日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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現代に甦ったアマビエを、コレラ除けならぬコロナ除けとして活用する人は、それほど多くはないだろう。むしろ、人々が願っているのは、コロナを退治してくれるワクチンの開発である。(1)

 

 

『疫病退散』

日本の護符ベスト10

島田裕巳   CYZO   2020/8/14

 

 

 

新型コロナ・ウイルス感染症

新型コロナ・ウイルスは、世界中で多くの感染者、死者を出した。社会活動は大幅に制限され、経済には深刻なダメージを与えた

 近年では、グローバル化ということが言われ、人と物、さらには情報が世界をまたにかけて激しい勢いで行き交ってきた。

 行き交うなかには、当然のことだが、病をもたらす細菌やウイルスも含まれる。その意味では、新しいタイプの流行病が世界に拡がるのはグローバル化の進展の必然的な帰結だったのかもしれない。

 

・今からちょうど100年前、「スペイン風邪」が流行した。1918年から1920年にかけてのことである。スペイン風邪の正体は「H1N1亜型インフルエンザウイルス」である。世界中で、当時の人口の3分の1、5億人から6億人が感染したと推定されている

 死者の数については、はっきりしたことがわかっていないが、2000万人から4000万人にのぼるのではないかと言われる。日本での死亡者数も40万人近くに及んだ。

 

・象徴的なのは、毎年7月に行われる京都の祇園祭が中止された出来事である。祇園祭は、もともと、平安時代に京都で疫病が流行したのを鎮めるために始められたものである。それが、新型コロナ・ウイルスの流行によって中止に追い込まれてしまったのだ

 現代の考え方からすれば、それは当然の措置である。祇園祭に多くの人たちが集まれば、それは感染を拡大させることにつながりかねない。止むを得ないということになる。

 宗教施設において、あるいは祭などを通して、流行病の鎮静化を祈ることができないのであれば、ここは護符に頼るしかない。

 もちろん、科学的に考えれば、護符に病をおさめる力があるとは考えられない。

 だが、祈るには、何らかの対象というものを必要とする。祈る対象があることで、祈る側の気持ちも高まり、自分が今何を強く願っているのかを改めて確認することができる。

 

角大師(つのだいし)

・(特徴):天台座主として比叡山復興に尽くしその「中興の祖」と呼ばれる良源(元三大師)が疫病をもたらした厄神を瞑想により弾きだしたのち、瞑想姿を弟子たちに写し取らせ、摺って護符とした。

 

疫病除けの護符として代表的なものが、「角大師」と呼ばれるものである。

 角大師は夜叉の姿をとっていて、頭には二本の角がはえている。角は頭の上にはえているようにも見えるし、眉のところからはえているようにも見える。からだはやせ衰え、骨と皮ばかりになっている。

 角大師は相当に変わった姿をとっていることになる。

 からだはやせ衰え、骨と皮ばかりになっているということでは、釈迦の苦行像が思い出される。出家した釈迦は、師匠について5年間にわたって苦行を続けたという伝説があり、それを仏像として描き出したのが苦行像である。

 

・しかし、角大師は釈迦がモデルというわけではない。角大師は「元三大師」とも呼ばれ、それを異名とする慈恵大師良源が、そのもとになっている。

 

・良源は12歳のときに比叡山にのぼった。比叡山を開いた最澄の直系の弟子ではなかったようだが、優れた才能を持っていて、奈良の南都六宗の僧侶たちとの論争でも相手を論破してしまい、比叡山においてめきめき頭角を現していった。そして、康保3(966)年には、天台宗のトップである天台座主に就任している。すぐれた学僧であった。

 

・このため良源は、比叡山の「中興の祖」とされている。

 しかも、良源は大変な美形であったとも伝えられている。今風の言い方では、「美坊主」であったことになる。

 なぜ美坊主の良源が、角大師のような鬼の姿で描かれるようになったのだろうか。それは、かなり不思議なことである。

 

・ではなぜ、元三大師は角大師となり、疫病除けの護符となったのだろうか。そこには不思議な伝説がかかわっている。

 良源は、満年齢で72歳まで生きるが、亡くなる前の年のことである。一人居室にいて、瞑想をしていると、そこに怪しい者が現れた。

 良源が、何者かと誰何(すいか)すると、相手は「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しております。あなたもまた、これに罹らなければなりませんので、お身体を浸しに参りました」と言ってきた。

 良源は、自分が疫病に罹るのは止むを得ないと、「これに附いて見よ」と左の小指を差し出した。厄神がそれにふれると、良源の全身が発熱し、耐え難い苦痛を覚えた。

 そこで、こころを落ち着かせ、天台宗に伝わる瞑想の方法である「円融三諦(えんにゅうさんたい)」を実践し、指を弾くと、厄神は弾き出され、逃げ出してしまった。それによって良源の苦痛は去った

 この出来事があったため、夜が明けると良源は弟子たちを集め、鏡を持ってこさせた。自分の姿を鏡に映すから、それを描き留めろというのである。

 良源が鏡の前に座り、深い瞑想の状態に入ると、その姿はしだいに変わり、ついには、骨ばかりの鬼の姿になった。角大師に変身したのである。

 弟子たちは、師匠の変わりように恐れをなし、その姿を写すことができなかった。だが、なかに一人、生きながら地獄に行ったことのある明普阿闍梨あじゃり)だけが、それを写しとることができた。

 良源は、それを見て満足し、「これでよい」と、版木をおこし、札を摺るように命じた。「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼りつけるよう申しなさい。この影像のあるところ、邪魔は恐れて寄りつかないから、疫病はもとより、一切の災厄を逃れることができるのじゃ」というわけである。

 実際、札を貼ると、疫病に罹らないですむとともに、病気に罹っていた人たちも全快した。

 これが角大師誕生の由来だというのである。

 

・角大師の札は、『元亨釈書』が成立した14世紀にはすでに摺られ、広まっていたようだ。

 角大師には、「降魔大師」というバリエーションがある。こちらは、仏像が載るような台の上に、鬼が座っている姿をとっている。違いは、角大師が痩せているのに対して、降魔大師は太っているところにあり、牛のようでもある。これはあるいは、祇園社で祀られてきた牛頭天王と関係しているのかもしれない。

 

降魔大師(ごうまだいし)。(特徴):仏像が載るような台の上に、角大師と同じく鬼のような姿で座す元三大師を描いたお札。鬼大師ともいわれる。

 

降魔大師よりもよく知られた元三大師のバリエーションが「豆大師」と呼ばれるものである。これは、米粒のように小さな33体の元三大師の姿を描いたものである。

 33という数は観音信仰とにかかわっている。観音は、さまざまな姿に「変化(へんげ)」することを特徴としており、その姿は33あるとされる。観音巡礼として名高い「西国三十三所」も、これに由来する。京都の名所、三十三間堂も、同様である。豆大師は、元三大師信仰と観音信仰が習合して生まれたものである。

 

豆大師(まめだいし)。(特徴):如意輪観音の化身ともいわれる元三大師の小さな像が9段で33体描かれている。33の数は観音菩薩の33変身(33の姿に変わり人々を救う)の話に通じるもの。

 

・元三大師の礼は、天台宗の寺院で魔除けとして配布されている。豆大師とセットになっていることも多く、角大師と元三大師良源がともに描かれているようなものもある。

「大師」と聞くと、多くの人たちは、真言宗を開いた弘法大使空海のことを思い浮かべるであろう。

 だが、天台宗で大師と言えば、この元三大師のことを指すのである。

 

牛頭天王(ごずてんのう)

・(特徴):日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地にちなみ祇園精舎の守護神とされた。八坂神社の前身である感神院祇園社で勧請されたのち、全国の祇園社、天王社で祀られた。強力な行疫神(疫病や災厄をもたらす神)であるゆえ、丁重に祀れば逆に除疫神となる

 

・新型コロナ・ウイルスの感染拡大で、さまざまなイベントが中止に追い込まれ、それは、宗教界にも及んだ。毎年恒例の祭が中止される事態となっている。

 そのなかでも、もっとも衝撃が大きいのが京都八坂神社の祭礼、祇園祭が中止されたことである。祇園祭は、日本の三大祭をあげるとき、必ずやそこに含まれる。祭の期間も長く、7月の京都は祇園祭一色に彩られる。

 だが、衝撃だと言うのは、その由来が疫病と深く関係するからである。

 

・そこからは、いかにも観光のための祭のように思われるかもしれない。だが、祇園祭は、怨霊を鎮めるための御霊会として始まったものである。

 御霊会とは、冤罪で亡くなった死者の霊、御霊をなだめるためのもので、御霊はその祟りによって疫病や天災をもたらすと考えられていた。

 

ただし、山鉾巡行は、余興として後に生まれた「付け祭」である。本来の祇園祭は、巡行の後、夕刻から行われる神幸祭の方である。神幸祭には、中御座神輿、東御座神輿、西御座神輿と呼ばれる3基の大神輿が登場し、氏子町内を渡っていく。1000人を超える男たちが神輿を担ぎ、神輿が暴れ狂うので、山鉾巡行とは対照的に、祭は勇壮なものに転じていく、いかにも悪疫退散の祭である。

 現在では、中御座神輿には素戔嗚尊が、東御座神輿にはその妻である櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が、西御座神輿には素戔嗚尊の8人の子どもである八柱御子神(やはしらのみこがみ)が乗っているとされる。いずれも八坂神社の祭神である。

 

祇園社の祭神は、中御座が牛頭天王、東御座が八王子、西御座が頗梨采女(はりさいにょ)とされていた。素戔嗚尊櫛稲田姫命であれば、それは記紀神話に登場する。しかし、牛頭天王頗梨采女となると、神話に登場する神ではない。どちらも、歴史の途中で、素戔嗚尊や櫛稲田姫と習合したのである。

 なお、現在の東御座には櫛稲田姫命が、西御座には八柱御子神が祀られているので、東西が入れ替わった形になっている。

 八坂神社の前身である祇園社の主たる祭神は、牛頭天王であった。

 では、素戔嗚尊と習合した牛頭天王とは、いかなる存在なのだろうか。

 牛頭天王は、由来が必ずしも明確ではない神格であり、どこからどのような形で生み出されてきたかは必ずしもよくわかってはいない。記紀神話には登場しないし、インド由来の神というわけでもない。また、八幡神のように渡来人が祀っていた神でもない。

 

牛頭天王は、その名称が示すように、頭部に牛の頭を戴く形をとっている。平安時代から鎌倉時代にかけての「辟邪(へきじゃ)絵」にも登場する。辟邪絵とは、疫病をもたらす鬼を神が懲らしめるところを描いたものである。そこに牛頭天王が登場するが、主役は善神である「天刑星」の方で、天刑星は牛頭天王を食べてしまっている。後の時代に、牛頭天王は天刑星と習合するが、「辟邪絵」ではあくまで脇役であり、さほど重要な存在ではなかった。その点では、祇園社で祀られることによって、牛頭天王はその重要性が増したと言える。

 

鎌倉時代に成立したと考えられる『祇園牛頭天王御縁起』という書物には、牛頭天王本地仏薬師如来で、武塔天神(武答天王)の一人息子として日本に垂迹(すいじゃく)したとされている薬師如来は、すでに述べたように、観慶寺の本尊だった。

 武塔天神については、『釈日本紀』に引用されている『備後国風土記逸文の『疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)』という箇所に出てくる。武塔は、朝鮮語でシャーマンを意味するムーダンに通じるとされるが、北海の神だった武塔天神は、嫁を探すために南海を訪れ、自ら素戔嗚尊と称したという

 

・また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』の「祇園」の項目では、牛頭天王は天竺の北方にある九相国の王で、沙渇羅(さがら)竜王の娘と結婚して八王子を生んだとされ、武塔天神とも言うとされている。そこでは、父が東王父で、母が西王母とされていた。西王母についてはよく知られているが、どちらも中国の道教の神である。

 こうした話にふれると、ますます牛頭天王は不思議な存在に思えてくるが、実は、牛頭天王のルーツが朝鮮半島に求められる可能性も残されている。『日本書紀』には、本文とは別に、異なる史料に基づく一書というものがあわせて掲載されているが、その第四には、素戔嗚尊が「新羅国に降到(あまくだ)りまして、曽尸茂梨の処に居します」と述べられている。

 ソウルから東北東およそ100キロのところには、牛頭山と呼ばれる小さな墳丘が現実に存在する。ソシモリとは、高い柱の意味で、それは神を迎えるためのものである。古代韓国語で、ソシの音に牛の字を、モリに頭の字をあてると、ソシモリは牛頭になる

 

・また、吉田神道を開いた吉田兼倶室町時代に撰(せん)したとされ、朝廷が緊急の事態が起こった際に、または定期的にも奉幣(ほうへい)を捧げた「二十二社」について解説した『二十二社註式』という書物においては、「牛頭天王は初めて播磨明石ノ浦に垂迹し、広峯に移る、その後北白川東光寺に移り、その後元慶年中(877~885年)に感神院に移る、託宣に我は天竺祇園精舎の守護の神なりと云々、故に祇園社と号す」と述べられている。ここでは、牛頭天王祇園社と結びつくのは、それが、釈迦の僧坊である祇園精舎の守護神だからだとされている。これは、祇園社が最初、仏教の寺院である観慶寺の境内に祀られたことと関係する。

 

牛頭天王にまつわるさまざまな信仰や逸話については、山本ひろ子『異神』(ちくま学芸文庫)に詳しい。その世界に入り込んでいくと、牛頭天王の正体はどんどん不鮮明になり、さまざまな神仏と次々と結びついていくことがわかる。

 何より、牛頭天王は、牛の頭を戴くという点で異様な姿をしており、それが、疫病のまがまがしさを表現するのにふさわしいものだった。

 そして、疫病をもたらす牛頭天王を祀ることで、なんとか疫病の猛威を逃れようとしたのである。

 

蘇民将来(そみんしょうらい)

・(使い方):木札のほか、紙札、茅の輪、粽、角柱など、さまざまな形状・材質のものがある護符は、門口に貼る、吊る、鴨居に据えるなどして祀る。

 

(特徴):八坂神社や信濃国分寺八日堂ほか牛頭天王と縁の深い寺社で頒布。木札であれば、表に「蘇民将来之子孫也」や「蘇民将来子孫家之門」、裏には「急急如律令」などと記されている。

 

牛頭天王のところで、「武塔天神」についてふれた。武塔天神は武答天王とも呼ばれる。それが、登場するのが『備後国風土記逸文である。

 逸文と言わねばならないのは、『備後国風土記』は全文が残っていないからだ。

 風土記は、奈良時代元明天皇が各国の国庁に命じて作らせたもので、それぞれの地域の産物や伝説について書き著したものである。ただ、ほぼ全部が伝わっているのは『出雲風土記』だけで、播磨、肥前常陸、豊後の風土記は一部が欠けている。ほかの国の風土記になると、何かの史料に引用された形でしか残っていない。

 備後国は、現在で言えば広島県の一部とその周辺地域を含んでいる。『備後国風土記で残されているのは、この武塔天神の逸話だけである。

 では、その逸話はどのようなものなのだろうか。

 武塔天神は、もともと北海の神だったが、嫁を探すために南海を訪れた。このことは、すでに牛頭天王のところでふれた

 その旅の途中、武塔天神は、将来を名乗る兄弟に出会い宿を貸してくれるように頼んだ。ところが、金持ちの弟である巨旦(こたん)将来の方は、その申し出を断ってしまう。それに対して、貧しい兄の蘇民将来は宿を貸してくれた上、粟柄のござに座らせ、粟飯までご馳走してくれた。

 そんなことがあってから数年後、武塔天神は、嫁取りに成功したらしく、8人の子どもとともに蘇民将来のもとをふたたび訪れた。そして、「あのときの礼がしたいのだが、子どもはいるか」と、武塔天神は蘇民将来に尋ねる。

 蘇民将来が、妻と子どもがいると答えると、武塔天神は、「茅(ち)の輪を腰に着けておけ」と命じた。その上で、その夜、茅の輪を着けていない者を殺して滅ぼしてしまった。武塔天神は、「私は素戔嗚尊だ。これから疫病が流行したときには、蘇民将来の子孫だと言い、茅の輪を腰に着けていれば、それを免れることができる」と告げたのだった。

 

この伝説をもとにして、かつては牛頭天王、現在では素戔嗚尊を祀る神社では、疫病避けとして「蘇民将来子孫家之門」と記した護符が配られる。

 

・京都の八坂神社では、「蘇民将来之子孫也」と記した粽(ちまき)や、それぞれの面に蘇民、将来、子孫、人也、大福、長者と記した角柱のこけしなども配られる。

 

・八坂神社の場合、河原町通の方から四条通をやってくると、西桜門に突き当たる。そこから境内に入って行くことになるが、すぐ正面には、疫神社という小祠が祀られている。その祭神が蘇民将来である西桜門から入ってすぐに、この小祠があるということは、祇園社と呼ばれていた八坂神社が、疫病を退治する神として信仰されてきたことを象徴している。

蘇民将来子孫家之門」の護符で、一つ注目されるのが、その裏面である。

 そこには、「急急如律令」と記されている。

 そもそも、これはどう読んだらいいのだろうか。

 正解は、「きゅうきゅうのりつりょう」である。

 それを聞いて、歌舞伎を観る方なら、思いつくことがあるかもしれない。歌舞伎の代表的な演目で、歌舞伎の宗家、市川團十郎家に伝わる歌舞伎十八番の一つ「勧進帳」に出てくるからだ。

勧進帳」は、山伏に身をやつした源義経一行が、彼らの行く手を阻むために兄頼朝が設けさせた安宅の関を超えようとする物語で、能の「安宅」がもとになっている。

 

・それにしても、奇妙な呪文だが、もともとは中国の漢の時代のことばである。意味としては、「至急律令のごとく行え」ということである。律令は古代の法律の体系である。法律の通りに早くやれということばがなぜか呪文になったのである。

 この呪文、陰陽師だけではなく、道家や祈祷僧、さらには修験道の山伏も呪文として使ってきた。だから、山伏となった弁慶が使ったのだ。

 陰陽師と言えば、安倍晴明のことが思い出されるだろう。陰陽師には式神を操る陰陽師のイメージがある。

 だが、陰陽師は本来、中務省陰陽寮に属した官僚のことだった。陰陽寮では、暦や時刻を管理したが、同時に、吉凶を占うこともその役割になっていた。

 

それにしても、蘇民将来の逸話は不思議である。蘇民将来は巨旦将来と兄弟とされてはいるが、兄弟なら姓を同じくするはずである。将来が名前の後に来るのは、欧米のやり方と共通する。いったい蘇民将来は何者なのだろうか。武塔天神については、朝鮮語のムーダンがもとになっている可能性があるが、朝鮮半島では、日本と同様に姓の後に名前が来る。その点では、渡来人であるとも言えない。

 蘇民将来の由来を考えるときに、一つ突飛な説がある。

 それは、古代のユダヤに起源を求めるものである

 ユダヤ教でもっとも重要な祭が、「過越の祭」である。これは、ヘブライ語で、「ペサハ」と呼ばれるが、ユダヤの暦が太陰太陽暦であるために、私たちが用いているグレゴリオ暦では、3月末から4月頃の満月の日からの1週間に祝われる。2020年だと、4月8日から16日までだった。

 過越の祭の起源については、ユダヤ教聖典であるトーラー(キリスト教旧約聖書)の「出エジプト記」に出てくる

 ユダヤの人々はエジプトに捕らわれ、奴隷として虐げられていた。そこで、ユダヤ人の信仰する神は、エジプトに対して禍をもたらそうとする。そのなかに、エジプトにいる人間だけではなく、家畜の「すべての初子を撃つ」というものがあった。初子は、はじめて生まれた子どものことを指す。

 その上で、神はモーセと、もう一人のユダヤ人のリーダーであるアロンに対して、傷のない子羊を犠牲にして捧げ、その血を柱や鴨居に塗るように命じた。それで夜明けまで戸口から誰も出なければ、その家の初子を殺すことはないというのである。神が過越すので、過越の祭と呼ばれるわけである。

 

・たしかに、この過越の祭の起源についての話は、蘇民将来の伝説と似たところがある。ただ、だからといって、蘇民将来の護符がユダヤに起源を持つとまでは言えないだろう。それは、オカルトや陰謀論の世界で唱えられてきた「日ユ同祖論」になってしまう。昔の人々の発想には共通するところがあると考えるべきだろう。

 

・むしろここで注目しなければならないのは、素戔嗚尊のことである。

 牛頭天王素戔嗚尊の習合したし、武塔天神もまた、自らが素戔嗚尊であることを明かした。素戔嗚尊牛頭天王、そして武塔天神は一体の関係にある。

 素戔嗚尊は、古事記日本書紀といった日本神話においては、皇祖神である天照大神の弟とされる。そして、父親の伊邪那岐命からは、夜の食(おす)国、あるいは海原を治めるように命じられる。

 だが、亡くなった母の伊邪那美命のいる黄泉の国へ行きたいと駄々をこね、高天原にいた天照大神に挨拶に赴いたときには、お互いに邪な気持ちを抱いていないことを証明したものの、糞をまき散らしたり、田の畔を壊したりと、乱暴狼藉の限りを尽くす。それが、天照大神が天岩戸に籠もる原因にもなった。

 とても、夜の食国や海原を治められるだけの十分な資質を持っているようには思えないが、出雲では、8つの頭と尻尾を持つ八岐大蛇を退治し、娘を娶りたいとする大国主命には父親として数々の試練を与えた。その面では、英雄としての働きを示すのだが、暴力性が、その本質であるとも言える。

 素戔嗚尊は、さまざまな神社で祀られているが、それも、暴力性と無関係ではない。常識を超えた暴力性を発揮するからこそ、それを祀れば、疫病も退治してくれる。私たち日本人は、そのように信じてきたのである。

 

天刑星(てんけいせい)

・(特徴):平安時代の絵画「「辟邪(へきじゃ)絵」では役神や牛頭天王をつかんで食べている道教の神として描写されている天刑星。その後、牛頭天王と習合する。

 

天刑星は、恐ろしげではあっても、疫病をもたらす牛頭天王を成敗してくれる。そこには、疫病退散を願う京都の人たちの思いが示されているのである。

 

虎狼狸(ころうり)

・(特徴):虎、狼、狸の3種の動物が合体したような姿をしている。当時江戸で流行っていたコレラの根源といわれた。名前は3種の動物名の読みとコレラ(漢字表記は虎列刺)がなまったもの。

 

アマビエ>

・(特徴)半人半魚の姿をしており、海中から光り輝く姿で現れ、作物の豊凶や流行病に関する予言を行う。

 

新型コロナウイルスの流行によって一躍脚光を浴びた妖怪と言えば、「アマビエ」である。

 その存在は、妖怪愛好家の間ではすでに知られていたものの、今回は、ツイッターからその存在が拡散された

 ついには、厚生労働省が作成した感染拡大阻止を呼びかけるアイコンにも使われることにもなった。

 

・実は私は、アマビエについて惜しいことをしたと思っている。2014年に刊行した『予言の日本史』(NHK出版新書)のなかで、幕末時代に各地に出現した予言獣に言及していたからである。アマビエもその一つになる。

 ところが、本のなかで、予言獣として神社姫、姫魚、件(くだん)、そしてアマビコにはふれているものの、アマビエについてはふれなかった。アマビコはアマビエに近い。もし、その本でアマビエに言及していたら、「そんなことは、とっくに知っていたよ」と大見得を切ることができたはずである。

 ただ、私がアマビエにふれなかったのは、それが出現した出来事がただの1回だったからでもある

 

肥後国、今の熊本県の海に毎夜、光る物が現れた。そこで役人が赴いたところ、絵のような者が現れ、「自分は海のなかに住むアマビエというもので、今年から6年の間は豊作が続くが、病も流行する。そこで、自分の姿を写して、人々にすぐに見せてくれ」と言って、また海中に消えたというのである。

 アマビエが疫病の流行を予言し、それを防ぐ策を授けたということで、今回、注目が集まったのである。

 私が本のなかで紹介した予言獣は、主に姫魚である。姫魚は、顔は人間の女性で、胴体が魚である。

 

・沖に浮き上がった姫魚は竜宮からのお使いで、姫魚が言うには、これから7年のあいだ豊作が続くが、一方で、「ころり」という病が流行り、多くの人が死ぬ。ただし、自分の姿を絵に描いて、それを見れば、病を逃れることができるというのだ

 姫魚には角が2本はえていて、口には小枝をくわえている。

 

・たしかに胴体は金色に輝いている。一丈は約3メートルだから、かなり大きい。

 

この絵は、赤痢流行の際に、「ころり除け」として配られたものと考えられる。

 アマビエと姫魚には共通性がある。

 アマビエの性別ははっきりしないものの、髪が長いので、女性、もしくは雌の可能性が高い。そこで姫魚と共通する。海に出現したことでも同じだ。

 何よりも重要なのは、予言の内容である。どちらも、今後、豊作がもたらされるとともに疫病が流行るとしている。そして、自分の姿を写せば、病を逃れることができるというところで同じ対策法を指示している。

 これからは、まず、角大師こと良源のことが思い起こされる。良源は、鬼になった自らの姿を写すように命じ、それは疫病除けになった。

 玄宗皇帝が夢に見た鍾馗の話でも、その姿を写したものが疫病除けとして配られた。対処法はいずれも同じで、過去にそうした事例があったことがアマビエや姫魚に反映されている可能性がある。

 直接アマビエや姫魚に影響を与えたと考えられるのが、錦絵に描かれた「亀女」である。

 これは、寛文9(1669)年に越後国新潟県)の福島潟に現れたもので、頭は人間の女性だが、胴体は亀である。光っているところでも、アマビエや姫魚と共通する。

 予言の内容もほとんど同じで、今年は豊作だが、疫病も流行るとし、自分の姿を写して、それを貼り出し、朝夕それを拝めば、病を免れることができるというのである。

 

・長野の論文によれば、アマビエと似たものとして、海彦、あま彦、尼彦、天日子命、天彦、尼彦入道などがあるという。そのほとんどが、豊作と疫病の流行を予言している。

 

・予言獣が関心を集めたのは、幕末から明治にかけてのことで、その時代には、政治体制が根本から変わり、異国の脅威にもさらされた。その分、社会不安が高まっており、人々はこれからどうなるかに強い関心を持たざるを得なかった。

 ただ、普通に考えれば、豊作と疫病は結びつかない。豊作であれば、人々の暮らしは安定するが、逆に不作だと、飢饉になり、それは疫病の流行に結びついた。あるいは、この時代には、そうした通常のパターンが通用せず、疫病に対する危機意識がとくに高まっていたのかもしれない。

 

現代に甦ったアマビエを、コレラ除けならぬコロナ除けとして活用する人は、それほど多くはないだろう。むしろ、人々が願っているのは、コロナを退治してくれるワクチンの開発である。

 現代のアマビエは、そのキャラクターとしての可愛さから、人気を集めている。それをふまえ、かつて大流行した、菓子のおまけについているビックリマンシールのデザインをしてきたイラストレーターが描いたアマビエがシールになった。シールには、アマビエとともに、「疫病退散」の文字が記されている。

 ビックリマンシールが流行したのは1980年代のことで、そこでは、悪魔、天使、お守りの三つの種族の三すくみの物語が展開されているアマビエなら、悪魔の種族ということになるのだろうが、疫病をもたらす神が、やがて疫病を退治する神に変化していくことからすれば、天使の種族にもなり得るはずだ。

 

件(くだん)

・(特徴):牛から生まれ、人間の言葉を話す。作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大な予言をする。歴史に残る大凶事の前兆として生まれ、数々の予言をして凶事が終われば死ぬ

 

摩多羅神(またらじん)

・(特徴):願望成就の大きな力となるが、不敬があると逆に障害を引き起こす障礙神。荒神常行堂では阿弥陀仏を後方より守護。京の三大奇祭の一つ、太秦の牛祭の主役でもある

 

・私は、2019年秋に出雲を旅していて、興味深い場所にぶちあたった。

 出雲と言えば、出雲大社がもっとも有名だが、中世から近世のはじめにかけて出雲大社別当寺になっていたのが鰐淵寺(がくえんじ)である。正式な名称は浮浪山一乗院鰐淵寺である。別当寺とは、神仏習合の時代に、神社を管理していた寺院のことを指す。

鰐淵寺が一乗院を名乗っているところからは、それが天台宗の古刹であることがわかる。一乗は、衆生はすべて成仏できるとする法華経の教えを示すキーワードである。天台宗法華経を信奉する宗派である。

天台宗は、中国で天台大師智顗(ちぎ)が創始し、日本では伝教大師最澄が始めた宗派である。角大師ともなった良源は天台座主をつとめたことがあり、最澄が開いた比叡山の中興の祖でもあった

 

・鰐淵寺の本堂は根本堂と呼ばれる。階段を上って、そこにたどり着くと、根本堂の脇に、摩陀羅神社が建っているのが目に入る。摩陀羅は摩多羅とも書くが、この神を祀る神社は全国でも珍しい。

 一般的に、摩多羅神常行堂という建物の本尊として祀られる。鰐淵寺でも、摩陀羅神社の手前には常行堂が隣接して建てられている。

 天台宗の総本山比叡山延暦寺にあるし、日光の輪王寺や平泉の毛越寺(もうつうじ)などにもある。

 

・実は、毛越寺では、延年の舞が奉納される前に、「蘇民祭」が営まれる。これは、下帯姿の男たちが、松明と「蘇民将来」と記した灯りを持って行列し、最後は、護符の入った蘇民袋を奪い合うものである。これは、「献膳上り行列」と呼ばれる。

 この蘇民祭は、明治15(1882)年に岩手県奥州市の黒石寺から伝えられたものである。黒石寺の蘇民祭は、下帯などをつけず全裸で行うのが伝統になってきたが、下帯着用が義務づけられても、一部が全裸で参加するため、警察や文部科学大臣を巻き込んだ騒動にまで発展したポスターがセクハラと見なされたこともあった。神事だけに、扱いが難しい。

 

それはともかく、延年の舞と蘇民祭が結びつくのは、どちらにも、疫病除けの信仰がかかわっているからである。つまり、摩多羅神は疫病除けの神なのである。

 そのことをはっきりと示しているのが、京都太秦広隆寺で行われる「牛祭」である。

 広隆寺は京都最古の寺院とも言われ、弥勒菩薩像など多くの国宝の仏像を所蔵していることで知られる。現在は真言宗の単立寺院になっている渡来人である秦氏の氏寺で、聖徳太子、ないしは聖徳太子信仰と関係が深い。

 

・牛祭は、長和年間(1012~1017年)に、日本に浄土信仰を広める上で大きな働きをした『往生要集』の著者、恵心僧都源信が、念仏の守護神として摩多羅神を勧請したことに始まるとされる。

 

・牛祭では、神主が摩多羅神の仮面をつけて牛にまたがり、やはり仮面をつけた四天王の持つ松明に先導されて、境内と周辺を一巡する。そして、広隆寺の境内にある薬師寺の前で祭文を唱える。すると、参拝者が読み方が悪いとけちをつけ、摩多羅神と四天王は堂内に駆け込むことになる。変わった祭である。そこから牛祭は、今宮神社のやすらい祭、由岐神社の鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭に数え上げられている。

 疫病除けとのかかわりは、摩多羅神の読み上げる祭文に示されている。

 

個々の病が何を指すかは必ずしも明らかではないが、疫病を列挙したものと見ることができる

 ではいったい、摩多羅神とはどういう神なのだろうか。

 もともとは、最澄の弟子で、唐に渡り、密教を中心に多くをもたらした円仁が、帰国する船のなかで、虚空からその声を聞いたのが始まりとされる。従って、中国からもたらされた神であると言えるが、道教の神というわけではない。

 摩多羅神は三尊からなるもので、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)という二童子を従えている。

 

実は、摩多羅神には、芸能の神としての性格もある。延年の舞に登場するのも、それが関係する。

 

摩多羅神は、不気味な笑みを浮かべていることを除けば、決して恐ろしい神には見えない

 むしろこの神と関連し、容貌が魁偉なのが、円仁の後に唐に渡った円珍が日本にもたらした新羅明神である。新羅明神は、天台寺門宋の総本山である園城寺三井寺)の守護神とされ、新羅善神堂に祀られている。

 

・したがって、これは山本が『異神』で指摘していることだが、新羅明神素戔嗚尊と習合した。素戔嗚尊は、疫病除けの神の代表、牛頭天王とも習合しているわけで、そうした性格をもつ神々は、同一のものと考えられていたのである。

 摩多羅神にしても新羅明神にしても、その正体はまだ十分には明らかにされていない。あるいは、疫病への恐れが、日本の人々の想像力を掻き立て、異形の神、異神を招き寄せたのかもしれない。

 

 

 

『日本秘教全書』   増補改訂版

藤巻一保   Gakken   2007/9/7

 

 

 

『魔多羅神の謎と秘儀』

 ・中世真言宗立川流という異端が出現したように、天台宗には「玄旨帰命檀」と呼ばれる異端の秘密法門が現れた。この二つの異端法門は、多くの点で双生児のように似通っていた。両者はともに、愛欲などの煩悩と死をつかさどる異形神を本尊とした。すなわち、立川流が血塗られた神・吒枳尼を本尊としたように、玄旨帰命檀では、その吒枳尼と同体の神とも、血肉を食らう摩訶迦羅天(大黒天)と同体の神ともされる魔多羅神を本尊とした。

 

・さらにこの両法門は、ともに宗門から淫祀邪教と批判・弾圧され、江戸時代には歴史の表舞台から消え去っていったのである。

 

異形の本尊・魔多羅神>

得体の知れぬ神

・魔多羅神とはいかなる神なのか。本節ではこの謎の神を追っていくが、その正体は、じつは容易につかむことができない。碩学喜田貞吉氏は「魔多羅神考」で種々考察をおこなった末の「結論」として、「結局魔多羅神とは、本体不明な或る威霊ある神として祭られたもので、一向要領を得ぬ事に終わる」と述べている。つまりこの神のルーツそのものは、結局のところ、わからないというしかないのが実態なのである。

 

・その属性とは、いずれも暗黒の冥府神、死の神、障碍の神だということで、暗黒面が強ければ強いほど、その神とよしみを通じれば大きな福を得られるという信仰が生み出されてくるのが常で、ここから福神という第二の属性が派生してくる。

 

・つまり魔多羅神は、死をもたらす暗黒神であると同時に、現世利益をもたらす福神と見なされた未詳の神なのである。

 

魔多羅神のシンボリズム

・性交を即身成仏の秘決とした立川流では、実際に秘儀としての性交が実践された。それと同じことが玄旨帰命檀でも行われたかどうかは定かではない。

 

性神のシンボリズム

・魔多羅神と性の関連では、同神の本体と考えられた大黒天を性神とする民俗的な信仰が関与していた可能性が大いにある。

 

「牛祭」が象徴するもの

・天台に縁の深い魔多羅神だが、この神は真言宗でも祀った。魔多羅神が主役をつとめる祭礼で最も有名なものに、京都最古の寺の太秦広隆寺真言宗御室派)でおこなわれてきた牛祭がある。

 この牛祭では、祭りを執行する行人が魔多羅神やその眷属に扮する。そのうち、魔多羅神は天狗のような鼻高の白仮面をつけ、宝珠を載せたような冠物をかぶり、白装束姿で後ろ向きに牛の背に乗る。牛の乗るのは魔多羅神をシヴァ神の仏教形である大自在天に見立てたためにちがいない。シヴァ=大自在天は牛に乗る神であり、かの摩訶迦羅天(大黒天)でもあるからである。

 魔多羅神の眷属は四人いて四天王と呼ばれるが、これは仏教を守護するおなじみの四天王のことではなく、魔多羅神の前後左右を守る青鬼・赤鬼のこととされる。

 

・この、人々の興奮を煽りたてる祭礼のさまは、魔多羅三尊を、衆生三毒を煽りたてる神とした玄旨帰命檀の説と、みごとに合致している。はげしい乱痴気騒ぎのなかで三毒をあおり、人々のアドレナリンをかきたて熱狂させた末におとずれる一種のカタルシスは、それ自体が迷悟一如の境地であり、この群衆の前に現れた百鬼夜行と異ならない魔多羅神と眷属は、人々の煩悩をかきたて、それを浄化する神だったのである。

 

・牛祭は夜の10時ころから始められた。このような夜祭には、しばしば性的な享楽が付随したことは各地の夜祭に明らかで、たとえば東京・府中の一の宮大国魂神社の「くらやみ祭り」では、神輿は夜11時から渡御され、町内の灯火は消されて町全体が闇に沈んだ。

 

・似たような祭りは全国にある。俗に「種とり祭り」と呼ばれる宇治の「懸祭」、京都八瀬の「雑魚寝祭り」、下総鹿岩の「帯解祭り」、紀州田辺の「笑い祭り」(笑いは隠語で性的交歓を意味する)など、その例は枚挙にいとまがない。

 

・こうした乱婚と古俗と牛祭の関係は明らかではないが、それが性神たる魔多羅神の祭祀であること、牛祭の祭文には魔多羅神のほかに、日本を代表する性神である大黒天や道祖神も名をつらねていることなどから、両者にはかならずや連絡があったものと想像せられるのである。

 

・とはいえ、真言宗御室派に属する広隆寺の異形の魔多羅神も、天台の説く阿弥陀仏垂迹神としての魔多羅神と無縁でなかったことは、『広隆寺由来記』の「常行堂魔多羅神像安置の事」の段に、魔多羅神を「念仏守護神」として(常行堂の)後戸に安置した」旨の記載があることから明らかである。