日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

日本では、2011年に「東日本大震災」がございました。これは、その前の年に、天照大神様からも霊示による警告を戴いており、当時の民主党政権下の政治の乱れなどの原因があったかと思います。(9)

 

<神と人間のおくりもの>

・祈りの際に人間はイナウや酒、団子、穀物、お菓子、くだものなどを神に捧げます。そのほか、タバコも捧げます。

 これらの供物は人々が作ったものですが、実はこれらを神は作ることができなく、一方的に人間から捧げられるだけだというのです。人間から神におくるプレゼントなのですから、イナウであれば丹念に削り作ったもの、食料であればよいもの、などを選んで捧げるのです。神はこのようなプレゼント品をことのほか好むと考えられています。

 神にとどくときには、人間がおくったものの数が何倍にも何十倍にも多くなり、イナウであれば神はそれを宝物としてだいじな箱にしまっておき、どっさり送られた食料や酒は多くの神々が招待を受けていただき、楽しい酒宴がおこなわれるといいます。神の国においては、このような人間界からプレゼントされる品々が多く、立派なものをおくられる神ほど、神の国における地位が高いとされるというのです。

 つまり、プレゼント品が多く、良質のものがおくられるということは、一面では、いかにその神が心ある人間から尊敬されているかということを示すものであって、それはとりもなおさず、神のステータスシンボルとなっているのだというのです。

 

いっぽう、神は何をするかというと、前述したように、人間の願いを聞いてそれを具体的に実行していかなければならないのです。そして、神が人間界に獲物を降ろすときも、人間が捧げるものが神の国で何十倍にもなるように、その数が地上にくる頃にははかりしれないほど多くなるといいます。神がさずける一頭のシカが地上では群れをなし、また一匹のサケが大群となって川を遡上して人間の里を訪れるのだ、というのです。

 

「あの世」に対する考え方

・人類学や民族学などでは、死後の世界に関する考え方なり概念を「他界観」といいます。「あの世について」という質問に対して説明するために、ここでアイヌの人々の他界観について触れてみましょう。ここでは、説明の便宜上、人間が現実に繰り広げる地上での生活の空間を「この世」と呼び、死後の世界空間、つまり死者の国を「あの世」と呼びましょう。

 アイヌの人々は、この世を「アイヌモシㇼ」(人間の国)と呼びます。どの地方でもアイヌモシㇼといわれることに変わりはありません。しかし、それでは、あの世はどこにあり、何というか、となると地方によって違いが認められます。北海道での事例をくまなく調べ上げたわけではないので、はっきりということはできませんが、あの世のどこに存在するか、という点ではおおまかにふたとおりの意識があるといえるでしょう。ひとつは「地下にある」という考え、もうひとつは「天上にある」という考えです。

 

・「地下にある」というあの世を「ポㇰナモシㇼ」(下の方の国)といい、これについては久保寺逸彦氏や泉靖一氏などの研究報文にもみられるところです。この意識は、日高地方の西部つまり沙流川流域を中心とした地方に伝承され、現在それを詳しく伝える古老も少なくありません。

 

他方、「天上にある」あの世に関しては、一般に「カムイモシㇼ」(神の国)といわれているようで、最近の信仰研究のいくつかの文献にも報告されています。それによれば、浦河や静内といった日高地方東部の古老は、天上にあるあの世のことを「アヌンモシㇼ」あるいは「アヌンコタン」と呼ぶといいます。

 

・ついでにもうひとつの違いをあげてみます。あの世が「地下」であるにせよ「天上」であるにせよ、それはこの世で人間として普通以上の人生を送った者の行く国で、悪業をした者は決してその国に行けず、草木も生えず奇怪な鳥が騒ぎ住む恐ろしい世界に落とされてしまうといわれています。あの世が「天上にある」という地方では、その恐ろしい国が天上ではなく地下にあって、それを「ポㇰナモシㇼ」と呼ぶのだといいます。あの世が「地下にある」という地方は、それがあの世のさらに下の方にあり、「テイネモシㇼ」(ジメジメした国)というのだ、というのです。

 

・ところで、「地下」「天上」というあの世の存在空間に違いが認められるにせよ、あの世に行くための入口が必ずあること、またそこを通ってあの世に行った際、その世界の情景や環境は、「地下」でも「天上」でもほとんど変わりがありません。

 あの世に通ずる入口を「アフンルパㇽ」(“あの世”に入る道の口)あるいは「オマンルパㇽ」(行く道の口)といいます。それがこの世には必ず存在します。写真は白老の人々のアフンルパㇽです。ひとつのコタンに1ヵ所あるというのではなく、ひとつのものが広域のコタン共有のものと意識されているといってもよいでしょう。

 

・人が亡くなると、その者は多くの人々に見守られながら「葬送」という手続きを経て、副葬品やほかの供物と一緒にあの世に向かうことになります。そして、死者の魂はアフンルパㇽを通り、自らの祖先やかつてこの世の仲間であった人々が平和に暮らしているのだとされ、そこでの生活のようすを古老たちにたずねると、あの世ではこの世と全く同じ生活がなされており、人が人として存在し、着物をまとい、チセに住み、この世のコタンと同じようなコタンがそこに展開するのだというのです。この世にある自分たちのコタンを取り囲む周囲の山々や川さえも同じ情景のもとで存在することにもなるのです。

 

・ただ、異なっていることは、あの世とこの世では季節や時間が逆になっていることなのだといいます。たとえば、冬に亡くなった人があの世に行くとそこは夏だったとか、この世での夜があの世では朝であったとか、になるのです。沙流川筋の古老が「秋方に亡くなったフチ(おばあさん)に鍬をもたせてやったのをみたことがある」と話してくれたことがあります。それはあの世では春先だからせめてあの世に行ってもすぐに畑を耕せるように、という意味がこめられているからなのでしょう。

 

・また、その沙流川筋の古老によると、時間ばかりでなく、あの世とこの世では人の気持ちも逆になることがあるのだといいます。この世で亡くなるまでの未練を残した気持ちも、あの世に行ってからはきれいになくなっているものだというのです。愛し合っている若夫婦がいて、夫が亡くなる前、妻に「お前だけが恋しい。未練を残してあの世に行くのだから、あの世に行ってもお前のことは絶対忘れない。あの世でも一人でいる………」と言うものではないというのです。あの世に行くと、気持ちが逆になり、前のことはきれいに忘れ、そこでまたよい連れ合いができることもあるので、そうなるとこの世に残された妻の気持ちを裏切ることになる、というのです。

 このようの、アイヌの人々の他界観というのは、前の項で述べた「神」に対する観念と基本的には同じ考え方の上に成り立っているといえます。

 

先祖の供養をしたか

・日本の伝統の中では、お墓参りや仏壇に供物を添えて先祖をしのぶことが当たり前におこなわれています。若い人でさえ、盆や正月あるいは法事の際、仏前で合掌するのが普通です。このような行為は、現在の人々と物故者とのあいだの精神的連帯には欠かせないのです。

 アイヌの人々にそうした先祖を供養するしきたりがあるのか、とよく聞かれます。結論からいえば、アイヌの伝統文化の中では、お墓参りや仏壇の前で手を合わせることは絶対ありません。だいいち、仏教自体がかつては普及していなかったのですから、仏壇などあろうはずがないのです。お墓は、それぞれのコタンごとにあるのが普通ですが、それでも「墓に参る」ということはしません。それがアイヌの伝統です。

 

アイヌの人々が祖先に対しておこなう供養の儀式を「シンヌラッパ」(祖霊祭)」といいます。ユカッやイオマンテと並び、アイヌ語特有の美しい響きをもつこの言葉はアイヌ文化を象徴するもののひとつとしてつとに知られており、みなさんもどこかで一度はお聞きになったことがありましょう。

 

こうしてみると、シンヌラッパの目的は、まず第一に、自らの祖先に対して酒、穀物、果物などの食料をおくることにあることがおわかりになるでしょう。

 あの世に暮らす祖先も、神と同じように食料を自分では作れないとされているので、あの世で何不自由なく暮らせるようにこの世からおくるのです。

 古老たちの話によれば、あの世で暮らす者で、現世(つまりこの世)に身寄りのない者は何も食べ物を届けてもらえず、あの世の川縁に座りながら、現世から送り届けられて舟に満載された食料をいつもうらやましがって見ているのだといいます。さらに、そのような者は浮遊の霊となって、あの世からこの世にやってきては、コタンの中を飛び廻るのだともいいます。

いわゆる“ゆうれい”にまつわる伝承も人々の間に数多く伝えられていますが、それはとりもなおさず、この世の人々から食料を送り届けられない者がお腹をすかせ、人間の手によって食料を捧げてもらいたいためにこの世に現われるのだ、と古老たちは教えてくれます。そして、それを見たり、感じたりしたならば、必ずタバコや食べ物を少しでもよいからチャㇽパ(撒く)するものだ、というのです。

 古老たちはよく、自分たちの子孫が途絶えてしまうことほど恐ろしいものはない、といいます。

 裏を返せば、それは、前世の人々から食べ物を届けてもらえず、あの世に行っても生活に支障をきたすことを意味しているからなのでしょう。

 

シャクシャインの戦い

アイヌ民族とシサㇺとの最大の戦いですが、その発端となったのは、パエ(現在の日高町門別)のアイヌと、シプチャリ(現在の新ひだか町静内)のアイヌとの20年におよぶイウォㇽ(領地)をめぐる争いでした。

 

・1640年代、パエの首長はオニビシ。シプチャリのおさはカモクタイン、副首長がシャクシャインでした。1648(慶安1)年、シャクシャインがオニビシの部下を殺すという事件が起こります。このときは、松前藩が調停に入ったのですが、5年後の1653(承応2)年に、パエのアイヌがカモクタインを殺してしまいます。その後、両者は小さな争いを繰り返し、そのつど松前藩が間に入っていたのですが、だんだん険悪な状態となり、1668(寛文8)年4月にはとうとうオニビシが殺されます

 

こうして、1669(寛文9)年6月、シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサㇺに対する大戦争が開始されます。はじめ、アイヌ軍が優位の内に戦いが進められますが、クンヌイ(長万部国縫)の戦い以後は、アイヌ軍の勢力が分断されたこともあって、シサㇺが優位となり、ついに、10月23日松前軍とシャクシャイン軍とは和解することになります。ところがこれは偽りの和解で、その祝いの席でシャクシャインが殺されてしまいます。指導者を失ったシャクシャイン軍は、結局は敗れ去り、以後は長くアイヌの人々の虐げられた生活が続くことになります。

 

 

 

コロポックルとはだれか』

―中世の千島列島とアイヌ伝説

 瀬川拓郎  新典社新書   2012/4/24

 

 

 

<封印されたアイヌ伝説>

 小人伝説はおとぎ話か

・昔は十勝川に沿ってアイヌのほかにコロポクウンクル(ふきの下に住む者)という、ふきの下に5、6人が集まって住むぐらい小さい者たちがいた。コロポクウンクルは何でも人に与えるのが好きで、ごちそうを椀に入れてアイヌの戸口のござの下から差し出し、それをアイヌが受け取って押しいただくと喜んでいた。あるときアイヌのウエンクル(悪い奴)が、ごちそうをもってきたコロポクウンクルを家の中に引っ張り入れると裸の女であった。女は泣きながら帰ったが、あとでコロポクウンクルの親方が怒ってやってくる。激怒したコロポクウンクルたちはレプンコタン(海の向こうの国)に引き上げることになり、そのときに親方が「このコタン(村)のものは、ネプチー(何でも焼けろ)、とかプチー(枯れてしまう)という名を付ける」と言う。それまではシアンルルコタンというりっぱな 名前だったが、それからはこのコタンを「トカプチコタン」と呼ぶようになった(帯広市採録)。

 

・この伝説を読んで、コロポックルを実在の集団であったと考える人はおそらくいないでしょう。もしコロポックルが実在の集団だったと主張すれば、それは童話であり、妖精・妖怪譚のたぐいにすぎない、と一笑に付されてしまうにちがいありません。

 

 <封印されたコロポックル論>

帝国大学東京大学)の人類学教室初代教授であった坪井正五郎らは、アイヌの伝説に登場するコロポックルこそが石器時代人だったのではないか、と主張した。

 

・一世を風靡した小人伝説は、河野常吉が「コロポックルアイヌの小説なり」と坪井を強い調子で批判したように、事実に根差さない昔話であり、童話のたぐいであるとみなされたまま、ふたたび学問的な議論の対象となることはありませんでした。

 

 <中世千島の開発と小人伝説>

・小人伝説は、中世アイヌ社会の一端をうかがう貴重な資料といえそうです。

 

・古代の千島は、アイヌとは系統の異なるサハリンから来た人びと(オホーツク文化人)が住んでいました。しかし近世の千島はアイヌが占めるところとなっており、もはやオホーツク文化人は住んでいませんでした。

 

 アイヌの小人伝説>

 ジョン・セーリス「二度蝦夷に行ったことのある一日本人が江戸の町で伝えた同地に関する情報」『日本渡航記』(1613年)

(道南の松前の)さらに北方には、同じ陸地上に、一寸法師のような背の低い人間が住んでいる。蝦夷人(アイヌ)は日本人と同じ丈の人間である。

 

 松坂七郎兵衛他『勢州船北海漂着記』(1992年)

南千島のエトロフ島に漂着した勢州船の記事です。船員は、エトロフ島からクナシリ島を経て北海道本島に渡り、十勝を経て松前から帰郷しました。この小人伝説は、帰途、クナシリ島から道東太平洋沿岸のあいだで聞きとったものとおもわれます。小人が「小人島」に住んでいること、その島にはワシが多くいること、船路100里もある遠い地から船で本島にやってくること、その目的が土鍋製作用の土(粘土)の採取にあること、脅すと身を隠すことなどについて記しています。

 

 松宮観山蝦夷談筆記(上)』(1710年)>

・道南の日本海側、現在の上ノ国町小砂子の地名由来にかんする聞きとりです。100人ほどの小人が「小人島」から渡ってきたこと、その目的が土と草(あるいは葦)の採取であったことを記しています。

 

 <秦檍丸「女夷文手図」『蝦夷島奇観』(1807年)>

アイヌの女性の文身(イレズミ)の図に、道東の根室アイヌから聞き取った伝説を解説として付したものです。古くはコッチャカモイという小さな神が北海道の各地にいたこと、アイヌとの直接的な接触を嫌い北海道から去ったこと、この神のイレズミをまねてアイヌのイレズミがはじまったこと、かれらの住んだ竪穴住居の跡が各地に残り、土器や宝が出土することなどを記しています。

 

 最上徳内『渡島筆記』(1808年)>

むかしコロブクングル(フキの下にその茎をもつ人の意)と呼ぶ小人がいたこと、道東ではこれをトイチセウンクル(竪穴住居に住む人の意)と呼ぶこと、アイヌ女性のイレズミがこの小人の習俗に由来すること、声は聞いてもその姿をみた者はいないこと、アイヌの漁に先回りし、あるいはアイヌの魚を盗み、アイヌも家に来て魚を乞うこと、魚を与えないと仕返しすること、小人は魚を乞うたのではなく、反対にアイヌに与えたともいわれること、家の窓から魚を乞う小人の女の手を引き入れたが、3日食事を与えないと死んでしまったこと、小人はアイヌにさまざまな悪さをなし、戦うときには甲冑を帯びてフキの下に隠れたことなどを記しています。

 

 <小人名称の三種類>

一つ目は、竪穴住居に住む人(神)を意味するとおもわれる名称です。「トイチセコツチャ」「トイコイカモイ」「コッチャカモイ」「トイチセウンクル」がありました。二つ目は、フキの葉の下の(神)を意味する名称です。「コロボルグルカモイ」「コロブクングル」がありました。三つ目は、千島の人を意味する「クルムセ」です。

 

 

 

『神の策謀』(全宇宙と全生物を司る4元複素数体

(原作:オニソイ・イーネグ)(コスミック出版)2007/3

 

 

 

<北海道のコロポックルはどこに消えたのだろうか!?>

 ヘブライの民は神に選ばれた宇宙人の末裔

ヘブライの民は、神に選ばれた宇宙人の末裔なんだから。彼らの母星は、ニビル。ニビルは、シュメール語で交差するという意味だ。つまり太陽系を縦に交差する惑星がヘブライの民の故郷ということになる。

 

 ヘブライの民は日本列島へ>(ニビルの神)

ヘブライの民が惑星ニビルから来たのかどうかは分からない。しかし、惑星ニビルの動きに合わせて彼らが動かされていたことは確かである。金星から移住させただけなのに、ニビルからやってきたことにしたのかも知れない。

 

巨人族は地球より重力の弱い惑星から来たはずだが、もともと地球重力下では、身長はどんどん小さくなって地球人並みになってしまう。いつも自分の体重が重荷になっているのが巨人族の子孫である。

 

小さいが頑丈な北海道のコロポックルのような連中は、きっと超重力の巨大惑星から来たに違いない。そんな連中は、地球ではすぐに引き延ばされて人類に同化してしまうが、フットワークは常に軽い。

 

巨人族と爬虫類族とコロポックルが実際に人類の歴史にどう関わって来たのかは、今のところ誰にも分からない。コロポックルは人類と仲良くしていたようであるが、爬虫類族は、龍神信仰を生んで神になった。巨人族はどこに消えたのか。

 

火星と木星の間には、かって計都(ケイト)と呼ばれる惑星があったそうである。このケイトの住民が爬虫類族だった可能性も否定し難いものがある。太陽から遠く離れて高度な進化を遂げるには遺伝子レベルで、二倍体、三倍体になって巨大化し体温の恒常化を計る必要がある。

 地球では夜になると海底に戻って行ったそうである。高度に進化していれば、惑星ニビルの海底に理想の環境を作り出しているのかもしれない。

2012年に地球の地軸がどうなるか、爬虫類族が惑星ニビルから我々に挨拶にくるのかどうか。惑星ニビルからの移住者とされているヘブライの民が果たす役目は何なのか。すべては、今日神がどんな計画を立てうるのかということである。

 

 ヘブライ国家・日本>

そのための神の企ては、出エジプト記でモーゼにヘブライの民を40年かけて日本へ連れ出したことである。彼らの存在を3400年の間、歴史の中から隠してしまったのである。隠された当事者の日本人は、まだそのことを知らない。

 

 

 

『古代の洞窟』  チベット少年僧の不思議な物語

T.ロブサン・ランパ  中央アート出版社  2008/7

 

 

 

<『第三の眼』>

・本書は、かつて世界的なベストセラーとなった『第三の眼』の著者、チューズディ・ロブサン・ランパの続いての著作である。『第三の眼』は1956年に英国で初版が発行され、当時全く知られなかったチベットの国情、その奇異な習慣、そして神秘的なチベット仏教のあらましが著者の僧院での修業時代の物語を通じて明らかにされ、一躍世界の耳目を集めた画期的な作品であった。

 一方、本書は、その5年後に、当時ロブサンが滞在していた米国において刊行されたもので、これまた少年時代のロブサンの厳しい修業時代の一部始終を更に詳しく自伝風に書き綴ったものである。彼一流の諧謔を交えながら、自らの課せられた使命を達成するため、権威あるチベット高僧の適切な指導の下に、その生来もっていた類い稀な特異能力に磨きを掛けてゆく過程が、様々なエピソードを通じて細かに描写されていて興味深い。と同時に、その幽明を通じての優れた人生観が行間至るところに読み取れ、大いに啓発されるものがある。

 

<古代の洞窟>

私は高僧たちが旅行して発見した古代の洞窟について密かに興味を持っていたが、それは地球が若いある時代からの文化的遺物と知識の伝説的な蓄積の話であった。師も私も知っていたことではあるが、彼の準備が出来るまではその物語を話すことは望めないこと、そして未だそのときが来ていないことを私は感じ取っていた。

 

・「全世界は振動から出来ている。すべての生物も無生物も振動から出来ているのだ。あの大きなヒマラヤも、互いに接触することのない浮遊する粒から出来上がっている。世界も宇宙も他の物質の粒の周りを回っている小さな粒から出来上がっており、それはちょうど我々の太陽が、自分の周りに地球を回転させるとき、常に距離を置いて互いに接触することがないように、回転する世界を構成するあらゆるものが存在しているのだ」。

 

・彼は始めた。「これは私が見たり聞いたりしたもので、おまえが見聞するのも遠い先ではない。数千年以上も昔に、この世界には高い文明があったのだ。人々は重力に挑戦して機械に乗って空高く飛ぶことができ、また自分の考えを絵のように表わして、他人の心に印象づける機械を作ることが出来たのだ。更に彼らは核分裂の手段を持ち、世界を破滅させる爆弾を爆発させて大陸を海中に沈下させ、逆に海を隆起させ、これによって世界は死滅してしまった。それで現在、この地上の我々は、いろいろな地方で洪水の物語を持っているのだ」。私はこの最後の部分には納得がいかなかった。「先生、アカシックレコードの中で、そのような絵を見ることが出来ます。我々がこの場で、もっと簡単に経験できるものを、どうして危険を冒して山に登るのですか」と私は叫んだ。

 

・「ロブサン、我々はみんな幽界やアカシックレコードを見ることが出来る。特に後者は起きた事、すべての事実の再現である。しかし我々は見ることは出来るが、触ることは出来ないのだ。幽界の旅で我々は、あちこち行ったり来たり出来るが、その世界の何物にも触ることは出来ない。我々は着替えの衣や一輪の花をすら手に取ることが出来ない。同様に、アカシックレコードによって、我々はすべてを見ることは出来ても、この山の中の大きな部屋のなかに置かれた奇妙な機械を、近づいて詳しく試すことは出来ないのだ。だから、その山に行って機械を試すのだ

 

「本当に奇妙ですね、そのような機械は世界中にあるはずなのに、我が国だけで見つかったのは」と私は言った。「ああ、しかしおまえは間違っている。同様な部屋がエジプトでも見つかり、そしてもう一つの同じ部屋が、南アフリカと呼ばれる地域にも存在している。私は見たことがあって、どこにあるのかも知っている。これらの秘密の部屋は、時期が来れば後世の人々によって、その中の人工のものが発見されるように、古代人によって隠されていたのだ。しかし、この突然の岩石の落下によってチベットの隠された部屋は思い掛けなく顕わになり、その内部のものから我々は他の部屋の知識も得たのだ。しかし日は瞬く間に過ぎ去り、今度はおまえを入れた7人が出発して、再び古代洞窟に向かうことになるのだよ」

 

・ラマ・ミンギャール・ドンダップが話をしてくれてから約2週間後には、我々はほとんど、谷と石ころ道を通る長い長い登山の準備を完了した。共産主義者は現在チベットにもおり、したがって、洞窟は本当に存在し、その機械類を所有することは、共産主義者に世界征服をさせる機械を与えることになるという理由から、古代洞窟の位置は慎重に隠されたのだ。ここに書いていることは、洞窟への道以外は、すべて真実である。洞窟の秘密の場所や正確な面積は、時が来れば自由の軍がその場所を発見できるように、注釈と略図を使って完全にしてあるのだ。

 

<タイムカプセル>

・我々は、自分たちが彼らの言葉を理解できることに気がついたが、そのとき、我々はテレパシーで話を受けていたのだ、という説明が現れた。このような部屋、すなわち、タイムカプセルは、エジプトの砂の下や南アメリカのピラミッドの下、そしてシベリアのある地点に隠されており、その各々の場所には、その時代のシンボル、例えばスフィンクスなどによって印が付けられていた。我々はエジプトに起源を持たない巨大なスフィンクスの像を見、その姿の説明を受けた。

 人間と動物は遥か昔には一緒に話し合って仕事をしていたのだ。猫はその最も完全な動物で、力と知性を持っていた。人間自身も一種の動物で、古代人は大きな猫の身体の像を力と忍耐を示すために作り上げ、その身体の上に一人の女性と胸と頭を乗せた。頭は人間の知性を示し、胸は人間と動物が、お互いのために霊的、精神的な養分を取り合うことを示し、このシンボルは今日の仏像やダビデの星や十字架と同様に普遍的なものであった。

 我々は陸地から陸地へ移動する巨大な浮遊都市のある海を見、また空には音もたてずに動いている同様に巨大な船が浮かんでいたが、これらは一点に止まっていると見るや、ほとんど一瞬のうちに、とんでもない高速で通り過ぎていった。地上では乗り物が地面の数センチ上を、我々が考え及ばない方法で空気に支えられて動いていた。道路が橋のような細い索を伴って都市を貫いて伸びていたが、我々が見ている間に、空に生き生きとした閃光が走り、最大の橋が壊れて一固まりの桁と索になってしまった。そしてもう一度、閃光が閃いて都市の大部分が消え失せて、光り輝くガスとなってしまい、廃墟の上には、数キロメートルの高さの茸状の奇妙な悪魔のような赤い雲が立ち昇っていた。

 

絵は次第に褪せていき、そして我々は再びタイムカプセルを企画した人々の一団を見たが、彼らは今や、それらを閉じ込める時と考えていた。我々は儀式を見、また保存される記録が機械に掛けられるのを見、そして別れの演説を聞いたが、それは我々に向かって言った。「もしそれが存在するのなら、未来の人々へ(人類は自ら滅びる可能性があるという意味で)、この丸天井の中には、それを発見し理解できるだけの知性を持った未来の民族への恩恵となる、我々の完成と愚行の作品を保存する」

 

・徐々に我々は地球上での感覚をなくしていき、時代の海の中に浮かんでいる状態になった。過去に起きたことのすべてが、意識的に幽界に行って知識を得て帰ってくる才能を持った人々によって見られたのだ。歴史上のいかなる光景も、そしてそれがいかに遠い昔の出来事であったとしても、あたかもその場に居合わせたかのように見ることができた。

 

・次に我々は、巨大なピラミッドの石段に立っている高僧が、聴衆を戦争に駆り立てている姿を見た。回転する時間の巻き物に印象づけられている絵は更に変化して、我々は反対側の陣営を見た。指導者ががなり立て、取りとめのないことを言い、そして時代は流れていった。我々は空の青さの中に数条の白い湯気が立ち、それから空が赤くなるのを見た。全世界は振動し、見ているうちに目眩を感じた。夜の闇が世界中から垂れ込め、激しい炎によって立ち昇った黒雲は、全地球の周りに渦巻き、都市は焼き尽くされて消滅してしまった。

 

陸上には怒り狂った海から津波が押し寄せてきて、その前にあるすべてのものを一掃し、その高さは地上の最高の建物よりも高く、その頂上は亡くなった市民の漂流物を持ち上げていた。土地は振動して苦悶におののき、大きな割れ目が巨人の胃袋の収縮のように現われては閉じた。山は嵐の中の柳の小枝のように波打ちながら海底に沈み、陸地の固まりが水の中から立ち上がって山となり、世界の全表面は変化と連続的な運動の状態になっていった。数百万人の中で、僅かに方々に生き残っていた人々は、悲鳴を挙げながら新たに隆起した山に向かって逃げて行った。また他の生き残りの人々は船で漂流していたが、高地に到着するや、発見できた隠れ家に逸早く逃げ込んだ。一方、そのとき地球自身は回転を停止して静かに立っていたが、それから次第に逆方向に回転し始め、森は一瞬のうちに木々の生えた状態から散らばった灰に変わった。地球の表面は荒れ果てて真っ黒焦げになってしまい、洞窟や死火山の溶岩のトンネルの中には、ごく僅かの人々が大災害で気が狂ったように恐怖に縮こまって訳の分からないことをしゃべり、黒い空からは生命を維持する甘くて白い物質が降っていた。

 

数世紀経つうちに地球は再び変貌した。今度は海が陸地に、今まで陸地だった所が海になった。また低く横たわっていた平原が亀裂した岩山になり、水が押し寄せてきて現在の地中海となった。その近くの、もう一つの海は一つの透き間から海底に沈み、水が去って底が乾くとサハラ砂漠が形づくられた。地球の表面には野蛮な民族が彷徨し、キャンプファイヤーの影で、昔の伝説や、洪水やレムリアやアトランティスの話をしていたが、彼らの話のなかには、太陽が静止した日のことも含まれていた。

 

・古代洞窟は半ば沈みかかった世界の裂け目に埋められ、侵入者から守られて陸地の表面から非常に深いところに埋められた。そして時が経つにつれて、急流がその割れ目や破片を洗い流し、もう一度岩を日の光の中に直接させ、ついには太陽によって熱せられ、急激な水のシャワーによって冷やされて、岩の表面が轟音と共にはじけて、我々が入ることが出来るようになったのである。

 

・我々は勇気を出して痙攣した手足を伸ばし、やっと立ち上がった。この経験は衝撃的なものであったが、今や我々は食事を取り、眠らねばならなかった。明日、我々はめいめい、周りを見て、更に少しでも何かを学びたいと思っていた。そして、それが済めば我々は指示どおり出入り口をふさぐのだ。洞窟は改めて善意の高い知識人が来るまで、再び平和に眠るだろう。私は洞窟の出入り口に向かって歩き始めた。そして、もし古代人の人が墓から出てきて私の傍らに立つことが出来るならば、その人は何を考えるだろうかと思った。

 

・私はこのとき、そのコントラストに驚いたが、それは一人のラマが火打石と火口で火をつけ、我々が持ってきた乾いたヤクの糞を燃やしていた。すなわち、我々の周囲には、過ぎ去った時代の高性能の機械類があり、そして我々現代人は、自分たちが会得できないこのような機械類に取り囲まれて、糞を燃やした火の上でお湯を沸かしていたのだ。私は溜め息をついて、自分の考えを、茶とツァンバを混ぜることに転換させた。

 

著者について

・1937年に日本軍の上海侵攻が開始されると、中国空軍の軍医大尉に任命され、翌年に日本軍により撃墜され捕虜となった。3か月後に脱走してチベットに戻ったが、ふたたび中国空軍に復帰し、またもや日本軍に捕えられる。拷問と脱走を繰り返すうち、1944年には日本の広島に近いキャンプに収容された。広島の原爆投下の大混乱の中を脱走し、漁船を盗んで朝鮮の海岸に上陸。ウラジオストックからシベリア鉄道でモスクワへ辿り着いたが、スパイ容疑で逮捕された後に国外追放となり、ポーランドで釈放された。その後、ポーランドからドイツを経て、フランスのシェルブールから船に乗り込み、アメリカに渡った。ニューヨークで幾つかの職を得て働いたが、1951年にイギリスに向かい、そこで自叙伝を書くことを勧められ『第3の眼』を執筆する。

 

・以上が、ロブサン・ランパ自身による略歴の紹介であるが、1956年、ロンドンのマルチン・セッカー・アンド・ワーバーグ社から刊行された同書は世界的な大ベストセラーとなって、あまりの多額の印税収入のほか、マスコミ・ジャーナリズムもこの謎の男の正体を暴こうと躍起になり、ついには詐欺師、ペテン師のレッテルを貼りつけた。ロブサン本人は、マスコミの追及に嫌気がさし、出版社の忠告を受け入れてカナダに移住したが、1959年以降もロンドンの出版社からは、『金星への訪問』ほか十数冊が彼の名で出版されている。