日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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伝承によれば、聖徳太子43歳のとき、法隆寺から天王寺への途次、笛を吹いていると、背後に山神・蘇莫者(そまくさ)が出現し、笛の音に合わせて舞ったという。(1)

 

『古代史 【謎解き事典】』

関裕二  三修社  2006/5/1

 

 

 

・『魏志倭人伝によれば、邪馬台国の女王・卑弥呼は、多くの首長層の手で「共立」されていたというし、考古学は、三世紀後半のヤマトの大王家が、やはり「共立」されていた可能性を指摘している。巨大な前方後円墳も、大王家の権力の象徴ではなく、首長層の「支持」の証拠であったことが明らかにされつつある。

 

蘇莫者(そまくさ)――法隆寺に現れた妖怪

7世紀に出現した妖怪

・『日本書紀』の「神話」は、ヤマト建国以前だけではなく、「人の時代」になっても続いている。ヤマトタケル神功皇后武内宿禰浦嶋子伝説も、ヤマト建国後の歴史に登場する「現実離れしたお話」であり、設定は「神話」そのものである

 7世紀にいたっても、鬼・妖怪が出現している。『日本書紀斉明天皇元年(655)5月の条には、ヤマト上空に竜に乗った男が現われたとある。男は青い笠をかぶり、葛城山から生駒山、さらには住吉の方角に飛び去って行ったという。さらに斉明天皇7年(661)、百済救援のために北部九州の朝倉宮(福岡県朝倉郡)に遠征した斉明天皇の前に、不吉な鬼火(ひとだま)が出現した。そして、舎人や近侍の者たちが、ばたばたと死に、女帝自身も、病の床に伏し、亡くなられるのである。また、斉明天皇の葬儀の様子を、笠を着た鬼が見守っていたという。

 この鬼の正体、どうやら斉明天皇の眼前で殺された蘇我入鹿の怨霊らしい。

 

 

法隆寺に出現する蘇莫者の謎

日本書紀』にしたがえば、曽我入鹿は天皇家をないがしろにした悪人である。その入鹿が祟って出たのは不自然だ。祟りは祟られる側に非があったからで、やましい心が不吉な現象すべてを祟りと思うものだからだ。入鹿が史上最大の悪人だったのならば、入鹿を成敗したところで、誰も祟りを怖れることはなかったろう。

 では、なぜ入鹿の亡霊が出現したのだろう。それは、正史の証言とは裏腹に、入鹿暗殺の大義名分はなかったからと考えられる。そして実際に、朝廷は曽我入鹿の祟りを怖れ、丁重に祀っていた疑いがある。その手がかりが、聖徳太子を祀る法隆寺に残されている。

 そこで法隆寺で十年に一度執り行なわれる謎の祀り・聖霊会に注目してみよう。

 聖霊会のクライマックスは山神・蘇莫者の舞いである。伝承によれば、聖徳太子43歳のとき、法隆寺から天王寺への途次、笛を吹いていると、背後に山神・蘇莫者が出現し、笛の音に合わせて舞ったという。

 この蘇莫者に関心を寄せた哲学者に、梅原猛氏がいる聖徳太子の子どもたち(上宮王家)を入鹿は討ち滅ぼしたと『日本書紀』はいうが、入鹿を影から操っていた事件の黒幕は中臣鎌足で、後世、鎌足の末裔の藤原氏聖徳太子の祟りを怖れ、蘇莫者を聖徳太子に見立て聖霊会で盛大に祀り、また法隆寺を怨霊封じ込めの寺に仕立て上げたと考えたのである。その証拠に、聖徳太子等身像とされる法隆寺の救世観音の光背は、直接後頭部に打ち込まれているのではないか、とするのである。しかし、はたしてそうだろうか。

 

蘇莫者と曽我入鹿のつながり

梅原猛氏は蘇莫者の「蘇」は「蘇我」であり、要するに「法隆寺」とは、中臣鎌足蘇我の内紛をお膳立てしたことへの罪滅ぼしのために建立された、とする。そして最大の犠牲者である聖徳太子の姿こそ、蘇莫者にふさわしいとする。

 だが、これはおかしい。伝説のなかで、蘇莫者は聖徳太子の前に現れた山神であったとしている。そして、太子の背後には、「太子」なるものがいて、笛を吹いているのである。とするならば、蘇莫者と聖徳太子は同一ではありえない。

 だが、それならば、法隆寺最大の祭りのクライマックスの主役が、得体の知れない山神なのはなぜだろう。

 そこで興味深いのは、蘇莫者の出立ちである。恨めしげな面を被り、顔から白髪が垂れ下がり、顔を覆い隠している。唐人風の服をまとい、肩から蓑をまとっている。

 蓑や笠を着込むのは「鬼」の証であり、ここで気づかされるのは、蘇莫者の姿が斉明天皇にまとわりついた入鹿の亡霊にそっくりなことである。件の鬼は、笠をかぶり、唐人風の服をまとっていたという。

 とするならば、蘇莫者の正体とは、蘇我入鹿その人だったのではあるまいか。

 ここに法隆寺や7世紀の政争をめぐる大きな謎が残される。史上最大の悪人とされてきた蘇我入鹿とはいったい何者なのだろう。

 

山姥(やまんば)――縄文と現代をつなぐ女神

山姥が日本の歴史を解きあかす?――

・太古以来、日本がピンチに立たされたとき、決まってカリスマ性を秘めた「女傑」が出現し、救世主になってきた。たとえば、二世紀後半、混乱と戦乱を収捨したのは、邪馬台国卑弥呼。また、六世紀来の外交の失策を修正し、豪族層の増長をおさえにかかったのは、聖徳太子を抜擢し朝堂を切り盛りした推古女帝であった。

 ヤマト朝廷は伝統的に中国を意識し、古代中国の世界観を見習ってきたものだ。ところが、女帝を侮蔑するという中国の伝統だけは受け入れていない。ヤマト朝廷は、世界にも例をみない数の女帝を輩出し続けた。

 なぜ日本は、女帝という特異な文化をもっていたのだろう。この謎を解きあかすヒントが山姥である

 鬼婆の異名をもつ山姥は、山に住む老女で、妖怪である。山姥の痩躯は大きく、長い髪を垂らし、口が大きく裂けている。かつてチマタに流行った口裂け女のような姿である。

 山姥の原型を辿っていくと、遠く縄文時代にまでさかのぼってしまう。縄文人たちが盛んに土偶をつくっていたことは名高いが、この呪具こそが、山姥そのものなのである

 たとえば多くの土偶は妊娠した女性で、また、人為的に壊された状態で発見される。なぜそうなのかといえば、土偶地母神であり、女神を殺すことによって豊饒がもたらされるという信仰があったからである。

 このような信仰は、神話の世界にも表現され、『古事記』の大気津比売神(おおげつひめのかみ)は須佐之男に殺された後、屍から食物を生みだしている。ここに登場する気津比売神は、縄文時代以来の地母神信仰の名残といえるだろう。そして、このような女神が零落した姿となり、「山姥」として語り継がれていったわけである。

 

白村江(はくそんこう)の戦いの謎――中大兄皇子が招いた日本滅亡の危機

なぜ中大兄皇子は無謀な戦いに挑んだのか

大化改新から十八年後の天智二年(663)、百済と倭の連合軍は、朝鮮半島南西部の錦江河口付近で唐と新羅の大軍の前に、大敗北を喫する。百済という国は霧散し、倭国でさえ、国家存亡の危機に見舞われた。これがいわゆる白村江の戦いである。遠征を積極的におしすすめたのは中大兄皇子で、一度すでに滅びた百済を再興しようと夢見た結果の大敗北であった。

 敗戦後、唐と新羅の連合軍の来襲を恐れ、西日本の各地に山城がつくられた。もし唐が本気で攻めてくれば、このとき倭国は滅びていたに違いない。だが、中大兄皇子には悪運があった。唐が高句麗侵攻を優先し、さらにそののち、新羅が唐を裏切ったことによって、中大兄皇子倭国は救われたのである。

 

<残された謎>

・ただし、話はそう簡単ではない。というのも、七世紀のヤマト朝廷は、親百済外交というそれまでのヤマト朝廷の伝統を覆し、むしろ百済一極外交の是正に動き出していた疑いが強いからだ。

 たとえば聖徳太子は、百済を通り越し、直接隋や唐に外交関係を結ぼうとし、このとき使者として送り込まれた小野妹子は、途中百済との間に一悶着を起こしている。また、当時の実力者・蘇我氏は、百済の宿敵・新羅との友好関係構築を目論んでいた気配がある。

 

・このことは、乙巳の変の入鹿暗殺後、蘇我系皇族の古人大兄皇子が、「韓人が入鹿を殺した」と叫び、日本書紀』は、これを「韓の人」ではなく、「韓のまつりごと」=外交問題のこじれが原因で殺された、と記録していたことと通じる。

 だが、そうはいっても、百済一極外交を選択すれば、東アジアで孤立する危険性をはらんでいたことは、当時誰の目にも明らかだったはずだから、なぜ中大兄皇子百済固執したのか、という謎が残されるのである。

 

卑弥呼――いわずと知れた邪馬台国の女王の知られざる正体

日本史の鍵を握る女王・卑弥呼――

・日本の歴史は倭国王卑弥呼(生没年不詳247年没?)から始まるといっても過言ではない。しかし、不幸なことに、その卑弥呼の正体が定かではない。その理由は、8世紀に編纂された『日本書紀』が、はっきりと記録していなかったからにほかならない。

 そして、それは「知識がなかったから」ではなく、「熟知していた」からこそ、詳述を避けたのではあるまいか。

 卑弥呼は中国の三国時代を描いた『三国史記』の『魏志倭人伝に登場する。それによれば、倭国では、7、80年にもわたって男王が立てられていたが、互いにせめぎ合い、収捨がつかない状態であった。そこでついに女王・卑弥呼を「共立」することで、混乱を鎮めることに成功した。卑弥呼は鬼道を駆使し、人心を掌握した。未婚で人を近寄せず、弟が補佐して国政を運営していた、とある。

 景初3年(239)、卑弥呼朝貢してきたため、魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と「金印」を与えたとある。正始8年(247)には、卑弥呼が狗奴(くな)国と交戦し、これを魏に訴え出ると、魏は檄を飛ばしたという。

 これ以外にも『魏志倭人伝には、このころの倭国の習俗を詳述している。それにもかかわらず、日本側の史料に、卑弥呼の記述がまったくないのはなぜだろう

 

日本書紀』に残された手がかり――

・『日本書紀』が卑弥呼をまったく無視しているわけではない。神功皇后摂政紀39年、40年、43年の条それぞれに、『魏志倭人伝の記事が引用され、景初3年に「倭の女王」が魏に朝貢したことが記されている。ところが、どうしたわけか、『日本書紀』は「卑弥呼」の名を伏せてしまった。邪馬台国をめぐる本当の謎は、ここにある。なぜ『日本書紀』は、「卑弥呼」という倭国の輝ける歴史を大いに喧伝し利用しようとしなかったのであろう。

 さらに不可解なのは、『日本書紀』が皇祖神に天照大神という女神をあてがい、これをあたかも卑弥呼であるかのように装ったことだ。名前を削除したうえで神に仕立てあげたのだとすれば、ここに8世紀の朝廷の卑弥呼に対する複雑な思いを汲み取らざるをえない。

 邪馬台国の時代とヤマト建国の時代はほぼ重なる。しかも『日本書紀』が邪馬台国の正体を熟知していたとするならば、邪馬台国卑弥呼は明確な目的をもって抹殺されたと考えざるをえない。

 仮に、卑弥呼から8世紀のヤマト朝廷の王統がつながっていないとして、それならば、なぜ「王朝交替」という立派な正当性を用意しなかったのか。これも大きな謎といっていい

 

神と天皇の謎――不思議の国の王権

日本の不思議

・日本の不思議は、多神教世界に身を投じながら、高度な工業化社会を完成させてしまったことにある。呪いに満ちた多神教は低俗な宗教観であり、多神教の迷信を打ち破ることのできた一神教世界こそが、「進歩」であると信じられている。したがって、「進歩からとり残された先進国」という矛盾が横たわるのである。

 そもそも多神教一神教の違いはなんだろう。多神教は、原始時代より引き継がれてきたアニミズム信仰を基礎にしている。生きとし生けるもの、新羅万象すべてに精霊や神が宿るという発想であり、人間は大自然に支配されている、という考えである。これに対し一神教は、宇宙や大自然、人間も、一人の神によって創生されたものと説く。したがって人間は神の子であり、自然界を支配する使命を神から預かったと解釈するわけだ。

 

一神教キリスト教イスラム教が反目するのは、どちらの社会にとっても、「神」は一つなのであって、他の神の存在を許すことはできないからである。いっぽう多神教は、八百万の神がいるのが当たり前なのだから、仏陀もキリストも、「もう一柱の神」として、容易に受け止めてしまうのである。日本人が葬式を仏教で行ない、初詣は神社(神道)に、クリスマスでキリスト生誕を祝うのは、まさに多神教ならではの光景といえよう。一神教世界からみれば、このような節操のない宗教観からして、信じがたいものに映るわけである。しかし、すべてを支配しようとする一神教的発想が行きづまりをみせている今、大自然との共存をうたいあげる多神教にこそ、これからの世界の方向性が見いだせるのではないかという声が、しだいに高まっているその点日本は、多神教的発想をもって成功した国として、注目されていくに違いない。

 

多神教の本質

・それはともかく、日本の古代史を解きあかすには、このような多神教的発想の本質というものを知っておく必要がある。天皇という存在がいい例だ。

 王権というものは、一神教からみれば、独裁者であり、神から地上界の統治を委ねられたもの、ということになろうか。しかし、天皇の本質は、一神教世界の「王」の性格とは、まったく隔絶している。

 たしかに、『日本書紀』や『古事記』にしたがえば、天皇は「神の子」である。しかし、だからといって、神の権威をもって、弾圧的に国土を支配していたわけではない。それどころか、ヤマト建国以来、日本の王には、「権力」という概念が欠如していた。

 3世紀のヤマト政権は各地の首長層の寄せ集めであり、「大王」は彼らの総意によって「共立」されていた疑いが強い。これは、『魏志倭人伝のなかで卑弥呼が「共立」されていたと記録されていたことに通じる。また、考古学も、このことを裏付けている。巨大な前方後円墳は、あたかも大王家の力の強さを証明しているようにみえるが、実態は、いくつもの地域の埋葬文化が習合して完成したのが前方後円墳だったのである。

 8世紀にいたり天皇を中心とする律令国家が完成しても、天皇に権力が渡ったわけではない。豪族層が合議を行ない、奏上された案件を、天皇はただ追認するだけであった。そのいっぽうで、天皇には不可解な権威がまとわりつき、これを潰すことは憚れたのも事実である。権力をもたず、権威のみをもった王権に対する「畏怖」は、日本人の深層心理に焼き付けられた。強大な軍団を率いた武将たちも、ひとたび「錦の御旗」に攻め寄せられれば、誰もが震え上がり、剣を捨てたのである。

 

天皇多神教

・なぜ「天皇」を、人々は恐れたのだろう。これこそが、日本史最大の謎といっていいのだが、ヒントは、多神教的発想のなかに隠されているように思われる

 神は人々に恵みをもたらす大自然であり、いっぽうでは大自然は、人々に災いをもたらした。要するに神とは「和」と「荒」の両面性(ただしそれは、けっして「善」と「悪」の両面性ではない)をもっていたのであり、前者を「神」、後者を「鬼」とも表現した神と鬼の根は同一であり、人々はひたすら、神の怒りを鎮めるために、神を祀り、祈ったわけである。

 このような日本における神の二面性がはっきりと分かると、「天皇」の不可侵性の真相が理解できるようになる。

 現人神である天皇は、要するに人々に幸をもたらす神であると同時に、いっぽうで「祟る神」そのものである。だからこそ人々は天皇を敬い、また、天皇が豊穣を祈った「稲種」をもらいうけて耕し、そのお礼に天皇に収穫物を奉納し(これが古代律令制度の「税」の根幹理念である)、神の祟りを和らげようと必死になったわけである。

 

謎に満ちたヤマトタケルの活躍――古代史の英雄の裏側

ヤマトタケルといえば、悲劇的なヒーローのイメージが強い。もちろんそれは、『日本書紀』や『古事記』のなかで、ヤマト帰還を夢見ながら、道半ばで帰らぬ人となったと記されているからである。

 

しかし、ヤマトタケルは、単なる悲劇のヒーローではない。ヤマト朝廷誕生の黎明期の謎を解き明かすためのヒントを背負った人物である。

 ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子であり、南部九州の熊襲や東国のまつろわぬ者どもを平定した人物と『日本書紀』や『古事記』には描かれている。ヤマトタケルの活躍をみて、ふと思い出すのは源義経である。なぜならば、軍事において天才的才能を発揮し、敵をなぎ倒したにもかかわらず、無念の晩年を迎えるところに、共通点を見いだせるからだ。では、なぜヤマトタケルは非業の死をとげたのだろう。

 まず不可解なのは、ヤマトタケルが前半生と後半生で、まったく別人であるかのような行動をみせていることである。さらに付け加えるならば、ヤマトタケル熊襲征伐に差し向けられるきっかけが不審である。

 

手に負えない乱暴者ヤマトタケル――

景行天皇が南部九州の熊襲の反乱鎮圧にヤマトタケルを遣わしたのは、たんにヤマトタケルが勇猛な武将だったから、というわけではない。ヤマトタケルを遠ざけたかったのだ。

 きっかけは、ヤマトタケルの兄・大碓命(おおうすのみこと)が朝廷に出仕してこないため、景行天皇ヤマトタケルに「教え諭せ」と遣わしたことであった。その後五日たっても大碓命が現われないので不審に思った天皇は、ヤマトタケルに事情をたずねた。すると、兄が厠に入ったところを捕まえて、手足を引き裂き、薦(こも)に包んで捨ててしまった、というのである。ヤマトタケルの荒々しい気性を恐れた景行天皇は、ヤマトタケル熊襲征伐に向かわせるのである。

 

熊襲征伐といい、出雲建(いずもたける)殺しといい、要するにだまし討ちにしてしまったのであり、とても褒められた行為ではない。ところがその荒々しい性格のヤマトタケルが、こののちまったく別人となってしまうのである。

 出雲からヤマトに帰還したヤマトタケルを待ち受けていたのは、東国征討の命令だった。「父は私に死ねというのか」そう嘆き、ヤマトタケルは東国に赴いたのである。

 

なぜヤマトタケルは悲劇の皇子なのか――

・結局、ヤマトタケルはこののち東北南部まで平定し、ヤマト帰還の途中、非業の死を迎える。前半生の卑劣な行為と後半生の英雄像は、まったく相容れないのである。

 ここにヤマトタケルの謎がある。いったいこの人物は何者なのだろう。仮に八世紀の『日本書紀』編者の創作ならば、この「神話」を通じて、何を伝えようとしたのであろうか。

 不思議なのは、ヤマトタケルのそっくりな神が存在することである。それが、出雲神話スサノオなのだ。

 スサノオは皇祖神・天照大神の弟だった。しかし、スサノオの乱暴狼藉は度を超していたので、天照大神スサノオ高天原を奪う腹づもりがあるとみて、追放する。

 ところが、いざ地上界に降り立ってみると、スサノオは心を入れ替えたように、出雲の国を建国していくのである。

 

浦嶋子(浦島太郎)――古代の有名人・浦嶋子

歴史に裏付けされた浦島伝説

・浦島太郎といえば、「お伽噺」という印象がある。だが実際には、浦島伝説は『日本書紀』のみならず、『万葉集』『風土記』といった、古代の一級の資料に載る物語なのである。

 『日本書紀雄略天皇22年7月の条には、丹波国(のちの丹後)余社郡(京都府与謝郡)管川(同郡伊根町筒川)の人・瑞江の浦嶋子が舟に乗って釣りをしていると大亀がひっかかり、これが女人に変じたこと、浦嶋子は喜んで妻にし、海に入り蓬莱山(ほうらいさん)にいたり仙衆(仙人)に出会ったことが記されている。そして詳細は、別巻に詳述してある、とする。

 

・『丹後国風土記逸文には、丹後国与謝郡の住人・日下部首(くさかべのおびと)の先祖が筒川の嶋子(浦嶋子)で、雄略天皇の時代、やはり亀が女人に変じ、嶋子を蓬莱山へ導いたといい、今日に伝わる浦島太郎のお話とそっくりな伝承が載せられている蓬莱山で三年を過ごした浦嶋子は故郷に戻るが、三百年の時がたっていた。寂しくなり、別れ際に女人から「もし私に再会したいのなら、開けてはならない」と渡された玉匣(たまくしげ)(玉手箱)を、つい開いてしまうと、浦嶋子は風雲とともに、たちまち老人のようになってしまった、というのである。

 いったい、なぜ浦島太郎の話を八世紀の資料は無視できなかったのだろう。浦島太郎の話が、歴史に何か重要な意味をもっていたのであろうか。

 

万葉歌人はなぜ浦島を歌にしたのか――

・『万葉集』巻9―1740は、高橋連虫麻呂の歌で、浦島伝説をうたっている。『風土記』の記述と違うのは、舞台が「墨江(大阪府住吉)」に変わっていることで、女人に出会った浦嶋子は、常世(海神の宮)に行ったといい、結末もそっくりである長歌のあとに反歌があって、その大意は、「常世国に住んでいればいいものを、自ら望んだとはいえ、なんと間抜けな男なのだ」というものである。

風土記』も『万葉集』も、どちらも地上にもどってしまった浦嶋子を、愚かなやつだ。と笑っている。これはいったいなんだろう。

 さらに、これまで指摘されてこなかったが、『古事記』にも、浦島太郎らしき人物が出現している。事代主神(ことしろぬしのかみ)の項で触れたが、神武天皇が九州日向の地からヤマトをめざしていたときのことだ。瀬戸内海を東に向かうと、あちらから亀の甲に乗り釣り竿をもった男がやって来た、とある。それが浦嶋子であったとは記されていないが、釣り竿をもった男がやって来た、とある。それが浦嶋子であったとは記されていないが、釣り竿をもち亀に乗った男といえば、浦嶋子の典型的な姿にほかならない。ヤマト建国のちょうどそのとき、なぜ「浦嶋子もどき」が神武天皇の目の前に現われたのであろう。

 浦嶋子伝承は、たんなる神仙思想の物語に過ぎないとする説が根強い。しかし、この伝承が海幸・山幸神話にそっくりなところから、話は思わぬ方向に進むのである。

 

海幸・山幸神話――海の神に呪われた天皇家

浦島伝説とそっくりな神話

海幸・山幸神話は、天皇家の祖神の物語である天孫降臨を果たした天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのにににぎのみこと)は、ここで大山祇神(おおやまつみのかみ)(山の神)の娘・木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶り、生まれた子が、火蘭降命(ほのすそりのみこと)と彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)であった。兄が海の漁の得意な海幸彦で、南部九州の隼人の祖。弟が狩猟の得意な山幸彦で、天皇家の祖となる人物である

 

・海幸・山幸神話のあらましは次のようなものだ。

 ある日、ためしに兄弟の幸を交換しようということになったが、二人ともうまくいかなかった。それどころか山幸彦は兄の釣り針を失い、兄は許そうとはしなかった。困り果てた山幸彦が浜辺をさまよっていると、塩土老翁なる人物が、「心配なさいますな。私にいい考えがございます」といって、山幸彦を籠に入れ、海神の宮に誘ったそこで海神の娘・豊玉姫に出会い、釣り針も見つかった。満ち足りた三年をそこで過ごしたが、つい故郷が恋しくなった豊玉姫は、山幸彦の帰郷を許し、兄を懲らしめる呪術を授ける。そして別れ際、妊娠しているので、海の荒れた日に産屋をつくって待っていてほしいと願う。はたして、豊玉姫は海岸に現われ、産屋で子を産み落とす。このとき、「見てはいけない」という豊玉媛の固い戒めを破り、山幸彦はつい産屋をのぞいてしまう。すると豊玉姫は八尋熊鰐(やひろわに)の姿となっていた。豊玉姫はひどく恥じ、海と陸の道を閉ざして、海神の宮に帰っていったという。

 

海幸・山幸神話と「豊」

・海幸・山幸神話のモチーフが浦島太郎伝承と同一なことは、あらためて述べるまでもあるまい。海神の宮で女人に出会って三年を過ごし、ふるさとに帰って、「見てはいけない」というタブーを犯して、二度と海にはもどれなくなってしまった、というあらすじである。

 海幸・山幸神話には、古代史を探る上で、二つの重要なヒントが隠されているように思えてならない。その一つが塩土老翁であり、もう一つが、海神の娘の名・豊玉姫である。

 

あらためて述べるまでもなく、豊玉姫天皇家の祖神であり、しかも「国母」といっていい。ところが、その国母が天皇家の祖にあたる山幸彦=彦火火出見尊を恨んだ、というのである。浦島伝承はこれに当てはめれば、愚かだったのは彦火火出見尊の方だったことになる。実際、タブーを犯したのは彦火火出見尊の方だ。

 

神話と神話をつなぐ「豊」玉姫
海幸・山幸神話と豊受大神伝承の間には、いくつもの接点が見いだせるのである

 豊受大神を祀る京都府宮津市の籠(この)神社には奇妙な伝承が残されている。それによれば、豊受大神が影向(ようごう)(神や仏が人の姿に身をやつし現われること)したとき、天橋立の松の梢の上で、大きな籠のような形をし、光り輝いていたというのである。「籠」といえば、山幸彦が塩土老翁に乗せられた籠を思い出す。「カゴメ」は亀甲であり、浦嶋子の乗った亀にもつながる。

 さらに、豊受大神は天の羽衣を盗んだ翁にひどい仕打ちを受け、翁の家を飛び出している。その翁が塩土老翁だったという言い伝えもあり、海幸・山幸神話に登場するのも塩土老翁であった豊玉姫は山幸彦の仕打ちに恨みをもち、豊受大神塩土老翁の裏切りに涙したわけである。ちなみに、塩土老翁の「ツツ」は、住吉大社の祭神「筒男」の「ツツ」と同一で、「筒川の男」が浦嶋子だった。

 どこからみても、海幸・山幸神話、浦嶋子伝説、天の羽衣伝承はよく似ている。これはなぜだろう

 

豊受大神(とようけのおおかみ)――なぜ伊勢神宮の祭神を『日本書紀』が無視するのか

忘れ去られた女神

伊勢神宮といえば天照大神(内宮)を祀る神社として名高いが、外宮には豊受大神という女神が祀られていることは、あまり知られていない。豊受大神が伊勢に祀られるようになったいきさつについて、『日本書紀』は何も説明をしない。それどころか、豊受大神の存在自体を、『日本書紀』は無視している。

 

塩土老翁(しおつつのおじ)(塩筒老翁・塩椎神)――神話の怪人

謎に満ちた神話上の怪人

神話のなかには星の数ほどの神々が登場するが、塩土老翁ほど謎に満ちた神もいないだろう。

 海幸・山幸神話に登場することはすでに触れたが、塩土老翁の初見は『日本書紀』神代下第九段一書第四でのことだ。天津彦彦彦火瓊瓊杵尊が日向の高千穂に天孫降臨をし、その後吾田の長屋の笠沙碕(かささのみさき)にいたったとき、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)なる神が現われ、この地に国のあることを教え、さらに、その国を「詔に従い」献上した話があるここに登場する事勝国勝長狭が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁といったとある。

 塩土老翁はその後、神武東征の直前、『日本書紀』に姿を現わす。

 神武天皇(神日本磐余彦)は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)の孫に当たる。まだこの人物が九州の日向にいたときのこと、塩土老翁が次のように述べたという。それによれば、「東の方角(ヤマト)に美しい国があります。四方を青山に囲まれ、そのなかに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がすでにおります」というのだ。これを聞いた神武天皇は、かの地が国の中心にふさわしいこと、飛び降りた人物は饒速日命(にぎはやひのみこと)(物部氏の始祖)にほかなるまい、として、自ら東征し、都にしようと思い立った、というのである。

 このように、ヤマト建国の端緒は、塩土老翁の一言から始まったのである。

 

住吉大社塩土老翁

塩土老翁の「塩」は「潮=海」を意味し、「土」は「筒・ツツ」で、これは住吉大社の祭神・筒男命(つつおのみこと)の「筒」と同じである。一説に、「ツツ」は「星」であり、航海をするための天体観測と関係があるともいわれている。住吉大神が日本を代表する海の神であるように、塩土老翁も「海」の属性に満ちあふれている。そして江戸時代以来、塩土老翁住吉大神は同一なのではないかとも考えられている。住吉大社の伝承でも、塩土老翁住吉大神に代わって国見をした、とある。

 

丹後半島の浦島伝説は豊受大神伝承と重なり、その豊受大神には塩土老翁がからんでいた。

 なぜ塩土老翁は、多彩な活躍をみせたのだろう。

 ここでもうひとりの古代史の怪人を登場させなければならない。それが、蘇我氏の始祖・竹内宿禰(たけのうちのすくね)である。竹内宿禰は三百歳の長寿を保ったといい、実在が危ぶまれるという。しかし、その姿はどこか塩土老翁を彷彿とさせるものがある。

 たとえば、武内宿禰神功皇后の忠臣として活躍したが、神宮皇后はどうした理由からか「豊」と密接な関係をもっている。神功皇后の父は「海神」だったという伝承も残される。とするならば、神功皇后の姿は豊玉姫と重なり、これを輔弼した武内宿禰は、塩土老翁に似てくる。

 

天日槍(あめのひぼこ)(天の日矛(あめのひぼこ))――日本中を暴れまわった渡来人の象徴

混乱する天日槍伝承

・天日槍は、朝鮮半島から渡来し、日本で大活躍した人物として『日本書紀』に描かれている。他の渡来系氏族とは違い、相当暴れ回ったらしいことは、『古事記』や『風土記』の記述からも知られる。

 『日本書紀』には次のようにある。垂仁天皇三年の春三月、新羅王子・天日槍は神宝を携えて日本にやってきた。その理由は、日本に「崇神天皇」がいるから、というものであったが、すでに崇神天皇崩御したあとだった。

 

ひとりの人物を二つに分けた不可解

・『日本書紀』と『古事記』の天日槍伝承は、まったく異なる。ところが、『古事記』の天の日矛伝承は、『日本書紀』の天日槍の話の直前に登場する伽耶王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話とほとんど同じ内容なのだ。なぜこのようなことが起きたかというと、一般には、天日槍は都怒我阿羅斯等を神格化したものにほかならない。

 

・しかし、これでは、天日槍の謎を解くことはできない。本当の問題は、本来ひとりの事績であったはずの物語を、なぜわざわざ『日本書紀』は、二人の人物に分解してしまったのか、というところにある。そこに作為があったとしたら、天日槍の正体は闇に葬られた疑いが出てくる。

 

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(高皇産巣日神(たかみむすひのかみ))――モデルは藤原不比等

日本書紀』神話に隠されたもうひとつの謎――

・出雲の国譲り、天孫降臨を主導したのは天照大神という女神であったという印象が強い。また、天照大神が日本最高の社格を誇る伊勢神宮に祀られているところから、その存在感が他の神を圧倒していることも事実だ。しかし、実際に天孫降臨の構想をプロジュースしたのは、高皇産霊尊という神だった。

 

・『古事記』と『日本書紀』の一書は、天地創造のとき、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や神産巣日神(かみむすびのかみ)とともに高皇産霊尊が現れた、としている。

 

神話に隠された二重構造

・神話を読み解くに際し、われわれは二つの点に注意しなければならない。それは、神話が三世紀のヤマト建国の歴史と八世紀のヤマト朝廷の政争、これら二つの事実を反映している可能性が高いことである。

 とくに問題なのは、八世紀の『日本書紀』編纂時の政権がいかなるものであったか、ということであろう。というのも、高皇産霊尊の活躍は、まさに八世紀の為政者・藤原不比等の姿とまったく重なってくるからである。

 

不比等天武天皇崩御後、持統天皇に大抜擢された。不比等持統天皇を新たな王朝の始祖に位置づけるため、神話を構築するに際し、天照大神という女神を創作し、持統になぞらえた。そして、持統天皇の子・草壁皇子が即位することなく没すると、孫の文武天皇の即位に邁進し、さらには、文武天皇不比等の娘の間の子・聖武天皇の誕生に全精力を注ぎ込んだのである。このような八世紀の政治情勢がそのまま神話となって、天照大神高皇産霊尊という神々が生み出されたと考えると、多くの謎が解けてくるつまり高皇産霊尊とは、持統(天照大神)の孫や曽孫の即位をプロジュースした不比等そのものなのである。