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バチカンは私の見るところ、「ゲイ」が支配する組織である。(1)

 

 

『ソドム』

バチカン教皇庁最大の秘密

フレデリック・マルテル 河出書房新社   2020/4/22

 

 

 

バチカンは私の見るところ、「ゲイ」が支配する組織である。

・教会は構造的に同性愛化する性質がある。性的虐待を個人的、制度的に隠蔽するシステムになっている……。本書を公にするのは教会のためだとかたく信じている。

 私以前にこの重大なテーマを扱った者はいなかった。この半世紀で最も重大な秘密のひとつを明らかにすることは、これまで一度も試みられたことはなかった

 

・本書が50か国以上でかつてない反響を呼んだことは、本書の出版が時宜にかなっていたことを示している。『ソドム』はすでに、およそ20の言語で翻訳され、無数の記事や論争、コメントで取り上げられている

 

・いつのまにか、ソドムといえば「男色」ということにされてしまった。いずれにせよ、バチカンはソドムのようなところだというのだから、本書を読んだ世界数十か国の人々はびっくり仰天した。そうではないかと薄々気づいていた人はかなりの事情通だが、まさかここまでとは思っていなかったようだ。本書が世界に与えた衝撃は大きかった。

 

スイス軍の法規

・私が話をきいた弁護士たちによれば、結婚を禁じるだけでもスイスでは差別になるだけでなく、結婚を奨励し、それ以外の性的関係を禁じている教会の原則にも反している。

 こうした法的な問題点について、この弁護士を通してスイス衛兵の責任者たちにドイツ語で質問してみたが、彼らの答えは意味深長である。彼らは差別であるとする考えを否定する。軍事的な理由から、いくつかのルールを課さざるをえないからである(しかしながら、新兵の年齢や身体的条件に関して、軍の特殊性を考慮して定められたスイス軍の法規にも違反している)同性愛については、彼らは書面で以下のように伝えてきた。「ゲイであることは募集においては問題とはならない。ただし、あまりに『オープンなゲイ』であったり、目立ちすぎたり、女性的すぎる場合は別である」。さらに、研修中に口頭で伝えられるルールや行動規範にも、差別や労働法に関して違反があるし、ハラスメントを受けても黙っていなければならないのは大きな問題である。

 スイスやイタリアの法律、さらにEUの法律の観点からいって、法的に問題があるだけでなく、道徳的にも問題がある。バチカンというきわめて特殊な国家が勝手に特権を行使していることを、それは雄弁に物語っている。

 

ゲイに対する十字軍

ヨハネ・パウロ2世マルシアル・マシエルを守り、彼の側近の一部がスイス衛兵をナンパして色欲にふけっていたちょうど同じ時期に、バチカンは同性愛者に対する大きな戦いを開始した。

 こうした戦いは新しいものでも何でもない、熱狂的な反ソドミーは中世から存在した。それでも、特別な性癖をもつと疑われる教皇は何十人もいる。ピオ12世とヨハネ23世もそのなかに含まれる――外では厳しく批判しながら内ではきわめて寛容というのがお定まりであった。教会は常に、聖職者の行動よりもその言葉においてホモフォビアであった。

 

・しかしながら、同性愛をめぐるカトリシズムの公的な言説は、1970年代末に一段と厳しさを増した。教会は風俗革命に不意をつかれたが、自ら先手を打つこともなければ、それを理解しようともしなかった。パウロ6世は、この問題に理解がなく、1975年にはもう、有名な声明「ペルソナ・フマナ」で反撃し、それはダイナミックな回勅「フマナ・ヴィテ」に踏襲された。聖職者の独身制が確認され、貞潔に高い価値が与えられ、婚前交渉は禁じられ、同性愛はきっぱりと否定された

 

ヨハネ・パウロ2世の在位期間(1978-2005)は、教義の点で、この一連の動きにおおむね沿ったものである。だが、しだいにホモフォビアの色を濃くする言説によってそれを悪化させるとともに、彼の取り巻きたちはゲイに対する新たな十字軍に乗り出した。

 選出されたその年から、教皇は論争を硬直化させた。1979年10月5日、シカゴにおいて全米の司教向けにスピーチを行い、いわゆる「自然に反する」行為を罪とするよう促したのである。「憐れみに満ちた牧者として、あなたがこう言ったのは正しかった。『同性愛の行為は、同性愛の傾向とは異なり、道徳的によくないことです』と。この明らかなる道理により、あなたがたは、キリストの真の慈悲とはいかなるものかを示しました。同性愛ゆえに、耐えがたい道徳的問題に直面している人々を、あなたがたは裏切りませんでした。もし、思いやりと憐れみの名において、あるいはまったく別の理由から、あなたがたの兄弟や姉妹に誤った希望を与えていたら、あなたがたは彼らを裏切ることになったでしょう」

 ヨハネ・パウロ2世はなぜ、これほど早い時期に、教会史上最もホモフォビア教皇のひとりになる道を選んだのだろうか?ローマ在住の米国人バチカニスタ、ロバート・カール・ミケンズによると、そこにはおもにふたつの要因がある。

彼は民主主義を経験したことのない教皇だった。だから、ひとりで決定を下した。彼の天才的な直感によって、また、同性愛に関するものも含め、ポーランドカトリックがもっていた古くさい偏見によって。第二に、彼のモドゥス・オペランディ(仕事の流儀)、在位期間を通じての方針は、教会の統一だった。分裂した教会は弱い教会であると、彼は考えていた。教会の統一を守るために、徹底した厳格さを課した。そして、教皇不謬性の理論が最後の仕上げをした

 

ヨハネ・パウロ2世が民主主義の文化に馴染みがなかったことは、クラクフでもローマでも、彼をよく知る人々によってたびたび指摘されている。彼が女嫌いのホモフォビアであったことも。しかしながら、側近に同性愛者がたくさんいるということには、非常に寛容だった。大臣やアシスタントのなかにも、実践的な同性愛者がたくさんいたから、教皇が彼らの生活様式や「傾向」を知らないはずがない。

 

・私がクシシュトフ・ハラムサの話を初めてきいたのは、eメール、つまり彼自身を通してだった。彼が私と接触したのは、まだ教理省で働いていたときだった。ポーランド人司祭は私の本『グローバル・ゲイ』が好きだと書いており、カミングアウトしようとしており、秘密を守るという条件で私に話したのである。そのときはまだ、彼が主張するような有力な高位聖職者なのか、それともペテン師なのかわからなかったので、彼の経歴を確認するため、イタリア人の友人で『ラ・レプブリカ』の記者であるパスクアーレ・クアランタにきいてみた。

 証言の正しさが確認されたことから、私はMgrハラムサと何度かe

メールをやりとりし、数人のジャーナリストを推薦した。そして2015年10月、家庭に関する世界代表司教会議が始まる直前に、彼のカミングアウトがメディアに流れて紙面を賑わせるとともに、世界をかけめぐった。

 それから数か月後、バルセロナでクシシュトフ・ハラムサと会った。バチカンを免職になって以来、彼はバルセロナで亡命生活を送っていた。

 

ハラムサはバチカンホモフォビアの戦う組織の中枢にいた

・教理省は長いあいだ「検邪聖省」と呼ばれていた。嘆かわしい事例の数々で有名になった異端審問や、検閲本や発禁本のリストである禁書目録を担当していたが、この「検邪聖省」である。バチカンの「検邪聖省」は現在も、その名が示すように、教義を定め、善いことと悪いことを定義しつづけている。ヨハネ・パウロ2世のもとで国務省につぐ地位にあったこの戦略的司法機関は、ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿に率いられていた。同性愛に対する文書の大半を考えては公布し、教会における性的虐待の書類の大半を調べたのは、彼である。

 クシシュトフ・ハラムサはその教理省で、国際神学委員会の顧問兼副書記として働いていた。

 

・一般に、「異端審問の訴訟」(こんにちなら「教義の論点」と言うだろう)はそれぞれ、職員によって検証され、つぎに専門家や顧問たちによって議論され、さらにさらに枢機卿会議にかけられて承認を得る。

 

・それは偽善に好都合な土壌でもある。現在、教理省の組織のなかにいる20人の枢機卿のうち、12人ほどがホモフィルないしは実践的同性愛者であると思われる。少なくともボーイフレンドと暮らし、3人はたびたび男娼を利用している。

 従って教理省は、興味深い臨床例であり、バチカンの偽善の中心である。ハラムサの話をきいてみよう。「大半が同性愛の聖職者たちが、同性愛嫌悪を課している。それはつまり自己嫌悪であり、絶望したマゾヒストの行動と言ってよい

 クシシュトフ・ハラムサらの内部の証言によれば、同性愛の問題はラツィンガー長官のもとで、まさに病的な強迫観念となった。そこでは、旧約聖書のソドムのくだりが何度も読み直された。ダビデヨナタンの関係がたえず解釈し直された。「肉にささった棘」をもつ苦しみを告白した新約聖書パウロの文章も同様だった(パウロはそうして自らが同性愛であることをほのめかしているのかもしれない)。そして突然、この完全なる精神的孤独に恐怖をおぼえ、カトリシズムはそのような希望の光すらない存在を見放したのだと悟る。そのとき彼らは心のなかで泣き出しただろうか?

 

・教理省のゲイフォビアの有識者たちは、SWAG――Secretely We Are Gay【私たちは隠れゲイ】――という独自の暗号をもっている。彼らのあいだで、「イエスの愛した弟子」ヨハネ、「誰よりも愛されたヨハネ」、「イエスは彼を見て愛した」などと、夢のように美しい隠語を使いながら使徒ヨハネについて語るとき、自分たちが何を言おうとしているのかよく知っている。そして、百人隊長に「重んじられていた」若い部下をイエスが治癒した場面について語るとき、ルカによる福音書がほのめかすところに従えば、それが何を意味するか、彼らには一目瞭然であった。彼らは自分たちが呪われた種族――そして選ばれた種族――に属していることを知っている。

 

バチカンは、同性愛者が排除されることを正当化した(それによって聖職者のなり手が減少するとは思いもせずに)、軍隊から同性愛者が排除されることを正当化した(アメリカ合衆国が「質問するな、口外するな」の規則を停止する決定を下した)。同性愛者が仕事で差別を受ける可能性のあることを、神学的に正当化しようとした。当然ながら、同性間のパートナーシップや結婚は罪だった。

 2000年7月8日にローマでワールド・ゲイ・プライドが行われた翌日、ヨハネ・パウロ2世はいつもの正午の祈りの最中に発言し、「よくご存じのデモ」を強く非難するとともに、「2000年の大聖年が侮辱されたことは痛恨の極み」であると述べた。だが、ローマの通りを行進した20万人のゲイ・フレンドリーな人々に比べて、その週末にバチカンを訪れた信者の数は少なかった。

 

カミングアウトで騒ぎを起こした、あるいはカミングアウトが遅すぎたとして、クシシュトフ・ハラムサはこんにち、教皇庁とイタリアのゲイ団体の双方から攻撃されている。内面化されたホモフォビアからドラマクイーンへと一足飛びに変身した高位聖職者は、人々を混乱させている。そのため教理省では、彼が辞任したのは思ったほど出世できなかったからだとささやかれている。彼が同性愛であることはとっくにわかっていたと、ある公式な情報源は指摘する彼は何年も前からボーイフレンドと一緒に暮らしていたからである。

 

・ここでわれわれは、バチカンの近年の歴史で最も暗い1ページに入っていく。たっぷり時間をとって語らなければならないが、これはそれほど驚愕すべき事例なのである。

 アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョとはどんな人物なのだろうか? この恥知らずな男は1935年、コロンビアのトリマ県にあるビヤエルモサに生まれた。25歳のときにボコタで司祭の叙階を受け、10年後に同じくボコタの代理司教となり、その後メデジンに赴任して、43歳でメデジン大司教に昇格した。良家に生まれ、金に不自由したことのない聖職者としては、よくあるコースである。

 

・「当時、司教の大多数は保守派でした。しかしロペス・トルヒーリョはただの保守ではなく、極右でした。あからさまに、大資本と貧者を搾取する側に立っていました。教会の教義よりも資本主義を擁護したのです。彼には冷笑的な傾向がありました。プエブラのCELAM(ラテンアメリカ司教会議)総会で、ある枢機卿に平手打ちをくらわすことまでしたのです」

 

・アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョはたいそう献身的かつ熱意をもって、メデジン、ボコタ、そしてまもなくラテンアメリカ全域で、解放の神学の潮流を根こそぎにする仕事に取りかかった。エコノミスト』誌の記者は、枢機卿の小さな赤い帽子はチェ・ゲバラのベレー帽の裏返しであると、皮肉を込めて書いている。

 

教皇のほうでも、1980年代から90年代にかけて、ラテンアメリカに右派と極右の司教を大量に任命する。

 

・10年足らずのうちに、CELAMの司教の大半が右に寝返った。1990年代には、解放の神学の潮流は下火となり、アルゼンチンのホルン・ベルゴリオに体現される穏健な新しい潮流が姿を現すには、2007年にブラジルのアパレシーダで開かれる第5回CELAM総会まで待たなければならなかった。それはすなわち反ロペス・トルヒーリョ路線である。

 

・「私は当時、メデジンで、ロペス・トルヒーリョ大司教と一緒に働いていた。彼は豪勢な暮らしをしており、外出するときは王というより、まさに『女王』のようだった。司教訪問のさいには、高級車で乗りつけ、赤絨毯を敷くように要求する。車から降りるときは、最初は片方の踝しか見せない。おもむろに片足を出してから、まるで英国女王でもあるかのように、絨毯を踏みしめるのだ。すべての者が彼の指輪に口づけせねばならず、彼の行くところどこでも、あたりに香をまかなければならなかった。こうした贅沢、ショー、香、絨毯に、私たちはただただ驚くばかりだった」

 

・1980年代に、メデジンはまさしく世界的な犯罪都市となった。麻薬密売業者たち、とりわけ有名なパブロ・エスコバルメデジン・カルテル――当時、米国向けのコカイン市場の80%を握っていたと見られている――が、町を支配していた。激しい暴力――麻薬戦争、ゲリラの勢力拡大、ライバルのカルテル同士の抗争が同時に起こっていた――に対して、コロンビア政府は非常事態を宣言した。だが、政府が無力なのは明らかであり、1991年だけで6千件以上の殺人がメデジンで発生している。

 

・ロペス・トルヒーリョの人生はこうした時代背景のなかで考えなければならない。メデジン大司教について調べたジャーナリストたち――とりわけエルナンド・サラサール・パラシオが著書『ロペス・トルヒーリョ枢機卿の戦争』、グスタボ・サラサール・ピネダが『マフィアの腹心の告白』において――、そして、エマヌエル・ネイサが私のために同国で行った調査によると、この高位聖職者は麻薬密売業者に近いいくつかの民兵組織とつながっていた。そうしたグループから――おそらく熱心なカトリック信徒を自称するパブロ・エスコバルから直接――資金援助を受け、メデジンの教会における左派急進主義者の行動に関する情報を得ていたと見られる。

 

・こんにち、ロペス・トルヒーリョは直接的であれ、間接的であれ、進歩派と共謀したとして排除された司教や数十人の司祭の死に責任があるとみなされている。

 

メデジン大司教の新たな生活がローマで始まった。コロンビアの極右に肩入れして成果をあげたのち、彼はいまや、風俗と家庭に対するヨハネ・パウロ2世の保守的な強硬路線に具体的な形を与えようとしていた。

 

・家庭「省」のトップとなり、そこを「作戦本部室」としたロペス・トルヒーリョは、かつてないエネルギーを傾注して、堕落に有罪を宣告し、結婚を擁護し、同性愛を糾弾した。すべての証人によれば、極度の女嫌いであった彼は、ジャンダー・セオリーと戦おうとした。複数の情報源によれば「ワーカホリック」であり、世界中の数え切れないほどの論壇で発言しては、婚前交渉やゲイの権利を強く非難した。こうしたフォーラムで、「妊娠を妨害する」科学者たちは目盛りのついた試験管で犯罪を行っている、白衣を着たおぞましい医者たちは婚前の禁欲を説く代わりに避妊具の使用を勧めていると口を極めてののしったため、彼の名がしだいに知られるようになった。

 そのころから世界中で猛威を振るうようになったエイズは、ロペス・トルヒーリョの新たな強迫観念となり、彼の頑迷さがそこで遺憾なく発揮された。「コンドームは解決策ではない」と彼は枢機卿の権威を振りかざしながら、アフリカで繰り返し述べている。それは「性的な雑居常態」を助長することにしかならず、貞潔と結婚こそが、エイズの大流行に対する真の解決策なのである。

 アフリカやアジア、そしてもちろんラテン・アメリカと、彼は行く先々で、現地の政府や国連機関に、「嘘」に身を委ねないよう説いて回り、人々にコンドームを使わせないにようにした。

 

歴史はアルフォンソ・ロペス・トルヒーリョに厳しい判断を下すだろう。だがコンドームと戦った英雄はローマで、ヨハネ・パウロ2世ベネディクト16世によって模範とされ、国務長官のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とタルチジオ・ベルート枢機卿によって滑稽なほど称えられた。

 

・「ロペス・トルヒーリョはマルクス主義と解放の神学に反対だった。そのことが彼を突き動かしていたのです」。

 

・この物語は「ハッピーエンド」なくして完結しない。物語を本当のフィナーレへ導くために、もう一度メデジン、正確に言えばメデジン大司教館のある地区に話を戻そう。ロペス・トルヒーリョの元儀典長アルバロ・レオンは、私と調査員のエマヌエル・ネイサを、大聖堂を取り囲む露地へと案内した。メデジン中心部の新市街と呼ばれる地区である。

 それにしても奇妙な地区である。ボリバル公園と50番街にはさまれた、55、56、57番街と呼ばれる通りに、カトリックの品々や僧服を売る数十軒の宗教関係の店と、派手な化粧をしてヒールの高い靴をはいたトランスセクシュアルが店先にたむろするゲイ・バーが、文字どおり対になって並んでいる。天上と異教のふたつの世界、まがいもののキリスト十字架像と安価なサウナ、聖職者と男娼が、コロンビアに特有のやや祝祭的な、なごやかな雰囲気のなかで同居している。フェルナンド・ボテロの彫刻に似たふくよかなトランスセクシュアルが、ひどくなれなれしい様子で寄ってくる。

彼女の周囲にいる男娼や女装家は、もっと弱々しく、もっとやせ細っている。フォークロアのイメージとはほど遠く、フェリー風で芸術的である。

それは貧困と搾取のシンボルである。

 

・私たちはすぐ近くにある、聖職者と神学生が中心になって設立されたLGBTセンター、「メデジン・ディベルサ・コモ・ボス(あなたのように多様なメデジン」を訪ねた。責任者のひとり、グロリア・ロンドーニョが私たちを出迎えた。

「ここは戦略的な場所です。メデジンのゲイ・ライフはすべて、大聖堂の周辺で営まれているからです。男娼、トランスセクシュアル、女装家は、非常に弱い人々です。彼らの権利について知らせることで、彼らを助けているのです。コンドームも配っています」。ロンドーニョは説明した。

 センターをあとにした私たちは、57番通りで、ボーイフレンドを連れた司祭とすれ違った。彼らと顔見知りのアルバロ・レオンがそっと私に合図した。私たちはカトリック・ゲイ地区の探訪を続けた。55番街とも呼ばれるボリビア通りの美しい建物の前に来たところで、突然、足が止まった。アルバロ・レオンが2階のアパートを指さした。

「あそこですべてが起こった。ロペス・トルヒーリョはあそこに秘密の部屋をもっていて、神学生や若い男や男娼を連れ込んでいたのだ」

 アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョ枢機卿が同性愛であることは公然の秘密であり、数十人の証人がそのことを私に話ししていたし、何人かの枢機卿もそれを認めている。彼の辞書の見出し語を再び借りれば、彼の「汎セクシュアリズム」はメデジン、ボコダ、マドリードそしてローマでも有名だった。

 

ベネズエラ人の大学教授ラファエル・ルシアーニによると、アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョの病的な同性愛は「ラテンアメリカ司教会上層部とCELAMの一部の責任者に知られていた」。さらに、何人かの司祭の連名で、ロペス・トルヒーリョの二重生活と性暴力に関する本が出版されようとしている。ロペス・トルヒーリョのアシスタントのひとりだった神学生のモルガンも、彼の勧誘員と愛人の名をいくつか教えてくれた。彼らの多くは、仕事ができなくなるのを恐れて、大司教の欲望を満たさざるをえなかったのである。

 

・というのも、この「いかがわしい人物」の逸脱行為は、もちろん、コロンビアの国境でとまらなかったからだ。このシステムはローマでも存続し、ほどなくして世界各地に広まり、反ゲイの説教師にして金回りのいい客という輝かしいキャリアを築くことになった。

 教皇庁のために、反コンドームの宣伝部長として絶えず旅をしながら、

ロペス・トルヒーリョは聖座の名による出張を利用して、少年を探した(少なくともふたりの教皇大使の証言による)。枢機卿は百か国以上訪れたが、お気に入りの旅行先はアジアだった。とりわけバンコクとマニラの性的魅力を発見してからは、たびたびアジアを訪れた。コロンビアやローマほど顔が知られていない世界の反対側へ何度も旅するあいだ、通りをうろつくのが好きな枢機卿セミナーやミサをたびたび抜け出しては、「タクシー・ボーイ」や「マネー・ボーイ」探しにいそしんだ。

 開かれた都市ローマがどうして出てこないのかと思うだろう。改めて言うが、ナルシシスティックな倒錯者たちは偽装生活をしており、ローマでは聖人に見せかけているのである。怪物マルシアル・マシエルと同様に、

ロペス・トルヒーリョも、信じられないほど巧妙に自分の生活を偽装していた――そのことは、バチカンではすべての者、あるいはほとんどすべての者が知っていた。

 

この物語を終えるにあたり、最後にもうひとつ、私がまだ答えることができずにいる問題、多くの人々の心にひっかかっているであろう問題がある。何でも金で買える、暴力行為もサドマゾ行為も金で買えると考えていたロペス・トルヒーリョは、コンドームなしの挿入を買ったのだろうか?

公式にはロペス・トルヒーリョは糖尿病で死んだとされているが、エイズで死んだという根強い噂が繰り返し流れている」。ラテンアメリカカトリック教会をよく知る第一線の専門家のひとりは言う。

 

・ロペス・トルヒーリョがエイズで死んだかどうかはともかくとして、カトリックの聖職者がこの病気で死亡することは、決して珍しいことではない。バチカンとイタリア司教協議会で入手した10件ほどの証言によると、1980年代から90年代にかけて聖座とイタリア司教団ではエイズが猛威をふるっていた。これは長いあいだ伏せられていた秘密だ。

 

カトリック上層部でエイズにかかる人の割合が高いことは、カトリック司祭の死亡証明書をもとにアメリカで行われた統計調査によって裏づけられている。エイズウイルスによる死亡率は一般人の少なくとも4倍にのぼると、その研究は結論づけている。1990年代初頭に行われたローマの神学生65人の匿名検査にもとづく別の研究では、その38%がエイズ抗体陽性であることが判明した。

 

ヨハネ・パウロ2世は1978年から2005年まで教皇だった。エイズは1981年、彼の在位期間の初期に現れ、以後数十年にわたり、3500万人以上の人々を死に至らしめた。世界中で3700万人の人々が、HIVに感染しながらも生存している。

 

フレデリック・マルテルは、フランス在住の作家、ジャーナリスト、社会学者で、「オープンなゲイ」である。アメリカに長期間滞在した経験があり、アメリカ文化やLGBTに関する著書がある。

 

そもそも日本では、欧米に比べてバチカンに関する情報が少ない

同性愛という現象は人類の歴史でそれほど珍しいものではない

・同性愛という現象は人類の歴史でそれほど珍しいものではない。とくに男性においては、年長者と年少者、師と弟子、保護する者と保護される者とのあいだで、同性愛的な関係が結ばれることがある。古代ギリシャ古代ローマ少年愛は有名だし、日本でも武士や僧侶の世界で同じような現象が見られた。多くの社会で、同性愛はおおっぴらとまではいかなくても、少なくともある程度は黙認されていた。しかしキリスト教ではいつのころからか、同性愛を「罪」とみなすようになった。教義と自らの性向のあいだでなんとか折り合いをつけようとした結果が、「ホモフィリア」という性行為にとらわれない関係、別の言葉で言えば禁欲的な同性愛なのである。

 禁欲できない人はどうしたらよいのだろうか? その場合、同性愛は念入りに隠されていることになる。表向きは厳格な教義を説きながら、プライベートでは同性愛を実践している。これがいわゆる「二重生活」であり、それを支えているのが教会の「秘密を守る文化」なのだ。未成年者への性的虐待が長年隠されてきた背景にも、こうした秘密主義がある。異性愛も含めてすべてがオープンになれば、つまり聖職者の独身制を廃止し、同性愛者の存在が認められるようになれば、偽善的な「二重生活」を送る必要もないし、性犯罪が隠蔽されることもなくなるはずだ、と著者は主張する。

 

・ヨーロッパ以外から初めて選ばれた教皇としてフランシスコがさっそうと登場したのは、2013年のことである。それまでに、バチカンの評判はさんざんなものになっていた。未成年者に対する性的虐待、金融スキャンダル、教義をめぐるかたくなな姿勢(妊娠中絶やコンドームの禁止など)、歯止めのきかないカトリック離れ………。信者でなくてもバチカンカトリック教会はどうなってしまうのかと心配になるが、日本人にとってはしょせん対岸の火事である。キリスト教と縁のない日本では、フランシスコの改革もそれほど話題にならない。2019年秋に来日したとき私たちが最も注目したのは、核兵器の廃絶に向けて教皇がどんなメッセージを発するかであった。

 

 

 

『口語訳 遠野物語』 

柳田国男 河出書房新社  2013/2/15

 

 

 

4 笹原の山女(やまおんな)

・山口村の吉兵衛という家の主人が、根子立という山へ笹刈りに行ったときのことです。刈り取った笹を束にして、「どっこいしょ」と立ち上がろうとしたところ、笹原が波だち妙に冷たい風が吹き渡ってきました。

 男は、なにげなく風の吹いてくる林の奥のほうを見ておどろきました。赤児をおんぶした若い女が、笹原の上を素足のままこちらへやってきます。見れば、このうえなくあでやかな女で、笹原にとどくほどの長い黒髪をなびかせています

 ところが、赤児を結びつけている背中のひもは、どうも藤のつるのようです。身につけている着物は、よくある縞物ですが、すそのあたりはぼろぼろに破れ、そこへいろいろな木の葉をむぞうさにあてて縫いつけたものでした。

 それにしても女の足は地面についているのでしょうか。笹原の上をまるですべるようにやってきます。吉兵衛は、これが現実のこととはとても思えません。ただ体をかたくし、ぼんやり見つめていました。女は、そんな男を別に気にするふうもなく、どんどん近づいてきました。が、あっという間にその前を通りすぎ、どこへとなく去ってしまいました。吉兵衛は(これが山女だ)と、はっきり思いました。

 

山男や山女の容姿

・『遠野物語』に出てくる山男や山女の容姿は、どちらも体はとても大きく、男は赤ら顔、女は色白の美人で長い黒髪であるとされています。35話にもあるように「中空を走るように」移動する特異な力を持っていると描かれています。

 

寒戸の婆

黄昏どきになっても、家の外に出ている女や子どもが、神隠しにあって、どこかへ行ってしまう話は、よその郷と同じように遠野でもよくありました。

 ある時、松崎村寒戸という所の民家で、若い娘が梨の木の下に草履をきちんと脱ぎ置いたまま、ふいっと行方知れずになったことがありました。

 ところが、それから30年あまりたったある日、すっかり年を取り、よぼよぼになったその女が、梨の木のあるあの家をたずねて来ました。その家ではなにか寄合があって、親類や近所の人たちがおおぜい集まっていました。が、だれも、その老女を知りません。

「おめえさん、どこのだれだべ」と、一人がたずねると、

「おれ、こごの娘だ」と言うのです。

「今までどござ行ってらった……。どのようにして、帰って来た……」

と、みんなが、たたみかけると、白髪の女は言いました。

「なんとしても、家の人たちに会いたかったがらよ。でもよかった、みんなの顔見たがら。それでは、また、おれ行くから」

と、言ったかと思うと、老女はまた跡形もなくふっと消え去ってしまいました。

 

神隠し)

・ある日突然、なんらかの理由で人が生活をしていた世界から消え去ってしまうことをいい、日本全国に時代を問わず存在する現象をさしています。異界へと失踪するというよりも、神によって異界に誘い込まれ、異界の住人になってしまうという話として流布されています。神隠しにあいやすい時間は、多くの場合、夕暮れ時で、「夕方、隠れんぼ鬼をして遊ぶと神隠しににあう」という俗信が伝承されるほどです。

 

(寒戸の婆)

佐々木喜善の『東奥異聞』では、松崎村字登戸の茂助という家の話とされており、最近では、サダという娘の名前まで明らかになっています。山姥のようになった娘は、毎年やってきて、そのたびに暴風雨に見舞われ大きな被害を受けたということです。山からおりてくる道筋の家では、夜泣きしている子に向かって実際に、「いつでもうるさくしているど、モンスケ婆さま(茂助婆)くるぞ」と言っていたそうです。

 

<31 人さらい

・遠野の里に住む人々の子女で、異人にさらわれていく人は、毎年多くありました。ことに女の人に多かったということです。

 

(人さらい) 異人にさらわれるという話は、『遠野物語拾遺』にも数多くあります。神隠し譚との関連や、他の地方の同じような話との共通性がいく度となく論じられています。

 

<34 離森の山女

・白望(しらみ)の山続きに、離森(はなれもり)という所があります。その小字に長者屋敷という所がありますが、そこはまったくの無人の境です。

 ところが、こんな人気のない、さびしい所へ行って炭を焼く人もいます。ある夜、その炭小屋の垂れこもをあげて、中をのぞきこんでいる者を見つけました。髪を長く二つに分けて、後ろへ垂らした女でした。

 このあたりでは、深夜に女の叫び声を聞くことは、珍しくないということです。

 

<35 白望の山女

・佐々木氏の祖父の弟が、白望山にきのこ採りに入って、泊まった夜のことです。深い谷をへだてた向こうの、大きな森林の前を、すうっと横切ったものがいました。長い黒髪をふり乱した女です。女はまるで、中空を飛んでいるように見えました。あっという間に、その女の姿は消えてしまいました。が、二声ばかり。

「待てじゃあ、待てじゃあ」と、耳の底に残りました。

 

<36 御犬の経立(ふつたち)

・猿の経立(ふつたち)、御犬の経立はとてもおそろしいものです。御犬というのは狼のことです。

 山口の村里に近い二ツ石山は岩山です。ある雨の日、小学校から帰る途中の子どもが、ふと、この山を見上げますと、ところどころの岩の上に、御犬がうずくまっていました。

 子どもが小走りに去りかけますと、御犬は、首を下から押し上げるようにして、代わる代わる吠え始めました。

 御犬は正面から見ますと、生まれたての馬の子ほどに大きく見えます。しかし、後ろから見ますと、意外に小さいそうです。

 いずれ、御犬のうなる声ほどものすごく、おそろしいものはありません。

 

<44 猿の経立(ふつたち)(笛を好む)

・六角牛山の棟続きに橋野という村があり、その上の山に金坑があります。この鉱山に使う木炭を焼いて、生計を立てている人たちの中に、笛のとても上手な人がおりました。ある日この人は、昼の間、小屋で休むことになりました。さっそく、あおむけに寝ころんだまま、大好きな笛を吹いていました。が、妙な気配がします。だれかが、小屋の入口にかけていた垂れこもをめくったようです。

 おどろいて見ると、それは猿の経立でした。この人が、思わず起き上がり、坐りなおしますと、猿の経立は、ゆっくりと垂れこもを下ろし、向きを変えると小走りに立ち去って行きました。

 

<45 猿の経立(ふつたち))(女を好む)>

・猿の経立は人によく似て、女性を好み、里の女性を盗んで、さらって行くことがあります。経立は、松脂を毛にぬり、砂をその上につけているため、毛皮は鎧のようになっていて、鉄砲の弾もとおりません。

 

<46 鹿笛と猿の経立(ふつたち)>

・栃内村の林崎に、何某という50歳に近い男が住んでいます。

 10年ほど前のことです。その男がひとりで、六角牛山へ鹿撃ちに行きました。用意してきたオキ(鹿笛)を吹きはじめたところ、なんと猿の経立がでてきました。鹿笛をほんとうの鹿だと思ったのでしょうか。すきまなく生えている地竹を、太い手で簡単に分けながら、大きな口をあけ、峰のほうから「ザザザ、ザザー」と、すごい勢いで下って来ました。

 男は肝をつぶして、すぐに笛を止めました。経立も気づいたのでしょう。たちまち道をかえ、深い谷のほうへと走って行きました。

 

<47 六角牛の経立(ふつたち)>

・遠野では、子どもをおどすのに、「そんなに泣ぐど、六角牛の猴の経立くるぞ」ということばをよく使います。それほど、この山々には猿が多いのです。

 六角牛山の麓、緒挊(おがせ)の滝を見に行きますと、崖の木の梢のあたりに、猿がたくさんいます。なかには、人の姿を見ると、逃げながら木の実などを投げつけて行くのがいます。