日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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近年は「野人」映画が何本も作られ、神農架観光のPRアプリでは、拡張現実の中で「野人」探索も可能だ。時代に求められる限り、「野人」の物語は何度でも蘇るだろう。(1)

 

『UMAクロニクル』

説明不能未知との遭遇 未確認生物の謎に迫る!

  ASIOS   彩図社 2018/7/18

 

 

 

魅力溢れる未確認動物の世界

ネス湖ネッシー、北米の獣人ビッグフット、ヒマラヤの雪男、海の大蛇シーサーペント。

 こういった怪しくも好奇心を刺激される未確認の動物たちは、日本では「UMA」と呼ばれています。世界各地の湖、森、山、海などに隠れ棲むといわれているロマンに満ちた存在です。

 

グーグルによると、「バッキンガム宮殿」より「ネス湖」を検索する人の方が多いといいます。21世紀になっても人々の興味が失われることはないようです。

 

・といいましても、たとえばUFOのように一度しか起きなかった事件などとは違い、UMAは特定の地域で何年、ときには何十年にもわたって目撃報告が寄せられることも珍しくありません。

 ですから、年代順に分類することは難しい場合もあるのです。そうした場合でも主要な目撃事件などにスポットをあてるなどして対応するように努めました。

 

『<イエティ> 』

 

・巨大でがっしりとしたゴリラみたいな毛むくじゃらの体。二本脚で雪原に大きな足跡を残しながら大股で消えていく謎の巨大類人猿。ヒマラヤに棲む雪男(イエティ)と聞くと、多くの人はこんなイメージを抱くことだろう。だが、世界的に有名な割に動画はおろかまともな写真すら未だ一枚も撮られていない。

 

<■19世紀に西洋社会に紹介>

・イエティの存在が西洋社会に初めて紹介されたのは1832年のことだ。ネパールに駐在していた英国高官B・H・ホジソンがベンガルの学会誌に「ヒマラヤには、現地人がラカシャス(サンスクリット語で悪魔)と恐れる毛むくじゃらの野人がいる」と報告をした。もっともホジソン自身は「オランウータンでも見間違えたのだろう」と雪男の話を本気にしてこなかった。

 

『<ビッグフット>』

 

カリフォルニア州北部からワシントン、オレゴン州、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州にかけての北米西部の山岳地帯には、先住民の間に、現地語でサスカッチと呼ばれる、毛で覆われた巨大な二足歩行する動物の伝説が伝わっていた。

 1958年、カリフォルニア州北部フンボルト郡ブラフ・クリークで道路建設の現場監督をしていたジェリー・クルーが工事機械の周りに足のサイズが約41センチ、その幅が約18センチ、泥の中に深さ約5センチ沈んだ(普通の人間では1.3センチくらい)大きな足跡を見つけた。歩幅も約1.2メートルもあり、二足歩行の巨大動物の足跡を思わせた。

 巨大な足跡は夜に何度も現れ、一晩で、驚く程多数の足跡が見つかることもあり、それまでウワサや伝承だったサスカッチ実在の根拠が足跡という物的証拠に置き換わった、と思わせる事件だった。事件は地元ユリーカの新聞「タイムズ・スタンダード」の記事になり、新聞社には全米から問い合わせが殺到するなど大きな興味を引き起こした。

 

『<ヒバゴン>』

 

昭和45(1970)年から昭和49(1974)年にかけて、広島県北部、島根県に程近い中国山地にある比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)に出現した類人猿型UMAがヒバゴンである。

 身長は150センチから170センチ、体重は80キロから90キロと推定されており、雪男など他の猿人型UMAと比べるとかなり小さい。荒い毛が逆立ち目つきが鋭く、顔が逆三角形をしているのも大きな特徴である。

 

工事現場で発見された足跡

・騒動の発端は昭和45年、造成工事中だった「県民の森」という公園の工事現場で、奇妙な足跡が発見されたことに始まる。その足跡は湿った土を踏んだまま簡易舗装の道路を歩いてついたものらしく、道路の上に数メートルにわたって点々と続いていた。人間のものと形が異なり、靴の跡とも思えない。あまりに奇妙だったため地元の警察が調査し、県警の鑑識が土に残された足跡の石膏型を取るなど大騒ぎに発展する。

 

・この騒動も収まらないうちに、造成現場に程近い油木という場所の、山中のダムの脇にある道で、車で通りがかった地元住民が「子牛くらいの大きさの、ゴリラに似たもの」と遭遇、道を横切って歩き去るのを目撃した。この事件から4年にわたり、比婆郡西城町と周辺の町において、正体不明のUMAが集中目撃されることになる

 ヒバゴンは、ある理由から目撃情報が一元管理され、生の目撃情報がよく保存されているという点で、調査者には比較的優しいUMAである。

 

・比婆観光センターの駐車場に飾られているヒバゴン像。1970年から74年にかけて町内で複数の人々が目撃。全国から探検隊が押し寄せるなど、町はヒバゴンブームに沸いた。

 

その理由というのが、当時の騒動を受けて昭和46年4月、西城町役場に「類人猿係」という専門部署が設置されたことである。西城町は人口の少ない山間部の農村であり、役場の方でも騒動を聞きつけて全国から殺到した探検隊やマスコミや一般人の取材、問い合わせに対応しきれなくなり、本来の業務に支障が出てきた。そこで目撃情報の収集管理、探検隊の案内、問い合わせ対応を専門に行う「類人猿係」が設置されることになったのである。

 ちなみに騒動発生の当初はまだ「ヒバゴン」という名称は存在しなかった。当時の新聞でも「比婆山の怪物」と呼ばれている場合が多い。類人猿係だった見越敏宏氏も、ヒバゴンの名前の由来はよくわからないという。

 

・当時の新聞にはすでに「県民の森売り出しのための狂言ではないか?」という陰謀論が紹介されている。もっとも、比婆郡一帯の主要産業は農業であり、観光という面では怪獣騒ぎを起こしてまで観光客を呼ぶメリットはあまりない。

 中には騒動に乗ってヒバゴンを商品化した店もあったようで、300円から500円で売り出したヒバゴン人形はよく売れたそうだ。県民の森の宿泊客も増えたろうし探検隊に物資を売ったりもしたろう。西城町では町おこしのPRキャラクターとして現在もヒバゴンを活用しているだが、愛されるキャラクターになったのは結果論であって、「嫁の来手がない」とまで言われた農村で怪獣騒ぎを起こすのはリスクばかりが大きいように感じる。

 

・県民の森は山奥にあるスポーツと野外活動のための公園であり、麓が観光地化されている高尾山や宮島の弥山と違い、周囲には他に観光施設どころか民家すらない。現地に行けばわかるが、一歩道路や造成地から外れるとガチンコの「森」である。

 しかし、だからこそ怪物騒ぎにも説得力があった。深い藪と広大な山林は容易に調査できるものではなく、怪物が潜んでいるとしてもおかしくない。本気で捜索しようと思えば本格的な野営装備を持って数人でパーティを組み、山中でキャンプしながら調査を行う必要がある

 例えば、昭和46年10月20日から現地調査を行なった名城大学探検部類人猿調査隊の陣容は、ベースキャンプを中心に12名からなる隊員を小班に分けて山中を探索するという本格的なものだった。他にも神戸ボーイスカウト第23団青年隊、同志社大学、広島工大探検愛好会、拓殖大学探検部、葛飾野高校山岳部OB会などが捜索を行い、探検好きの高校生のコンビが、県民の森の宿泊施設に泊まり込みながら周辺の山林を調査した。

 

正体は何か?

ヒバゴンは伝言ゲームになっていない、生の証言に近いものが保存されていたり、昭和49年8月には庄原市濁川町で、ヒバゴンとされる写真も撮影されている。

 しかし、ヒバゴンの正体は今のところ全くわかっていないヒバゴンの足跡とされるものは非常にたくさん発見されている。先ほど紹介した高校生探検コンビも何かの生き物の足跡を発見している。しかし、そこからヒバゴンの正体に迫ることはできなかった。

 

・足跡は小型のものと大型のものに分類され、大型のものは概ね長さ25センチ前後、幅15センチ前後で踵側がやや狭く、つま先の方が大きく広がっているものが多い。これはクマの足跡に似ており、当時の京都大学霊長類研究所へのインタビューでもクマの可能性を指摘している。小さいものは長さ16センチ前後、幅は10センチ前後で、ニホンザルのものである可能性が指摘されている。いずれにせよ、雪や落ち葉混じりの土、舗装道路の上の濡れた足跡は鮮明とは言えず、決定的な証拠にはならなかった。

 

濁川町で撮影された写真は、昭和49年8月19日付の中国新聞には「ネズミ色で身長1.5メートル赤い顔、年とった大ザル?」という見出しとともに掲載されているが、この写真は極めて不鮮明で、何が写っているのかよくわからない。同じ記事には広島市安佐動物公園園長の話として「ニホンザルだと思う」「実際はもっと小さいのではないか」というインタビューが掲載されている。

 また、目撃者からも「この写真は自分が見たものと似ていない」という意見が出ており、単なるサルの誤認である可能性は排除できない。

 

  • 野生動物の誤認説

 騒動の最中、西城町の寺にニホンザルが出現し、(実際には専門家ではないのに)類人猿係が出動したことがある。周辺にサルがいることは間違いなさそうだが、ヒバゴンの体格は一般的な男性と同程度であり、ニホンザルよりはかなり大きく、すべてをサルの見間違いとすることはできない。クマの見間違い説もあるが、ヒバゴンが至近距離で目撃された例もあり、やはりすべてをクマで説明することは難しい。

 

  • 逃げ出した動物説

 ワシントン条約は野生の動植物やそれらを使った製品の輸出入を規制する国際条約で、附属書によってⅠからⅢまでにランク付され、Ⅰにランクされた種は、学術研究以外で輸出入することが禁止されている。ゴリラ、オランウータン、チンパンジーなど大型類人猿はすべてこの附属書Ⅰに含まれ、現在ではペットとして飼うことはできない。しかし、当時野放しの状態で、動物商からなんでも買うことができた(ワシントン条約の発効は1975年。日本は80年に批准)。そこから一般家庭などから逃げ出した大型類人猿が目撃されたのではないかとする説。

 

・「ヒバゴンの写真」を見て、読売新聞に「山口県防府市で、移動動物園からニシキヘビとオオショウジョウ(ここで何を指しているか不明だが、一般的にオオショウジョウはゴリラの和名である)が脱走し、ヘビは捕まったがオオショウジョウは逃げた」という情報を送ってきた読者がいるという。

 しかし、県民の森がスキー場であることからもわかる通り、西城町一帯は寒冷な気候で、冬季には深く雪が積もり当たり前のように気温が氷点下になる。この環境で熱帯産の動物が4年にわたり生存するのは困難のようにも思われる。

 

  • 人間説

 ヒバゴンは体格が人間と同じで、目撃証言からすると動作も野生動物にしてはやけに鈍い。このことから、ヒバゴンの正体はボロをまとったホームレス(または野生に生きる人間)という説や、単なる着ぐるみを着たイタズラという説もある。これらの説に関しては検証不能なのでなんとも言えない。

 

  • 新種の類人猿、化石人類の生き残り説

 これが本当ならばなんともロマンがあるが、人間ほどの大きさがある大型動物がこれまで発見されなかったというのは考えにくいし、種を維持できるほどの個体数がいるにしては4年間だけある町周辺に現れるというのは不自然で、目撃数も少なすぎる。

 

  • その他

 近隣でUFOが目撃されたことから宇宙生物という説や、比婆山周辺は神話に彩られた土地であり、神秘的な妖怪のようなものではないかという説もあるが、これらについてはもはや検証のしようもない。

 

ヒバゴンの現在>

ヒバゴン騒動は昭和49年以降目撃が途絶えたことで急速に沈静化し、昭和50年には「ヒバゴン騒動終息宣言」が出され類人猿係も廃止、担当だった観越氏も通常の業務に戻り西城町における怪獣騒動は終結した。

 昭和55年、福山市山野町でヒバゴンによく似た怪獣「ヤマゴン」が目撃され、引っ越ししたヒバゴンではと騒がれたが、結局単発の目撃に終わっている。昭和57年には御調郡久井町(現在の三原市)で、地元の子供が石斧を持った原始人のような毛深い怪物を目撃、「クイゴン」と命名されたがこれも単発の目撃に終わっている。クイゴンについては、目撃者が10歳と7歳の少年だった事と、あまりに人間的すぎることから、ただの人間だった可能性は捨てきれない。

 これ以降、広島での類人猿型UMAの目撃は報告されていない。

 

・私(横山)が西城町役場でお話を伺った際に興味深かったのは、地元ではあまりにヒバゴンの正体について関心がないということだった。ヒバゴンヒバゴンであり、ヒバゴンがかつて出現するという騒動があった、とだけ受け取られている。

 

『<野人(イエレン)> 』

 

・1970年代、中国湖北省の原生林地域である神農架(しんのうか)で、直立二足歩行をする謎の獣人の目撃事件が相次いだ。ついには中国科学院を中心とした調査隊まで結成され、数度にわたる現地調査を実施。その様子は、当時、中国内外のメディアを賑わせた。

 

■公式報告された最初の事件>

・1974年6月、『人民日報』社と中国科学院に、「生きた猿人が出現」と題された一通の報告書が届いた。差出人は、湖北省鄖陽(うんよう)地区委員会宣伝部の李建副部長。それは、同年5月1日に発生した、地元住民と謎の生物との格闘事件を伝えるものだった。

 その朝、湖北省房県橋上区杜川(とせん)公社清渓溝(せいけいこう)生産大隊の副主任、殷洪発(いんこうはつ)は、芝刈りのために登っていた山(清竜寨(せいりゅうさい))で、全身灰色の長い毛に覆われ、直立二足歩行をする謎の生物と遭遇した。身の丈は五尺(約166センチ)あまりで、長さ15~18センチほどの長髪が顔半分を覆っている。襲撃されそうになった殷は、左手で相手の髪をつかみ、右手の鎌で斬りつけた。謎の生物は「アッ! アッ!」と叫んで逃走し、殷の左手には2、30本の頭髪が残された。殷から話を聞いた地元の老人は、「それは『野人』だ」と断言。以後、恐れた地元民の多くは外出を控えるようになったという。

 

文化大革命(以下、文革)が中国全土を席巻していた時代。同地区委員会内には、当初、山に逃走・潜伏中の階級敵が怪物に扮して陽動作戦をおこなっていると考える者もいたが、李建はこれを未知の動物{野人}=「生きた猿人」の出現事件として中央へ報告した。報告書には、「野人」は二足歩行の高等霊長類だが、まだ道具を制作・使用して労働をおこなう段階にはないので、最終的に鎌(労働の道具)を用いた人間が勝利したのだという、李建自身の見解も付記されている。

 同年、新華社の記者と李建らによる現地調査で、1945~74年の間に起こった12件の「野人」遭遇事件と、26人の目撃者の存在が判明した。

 

<■国家レベルの調査隊を結成>

・1976年5月13日午前1時頃、夜道をジープで帰宅途中だった神農架林区共産党委員会の幹部6名が、房県と神農架林区の境界付近の山道で、「野人」を目撃する事件が発生した。その「野人」は崖に飛び上がったものの、足を滑らせてジープの前に転落し、うずくまった。運転手の蔡先志(さいせんし)を除く5人は下車し、ヘッドライトに照らされたその姿を、取り囲むように観察した。全身赤毛に覆われ、尾はなく、妊娠しているかのような大きなお腹。顔は細長く、女性のような長い髪で、眉と目は人間に似ているが、口は突出していた。1人は投げた石が臀部に命中すると「野人」は起き上がり、林の中へと消えていったという。

 

・当委員会の幹部という立場にある人間が、複数で同時に至近距離から目撃したとされるこの事件は、人々に衝撃を与えた。中国科学院古脊椎動物古人類研究所は、同年6月15日に黄万波(こうばんは)らを現地に派遣し、調査を開始。そのさなかの6月19日にも、龔玉蘭(きょうぎょくらん)という現地女性が2メートル以上ある男の「野人」に遭遇し、笑いながら追いかけられる事件が発生している。

 同年9月には、ついに中国科学院を中心とした総勢27名の調査隊が結成され、約2ヶ月間、神農架林区を中心に現地調査を実施。過去160人が、54の事件で、のべ62頭の「野人」を目撃したデータを収集した。

 翌1977年には110名の調査隊が神農架へ入り、断続的に約1年間にわたって活動。足跡や体毛らしきものを発見し、目撃情報も大量に寄せられた。

 

・1980年5月に3度目となる調査隊を結成。特にこの年は『人民日報』『光明日報』といった党の機関紙や全国新聞、海外の媒体でも大々的に喧伝されている。日本からは、京都大学霊長類研究所の和田一雄研究員も参加するフジテレビ取材班が、海外メディアとしては唯一、調査隊に同行取材している(その模様は同局の年末特番として放送)。多くの目撃談、足跡や糞便、竹で編んだ寝床(?)の発見という収穫があったが、国家レベルの調査隊は、これが最後となった(実際、中国科学院の中には「野人」否定派も多かった)。

 

<■騒動の背景>

・「野人」調査隊の主要メンバーだった華東師範大学の生物学者、劉民荘(りゅうみんそう)は、論文で古代から「野人」が実在する傍証として、『山海経』など中国の古文献に載る怪物たちの記述を引き、その類似を指摘している。「野人」の再現図も初掲載され、以後、その形象は中国内外の媒体で繰り返し引用され、定着していく。

 劉は同論文の中で「野人」の正体を、サルから人にいたる人類進化の過程で未発見の「ミッシングリンク」だと推測。その発見はダーウィンの進化論や、エンゲルスの「労働が人間をつくる」という思想を裏づける有力な証拠となり、人類学・生物学研究に革命を起こすだろうと論文を結んでいる。

 

<■終わらない伝説>

・中国を震撼させた「野人」とは、何だったのか?

 少なくとも、すべての発端である1974年の殷洪発の事件については、実は既に結論が出ている。殷が持ち帰った謎の毛髪は、鑑定によってレイヨウの一種のものと判明済みだ。さらに、当時鑑定を担当した中国科学院の馮祚建(ふうそけん)は、2007年に中国中央テレビの取材を受け、後年、殷洪発自身が「あれは子供が外で夜遊びをしないように脅かすための作り話だった」と告白していた事実を証言している。

 

それ以降に収集された目撃談も、「人を見て笑う」など、『山海経』の「梟陽国」をはじめ、古来語られてきた山の妖怪イメージに影響されたものが目立つ人間女性と「野人」とのハーフといわれる「猴娃(こうあい)」の報道も当時は話題になったが、これも中国の六朝志怪小説『捜神記』の「豭國(かこく)」や、唐代伝奇小説『捕江総白猿伝』などに見られる、異類婚姻・混血児の出産という古典的なモチーフの現代的焼き直しである。

 20世紀末に、神農架観光の広告塔として再び「野人」が脚光を浴びた際にも、人間と「野人」の間の子とされる「雑交野人」の映像がメディアを賑わせたが、これも1997年末に遺骨鑑定をおこない、異常はあるが純然たる人間との結果が出ている

 

・最初期から調査に関わった黄万波は、当時はギガントピテクスの生き残り説を唱えていたが、近年の著書でそれを撤回。現代の「野人」の噂とは、数百年前まで現地に生息し、人々に目撃されていたオランウータンの姿が今に語り継がれている、一種の「太古の記憶」によるものではないかと結論づけている。

 もちろん、未解明の謎も多い。しかし、総じて現代の「野人」騒動とは、神話伝説や文学に源流を持つ物語や形象が、その時代の政治的・社会的要請により、新たな存在意義を与えられて再生産された現象だったと言えよう。

 

・神農架は2016年7月に世界遺産に登録され、同年8月には「野人伝説」が湖北省非物質文化遺産に登録された。近年は「野人」映画が何本も作られ、神農架観光のPRアプリでは、拡張現実の中で「野人」探索も可能だ。時代に求められる限り、「野人」の物語は何度でも蘇るだろう

 

『<ヨーウィ>』

 

・ヨーウィは、オーストラリアのニューサウス・ウェールズ州とクイーンズ・ランド州のゴールド・コーストなどで主に目撃されるUMA。

 体調は1.5~2.4メートル。全身が茶褐色、もしくは赤茶色の毛で覆われ、首は短く、頭部は両肩にめり込んでいるようだといわれる。筋肉質で怪力、前傾姿勢で歩くともいう。

 

<■様々な呼び名があった獣人>

・ヨーウィのような毛むくじゃらの生物の話は、オーストラリアの先住民アボリジの間で昔からあったとされている。ただし呼び名は様々で、知られているだけでも、ヤフー、ドゥラガール、ソーラガール、ワウィ、ジュッラワッラ、ヌークーナァ、トゥジャンガラなどがある。

 現在の「ヨーウィ」の由来となったといわれているのは、アボリジの「ヤフー」という言葉(「悪魔」や「悪霊」といった意味)だという説と、『ガリバー旅行記』に登場する「ヤフー」という下等生物の名前からとられたという説の2つがある

 いずれにせよ、オーストラリアの獣人UMAは、1970年代には「ヨーウィ」という名前で統一されるようになっていった。

 

<■個別の目撃事例>

・それでは、個別の目撃事例の方はどのような歴史があるのだろうか。記録に残っている最初の事例とされるのは、1795年にシドニー湾の近くで、ヨーロッパ移民たちによって目撃されたというものである。

 

・ただし記録が残っているものであっても、必ずしも信憑性が高くなるとは限らない。たとえば、ヒーリーが調べた結果では、毛むくじゃらの獣人

の記録として最も古いのは、1789年のものになるという。

 これは1790年頃にイギリスで出回っていたチラシに書かれていた話で、それによればオーストラリアのボタニー湾で体長2メートル70センチの毛むくじゃらの獣人が捕らえられ、1789年11月26日にイギリスに送られたという話だった。

 もちろん、これが事実なら世界的な大発見だが、残念ながらチラシ以外に記録は残っていないという。

 その後は1847年と1848年に毛むくじゃらの獣人が目撃されたという事例が続く。ただし前者は50年以上後、後者は30年後に初めて報道された話で、目撃情報としては心もとない。

 

・イラストをともなって興味深い事例が起こるのは、1885年と1912年である。1885年の方は、ウィリアム・ウェッブとジョセフ・ウェッブという兄弟が、オーストラリアのフリークリークにある山中で毛むくじゃらの獣人に遭遇したというものだった

 兄弟はその時、持っていた銃を獣人に向け、「お前は誰だ。言わなければ撃つぞ」と警告したそうだが、獣人は雄叫びをあげたので発砲。しかし弾は当たらず、獣人は逃げてしまったという。

 そのときの獣人の姿を描いたのが上の左画像。興味深いのは、頭に角が2本あり、大きな耳を持つことだろうか。なぜか笑顔なのも憎めない。

 

・実はこうした特徴の不一致というのは他の目撃事例にも見られる。たとえば、角や牙がない目撃情報もあれば、大きさが1メートル以上違うものがあったり、毛色やスタイルが違ったりなど、様々な描写が存在している。

 そのため、目撃情報から「ヨーウィ」という特定の生物を想定することは難しい。そこには何らかの誤認なども含まれている可能性は考えられる。

 

<■ヨーウィの写真や動画>

・とはいえヨーウィについては少数ながら、その姿をとらえたといわれる写真や動画が存在している。

 

<■レックス・ギルロイの足跡>

・写真や動画の他には、足跡がある。これは主にヨーウィ研究の第一人者といわれるレックス・ギルロイが発見したもの。

 しかし、そうした足跡は科学者たちから正式に認められていない。

 

<■正体をめぐる2つの説>

・さて、最期はヨーウィの正体として考えられている説を2つ紹介しておきたい。

 ひとつはカンガルー誤認説。

 

・もうひとつは、メガントロプス生存説。こちらは前出のギルロイが主張したことで知られている。

 

・そのためメガントロプス生存説はもとより、ホモ・エレクトスの生存説を仮に考えても可能性は低い。むしろそれならば、アボリジを見慣れない人たちによる誤認説の方が、存在が確認されているという点では、まだ可能性があるかもしれない。