は敵である。と人間は考える傾向が強いのである。

 

オカルトと人生の意味  自分で体験し、感じ、考えるということ

オカルトは知れば知るほど、体験すればするほど、言葉では表せなくなるものなのだ。知りもせず、みずから体験しようとせず。ネット情報や表層的な話だけを見聞きして、これ見よがしに、浅薄なオカルト評論をネットに書き込む人がいるのは、とても残念である。

 先日、若い人と話をしていたら、「秋山さんのその話はどこに書いてありますか」といって、目の前でネット検索を始めていた。ネットが真実を語ると信じ切っているのだ。ネット情報を盲信するようになったら、それはもう「ネット・カルト」である。

 ネット情報に頼って本を読まないというのも、最近はトレンドになってきた。

 

ITと人類の未来 精神世界の大切さが再認識される時代に突入した

・未来が動き始めた、と感じる。あれだけ期待されたITやネットは、通過点にすぎないことがわかってきた。手段や方法であって、目的ではない。では、人類はどこに向かっているのか。

 人類の集合無意識は、意外とお告げ的で、なにかに導かれるように流れていく、それが単に欲望の集積だとは思えない。やはり、大衆はどこかに導かれていっている。決まった先が明確にあると思う。

 

スマホに膨大な時間を取られ、十把一絡げにした乱暴なネット情報に振り回される。本当に悩むべき情報と悩むべきでない情報を区別しないと、エネルギーを消耗し疲れ果ててしまう。情報の奥の奥、未来はどうなのか、過去はどうなったのか、を深く、冷静に見ていくことが不可欠な時代なのだ。 

 立体的で多角的な目的をもつことが、情報を生かすことであり、自分の人生を豊かにするコツであるといっていい。

 

 

 

『日本UFO研究史

UFO問題の検証と究明、情報公開

天宮清    ナチュラルスピリット  2019/1/20

 

 

 

  • 日本最古参のUFO研究家で、元CBA(宇宙友好協会)会員が、

60年以上に及ぶ空飛ぶ円盤・宇宙人研究の成果を集大成!

生涯をかけて追ったUFOや宇宙人の正体を明かす!

 

松村雄亮(まつむら・ゆうすけ)自らがコンタクトし、「緊急事態」を告げられる

・1959年7月10日、松村雄亮は東京における打ち合わせを済ませ、午後11時半頃、横浜桜木町に着いた。車を拾おうと思ったが、なかなか来ないので、人通りの少ない道を野毛の方へ歩いて行った。

「日の出町の交差点を左折し、しばらく行くと行く手の交差点から1台の車が曲って来て、その前照灯で3人の女性がこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違う時に見るともなく見ると一番左にいた女性が微笑みかけたように思われた、10メートルほど行き過ぎてから何となく気になってふり返ってみると、すでに3人の姿はかき消すごとくにそこにはいなかった。そして上空には、フットボール大の大きな円盤が横浜松竹の屋根をすれすれにかすめるごとく右から、左へゆっくりと街路を横切ったではないか。全身が凍りつく思いであった。では今の女性は宇宙人だったのだろうか。まさか!すぐ後を追った。そこはビル街で横へそれる道はない。1分とたたぬ間の出来事である。しかし彼女らの姿はない」

 

・まず最初は1959年1月16日午前10時ごろ、松村宅上空でゆっくり旋回する「スカウト・シップとおぼしき円盤」を撮影した事件である。当時まだ松村は、アダムスキーなどのコンタクト・ストーリーを信用していなかった。したがって、当然この円盤写真は幸運な偶然によって撮影されたものと考えていたという。しかしそのあと、同誌(『宇宙友好協会の歩み』)では「今から考えれば宇宙人が意識的に文字通りスカウトに来ていたものと思われる」という記述が続く。

 

・その後、家族と共に目撃すること数10回、1958年7月28日には再び自宅の庭で「スカウト・シップ」をカメラで撮影したという。そして最初のテレパシーらしきものを受信して以後は、相次いで不思議な出来事が起ったという。

 

宇宙人の女性・男性と会見する

・1959年7月17日、松村雄亮は東京における打ち合わせの後、夕方7時頃に横浜桜木町駅に着いた。駅前から市電に乗ろうとして、雨の中を停留所に向かう途中、7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた女性と再会する。茫然と立ちつくす松村に対し、彼女は誘導するごとく先に歩き出した。2人は野毛の喫茶店で相対して座った。

 年の頃は21、2才であろうか、ワンピースの上に首から下げた直径5センチメートルほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいること等を打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうと言った。この時2人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかった

 

・何か証拠が欲しいと思った松村は、目の前の美しい「宇宙人」に「今日の記念にあなたの胸にある装飾品をいただきたい」と申し入れたという。すると彼女はにっこり笑って「いずれ差し上げることもあるかもしれません」と答えた。

 

・1959年7月20日、夕方6時から東京・渋谷でCBAの理事会が開かれることになっていたので、4時頃、松村雄亮は渋谷・道玄坂を歩いていた。すると何者かに左肩をたたかれた。振り返ると品のよい外国人紳士が立っている。「一目見ただけでそれが宇宙人であることが諒解できた」。

 このときも「宇宙人」は松村を喫茶店へ連れて行く。この男性は「日本における宇宙人達のキャップであった」。このとき「宇宙人」から一つの約束が与えられた。それは、「来る25日高尾山頂に円盤が飛んだら、松村を円盤に同乗させる。もしその日に飛ばなかったら都合が悪いのだから後日を待って欲しい」というものであった。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ)ついに円盤に乗る

・翌26日の午前5時頃、山頂で解散。松村雄亮と丹下芳之は横浜まで同道し、午前8時頃そこで別れた。横浜線の車内ですでにテレパシーによって行くべき場所を指定されていた松村雄亮は、横浜駅から直ちに現場に向かったという。

 指定された場所では渋谷で会ったキャップを含めて3人の「宇宙人」が出迎えてくれた。街並みを外れて歩いていると、真っ黒な前方に薄く光る円盤が、浮かび出るように着陸していたという。

 近づいてみると、円盤の直径は30メートルぐらいで、上部のドームに窓はなく、下部は全体に丸みを帯びてギアは見当らなかった。側面の一部が開くとスルスルと梯子が伸びてきて、内部に入る。内部はいくつかの部屋に分かれているらしく、5坪ほどの部屋に招き入れられた。乗員は12名で、うち1人だけが日本語を上手に話し、他は皆英語しか話せなかったという。

 円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。しばらくして、ある一室に案内された。

 この部屋はかなり広く百畳はあったようだった。通路もそうだったが、照明が見当たらないが、かなりの明るさであったという。入った部屋の半分ほどを占める半円形にテーブルが並べられ、そこにずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央に長老と思われる宇宙人が座っていた。その正面にテーブルと椅子が一つ置かれていた。

 松村は緊張してその椅子に座った。宇宙人はみな首から裾まで垂れたガウンをまとっていた。右端の宇宙人が英語で話しかけた。問答はすべて英語で行われたという。

 この問答は三つの要点に絞られる。

 

緊急事態を新聞に発表しようとするも、宇宙人に止められる

  1. 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
  2. われわれとしては、将来の地球再建のために1人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
  3. 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい。

 

あらかじめ用意していた質問や円盤の中古品の話を出すどころではなかった。いきなりこのような話が始まり、その話題で終始したという。

 

・話し合いの間に果物と飲み物が出された。果物は刺身に似ており、赤、黄、緑、紫などの色のものが皿の上にきれいに並べられていたという。コップは上に向かって階段状に広がっている珍しい形であった。グレープジュース色の液体が入っていた。

 残念なことに果物には手をつける余裕がなかった。飲み物はいい香りがしたという。出発した地点に送り返されるまで、約7時間地球を離れていた。

 

・1959年8月18日の打ち合わせに参加したのは松村雄亮、久保田八郎、丹下芳之、小川定時、桑田力であった。「嘲笑されようとヤユされようと、新聞を通じなければ多くの人に知らせることはできない。とにかく事実を事実として新聞に発表しよう」と決めた。

 ところがこの日、松村雄亮が新橋駅に到着するや、宇宙人が姿を現し、「新聞を使ってはいけません」と言われてしまう。

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  1. 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  1. 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))

 

「地球の軸が傾く?」のはなぜ「1960年」とされたか

・高梨純一が入手した「短い文書」を読むと、どこまでが「宇宙情報」としてCBA幹部たちが共有していたかが不明である。

 

・まず地球の軸が急激に傾くとされる「1960年」について説明しよう。

 1958年、米国テキサス州の円盤愛好家レイ・スタンフォードは弟と連名による著作『Look Up』を自費出版した。それを入手したCBAは、その『Look Up』を翻訳し、1959年8月に邦題『地軸は傾く?』として発行する。

 

・この『地軸は傾く?』の中の「………最も影響の大きい『地軸傾斜』はここ数年内に発生するでしょう。しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し小規模な変動はそれ以前にも突発するかもしれません」とある。

 この部分が原著『Look Up』では「1960年」となっていたが、CBAはこの箇所を「196X年」として出版したのだ。徳永はこのいきさつを知る立場にいたと推定される。

 

レイ・スタンフォードは「1960年大変動」予言に関わったのか

・「レイ・スタンフォードは霊能者(サイキック)で、意識不明のスタンフォードを通じて、様々なアクセントと抑揚による『語り』があり、それらの存在はエーテル界の『白い兄弟たち』とも呼ばれた。彼らはスタンフォードの声帯を借りて語った

 

・見えない霊的存在からの意志と霊媒による肉声で伝える行為から類推されるのは、霊界人による「大変動予言」の問題である。1954年に「1955年に大変動が起こる」という霊界宇宙人サナンダからの予言を受信したのは、シカゴに住む54歳になるドロシー・マーティンであった。

 それは自動書記と呼ばれる心霊的なメッセージ受信によって筆記された。もちろんその予言が外れたので、今日の世界が存続しているわけだが。

 レイ・スタンフォードの声帯を借りて語る「ソース」が、もし「1960年大変動」という予言にも関係があったとしたら、日本に騒動をもたらした元区はレイ・スタンフォードに語りかけた霊界の「白い兄弟たち」ということになる。しかし、それを確認することはできない。

 

「何年何月何日に世界が終わる」という予言もまた、何度も繰り返されてきた。

・「大変動」「最後の審判」の伝説と、「何年何月何日に世界が終わる」という予言は同じ一つの終着点「大変動」「世の終わり」へと向かっていた。しかし、「大変動」「最後の審判」の伝説の流れは「そのときは誰も知らない。ただ父だけが知っておられる」「宇宙人にも分からない」と言い逃れ、「世界が終わる」という予言の流れは「それは何年何月何日」と予言され、そのつど外れてきた。

 

・「神あるいは主」は「そのときは誰にもわからない」で終わるのが定石で、「それは何年何月何日だ」とするのが「予言的霊能者」の役目であったようだ。信じる人々は予言が外れる度に繰り返し失望させられてきた。20世紀となり、米国予言の「1960年」を受けて、CBAに所属する日本人が緊急文書を作成し、それが新聞社に流れて波乱を巻き起こすことになった。