日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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さらには、長年ヴァチカンがその存在に対して否定的だったはずの秘密結社フリーメイソンとヴァチカンの深い関係が露呈して、ヨーロッパやアメリカを中心に世界中を驚かせたのである。(1)

 

 

『ヴァチカンの謎と真実』

知られざる歴史

斎藤かおる 青春出版社  2009/5/13

 

 

 

ヴァチカン市国の構造

ヴァチカンは、ローマ・カトリック教会のいわば総本山であり、世界一小さな主権国家である。正式名称は、ヴァチカン市国。面積はわずか0.44キロメートルだ。これに加え、イタリア国内にヴァチカンの主権を認められている施設をいくつももっている。ちなみに、日本の皇居は1.15平方キロメートルだから、ヴァチカンはその2分の1にも満たない。

 ヴァチカンはおよそ2000年にわたり、教皇の膝元として、常にカトリック教会の歴史の中心に位置してきた。しかし、現在の形でヴァチカン市国が成立したのは、つい最近のことである。

 近代のイタリアには小さな国々が乱立していたが、1861年サルディーニャ王国によって統一され、イタリア王国が成立した。1870年、ローマ教皇領を守っていたフランス軍が撤退すると、王国は教皇領を接収した。

 

・ヴァチカン市国は、その周辺をぐるりと城壁に取り囲まれているのが特徴だ。城壁の重々しさは、ヴァチカンに続いた苦難の歴史を物語っているが、現在、ヴァチカン市国は非常にオープンな国であり、入国に特別な手続きを要しない。毎日、世界中から、祈りや観光のために数千人もの人々が訪れている。

 

国全体がユネスコ世界遺産

・ヴァチカン市国には、数多くの歴史的・宗教的遺産が集まっている。そして国全体がユネスコ世界遺産に登録されている。

 まず、使徒ペトロの墓とされる場所に建てられた「サン・ピエトロ大聖堂」は、地理的には南端近くだが、実質的にはヴァチカンの中心地といえる。

 

ヴァチカン市国は小さいが、そこには聖職者や修道士・修道女が暮らし、さまざまな仕事にあたっている。イタリア人が多いが、それ以外の国の出身者もいる。以前は、リラが流通していたが、現在はユーロが使われている。また独自の郵便制度も持っている。

 

永遠の都ローマとヴァチカン

・ヴァチカン市国は、イタリアの首都ローマの町を東西に分けるテヴェレ川の西側にある。

 現在、ローマを首都とするイタリアとヴァチカン市国は別の国ではあるが、ローマの町にはヴァチカン市国の主権を認められている施設が点在してもいる。

 

・一度は訪れてみたい場所が、半径5キロメートルほどの中に詰まっている。そんなローマの町に、すっぽりとおさまっているヴァチカン市国は、1984年に国全体を世界遺産に登録されている。

 

小説や映画にたびたび登場

・大ヒットした小説『天使と悪魔』(ダン・ブラウン著、2000年刊)も、ヴァチカンを含むローマの町を舞台にしている。秘密結社とヴァチカンの謎の関係、そして最新科学を利用した陰謀を解き明かすという内容だ。ローマ・カトリックにゆかりの施設が作者独自の視点で小説内に様々に織り込まれ、コンクラーヴェという教皇選出システムの様子が大事件とともに描き出されていたりで、読者をあきさせないカトリックの歴史への解釈に関わるストーリー展開の妥当性の程も、読者の知的関心を惹く。

 

教皇枢機卿

絶対的首位権を持つ教皇

・ローマ司教である教皇は、全世界のカトリック信徒の精神的指導者の立場にある。信徒の集まりである個々の教会(小教区)にいるのが司祭、個々の教会のいくつかを束ねているのが司教である。さらにその上には、大司教、総大司教、そして枢機卿がいる。枢機卿によって構成されている枢機卿団は、教皇を補佐する任務を負うとともに、教皇を選出する任務を負っている。枢機卿団の互選によって、枢機卿団のなかから教皇が選出される。

 教皇に用いられる公称には「ローマ司教・キリストの代理者・(最初の)使徒(ペトロ)の継承者・全カトリックの統治者・イタリア半島の首座司教・ローマ首都管区の大司教・ヴァチカン市国の首長・神のしもべのしもべ」などがある。

 

・裁判所で扱われる教会の規律と指導に関する全事項について、教皇に上告できる。カトリック教会においては、神は教皇に首位権を与えた、と考えられているので、一度裁決が下されると再審請求はできない。教皇は誤ることがない、とされているからである。また、ヴァチカン市国には、ヴァチカン市国政庁がある。博物館、図書館、ラジオ局などの機関を含む。

 

枢機卿は世界中から集まる

・これまでに、枢機卿は世界50カ国前後の国々から選出されている。日本からも、何人かの枢機卿が選出されている。

 枢機卿は、緋色の聖職者服と帽子を身につけることができる。緋色は、生涯をキリストに捧げる証としての血の色だともいわれる。

 

ヨハネ・パウロ2世

空飛ぶ聖座

・2005年まで、26年もの長い期間教皇を務めたヨハネ・パウロ2世は、平和を訴えて世界中を飛び回った教皇であった。在任中に訪れた国は約130カ国に及び、「空飛ぶ聖座」、「大衆にもっとも近い教皇」と称された。

諸国に対話を呼びかけ戦争に反対する姿は、とても印象的で、カトリック信徒の少ない日本においても存在感のある教皇であった。

 

・大学でポーランド文学を学んでいたときにポーランドナチスに占領されてしまった。大学は閉鎖されてしまい、石切り場などで働かざるを得ないという状況の中、20歳でたった一人の家族であった父までも失った。

 

・22歳のときに、神学を志すと宣言し、26歳で司祭に叙階され、ローマへ派遣されると、教皇庁アンジェリクム神学大学で学び続け、47歳で、当時の教皇パウロ6世によって枢機卿に任命された。

 

世界に平和と対話を呼びかける

教皇として様々な謝罪を行ない。世界中の人々に驚きと共感を与えた。カトリック信徒がユダ人を迫害してきたこと、それがナチスホロコーストにつながったこと、またキリスト教徒が十分に対応しなかったことを謝罪した。十字軍の過ちをめぐっては、イスラーム東方教会に謝罪した。また、ガリレオの名誉を回復し、ダーウィンの進化論を認めた。一方で、避妊や中絶や同性愛、また女性の人権などについては、保守的な態度を崩さなかった。

 

「キリスト」の誕生

唯一神ヤハウェを信仰するユダヤ教

・ヴァチカン市国は、キリスト教カトリック教会の、いわば総本山である。カトリック教会は、世界的影響力を持つ、とても勢力の強い存在であるが、けっしてカトリック教会=キリスト教ではない。カトリック教会は、キリスト教の一教派である。

 

キリスト教は、イエスをキリスト(ヘブライ語のメシアに相当するギリシア語で、「救世主」の意)と信じ、聖書を信仰と生活の規範とする宗教である。そしてキリスト教イスラームと同様に、ユダヤ教の流れの中から成立してきた宗教である。

 では、ユダヤ教はどんな宗教であろうか。ユダヤ教は、古代の中近東に起源を持つユダヤ人の民族宗教で、唯一神ヤハウェを信仰し、選民思想などを特徴とする。

 

ユダヤ王国に生まれたイエス

・イエスユダヤの国のベツレヘムという町で誕生したのは、聖書が伝えている幾つかの情報などをもとに計算して、紀元前4~6年頃と推定されている。

 たとえば、『マタイによる福音書』には、ヘロデ大王が自らの地位を脅かす救世主誕生の噂を耳にして、2歳以下の幼児を虐殺させたため、イエスは両親に伴われてエジプトに避難した、と記されている。

 

それが、本来、イエスの誕生から数え始めたはずの西暦の元年とずれているのは、6世紀のディオニュシウス・エクシグウスという修道士の算定方法に不首尾があったという事情によるのである。

 

エスの活動と初期キリスト教

神の国の到来を告げたイエス

・イエスは、エルサレムの北方にあるガリラヤ地方のナザレから、福音(神と人との関係についての良きおとずれ)を述べ伝え始めた。形骸化したユダヤ教の偏狭さや不寛容さを厳しく批判し、神の国とは何かを語り、神の国の到来を語り、神と人とを愛するべきことを語るイエス。その姿を見て、人々は、次第にイエスこそが旧約聖書で預言されてきた真の救世主(ヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリスト)だと信じるようになっていった。そしてイエスのもとに多くの人々が集まるようになっていった。

 しかし、そのことが当時の社会の支配者層やユダヤ教の上層部に不安を抱かせた。イエスは、危険人物視されるようになり、やがてエルサレムで捕らえられ、十字架にかけられた。イエスはおそらく30歳前後の若さであり、その公生涯は、2年間前後と推定される短さであった。

 

エスは、自らの語ったことを書き残さず、本格的な宗教組織を形成したわけでもなかったが、自らの語る福音を広く告げ知らせるために、12名の特別な弟子を選んだ。いわゆる「12使徒」である。12使徒の名前は、ペトロ(シモン)、アンデレ、ヨハネ、トマス、マタイ、シモン(熱心党のシモン)、アルファイの子ヤコブ小ヤコブ)、イスカリオテのユダ、ナタナエル(バルトロイ)、マダイ(ヤコブの子ユダ)、フィリポである。12という数字は、イスラエルの12部族を象徴していると考えられている。

 

迫害を受けた初期キリスト教

・イエスが活動したパレスチナユダヤ王国は、紀元前63年の時点で、既にローマの属州として併合されていた。

 エスは、聖書によれば、十字架にかけられた3日目に復活し、40日間にわたって弟子たちの前に現れ、その後に天に上げられた。復活したイエスに会った弟子たちは、エルサレムで集会を行なった。これがキリスト教会、そしてキリスト教の始まりだと言われている。教会での指導的役割を担ったのは12使徒だが、中でもペトロの活躍は目覚ましかった。

 やがてキリスト教は、パレスチナのみならず広くローマ帝国内にも多くの信徒を持つようになっていった。

 

・(ペトロ) 12使徒のリーダー的存在。イエス亡き後にはローマにて布教活動を行なった。「天国の鍵をさずけよう」と言われたことから、手に鍵を持って描かれることも多い。

 

・(熱心党のシモン) 不明の人物、イエスの兄弟のシモンと同一人物であるという説も。

 

・(キリスト教徒への迫害) 64年の、皇帝ネロによる迫害は、有名である。ネロは自ら行なったと噂されるローマ市内の大火の罪をキリスト教徒になすりつけ、多くのキリスト教徒を生きたまま闘技場でライオンに食い殺させた。

 

ローマ帝国の発展とキリスト教

カエサルと初代皇帝オクタウィアヌス

キリスト教、とくにローマ・カトリック教会の歴史と切っても切れない関係にあるローマ帝国は、紀元前27年に成立した。

 その起源は、紀元前8世紀にイタリアのテヴェレ川に形成された都市国家である。

 

ローマ帝国でのキリスト教の布教

・ローマの属州となっていたユダヤ王国でイエスが誕生したと思われる紀元前6~4年は、まさにアウグストゥスの治世であった。そして、イエスが公生涯に入り十字架にかけられた紀元後30年前後は、第2代皇帝ティベリウスの時代であった。

 イエスの十字架と復活と昇天の後、弟子たちの宣教活動は、ユダヤからローマ帝国内へと次第に広がっていった。その宣教活動の広がりを支える拠点のひとつとなったのが、アンティオキアであった。アンティオキアは、当時ローマとアレクサンドリアに次ぐローマ帝国第3の都市で、聖書によれば、「クリスチャン(キリスト者」という呼称が初めて用いられた場所である。また、アンティオキアは、初期キリスト教の立役者パウロによる3度の宣教旅行の拠点となった場所である。

 

パウロの回心

パウロは、もともと熱心なユダヤ教徒で、親の代からローマの市民権を持っていた。ユダヤ教の律法を軽んじるキリスト教徒に敵意を抱き、当初はキリスト教徒を迫害していた。だが、ある時、迫害に向かう途中に天からの光に照らされイエスの声を聞いて、目が見えなくなり、それから目からうろこのようなものが落ちて再び見えるようになるという経験をした。その経験によって、パウロはイエスをキリストと信じ、偉大な宣教者への道を歩み始めることとなったのである。

 

十字架に架けられたイエス

エスの逮捕と最後の晩餐

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作に『最後の晩餐』がある。現在、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあり、世界遺産に指定されている。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁画として1498年に完成したこの絵は、高さ4.2メートル、幅9.1メートルにも及ぶ大きなものである。

 

エスの処刑と復活

・過越祭の食事を終えた後、イエスは、使徒たちとともにオリーブ山に出かけ、12人の弟子の1人、イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕された。

 そして、ユダヤ最高法院→ローマ総督ピラト→ガリラヤの支配者ヘロデ→再びローマ総督ピラトと、あちこちをたらい回しにされた後に死刑を言い渡され、ゴルゴダの丘で十字架の形に処せられた。罪状として十字架上に掲げられた板には、「ナザレの王イエス」と記されていた。ちなみにゴルゴダとは、髑髏の意である。

 

・イエスは、最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫んで息をひきとった。男性の弟子たちの多くが逃げ出してしまったのに対し、女性の弟子たちの多くはイエスの最後を見届けた。

 イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフという人物によって引き取られた。アリマタヤのヨセフは、裕福な議員で、イエスの理解者だったとも弟子だったとも伝えられている。

 アリマタヤのヨセフによって遺体を引き取られ祭られて、3日目、イエスは予告通りに復活し、まずマグダラのマリアに姿を現した。

 それから40日に渡って弟子たちに姿を表し続け、弟子たちに「(洗礼者)ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく聖霊によって洗礼を授けられる」と告げた後、イエスは、天にあげられ、雲におおわれ、見えなくなった。

 

シモン・ペトロとイエス

ペトロ=岩と呼ばれた男

・イエスによって選ばれた12使徒の中でも、リーダー格であったのは、ペトロである。

 

ペトロとは、「岩(アラム語でケファ)」という意味である。聖書は、ペトロがもともとはシモンという名前であったけれども、イエスによってペトロと呼ばれるようになった経緯を伝えている。

 

ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代の教皇としている。

 そしてそれは、イエスがペトロを「岩」と呼び、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言い、また「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言ったことを、根拠にしてのことなのである。

 

漁師だったペトロ

・もともとはシモンという名前であったペトロは、イエスに出会うまでは漁師であったが、ある日、ガリラヤ湖で弟のアンデレとともに漁をしていてイエスに出会った。聖書は、ペトロがイエスの言葉による驚くべき経験を通してイエスの弟子となった経緯を伝えている。

 

・イエスに、「わたしと来なさい」と言われたペトロは、「すぐに網を捨てて従った」。つまり、それまでの人生のすべてを捨てて新しい人生に入ってゆくことをただちに決心して、イエスの弟子となっていったのである。

 

ガリラヤ湖

イスラエルの北部の湖。イエスはこの湖の周辺を中心に活動を行なっていた。嵐を止めたり、たくさんの魚を獲らせるなどの奇跡もこの湖で起こしたとされる。

 

洗礼者ヨハネ

・古代ユダヤの宗教家・預言者で、ヨルダン川でイエスらに洗礼を授けた。キリスト教では、イエスの先駆者と位置付けられている。

 

エリア

ユダヤ人の預言者旧約聖書に登場する、モーゼ以後の最大の預言者。一時期、イエスもエリヤの再来と見なされていた。

 

キリスト教の宣教

現実となったイエスの予告

・イエスの弟子たちの中でリーダー格であったペトロだが、イエスが逮捕された後、イエスを裏切ってしまった。そして、それは、逮捕される直前のイエスが予告していたことであった。聖書は、ペトロがイエスの忠誠を誓ったにもかかわらずイエスを裏切ってしまった経緯を伝えている。

 

・自らを誰にもひけをとらぬイエスの忠実な弟子だと自負し、イエスへの思いの強さを公言してはばからなかったペトロであったが、イエスの予告通りに、3度もイエスを知らないと言ってしまったのである。

 

リーダーとして教会を率いたペトロ

・十字架にかけられた3日目に復活したイエスとの40日間にわたる出会いを経験した後、弟子たちは、エルサレムで集会を行なった。これがキリスト教会、そしてキリスト教の始まりだといわれている。

 

・特にペトロは、力強い説教で多くの人々を回心させたり、人々を癒す数々の奇跡を起こしたりと、目覚ましい活躍を見せた。

 

・もはや、イエスの予告通りに3度もイエスを知らないと言ってしまった時の弱々しいペトロではなかった。そこにいたのは、イエスこそキリストであると述べ伝えることに命をかけている、ひとりの男の姿であった。

 

大迫害とキリスト教の公認

ローマ帝国の発展とキリスト教の迫害

・「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれた時代(紀元前27年~紀元後180年)の末期、ローマ帝国は、領土が最大となる最盛期を誇った。その最盛期に向かってローマ帝国が発展していった時代は、キリスト教ローマ帝国内に広がり、また、しばしばキリスト教徒への激しい迫害が加えられた時代でもあった。

 

・だが、繰り返される迫害にもかかわらずキリスト教は広がってゆき、キリスト教徒の結束は固くなっていった。一方、ローマ帝国は、異民族の侵入や帝国の分割統治の弊害などもあって、その隆盛に次第に翳りがさしていった。そのような流れの中、313年には、コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」を発布してキリスト教を公認することとなった。それは、キリスト教の力を帝国の統治に利用しようとの意図からのことであったと考えられている。

 

金融スキャンダル>

・20世紀最大の金融スキャンダルと言われるのが、ヴァチカン銀行と深く関わりのあるアンブロシアーノ銀行にまつわる事件だ。関係者の謎の死が相次ぎ、さらには、長年ヴァチカンがその存在に対して否定的だったはずの秘密結社フリーメイソンとヴァチカンの深い関係が露呈して、ヨーロッパやアメリカを中心に世界中を驚かせたのである。

 アンブロシアーノ銀行は、ヴァチカン銀行の資金調達と資金運用を行なっていた銀行だったが、巨額な使途不明金を出し、1982年に破綻した。そして、その破綻の直前、同行の頭取であったロベルト・カルヴィは行方をくらませていた。

 

関係者たちの謎の死

・事件は、アンブロシアーノ銀行の破綻だけで幕引きとはならなかった。

 同行破綻の約1ヶ月後、変わり果てたカルヴィが発見されたのである。場所は、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下。首吊り死体であった。

 いったんは自殺として処理されたものの、遺体の状況や発見場所に、自殺と考えるには無理な点や不審な点があったので、遺族は納得しなかった。そこで、ロンドン市警察やイタリア警察が再捜査や再調査を行ない、最終的に他殺との判断をくだした。カルヴィがフリーメイソンの関連組織「ロッジP2」のメンバーであったことは、1981年3月の時点で発覚していた。

 アンブロシアーノ銀行の使途不明金と破綻をめぐる捜査では、結局、その過程で複数の関係者が次々亡くなることとなった。

 

ロッジP2とは?

・イタリアにおけるフリーメイソンのグランド・ロッジ(本部)傘下の1ロッジ(支部)で、1877年認証された。第2次世界大戦後、リーチオ・ジェッリ代表の下、反共的・極右的活動を続けたが、1976年認証を取り消される。しかしその後も政治家・軍人、極右活動家を取り込み秘密結社として活動を続けた。

 

・ジェッリは、1980年のボローニャ駅爆破事件やアンブロシアーノ銀行破綻に関与した罪で有罪服役したが、数回にわたり脱獄再逮捕を繰り返した。フリーメイソン本部は、1981年、ジェッリを正式に破門し、フリーメイソンとは無関係としている。

 

フリーメイソンとは何か

フリーメイソンの起源

フリーメイソンの起源については、幾つかの説がある。最も有力視されているのは、中世イギリスのウィンザー宮殿建築に携わった石工職人たちのギルド(職業別組合)のロッジ(集会所)を起源とする説である。メイソンという語が石工を意味することや、フリーメイソンのシンボルマークにコンパスと定規が描かれていることなどが、その説の根拠となっている。当時、フリーメイソンのメンバーである職人たちは、自分たちの知識や技術が外部に漏れないように、また仲間かどうかを見分けるために、ロッジで暗号を使ったと言われている。他に、中世にフランスのテンプル騎士団を起源とする説や、紀元前10世紀のソロモン神殿建築に携わった建築家たちを起源とする説などもある。

 

・けれども、現代のフリーメイソンについては、1717年にイギリスで結成されたグランド・ロッジに出発点を見るのが、一般的である。

 石工職人たちの時代のフリーメイソンを、実際に建築に携わった言わば「実務的フリーメイソン」とすれば、グランド・ロッジ結成以降のフリーメイソンは、「知識」「技術」「規則」「暗号」といった要件を継承した、「思想的フリーメイソン」だと考えられる。

 

フリーメイソンのネットワーク

・グランド・ロッジ結成以降のフリーメイソンは、会員の親睦と互助を目的とした「非公開の友愛団体」を標榜する組織として、世界中に広がっていった。グランド・ロッジは、プロヴィンシャル・グランドロッジやディストリクト・グランドロッジと呼ばれる下部組織を統括しつつ、直轄ロッジも運営している。

 

・イギリスで結成されたグランド・ロッジのネットワークに属していないグループもある。ただし、フリーメイソンの諸ネットワークを詳細に区別したり、他の秘密結社と区別することは、難しいと言われている。

 カトリック教会は、主にフランス大東社を念頭において、1738年に、クレメンス12世がフリーメイソンを破門した。それは、ひとつには、特定の宗教にこだわることなく広く友愛を掲げるフリーメイソンのありようが、カトリック教会には危険な自由思想主義者の集団と映ったからであった。この破門は、フリーメイソン政教分離を主張して反撃に出たために、公立学校からカトリック聖職者が追い出されるなどの騒動を引き起こしてしまい、1983年にとりあえず解除された。だが、その後もカトリック教会は、表向きにはフリーメイソンを危険視する立場を変えていない。

 

歴史に関わるフリーメイソン

フランス革命アメリカの独立戦争には多くのフリーメイソン関係者が関わっていたという。またニューヨークの自由の女神像の寄贈の背景には、フランス系フリーメイソンアメリカ系フリーメイソンの交流があったと伝えられている。

 

世界に広がる秘密結社

フリーメイソンの謎に包まれた実体

フリーメイソンは、会員の親睦と互助を目的とした友愛団体とされているが、非公開団体、すなわちいわゆる秘密結社なので、その実態はよくわからない。入会には条件があり、入会時や組織内での昇級時には、儀式がある。そして、会員には、自分以外の会員に関して、その会員の存命中の他言が禁じられている。

 

フリーメイソンと「陰の力」

現在、世界中に約300万人のフリーメイソン会員がいると伝えられている。日本では、1970年代に約5000人に達したのをピークに、その後は減少して、現在は約2000人のようである

 希望すれば誰でも入会できるわけではない。入会するためには、諸条件を満たし、推薦人を確保し、さらに厳しい審査に合格しなければならない。

 

・とはいえ、フリーメイソンの会員になることを、社会的ステータスと捉える向きも多い。なぜなら、社会の様々な領域で活躍した有名人たちが実はフリーメイソン会員だったと、逝去後にしばしば判明するからである。

 

・また、フリーメイソンの会員同士が職場での昇進にからんで優遇し合っているとか、事件を起こしても警察にいるフリーメイソン仲間が善処してくれるとかいったように、フリーメイソンの「陰の力」を信じている向きも多い。欧米に影響力を持つビルダーバーグ会議フリーメイソンの外部組織だという説もある。これらの真偽の程は定かでないが、このような「陰の力」にまつわる噂が、ますますフリーメイソンへの関心を惹くのであろう。

 

ヴァチカンとフリーメイソン

18世紀のヴァチカンの苦境とクレメンス12世の奮闘

・貴族や都市の有力者、また知識人や文化人らが次々と入会して、フリーメイソンの活動が大いに拡大した18世紀は、イギリス産業革命フランス革命アメリカ独立戦争と、世界が激しく揺れ動いた時代でもあった。

 当時、ヴァチカンの権威は、ヨーロッパ諸国の間で政争の具にされがちであった。

 

・そして、教皇領は、侵略や併合されたりの繰り返しであった。また、それらのことが、ヴァチカンが陥っていた財政逼迫に拍車をかけていった。

 そのような困難な時代に、聖座に就いた教皇の一人が、クレメンス12世(在位1730~40)であった。

 

・まず取り組んだのは、財政再建であった。財政の専門家としての経歴を持ち、実務にたけていたクレメンス12世は、前任教皇の時代の財政責任者たちに罰をくだしたり、損害賠償を請求したり、宝くじを発売して、急速に財政状況を回復させた。

 

フリーメイソンの破門

フリーメイソンに対しては、クレメンス12世は、「あらゆる宗教・宗派の人間が、正直で自然な様子を装いつつ、自分たちで作った法と規則に従い、謎めいた固い契約を結び合っている」と述べて破門を言いわたした。特定の宗教にこだわることなく友愛を語るフリーメイソンのありようが、クレメンス12世には、社会体制の転覆などを目論見かねない危険な自由主義思想の集まりと感じられたであろうことは、想像に難くない。

 

・この破門は、フランスの公立学校における聖職者追放事件を引き起こしたことなどもあって1983年には解除されたが、この破門以降の約2世紀間に、ヴァチカンによるフリーメイソンへの批難は、12回にも及んだ。だが、結果として、その2世紀間にわたる公的な非難はほとんど奏功しなかった。ヴァチカンの厳しい姿勢にもかかわらず、破門騒動の時から今日に至るまで、カトリックの外部はもちろん内部からもフリーメイソンに加わる者が決して少なくないと言われている。

 

スイス人衛兵の殺人事件

スイス人衛兵隊の歴史と謎の事件

教皇の警護とヴァチカン市国の警備は、スイス人衛兵隊によって担当されるのが伝統となっている。そのような伝統のきっかけを作ったのは教皇ユリウス2世(在位1503~13年)であった。ユリウス2世は、勇敢さで名高いスイス兵に、周辺諸国からの政治的・軍事的干渉の排除に奮闘する中、自らの身辺警護を任せたのであった。

 

ヴァチカンにおけるスイス人衛兵隊の歴史には、謎の事件もある。1998年5月6日の宣誓式の直後、当時の隊長アロイス・エステルマン氏宅で、エステルマン夫妻の射殺体と、下士官セドリック・トーナイ氏の遺体が発見されたのである。

 

・ヴァチカンは、イタリア警察の捜査を断り、独自に捜査を進めた。そして、「精神に異常をきたしたトーナイ氏が隊長夫妻を射殺した後、銃をくわえて自殺した」と発表した。だが、司法解剖が行われる前の発表であったことなどから、不審を招き、様々な憶測を呼んだ。トーナイ氏の母親は、「遺書は偽物だ」などとして2002年にヴァチカンに再捜査を要請したが、ヴァチカンは「再捜査するべき新事実がない」として拒否した。

 なぜ、このような事件が起こってしまったのであろうか。推測の域を出ないものの、多言語国家スイスゆえの複雑な事情が絡んでいるのではないかと考えられている。

 

スイス人衛兵

産業に恵まれなかったスイスにとって傭兵稼業は一種の産業で、その歩兵軍の精強さはヨーロッパに鳴り響いていた。ほぼヨーロッパ全土に出かけるが、スイス政府でなく、州政府単位で契約するところに特徴がある。1874年に国外傭兵は憲法で禁止され、1927年にはスイス国民の外国軍参加も禁止された。ヴァチカン衛兵は中世からの伝統ということで唯一認められている。

 

多言語国家のスイス

・ヨーロッパにある直接民主主義国家で連邦制共和国。1815年のウィーン会議永世中立国として認められた。歴史的な要因から公用語は、ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語の4つある。

 

ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂

教皇に命中した2発の銃弾

・1981年5月13日、世界中が驚愕した。教皇ヨハネ・パウロ2世が銃撃されたのである。 

 事件は、ヴァチカン市国のサン・ピエトロ広場で起こった。その日は、一般謁見が恒例の水曜日であった。ヨハネ・パウロ2世は、教皇用のオープンカーに乗って広場を回り、集まった人々に手を振っていた。するとその時、銃弾が放たれ、ヨハネ・パウロ2世に2発命中した。事件発生8分後には病院に運び込まれ、手術にあたり、「病者の塗油」の秘蹟が執り行なわれた。

 

黒幕に関する憶測

ヨハネ・パウロ2世を銃撃した犯人、トルコ人メフィト・アリ・アジャは、その場で人々に取り押さえられ、逮捕された。彼は、教皇を暗殺すると予告していた人物で、単独の犯行だと主張した。だが、世界中で、犯行の「黒幕」がいるのではないかとの憶測が広がった。

 当時、世界が東西の冷戦構造化にあったため、この銃撃には共産圏国の関与がささやかれた。

 

・メフメト・アリ・アジャは、逮捕後に、発言を二転三転させた。公判中に「ブルガリアソ連大使館からの命令だった」などと爆弾発言をしたかと思うと、突然に「私イエス・キリストはこの世の終わりを告げる」などと言い放ったりという具合で、人々を当惑させた。そして、事件から約2ヶ月後の7月22日には、終身刑を言いわたされた。「黒幕」はいたのか。それは誰だったのか。真相は謎のままである。

 

ファティマの聖母とは?

・1917年5月13日、ポルトガルのファティマという町で不思議な出来事が起こった。ルシア、ジャシンタ、フランシスコという3人の子供たちの前に謎の婦人が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。子供たちは様々な妨害にあいながらも聖母マリアと名乗る婦人に会い続け、婦人から様々なメッセージを託されたのである。その後、教会によってその婦人は聖母の出現とされた。

 1981年、ヨハネ・パウロ2世が撃たれて奇跡的に助かった日は5月13日であった。