日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

テレビも新聞も、今も連日、コロナ報道だらけだ。しかし、テレビが絶対に口に出せない、紙面に書けない単語がある。それが「生物兵器」という四文字だ。これは、全世界メディアの絶対タブーである。(2)

 

 

リチャード・コシミズの未来の歴史教科書』

知らずに生きるのは悲しすぎる!本来は教科書が語るべき、真実の歴史

リチャード・コシミズ  成甲書房 2012/7/10

 

 

 

アドルフ・ロスチャイルドヒットラー

アドルフ・ヒットラーの正体

・アドルフは、自分にユダヤ人の血が流れているとは分かった。だが、その事実は絶対に外に漏らすなと父から厳命を受けた。

 

・それまでのアドルフの人生は、決して順風満帆ではなかった。1889年4月、アドルフは、税官吏のアロイスと三番目の妻のクララとの間に生まれた。アロイスは小学校しか出ていない無学な靴職人だったが、不思議なことに一般職では最上級の税関長まで登りつめている。アロイスは私生児で名家の出身でもないのになぜ出世したのか?そこにヒットラーの権力掌握の秘密も隠されているのだ(アロイスは1903年、66歳で死去)。

 アロイスの母、アンナ・マリア・シックルグルーバーは、ウィーンのロスチャイルド男爵の邸宅に家政婦として住み込んでいた。当主のソロモン・マイヤー・フォン・ロスチャイルド男爵は、ロスチャイルド財閥の創始者、フランクフルトのマイアー・アムシェル・ロートシルトの次男であった。ソロモンの役割は、父の指令でウィーンに拠点を構え、オーストリアロスチャイルド財閥を形成することであった。ほかの兄弟たちは、ロンドン、ナポリ、パリに散り、それぞれの地でロスチャイルド財閥の興隆を図ったのだ。

 

・男爵は、奉公に来ている決して若くない家政婦に手を出した。いささか女癖の悪い貴族様であったようで、ほかにも女性問題を起こして警察沙汰にもなっているという。愛想を尽かした夫人は、ウィーンの邸宅を離れていたという。

 

<【ヒットラーとは何者か(ヘンリー・メイコウ博士)】>

・最もありそうもないことは、オーストリア人の放浪者、街路清掃人、及びゲイの男娼がドイツ首相になり得たことではないだろうか。見知らぬ

者の手助けで一躍、世界の中でも傑出した人物となったヒットラーは、身分が低く、脅迫可能な状況にある者達の長いリストに、名を連ねていた。

 ハレットは、ヒットラーの祖父が、ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドであると記しているヒットラーの父、アロイスが「恐怖による」悪魔の儀式的な強姦によって宿された時、ヒットラーの祖母、マリア・Schickelgruberは、ロスチャイルドのウィーンの邸宅でメイドをしていた。ロスチャイルド一族は、彼らの大家族内でのみ結婚が認められていた。そのため、彼らのために匿名の捜査官として機能する私生児を有していた。

(引用者注:ヒットラーがゲイであった可能性は少なからずある。ヒットラーは零落れてウィーンの安宿に一時住んでいたが、そこは男娼の巣窟だった)

 

ユダヤの血と私生児戦略

・ちなみにフランクフルトのマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの息子たちは、派遣先の欧州都市のどこでも、みながみな「男爵」位をカネで買って手に入れている。もっと高位の爵位を手に入れようとはしなかったのか?平民でしかも異教徒が金で手に入れられる爵位は「男爵」だけだったのだ。亡くなった英国のダイアナ妃も貴族の血を引いているが、その血とは、「ロスチャイルド男爵」の血である。チャールズ皇太子とダイアナ妃との結婚は「英国王室にユダヤの血を入れる」という謀略の結果だったのである。

 

・妊娠したアンナ・マリア・シッグルーバーは、すぐさま実家に帰され息子アロイスを産んだ。アロイスは私生児である。無学で、家柄も良くない。これだけ悪条件のそろった人物が、税関長にまで出世できたのは、背後にアロイスを後援する有力者がいたからだ。つまり、父のソロモン・マイヤー・ロスチャイルド男爵が、姿を隠して息子を支援したのだ。ユダヤ財閥の総帥には課せられた「私生児」戦略がある。街の女に子供を産ませ、密かに後援しながら子供が成長した暁には、ユダヤ財閥の手先として使うのだ。

 

・もうひとつの例を挙げるなら、ソ連の独裁者、ヨシフ・スターリンである。レーニンの死後、いかにしてスターリンが実権を掌握できたのか?実に簡単なことにロスチャイルドの隠し子だったからだ。パリ分家のエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド男爵は、ロスチャイルド財閥の第三世代に属する。父のジャコブ・マイエール・ド・ロスチャイルドは、財閥創始者マイアー・アムシェル・ロスチャイルドの末っ子、五男であった。パリ分家の二代目に当たるエドモンドは、カスピ海油田開発事業を担当していた。フランスから地中海を経て黒海を横切る帆船の旅の後、エドモンドは現在のグルジアを陸路で、カスピ海を船で進んで油田地帯を目指す。中継点は、グルジアのソチだ。

 ワイン事業にも手を広げていたエドモンドは、ソチで地元の女と知り合う。そして、子供を産ませる。ジュガシビリというグルジアユダヤ人特有の性を持ったその息子は、長じて改名することになる。「鉄の人、ヨシフ・スターリン」と。レーニンスターリンが君臨したソ連という国も、内実は、ユダヤ富豪が経営する傀儡国家であった。

 

・アドルフの生い立ちは決して順風満帆ではなかった。父アロイスと仲違いしたアドルフは、父が入れたリンツの工業学校をさぼり暴れてみせた。1903年アロイスが亡くなると、工業学校はアドルフを退学させた。父の遺産と年金を原資にアドルフはウィーンの美術学校入学に挑む。だが、二度続けて試験に失敗する。リンツの学校時代の内申書の評価が悪すぎたからだと学校を恨む。絵画の才能は………とても一流と言えるレベルではなかったようだ。

 その後、アドルフはオーストリア・ハンガリー帝国の兵役を逃れるべく住所を転々とする。1913年、ミュンヘンで発見されたアドルフはオーストリア本国に召還され徴兵検査を受けるが、栄養失調で不合格となり釈放される。ところが同年勃発した第1次世界大戦には志願して、ドイツ帝国の軍隊に入っている。伝令兵として前線で活躍し、二度受勲している。1914年の二級鉄十字章、1918年の一級鉄十字章である。特に後者は、階級の低い兵が受勲することはまずないもので、ヒットラーは総統になってからも好んでこの一級鉄十字賞を着用したという。

 

・戦後、ミュンヘンにあったアドルフは、ワイマール共和国軍の情報部に拾われる。このあたりから、アドルフ・ヒットラーを次の世界戦争の立役者に仕立てあげようと、ユダヤ裏社会、つまり、ロスチャイルド権力が動き始めたのである。

 

・アドルフは黒幕の手で弱小政党のひとつに過ぎない「ドイツ労働者党(DAP」にスパイとして送り込まれる。だが、その政党の中には既に黒幕の手下が潜入し幹部として居座っている。アドルフ・ヒットラーは、手はず通りすぐさま党に入党し「党員番号55」を授与される。そして、7番目の党委員に任命される。だが、DAPは無名で集客力がない。演説会を開いても誰ひとり聴衆は集まらない。こうなるとユダヤ式の動員術を黒幕が使う。「聴衆はこっちで“サクラ”を集めるから、なるべく広いところで演説会をやってくれ

 黒幕の指示通り、ヒットラーは、111人の聴衆を集め300マルクの寄付金を党にもたらした。もちろん、黒幕が“サクラ”を使ってやったことだが。これで、ヒットラーは党内での地位を確固たるものにする。次には2000人規模の大演説会を開催する。これにも成功する。1920年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が誕生する。

 

・黒幕が秘密裏に拠出する運営資金は、ヒットラーを通じて党に流れ込んでいたのだから。

 この事件を契機に、今までの党首、ドレクスラーは名誉総裁に退き、ヒットラーが総裁となるのだ。そして、前後して後にナチス党の幹部となるルドルフ・ヘスゲーリングが入党してくる。黒幕がヒットラーの周囲を固める参謀を送り込んだのだ。そして、その多くがヒットラー同様に「隠れユダヤ人」という秘密を持っていた。

 その後、右派クーデターまがいの「ミュンヘン一揆」を引き起こし、1924年4月、禁固5年の判決でランツベルク要塞刑務所にぶち込まれる。だが、刑務所の中でも特別扱いであり、『我が闘争』をルドルフ・ヘスに口述筆記させる。1925~26年、ヒットラーは党内の競争相手、シュトラッサーから実験を奪い、オーバーザルツブルグに山荘を買い、党カメラマン助手のエバ・ブラウンと知り合い愛人とする。

 

・1930年の議会選挙でナチス党は第二党に躍り出て、1932年選挙で37.8%の得票を得て230議席を獲得した。第一党である。もちろん、二度の議会選挙の費用は、黒幕から提供されたのだが。そして、ついに、1933年1月ヒットラー内閣が成立する。ヒットラーは直ちに共産党弾圧を開始し、敵対勢力の逮捕を進める。3月24日には「全権委任法」を成立させ、ナチス党以外の政党を禁止し、大統領と議会を無力化した。そして、ナチス党内の粛清に乗り出し、突撃隊の参謀長エルンスト・レームら1000人を殺害した。1934年8月、ヒンデンブルグ大統領が死ぬと、自らが総理と大統領を兼務する「総統」の座につく。ヒットラーは国民の大多数の崇拝を受け、全権を手に入れたのである。その間、裏社会から様々な援助や助言があったことは言うまでもない。ユダヤ裏社会は、14年の長きをかけて、ロスチャイルド卿の孫をドイツの独裁者に育て上げたのだ。

 

受け継がれた「世界征服の野望」

・ロックフェラー家はスペインに源流を発するセファルディムユダヤの名家である。欧州ユダヤの元締め、ロスチャイルド家と婚姻関係を結んで以来、ロックフェラー家はロスチャイルド財閥のニューヨーク支店として機能し、新大陸におけるユダヤ支配に邁進していたのだ。

 

・1935年3月、ヒットラーベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言した。国民は歓喜でこれを迎えた。再軍備はすぐさま進められ、軍需産業が失業者を吸収して失業問題は大幅に改善される。1936年、ベルリン・オリンピックが開催され、ナチス党が全世界に向けて宣伝される。

 

ヒットラーの背後の黒幕は、この大戦争のあとの世界の新体制の構図をしっかりと頭に入れた上で、ヒットラーに、スターリンに、チャーチルに指示を出しているのだ。まずは、ナチス・ドイツが東欧、西欧に侵攻して欧州を制覇する勢いを見せる。だが、ドイツ軍は、最後の詰めをないがしろにして敵を殲滅するには至らず撤退する。ヒットラーの命令によってである。そして、頃合いを見て東西から反攻を仕掛け、ドイツ軍をベルリンに追い詰める。その反撃の主体は、西が米軍であり、東がソ連軍だ。つまり、黒幕はベルリンを境界にして欧州に戦後の米ソ冷戦の構造を作りたかったのだ。

 

ユダヤ裏社会の指令

フランコとは、スペインのユダヤ人に多く見られる姓である。スペインのユダヤ人の多くは、1492年のユダヤ人追放令で国外退去か、カトリックへの改宗を余儀なくされた。スペインからトルコに遁れ、その後、米国に渡った有力なユダヤ人一族が、現在の米国の大富豪、ロックフェラー家である。改宗してスペインにとどまったユダヤ人の末裔が、フランシスコ・フランコ将軍であろう。もっとも、この“改宗”は表面上のみであり、仲間内ではユダヤ信仰を捨てていないグループは「マラノ」と呼ばれ、今でも世界中に隠れユダヤ人として生息している。

 例えば、米国大統領だったブッシュ親子がそれである。隠れユダヤ人のフランコ将軍が、「ナチス・ドイツを一方的に勝たせてはならない」というユダヤ裏社会の指令に基づいてフェリックス作戦を阻止したということだ。

 実際、スペイン出身のスパイで自身がユダヤ人であったベラスコは、明らかにフランコ将軍をユダヤ人として扱っている。また、フランコ将軍は、多数の欧州ユダヤ人がパレスチナユダヤ人収容所に逃れる手伝いをし、シオニストユダヤ組織と連携していた。つまり、フランコヒットラー同様に欧州のユダヤ人をパレスチナに送り出して、戦後、イスラエルを建国する手伝いをしたのだ。

 ユダヤ出自を隠して戦争指導者となったのは、ヒットラーチャーチルルーズベルトスターリンだけではなかったのだ。

 

・9月19日、ヒットラーは黒幕の指示通り、作戦の中止を決定する。英本土は、黒幕の戦争遂行作戦本部のシナリオ通り守られたのである。

 

ユダヤ傀儡国家ソ連の役回り

スターリンは、グルジア人だと言われているが、実は、ユダヤ大富豪の血を引く傀儡だった。そもそもソ連という国自体が、隠れユダヤレーニンユダヤトロツキーによって作られたユダヤ傀儡国家であった。二人とも、ユダヤ人大財閥がロシアに送り込んだ工作員だったのだ。

 実際、レーニンボルシェビキ政権の閣僚の大半がユダヤ人であった。おそらく、非ユダヤ人閣僚も実は「隠れユダヤ人」であったろうスターリンは、ウィーンのロスチャイルド家当主、エドモンド・ロスチャイルドの隠し子だったがゆえにレーニンの跡目を継ぐことができたのだ。そして、スターリンの側近二人、カガノビッチとベリヤも、ユダヤ財閥が送り込んだお目付け役に過ぎなかった。ソ連とは、ロシアのユダヤ人が国家を乗っ取って作ったものだった。ユダヤ独裁国家だったのだ。

 

・恐ろしい話だが、独ソ戦勃発時、反共を掲げるコサック軍は、ナチス・ドイツとともにソ連と戦った。後に、コサックはドイツの敗戦時、英国に降伏した。だがチャーチルはコサックたちをソ連に引き渡す。当然ながら、ソ連は英国によって帰還させられた反共のコサックたちを次々に処刑していった。ソ連ユダヤ傀儡国家である。そのユダヤ国家に弓を引いたコサックは生かしておけない存在だった。だから、隠れユダヤ人のチャーチルは、水面下で手を握るスターリンにコサックを引き渡して“処分”させたのだ。

 コサックとは、ロシアとウクライナに拠点を持つ15世紀からの歴史を誇る軍事共同体であった。ロマノフ王朝時代には王朝に帰順し、十数のコサック軍団が国境警備や治安維持に従事した。1917年のロシア革命以後、コサックはロシア国内に3か所の独立王国を建てる。だが、旧ロマノフ王朝勢力である白軍などとともに赤軍と戦い敗北する。以後、コサックは共産党から弾圧され続けてきたのだ。このような経緯から独ソ戦でコサックがドイツ側についたのは自然の流れだったのだ。

 ユダヤ財閥の代理人であるスターリンは、ユダヤ独裁国家ソ連に楯突いたコサックを根絶やしにするべく、盟友チャーチルにコサックの引き渡しを依頼する。引き渡されたコサックは大量虐殺され、コサックはロシアの大地から根絶されたのだ。ユダヤ独裁の継続のために。

 

・黒幕のスケジュール通り、モスクワへの進軍がヒットラーの命令変遷で遅れている間に、米国のルーズベルト大統領が対ソ支援に乗り出す。そのタイミングは、独軍が冬の到来でモスクワ攻略が怪しくなってきた時点であった。ヒットラーがあえてモスクワ攻略を遅らせることは、ルーズベルトは百も承知だったのだ。焦ることはない。ルーズベルトは、ヒットラーの黒幕に一番近いところにいる国家元首であり、黒幕の思惑通りに、米国をこの大戦に参戦させる任務を遂行しようとしていたのだ。

 ルーズベルトという一族の名前は、米国の黒人奴隷貿易の歴史を紐解くと、すぐに出てくる名前である。米国の黒人奴隷貿易に関わった業者は、例外なく全てユダヤ商人であった。ルーズベルト家もまた奴隷船の船主であり奴隷貿易で財産を成したオランダ系のユダヤ人だったのだ。そして、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の祖父、ウォーレン・デラノは中国・広東に拠点を置く米国系アヘン貿易会社の役員であった人物であり、麻薬ビジネスによって築いた財産を投入して、孫息子を米国大統領に押し上げたのだ。ユダヤ裏社会は、ルーズベルトに米国の大戦参戦によって戦後の冷戦構造の構築を実現するよう命じたのであった。

 

狂気の男によって大戦争に導かれた日本

ルーズベルトは米国が欧州の大戦に参戦できるように策略を講じた。当時、「ABCD包囲網」で物資の調達に苦労していた日本を戦争に引き込む計画だ。鉄くずや石油を禁輸して日本が戦争に打って出るしか方策がない状態に追い込む。そして、米国太平洋艦隊をわざわざ危険な真珠湾に移し、日本帝国海軍が攻撃しやすいように配慮する。危険すぎると反対する米海軍高官は更迭する。実際、ルーズベルトは側近の軍人に、「日本に米国を攻撃させるための8段階の計画」を策定させた。そして、これら全てを実行に移した結果、日本は素直にルーズベルトに計略に引っかかり米国・ハワイを攻撃した。この謀略の経緯は、1994年に公開された米公文書に記載されている。紛れもない事実だ。

 

<「ルーズベルトは狂気の男」  フーバー元大統領が批判

・【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルトについて「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した『FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)』で明らかにした。

 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした――などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。

 

ベルリン陥落と影武者の自殺

・1941年9月、ドイツ軍は苦しみながらもクレムリンまであと十数キロの地点まで到達していた。それまでの快進撃に補給が追いつかず、冬用の装備も行き渡らない。例年より早い冬の到来で、独軍将兵は寒さに震える。戦闘どころではない。だが、あと十数キロの話である。冬季装備の支給さえなされていれば、モスクワ市街に突入できたはずだ。ヒットラーはモスクワ進撃を遅らせることで意図的にモスクワ占領を失敗させる黒幕の計画に加担したのだ。

 

・1945年4月29日、ソ連軍と連合軍が迫るベルリンにおいて、ヒットラーは隠れユダヤ人、エバ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして、翌日、ヒットラーの代わりに影武者が“自殺”させられた日に、エバとふたりは、総統官邸の近くに待機するハインケル輸送機に乗り込む。行き先はスペインだ。1945年5月8日、ドイツは降伏文書にサインし、欧州の戦争は終わりを告げる。

 

某国首相はヒットラーの愛嬢なのか

ヒットラーはベルリンの地下宮殿で自殺などしていなかった。戦争が終わって数か月後、ヒットラー夫妻は潜伏先のスペインからノルウェーの港町、ベルゲンに移動する。そこにはまだ、ナチス・ドイツの潜水艦基地が機能している。第11潜水隊群だ。5月9日にナチス・ドイツが降伏した際に解隊してはいるが、Uボートはまだ放置されたままだった。5隻のUボートが人の目をはばかって静かに外海へ出て行く。船内にはナチスの高官たちが乗船してヒットラー夫妻もそのうちの1隻に乗り込んでいる。2か月半の航海の後、Uボートはアルゼンチンのマル・デル・プラタ港に到着する。その間、米国の海軍艦船、アルゼンチンの艦船と遭遇し2隻を攻撃する。数百人が犠牲になるが、終戦後のこの戦闘について関係国家もメディアも沈黙を守る。不問に付す。ヒットラーナチス高官がUボートで南米へ逃亡することは、裏社会の暗黙の了解事項だったのだ

 

ヒットラーと同行したナチス高官たちは、アルゼンチンの独裁者、ペロンの計らいで用意された山間部のバリローチェの山荘にたどり着く。船でしかたどり着くことのできない安全な地、そして、ヒットラーの愛したヨーロッパ・アルプスに酷似したこの地に。

 

・「南米で戦後撮影されたヒットラーの写真」なるものがある。かなりの高齢である。どうやら、歯はあらかた抜け落ちているようだ。100歳以上にも見える。容貌、耳の形、どれをみてもヒットラーを彷彿させる写真である。

 

ヒットラーが重用したスパイ、ベラスコはユダヤ系スペイン人であった。ベラスコは戦後、ヒットラーの逃亡劇について証言している。ベラスコは大戦の末期にベルリンのヒットラーの地下官邸で勤務していた。ベラスコによると、1945年4月30日にソ連軍がベルリンを制圧し、帝国議会の屋上にソ連国旗を立てたときには、もはや、ヒットラーはベルリンにはいなかったというのだ。

 ベラスコの証言はさらに続く。ベラスコは、ナチスの副総統であったマルチン・ボルマンとアドルフ・アイヒマンをアルゼンチンに送り出したとアイヒマンがその後アルゼンチンで15年間隠れていたことは分かっている。アルゼンチンはナチ高官の隠れ家だったのだ。ロシアのプラウダ紙の2003年2月の署名記事には、ドイツ第三帝国が崩壊した後、1945年の7月から8月にかけて、少なくとも5隻のUボートがアルゼンチンに到達している、との記載がある。アルゼンチンの研究者によると、50人以上のナチス高官がアルゼンチンに上陸したが、その中にヒットラーエバ・ブラウンらが含まれていたのかもしれない。

 

・アルゼンチンのジャーナリスト、アベル・バスチが、2004年の7月に出版した本、『Barilche Nazi Tour Guide』では、ヒットラーは、ブエノス・アイレスから1350キロ離れた、バリローチェの近郊、ビラ・アンゴスチラに隠れ住んでいたとされている。アルゼンチンの実業家が私有するこの土地には、船でしか行くことができなかった。ヒットラー、マルチン・ボルマン、ヨーゼフ・メンゲレ、アドルフ・アイヒマンらが、Uボートでアルゼンチンに上陸して後、1945~46年頃から1957年まで、そこで生活していたというのだ(後にアイヒマンはブエノス・アイレスで捕われたが)。しかし、いつまでも同じところで生活はできなかったようだ。ヒットラーたちは、hacienda San Ramonという山間の農場に移り住んだようだ。やはり、ひとところにいると人目について噂にもなったであろうから。

 

また、2003年5月に放映された英国のまじめなドキュメンタリー番組で、ヒットラーがアルゼンチンのホテル・ラ・フラダに宿泊したこと、ホテルの女性従業員が、ヒットラーが何を食べたか、どんな音楽が好きだったかまで証言したのだそうだ。このホテル従業員のCatalina Gameroは、雇い主だったEda Einhoronから、ヒットラーの世話をしたことを秘密にしておくよう、命じられたとのことだ。ホテルは1960年半ばに廃業したが、当時ヒットラーはこのホテルの離れに滞在したと伝えられている。

 バリローチェ周辺にはナチス残党が関わった数々の痕跡が見つかっている。ナチのSS(親衛隊)に所属していたErich Priebkeの住居、ナチ情報部のラインハルト・クープスがJuan Malerの偽名で、 バリローチェで経営していたというホテル・ベル、そして極めつけは、The Berghof refuge……ヒットラーは、この山荘に、ヨーロッパ・アルプスに自分が持っていた山荘の名をつけたのであった。また、ナチスがバリローチェに地下要塞を築いたが、アルゼンチン陸軍がダイナマイトで破壊したという。

 

ユダヤ裏社会は、あくまでも自分たちだけが知る秘密を共有して、傀儡を操っていく手法を数百年間崩していないヒットラーのような「ユダヤ権力の秘密兵器」に相当する人物は、今日でも採用され、ヒットラーの時代と変わらずユダヤ裏社会のために貢献しているのだ。

 

・世界の歴史は支配者の都合に合わせて、改変され目隠しをした上で大衆に「下賜」されてきた。世界権力が知られて困ることは粉飾され脚色されて提供されるのだ。それでいいのか? いいわけがない。真実の歴史を知ることで、人類は初めて目を覚ましどう行動するべきか、どう生きるべきかを知るのである。

 ヒットラーの真実を知ることは、人類の歴史をリセットして、再出発するためにどうしても必要なことなのである。それは「人類の進化」と呼ぶべき偉業なのだ。人よりも先に真実を知った読者諸氏よ、まだ目覚めぬ友たちに真実への道を示していただきたい。それが先覚者の使命だ。人類全体の幸福のために。それが個々人と家族、そして友人たちの幸福をもたらすのであるから。

 

FBI DOCUMENTS ADOLPH HITLER ESCAPED TO ARGENTINA

・冒頭に「アルゼンチンの高官が、ヒットラーが潜水艦でアルゼンチンに到着次第かくまうよう支援した」「ヒットラーは、南アンデスの山間地に隠れているとされる」といったことが書いてあります。

 

ユダヤ権力の凋落

・歴史を正しく知ることで、現代社会の不可解な事象が即座に理解できるようになります。

 本書を読まれた方は、なぜ安倍政権は憲法9条や96条改正に血道を上げるのか、なぜ秘密保護法法案を強行しているのか、なぜ日本版NSC創設などを言い出したのか、なぜ消費税増税を強行するのか、なぜTPPに参加しようとするのか、容易に理解できていると思います。

 

この国家の危機を当面乗り越えるために、米国ユダヤ勢力は緊急かつ徹底的に日本から搾り取る作戦を始動しています。米国の窮状を救うのは、日本の消費増税、TPP参加、9条改正なのです。つまり、郵貯簡保、農協に眠る500兆円を超える資産を略奪して米国債買い付けに回させる。9条改正で、尖閣諸島で日中衝突を引き起こし日中戦争を惹起することで世界の資産が軍事大国米国へ流れ込むようにする……それらを実現するには、不正選挙を敢行して、米国ユダヤの言いなりとなる傀儡議員で日本国会を占拠してしまう必要があったのです。

 

済州島と日本の深くて暗い関わり

・1945年、日本の敗戦により朝鮮は35年にわたる日本による支配から脱却する。日本の敗戦を機に故郷済州島に帰る仲間もいる。だが、高志源は大阪に残ることを選択する。

 日本の敗戦で、在日社会にも変化が生まれる。積極的に世に出ようとする者が続出する。高志源の遠い親戚筋の高太文は1920年済州島生まれの人物で、高志源よりも少し前に大阪鶴橋に移住している。高太文は柔道6段の猛者であり、戦後10年経って、1956年にプロレス団体を立ち上げた。だが、同胞の力道山率いる日本プロレスに敗退して団体は活動停止してしまう。夢やぶれた高太文は、1961年、一家を連れて朝鮮に帰国する。済州島へ帰ったのか?違う。「北朝鮮へ」である。

 当時、在日同胞の北朝鮮への帰国運動を推進していたのは、小泉純也という政治家であった。元首相、小泉純一郎の父親である。一体全体、なぜに小泉の父親が北朝鮮に関わったのか?現代史の教科書を1万回読んでも答えは見つからない。

 

利用された在日朝鮮人ネットワーク

・しかし、北朝鮮とは地縁も血縁もない高太文は、なぜ、娘たちを連れて北朝鮮に帰国したのか?謎である。だが、真の歴史を知れば謎でもなんでもない。学校の教科書に載っていないだけである(森喜朗小泉純一郎安倍晋三という3人の総理経験者には共通する出自の秘密があり、だからこそ、総理になれたのだ。前首相、野田某も別の意味での「総理の資格」を有しており、これと同じ資格を前原、岡田という他の民主党幹部も持っていることを記しておく。互いを絶対に裏切らない「心身」両面での固い絆が彼らにはある。あとは、読者の想像にお任せする)。

 

・高太文の娘、高英姫は、1950年6月大阪の鶴橋生まれである。11歳の1961年5月18日に父親に連れられて北朝鮮に帰国している。高太文は、北朝鮮における柔道指導者として歓迎されたようだ。娘の英姫は、平壌芸術大学に入学し、卒業後、国立民族歌舞団に入団して映画「金剛山の処女」に踊り子として出演した。そこで、金正日総書記の目にとまったようだ。そして、金正日の三番目の妻となる。

 この在日の帰国女性が金正日の息子を2人産む。ひとりが次男、金正哲、もう一人が三男の金正恩が就いたのである。

 

・(最近、高英姫が別人であり、ほかの在日女性だったとする説が語られている。どちらが事実かは不明である。だが、柔道家、高太文の娘だったとする説は、高英姫自身が書いた伝記に記載されている。)

 

・1959年12月に始まった在日朝鮮人の帰還に済州島出身者が群がった理由はこれでおわかりであろう。1961年に済州人特有の苗字である「高」なる11歳の女の子が、柔道家の父親に連れられて北朝鮮に渡る船に乗船したのには、こんな経緯があったのである。関西の在日居住地区には、大虐殺を行った大韓民国政府への怒りと北朝鮮の楽園神話に憧れる思いが渦巻いていたのである。

 

朝鮮労働党が日本国内に協力組織を作ってきたのは疑いのない事実である。日本はスパイを取り締まる能力のない国であるゆえ、北朝鮮工作員ネットワークを作ることはいとも簡単である。厳しい摘発を行う韓国でさえ、北朝鮮とつながった協力者のネットワークは何度も露見している。脇が甘いどころか、脇が開けっ放しの日本では工作のやりたい放題であろう。

 北朝鮮が日本ネットワークを作るとき、まっさきに組織化対象になるのは、済州島での弾圧を避けて日本に逃れてきた左派島民とその家族である。彼らが日本に定住している以上、使わない手はない。

 

オウムの名を借りたCIA・北朝鮮合同部隊

・さて、話は突然にオウム事件に飛ぶ。オウム事件に宗教団体であるS価学会、T一協会が関与していたことは、著者の別著で学んでいただきたい。学校の教科書には「麻原某によるマインドコントロールが原因」と書いてあるが、そんなものをいつまでも信じていては真実には絶対に辿り着けない。オウム事件とは国際的な大規模な謀略の一部分であり、その最終目的は、毎度おなじみ「ユダヤ権力による大戦争惹起」、つまり、今まで繰り返されてきたのと同じ、戦争捏造計画の一端だったのである。

 

裏社会は小沢一郎の何を恐れていたのか

ユダヤ権力がこのまま何も起こさずに推移してしまえば、世界の経済の中心は、極東アジアに移ってしまう。欧米は長い間の世界経済支配体制を失い、没落の坂を転がり落ちるだけだ。これでは困る。だから、日中韓露が経済的に合体することは万難を排して阻止したいのだ。日中韓露が極東アジア経済共同体でも結成すれば間違いなく世界最強の経済圏が誕生する。米ドルなどに依存する必要は毛頭なくなる。

 つまり放置すれば、欧米ユダヤ権力は確実に没落する。だからこそ、小沢一郎氏が徹底的な攻撃を受けているのだ。

 

 

 

金正日は日本人だった』

佐藤守(元自衛隊空将)   講談社  2009/10/28   

 

 

 

<日本を愛す将軍様

・そして<かちかちのサンマをほおばりながら、「百年の宿敵」であるはずの日本の庶民料理が、とにもかくにも平壌のど真ん中で食べられるのは、なんとも不思議な感じがしたものだった。いま思えば、金正日が無頼の和食通だったのである>との感想を持った。

 これまた、金正日の和食好きを表しているエピソードである。

 

<人民軍の大将たちの愛唱歌は「ラバウル小唄」>

・将軍が愛する日本のものは食べ物だけではない。

 金正日の愛車はトヨタのセンチュリーだという。当然ながら安全性には細心の注意が払われており、防弾ガラス、鉄板も普通の市販車に比べると分厚い改造車で、藤本氏によると、ドアはことのほか重かったらしい。

 

・藤本氏は、宴会場には必ず「カラオケセット」があり、日本の歌もよくうたわれたという。

 

・演歌だけではなく、宴会で軍の大将が酔っ払うと、どういうわけか日本の軍歌を歌っていた。

 

・藤本氏の証言では、金正日が執務室で使っていたのも、NECのパソコンだったらしい。金正日には毎日500~1000件の報告が届く。報告はFAXとメールが主で、金正日はその処理のために、早くからNECのパソコンを導入していたという。

 これらの物資のほとんどは、日本から万景峰号で運ばれたものだろうが、日朝間がいかに「太いパイプ」で密接に繋がっているかという証明でもあろう。

 

・なぜ、日本のアーティストを将軍がご存じなのか。私は北朝鮮内部にも情報網をめぐらせている知人から、「実は、金正日は日本の衛星放送を好んで見ている」という話を聞いたことがある。そのとき非常に印象深かったのは、彼が「一番好きな番組は皇室関係の番組らしい」と語っていたことである。

 天皇制と金王朝の関係を示唆する重要な証言だが、それはさておき、藤本氏の著書が伝える金正日の姿は、まるで親日家である。元在日の妻を寵愛し、日本人の料理人を傍に置き、和食に舌鼓を打つ。日本のテレビ番組を好んで観るし、移動はトヨタのセンチュリー。ときには日本の芸能人のショーを楽しむ。親日家を超えて「愛日家」という印象さえ受けるのだ。

 

<30年近く前に来日していた金正日

・いや、それどころか、金正日は何度も来日しているという説を唱える専門家もいる。あまりにも突拍子もないので、大半の人が信じられないだろうが、そう主張しているのが、あの北朝鮮の専門家、早稲田大学国際教養学部教授の重村智計氏だと知れば、私でなくとも興味が湧くはずである。

 

・重村氏は元毎日新聞記者で、30年以上、北朝鮮に関して取材を続けてきた。その取材のなかで、それまで書かなかった事実を、『金正日の正体』(講談社現代新書)と題して2008年に出版した。

 その書には、金正日の影武者の存在など、驚くべき事実が、確かな裏づけに基づいて明らかにされているのだが、私が最も興味を持ったのは、<将軍様は82年から東京に遊びに来ていた>というくだりである。

 重村氏はあるとき、衝撃的な内容の本に出合った。タイトルは『人生は、ショータイム』(ブックマン社)。著者は日本有数のダンスの振付師、小井戸秀宅氏で、2004年5月に上梓された本だった。題名だけを見れば、小井戸氏の振付師としての半生を綴っただけの本のように思えて、一般の人はほとんど関心を持たないだろうが、この書には度肝を抜かれるような事実が書かれていた。

 

・若い方はご存じないだろうが、かつて東京・赤坂に伝説のレストランシアターがあった。「コルドンブルー」である。コルドンブルーが開店したのは1971年。約40年近くも前に、一人5万円の料金で、フランス料理のフルコースとレビューを楽しませる超のつく高級レストランシアター。フランスのル・モンド紙が「レストランシアターではフランスのクレイジーホースとジャポンのコルドンブルーが世界の雄」と絶賛するほど、その豪華なショーは評判が高かった。

 

・この伝説のコルドンブルーで、ショーの振り付けを担当していたのが、小井戸氏だった。小井戸氏は『人生は、ショータイム』のなかで、北朝鮮の「喜び組」の踊りの振り付けは、コルドンブルーで彼がつけていた振り付けのパクリで、北朝鮮にはコルドンブルーのスタッフが呼ばれてつくった、まったく同じ舞台まであると明かしている。

 これだけなら驚くに値しないが、続く記述に重村氏の目は釘付けになった。

 

<“喜び組”は、コルドンブルーを見た金正日が、『コルドンブルーと同じような女性ダンサーを育てたい』といって結成したものです。コルドンブルーは北朝鮮に文化輸出されました>

<彼は芸能界、映画界に興味がありショービジネスも大好きで、お忍びで来て、コルドンブルーのショーを楽しんだのでしょう。日本のタレントのなかでもプリンセス天功にとくに興味があり、彼女のショーを見たのでしょう>

 

金正日は来日し、コルドンブルーのショーを見て、すっかり気に入り、北朝鮮にコルドンブルーの舞台を再現し、「喜び組」にそっくり同じショーをやらせている。プリンセス天功のイリュージョンを見たのもコルドンブルーで、その後、彼女をたびたび招くようになったというのである。

 しかも、小井戸氏は、1982年5月に金正日がコルドンブルーを訪れたときの写真まであるという。

 

・それにしても、金正日のような有名人が来日すれば、すぐにばれて大騒ぎになってしまうのではないかと疑問を持つ方が数多くおられるかもしれない。だが、それは愚問だ。なぜなら、1982年当時、金正日の名は聞こえてきていても、顔は誰も知らなかったからだ。2009年の後継者騒ぎを思い出していただければわかりやすいだろう。

 

・北の後継者として金正雲の名が取りざたされたとき、報道各社はその姿を写した写真を入手しようと奔走したが、テレビに映し出されたのは、先述の藤本健二氏が北朝鮮から持ち帰った、子供のころの写真でしかなかった。日本人は誰も現在の金正雲の顔がわからない。街で来日した金正雲とすれ違っても、誰一人気づかないはずだ。

 

・1982年当時は、日本人はもちろん北朝鮮の人々も、金正日の顔など見たことはない。飛行機嫌いの金正日万景峰号に乗船し、日本へやってきたといわれている。だが、将軍様万景峰号に乗船して来日しても、北朝鮮の一般の乗客は、まさか偉大なる首領の後継ぎが自分たちと同じ船に乗っているとは思いもしない。

 

<北の指導者が赤坂に通い続けたわけ>

・なぜ、それほど熱心に金正日はコルドンブルーに通ったのか。プリンセス天功のショーが目当てだったのはたしかだが、重村氏は他にも重要な理由があったと分析している。

 

金正男はなぜ密入国を企てたか>

金正日が1970年代からたびたび訪日していたとすると、2001年5月1日の金正男事件も理解できる。

 この日、「金正男氏と見られる男性」が、成田空港で入国管理局に拘束された。男は妻子を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して入国をはかったところ、入国管理官に見抜かれ、拘束・収容された。

 その際に、背中に虎の刺青が施されていることが判明し、金正男であることが、ほぼ確認された。ロイヤルファミリーの一員の身柄拘束は、北朝鮮から重要な人質を取ったに等しく、日本人拉致問題の解決の糸口になるのではという声も多くあがった。

 ところが、外交問題に発展することを恐れた日本政府は、強制退去処分にし、金正男は5月4日、全日空機で中国に向け出国した。