日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

UFO説――数ヵ月前からこの近辺の上空に正体不明の火球が飛んでいた。もしそれがUFOで、テント近くに着陸してエイリアンが降りてきたら、どんな剛毅な人間でもパニックになって逃げだすだろう。(1)

 

中野京子の西洋奇譚』

中野京子  中央公論新社    2020/9/8

 

 

 

<●ハーメルンの笛吹き

<「まだら男」に連れられて姿を消した子どもたち

・ドイツの代表的観光ルート「メルヒェン街道」は、グリム兄弟が生まれた中部ハーナウを起点に北へのぼり、音楽隊で有名なブレーメンまでの約600キロをいう。この行程の3分の2ほどのところに、現人口5万6千人強のハーメルン市がある。

 この小さな古都が5月から9月の毎日曜日、世界各地からおおぜいの観光客を引き寄せるのは、住民手作りによる野外劇が上演されるためだ。グリム兄弟の『ドイツ伝説集』に収録されている「ハーメルンの笛吹き男」を劇化したもので、30分ほどの短く素朴な舞台。

 グリムの伝えるあらすじは――

 1284年、ネズミの害に悩まされていたハーメルンに、奇妙な「まだら男」がやって来る。このあだ名は、さまざまな色の布をパッチワークした上着を身につけていたからで、本人は「ネズミ捕り男」と称していた。

 

・彼はネズミを退治する代わりに報酬をもらう約束を市民たちと取り交わすと、さっそく笛を吹き、その音につられて集まった町中のネズミを、ヴェーザー川まで導いて溺れさせた。ところが市民は約束の金額を出し渋り、男を町から追い出した。

 6月26日のヨハネパウロの日(旧夏至祭)、町は違う服を着て再び現れ、路地で笛を吹いた。すると4歳以上の子どもたちが集まってきて、男のあとをネズミと同じように付き従い、市門を出て山の方へ向かい姿を消す。赤子を抱いた子守の少女だけが町へもどり、それを知らせたのだった。

 行方不明になった子どもの数は130人、捜索隊は手がかりを見つけられず、親は悲嘆にくれ、この事件は市の公文書に記された。

 

描かれた「ハーメルンの笛吹き男」

ハーメルン市民にとっては、ご先祖様が約束を反故にして復讐される話がそう楽しいはずがない。にもかかわらず7世紀以上も延々と語りついできたばかりか、今現在も演じ続けている。それはこの不思議で不気味で哀切な伝承の裏に、何かもっと、語られている以上のものが隠れていると誰もが感じ、いつまでも記憶にとどめるべきだと信じているからに他ならない。

 先述したように、同時代人は消えた子どものことを公的文書に残した。それから20~30年ほど後の14世紀初頭、文字の読めない大多数の住民のために町の教会(マルクト教会)のステンドグラスに、ガラス絵が描かれた。もはや現存していないが、幸いにして16世紀後半に模写された彩色画が残っており、これが最古の「ハーメルンの笛吹き男」図となる。

 

子どもたちの失踪が与えた衝撃

・13世紀末ドイツの小さな街ハーメルンで、130人の子どもが忽然と消えた………。

 当時の街の規模から考えて130人がどれほどの大人数だったか、後世の我々にも何となく想像はつくが、近代のハーメルンに当てはめるなら2000から2500人相当だろうとの研究結果もある。

 

・そして当然のことながら、口伝えの過程で話は膨らんでゆく。グリム兄弟の『ドイツ伝説集』は、主に16~17世紀の資料をもとに編纂されたものだが、子どもが消えた1284年からそれまでの間で、庶民に直接影響を与えた歴史的大事件といえば、14世紀のペスト禍(ヨーロッパの人口の3分の1ないし2分の1が死んだとされる最大規模のパンデミック)と魔女狩りである。この2つが「ハーメルンの笛吹き」伝承にも影響を与えたのは間違いない。

 なぜなら古い文献のどこにも、グリム伝承の前段に当たるネズミ退治のテーマは見られない。

 

文献が語る「ハーメルンの笛吹き男」

・もっと具体的に記された最古の記録は、15世紀半ばの『リューネブルク手稿』である。筆者はおそらく修道士。この事件を古文書で知ったという。曰く

 1284年のヨハネパウロの日に、ハーメルンで不思議なことが起こった。30歳くらいの男が、橋を渡ってヴェーザー門から入ってきた。身なりが立派だったので、皆、感心した。彼は奇妙な形の銀の笛を持参しており、それを吹くと、聞いた子どもたちが集まってきた。そしてその130人の子たちは男の後をついて東門を抜け、処刑場の方へ向かい、そのままいなくなった。母親たちは捜しまわったが、どこへ消えたか誰もわからなかった。

 これが話の骨格だったのだ。

 ネズミも市側の裏切りもない。単に見知らぬ男が来て笛を吹き、子どもらと共にいずこともなく消え去ったというだけしかし1284年という年号と130人という数は中世のどの文献にも共通し、この具体的数字の生々しさによって、事件が現実に起こったことがうかがえる。

 

事件の骨格を飾り立てた時代的要素

・童話風の趣を持つようになったのは、さまざまな時代的要素が加わった後だ。本来は皆が驚く立派な身なりだったのに、「笛を吹く」という要素が強調されて放浪の辻音楽師的イメージになり、そんな身分の低い貧しい者の服が高価であるはずもないとして、色が派手で人目を惹いた、と変化してゆく。

 

伝承の真実は

・皆がよく知る「ハーメルンの笛吹き男」の物語から童話風の装飾を剥ぎ取れば、それはごく単純な――しかしもちろん衝撃的な――事実の羅列となる。即ち、1284年のヨハネパウロの日、ハーメルン市に身なりの立派な男が現れ、笛を吹いて130人の子どもを集めて連れ去り、消息を絶つ。その後、杳として行方が知れない。

 男は誰だったのか、なぜ子どもらは男について行ったのか、どこへ連れてゆかれたのか、生きているのか死んだのか……。

 何世紀にもわたり、世界中の研究者がこの謎を解き明かすべく、さまざまな論考を発表している。それをテーマ別に分類するだけで30種近くになるというのだから、この話の内包する魅力の強烈さがわかろうというもの。

 

研究者によるさまざまな論考

  • 何らかの伝染病に罹患した子どもたちを、町の外へ連れ出して捨てた。
  • 処刑場近くの山は、キリスト教が入ってくるまでは古代ゲルマンの祭祀場で、夏至祭には火を燃やす。笛吹き男に誘われた子どもたちが見に行き、崖から転落死した。
  • 舞踏病に集団感染し、踊りながら町を出て行った。

 ――これは遺伝性のハンチントン病(旧ハンチントン舞踏病)とは異なり、中世によく見られた一種の集団ヒステリー。祭りの熱狂の中、自然発生的に起こり、狂乱状態で踊り続けて、時に死に至る(たいていはしばらくすると憑きものが落ちたように呆然とするらしい)。単調で抑圧的。なお且つ死の危険が身近にあった中世人が陥る爆発的躁状態だ。ただしハーメルンだけで、一度に130人、それも子どもだけというのは説得力が弱い。

  • 「子供十字軍」としてエルサレムへ向かった。
  • ハーメルンでの未来に希望が見いだせず、東欧に植民するため移住した。

 

つまりまだ万人を納得させるに足る定説はないのだ。研究は続けられており、「ハーメルンの笛吹き男」を読む楽しみは尽きない。

 それにしても、この伝承における子どもたちの身になって考えると恐怖が押し寄せてくる。妖しい魔笛の音に操られ、夢遊病者のように歩いて、気がつけば見も知らぬ異邦の地に佇む自分がいたとしたら……。

 

<●ファウスト伝説

戯曲『ファウスト

ファウストという名は、ドイツの文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』によって世界的に有名になった。幾度か映画化され、オペラも上演回数が多い。

 ゲーテが造型したファウストは老いた学者で、知識ばかりを詰め込んで経験が伴わなかった己の人生を後悔し、悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ。それはメフィストの助けを借りて若返り、この世のありとあらゆる体験をさせてもらう代わり、「時よ、止まれ。おまえは美しい」と言った瞬間、魂を地獄に持ってゆかれるというものだった。

 ファウストは100年を生き、善悪問わずさまざまな体験を経た後、最後は己の個より公のため理想郷の建設に奮闘し、完成間近の至福のうちに先の禁句を口にして倒れる。だが神に赦され、魂は天へと昇っていった………。

 かくしてゲーテファウストは、ドイツ的精神の理想像と見なされるようになる。だがこの物語の根幹はゲーテのオリジナルではない。ファウスト博士は実在したからだ。

 

「天才」ゲオルク・ファウスト博士

・ゲオルク・ファウストは1480年ころ、ドイツ南西部の小村に生まれた。天才児と呼ばれ、当時の小学校にあたるラテン語学校に通った後、さらに修道院でも学んでからハイデルベルク大学へ進学した。途中でポーランドクラクフ大学にも在籍したが、それはヨーロッパの大学で唯一「魔術学」の講座があったからだという。その後ハイデルベルク大学へもどり、優秀な成績で神学博士号を授与される。

 

・博士となったファウストエアフルト大学でギリシャ語などを講じたが、やがて追放の憂き目にあう。学生の評判が悪かったせいではなく、むしろ逆だ。評判が良すぎた。なぜなら彼はしきりに占星術や人相見による予言、病気の治療、錬金術の実験の他、死者の呼び出しなどをみせたからだ。

 なかでも学生の求めに応じてギリシャ神話の英雄たち怪物、またトロイア戦争の直接的原因となった絶世の美女ヘレネなどを眼前に出現させて驚かせたが、大学側はそうしたことをキリスト教への冒瀆と断じてファウストを処分したのだった。

 大学を追われた後のファウストは、同じような魔術を披露して各地を転々とした。現代でも世界中で占い師が活躍しているが、当時はそれ以上に錬金術師や魔術師や占星術師の需要は大きく、ファウストもかなり豪勢な生活を送ったようだ。

 

宗教改革マルティン・ルターもヴィッテンベルク大学における会食でのスピーチでファウストについて触れたという(ルターのスピーチをまとめた『食卓講義』による)。それによれば――

 大貴族が学者らを招いたなかに、ルターもファウストもいた。この時ファウストは、狩猟中の馬がどうと倒れる迫力のシーンを出現させて皆を驚かせた。ルターはこれを、悪魔が見せた幻と表現したという。

 

民衆を魅了したファウスト伝説

・実のところ、上記のファウストの経歴のいったいどこまでが事実で、どこからが伝説か、未だよくわかっていない。ゲオルクという名のファウストが実在したのは間違いないが、ヨハネファウストもいたらしい。いやゲオルクとヨハネスはそもそも同一人物だと主張する者もいる。

 確かなのは、民衆がファウスト伝説に魅了され、次々にエピソードを増やしていったことだ(ファウスト宇宙旅行までしたことになった)。

 

<●ディアトロフ事件

冷戦下のソ連で起きた未解決事件

・この革命によってロシアは長く続いたロマノフ王朝を倒し、1917年、世界初の共産主義国家を樹立した。国名もロシア帝国からソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)へと変わり、この体制は「ベルリンの壁崩壊」後の1991年まで続く。その間に資本主義国家と共産主義国家の冷戦があり、もともと秘密主義の色濃いソ連は、鉄のカーテンの向こうに隠れていっそう他国の眼から見えにくくなった。70年以上もカーテン越しだったのだ。

 

奇譚というにふさわしい「ディアトロフ事件」もその一つである。謎はまだ解明されていない。

 1959年1月。

 日本ではメートル法が施行され、南極に置き去りにされた樺太犬タロとジロの生存が確認された。フランスではド・ゴールが大統領に選ばれ、アメリカではアラスカが49番目の州になっている。

 そしてソ連。ウラル科学技術学校(現ウラル工科大学)のエリート学生たちを中心とした若者10人の一隊が、真冬のウラル山脈をおよそ2週間の行程でスキー・トレッキングすべく、エカテリングルクを出発した。

 隊長は大学4年生のディアトロフ(この事件が彼の名にちなんで付けられたことがわかる)。他に男7人、女2人。皆20代前半だったが、男性のうち一人だけが30代後半の元軍人。インストラクターとしてついて行ったとされる。

 彼らが残した日誌、数人が撮った写真、途次に立ち寄った場所での地元の人々との交流などは正確に知られており、それによれば、出発して10日目の2月1日が、ホラチャフリ山、即ち先住民マシン族の言葉で「死の山」――なんとも不吉で、しかも予言的な山名ではないか――へ登る前日だった。直前に男子学生1人が体調不良で脱落したため(おかげで彼は命拾い)、グループは9人に減っていた。

 9人は翌日の万全を期し、「死の山」の斜面をキャンプ地にして一泊を決める。この夜に「恐るべき何か」が起こったのだ。

 

発見された凄惨な遺体

・一行の連絡が途絶えたため、2月下旬に捜索隊が結成された。厳しい条件下、まず雪に埋もれた無人のテントを見つける。中にはスキーブーツがずらりと並び、食料やリュックなどがきちんと整頓されていたが、テント布は内部から切り裂かれていた。

 やがてそこから数百メートルほど下ったヒマラヤ杉の近くで二遺体が発見される。ともに木から落ちたような傷と、火傷の跡、口から泡、上着もズボンも靴も身につけていなかった。零下30度にもなる場所だから、これは命取りである。死因は低体温症とされた。

 

・次いで、その木とテントの中間地点の雪の下に男女三遺体が見つかる。一人は隊長ディアトロフで、服は別のメンバーのもの、帽子や手袋はなく、靴も履いていない。格闘したような跡が見られた。もう一人の男にも格闘した形跡があり、頭蓋骨を骨折していた。靴下は何足もはいていたが靴はなし。女子学生はスキージャケットにスキーズボンと、服装はきちんとしていたもののやはり靴はなく、手に多数の打撲傷、胴の右側部に長い挫傷。3人とも直接の死因は低体温症らしい。

 他の4人はなかなか発見されなかった。何度目かの捜索でやっと5月初旬に、件のヒマラヤ杉からさらに離れた小さな峡谷(テントから1キロ半も先)で発見されたが、どの遺体も凄惨そのもので、先の5人がごく普通の死に思えるほどだ。

 全員、靴を履いておらず薄着。下着姿の者までいた。また全員、骨に著しい損傷があり、落下が原因とは考えにくい暴力的外傷だった解剖医は、車に轢かれたような、と形容したという。ただし最初に発見された男性の遺体は水に浸かっていたため腐敗が進みすぎ、死因の詳細が突き止められなかった。顔の見分けがつかず、頭蓋骨も露出。

 あとの男2人は、それぞれ肋骨が何本も折れ、また頭部に烈しい損傷を受けていた。一人の衣服からは放射能も検出される。さらに痛ましいのは女性で、肋骨が9本も折れ、心臓の大量出血、口腔内からは舌だけが丸ごとなくなっていた。そして彼女の衣服からも、高レベルの放射能が検出されたのだった。

 

なぜ彼らはテントを離れたか

・ウラル科学技術学校の男女学生6人、及び同大卒業生2人、臨時に加わった退役軍人1人からなる9人のトレッキング・グループは、真冬の「死の山」の斜面の雪を掘って大きなテントを張り、夕食を終えた6、7時間後、ブーツを脱いで眠りについた(あるいはつこうとしていた)。

 真夜中、だがなぜか全員そのままテントを飛び出る。幾度も雪山トレッキングを経験してきた彼らが、零下30度にもなる戸外へ靴も履かずに出たらどうなるか、知らないはずがない。まして漆黒の闇だ。雪の白さをもってしても、また数人が手にしていたマッチや懐中電灯の明かりがあったとしても、元の場所にもどれる可能性は限りなく低い。テントを離れることは、即ち死を意味する。

 にもかかわらず皆が皆、やみくもにテントを出たがった。中からナイフでテント布を切り裂いてまで、大慌てで、そして我先にと、その場を離れたがった。統制のとれた理性的な行動をずっと続けてきた彼らだけに、あまりに奇妙で信じがたい。これほど激甚で無謀な行動を引き起こしたものは、いったい何だったというのか?

 ディアトロフ事件最大の謎はここにある。

 

事件の謎に対するさまざまな解釈

ソ連が崩壊してロシアへの旅がしやすくなるにつれ、世界中の謎解きマニアたちが「ディアトロフ事件」に挑みはじめた。数々のノンフィクション、小説、テレビ・ドキュメンタリー、映画が生まれ、さまざまな解釈が披露されている。どれも一長一短あり、これぞ決定版というものはまだないが、いくつかあげておこう。

Ⅰ 雪崩説――ありふれていても、一番妥当とされてきた。ただし「死の山」の勾配はわずか16度しかなく、ふつう雪崩は起きない。しかも学生たちの足跡が一部残っていた。

Ⅱ マシン族ないし野獣襲撃説――足跡皆無。

Ⅲ 竜巻説――テント内にいた時ではなく、外へ出てから小さな竜巻に襲われたというのなら、ひどい骨折の説明にもなる。ただ固まって倒れていた理由はわからない。

Ⅳ UFO説――数ヵ月前からこの近辺の上空に正体不明の火球が飛んでいた(目撃証言が多数ある)。もしそれがUFOで、テント近くに着陸してエイリアンが降りてきたら、どんな剛毅な人間でもパニックになって逃げだすだろう。特にこの時代はSF黄金期だった。あいにく物的証拠はない。

Ⅴ 軍の陰謀説①――火球はUFOではなく開発中の新兵器で、軍事機密をグループに知られたため全員を抹殺。

Ⅵ 洞②――軍による人体実験の犠牲になった。

Ⅶ 同③――グループに同行した元軍人が、山で秘密裡に接触したスパイと何らかの理由で争い、学生が巻き添えになった。

 

このようにソ連軍が関与していたとしたら、永久に証拠書類は出てこないだろう。

 

奇譚は語り継がれる

・そして2013年、新たなドキュメンタリーの傑作が生まれた。アメリカの映像作家ドニー・アイカー著『死に山』がそれだ。翻訳も出ているのでぜひ読んでほしい。

 著者アイカーは、現場に赴くことなく自宅の椅子に座って事件を解決する「アームチェア・ディテクティブ」ではなかった。自らロシアへ何度も出かけ、グループ唯一の生き残り(21歳だった学生は、すでに75歳になっていた)にも会って貴重な証言を得たし、驚いたことにディアトロフ隊と同じ行程を辿って冬の「死の山」へも登ったのだ。

 

・アイカーの説では、直接の死因たる頭蓋骨骨折も圧迫骨折も全て事故で説明がつけられ、怪死でも何でもないという。つまり本当の死因はテントから飛び出たことであり、飛び出ざるを得なかった、その理由は――超低周波音の発生だったと断言している。

 「死の山」は標高1000メートルを少し超える程度の、さほど高い山ではない。勾配もゆるやかで、左右対称の、お椀を伏せた形をしている。しかし一見おだやかそうなこの形が、強風のもとでは稀にカルマン渦(物体の両側に発生する、交互に反対回りの渦の列)を生じさせることがある。今回はテントを挟んで右回りと左回りの空気の渦ができて超低周波音を生み、中の人間を襲った。

 それでどうなるかといえば、耳には聞こえなくとも生体は超低周波音に共振し、ガラスのようにもろくなる。心臓の鼓動が異常に高まって苦しくなり、パニックと恐怖に襲われ、錯乱状態になるという。ここが「死の山」と名づけられたのは動物がいないからだが、それは時折り発生するこの超低周波音のせいで棲みつかなかっただけかもしれない。

 アイカーはこの説を専門家に肯定してもらったと記している。しかしその専門家は1人だけだし、検証がなされたわけでもない。完璧に証明されたとは言えないのではないか。

 

・結局この解答にもまだ謎が残り、ディアトロフ事件はこれからもずっと奇譚として語られ続けるような気がする。

 

ディアトロフ事件の最新情報

・本書の校正が終わった直後に、奇しくもロシアから「ディアトロフ事件」の最新情報がもたらされた。遺族の要請により、2年ほど前からロシア政府が再調査していたのだという。結果は「雪崩説」。被害者9人の死因は雪崩によるものと断定している。多くの研究者から否定されてきた説だ。案の定、遺族らが作った民間団体の弁護士は、「雪崩説には同意できない。人為的な原因だったのではないか」、そう異論を唱えたと、タス通信が伝えた由。

 

<●ホワイトハウスの幽霊

リンカーンの幽霊

アメリカ大統領の公邸にして政権中枢であるホワイトハウスには幽霊が、それもエイブラハム・リンカーンの幽霊が出ることは(アメリカ人なら)誰でも知っているのだそうだ。

 歴代大統領で人気ナンバーワンを誇るリンカーンだけに、彼の幽霊を見たとされる人も錚々たるメンバーだ。イギリス首相チャーチル、オランダ女王ヴィルヘルミナルーズベルト大統領夫人エレノア、アイゼンハワー大統領の報道官ハガティ、トルーマン大統領の娘、レーガン大統領の娘など。

 他にホワイトハウスのスタッフも入れると、目撃者は50~60人ではきかないだろう。リンカーンの幽霊は窓からポトマック川を眺めていたり、客人の泊っている部屋の扉をノックしたり、ホールを歩きまわったりするようだ。遭遇して気絶した女性もいたというが、建設後たかだか200年余の、しかも明るい白い壁とあっては、幽霊の出方も迫力に欠ける。

 

リンカーンケネディの奇妙な一致点

・では、絶対的事実の提示だけでこの世の不思議を味わえるエピソードを見よう。リンカーンジョン・F・ケネディとのシンクロニシティ共時性、ないし意味ある偶然の一致)についてだ。

 

活躍した時代におよそ1世紀の開きがある2人だが、奇妙な一致点が異様なまでに多い。

リンカーンが連邦下院議員に初当選したのは1846年、その100年後の1946年にケネディが連邦下院議員に初当選。

リンカーンの大統領選出は1860年ケネディの大統領選出はそのちょうど100年後の1960年。

・大統領選の対立候補は前者ダグラスで1813年生まれ、後者ニクソンで100年後の1913年生まれ。

ケネディの秘書官の一人はリンカーンという名だった。

リンカーンはフォード劇場で撃たれ、ケネディはフォード社製リンカーンに乗っていて撃たれた。

・どちらも後頭部を狙われている。公衆の面前の場合、ふつうは胸部を狙うことが多いにもかかわらずだ。

両大統領とも厳重な護衛を嫌がったリンカーンの場合、桟敷席にボディガードはいなかったし、ケネディの場合、オープンカーのルーフを取り外させてパレードで手を振った。

・どちらも撃たれたのは金曜日(エス磔刑された曜日なので、キリスト教徒にとって特別な意味あいをもつ)。

・隣に妻が座っていたが2人とも無事。他に一組のカップルがいて、男のほうが重傷を負っている。

リンカーンを殺したブースもケネディを殺したオズワルドも、裁判にかけられる前に射殺された。

・ブースは劇場で撃ち、納屋(倉庫)に逃げた。オズワルドは倉庫から撃ち、劇場(映画館)へ逃げ込んだ。

・副大統領の後を継いだ副大統領はどちらも南部出身の民主党員で、名はジョンソン。

 

――驚愕するばかり。

 

<●ドッペルゲンガー

もう一人の自分

ドッペルゲンガー(Doppelgnger)はドイツ語。doppelはdouble’ gngerはgoerで、直訳すると「そっくりに動く人」。つまり、「生き写し」、「分身」、時に「生霊」。

 必ずしも本人が自分のドッペルゲンガーを見るとは限らず、他人から別の場所で自分を見たと言われることもある。この現象は世界中に言い伝えとして残されており、一般的に肉体と霊魂が分離したものと考えられている。自分で見た場合は死の予兆との迷信も根強い。

 

数々のドッペルゲンガー

・欧米におけるドッペルゲンガーについての記録は、19世紀半ば以降著しく増えている。それはオカルトや降霊術の大流行と重なり、またスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』を筆頭に、ドストエフスキー、ロレンス、パー、ワイルドなどが小説に取り上げることで、ブームはいっそう盛り上がったのかもしれない。

イギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーは、自分のドッペルゲンガーが妻メアリを絞め殺そうとするのを目撃した。それからしばらくして、ドッペルゲンガーはまた現れ、「いつまでもこんなことをしているんだ」と怒鳴ったという。パーシーの死はその2週間後。ボートの転覆事故による溺死であった。

 

・フランスの作家ギ・ド・モーパッサンドッペルゲンガーは、彼が小説を執筆しているところへ突然入ってきて、続きを口述して消えたという。ただしこの頃のモーパッサンは先天性梅毒が悪化し、痛み止めに多量の麻薬を摂取していたから、幻覚だった可能性が高い

 アメリカの第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、最初の大統領選挙戦の時、鏡の中に2人の自分を見たという。

 

・ドイツの作家ヴォルフガング・フォン・ゲーテが自伝『詩と真実』に記しているドッペルゲンガー目撃譚だ。

 若きゲーテは恋人のもとへ馬を走らせていた。すると向こうから明るいグレーの服を着たドッペルゲンガーが馬に乗ってやって来るではないか。驚いたが、やがてそのことを忘れてしまう。8年後、ゲーテはまた同じ道を、今度は逆方向に馬を走らせていたが、その時忽然と思い出したのは、今の自分があの時のあのドッペルゲンガーと同じ明るいグレーの服を着いていたということだった。

 数々のドッペルゲンガー譚。しかし実際には、幽霊譚と比べてはるかにその数は少ない。なぜだろう? 自分が自分を見る――その衝撃は幽霊を見るのと比べものにならぬほど大きいからではないか。幽霊などよりずっとずっと怖いからではないか………。

 

<●ブロッケン山の魔女集会

ブロッケン山の妖怪

・日本とドイツの面積はほぼ同じだが、可住地は前者約30パーセントに対して、後者は70パーセント。ドイツがいかに平坦な国か、よくわかる。

 

・ただしドイツ中央部はゆるやかに盛り上がり、低い山々が島状に集まったハルツ山地を形成している。ブロッケン山は、ここで一番高い。

 

・あいにく晴れた日は少ない。花崗岩の露出したこの山は、年間平均260日は霧に包まれるのだ。気象の変化も激しく、降雨量が多い上、強風も吹き荒れる。

 海と同じく、山も異界だ。平地の住民にとって危険で不吉な場所である。ましてブロッケン山は、古来、妖怪や魔物の住処として恐れられているだけになおさらだ。

 

伝説の「ヴァルプルギスの夜」

・物の怪も天使も悪魔も実在すると信じられた時代である。文字の読める者は一握りしかおらず、自然現象を科学で解明しようとの試みもわずかだった。

 今でこそこれが「ブロッケン現象」なるものと知る人は多いが、この言葉自体、初めて使われたのは18世紀末と、かなり遅い。ブロッケン山でひんぱんに見られたことが命名の由来だ(もちろん条件が同じであれば、世界中さまざまな場所で見られる)。

 太陽が背にあり、前方に深い霧がたちこめているのが条件だ。

 

・「ブロッケン現象」という科学用語ができるまで、人々はこれを「ブロッケンの妖怪」と呼んでいた。

 こうした恠異の発生するブロッケン山は、いつしか伝説の「ヴァルプルギスの妖怪」と呼んでいた。

 こうした怪異の発生するブロッケン山は、いつしか伝説の「ヴァルプルギスの夜」(またの名を「魔女の夜」)と結びついてゆく。4月30日の日没から5月1日未明にかけて、各地の魔女たちがブロッケン山に集まり、宴を催すというのだ。

 

各地で行われた魔女の集会

・魔女は定期的に集まり、乱痴気騒ぎを繰り広げる――そう信じられていた。その集会を「サバト」という。語源はヘブライ語の「安息日」。それがいつしか魔女の集会(=魔女の夜宴、夜会)の意味で使われるようになった。

 サバト開催日は各国、各地方で伝承が違い、4月もあれば、10月のハロウィンや12月のクリスマスのところもあるし、毎週木曜、ないし金曜のこともあった。時間は夜とは限らず、昼の例さえ記録に残っている。

 

・ドイツでは何といってもブロッケン山だ。ここで年に一度開催されるサバトは「大サバト」であり、「ヴァルプルギスの夜宴」と名づけられている。ヨーロッパ中の魔女たちにとって、ヴァルプルギスの夜宴は一生に一度行けるかどうかの、お伊勢参りみたいなものだったのかもしれない。

 

捻じ曲げられた「春の祭典

・ヴァルプルギスという言葉は、イングランドからドイツに伝道に来た8世紀の聖女ヴァルブルガ(病気治癒の奇蹟を行った)が元とされる。ただし事はそう単純ではない。

 キリスト教に席巻される前のドイツにはヴァイキングとともに北欧神話が渡ってきていた。それによれば――主神オーディンは、ルーン文字の秘密を手に入れるため一度死に、しかる後に復活した。それを記念して祝うのが五月祭であり、ヨーロッパ中に拡がってメーデー(5月1日)となった。

 要するに異教の春の祭典だったのだ。春を迎える直前(4月30日没から5月1日未明)のヴァルプルギスの夜には、冬と春が交じり合う。死者と生者の境も曖昧になる。夜明け前が一番暗い。生者に入り交じろうとする悪霊を払うため、篝火が焚かれた。そして5月1日の朝陽が昇って春到来だ。暗から明の激変を、人々は爆発的な喜びとともに迎える。

 

オーディンヒトラー

ところでオーディンはドイツでは通常ヴォータン。音楽愛好家はヴァーグナーの『ニーベルングの指環』を思い起こすに違いない。北欧神話を自由に翻案したこのオペラにも、もちろん隻眼のヴァータンが登場する。

 そしてヴァーグナーといえばヒトラーだ。ヴァグネリアン(ヴァーグナー心酔者)だったヒットラーは、バイロイト音楽祭ヴァーグナー作品のみを演奏する)を支援し、ナチス党大会で「ニーベルゲン行進曲」を演奏させた。またフランスのマジノ線に対抗して建設した要塞は、ヴォータンの孫の名をとってジークフリート線と名づけている

 さらにヒトラーの片腕として有名なゲッペルス。彼は小柄なこともあり、「小さなドクター」だの「腹黒いドワーフ」といったあだ名が付けられていたが、他に、なんと「ヴォータンのミッキーマウス」というものまである。それはつまりヒトラーがヴォータンに見立てられたということだ。

 

近隣社会に溶け込む魔女

・魔女は近隣社会に溶け込み、人と変わらぬ日常を送っている。ところが陰では妖術を使い、密かに農作物を枯らし、人間や家畜を呪い殺している。そして彼女らの総大将たる魔王に召集されれば、体中に特別な軟膏を塗り、箒にまたがって夜空を飛翔し、高い山上であれ、国境を越えた遠方の森であれ、サバトの開催地へ向かうのだ。狂騒に満ちた夜宴は一番鶏の啼き声とともに終わり、その後は文字通り家へ飛んで帰って、何喰わぬ顔でいつもの生活にもどる――そう信じられていた。

 

ヨーロッパ全土に吹き荒れた魔女狩りの嵐

・魔女の存在は紀元前から知られていた。迫害例は数えきれないほどあったが、しかしそれは魔女と見なされた人間が明らかに反社会的行為をしたとの理由からである。変化は14世紀ころから起こり始める。ペストに繰り返し襲われ、長い氷河期で不作や飢餓が続き、ルターの宗教改革で社会不安が生じるなどの過程で、魔女は魔女というだけで罰せられるべきだという気分が高まり、ついに教会が魔女は死刑と決定したのだ。

 

・この狂信的集団ヒステリーを導いたのは、社会の支配層(イングランドジェームズ1世は『悪魔学』を著し、魔女取締法を強化した)や宗教人や知識人だった。しかし時代が下るにつれ、彼らのうちいったいどのくらいが魔女の存在を心底信じていたか、あやしくなってくる。小麦の値段と魔女狩りの明らかな連動は、社会的不満のガス抜きを想起させるし、魔女として処刑された者の財産を公的遺産と認可した市町村では、他のところより著しく魔女が多かった。また尋問記録を読むと、心理学者ならずとも、審問官のサディズムと抑圧された性的嗜好がわかる。

 魔女狩りの実相を知れば知るほど人間であることが嫌になってくる………。

 

魔女裁判終息後のドイツ

魔女裁判はスイスにおける1782年が最後とされる(異説あり)。もうすぐフランス革命という時期まで魔女狩りがあったことに、暗澹たる思いを抱かぬ者はいないだろう。

 

・今ブロッケン山を含むハルツ地方の町々ではヴァルプルギス祭が開催され、世界中から仮装した魔女たちが集まる。魔女狩りにおける犠牲者はドイツが圧倒的に多かったという黒歴史は忘れられ、登山鉄道も通るようになったブロッケン山は明るい観光地だ。

 

<●デンマークの白婦人

白婦人と呼ばれる亡霊

・競争相手が次々消えて(消して?)バーデン大公の地位を得たレオパルトは、22年にわたる善政を敷いた。自由主義的政策をとって経済を活性化させたのだ。しかしそんな彼も祖先の呪いには勝てなかった。

 レオパルトが疾風で臥せっている間、白婦人と呼ばれる伝説の亡霊が宮廷で何度も目撃され、人々はひそひそ囁きをかわした。大公の死が間近なのでは?

 疾風は死病ではない、と宮廷医は取り合わなかったが、大公は結局その疾風によって亡くなる。白婦人は何世紀も前からツェーリンゲン家に取り憑いており、彼女が現れると死人が出ると言い伝えられてきたのだ。今回もそのとおりになった

 バーデン大公国はかつて辺境伯領だった。辺境というのは文字どおり国境領域のことで、バーデン国の君主たる伯爵は異民族と直接対峙する騎士であり、一般の伯爵より上位とされた。

 

・王子を出迎えた両親は憔悴しきったその様子に驚き、デンマーク女性との顛末を聞くと、一族の血脈が呪われたことに大きなショックを受けた。王子はベッドへ倒れ込み、そのまま起き上がれなくなって、まもなく息を引き取った。直前に、白婦人が現れた、という言葉を残して。

 続いて父伯も病に倒れたが、死ぬ少し前、やはり白婦人の姿を見たという。

 

女というものの不気味さ

・まるでギリシャ悲劇のようだ。異国の情熱的な女性が、腹を痛めた2人の子を殺す。王女メディアの世界である。

 愛するメアソンに裏切られたメディアは、彼を完膚なきまでに打ちのめすには彼との間にできた子を殺すことだと、激烈な怒りと冷静な計算のもと、子殺しに至った。

 一方、オラミュンデ伯爵夫人の場合は、愛する男といっしょになるため、別の男との間にできた子を殺した。そこにあるのは、自分の幸せだけを見つめる単眼の残酷さである。

 男にとってはどちらの女性が、より怖いのだろう?