『地球人は科学的に創造された』
創造者からのメッセージ
ラエル ラエリアン・ムーブメント eブック
<神も霊魂も存在しない。ただ、エロヒムと遺伝子コードが存在するのみ>
・ラエル紀元31年(1975年)10月7日の第2回目の出会いでは、彼らの宇宙船に乗せられ、彼らの不死の惑星へ連れて行かれました。そしてそこで、およそ24時間を過ごしたとラエルは言っています。
・エロヒムは、他の惑星から来た知的生物によって創造されました。そして、この生物も、さらに他の惑星からやって来た生物によって創造されました。こうして、事態は無限に続くのです。
・人間は、自己プログラミングと自己再生可能な、生物コンピュータにすぎません。今日、私たちが作ることのできる高度に進んだコンピュータと人間を区別するものは、何もありません。もっとも、人間よりも優れたコンピュータを作ることもできますが……。
<――結婚制度はあるのですか?>
・「ありません。女性も男性も自由です。ふたりで暮らしたいと思えばそうできますが、この関係は好きな時に解消できます。私たちはみな、お互い同士が愛し合っていますので、嫉妬することはありません。誰もがあらゆる物を持っていて、所有制度というものが無いのです。
犯罪が無いので、刑務所や警察もありません。その代わり多数の医者がいて、定期的に往診をして精神状態の検査を行っています。そして、他人の自由や生命に危険を及ぼすような、精神の異常がほんの僅かでも見つかった人は、正しい道を歩めるように、すぐに適切な治療を受けます」
<――あなたがたの惑星のごく普通の人たちが、どんな一日を過ごしているのかを教えて頂けませんか?>
・「朝、起きてから、まず水浴をします。至る所にプールがありますので、そして朝食を済ませると、自分のしたいことを行います。私たちの世界には貨幣が存在しませんので、“労働する”のは、自分がそれを望むからです。ですから皆、自分の適性に合った仕事をしますので、“労働”によって作り出されたものは、とても素晴らしいものばかりです。
不死の人たちだけが決まった使命を持っています。例えば電子頭脳の監視とか、エネルギー・食糧・組織構造などの、重要な問題に携わっているコンピュータの監視をすることです。70億の人口のうち、他の人たちと全く別に暮らしている不死の人は700人しかいません。彼らは不死の特権を得ている代わりに、労働の義務がない他の人々のために、すべてのことを処理しなければならないのです」
<楽園を味わう>
・ロボットは、今夜泊まる部屋を見ておきますか、と尋ね、私がうなずくと、移動用のベルトを手渡してくれました。私は地上から離れて、また運ばれていました。地上に戻ると、家というよりもホタテ貝を思わせるような建物の前にいました。
・「今宵のお相手を呼びましょうか?」とロボットが私に尋ね、そして、
「一緒に来て、お好きなのを選んで下さい」と言いました。
ベルトを再び締めると、私の身体は、ロボットを製造する装置の前に戻されていました。すると目の前に、光り輝く立方体が現れました。その立方体にはアームチェアが向けてあり、そしてヘルメットを渡されました。
私が腰を下ろしてヘルメットを着けて落ち着くと、驚くべき均整のとれたプロポーションや容姿を変えて欲しいですか、と尋ねました。私は、このままで十分で申し分ないと答えました。またロボットは、この女性が美学的に言って理想のタイプであること、もっと詳しく言えば、この惑星の住民の大多数の好みを元にして、コンピュータがはじき出した理想の女性3タイプのうちの1つであること、もし私が望みさえすれば、どの様にでも容姿を変えられることを私に話しました。
・私が、この凄い女性ならどこも変えないで欲しいと言うよりも早く、2番目の女性が光り輝く立方体の中に現れました。今度の女性は、金髪で魅惑的だという点で前の女性とは違っていたものの、最初の女性に負けず劣らず完璧でした。今度も私は、どこにも手を加える必要性を認めませんでした。次に、不思議な立方体の中に現れた3番目の女性は、前のふたりよりも、もっと官能的な赤毛の女性でした。
ロボットは、他のモデルをもっと見たいですか、この惑星の人たちの理想的な3人のタイプは望み通りのものですかと尋ねました。私は、それらの3人が並外れて素晴らしいと思ったので、全くそのままで良いと答えました。
そう言い終わったとたんに、立方体の中には素晴らしい黒人女性が現れ、次には、とてもほっそりとしてスラリとした中国人女性が、最後には、もうひとりの妖艶な若いアジア人の女性が現れました。
・ロボットは、このうちどの女性をパートナーにしたいですか、と尋ねました。私が、皆いいと答えると、彼はロボット製造装置の所へ行き、別のロボットに何かを言いました。すると装置が動き始めました。私にはこの時、何が行われようとしているのかが、すべて飲み込めました。
数分後、私は6人の女性たちと一緒に部屋に戻り、この魅惑的な女性ロボットたちと一緒に風呂に入り、彼女たちは私の望みのままに何でもしてくれました。こんなに素晴らしい入浴は、私にとって初めての経験でした。
風呂から上がったあと、私の案内役のロボットは、何か音楽を作曲したいですか?と尋ねました。私が「はい」と返事すると、女性ロボットのモデルを投影した時に着けたものと同じようなヘルメットを取り出し、「今お聴きになりたいと思っておられる音楽を、頭の中で想像して下さい」と言いました。
するとたちまち、私が想ったのと寸分違わぬ音楽が聴こえました。一つのメロディーを頭の中で作ると、それと同じものが、今まで聴いたこともない広がりと繊細さを持った音で、実際に聴こえてくるのです。すべての作曲家の夢が現実となったのです。つまり、メロディーを写譜し、編曲するという骨の折れる作業を通さずに、ただちに音楽が組み立てられるのです。
・次には、私の音楽に合わせて6体の素晴らしい女性たちが、心もとろけるような艶かしさで踊り始めました。
しばらくすると私のロボットは、今度は映像を創ってみませんかと言って、別のヘルメットを手渡しました。私は半円形のスクリーンに前に腰を下ろし、いくつかの風景を心に描きました。すると、その通りの風景がスクリーン上に次々と現れました。私が心の中で想ったすべてのことが、たちどころに視覚化されてスクリーン上に映し出されたのです。私が祖母のことを考えると、スクリーンには祖母が現れ、花束のことを考えると花束が映し出され、もし私が、グリーンピースの水玉模様のバラを想像していたら、それが現れていたことでしょう。
この装置は、何かを考えるだけで、説明する必要もなく、一瞬にして、その思考内容を視覚化してしまうのです。なんと驚くべきことでしょう!
私のロボットが言いました。
「練習をすれば、物語を創りながら、同時に映像化することができます。その種の創作ショーが、ここではよく上演されています」
しばらくして、私はベッドに入り、夢のように素晴らしい女性ロボットたちと一緒に、人生で最も贅沢な夜を過ごしました。
・翌日、私は目を覚ますと、良い香りのする風呂に入り、ロボットが運んで来た素晴らしい朝食を口にしました。それからロボットは、ヤーウェが待っているのでついて来て頂けますかと言いました。私は再び移動用のベルトを締めて、間もなくすると、見たこともない装置の前に立っていました。そこには、不死会議の議長が私を待っていました。
装置は、ロボットを創る装置ほどではありませんが、それでもとても大きなものでした。装置の中央には、大きなアームチェアがはめ込んでありました。
ヤーウェは、私に、楽しい夜を過ごしたかを尋ね、それから装置のことを説明しました。
「この装置は、今は眠っているあなたの、或る才能を呼び覚ますためのものです。これによって、あなたの頭脳は持てる潜在能力をフルに発揮できるようになるでしょう。さあ、ここに腰掛けて下さい」
私は、色とりどりの閃光が目の前を通り過ぎるのを見ました。ついにすべてが停止し、ロボットが手を貸して私をアームチェアから降ろしてくれました。私は、自分がまるっきり違う人間になったような感じがしました。何をするのも簡単で、易しいことのように思えたからです。
『ヴァチカンの謎と真実』
知られざる歴史
斎藤かおる 青春出版社 2009/5/13
<ヴァチカン市国の構造>
・ヴァチカンは、ローマ・カトリック教会のいわば総本山であり、世界一小さな主権国家である。正式名称は、ヴァチカン市国。面積はわずか0.44キロメートルだ。これに加え、イタリア国内にヴァチカンの主権を認められている施設をいくつももっている。ちなみに、日本の皇居は1.15平方キロメートルだから、ヴァチカンはその2分の1にも満たない。
ヴァチカンはおよそ2000年にわたり、教皇の膝元として、常にカトリック教会の歴史の中心に位置してきた。しかし、現在の形でヴァチカン市国が成立したのは、つい最近のことである。
近代のイタリアには小さな国々が乱立していたが、1861年、サルディーニャ王国によって統一され、イタリア王国が成立した。1870年、ローマ教皇領を守っていたフランス軍が撤退すると、王国は教皇領を接収した。
・ヴァチカン市国は、その周辺をぐるりと城壁に取り囲まれているのが特徴だ。城壁の重々しさは、ヴァチカンに続いた苦難の歴史を物語っているが、現在、ヴァチカン市国は非常にオープンな国であり、入国に特別な手続きを要しない。毎日、世界中から、祈りや観光のために数千人もの人々が訪れている。
・ヴァチカン市国には、数多くの歴史的・宗教的遺産が集まっている。そして国全体がユネスコの世界遺産に登録されている。
まず、使徒ペトロの墓とされる場所に建てられた「サン・ピエトロ大聖堂」は、地理的には南端近くだが、実質的にはヴァチカンの中心地といえる。
・ヴァチカン市国は小さいが、そこには聖職者や修道士・修道女が暮らし、さまざまな仕事にあたっている。イタリア人が多いが、それ以外の国の出身者もいる。以前は、リラが流通していたが、現在はユーロが使われている。また独自の郵便制度も持っている。
<永遠の都ローマとヴァチカン>
・ヴァチカン市国は、イタリアの首都ローマの町を東西に分けるテヴェレ川の西側にある。
現在、ローマを首都とするイタリアとヴァチカン市国は別の国ではあるが、ローマの町にはヴァチカン市国の主権を認められている施設が点在してもいる。
・一度は訪れてみたい場所が、半径5キロメートルほどの中に詰まっている。そんなローマの町に、すっぽりとおさまっているヴァチカン市国は、1984年に国全体を世界遺産に登録されている。
<小説や映画にたびたび登場>
・大ヒットした小説『天使と悪魔』(ダン・ブラウン著、2000年刊)も、ヴァチカンを含むローマの町を舞台にしている。秘密結社とヴァチカンの謎の関係、そして最新科学を利用した陰謀を解き明かすという内容だ。ローマ・カトリックにゆかりの施設が作者独自の視点で小説内に様々に織り込まれ、コンクラーヴェという教皇選出システムの様子が大事件とともに描き出されていたりで、読者をあきさせない。カトリックの歴史への解釈に関わるストーリー展開の妥当性の程も、読者の知的関心を惹く。
<絶対的首位権を持つ教皇>
・ローマ司教である教皇は、全世界のカトリック信徒の精神的指導者の立場にある。信徒の集まりである個々の教会(小教区)にいるのが司祭、個々の教会のいくつかを束ねているのが司教である。さらにその上には、大司教、総大司教、そして枢機卿がいる。枢機卿によって構成されている枢機卿団は、教皇を補佐する任務を負うとともに、教皇を選出する任務を負っている。枢機卿団の互選によって、枢機卿団のなかから教皇が選出される。
教皇に用いられる公称には「ローマ司教・キリストの代理者・(最初の)使徒(ペトロ)の継承者・全カトリックの統治者・イタリア半島の首座司教・ローマ首都管区の大司教・ヴァチカン市国の首長・神のしもべのしもべ」などがある。
・裁判所で扱われる教会の規律と指導に関する全事項について、教皇に上告できる。カトリック教会においては、神は教皇に首位権を与えた、と考えられているので、一度裁決が下されると再審請求はできない。教皇は誤ることがない、とされているからである。また、ヴァチカン市国には、ヴァチカン市国政庁がある。博物館、図書館、ラジオ局などの機関を含む。
<枢機卿は世界中から集まる>
・これまでに、枢機卿は世界50カ国前後の国々から選出されている。日本からも、何人かの枢機卿が選出されている。
枢機卿は、緋色の聖職者服と帽子を身につけることができる。緋色は、生涯をキリストに捧げる証としての血の色だともいわれる。
<空飛ぶ聖座>
・2005年まで、26年もの長い期間教皇を務めたヨハネ・パウロ2世は、平和を訴えて世界中を飛び回った教皇であった。在任中に訪れた国は約130カ国に及び、「空飛ぶ聖座」、「大衆にもっとも近い教皇」と称された。
諸国に対話を呼びかけ戦争に反対する姿は、とても印象的で、カトリック信徒の少ない日本においても存在感のある教皇であった。
・大学でポーランド文学を学んでいたときにポーランドがナチスに占領されてしまった。大学は閉鎖されてしまい、石切り場などで働かざるを得ないという状況の中、20歳でたった一人の家族であった父までも失った。
・22歳のときに、神学を志すと宣言し、26歳で司祭に叙階され、ローマへ派遣されると、教皇庁立アンジェリクム神学大学で学び続け、47歳で、当時の教皇パウロ6世によって枢機卿に任命された。
<世界に平和と対話を呼びかける>
・教皇として様々な謝罪を行ない。世界中の人々に驚きと共感を与えた。カトリック信徒がユダ人を迫害してきたこと、それがナチスのホロコーストにつながったこと、またキリスト教徒が十分に対応しなかったことを謝罪した。十字軍の過ちをめぐっては、イスラームや東方教会に謝罪した。また、ガリレオの名誉を回復し、ダーウィンの進化論を認めた。一方で、避妊や中絶や同性愛、また女性の人権などについては、保守的な態度を崩さなかった。
<「キリスト」の誕生>
・ヴァチカン市国は、キリスト教カトリック教会の、いわば総本山である。カトリック教会は、世界的影響力を持つ、とても勢力の強い存在であるが、けっしてカトリック教会=キリスト教ではない。カトリック教会は、キリスト教の一教派である。
・キリスト教は、イエスをキリスト(ヘブライ語のメシアに相当するギリシア語で、「救世主」の意)と信じ、聖書を信仰と生活の規範とする宗教である。そしてキリスト教はイスラームと同様に、ユダヤ教の流れの中から成立してきた宗教である。
では、ユダヤ教はどんな宗教であろうか。ユダヤ教は、古代の中近東に起源を持つユダヤ人の民族宗教で、唯一神ヤハウェを信仰し、選民思想などを特徴とする。
・イエスがユダヤの国のベツレヘムという町で誕生したのは、聖書が伝えている幾つかの情報などをもとに計算して、紀元前4~6年頃と推定されている。
たとえば、『マタイによる福音書』には、ヘロデ大王が自らの地位を脅かす救世主誕生の噂を耳にして、2歳以下の幼児を虐殺させたため、イエスは両親に伴われてエジプトに避難した、と記されている。
・それが、本来、イエスの誕生から数え始めたはずの西暦の元年とずれているのは、6世紀のディオニュシウス・エクシグウスという修道士の算定方法に不首尾があったという事情によるのである。
・イエスは、エルサレムの北方にあるガリラヤ地方のナザレから、福音(神と人との関係についての良きおとずれ)を述べ伝え始めた。形骸化したユダヤ教の偏狭さや不寛容さを厳しく批判し、神の国とは何かを語り、神の国の到来を語り、神と人とを愛するべきことを語るイエス。その姿を見て、人々は、次第にイエスこそが旧約聖書で預言されてきた真の救世主(ヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリスト)だと信じるようになっていった。そしてイエスのもとに多くの人々が集まるようになっていった。
しかし、そのことが当時の社会の支配者層やユダヤ教の上層部に不安を抱かせた。イエスは、危険人物視されるようになり、やがてエルサレムで捕らえられ、十字架にかけられた。イエスはおそらく30歳前後の若さであり、その公生涯は、2年間前後と推定される短さであった。
・イエスは、自らの語ったことを書き残さず、本格的な宗教組織を形成したわけでもなかったが、自らの語る福音を広く告げ知らせるために、12名の特別な弟子を選んだ。いわゆる「12使徒」である。12使徒の名前は、ペトロ(シモン)、アンデレ、ヨハネ、トマス、マタイ、シモン(熱心党のシモン)、アルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)、イスカリオテのユダ、ナタナエル(バルトロイ)、マダイ(ヤコブの子ユダ)、フィリポである。12という数字は、イスラエルの12部族を象徴していると考えられている。
<迫害を受けた初期キリスト教徒>
・イエスが活動したパレスチナのユダヤ王国は、紀元前63年の時点で、既にローマの属州として併合されていた。
イエスは、聖書によれば、十字架にかけられた3日目に復活し、40日間にわたって弟子たちの前に現れ、その後に天に上げられた。復活したイエスに会った弟子たちは、エルサレムで集会を行なった。これがキリスト教会、そしてキリスト教の始まりだと言われている。教会での指導的役割を担ったのは12使徒だが、中でもペトロの活躍は目覚ましかった。
やがてキリスト教は、パレスチナのみならず広くローマ帝国内にも多くの信徒を持つようになっていった。
・(ペトロ) 12使徒のリーダー的存在。イエス亡き後にはローマにて布教活動を行なった。「天国の鍵をさずけよう」と言われたことから、手に鍵を持って描かれることも多い。
・(熱心党のシモン) 不明の人物、イエスの兄弟のシモンと同一人物であるという説も。
・(キリスト教徒への迫害) 64年の、皇帝ネロによる迫害は、有名である。ネロは自ら行なったと噂されるローマ市内の大火の罪をキリスト教徒になすりつけ、多くのキリスト教徒を生きたまま闘技場でライオンに食い殺させた。
・キリスト教、とくにローマ・カトリック教会の歴史と切っても切れない関係にあるローマ帝国は、紀元前27年に成立した。
その起源は、紀元前8世紀にイタリアのテヴェレ川に形成された都市国家である。
・ローマの属州となっていたユダヤ王国でイエスが誕生したと思われる紀元前6~4年は、まさにアウグストゥスの治世であった。そして、イエスが公生涯に入り十字架にかけられた紀元後30年前後は、第2代皇帝ティベリウスの時代であった。
イエスの十字架と復活と昇天の後、弟子たちの宣教活動は、ユダヤからローマ帝国内へと次第に広がっていった。その宣教活動の広がりを支える拠点のひとつとなったのが、アンティオキアであった。アンティオキアは、当時ローマとアレクサンドリアに次ぐローマ帝国第3の都市で、聖書によれば、「クリスチャン(キリスト者)」という呼称が初めて用いられた場所である。また、アンティオキアは、初期キリスト教の立役者パウロによる3度の宣教旅行の拠点となった場所である。
<パウロの回心>
・パウロは、もともと熱心なユダヤ教徒で、親の代からローマの市民権を持っていた。ユダヤ教の律法を軽んじるキリスト教徒に敵意を抱き、当初はキリスト教徒を迫害していた。だが、ある時、迫害に向かう途中に天からの光に照らされイエスの声を聞いて、目が見えなくなり、それから目からうろこのようなものが落ちて再び見えるようになるという経験をした。その経験によって、パウロはイエスをキリストと信じ、偉大な宣教者への道を歩み始めることとなったのである。
<十字架に架けられたイエス>
<イエスの逮捕と最後の晩餐>
・レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作に『最後の晩餐』がある。現在、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあり、世界遺産に指定されている。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁画として1498年に完成したこの絵は、高さ4.2メートル、幅9.1メートルにも及ぶ大きなものである。
<イエスの処刑と復活>
・過越祭の食事を終えた後、イエスは、使徒たちとともにオリーブ山に出かけ、12人の弟子の1人、イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕された。
そして、ユダヤ最高法院→ローマ総督ピラト→ガリラヤの支配者ヘロデ→再びローマ総督ピラトと、あちこちをたらい回しにされた後に死刑を言い渡され、ゴルゴダの丘で十字架の形に処せられた。罪状として十字架上に掲げられた板には、「ナザレの王イエス」と記されていた。ちなみにゴルゴダとは、髑髏の意である。
・イエスは、最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫んで息をひきとった。男性の弟子たちの多くが逃げ出してしまったのに対し、女性の弟子たちの多くはイエスの最後を見届けた。
イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフという人物によって引き取られた。アリマタヤのヨセフは、裕福な議員で、イエスの理解者だったとも弟子だったとも伝えられている。
アリマタヤのヨセフによって遺体を引き取られ祭られて、3日目、イエスは予告通りに復活し、まずマグダラのマリアに姿を現した。
それから40日に渡って弟子たちに姿を表し続け、弟子たちに「(洗礼者)ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく聖霊によって洗礼を授けられる」と告げた後、イエスは、天にあげられ、雲におおわれ、見えなくなった。
<シモン・ペトロとイエス>
<ペトロ=岩と呼ばれた男>
・イエスによって選ばれた12使徒の中でも、リーダー格であったのは、ペトロである。
・ペトロとは、「岩(アラム語でケファ)」という意味である。聖書は、ペトロがもともとはシモンという名前であったけれども、イエスによってペトロと呼ばれるようになった経緯を伝えている。
・ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代の教皇としている。
そしてそれは、イエスがペトロを「岩」と呼び、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言い、また「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言ったことを、根拠にしてのことなのである。
<漁師だったペトロ>
・もともとはシモンという名前であったペトロは、イエスに出会うまでは漁師であったが、ある日、ガリラヤ湖で弟のアンデレとともに漁をしていてイエスに出会った。聖書は、ペトロがイエスの言葉による驚くべき経験を通してイエスの弟子となった経緯を伝えている。
・イエスに、「わたしと来なさい」と言われたペトロは、「すぐに網を捨てて従った」。つまり、それまでの人生のすべてを捨てて新しい人生に入ってゆくことをただちに決心して、イエスの弟子となっていったのである。
<ガリラヤ湖>
・イスラエルの北部の湖。イエスはこの湖の周辺を中心に活動を行なっていた。嵐を止めたり、たくさんの魚を獲らせるなどの奇跡もこの湖で起こしたとされる。
<洗礼者ヨハネ>
・古代ユダヤの宗教家・預言者で、ヨルダン川でイエスらに洗礼を授けた。キリスト教では、イエスの先駆者と位置付けられている。
<エリア>
・ユダヤ人の預言者で旧約聖書に登場する、モーゼ以後の最大の預言者。一時期、イエスもエリヤの再来と見なされていた。
<キリスト教の宣教>
<現実となったイエスの予告>
・イエスの弟子たちの中でリーダー格であったペトロだが、イエスが逮捕された後、イエスを裏切ってしまった。そして、それは、逮捕される直前のイエスが予告していたことであった。聖書は、ペトロがイエスの忠誠を誓ったにもかかわらずイエスを裏切ってしまった経緯を伝えている。
・自らを誰にもひけをとらぬイエスの忠実な弟子だと自負し、イエスへの思いの強さを公言してはばからなかったペトロであったが、イエスの予告通りに、3度もイエスを知らないと言ってしまったのである。
<リーダーとして教会を率いたペトロ>
・十字架にかけられた3日目に復活したイエスとの40日間にわたる出会いを経験した後、弟子たちは、エルサレムで集会を行なった。これがキリスト教会、そしてキリスト教の始まりだといわれている。
・特にペトロは、力強い説教で多くの人々を回心させたり、人々を癒す数々の奇跡を起こしたりと、目覚ましい活躍を見せた。
・もはや、イエスの予告通りに3度もイエスを知らないと言ってしまった時の弱々しいペトロではなかった。そこにいたのは、イエスこそキリストであると述べ伝えることに命をかけている、ひとりの男の姿であった。
<大迫害とキリスト教の公認>
・「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれた時代(紀元前27年~紀元後180年)の末期、ローマ帝国は、領土が最大となる最盛期を誇った。その最盛期に向かってローマ帝国が発展していった時代は、キリスト教がローマ帝国内に広がり、また、しばしばキリスト教徒への激しい迫害が加えられた時代でもあった。
・だが、繰り返される迫害にもかかわらずキリスト教は広がってゆき、キリスト教徒の結束は固くなっていった。一方、ローマ帝国は、異民族の侵入や帝国の分割統治の弊害などもあって、その隆盛に次第に翳りがさしていった。そのような流れの中、313年には、コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」を発布してキリスト教を公認することとなった。それは、キリスト教の力を帝国の統治に利用しようとの意図からのことであったと考えられている。
<金融スキャンダル>
・20世紀最大の金融スキャンダルと言われるのが、ヴァチカン銀行と深く関わりのあるアンブロシアーノ銀行にまつわる事件だ。関係者の謎の死が相次ぎ、さらには、長年ヴァチカンがその存在に対して否定的だったはずの秘密結社フリーメイソンとヴァチカンの深い関係が露呈して、ヨーロッパやアメリカを中心に世界中を驚かせたのである。
アンブロシアーノ銀行は、ヴァチカン銀行の資金調達と資金運用を行なっていた銀行だったが、巨額な使途不明金を出し、1982年に破綻した。そして、その破綻の直前、同行の頭取であったロベルト・カルヴィは行方をくらませていた。
<関係者たちの謎の死>
・事件は、アンブロシアーノ銀行の破綻だけで幕引きとはならなかった。
同行破綻の約1ヶ月後、変わり果てたカルヴィが発見されたのである。場所は、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下。首吊り死体であった。
いったんは自殺として処理されたものの、遺体の状況や発見場所に、自殺と考えるには無理な点や不審な点があったので、遺族は納得しなかった。そこで、ロンドン市警察やイタリア警察が再捜査や再調査を行ない、最終的に他殺との判断をくだした。カルヴィがフリーメイソンの関連組織「ロッジP2」のメンバーであったことは、1981年3月の時点で発覚していた。
アンブロシアーノ銀行の使途不明金と破綻をめぐる捜査では、結局、その過程で複数の関係者が次々亡くなることとなった。
<ロッジP2とは?>
・イタリアにおけるフリーメイソンのグランド・ロッジ(本部)傘下の1ロッジ(支部)で、1877年認証された。第2次世界大戦後、リーチオ・ジェッリ代表の下、反共的・極右的活動を続けたが、1976年認証を取り消される。しかしその後も政治家・軍人、極右活動家を取り込み秘密結社として活動を続けた。
・ジェッリは、1980年のボローニャ駅爆破事件やアンブロシアーノ銀行破綻に関与した罪で有罪服役したが、数回にわたり脱獄再逮捕を繰り返した。フリーメイソン本部は、1981年、ジェッリを正式に破門し、フリーメイソンとは無関係としている。
<フリーメイソンとは何か>
<フリーメイソンの起源>
・フリーメイソンの起源については、幾つかの説がある。最も有力視されているのは、中世イギリスのウィンザー宮殿建築に携わった石工職人たちのギルド(職業別組合)のロッジ(集会所)を起源とする説である。メイソンという語が石工を意味することや、フリーメイソンのシンボルマークにコンパスと定規が描かれていることなどが、その説の根拠となっている。当時、フリーメイソンのメンバーである職人たちは、自分たちの知識や技術が外部に漏れないように、また仲間かどうかを見分けるために、ロッジで暗号を使ったと言われている。他に、中世にフランスのテンプル騎士団を起源とする説や、紀元前10世紀のソロモン神殿建築に携わった建築家たちを起源とする説などもある。
・けれども、現代のフリーメイソンについては、1717年にイギリスで結成されたグランド・ロッジに出発点を見るのが、一般的である。
石工職人たちの時代のフリーメイソンを、実際に建築に携わった言わば「実務的フリーメイソン」とすれば、グランド・ロッジ結成以降のフリーメイソンは、「知識」「技術」「規則」「暗号」といった要件を継承した、「思想的フリーメイソン」だと考えられる。
<フリーメイソンのネットワーク>
・グランド・ロッジ結成以降のフリーメイソンは、会員の親睦と互助を目的とした「非公開の友愛団体」を標榜する組織として、世界中に広がっていった。グランド・ロッジは、プロヴィンシャル・グランドロッジやディストリクト・グランドロッジと呼ばれる下部組織を統括しつつ、直轄ロッジも運営している。
・イギリスで結成されたグランド・ロッジのネットワークに属していないグループもある。ただし、フリーメイソンの諸ネットワークを詳細に区別したり、他の秘密結社と区別することは、難しいと言われている。
カトリック教会は、主にフランス大東社を念頭において、1738年に、クレメンス12世がフリーメイソンを破門した。それは、ひとつには、特定の宗教にこだわることなく広く友愛を掲げるフリーメイソンのありようが、カトリック教会には危険な自由思想主義者の集団と映ったからであった。この破門は、フリーメイソンが政教分離を主張して反撃に出たために、公立学校からカトリック聖職者が追い出されるなどの騒動を引き起こしてしまい、1983年にとりあえず解除された。だが、その後もカトリック教会は、表向きにはフリーメイソンを危険視する立場を変えていない。
<歴史に関わるフリーメイソン>
・フランス革命やアメリカの独立戦争には多くのフリーメイソン関係者が関わっていたという。またニューヨークの自由の女神像の寄贈の背景には、フランス系フリーメイソンとアメリカ系フリーメイソンの交流があったと伝えられている。
<世界に広がる秘密結社>
<フリーメイソンの謎に包まれた実体>
・フリーメイソンは、会員の親睦と互助を目的とした友愛団体とされているが、非公開団体、すなわちいわゆる秘密結社なので、その実態はよくわからない。入会には条件があり、入会時や組織内での昇級時には、儀式がある。そして、会員には、自分以外の会員に関して、その会員の存命中の他言が禁じられている。
<フリーメイソンと「陰の力」>
・現在、世界中に約300万人のフリーメイソン会員がいると伝えられている。日本では、1970年代に約5000人に達したのをピークに、その後は減少して、現在は約2000人のようである。
希望すれば誰でも入会できるわけではない。入会するためには、諸条件を満たし、推薦人を確保し、さらに厳しい審査に合格しなければならない。
・とはいえ、フリーメイソンの会員になることを、社会的ステータスと捉える向きも多い。なぜなら、社会の様々な領域で活躍した有名人たちが実はフリーメイソン会員だったと、逝去後にしばしば判明するからである。
・また、フリーメイソンの会員同士が職場での昇進にからんで優遇し合っているとか、事件を起こしても警察にいるフリーメイソン仲間が善処してくれるとかいったように、フリーメイソンの「陰の力」を信じている向きも多い。欧米に影響力を持つビルダーバーグ会議がフリーメイソンの外部組織だという説もある。これらの真偽の程は定かでないが、このような「陰の力」にまつわる噂が、ますますフリーメイソンへの関心を惹くのであろう。
<ヴァチカンとフリーメイソン>
<18世紀のヴァチカンの苦境とクレメンス12世の奮闘>
・貴族や都市の有力者、また知識人や文化人らが次々と入会して、フリーメイソンの活動が大いに拡大した18世紀は、イギリス産業革命、フランス革命、アメリカ独立戦争と、世界が激しく揺れ動いた時代でもあった。
当時、ヴァチカンの権威は、ヨーロッパ諸国の間で政争の具にされがちであった。
・そして、教皇領は、侵略や併合されたりの繰り返しであった。また、それらのことが、ヴァチカンが陥っていた財政逼迫に拍車をかけていった。
そのような困難な時代に、聖座に就いた教皇の一人が、クレメンス12世(在位1730~40)であった。
・まず取り組んだのは、財政再建であった。財政の専門家としての経歴を持ち、実務にたけていたクレメンス12世は、前任教皇の時代の財政責任者たちに罰をくだしたり、損害賠償を請求したり、宝くじを発売して、急速に財政状況を回復させた。
<フリーメイソンの破門>
・フリーメイソンに対しては、クレメンス12世は、「あらゆる宗教・宗派の人間が、正直で自然な様子を装いつつ、自分たちで作った法と規則に従い、謎めいた固い契約を結び合っている」と述べて破門を言いわたした。特定の宗教にこだわることなく友愛を語るフリーメイソンのありようが、クレメンス12世には、社会体制の転覆などを目論見かねない危険な自由主義思想の集まりと感じられたであろうことは、想像に難くない。
・この破門は、フランスの公立学校における聖職者追放事件を引き起こしたことなどもあって1983年には解除されたが、この破門以降の約2世紀間に、ヴァチカンによるフリーメイソンへの批難は、12回にも及んだ。だが、結果として、その2世紀間にわたる公的な非難はほとんど奏功しなかった。ヴァチカンの厳しい姿勢にもかかわらず、破門騒動の時から今日に至るまで、カトリックの外部はもちろん内部からもフリーメイソンに加わる者が決して少なくないと言われている。
<スイス人衛兵の殺人事件>
<スイス人衛兵隊の歴史と謎の事件>
・教皇の警護とヴァチカン市国の警備は、スイス人衛兵隊によって担当されるのが伝統となっている。そのような伝統のきっかけを作ったのは教皇ユリウス2世(在位1503~13年)であった。ユリウス2世は、勇敢さで名高いスイス兵に、周辺諸国からの政治的・軍事的干渉の排除に奮闘する中、自らの身辺警護を任せたのであった。
・ヴァチカンにおけるスイス人衛兵隊の歴史には、謎の事件もある。1998年5月6日の宣誓式の直後、当時の隊長アロイス・エステルマン氏宅で、エステルマン夫妻の射殺体と、下士官セドリック・トーナイ氏の遺体が発見されたのである。
・ヴァチカンは、イタリア警察の捜査を断り、独自に捜査を進めた。そして、「精神に異常をきたしたトーナイ氏が隊長夫妻を射殺した後、銃をくわえて自殺した」と発表した。だが、司法解剖が行われる前の発表であったことなどから、不審を招き、様々な憶測を呼んだ。トーナイ氏の母親は、「遺書は偽物だ」などとして2002年にヴァチカンに再捜査を要請したが、ヴァチカンは「再捜査するべき新事実がない」として拒否した。
なぜ、このような事件が起こってしまったのであろうか。推測の域を出ないものの、多言語国家スイスゆえの複雑な事情が絡んでいるのではないかと考えられている。