日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

正しい財政金融政策で日本は「コロナ以後」に大復活する。(8)

 

レゾンデートルの終焉

・周囲の反対を押し切って政経塾をつくった松下幸之助には、確かに先見の明があったのだろう。「普通」の若者に国政への道を開いたのは、紛れもなく彼の功績だった。かつての塾生たちが、大きなリスクを承知で政経塾に進んだことにも敬意を表したい。

 

・だとすれば、今、政経塾が存在する意味とは何なのだろうか。もちろん塾生となれば、政党の公認をもらって選挙に出られる可能性はずっと高くなる。塾出身というだけで、政党関係者から「金の卵」の扱いを受けられる時代なのである。

 だが、政経塾とは、その程度の存在だったのか。新しい時代を切り拓く「坂本龍馬」を生みだそうとして始まった政経塾が、逆に旧体制を維持する「新選組」隊士の養成機関となってしまうことはないのか。少なくとも私には、現体制下の政経塾で学んだ若者が政治を志したとしても、この国が良くなるとは思えない。

 松下政経塾は、すでにその役目を果たし終えたのではなかろうか。

 

・もちろん、幸之助が好んだ「効率主義」ということで言えば、政経塾は大成功を収めたのだろう。70億円の原資で、現職に限っても30名近くの国会議員を輩出した。その数は、今後も間違いなく増えていくだろう。政経塾出身の総理大臣が出る日も、そう遠くないのかもしれない。幸之助は、政経塾の経営にも「神様」としての実力を発揮したのである。

 

・初期の塾生と幸之助のこんなやりとりが残っている。

「人間にはいろいろな欲望があり、食欲のようなものから、社会をよくしたいと思うことまで対象も異なります。その対象によって、欲求にも尊さの差ができるのか、それともすべての欲求は等しいのか、塾長はその点をどうお考えですか」

「私は、欲望は力であり、人間の活力であると思っています。だから尊いものであり、どれも格差はないと考えています」

 

・幸之助が塾生の理想とした坂本龍馬は、大政奉還の後を見越した新政府の構成メンバーに自らを含めなかった。そのことを西郷隆盛が訝ると、こう言ってのけたという。

 「窮屈な役人になるより、世界の海援隊でもやりましょうかな」

 龍馬は地位などに固執しなかった。そこが龍馬の龍馬たる所以であった。

 思えば幸之助ほど、巨大な欲望を抱えて生きた人も珍しい。経営者としての成功では飽き足らず、日本という国を、自らの信じる姿につくり変えようとしたのである。PHPにしろ、また政経塾にしろ、幸之助にとっては手段に過ぎなかった。その生き様は、早世した両親、兄弟、さらには息子の欲までも、たった一人で背負っていたかのようだ。だからこそ、私利私欲とは無縁の生き方を貫いた龍馬に憧れたのかもしれない。

 

坂本龍馬とまでは言わなくても、国民が政経塾に期待したのは全く新しい政治家像だったはずだ。既得権益とのしがらみがなく、無党派層と呼ばれる人びとの声なき声を代弁してくれる。有権者は塾出身者の立身出世を助けるために、彼らを政界へと送り込んだわけではないのだ。「欲望は力ですから、悪にも善にもなり得ます」

 そんな言葉を遺した松下幸之助が逝って15年。政経塾の弟子たちに乗り移った深い業は、日本をどこに導こうとしているのだろうか。

 

 

 

松下政経塾が日本をダメにした』

八幡和郎   幻冬舎   2012/2/24

 

 

 

日本の政治はよくなったかといえば、むしろ「劣化」している

政経塾ができたころ、講師を務めた堤義明は、「政治家になるには、『政治家の子どもに生まれるか、その娘と結婚する』『官僚になる』『労組とか宗教団体から出る』以外には難しい。それを打ち破るならよほど土性骨をいれてかからねば」と語った。そういう困難を乗り越えて、これまでの政治家とはひと味違う政治家群の排出に成功したのは間違いない。

 

松下幸之助の弟子たち、天下を盗る~二世と官僚の王国を倒すも世直しの展望なし

政治家二世や官僚より高い確率で国会議員に

・しかも、これまでの卒業生の総数は、わずか248人でしかないのに、現職の国会議員だけでも38人を占める。

 

政経塾卒業生の成功率は驚異的ですさまじいばかりの政治エリートぶりである

・とはいえ、あの偉大な経営者だった松下幸之助がこの国の未来を憂え、政治の貧困に絶望した末に、私財を擲って創立した松下政経塾の志に、卒業生は応えうる存在なのか。そう問われたとき、躊躇なく頷くべきレベルに達しているかどうかは、まったく疑問なのである。

 

志はあっても政策に弱いという評判

松下政経塾出身の政治家については、もちろん、共通した長所もあるが、批判的な見方や厳しい評価もある。

 

1.専門知識・国際経験が不足しがち

 

・陣笠代議士としてなら十分に高いレベルかもしれないが、現代国家のリーダーには、インターナショナルな水準に合致する大学院クラスの知的訓練、国際人としてのコミュニケーション能力、グローバルに普遍性のある文化的素養も不可欠なはずだ。

 

1.実務経験に乏しく現場感覚が政策と結びつかない

 

・政治以外の実社会で働いた経験があったとしても、大学卒業後の短い期間における若手社員となどとしてのもので、管理職や経営者としての経験が抜け落ちている。販売店や工場での研修などの成果もあってか、現場感覚は豊かでマメだが、たとえば、中小企業経営者や管理的立場にある人の悩みなどを十分に聞いているわけではない。

 

2.志の高さと堂々たる国家観はあるがステレオタイプ

 

・よい国をつくりたいという志はあるし、愛国心などもしっかりしている。しかし、理念をステレオタイプに主張するだけなので、独創性があまり感じられず、自国の利益を主張する基礎となる過去の歴史などについての細かい知識や目配りに乏しい。

 

1.関心が外交など特定分野に偏るとともに政策に弱い

 

・興味がある分野が偏り、外交・国防・教育・環境などには、おしなべて強いが、経済政策などへの興味は希薄である。

 

演説は上手だが政治技術がなく実行力に疑問

⑤政治技術の不足とその重要性についての意識のなさ

 

 ・足して2で割る式の旧来のやり方に問題があるのは事実だが、現実の政治では、うまく交渉し妥結して、いかにして最大幸福を実現するかが問われる。そうでなければ、特定の集団、階層、地域などの利益ばかりが実現することになりかねない。ところが、政経塾出身の政治家は、自分の意見を主張するだけで、それを実現するための政治技術を軽視がちで、不得意でもある。

 

⑥演説は上手だが討論は下手

 

 ・スピーチが軽視される日本の政治風土にあって、国際的なスタイルに近い演説の水準を会得し、具体的な利益につながらないような高邁な理想や国家観を訴えるのは評価できる。しかし、違う意見の人と討論し、相手を説得したり、的確に反論することが上手だとはいえず、一方的な主張に終始したり、はぐらかしてしのぐ傾向がある。

 

⑦迅速対応に傾斜しすぎ軽率な発言が目立つ

 

 ・近ごろの日本社会全般の問題でもあるが、マスコミや世論を気にするあまり、急ぐ必要がない問題にあわてて対応しすぎて、軽率な発言、官僚などへの責任のなすりつけ、誤った方針の採用、バランスを欠いた対応をする傾向がある。企業イメージの確保が優先される民間とは異なり、政府は短期的評判より長期的視点を重視すべき存在である。

 

・だが、松下政経塾の卒業生たちは、「地盤・看板・カバン(資金)」のいずれもなかったので、しかたなく、街頭演説に頼らざるを得なかった。

 

 

 

松下幸之助の遺言』

青野豊作  PHP   2010/11/27

 

 

 

PHPと初期・政治啓発運動

松下幸之助と二つの政治観

・もっとも、その松下幸之助も、ごく短い時期、政治に多少なりとも関係したことがある。大正14(1925)年12月、31歳の時に大阪市連合区会議員選挙に出馬し、第二位で当選しているのである。

 

松下幸之助は、敗戦後、亡国の時代様相を日々濃くしつつあった戦後混乱の下で、「自分が日本人として何をなすべきなのか」と自問自答を繰り返している。そして敗戦の翌年、昭和21(1946)年11月3日の『PHP研究所』の創設へとすすむのだが、この時点には松下幸之助の政治観もまた、「繁栄によって平和と幸福を」というPHP理念を根幹としたものになっていた。

 

松下幸之助の政治観―二つの基本認識

・人類はまだまだ進歩発展してゆく、すなわち、必ず、正しい政治理念にもとづく正しい政治形態をつくり出し、身も心もゆたかな繁栄の社会を実現することができる。そのためにもまず、人間の本質にもとづいた正しい政治理念の研究を急がなければならない。

 

・政治が人間のためにあり、人間の繁栄・平和・幸福のためにあるということは、政治理念もまた人間の本質にもとづいて打ちたてられねばならないということでもある。人間の本質をよく認識し、この本質に根差した政治理念なり政治形態を打ちたてなければならない。

 

政治のための政治は本末転倒

・世上、往々にして政治のための政治が行われているような印象をしばしば受けることがある。また、政治のための政治(注・政略と党利党略)を行うことが本当の政治家であると考えている人も少なからずいる。いわゆる政略と党利党略というものがこれである。もちろん、実際に政治を行っていくうえにおいて、場合によっては政略が必要なこともあるだろう。しかし、政治の真の使命を忘れた政略は、結局、百害あって一利なし。

 

無税国家論から松下政経塾

崩れゆく日本をどう救うか・・・・

究極の政治改革論―「無税国家論」

・無税国家論は、国の予算制度に会社経営と同じダム式経営を導入するというものである。即ち単年度主義の国の予算編成を廃して効率を徹底追及する予算編成に切り替え、節約した分を積立金、剰余金として毎年蓄積していくようにする。すると、いずれは積立金、剰余金のみで国の運用ができるようになって国民から税金を徴収しなくてすむようになるばかりか、ゆくゆくは余ったそれの運用益を国民に分配する、“収益分配国家”へと移行することもできるようにもなるーとするものである。

 

発想の転換、それも奇想天外な発想(注・それは決して荒唐無稽な発想ではない)をもって生み出した、これまた松下幸之助ならではの究極の政治改革論である。無税国家論は発表と同時に大反響を呼んだ。

 

無税どころか、減税さえむつかしい状態

・「政府のやる仕事は、治安でんな、国防でんな、それから国の外交でんな。これでよろしい。生産に関することは全部民間にやらしたらええわ。政府は監督しとったら、それでええ。そうしたらそんなに人(注・公務員)要らんでしょう」

 

・「明治以来、国の予算というものは(単年度主義で)全部使い切りでしょう。しかし、例えば、毎年1割は残せと。(中略)もし明治初年から今日までやっていたら、どのくらい貯金ができたか。今のお金にして、少なくとも3百兆(円)。(中略)多かったら5百兆。これを複利でまわしたら、利子だけで(年間)25兆円になる。25兆円のお金があったら、税金は3分の1ですむわけだ。それがもし、1兆円あったら、利子が50兆円はいるわけでしょう。そうすると今年度の国税は34兆円だから、16兆円余る。16兆は分配できるわけですな。まさに“無税国家”加うるに“分配国家”になる。

 

無税国家論から松下政経塾

・無税国家論は当時、夢そのものの構想として受けとられた。実現するはずのない、文字通りの絵空事とされた。マスコミ、メディアもまた、大きくとりあげたものの、その実、現代のお伽噺として話題にしたにすぎなかった。

 

松下幸之助は、私財70億円を投じて、松下政経塾を設立しているのである。むろん、これは「崩れゆく日本を救うために、日本人である自分が何をなすべきなのか」と自問自答した末の行動だった。

 

松下政経塾に託したもの

・ちなみに平成22(2010)年8月現在での、松下政経塾出身の政治家は国会議員38人、知事2人、市長・区長8人、地方議員24人。

 

「開花21世紀」-幸之助の悲願

・「ぼくは夢を描いとんのと違うんや、ほんとうに実現したいんや。ぼくが思い描いているような、ほんとうに素晴らしい日本をなんとしても実現したいんや」

 

 

 

『わが師 松下幸之助

 松下政経塾」最後の直弟子として

樽床伸二    PHP   2003年3月26日   

 

 

 

 後世の歴史家は松下幸之助をどう評価するか

・8百万部発行されたアメリカの『ライフ』誌は、松下幸之助が産業人であると同時に「思想家」であると紹介したが、私は、さらに「政治の変革者」として評価されなければならないと考えている。

 

松下幸之助は、『ライフ』の誌上で「最高の産業人」「最高の所得者」「思想家」「雑誌の発行者」「ベストセラーの著者」と5つのタイトルが冠せられました。

 

 理想の日本が実現するのは2010年

松下幸之助にはたくさんの著書があるが、政治の改革者としては『私の夢 日本の夢 21世紀の日本』をまず第一にあげなければならないだろう。

  松下幸之助がこの本を著したのは昭和52年(1977)であったが、もともと「小説日本」というタイトルを考えていたと側近に漏らしていたように近未来小説の形を構想していた。

 

・「それは2010年の日本から始めるのや」松下幸之助が、こういうのを聞いて木野元会長は聞き返した。「21世紀と言うと、2001年から始められたらどうなんですか。なんで2010年なんですか」これに対する松下幸之助の答えが凄い。「ぼくは夢を描いとるのと違うんや。本当に実現したいんや。そのためにはこれから30年はかかる。それで2010年にしたんや」

 

・木野元会長は夢と言う言葉を使っているが、そこには本当の松下幸之助の心、必ず30年後には実現してみせるという強い祈りがこめられていると思うと、書いている。

 

松下政経塾が設立されるのは、その2年後であるが、一度は断念しながらも、おそらくこの段階で構想は煮詰まっていたのであろう。それにしても目標の2010年まで、あとの残りは7年である。

 

松下幸之助はすでに亡くなり道半ばではあったかもしれないが、前述のように「2010年」を目途にしていたようであるから、草葉の陰で少しは微笑んでいたのではないかと思う。

 

・それが松下政経塾を“平成の松下村塾”たらしめることになるであろうか。そして、松下幸之助が「政治の変革者」として評価されることになるのであろうか、である。

 

松下幸之助は、26年前の著書『私の夢 日本の夢 21世紀の日本』のなかでこれらの夢が実現するのは2010年だと記しています。だとすると、目標の年までは、わずか7年しかありません。

 

 

 

船井幸雄のズバリ本音』

3・11が教えてくれた日本と日本人の進むべき道

船井幸雄   ビジネス社    2011/9

 

 

 

松下政経塾原子力発電

・経営者やトップというのは、「絶対に安全」と確信できないことにゴーサインを出してはいけないのです。これは経営者の意識です。というよりもこれは意志決定の原則なのです。「想定外の出来事が起こらない限り安全だ」と言っていた福島第一原発が安全でなかったのですから、これを知っただけで、まともなトップなら「原子力発電所は止める」と意志決定するのがトップとして常識のはずです。

 

・発電などの方法をいくらでもあります。日本に戦前600を超える発電会社がありました。

 

・ここで少し話を変えますが、公私ともにいろいろ、教えていただいた松下幸之助さんが、なぜ「松下政経塾」という変なものをつくられたかは、私にはいままで分からなかったのです。

 私は、創業者で、一代で大企業をつくった経営者から、もっとも学びました。

 

・その中で分からなかったのは、松下さんが政経塾をなぜつくったのか?・・・だけだったのです。

 松下政経塾の卒塾生には多くの知人がいます。ところがそのほとんどの人が、いまのところ正しい意志決定ができないように思うのです。

 しかし、考えてみれば、「政治家がいかに大事な仕事で意志決定の原則がいかに大切か」を知りつくしていた松下さんは、それの分かる人を創りたくて政経塾を作ったのでしょう。いま、ようやく分かりました。

 

松下政経塾の卒塾生の大半は、トップのあり方を覚えなくて、政治家などになったようです。私は、成功した創業経営者が政治家に最適だと思っています。

 松下さんは、その点についてはあの世で泣いておられるでしょう。

 意志決定は、「世のため人のためになること」「100%の人を納得させられ説得できる自信のあること」「絶対と言って良いほどの成功の確信があること」がゴーサインの必須条件なのです。

 

 

 

『被災後を生きる――吉里吉里 大槌・釜石 奮闘記』 

竹沢尚一郎 中央公論新社   2013/1/10

 

  

 

被災後の行動から理解されること、改善されるべきこと

被災者の語りは何を示しているのか

・被災の直後に大槌町の人びとがどのように行動したかの生々しい証言を追ってきた。そのうちいくつかの話は、本当に彼らが危機一髪のところで助かっていたことを示しており、聞いているうちに私たちも手に汗を握ったり、感動のあまり思わず涙ぐんでしまったりするなど、他ではとても聞けそうにない深い内容をもっていた。そのような話を率直にかつ長時間にわたって話してくれたことに対して、深く感謝したい。

 

・とはいっても、彼らの体験を再現するだけでは、これまでに書かれた多くの書物と変わりがない。彼らの話を整理していくことによって、被災直後の人びとの行動の特徴として何が明らかになったのか、また彼らがそのように行動した理由は何であったのかを、明確にしていく作業が求められているはずだ。さらに、彼らがそのように行動したのは、個人的な理由からなのか、それともそこには制度的な問題が背後にあったのか。後者であるとすれば、それは今後どのように改善ないし修正していくべきなのか。そこまで議論を深めていかないかぎり、今後もおなじことがくり返されるであろうことは目に見えている。それであっては、今回の地震津波の教訓を今後に活かしていくこともできなければ、津波で亡くなった方々に対する冥福にもならないだろう。

 

そうした人びとの冷静さを可能にしたのは、三陸沿岸が過去から大きな津波をくり返して経験しており、そうした経験が年配者から語りつがれるなどして、非常時にどのように行動すべきかの情報があらかじめ刻印されていたためであろう。それに加えて、宮城県沖を震源とする巨大地震がくり返されていたことも忘れるべきではない。その意味で、情報が正確に提示され、広く共有されていたことが、今回の多くの人びとの沈着な行動の背景にあったと考えられるのだ。

 

・にもかかわらず、以上の話が明らかにしているのは、多くの人びとが地震後ただちに避難行動をとったわけではないという事実だ。つね日頃から用心を重ねていた徳田さんでさえ、車で自宅から避難し、安全な場所に達するのに20分を要している。一方、他の多くの人の場合には、家のなかを整理したり重要書類を取り出したりするなどして、避難開始が遅れている。

 

・地域的・地理的に見ると、吉里吉里の住民の多くが地震後すぐに避難を開始したのに対し、大槌町や安渡の人びとは避難が遅れる傾向にあった。

 

・また、大槌の町方では津波直後に出火し、プロパンガスが爆発するなどして大火災が生じたために、救助活動がほとんどできずに多くの人命が失われている。そのことは、町方の死者343名、行方不明者325名と、行方不明者の割合が多いことに反映されている。

 

・これは大槌町にかぎられるものではないが、情報に大きな混乱が生じていたことも今回の被災の特徴であった。地震直後の午後2時49分に気象庁大津波警報を出したが、マグニチュード9.0というわが国では前例のない巨大地震であったために、地震計が振り切れるなどして正確な測定ができず、岩手県沿岸部の予測値を3メートルとして発表した。その後、午後3時14分には岩手県沿岸部の予測値を6メートルにあげたが、大槌町では停電でテレビが消え防災放送も機能しなくなったために、最初の数字だけを覚えている人がほとんどだ。また、津波が襲って沿岸部の市街地や集落がほぼ全壊状態になっていたことを、おなじ市町村でも内陸部に住む人は知っていなかったし、となりの市町村ではなおさらであった。そうした情報の混乱や欠如が、人びとの避難行動を遅らせ、救助活動を阻害させたであろうことは否定できまい。

 

・さらに、勤務中あるいは職務中であったために逃げ遅れて、津波に巻き込まれた人が多いのも今回の被災の特徴であった。海岸から300メートルほどしか離れていない海抜ゼロメートル地帯に建てられていた大槌町役場では、役場前の広場で対策本部会議を開こうとしていた町長や幹部職員が津波に巻き込まれて亡くなったことは、新聞報道等でよく知られている。しかしそれだけでなく、その時役場のなかでは他の職員が勤務しており、その多くが津波に巻き込まれて亡くなったり、あわやというところで助かったりしたことは、赤崎さんの話からも明らかだ。さらに、停電で操作できなくなった水門を手動で閉めようとして亡くなった消防団員や、避難者や避難の車両を誘導したり、歩くのが困難な方を救助しようとして水にさらわれた消防団員や自主防災組織の役員が多いことも、先の話のなかで多くの人が指摘していた。

 

・他にも今回の地震後の避難行動や被災の特徴といえるものがあるだろうが、私としては以上の点に注目して、これからの議論を進めていきたい。まず、それを一点一点整理しておく。

 

――過去に何度も津波が襲来した土地であり、今回も大地震津波が生じることが十分に予告されていたにもかかわらず、避難行動が遅れる傾向があった。とりわけ高台に住んでいた人の多くが避難しなかったり、避難行動が遅れたりして、津波に巻き込まれて亡くなっている。

 

――車で避難した人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまった。車で避難した人の一部は渋滞で停車しており、そのまま津波に巻き込まれて亡くなった人が大勢いる。

 

――大槌町では津波後すぐに火災が発生したために、直後の救助活動を十分におこなうことができず、死者・行方不明者の数が増大した。

 

――被災直後に停電が発生し、ほとんどの地域で災害放送や携帯電話が不通となったこともあり、情報が混乱して正確な情報が伝わらず、避難行動や緊急救助活動が阻害された。

 

――役場で勤務していた職員や、水門を閉めようとして亡くなった消防団員など、勤務中・職務中に津波に巻き込まれて命を落とした人が多かった。

 

 これらの点はいずれも防災上・基本的かつ致命的な点というべきだ。それゆえ、今後に予想される災害に備えて防災・減災を考えていくには、その一点一点について原因を究明し、対策を検討していくことが必要なはずだ。

 

地震後の避難が遅れたのはなぜか

・以上のデータから何が理解できるのか。確実にいえることは、今回の地震がきわめて大規模であり、しかも三陸沿岸のような津波の常襲地帯で、大規模地震の到来が予告されていた土地であるにもかかわらず、多くの人が自宅から逃げずに亡くなっているということだ。理由はさまざまだろう。自宅が高台にあったために、ここまでは津波がこないと過信して巻き込まれたか。あるいは高齢その他の理由で、そもそも逃げることができなかったか。貴重品やペットを取りに戻って流されたというケースがかなりあることも、私が聞いた話から明らかになっている。その理由はどうであれ、多くの人が地震の直後に逃げないで亡くなっているという事実は、基礎的事実として確認されなくてはならない。

 

・では、彼らはなぜ逃げなかったのか。くり返し述べてきたが、高台に自宅があったために、ここまでは津波がこないと過信して津波に巻き込まれた人が大勢いるのは事実だ。その意味では、津波の恐ろしさを周知徹底して、迅速な避難を呼びかけていくという作業はどこまでも必要だろう。

 

・制度的な問題として第一にあげられるのは、気象庁が発表した大津波警報の過ちだ。気象庁が最初に発表した3メートルという数字が住民の意識のなかにインプットされてしまい、避難行動を遅らせていたことは私が集めた証言からも明らかだ。何人もの人が、3メートルの津波であれば6.5メートルの防潮堤でふせぐことができると考えて、避難しなかったと証言しているのだから。これは早急に改善されるべき点だが、これについては情報の課題の箇所で検討する。ここで取りあげるのは、津波の浸水予測図、いわゆるハザードマップの問題だ。

 

岩手県大槌町が発表していたこのハザードマップが決定的に間違っていたこと、そのために多くの死者を出す一要因となったことは明らかだといわなくてはならない。間違いの第一は、今回の地震の予測をあまりに低く見積もっていたことであり、第二は、事実の誤認が多く含まれていることだ。たとえば大槌町ハザードマップでは、町方の避難指定場所であった江岸寺は明治と昭和の津波の浸水区域の外側に記載されている。しかし明治の大津波では、浸水が寺の庫裏の根板から1メートル20の高さに達していたことが過去の記録に明記されている。にもかかわらず、それが浸水区域外として記述されていたのはなぜなのか。間違っていることが明らかであるとすれば、誰が、あるいはいかなる部局が、なにを根拠として、このハザードマップを作成していたのかが解明されなくてはならない。それがおこなわれなかったなら、今後もおなじ過ちがくり返されるだろうからだ。

 

ハザードマップはなぜ間違っていたのか

・役所が指定した避難所が津波に襲われて大勢の人が亡くなったケースは、大槌町釜石市だけでなく、陸前高田市でも宮城県三陸町でも見られている。であれば、役所の出していた想定が多くの箇所で間違っていたことは明らかなのであり、その想定がどのようにして作成され、役所はどれだけの情報をあらかじめ提示していたのか、その全過程が公表されることが不可欠だろう。情報をできるだけ正確に、かつ広く住民に提供するというのは、防災にかぎらず行政が銘記すべきことの第一であるのだから。

 

車で逃げた人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまったこと

・このように、自宅や勤務場所の近くに避難ビルが適切に配置されていれば、徒歩での迅速な避難が可能になって、多くの人命が救われることができる。

 

情報の混乱や途絶があり、被害を拡大したこと

・被災後に出された情報の内容や伝達方法に関し、今回の震災は大きな課題があることを示した。まず気象庁津波警報だが、沿岸部の住民の多くは、気象庁が最初に出した岩手県で3メートルという予測値だけを知り、避難行動の目安としていた。その意味で、気象庁の出したこの情報は、人びとの迅速な避難行動をうながすというより、むしろ逆にそれを阻害する要因として働いていたのは明らかだ。

 

被災後すぐに火災が発生したこと

・一方、火災に関しては別の問題がある。先の白澤さんの話にもあったように、車はすぐに発火するという問題だ。彼によれば、大槌町では火のついた車が水に流されて漂い、火をつけてまわったので町方全体が火の海に巻き込まれたというのだ。

 

勤務中に津波にさらわれた人が多かったこと

大槌町では老朽化した役場の倒壊の危険性があったために、地震直後の役場の前の広場に机を並べて、災害対策会議を開こうとしていた。そこを津波が直撃したために、危険を察知して屋上に逃げようとした町長をはじめとする幹部職員の多くが水に流されて亡くなった。と同時に、役場のなかでは職員が避難もせずに勤務していたのであり、彼らもまた建物のなかで津波に呑まれてしまい、役場職員140名のうち40名もが尊い生命を失った。

 

津波がまちを襲う

マグニチュード9.0というわが国の観測史上最大規模の巨大地震とそれが引き起こした津波は、東日本の太平洋岸に大きな被害をもたらした。なかでも岩手県三陸沿岸中部に位置する大槌町は、今回の震災で最大の被害を出した市町村のひとつだ。

 

・この本は、その3月11日から1年半のあいだに、吉里吉里をはじめとする大槌町釜石市の人びとが、どのように行動し、何を語り、何を考えてきたかを再現することを目的として書かれたものだ。

 

宮城県沖地震が30年以内に99パーセントの確立で襲うことが予想されていたにもかかわらず、その地震の規模と津波の予測が大きく間違っていたこと。しかも、地震の直後に気象庁が出した警報さえもが間違っていたこと。避難所に十分なそなえもなく、支援の手もなかなか入らず、住民自身の相互扶助と集団行動だけが秩序の空白を埋めていたこと。そしてまちづくりの現場では、住民の生活の質を向上させたり利便性を高めたりしようという配慮は行政の側にはほとんどなく、あるのはあいかわらず縦割り意識であり、数字合わせと表面的な効率性のみを重視する行政特有のロジックであること。これらのことを告発することもまた、本書が書かれた理由のひとつだったのだ。