日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

近年は「野人」映画が何本も作られ、神農架観光のPRアプリでは、拡張現実の中で「野人」探索も可能だ。時代に求められる限り、「野人」の物語は何度でも蘇るだろう。(2)

 

『図説 日本未確認生物事典』

笹間良彦   角川文庫   2018年11月25日

 

 

 

当ブログ註;(本文を若干、修正しました)

猿神  さるがみ

『今昔物語』巻十六飛騨国猿神止生贄語第八に

 

昔、廻国修行をする僧が飛騨国岐阜県)の山中を道に迷い滝の所に来て途方に暮れていた時に、笠を被って荷を負った男が来たので道を尋ねようとしたら、男は滝に飛び込んで姿を消してしまった。そこで僧も滝に飛び込んでその裏側に出ると道があってやがて人里に出たが、先刻の男が長老らしい男を連れて迎えに出た。奇異に思っていると立派な家に案内されてさまざまな御馳走でもてなされ、その上二十歳程の美しい娘を差し出したので、僧も馴染んで八ヵ月ばかりそこで過ごし還俗して夫婦となった。毎日の御馳走続きなので男はすっかり肥えて来たが、妻は日ごとに歎き沈むようになったのでその理由をきくと、この里では一年に一回山の神に生贄を出すことになっており、今年もその人選に苦しんでいたところ、あなたが来たので、村中があなたを生贄にするためにもてなしていたのです。しかしこのように夫婦の契りをしたために、あなたが生贄として山神に食われる運命となっていることが悲しい、といって泣く。男は「その神というのはどんな姿のものか」ときくと、「大きな女猿のような姿をしている」というので、男は「そうか、それならわしに考えがあるから刀を一本くれ」といった。いよいよ期日がきて男は山中の社前に連れて行かれ、そこに置かれた俎板(まないた)の上に寝かされ、人々は舞楽を奏し酒を呑んで戻っていった。

 

夜更けころ社の扉が開いて人くらいの大きさの猿が次々と現れ、最後に銀色に光った歯をきらめかせた一段と大きい猿が現れ、俎に近付き魚箸・包丁をとり上げて男を斬ろうとしたので、男は股の間に隠していた刀を抜いてその主領格の猿を押し倒し踏みつけて刺し殺さんばかりにして、「貴様らは猿ではないか。神といつわって毎年生贄を要求するとは言語道断。神と称するからには刀で斬れない筈であるから試しにそこにいる猿共を二、三匹斬れるか斬れないか斬り殺してやろうぞ」と嚇すと、猿共は怖れたので、その頭分の猿と子分の猴二、三頭を葛の蔓で縛り上げ、社に火をつけて里に戻った。

 

・里では生贄を捧げた数日は家の戸を閉して物忌みするしきたりであったので何処の家も外に出なかったが、男の妻が気が付いて急いで迎えてくれたので、人々も集まって来た。男は縛した猿を皆に見せ「年来神といつわって人の生贄を食った憎い奴」と弓で射殺そうとすると舅が助命するので、笞で打ちすえて山に追放した。それ以後猿は要求することなく、男もこの郷の長者として幸福に暮らしたという。

 

・これと似た話が『同書』同巻、美作国神依猟師謀止生贄語第七にある

 

犬を猟の用に使っている男が美作国のある郷に行くと、美しい娘を持つ両親が嘆いているのに出逢った。そこで男がわけをきくと、この土地には中参高野という神がいて、毎年この神に処女を生贄に捧げないと村中に祟りがあり、今年はうちの娘が捧げられる番に当たっている。この悲運を回避できぬ故に悲しんでいるのであるという。そこで男はその神とはどんな神であるかと問うと、それは恐ろしい神で猿と蛇の合いの子であり、とても吾々の力の及ぶようなものではないと答えたので、そんな人を苦しめるような奴は神ではない。おれが退治してやる、その代わりその娘をおれの嫁にくれるかというと両親は喜んだ。男は次の日から山に行っては猿を捕らえて来て犬たちにけしかけさえ、犬が猿を見ると踊りかかって食い殺すように仕向けた。やがて生贄を捧げる日が来ると、男は犬の中で最も勇敢で強いのを二匹選んで、それと一緒に長櫃の中に入り、村人に担がれて山の神社に行った。村人たちは恐ろしいので早々に立ち去った。真夜中の頃になると、神社の後ろから高さ二メートル程の大猿を中心に百匹程の猿が現れて長櫃を囲み蓋をあけた。と同時に中から二匹の犬が飛び出して大猿に噛みつくと男も飛び出して大猿を捕らえ刀を咽喉元に突きつけ、「汝が多年多くの娘を食い殺して来たから、今度は汝が殺される番だ。汝がもし神だというのならおれを殺してみろ」と嚇かした。丁度その頃近くに住んでいた宮司に神託があって「我は以後決して生贄を要求しないから助けてくれ」という声が聞こえたので、宮司は急いで社前に駆けつけ、大猿に馬乗りになっている男に神託を告げて助命を頼んだ。男は止むなく「以後決して人に害をするな」と約束させて大猿を許したので、大猿子猿共はほうほうの態で山中に逃げ込んだ。男は美しい娘と結婚し末永くその家は栄えたという。

 

・これらは犠牲要求とそれを退治する英雄譚で、八岐大蛇退治の話以来一定のパターンを持つもので、犠牲要求する者がいろいろの動物に置き換えられるが全国的、否、世界的に見られる筋である。日本に人よりも大きい猿は棲息していないことになっているのが、何故大猿の話が作られるか。これは日本古来の思想で年功経れば次第に大きくなるという樹木の生長と同じにみている考えが根底にあり、樹木すらも数千年経つと精が凝って色々の能力を発揮するとみているから、動物も特別に長生きすればそれに伴って大型となり、超能力を有するようになるという発想である

 

・こうした大猿神の話が『今昔物語』に二ヵ所も記されているということは、鎌倉時代すでに大猿伝説が作られていたことを物語るもので、中国の『抱朴子』『山海経』『神異経』『本草綱目』等に記されている三精、猿猴類が人を犯す話が日本に伝わり、社会から脱落して深山に隠れ棲む人間や野猿の被害に結びつけられ、土地の伝承となったものであろう。

 

狒狒 ひひ

・猿神退治は後世では豪傑の武勇譚として語られ、岩見重太郎の狒狒退治を始めとして多くの類話があるが、白猿・狒狒・鵺的怪猿として語られる。

 猿神が処女要求する譚は、『本草綱目』に玃(やまこ)が牡だけしか生棲しないので人の女性をさらって犯すという記事があり、男の生贄を要求するのは、『神異記』にあるシュウ[豕周]で、牝だけしか生棲しないから人の男をさらって交じり子を産むというのがある。

 そして猿神が日本にいない筈の狒狒に変型するのは、『本草綱目』の知識が根底になって年功経た大猿のイメージを狒狒に当てはめたもので、狒々は好色であるという観念が植え付けられ、近世では処女要求の猿神は狒狒が多い柳田国男氏の『妖怪談義』にも

 

・唯疑を容れざる一事実は、近世各地で遭遇し乃至は捕殺した猴に以て、これよりも遥かに大なる一種の動物を、人がヒヒと呼んで居たということだけである和訓栞の狒狒の条には安永以後の或年に伊賀と紀伊とにこの物現れしことを記し、更に天和三年に越後桑取山で鉄砲を以て打取ったのは大さ四尺八寸云云、正徳四年の夏伊豆豊出村で捕ったものは長七尺八寸余云云と述べている。但し最後のものは果して狒狒であるか否か疑わしい。面は人の如くとあるが、面も鼻四寸ばかり手足の爪は鎌のようで水掻きがあったとある。(中略)静岡県の新聞などに冬になると殆ど毎年一つ位づつ現る狒狒捕殺の事件……(後略)。

 

 などと記され、昭和時代でも、実体を把握しかねる大猿とおぼしきものが出没した目撃談・捕殺譚があり、これらは伝承の観念通り狒狒と俗称されている。

 ではその狒狒という動物を昔の人はどういうふうに考え観察して来たか、その一例として『和漢三才図会』の中では『本草綱目』を引いて

 

狒狒は南西の方にいてそのかたちは人のようである。頭は髪に覆われていて走ること早く、人を捕らえて食う。黒毛に覆われていて人の顔に似ているが、上唇が長大で人を見るとよく笑うが、その時に上唇はめくれて目にかぶさる程である。大きい狒狒は三メートル程もある。宋の建武の頃、獠人が雌雄二頭の狒狒を献じた記録があるが、それは人の顔に似て赤い毛で猿にも似ていて尾があり人語を喋ったり鳥の鳴くような声を出し、よく人の生死を予知した。力があって千斤の重量を持ち、物に倚りかかってよく睡り、人を捕るとよく笑ってからこれを食った。

 

・などと記され、これはゴリラかチンパンジーの類であろうが、いくら昔でもこれらは日本にいなかったであろうから、やはり、猿類の中で異常に発育したものがいて、それを『本草綱目』の狒狒に当てはめたものであろう。

 しかし日本に於ては狒狒に該当する猿猴類は実在しておらず、猿神が処女要求もしくは人身御供を要求する伝説などから淫欲甚だしい老年の男の渾名に用いられ、「狒狒おやじ」等というから、狒狒即ち猿神は人間に化生して存在することになる。

 

山人・山男  やまびと・やまおとこ

・『和漢三才図会』の項に

 

本草綱目』に『載海録』の襍事を引いて雲南省の南の山中に足が一本で指が三つの生物がいて雄を山男といって、女を山姥という。よく人家に近づいて人から物をもらったりする。

と書いている。その前項には、「山精 かたあしの山おに」として

 

『永嘉記』には、山鬼は人の形をしているが一本足で高さは約三十センチ。よく木樵の塩を盗んで山蟹を捕えてこれを火に炙って食うという。人がこの山精を犯さないのは仇をされるのを恐れるからである。

『玄中記』では、山精は人のようであるが高さ一メートル前後で山蟹をよく食う。昼は隠れていて夜出て蟾蜍(ひきがえる)を食うともいう。

『抱木子』には山精は小児位の大きさで一本足でしかも足の甲が後向きになっている。昼は隠れていて、夜出て蟾蜍を食す。

 また『抱木子』には、山精は子供のように小さく、一本足は後向きで夜に出没して人に害を与える。人が魃(はつ)と呼ぶと人を害することができない。

 

等と記されているが、結局、山の精気が凝って生じた妖怪であるから魍魎(もうりょう)と同じであるが、その形貌は後ろ向きの足の甲を持った一本足で山丈(やまおとこ)と同じである。足の甲が前の方に向いているか、後ろの方に向いているかで、山丈(山男)・山精(さんせい)と呼び名が異なってくる。

 日本に於ける山男はこうした姿でなく、普通の人間並の姿であるが、大男が多い。

『前太平記』に書かれた足柄山の金太郎は、源頼光に見出されなければ山男として育ったのであろうが、怪力振りを発揮したように山男は敏捷怪力であるという伝承が多い。『黒甜瑣語』第三編巻四には

 

秋田の早口沢と言うは二七里の沢間也。去る丁巳(寛政九年、1997)の七月初、此沢六里程奥に長さ二里余の堤を一夜の中に造り出す。両方より山崩れ渓流を塞ぎ留めしを見れば四丈五丈の余る大石にて築き成せり。如何なる者の仕業にや。此山口にはニシコリと云木あれば山わろ鬼童のすだくとも云ふ。

 

・日本の山男はざんばら髪故に童(わろ)と呼ばれ鬼童とも呼ばれ、大岩を軽々持ち上げる程の怪力であった。猫にマタタビの如く、山男・山精・魍魎の類はこのニシコリを焼くと現れてくるというが、ニシコリがどういう木なのか不明である。錦木(にしきぎ)のことであろうか。

 

相模国箱根山に棲む山男は仙人的性格で人里に降りて捕った魚と米を交換するというから、原始的生活の人間で魍魎の類ではない。

 桃花園三千丸著、竹原春泉斎画の『桃山人夜話』には腰だけまとった裸体の大男に描かれ、木樵が山男に逢ったら下手に逃げると害を与えるが、食物を分かち与える約束をして重い荷を負わせると麓まで運んでくれるとしている。

 

玃(やまこ)>                                

山人とよく間違われるのに玃(やまこ)がいる。これは日本にも中国にもいる人か獣か見分けにくい生物で、『本草綱目』では玃父(かくふ)、豭玃(かく)、きやくといって老猴ともしている。猴に似て大きく色は蒼黒で、山中を行く人の持ち物をさらったりする。雌は無くて雄だけであるから、よく人間の女をさらって子を生ませる。

 また玃(やまこ)の類にシュウ[豕周]という獣があることが『神異経』に書かれているが、シュウ[豕周]は玃(かく)と反対で雌ばかりで雄がいない。そこで群居していて人間の男が通るところを襲って捕えて交わり妊娠するという。それならば玃(かく)とシュウ[豕周]が交わればよいのであるが、人間の異性ばかり狙うというところに妖しさがある。

 これは中国の話であるが、日本にも玃(やまこ)に該当する獣類がいる。

 

・日本の山中には猿に似た大型で立って歩くという動物がいたのである。チンパンジーを思わせるが、日本には未だかつて野生のチンパンジーが棲息したことはない。狒狒が婦女を要求する人身御供伝説もあるから、日本の狒狒というのはこの玃の猿猴類かもしれない。

 これを鳥山石燕は『今昔画図続百鬼』の中で「覚(さとり)」と称して、髪の毛の長い大猿のように描いている。「覚」とは、「予察人意」(よくあらかじめ人の心を察知する)という「さとる」ことから、「さとり」という名が付けられたのであるが、警戒心の強い動物である。

 

擬人的妖怪編

天狗の記録の大概

・日本で天狗の文字の初見は『日本書紀舒明天皇(637)年2月11日の条に

 

大きい星が東の空から西の空に向かって流れ、雷のような音を立てた。人々は流れ星が鳴ったのだといったら、唐からきた旻僧(びんのほうし)が、あれは流れ星ではない。天狗というものだ。それが証拠には雷のような音を立てたではないかといった。

 

とある。流星が大気中に入って摩擦を生じるから音を発するので、大気中に入らぬ星は音が聞こえない。

 

・そしてこれが日本古代神話に出て来る句句廻馳(くぐのち)や魑魅魍魎の存在に結び付けられた天狗の文字を藉(か)りるようになり、また仏教流入以降の飛天夜叉や大黒天・荼枳尼等の性格となり、また神仏混淆の思想から神道系の山岳修験道信仰の山霊山神も加味されて、日本独特の天狗の存在が確立されて来たのである。

 従って日本の天狗として形態がまとまり始め、人目に触れるようになったのは、平安時代頃からで『大鏡』や『宇津保物語』『栄花物語』等に天狗の語が散見し始め、『今昔物語』になると天狗譚は数多く見られる。当時は仏教説話が盛んであった為に、天狗というものはインドから渡って来たという話まで作られるようになる。

 

・このほか天狗が鳶に化けたり悪戯をしたりした話が多い。そして人に憑いたりする、つまり天狗憑きまで現れ、天狗の能力のレパートリーが次第に広がっていく。天狗は飛行できるという観念から鳶であったり大鷲であったり、それが人に化けたり、その能力は絶大でありながら物法や賢人には敵わない存在となり、その反面に後世の如く神秘性を漂わせたり、超能力的霊性を示すほどにはなっておらず、人中に混ざると却って滑稽な存在として軽視され、増長慢の悪戯者として嫌われ、不可解な容貌に表現されている。

 

深山幽谷に棲んで、退屈の折には稀に人を誑(たぶら)かしたり嚇したり悪戯して気を紛らしていた天狗も、人智が発達して文明社会になると環境破壊とやらで自ずと棲む場所が狭くなり、変身して雑踏の中にまで現れて、高慢得意の態度をとったり、人を陥れたりして呵々大笑いしている。

それが現代人にわからないのは、エイリアンが人中に混じっていてもわからないのと同じである。従ってある者は昔体験した天狗との接触は、エイリアンではなかったかという

 とにかく、天狗との接触に於いて、天狗にさらわれた話、誑かされた話、人体転換された話、異次元の世界に行った話、技術を教えられた話は、中世以降記録・物語・伝説に頗る多く残されていて、天狗という名称の固定観念にとらわれなければ、天狗の行為としての範疇に入れられる現象は現代でもしばしば見られるところである。

 

天狗界の様子

・『甲子夜話』巻七十三の六項に天狗界のことが詳しく記されている。

 

松浦静山の下僕で東上総泉郡中崎村の農夫上がりの源左衛門は、七歳の時に氏神八幡宮に行った途中で山伏に誘われて行方不明になり、それから八年経って天狗から「お前は不浄であるから俗界に返してやる」といわれて相模国大山に置き去りにされ、迷っていたところ、腰にさげていた迷子札で住地がわかり、親切な人が連れて家に戻ることができた。それから三年経って、十八の時に山伏がまた現れて背に負われて空中を飛び、立山に連れて行かれた。山中の洞に住んだが、此処には僧と山伏が十一人いて源左衛門を連れて来た山伏は長福坊といい、ここで一番偉い者を皆が権現といった。十一人はそろって呪を唱えたり、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)を奏して踊ったりして日を過ごした。権現は髪も髭も見事な白髪で上品で温和であって生まれつきの天狗ではなく、仙人であった。天狗たちに連れられてよく諸国を廻った。鞍馬や貴船に行った時は、参詣人が色々な願いごとをいうのを集まった天狗たちが評議して叶えてやったり却下したりしていた。他の山に行った時は天狗たちが兵法剣術を練習していたので、源左衛門もその術を伝授された。また天狗の集まりがあって猿楽・宴歌・酒席にも連れていかれた。

 

・頭領の権現は毎朝天下安全を祈っていたという。頭領がある時義経時代の一の谷の合戦の様子を見せてやろうといい、忽ち目の前に物凄い戦場が現れたことがある。また世間では木の葉天狗というが、この天狗は天狗界ではハクロウ(白狼)といって狼の年劫経たものが天狗になったもので地位は低い。十九歳になった時に人間界に戻してやるといって証状と兵法の巻物二つと脇差と袈裟をくれて帰してくれた。

 

・天狗が物を買うための銭はハクロウが山で作った薪を売って得た銭や、登山する人を背負って得た銭を用いる。また、天狗たちは酒が好きだという。

 

・天狗界にいた時は菓子を一度食したきりでひもじさは全くなく、従って両便も今に至るまでしたことがない。

 

江戸下谷長者町の藤川弥八郎道場の内弟子神城四郎兵衛正清は、文化五(1808)年六月に天狗に誘われて天狗界を往来するようになり江戸中の評判となった

・空を飛行するのは翼によってではなく飛び上がって飛行するので、三百里位は飛べる。天狗同士の争いはないから殺人としての術は習わぬが、不敗のすべは習うから人がどんな武器をもってかかっても決して敗れることはない。

 

仙童寅吉の『仙境異聞』

・七歳のときに常陸国岩間山の十三天狗の頭領杉山僧正に連れ去られて天狗と共に生活をした。

 

・天狗の年齢は二百歳から千歳、稀に三千歳の者もいる。

 

封(肉人) ほう(にくじん)

・牧墨僊(まきぼくせん)の『一宵話』巻之二に異人として、

異人  慶長十四(1609)年四月四日に出し事は旧記に見ゆ

として

徳川家康駿河に住んだ時の或日の朝、庭に小児くらいで手はあっても指は無く、その手で天を指して立っている者がいたので、家臣たちが騒ぎ立ち、追い廻した揚句、城から離れた小山に追い払ってしまった。これを或人が聞いて、それは惜しい事をした。これは白澤図に載っている封というもので、これを食うと多力になって武勇にすぐれるという仙薬である。何故捕えて料理して主君家康に食させなかったのだ。また主君に差上げなくとも御仕えする近臣たちが食べれば、皆武勇に強くなり御役に立つべきものを、といって残念がったという。

 

と記しており、その頭書に

 此怪物は切支丹なり。追いやれと仰せられしというにて、封とは形のことなり。封ツトヘビ、ソウタの類ならん。

 

と註している。何とも不気味な得体の知れぬ生物であるが山の精でもあろうか。現代的見方をすると、何万光年の先の星からUFOに乗って飛来したエイリアンの一種とされるかもしれない。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェッブサイト『神話伝説ふしぎ草紙』より引用

 

中野美代子孫悟空の誕生』その三 サルの民話学「2好色のサル」

 

・「雄ザルが人間の女を拐って妻とするというモチーフは、中国の数ある異類婚姻譚の中でも特殊の地位を占めるものである」。

・文献最古の例。漢代焦延寿『易林』巻一。「南山に大カク[攫の獣偏]がいて、我がいとしの妾を盗んだ。怯けたので逐い欠けることもならず、しょんぼり独り宿にとまった」

 

・『易林』「カク[攫の獣偏]はソ[狙]と同じで大猿のこと

・李時珍「カクとは老猴のことである。蜀の西境のはずれの山中におり、猴に似て大きく色は蒼黒、人間のように歩くことができる。それに人間の持ちものを攫(さら)うのがうまい。顧[目分](こふん)すなわちキョロキョロみまわすのもうまい。だからカクというのである。カクは牡ばかりで牝はいないから、カクホ[-父]ともいい、またカカク[豕+暇のつくり-]ともいう。人間の女を摂るのに長けていて、夫婦となって子供を生ませる。『神異経』にこう書いてある。「西方にシュウ[豕周]という獣があり、驢馬ほどの大きさで姿は猴に似ている。木によじのぼるのがうまい。牝ばかりで牡がいないので、主な道路に群れなして人間の男をつかまえこれと交まって孕むのである」と。これもカクの仲間であるが、牝牡のことだけ正反対になっている。」

 

・猩々=野女・野婆。宋末元初・周密『斉東野語』巻七。西南諸蛮の住む谷間に野女がいる。腰に褌をつけていて、人間の男の数人分の腕力がある。牝ばかりで牡がいないので男子に会うと背負って行って性交を求める。ある男が押さえつけたが、ヤオ族が寄ってたかって刺し殺した。腰に一寸四方の印形をぶら下げていたが判別できなかった。

 

男だけ、或いは女だけの国。ギリシャ神話のアマゾネス伝説。

・『山海経』巻七海外西経、『淮南子』巻四地形訓に「丈夫国(おとこの国)」「女子国」がある。子孫をどのように増やすかが問題。

 

・女が入浴すると懐妊し、もし男の子が生まれれば3歳で死ぬというのだ 。男の国では妻がいなくとも二人の男の子が生まれるが、「形中より出る」というのだから、の形のどこからか相似形の子供が出てくるのだろう。

単性の国は、圧倒的に女子国の方が多い。中国では『山海経』以後、『博物志』巻二、『梁書』巻五十四東夷伝玄奘大唐西域記』巻十一など。

・明刊本『西遊記』第五十三回、西梁女人国の子母河の水を飲み、男ながら妊娠してしまう

 

・晋・干宝『捜神記』(二十巻本)巻十二。

蜀の西南の高山の上に猿とよく似たものがいる。背丈は7尺程で、人間のように立って歩くことができ、人を追いかけたりもする。カコク([豕暇]国)とかバカ(馬化)とかカクエン[攫の獣偏]とか呼ばれている。通行の女たちをじっと見ていて、美人がいれば連れ去ってしまう。 女を妻とするが子供が出来なければ一生戻れない。その女は10年もすれば姿は猿そっくりになり、心も蒙昧になって人間界に戻りたいとも思わなくなる。もし子供が生まれると、すぐに女を抱きかかえてその家まで連れ戻してくれる。生まれた子供は人間の姿をしているが、その子供を育てるものがいない場合は人間界に戻った女がすぐ死ぬので、結局はそれが恐ろしくて育てることになる。その子供は成長すると人間と全く変わらぬ姿になるが、みな楊という姓を持っている。今蜀の西南の地に楊姓の者が多いが、みなこのカコクやバカの子孫なのである。

・晋・張華『博物志』巻九、唐・男成式『酉陽雑俎』巻十六にも同様の記述。

・「[豕+暇のつくり]」は豚の意味。よく太った大ザルの意か?

 

・「馬化」。「バリュウ馬留」はサルの意味。厩に猿を繋いでおくことから。後漢・王延寿「王孫賦」、「王孫」も猴の異名で、猿に酒を飲ませて厩に繋ぐ、とある。孫悟空が天宮で弼馬温の職についたのもこれを踏まえている。

 

南方熊楠「猴に関する民俗と伝説」には、「インドとタイでは象厩に猿を飼うと良い」とか、インド『マハーバーラタ』には「ハリー神女が馬と猴の母とある」ことが紹介されている。

 

・「馬留」は南方系異民族の名前にもある。

 

・班固『白虎通』「猴とは侯(待つこと)である。人が食べ物を置いたりすると、高い所か四方を見て、待つのが得意だ」とある。

 

サルが美女をさらう話。唐初『補江総白猿伝』。六世紀前半梁の話で、『芸文類聚』選者の学者・欧陽詢の出生譚。詢の父・コツ[糸乞]は福建長楽に遠征した時、美しい妻を怪物にさらわれる。探索すると山奥の洞窟に数十人の女が囚われており、妻もいた。妻は怪物退治の方法をコツに教えたので、コツは怪物を殺した。怪物は白猿で、コツの妻は既に妊娠していて、後に妻は一年後に猿そっくりの男子を生んだ。コツは陳武帝に殺されたが、男子は成長して学問で名を成した。

 

・『白猿伝』中に欧陽詢の名前は表れないが、コツの子が詢であるのは明白なので、詢を貶める意味があったか?

 

・「日本各地に分布するいわゆるサル婿入の民話では、妻となった女(多くは三姉妹の末娘)の言葉を信じて死に追いやられるサルを描き、結局は人間の女の知恵が上だということになるのだが、中国の女たちは、たとえサルでもひとたび夫となったサルに対しては、それなりの愛情は抱くのである。もちろん結末は、中国とてもサルの悲劇に終わるのであるが。こうしてみると、中国のほうが日本よりもサルの位置が相対的に高いことになるのだが、その理由は、女を拐うサルが、そこらのサルつまりマカク属の猴ではなくテナガザルの猿、それもテナガザルの中でも高貴とされる白猿だからこそであろう。」

 

・白猿の神秘化。晋・王嘉『拾遺記』巻八。蜀の岷山で周群の前に現われた白猿が老翁と化して立派な歴書を彼に授けた。その白猿は黄帝の時代に暦法を学び始めたという。周群は授かった歴書を学び、蜀が滅びるのを予知して呉に奔った。

 

・白猿伝説は詩文に現われるようになる。晋・傳玄「猴[獣偏+爰]賦」、八世紀唐・呉[竹冠+均]『玄猿賦』、九世紀唐・李徳裕『白猿賦』などが有名。唐・柳宗元『憎王孫文』は王孫=猿が憎いと書いている。

 

・宋代大都市の講談「説話」のテクスト『陳巡検梅嶺失妻記』。宋徽宗のころ(1121年)陳辛は妻と共に任命地広東へ向かったが、途上梅嶺で宿に泊まった所風が吹いて妻が消えた。宿も宿屋の主人も消えて荒野になっていた。これは申陽洞の主申陽公なるサルの仕業だった。申陽公の名前は斉天大聖、兄は通天大聖と弥天大聖、妹は[シ四]州聖母。陳辛は妻を見つけられず、三年の任期を務めて帰路に紅蓮寺に仏法を講じる白猿(中野:『白猿伝』の影響で書き間違えたか?)の精が来ると知って待った。妻が一緒に居るのを確かめて切りつけたが歯が立たないので、紫陽真君に助けを求めたところ、紫陽真君は二名の神将に命じて斉天大聖を鉄の鎖で縛りあげ、妻と女たちを救い出した。

 

・妻はサルを拒否し、妊娠しない。

 

・唐代『白猿伝』との違い、『失妻記』のサルは「猴」。

 

・唐以降の民衆の間で広く信仰された密教における猴の 地位と関係がある。仏典におけるサルの伝説と中国の伝統的なサル観は異なる。

 

・宋初・徐[金玄]『稽紳録』「老猿窃婦人」。場所は晋州(安徽省)含山、取り返した妻がサルの子を生んだとは書いていない。

 

南宋・周去非『嶺外代答』巻十「桂林猴妖」。桂林に数百歳の猴がいて「神力あり変化」して美しい女をさらっていた。欧陽都護の妻をさらわれたが、計略によって猴を殺し、妻を取り返した。その猴の遺骸は埋葬後も悪さをしたが、欧陽姓の者には何もしなかった。

 

・宋代のサル話。南宋・洪邁『夷堅志』

荊南(湖北)で夏に外で涼んでいる女にいたずらする猴」(巻九)、「広州海山で、船で飼っていた猴が主の子供をいつも抱いて可愛がっていたが主の留守に子供を抱いたまま高いマストに登り子供を甲板に落として死なせてしまった」(巻二十一)、「猴が隣家の女を見ながら淫らなことをしたが、隣家が引っ越すと悪さをし、主人の妻を妊娠させた?」(第三十七)など、牡ザルと人間の女との異類婚をにおわせる話がある。

 

・「白猿」の神秘性は既に無く、異類婚のタブー性が強い。

 

・明代初期『剪燈新話』「申陽洞記」。桂林の富豪の娘が嵐の夜に姿を消す。見つけた者には財産を半分と娘を嫁に与えるとしたが、半年たっても見つからない。弓の名人李徳逢が道に迷って野宿していると、カカク(大ザル。カク(攫の獣偏)と同じ=猴の一種?)の一行が衣冠をつけて歩いていたので、李は首領に矢を放つ。矢が命中し、他のサルも逃げたので、血の跡をたどっていくと穴に落ちた。穴の中を進むと申陽洞に着く。医者だと偽って首領其他を毒殺し、富豪の三人の娘を助けた。鼠たちの助けで脱出し、李は金持ちになった。三人の娘とも結婚した。

 

・「申陽洞記」ではサルの子は生まれない。

 

カクについては「大猿」という記述もありますが、手が長いという記述はなく、李時珍は「猴」に分類しているようです。

 

居住地域は「蜀の西境」、つまりチベット方面の山中ということになっています。チベットが猿始祖伝承を持っていることは既にこのブログでも書きましたが、関係あるのかもしれません。漢民族チベット人をある種野蛮な民族として描写する場合がありますし。

ここでも「片方の性しかいないサル」が人間を攫う事になっていますが、カクというその字からして「攫う」の漢字から思いついた可能性もありそうですね。

 

カクが「雄のみ」なのに対して、『神異経』のシュウは雌のみ。『神異経』は『山海経』的な、空想の地理書のような書物で、その最後「中荒経」にある記述です。なので「西方」と言ってもチベットウイグルなどのことではないと思います。

 

猩々については既に見ましたが、「西南諸蕃」とあるのはやはりオランウータンの棲む南方の異国を意識しているのでしょう。

 

@@@@

 

男だけの国・女だけの国。単性の国

「女人国」の方が多いというのは、その伝承を語り継いできたのが男性だからでしょう。台湾原住民でも女人村はあれど男だけの村はありません。

 

「雄だけのサル」「雌だけのサル」というモチーフとの関連性は確かにありそうです。

しかし台湾ではサルについてそのようなモチーフを見た記憶が無いので、必ずしも「男国」「女国」モチーフと「雄だけのサル」「雌だけのサル」が共存しているわけではないのだと思います。

 

@@@

 

サルを「馬留」と言い、厩につないでおくことが、孫悟空の「弼馬温」職就任の理由であるとしていますが、このへんは「河童駒引」などにもつながる観念でしょう。インドでは馬とサルが母を同じくしているというのは面白い

 

ところで、なぜサルを「王孫」と言ったのか気になります。

また「蜀の西南に「楊姓」が多く、それらの人々は皆サルの子孫だ」と言っていますが、これまたなぜ「楊」なのか?

 

しかし四川から見て西南というと雲南省ミャンマーの方向でもあります。それもまた少民族地域ですね。

サルの話と言いつつ、異民族に関する伝承である可能性、ありますね。

 

@@

 

欧陽詢出生譚。猿聟。

学者の出生譚というのは韓国にもありましたが、それは確か「金の豚(猪?)」という、神聖性があるのかないのか良くわからない話でした。

この欧陽詢の話もそれに近いですね。貶めているようにも見えますが、それだけでもなさそうだ、という。

 

日本において猿婿伝承によって語られる偉人出生譚があったかどうかちょっと思い出せませんが、基本の場合は蛇や狐が多そうな気もします。

中野先生も書いていますが、「異類婚」と言っても、その異類が単なる動物ではなく神聖性を帯びている場合、英雄や偉人の出生譚につながることは日本でも良くあります。

 

ただ日本の場合、サルは日枝神社の神使として比叡山天台宗に関わるので、人間の女を犯して子どもを産ませるような説話が出来にくかったのかもしれません。

 

白猿の神秘化。

神秘化と言いつつ、祀られて神になったりするのではなく、学者になる辺りやはり日本とは異なりますね。

詩文に現れるというのは、白猿の神秘的な伝承が大いに注目されたということなのだと思います。

 

 

宋代大都市の講談「説話」のテクスト『陳巡検梅嶺失妻記』。

「猿」ではなく「猴」の話ということになっていますが、これは時代の変化として捉えて良いものなのか?殺されてしまうのは「猴」が「猿」より劣っているからということなのか?

 

その後に載る『夷堅志』「猴」伝承は「サルの好色」を表していると言えます。動物が人間の女を見て欲情するというのは確かに気持ち悪いですね。

そして明代初期『剪燈新話』「申陽洞記」では、異類婚姻譚というより、「猿神退治」のようになっています。

 

ある動物のイメージが時代によってどのように変化したのか?というのは、資料の整理が難しく、なかなかはっきりとは言えないものだと思うのですが、中国のサル伝承は「猿」「猴」の区別があるので、更に難しいようにも思いますね。

 

 

 

『中国の鬼神』

著 實吉達郎 、画 不二本蒼生  新紀元社 2005/10

 

  

 

玃猿(かくえん)

人間に子を生ませる妖猿

・その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。

 古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。

 玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることである。その人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。

 

蜃(しん)

蜃気楼を起こす元凶

・町や城の一つや二つは、雑作なくその腹の中へ入ってしまう超大物怪物だそうである。一説に蛤のでかい奴だともいい、龍ともカメともつかない怪物であるともいう。

 

 日本では魚津の蜃気楼が有名だが、中国では山にあらわれる蜃気楼を山市。海上にあらわれる蜃気楼を海市と称する。日本の近江八景のように、中国にも淄邑(しゆう)八景というのがある。その中に煥山(かんざん)山市というのがあると蒲松齢(ほしょうれい)はいっている。

 その煥山では何年かに一回、塔が見え、数十の宮殿があらわれる。6~7里も連なる城と町がありありと見えるのだそうである。ほかに鬼市(きし)(亡者の町)というのが見えることもあると蒲松齢が恐いことを言っている。

 『後西遊記』には、三蔵法師に相当する大顛法師半偈(たいてんほうしはんげ)の一行が旅の途中、城楼あり宝閣ありのたいへんにぎやかな市街にさしかかる。ところが、それが蜃気楼で、気がついてみると一行は蜃の腹の中にいた、という奇想天外な条がある。それによれば、途方もなく大きな蜃が時々、気を吐く。それが蜃気楼となる。その時あらわれる城や町は、以前、蜃が気を吐いては吸い込んでしまった城や町の幻影だ、というのである。

 

夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ

・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。

 

 大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。

 

・夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。

 

・安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。

 

・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。

 

・王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだ。この種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ。『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。

 

・『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。

 

 夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである。

 

羅刹(らせつ)  獣の牙、鷹の爪を持つ地獄の鬼

・インドの鬼神、ラークシャサ。女性ならラークシャシー。夜叉、阿修羅と並んで、インド原産の三大鬼神とされる。阿修羅は主として神々に敵対し、羅刹は主に人類に敵対する。みな漢字の名前で通用することでも明らかなように、中、韓、日各国にも仏教とともに流入し、それぞれの国にある伝説、物語の中に根づいている。

 

 日本でも、「人間とは思えない」ような凶行非行を働く時、「この世ながらの夜叉羅刹……」と形容する。悪いことをすると死後地獄へゆくとされ、そこにたくさんの鬼がいて亡者をさんざん懲らしめるというが、その“地獄の鬼”こそ阿旁房羅刹と呼ばれる羅刹なのだ。

 

『焔魔天曼荼羅』によると十八将官、八万獄卒とあって、八万人の鬼卒を十八人の将校が率いていて、盛んにその恐るべき業務を行なっているという。日本、中国の地獄に牛鬼、馬鬼と呼ばれる鬼たちがいると伝えられるもの、みな羅刹なのだ。

 

 中国の『文献通考』によれば、羅刹鬼は「醜陋で、朱い髪、黒い顔、獣の牙、鷹の爪」を持っているという。『聊斎志異』には「羅刹海市」という一篇があり、どこかの海上に羅刹の国があることになっている。そこでは、われわれのいう“醜い”ということが“美しい”に相当し、“臭い”ということが、“いい匂い”に相当する。

 

 中国人を見ると逆に「妖物だ」といって逃げる。そこには都もあり、王もいるのだが、身分が高いほど醜悪であった。国は中国から東へ二万六千里離れている。神々や鮫人(こうじん)たちと交易していて、金帛異宝の類を取り引きしていた。

 

 この「羅刹海市」では他国から来た者を、即座に取って食うようなことはしないようであるが、中国の内外に来ている(?)羅刹はもちろん人さえ見れば取って食らう。『聶小倩』という小説によると、羅刹は長寿だが、やはり死ぬこともあり、骨を残すこともあるらしい。ところがその骨の一片だけでも、そばにおいていると心肝が切り取られ死んでしまう。また、羅刹も夜叉もそうだが、男性は醜怪だが女性は妖艶な美女と決まっていて、その美色を用いて人間の男を誘惑し、交わり、そのあとで殺して食う。

 

張果老(ちょうかろう)  何百歳なのかわからなかったという老神仙

・その頃の老翁たちで張果老を知っている者は、「彼はいったいいくつじゃろう、わしらの祖父の頃から変わらないのじゃ」と噂していたという。色々な仙術を使うばかりか、奇仙中の奇跡であった。帝王たちに尊信され招かれると、うるさがって死ぬくせがあった。唐の太宗も、その次の高宗も、召し出そうとしたが死んだ。恒州の中条山に隠れたっきり、下りて来なかったこともあった。

 

 則天武后は特に執拗で、「どうあっても来い」と強制した。張果老はいやいやながら山から連れ出されたが、妬女廟のところまで来かかると死んだ。真夏の最中なので、遺骸はすぐに腐敗して蛆が発生した。則天武后もそれを聞いてやっとその死を信じた。

 

 ところがほどもなく、恒州で張果老が生きている姿を何人も見た人があった。唐の玄宗則天武后よりあとで帝位についた天子で、張果老が生きていることを知ると裴唔(はいご)という侍従を遣わし、「何がなんでも召し連れて来い」と命じた。裴唔が張果老に会うと、また悪いくせを出して死んでしまった。ざっとそんな具合であった。

 

 列仙伝などで仙人たちを紹介する文章には、必ず生地も、来歴も、字や称号も書いてあるのだが、この奇仙は張果と名乗り、何百年生きているのか分からないので、張果老と敬称がついているだけである。

 

・彼が汾州や晉州あたりまで出遊する時、乗っていくロバも、彼が奇仙であることの証明であった。それは“紙製のロバ”であった。見たところ、普通の白いロバなのだが、一日に数千里も踏破して疲れを知らない。目的地へ着くと、張果老はそのロバを折り畳んで、手箱の中へしまっておく。再び乗る必要が生じた時は、出して地面に広げて、口に含んだ水を吹きかけるとムクムクと立体化して白いロバになるので、またがって出発する。これなら、飲ませる水も食わせる飼葉も、つないでおく杭もいらないし、盗まれる恐れもないわけだ。

 玄宗皇帝の使者・裴唔が会った時、張果老はコロリと倒れて絶命してしまったのであるが、裴唔はこの老仙人がチョイチョイ死ぬくせがあることをわきまえていて、慌てず騒がなかった。死体に向かって恭しく香をたいて、お召しの旨を伝えた。すると張果老はヒョッコリ起き上がって礼を返した。人を馬鹿にした老爺。

 

張果老はやっと重い腰を上げ、今度は死にもしないで上京する。まったく厄介な老爺。

 玄宗張果老を宮中にとどめて厚遇を極めた。そうなると張果老は不愛想ではなく、よぼよぼ老人から忽ち黒髪皓歯の美男子に若返って見せたり、一斗入りの酒がめを人間に化けさせて皇帝の酒の相手をさせたり、けっこうご機嫌を取り結ぶようなこともするから、おもしろい。

 

 この宮中生活の間に張果老は、皇帝や曹皇后に大きな建物を移動させたり、花の咲いている木に息を吹きかけて、一瞬のうちに実をみのらせた、という話がある。

 

玄宗はますます張果老を尊び、通玄先生という号を授けたり、集賢殿にその肖像画を掲げたりした。それでいて張果老は自分の来歴、素姓は決して語らない。どんなもの知りの老臣に聞いてもわからない。ここに葉法善(しょうほうぜん)という道士があった。

 皇帝に向かって密かに申し上げるには、「拙道は彼が何者であるかを存じております。しかし、それを口外いたしますと即刻死なねばなりませぬ。その時、陛下が御自ら免冠跣足(めんかんせんそく)し給い、張果老に詫びて、拙道を生き返らせて下さいますのなら申し上げましょう」

 一言いうのに命がけである。むろん玄宗は「詫びてやる、生き返らせてつかわすから申せ」と迫った。葉法善は姿勢を正して、「しからば申し上げます。張果老はもとこれ人倫にあらせず、混沌初めて別れて天地成るの日、生まれ出でたる白蝙蝠の精……」といいかけて、バッタリ、床に倒れて息が絶えてしまった。

 

玄宗は、慌てて張果老に与えてある部屋に行き、免冠跣足、つまり王冠を脱ぎ、跣足(はだし)になって罪人の形を取り、「生き返らせてくれ」といった。

「かの葉法善という小僧は口が軽すぎます。こらしめてやりませぬと天地の機密を破るでしょう」と張果老は頑固爺さんを決め込んでいる。玄宗は繰り返して、「あれは朕が強制して、むりやりしゃべらせたのだから、今度だけは許してやってくれ。頼む」と懇請した。

 仙人たりとも、天子に「頼む」とまでいわれては、拒むことが出来ない。張果老は、“紙ロバ”にするように口に含んだ水を吹きかけて、葉法善を生き返らせてやった。

 

・この道士が、何ゆえ張果老の本相を知っていたのかは、仙人伝でも語られない。張果老を加えて八人の仙人を「八仙」といい、それらの活躍する物語『東遊記』では、いたずら小僧仙人の藍采和(らんさいわ)が、張果老のことを「あの蝙蝠爺さん」と呼んでいる部分がある。八仙のうちで藍采和一人だけが少年で、何仙姑(かせんこ)だけが女性である。藍采和が張果老の“紙ロバ”を失敬して乗りまわし、戻って来ると、八仙の中の名物男・鉄拐仙人(てっかいせんにん)がふざけて何仙姑を口説いている。藍采和が「逢引きですか、いけませんねえ」とからかうと、「何をいうか、この小僧」と鉄拐仙人がロバを奪い取って自分が乗る。三人は顔を見合わせて大笑いをした、という一説もある。

 

張果老は、玄宗皇帝の宮廷にそう長いこと滞在していたわけではない。やがてふり切るようにして宮廷を去り、恒州の仙居に帰っていった。その後、今度という今度は本当に死んで人界から姿を消した、というのであるが、何しろ奇人の怪仙。本当に死んだのかどうか、誰も保証は出来ない。

 張果老は八仙の中でも長老格で、『東遊記』では泰山を動かして海へ放り込み、龍王たちを困らせるという大法力を示している。呂洞賓(りょとうひん)が「これから八仙がみなで海を渡ろうではないか」といった時も、老人らしくそれを制している。龍王が水軍を興して攻めて来た時も、ほかの七仙は油断して寝ていたのに、張果老だけは耳ざとい。先に目を覚ましてみなを呼び起こすといった調子で、一味違った活躍ぶりである。

 

太上老君(たいじょうろうくん) 仙風法力におよぶものがいない天上界の元老

民間信仰では仙人の中の第一人者。天界では三十三天の最上階、離恨天の兜率宮に住み、出仕する時は玉皇上帝の右に座している。地上では各地の道観の中心に祀られている主神格。