日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

日本では、2011年に「東日本大震災」がございました。これは、その前の年に、天照大神様からも霊示による警告を戴いており、当時の民主党政権下の政治の乱れなどの原因があったかと思います。(2)

 

 

『日本のオカルト150年史』

日本人はどんな超常世界を目撃してきたのか

秋山眞人  布施泰和  河出書房新社  2020/2/22

 

  

 

空飛ぶ円盤 アメリカで報告され、米軍が研究機関を設立

・そのようなときに、海外から飛び込んできたのが、UFOの目撃ニュースである。これを契機にして、オカルトは宇宙を舞台に発展していく。

 

・この飛行物体は、アーノルドの試算で時速約2700キロの高速で移動していた。当時のジェット機ではあり得ないスピ―ドであった。しかもその9個の物体は、鎖のようにつながって飛び、その編隊を崩すことなく、数秒の間隔を置いて急降下と急上昇を繰り返し、ジグザグに飛行したのだ。

 

・こうしたUFO目撃事件が相次いだため、この不思議な現象の正体を突き止めようとする動きも強まった。1947年には米空軍技術情報本部に、UFO問題を専門に研究するグループ「プロジェクト・サイン」を発足させた。有名な米雑誌『トゥルー』も、海兵隊空軍の退役将校ドナルド・E・キーホー少佐に調査を依頼、半年間の調査の結果、「空飛ぶ円盤は実在する」という記事を掲載した。キーホー少佐はそのなかで、空飛ぶ円盤が地球外の天体から飛来している他の知的生物が乗った宇宙艇に間違いないと主張した。

 

UFO アメリカの目撃談は多くの日本人に衝撃を与えた

・実は、こうした空飛ぶ光体の目撃例は、アメリカでUFOが目撃される以前からあった。有名なのは、太平洋戦争中にしばしば日本やドイツの上空で目撃され「フーファイター」と呼ばれた謎の戦闘機だ。

 それ以前にも、「空飛ぶ謎の物体」などは日本では当たり前のように目撃されていた。「人魂」とか「火の玉」などと呼んで、みんなで空に向かって呼び掛けたら、不思議なものが飛んできたというような話は無数にあった。今日のUFOを思わせる物体が着陸したというケースもあった。徳川家康は、宇宙人を連想させるような「河童」と出会ったという話も伝わっている。

 つまり、日本では「UFO」が飛んでいるのは当たり前であったのだ。

 

日本のUFO報告  三島由紀夫石原慎太郎も研究会に参加

・国内におけるUFO目撃例を記録した本も出ている。1958年に朝日新聞が発刊した『バンビ・ブック 空飛ぶ円盤なんでも号』だ。そのなかで「日本空飛ぶ円盤研究会」の荒井欣一代表は、信頼できる目撃例を報告しているので、主なものを列挙しておこう。この内容は、いま見ると改めて驚異的である。

 

<1947年7月9日>鹿児島県で警察官がT字型飛行物体を目撃。日本で最初に新聞で取り上げられたケース。

 

<1948年2月1日>新潟管区気象台長土佐林忠夫氏が月の半分くらいの大きさの物体が飛んでいるのを目撃。

 

<1948年8月2日午前5時すぎ>函館で国鉄機関区助役の鈴木満次氏ほか4名が、円盤状の飛行物体を目撃。

 

<1952年3月29日午前11時20分ごろ>在日アメリカ空軍パイロットのデヴィド・C・ブリンガム中尉がジェット機に乗って北日本の上空を飛行中、円盤状の光る物体が突進してきて衝突直前にほぼ直角に曲がり、ジェット機の前を横切り、垂直に上昇して視界から消えるのを目撃した。

 

<1952年12月29日午後8時ごろ>米軍の戦闘機隊指揮官ドナルド・J・ブレークスリー大佐がF-84で飛行中、青森県淋代の東方海上約8キロの上空で、赤、白、緑の光を放って飛ぶ物体を発見。

 

<1953年1月9日>F-84戦闘機に乗っていた米軍パイロットのメルヴィン・E・コナイン中尉が、変光して飛行する物体を目撃。

 

<1956年5月18日夜>東京・高尾山の見晴らし台でキャンプ中の店員2人が、オレンジ色に光る、お椀を伏せたような物体1機と、その後ろにその半分の大きさの球状の物体2機が編隊を組んで、自分たちの方に向かってくるのを目撃。

 

<1956年7月27日午後3時ごろ>福島県会津農林高等学校の物理学の教師・佐藤健壮氏が天文班の学生数名と太陽黒点の観測をしていたところ、太陽の周りを扁平楕円形の白く光る物体が飛び回っているのを目撃。

 

<1956年8月11日午後11時ごろ>広島県福山市の親子が自宅の庭から異様な光体群がV字型やU字型の編隊で空を飛び交っているのを30分以上にわたり目撃した。

 

<1957年11月7日夜> 岡山市の就実高考の屋上で、同校の地学教師・畑野房子氏が生徒10数名と月食の観測をしていたところ、ボーッと光る白い球状の物体が数度にわたって飛び交うのを目撃した。岡山市ではその後も同様の目撃が相次ぎ、目撃記録は翌58年8月までの9か月間で100件を超えた。

 

・これらの大きな流れのなかで、1955年7月1日には、前出の荒井欣一氏が「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足させた。同会には、作家の三島由紀夫北村小松石原慎太郎といった名士も多く参加しており、本格的なUFOブームが到来したのである。

 

海外流出した日本のオカルト 戦勝国の米ソは何に注目し、本国に持ち帰ったか?

・そうした目に見える流行とは別に、戦後の10年間は日本のオカルト文化や技術が、静かにそして密かに海外に流出した時期でもあった。

 

その研究対象のなかには、旧日本軍が研究していた電磁波兵器もあったことは想像に難くない。そして電磁波と超能力を結びつけ、ロシアは電磁波兵器の研究を推進させてゆく。おそらく、旧日本軍の初期の電磁波兵器の研究内容を参考にしたのではないかといわれている。

 

電磁波兵器 日本軍のオカルト的秘密研究は海外に流出した‼ 

・たとえば、旧日本軍の特殊な鉄をつくる現場で働いていたとされる楢崎皐月は戦後、「イヤシロ地」と「穢れ地」という概念を提唱して、製鉄所の立地によって同じ原料の鉄でも、より硬い金属ができる場所とできない場所があることを発見したという。楢崎はまた、兵庫県の山中で「カタカムナ文字」という成立期不明の謎の文字を宮司から伝授されたと主張していることでも知られている。そうした啓示を受けて、それを農業に応用したのが電子農法であった。

 

・その楢崎が軍で研究していたということは、軍も電磁場のことに少なからぬ興味をもち、研究していたということになる。実際に戦時中は、「勢号作戦」という電磁力兵器を使った作戦が水面下で進行していた。その兵器は勢号兵器、Z兵器とも呼ばれた。戦争中、国威発揚のために子供の科学雑誌の付録として付けられていた絵葉書には、「三点交差」と思しき光線が、コイル状の装置から発射される写真が印刷されているものもあった。

 

・1990年に私が初めてロシアにいったとき、そういった装置を開発する研究は依然として続けられており、実際に装置も見せてもらった。スイッチをオンにすると、「ビーン」という音が聞こえ、周りの人たちが一斉に気持ち悪くなった。頭蓋骨の平均的な横幅に共鳴する特殊な電磁波であると話していた。その研究の被験者になった人たちを専門に収容する精神病院をつくっているという話も聞いている

 ところが、ソ連崩壊後の1993年に再びロシアを訪れたときには、実験室はすでに蛻の殻で、アメリカの軍事産業企業が、それらのシステムから人間まで全部買いとった後であった。その後、いきなりアメリカの「HARP(ハープ)計画」が明らかになった。表向きはオーロラを研究するため高周波を照射して電離層に熱を発生させるなどして電離層の現象をコントロールする実験とされているが、電磁パルス攻撃、気象兵器、マインド・コントロールなどにも応用できると考えられている

 電磁波研究の現場で光線兵器の研究にかかわっていたといわれているが、「日本超科学学会」を設立した橋本健であった。彼が戦後はオカルト研究に深くかかわっていくのは偶然ではない。

 旧日本軍が超能力と電磁場の研究を進めていたのはまず間違いなく、当時の日本はオカルト研究の先進国であったように思われる

 

竹内文書  『記紀』とは異なる超古代文明の痕跡をGHQが調査した ⁉

・戦前、旧日本軍が、当時の国体における正史を守るため、正史以外の歴史にかかわるような、全国の謎の巨石建造物や古い神社を多数、爆破したり破壊したりして歩いたという話を聞いたことがあるからだ。

 

・旧日本軍はなぜそのような行動に出たのか。その答えはおそらく、電磁場の研究からイヤシロ地のような場所があることに気づき、そこへいくと謎の神が祀られた神社があることに気づいたからではないだろうか。つまり、どうも自分たちよりも古い民がいて、しかも彼らが渡来系であったことがわかってしまった可能性が高い。

 それは、万世一系天皇を掲げる軍部からすると、消し去りたい事実であったに相違あるまい。

 旧日本軍が破壊した遺跡のなかでもっとも有名なのは、現地の人たちが語りたがらないが、富士山の南側にある愛鷹山山中の神社と巨石群だ愛鷹山には、五色人を祀っている神社があったらしいが、いまは跡形もなくなっている。

 巨石文化の名残りはあるが、旧日本軍が村人を銃殺したとの話も残っており、巨石文化の調査はほとんどおこなわれていない。

 静岡周辺には、そのような話がいくつかあり、巨石を使った「謎の文明」の痕跡が多い。おそらく、戦前において、そうした歴史が隠されてオカルト化されたのだと思われる。

 

科学とオカルト

・奥行きのいちばん奥にいる神と、いちばん手前にある好奇心との間に「科学」や「物質主義」という番長が立ちはだかって、通行料を取るようになったという感じがしなくもない。そのようなイメージを私はもっている。

 

聖母マリアの出現問題

中世から近世にかけての欧米で破竹の勢いで急伸したキリスト教世界においても、困ったオカルト問題が出てきた。

 19世紀半ばごろから始まった、「ファティマの予言」に代表される一連の「聖母出現」である。のちにカトリック世界で「マリアの時代」と称されるきっかけとなった聖母出現問題をめぐって、キリスト教の権威者は、大いに頭を抱え込んだに違いない。

 

・最初期の現象は、1830年11月27日 に発生した。フランスのパリ7区バック街の「愛徳姉妹会」のカトリーヌ・ラブレという修道女の前に聖母が現れ、お守りとしてのメダル鋳造のメッセージを託し、メダルの表と裏に彫るべき図柄のメッセージを視覚化して伝えたというのである。2年後に、パリ大司教が許可したそのメダルが頒布されると、あちらこちらで奇跡や回心が起きたと大評判になったのである。

 その後、聖母出現はヨーロッパで、1846年のラ・サレット、1858年のルルド、1865~67年のイラカ、1866年のフィリップスドルフ、1871年のポンマン、1879年のノック(以上、フランス)、1917年のファティマ(ポルトガル)、1932~33年のボーレン(ベルギー)、1933年のバヌー(ベルギー)と20世紀にかけて相次いで発生した。1830年から1967年までの137年間に各地司教区調査委員会の検討に委ねられた件数だけでも187件に達し、うち11件が教会の許可を得て、マリア巡礼地の資格を獲得しているという。

 そのなかでもとくに有名なのは、ルルドの聖母出現事件だ。

 

四次元と超能力

・霊を信じる人たちからすると、私が交信している人は、4次元どころか6次元だとか8次元だとかを主張する人すら出てきた。次元が上にいけばすごいのではなくて、「次元」はあくまでも物理学の用語にすぎない。精神世界の人たちはサービス精神旺盛で、科学にすり寄ったり、科学の用語を使おうとしたりすることが多くなり、より混乱が生じたように思われる。現象をエネルギーで説明しようとするいまの科学で、オカルト的現象を測定できると考えたことも、混乱に拍車をかけた。

 

高度成長期  オカルトが物質文明に反旗を翻す

「リンゴ送れ、C事件」 広い支持を集めながらオカルト化したUFO団体の悲願

・オカルト運動が顕著になるにつれ、社会問題化する事件も発生するようになった。

 

事の発端は、CBAの松村雄亮らが、1962年ごろまでに地軸が傾くことによって地球規模の大災害が発生すると信じ込んだことから始まった。その「来るべき日」がきたら会員には事前に知らせるので、宇宙船に救出されるために集まる合流地点Cに、いざとなったら集合する取り決めをしたのだ。

 その事前に知らせる合図の電報の文言が「リンゴ送れ、C」であったので、後日、事件名として有名になったが、問題となったのは、この取り決めがメディアにリークされ、産経新聞などの媒体に「終末論を語るカルト」の団体のように書き立てられたからである。周知の通り、「来るべき日」が1962年までにくることはなかった。

 

「宇宙友好協会」の功績 のちのUFO研究の発展と普及に大きく貢献

・そうした負の面もあったが、同時に、UFOをテレパシーで呼ぶという、当時多くのコンタクティーが主張した現象や宇宙語を紹介したのも彼らである。たとえば、宇宙語の「ベントラ」は宇宙人の宇宙機を表す言葉で、地球のことを「サラス」と呼ぶと主張した

 これらの言葉は、私が知っている宇宙語とも矛盾しない。サンスクリット語にも「デベントラ」という、宇宙を表す、似たような言葉があることがわかっているし、古代インド語では「サラス」は水と音の女神であった。いわゆる芸能の神様で、日本の弁財天は「サラスバティ」と呼ばれている。非常に共通点があって面白い。その「サラス」から「ベントラ」と繰り返し唱えて呼び掛けるとUFOが現れるという現象を、CBAを通じて、多くの人が体験したといわれている。

 

オカルト批判とカルト  「リンゴ送れ、C事件」が残した教訓は

・なにかネガティブな事件があると、はじめは肯定的な人も、みるみる立場を変えて“批判派”に転じていくことは多い。「リンゴ送れ、C事件」は、確かに批判されても仕方ない要素はあったが、だからといって宇宙友好協会のそれまでの活動や功績のすべてを否定してよいかといえば、それはまったく違う。

 

・「国際銀行家」とウィリアムソンが呼ぶ人たちが世界的にUFO情報を隠しているのだということをずっと以前から指摘していたのも、彼であった。彼はそのことを『UFO・コンフィデンシャル』という本のなかで書いている。

 

秋山眞人のコンタクティー体験

 

 ▼(別の惑星への訪問と帰郷)

その惑星は本当にすばらしい桃源郷のようなところであった。だが、滞在3日目になると、急に地球が恋しくなったのだ。それを彼らに告げると、私の使命は地球にあることを気づかせるために彼らの惑星に呼んだのだというような趣旨のことを話して、私を再び地球に戻してくれた。現地での滞在は丸2日間(約48時間)であったが、地球に帰ると2、3時間しか経過していなかった。

 その後も彼らとの交流は続き、現在に至っているのである。

 

1970年代  超能力・UFO・大予言……1億総オカルト化

ネッシーツチノコ 学者や文化人もこぞってロマンを追いかけた

・1970年7月20日には、戦前のオカルティスト・酒井勝軍が「太古日本のピラミッドである」と称した「葦嶽山」に近い広島県比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)で、獣人型UMA(未確認動物)「ヒバゴン」の最初の目撃報告があった。その後4年間、目撃情報が相次ぎ、メディアを巻き込んだ騒動となった。

 

1980年代  精神世界と自己啓発が密接に結びつく

精神世界とビジネス 自己向上を目指す人々がセミナーに通う現代

・そういった人たちの欲求にうまくはまったのが、アメリカからやってきたダリル・アンカ氏のチャネリングと、そのチャネリング相手の宇宙存在バシャールであった。なにしろ宇宙が相手になるのだから、段階も無限にある。

 では、バシャールが何者かというと、三角形のUFOに乗り、物理的には不可視の惑星エササニからきた宇宙存在ということである。

 

・バシャールとのチャネリングで説かれるメッセージは、基本的にはアメリカで当時流行っていた自己啓発セミナーの延長線上にあり、キャッチフレーズは「宇宙はワクワクすることを望んでいる」であった。ワクワクすることをやれば、宇宙的な拡大を感じることができる、と説いた。

 

超能力者とUFO、幽霊の関係

ユリ・ゲラー氏はスプーン曲げなどの超能力では有名だが、コンタクティーであることはあまり知られていない。ユリ自身が催眠状態で語ったところによると、ユリは幼いころ、「ゆっくりと音もなく流れ落ちる、巨大な球形の物体」を見ている。その球体の前に、長いマント姿の大きな「人間の影のような物体」が現れ、その頭の部分から目が眩むような光線が発射されて、ユリに当たった。それ以来、超能力が開花したという。

 またユリは、地球から5306兆9000億光年離れた「スペクトラ」という宇宙船にいる「ザ・ナイン」という宇宙人グループとテレパシー交信を続けているとも話している。

 

オカルト真贋論争 目撃者・証言者に振りかかる厳しいバッシング

・オカルト事件が起きると、非常に厳しいプレッシャーが当事者に加わることが常であった。

 たとえば、1986年11月17日に発生した日航機機長によるアラスカ上空での巨大UFO遭遇事件である。この事件は、パリ発ケプラヴィーク、アンカレッジ経由成田行の日航機の貨物便が、アラスカ上空で、自機の3~4倍もある巨大なUFOに1時間近くにわたってつきまとわれたという。 それを報告したがために地上勤務への配置転換を余儀なくされた、当時47歳だった寺内謙寿機長には相当の圧力が加えられたことが知られている。

 

1990年代 カルト教団の凶行がオカルトの転機に

奇跡のリンゴと超常体験

木村秋則氏は1949年11月8日、青森県岩木町(現・弘前市)のリンゴ農家に生まれた。機械いじりが好きな青年に育ち、ごく普通の生活をしていたが、高校生のとき不思議な体験をした。

 自転車にのって家に帰る途中、向かい側を歩く男性が突如動作の途中で動かなくなるという体験をした。そのとき、松の木の下に巨大なワニのような動物を見た。自転車を停めてよく見ると、それはヒゲだけでも自分の太ももくらいの大きさがある巨大な龍であった。龍は松の木の上に出て尻尾一本だけで立ち上がると、しばらくしてからそのまま飛び去ったという。

 龍が飛び去ると、不思議なことに、それまで停止していた男性が動き出し、すべてが元に戻ったのだという。私も経験したことがあるが、3日間別の世界で過ごしたのに戻ってきたら3時間しか経っていなかったということは、オカルトの世界ではよく起こるのだ。私はそれを「逆浦島現象」と呼んでいる。

 

・その3年後の1988年、木村氏はついに無農薬・無肥料のリンゴの自然栽培に成功した。その成功物語は2013年には『奇跡のリンゴ』として映画化され、大きな反響を呼んだ。実験田は、国連食糧農業機関(FAO)の世界重要農業資産システムに認定されている。

 

・実はこの成功ストーリーの背景には、数々の不思議な事件が起こっていた。

 

・バイクで帰宅途中、道をふさぐように二つの人影を見たことがあった。バイクを停めて目を凝らすと、130センチくらいの黒っぽい二つの人影と、猫の目のような形をした四つの目が見えた。とても人間とは思えず、足は宙に浮いていた。そのとき「危害を加える気はないから安心しなさい」という言葉のようなものが伝わってきたという。おそらく宇宙人がテレパシーで木村氏に伝えたのだろう。そのときはそれで終わった。

 リンゴの自然栽培に成功した数年後には、もっと強烈な体験をする。自宅2階の寝室で寝ていた木村氏がフッと目が覚めて窓の外を見ると、以前帰宅途中に見た「宇宙人に違いない二人」が宙に浮きながら、目をギョロッと光らせてこちらを見ていたのだ。木村氏は金縛りにあっても動けず、声も出せなかった。

 二人の宇宙人は、カギのかかっていたサッシをいとも簡単に外側から開けて、窓からなかに入ってきた。そして動けずにいる木村氏の両脇を二人で抱えて、拉致した。木村氏の記憶はここで一旦途切れる。

 

宇宙人によるアブダクト  夢や幻ではなかった確実な証拠とは

・次に目覚めたとき、木村氏は大きな建造物のような空間にあるベンチに座っていた。静かで音はまったくしていなかった。そのベンチには他に二人の人が座っていた。

 

・一人になった木村氏はベンチの上に上がり窓から外を見た。そこには「竪穴式住居がいっぱい並んでいるように、光がずらっと見えた」という。そのとき、例の二人がやってきて、今度は木村氏を両側から抱えて、建物の奥へと連れていった。

 途中、いくつかの部屋があって、最初の部屋には先ほど連れていかれた「海兵隊員」が、次の部屋には金髪の女性が、どちらも裸にされたうえに、ベルトのようなものでベッドに固定され寝かされていた。その周りにはたくさんの宇宙人がいて、二人を観察していた。

 自分も裸にされて調べられるのかと思ったが、連れていかれたのは操縦室と思われるスペースだった。真ん中には丸いレバーがあって、ピカピカ光っていたという。

 

・そのとき、テレパシーのように言葉が頭のなかに飛び込んできたと木村氏はいう。その内容は「われわれは、256のすべての物質を知っている。地球人が知っているのは120くらいで、そのうち使っているのは20とか30くらいだ」「われわれはケーという物質を使って時間を移動している」というものだった。

 宇宙人は、その「ケー」という物質を見せてくれた。それはB4サイズくらいの大きさの三角形で非常に重かったが、彼らは軽々ともっていたという。

 

・その後、木村氏は宇宙人から透明な丸い玉をもらった。海兵隊員と金髪女性もそれぞれ円錐形のものと四角いサイコロ状のものをもらったのを木村氏は見ている。

 そこから記憶が希薄になり、気がつくと両脇を二人の宇宙人に抱えられて自宅の窓の外にいた。そして彼らと一緒に部屋に入ったかと思うと、彼らの姿は忽然と消え、木村氏もそのまま眠ってしまったという。

 翌朝目覚めても、拉致された記憶は鮮明に残っていた。だが、もらったはずの丸い玉はどこを探しても見つからなかった。あれは夢だったのだろうか、と木村氏は一瞬訝ったが、夢にしてはあまりにもリアルだった。

 

宇宙人からの啓蒙

・木村氏の場合は、宇宙人がリンゴの自然栽培の方法を直接教えたわけではなかったが、いろいろ示唆を与えながら、なんらかの影響を及ぼしたと考えられる。

 木村氏のように宇宙人から示唆を受けたり情報を得たりして農業で活躍した人は、他にもいる。メキシコでも、宇宙人から導かれた地底人に教えられた巨大野菜の栽培に成功したオスカー・アレドンドカルメン・ガルシアである。それは宇宙にある未知の力を味方につけ、種子に宿らせる方法なのだという。

 

・そのようななか、私はUFOとのコンタクトの記録を公表するような宇宙人側から促されたこともあり、1997年に『私は宇宙人と出会った』という本を出版した。

 

オウム事件に端を発したオカルト批判が渦巻くなか、新たに宇宙人とのコンタクトを始めても声を大にできない「第二世代の子供たち」にとって、私の本が勇気づけるきっかけとなった可能性はあるのではないかと思っている。

 その証拠に、『私は宇宙人と出会った』という本は口コミだけでよく売れたと記憶している。それだけ宇宙人とのコンタクト情報に興味をもった人たちがいたということだ

 

大企業による超能力研究

・80~90年代に企業が超能力を積極的に活用しようとした流れについても、もう少し詳しく説明しておこう。

 本田技研工業の創設者・本田宗一郎は1989年、人づてに私を本田技研の朝霞研究所に呼び、私に講演をする機会をくれたことがある。そのさい私は、超能力の特別チームを研究所内につくるように依頼を受けた。

 

21世紀 猛烈な批判を浴びたオカルトの復権が始まった

相次いだカルト事件

・そして21世紀に入った2000年5月9日、「法の華三法行」の教祖・福永法源が詐欺容疑で逮捕される事件も起きた。

 自己啓発セミナーから出発し、宗教法人となったあと、霊感商法をおこなっていた。これもオカルトの事件に挙げられるが、われわれからすれば、法の華三法行は、オウム真理教同様、当初から問題があるカルトであった。オカルティストのほうが、カルトに対する問題意識が強く、オカルトに詳しくない一般の人ほどカルトにだまされるという現象が起きているように思う。

 

X-ファイル

・90年代当時、精神世界に影響を与えた米国ドラマシリーズが二本生まれた。一つはクリス・カーターが監督したサイコ・サスペンス『ミレニアム』、もう一つはSFドラマ『X-ファイル』だ。

 この二つのドラマには、当時ささやかれていた陰謀論からあらゆるオカルト現象までが全部、盛り込まれていた。

 

アメリカ発オカルト・ブーム

・かつて一部の“研究家”によって誤認説のレッテルを張られた日本のUFO目撃情報に、米政府関係者が「本物であった」という太鼓判を押す出来事もあった。

 9・11テロがあったその約4か月前の2001年5月9日。アメリカの首都ワシントンDCのプレスクラブでは、アメリカの政府や軍関係者ら約20人が集まって、UFO情報が一部の権力者によって隠蔽されていると暴露会見をおこなった。

 その会見では、日航貨物機を操縦していた寺内機長がアラスカ上空で目撃した事件について、当時の米航空局幹部が、寺内機長が見たUFOはレーダーにも捕捉されていたと証言。当時の航空評論家や一部メディアが主張した「機長の惑星誤認説」など陳腐な見誤り説を一蹴した。

 

陰謀論に興味を持つ女性たち  男性と女性の対立が超えるべき課題

・『ムー』の女性購読者数が上がってきたのも、そのころだと聞いている。聞くところによると、いま『ムー』購読者数の4割が女性であるという。以前は、ほぼ9割が男性購読者だった『ムー』が、この変わり様である。

 2011年に開設されたオカルト情報発信サイト『TOCANA(トカナ)』も女性が編集長を務めているのは、女性がオカルトに興味をもつようになったことを象徴する現象といえる。

 

情報の渦に惑わされないオカルト的生き方のススメ

・智の地平線を広げるためにも、まだまだ、われわれは勉強しなければならない。精神世界はそのためにある。モノの見方を狭めるのではなく、広げるために精神世界やオカルトはある。愛と智を広げる原動力そのものが、精神世界でありオカルトなのだ。オカルトの歴史は、人類が無限の地平線に向かって歩を進める限り、永遠に続くのである。

 

精神世界は社会の鎖

・その結果としてわかったのは、精神世界、オカルト、スピリチュアルと呼ばれる世界は、社会の不安や、一般大衆が無意識のなかで引っかかっていることが、現実の社会現象や物質世界より先んじて現れているということである。つまり、オカルト的な世界には、ある種の予言性があるのである。

 ノストラダムスの予言がどうだとか、これから出てくる予言者の予言がどうだとかいった話とは別に、オカルト界そのものが予言性や予知性をもっている。そのため、オカルト界で起きる現象をつぶさに見ていけば、意外にも未来の傾向がわかるのである。

 社会の裏面史や抑圧されたもの、大衆の不安、悲しみ、恐れといったものが、やはり抑えきれなくなると、最初にそれが現象として噴出してくるのが、オカルトの世界なのだと私は思う。オカルトは未来を読み解くバロメーターといえるのではないか。

 

 

 

『日本UFO研究史

UFO問題の検証と究明、情報公開

天宮清    ナチュラルスピリット  2019/1/20

 

 

 

  • 日本最古参のUFO研究家で、元CBA(宇宙友好協会)会員が、

60年以上に及ぶ空飛ぶ円盤・宇宙人研究の成果を集大成!

生涯をかけて追ったUFOや宇宙人の正体を明かす!

 

松村雄亮(まつむら・ゆうすけ)自らがコンタクトし、「緊急事態」を告げられる

・1959年7月10日、松村雄亮は東京における打ち合わせを済ませ、午後11時半頃、横浜桜木町に着いた。車を拾おうと思ったが、なかなか来ないので、人通りの少ない道を野毛の方へ歩いて行った。

「日の出町の交差点を左折し、しばらく行くと行く手の交差点から1台の車が曲って来て、その前照灯で3人の女性がこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違う時に見るともなく見ると一番左にいた女性が微笑みかけたように思われた、10メートルほど行き過ぎてから何となく気になってふり返ってみると、すでに3人の姿はかき消すごとくにそこにはいなかった。そして上空には、フットボール大の大きな円盤が横浜松竹の屋根をすれすれにかすめるごとく右から、左へゆっくりと街路を横切ったではないか。全身が凍りつく思いであった。では今の女性は宇宙人だったのだろうか。まさか!すぐ後を追った。そこはビル街で横へそれる道はない。1分とたたぬ間の出来事である。しかし彼女らの姿はない」

 

・まず最初は1959年1月16日午前10時ごろ、松村宅上空でゆっくり旋回する「スカウト・シップとおぼしき円盤」を撮影した事件である。当時まだ松村は、アダムスキーなどのコンタクト・ストーリーを信用していなかった。したがって、当然この円盤写真は幸運な偶然によって撮影されたものと考えていたという。しかしそのあと、同誌(『宇宙友好協会の歩み』)では「今から考えれば宇宙人が意識的に文字通りスカウトに来ていたものと思われる」という記述が続く。

 

・その後、家族と共に目撃すること数10回、1958年7月28日には再び自宅の庭で「スカウト・シップ」をカメラで撮影したという。そして最初のテレパシーらしきものを受信して以後は、相次いで不思議な出来事が起ったという。

 

宇宙人の女性・男性と会見する

・1959年7月17日、松村雄亮は東京における打ち合わせの後、夕方7時頃に横浜桜木町駅に着いた。駅前から市電に乗ろうとして、雨の中を停留所に向かう途中、7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた女性と再会する。茫然と立ちつくす松村に対し、彼女は誘導するごとく先に歩き出した。2人は野毛の喫茶店で相対して座った。

 年の頃は21、2才であろうか、ワンピースの上に首から下げた直径5センチメートルほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいること等を打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうと言った。この時2人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかった

 

・何か証拠が欲しいと思った松村は、目の前の美しい「宇宙人」に「今日の記念にあなたの胸にある装飾品をいただきたい」と申し入れたという。すると彼女はにっこり笑って「いずれ差し上げることもあるかもしれません」と答えた。

 

・1959年7月20日、夕方6時から東京・渋谷でCBAの理事会が開かれることになっていたので、4時頃、松村雄亮は渋谷・道玄坂を歩いていた。すると何者かに左肩をたたかれた。振り返ると品のよい外国人紳士が立っている。「一目見ただけでそれが宇宙人であることが諒解できた」。

 このときも「宇宙人」は松村を喫茶店へ連れて行く。この男性は「日本における宇宙人達のキャップであった」。このとき「宇宙人」から一つの約束が与えられた。それは、「来る25日高尾山頂に円盤が飛んだら、松村を円盤に同乗させる。もしその日に飛ばなかったら都合が悪いのだから後日を待って欲しい」というものであった。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ)ついに円盤に乗る

・翌26日の午前5時頃、山頂で解散。松村雄亮と丹下芳之は横浜まで同道し、午前8時頃そこで別れた。横浜線の車内ですでにテレパシーによって行くべき場所を指定されていた松村雄亮は、横浜駅から直ちに現場に向かったという。

 指定された場所では渋谷で会ったキャップを含めて3人の「宇宙人」が出迎えてくれた。街並みを外れて歩いていると、真っ黒な前方に薄く光る円盤が、浮かび出るように着陸していたという。

 近づいてみると、円盤の直径は30メートルぐらいで、上部のドームに窓はなく、下部は全体に丸みを帯びてギアは見当らなかった。側面の一部が開くとスルスルと梯子が伸びてきて、内部に入る。内部はいくつかの部屋に分かれているらしく、5坪ほどの部屋に招き入れられた。乗員は12名で、うち1人だけが日本語を上手に話し、他は皆英語しか話せなかったという。

 円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。しばらくして、ある一室に案内された。

 この部屋はかなり広く百畳はあったようだった。通路もそうだったが、照明が見当たらないが、かなりの明るさであったという。入った部屋の半分ほどを占める半円形にテーブルが並べられ、そこにずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央に長老と思われる宇宙人が座っていた。その正面にテーブルと椅子が一つ置かれていた。

 松村は緊張してその椅子に座った。宇宙人はみな首から裾まで垂れたガウンをまとっていた。右端の宇宙人が英語で話しかけた。問答はすべて英語で行われたという。

 この問答は三つの要点に絞られる。

 

緊急事態を新聞に発表しようとするも、宇宙人に止められる

  1. 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
  2. われわれとしては、将来の地球再建のために1人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
  3. 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい。

 

あらかじめ用意していた質問や円盤の中古品の話を出すどころではなかった。いきなりこのような話が始まり、その話題で終始したという。

 

・話し合いの間に果物と飲み物が出された。果物は刺身に似ており、赤、黄、緑、紫などの色のものが皿の上にきれいに並べられていたという。コップは上に向かって階段状に広がっている珍しい形であった。グレープジュース色の液体が入っていた。

 残念なことに果物には手をつける余裕がなかった。飲み物はいい香りがしたという。出発した地点に送り返されるまで、約7時間地球を離れていた。

 

・1959年8月18日の打ち合わせに参加したのは松村雄亮、久保田八郎、丹下芳之、小川定時、桑田力であった。「嘲笑されようとヤユされようと、新聞を通じなければ多くの人に知らせることはできない。とにかく事実を事実として新聞に発表しよう」と決めた。

 ところがこの日、松村雄亮が新橋駅に到着するや、宇宙人が姿を現し、「新聞を使ってはいけません」と言われてしまう。

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  1. 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  1. 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))