日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

『遠野物語』によれば、猿の経立(ふったち)は人によく似ており、女色を好み、人里の女性をよく攫うのだという。(9)

 

<ワープする爺>

除雪車の前には一人の老人が歩いているのだ。おかしい、誰も歩いてはいなかったはずなのに。

「どこから出たんだ、この爺さんは……」

 ふと気になって後ろを振り向くと、先ほどの爺さんの姿が無い。ほんの3秒ほどの間に除雪車の後ろから前に移動しているのだ。

 

「雪の中をとぼとぼ歩く爺さんを見たんだ。何か変なんだよ。そのうちにいなくなったんだけど、次の集落に入ったら婆さんたちが5、6人集まってるんだ」

 何事かと除雪車を降りて話を聞くと、今し方集落の爺さんが死んだと言うのである。それを聞いた吉川さんは悟った、さっきの爺さんに違いないと。

「いや、思い出したんだよ、爺さんが歩く姿を。何か変だなと思った理由もはっきりと分かったんだ。除雪前の道なのに足音が無いんだ。爺さんが歩いてるのに足跡が付かないんだよ」

 吉川さんは急に恐ろしくなった。またあの爺さんが現れたらどうしよう。そこで作業を中断すると除雪車の中で辺りが明るくなるのを待つことにしたのである。

 

白神山地近辺>

弘前市に住む山田兼博さんは長年山と親しんできた。自然遺産に指定される以前から白神山地で山菜やキノコを採り、山の中で夜を明かすことも珍しくはなかった。

 

・「私は碇ヶ関の出身なんですよ。家は山の中でね、小学校の時に不思議な光を見ましたよ」

ちょうど家の外に兼博さんが出ていると、向うの山のほうに光が見えた。それは何とも妙な光である。遠いのか近いのかはっきりとしない。

車もほとんど走ってない時代でしたからねえ。まあ明らかに車のライトじゃなかったですがねえ。じつに不思議な光でしたよ。近所の家の屋根から“ばああああっ”って光の柱が立ったこともありましたねえ

 

・このように光り物に縁がある兼博さんが白神山地の最深部で見たモノは少し違ったらしい。そこは日帰りが不可能な場所で野営をするのだが、それがまた楽しかったそうだ。

 

・「夜中の12時過ぎだったかなあ、凄く天気の良い日で星が凄かったんですよ」

満天の星、素晴らしい夜空からは本当に星が降ってきそうに感じた。しばらく星空を楽しんでいると、妙な動きをする星に気がついた。

最初は流星かなと思ったんですよ。でもね流星ならすーっと流れるじゃないですか。それは縦に動いたり横に動いたり変な動きをするんですよ

 不規則な動きは典型的なUFOの特長である。実は私も20年ほど前に西オーストラリアで見たことがあった。その時は真っ昼間だったが、働き方は兼博さんが見た物体とまったく同じである。UFOとは何もタコみたいな宇宙人が乗った円盤のことではない。あくまでも未確認飛行物体、つまり何かは分からない空飛ぶ物体なのだ。そう考えると毎度お馴染みの狐火もUFOといえなくもないだろう。

 

・このように光に導かれた話は四国でも聞いたことがある。暗闇で自分の足元を照らす光に連れられてとんでもない場所まで行ってしまう。山中ではそう珍しくない出来事である。

 

<甘党の狐>

・恐山に狐に関する話はないかと訊いたところ、或る出来事を思い出してくれた。それは仲良しグループが山菜採りに山へ入った時の話である。

 朝から山菜採りに興じてたくさんの収穫に恵まれ、楽しい1日が済んで仲間たちは車を止めた場所へと集まってきた。しかし集合時間の午後3時をだいぶ過ぎても一人だけ姿を現さなかった。

「結局その人、夕方になっても下りてこなくてね、大騒ぎになったのよ。警察に連絡して、それから消防団の人たちが山狩りして探したの」

 懸命の捜索にも関わらず何の手掛かりをないまま数日が過ぎた。捜索の規模を縮小しようかというまさにその日、遭難者は見つかった。

「なんてこともないような所にいたんだよ。何で見つからなかったんだろうって感じね。それは、その人、口の中にいっぱい草が詰まっていてね、死んでたの……ああいうのは狐の仕業なのかねえ」

 

・「神楽の人たちはずっと村を回って歩くの。1回りすると神社に集って、また次の村へ異動するんだけど、中の一人がいなくなってね」

 またしても一人いなくなった。そこで仲間内で集落をくまなく探したが見つからない。さらに山のほうまで捜索の手を広げると、すぐに彼の姿は見つかった。

山の中でね、寝てたの。それがきちんと着物を畳んでね、丁寧に草履を揃えて座敷に上がったみたいな感じで寝ていたの。これも狐かねえ

 

・婆ちゃんは山の中で不思議な空間に入り込んだことがある。それは仲間たちと山菜採りに行った時だ。森の中は明るく下草はまだそれほど伸びていない。見通しはある程度利く状態である。

「すぐそこに妹がいるのね。数十メートルじゃないの、距離的には、そこに行けないのよ」少し斜面を下りた所に妹がいるがそこまで辿り着けない。何度行こうとしてもあれあれ?

 いつの間に結局元の場所に戻ってしまうのだ。

「それは不思議だったよ。何回も行こうとしたけど駄目だったもんねえ。あの時はねえ、妹に飴をやろうと思ってたのね。ポケットに飴が入ってたから、きっと狐が騙そうとしたんだろうね」

 焼き魚や生臭いモノが好きな狐の話はあちこちで聞いたが、どうやら下北半島の狐は甘党のようである。

 

風間浦村での狐に関する話は多い。基本的には他所とよく似た内容だ。

「近所の人が祝い事の帰りに狐に化かされて田圃を歩かされたんですよ。それで引き上げられた時はお土産を全部無くしていて、狐のせいだと言われましたね」

 

<狐の警告>

・矢谷さん夫婦が以前、八甲田山谷地温泉に行った時のことだ。2ヵ月ほどの長逗留で辺りをいろいろと巡っていたある日、宿への帰り道で深い霧に包まれてしまった。

「毎日走っている道でしたから、少々霧が出ても分かるんですよ。道自体も単純ですしね」確かに地図で見ても複雑ではない。しかし二人は辿り着けない。

はっきりとした分かれ道があって、そこから普通なら20分くらいで着くはずなんですよ。それがいくら走っても着かない。おかしいんです、気がつくとまた元の分かれ道。そんな馬鹿なと何度も行くんですが、やっぱり着かない

 気がつけば2時間以上が経過している。流れる霧の中を走りながら、背筋がゾクゾクとして鳥肌が立つのが分かった。

「二人で大丈夫、大丈夫って言いながら走ったんです。そうしたら目の前に狐が現れて」

 突然車の前にたちふさがったのは三匹の狐である。

 

風間浦村では狐に化かされる話は聞いたが、人を殺すような悪さをするのは狸だといわれている。そこの出身である八谷さんにとっては狐は怖い存在ではないようである。

 

<丑三つの少女>

・山怪はどこにでも存在すると思う。しかしその状況は国や民族、歴史などの違いで大きく変化するのではないだろうか。そう考えると、北海道にはどのような山怪が存在するのか想像もつかなかった。

 

・これは今も存在する会社の出来事なので場所と氏名は伏せる。現在北見市の保険事業関係に勤めるAさんが、そこで働いていた10年ほど前に経験した話である。当時勤めていた会社はかなりの肉体系だったそうだ。時には夜中でも緊急の工事に出勤する必要もある体力勝負の職場である。

 

・真っ黒な山の中に投光器を立てて黙々と作業をしていると、現場無線に妙な連絡が入った。

おい、子供がいるぞ!気をつけろよ。白い服を着た子供が歩いているから

 誰もが耳を疑った。それもそのはず、現場は道も無い山の中、おまけに時間は午前2時過ぎのことである。子供が一人で歩いている訳がない。

 

・「これはおかしいと思って連絡してきた現場へ向かったんですよ。最初は悪い冗談かなと思ったんですがね」

 数人で真っ暗な山の中をその現場に向かうと、10人ほどの作業員が立ち尽くすのが見えた。彼らは真夜中の山中で全員がその少女を見ていたのだ。中には震えの止まらない人もいる。

昼間でもそこは普通の人が入れるような場所じゃないんです。真夜中に子供が一人で歩いているなんて絶対にあり得ない

そのあり得ない状況に作業員たちは遭遇してしまったのである。

 

<ついてきた男>

・「いや、そこに入るとき管理人さんが小声で耳打ちしたんですよ、“ここ出るから”って」実に嫌な情報である。そんなことを聞いても信じない人も多い。Aさんもどちらかというと見えないし信じないタイプだから、そのまま就寝時間を迎えて寝入ったが……。

「目が覚めたんです、ばちっと。3時頃でしたかね、いやちょうど3時でしたね、時計見たら。何か変な感じがして辺りをぐるっと見渡したんです」

 暗い部屋の中で目をこらして辺りを伺う。天井、壁、横、足元、そこで目が止まった。

誰かいるんですよ、ベッドの足のほうに。座ってこっちをじーっと見てるんですね。顔ですか? それが、こう深く帽子を被っているんで、顔はよく見えないんです

真夜中に足元に座って自分のことを見つける男、それが誰かは分からないが、声をかける気にはならず、そのまままんじりともせず朝を迎えた。

 感じない、信じないタイプだとはいえ、それが1週間も続くとさすがにAさんも参ってしまう。そこで研修で仲良くなった人に相談しようと思い、話しかけた。

「応接室で話をしていたんです。そうしたらその人が“そっちのベッドは大丈夫”って訊くんですよ。その人も見てるんです、帽子の男を」

 どうやら帽子の男は各ベッドを覗き込んでいるらしかった。

 

<飛び出す婆>

・この方のお婆ちゃんは霊力の強い人だったらしく、亡くなった後もいろいろとやらかしている。葬儀が済んでしばらく後には、家中の戸をガタガタと激しくならして家族に存在をアピールしている。極めつけは元気な姿を見せつけるという荒技だ。

飛び出すんですよ、仏壇から。そして仏間からすたすた歩いて次の間の縁側まで行って、外を覗いてからまた仏壇に戻るんです

 

同様に仏間から出てきて歩き回る謎の女の子の話は、富山県山間部でも聞いたことがある。そこの宿の若女将は座敷わらしではないかと言うが、仏間から出てきたことを考えると遠い先祖だったのかもしれない。

 

<“熊撃ち”久保俊治さんの体験>

・この雪女の話は弟子屈方面でも聞いたから、北海道では珍しくないのかも知れない。本州で白い着物を着た長い髪の女性が山中に姿を現せば、それは間違いなく山の神と認識される。それが北海道では雪女になる訳だから、やはり地域差なのだろう。

 

<座敷わらしと山の神>

・座敷わらしがいるといわれている旅館が国内には数軒ある。最も有名な旅館は一度火事で焼けてしまったが、今は立派な宿として復活している。以前訪れた富山県の宿では、着物を着たおかっぱ頭のわらしが、ばたばたと走り回っていた話を聞いた、色は無く、すこしぼんやりとした感じだったらしい。

 

・座敷わらしと宿はセットのような感であるが、個人宅でもたまには現れるようだ。

群馬県片品村で古民家を改修して住んでいる原紘二郎さん葉子さん夫婦に座敷わらしの話を聞いた。

「台所のほうで作業をしていたら、子供がたって座敷のほうを走っていくんですよ。まだうちに子供が生まれる前でしたから驚きましたね。その頃やっぱりうちに遊びに来ていた友達にも、“子供が家の外を走り回っている”って言う人が何人かはいました。その友達も子供の姿が見える人と足音だけしか聞こえない人に分かれました」

 

・葉子さんはあまり不思議な出来事は無いと言うが、話をするうちに謎の人物との遭遇を思い出した、鳥肌を立てながら。

女の人でしたね。私が何かしている時に、はって気がついたら女の人が家の中を歩いていたんですよ

葉子さんはその歩く女性に目をやった。髪の長い白いふわっとしたような服を着ている。

 

・古民家の戸は昔のままなのだ。サッシのように音もなく開く代物ではない。“ガタガタガタガタ”っと玄関チャイム並に賑やかなのである。髪の長い女性は戸を開けることもなくすーっと入ってきて、そのまま家の中を突っ切って消えていった。

「それは山の神じゃないんですかね」

「山の神?」

 山の神は髪が長く白いゆったり目の服を着ていると幾人かに聞いたことがある。それとよく感じが似ているのだ。

 

片品村尾瀬への玄関口として有名である。その尾瀬の或る山小屋にも座敷わらしが出るという。

 

<火の玉ラッシュアワー

・空中をふわふわと彷徨う光は“人魂”や“火の玉”などと呼ばれている。東北地方では“狐火”と呼称され、特に秋田県の阿仁地区では実に多くの“狐火”体験談を聞くことが出来た。さすがはマタギの里阿仁である。

 

・景徳寺で出会った婆ちゃんたちから50年ほど前の出来事を聞いた。

「西原いう地区があるんですよ。そこでね、3歳やったかな、男の子が一人おらんようになったんです」

 西原の集落から忽然と姿を消した子供。集落をあげて山狩りをしたが、その小さな体は見つからなかった。4日が過ぎ、集落中に諦める気持ちが強まりかけた頃、その子は見つかる。そこは大人でも行きにくい滝の横だった。まるで辺りを眺めるようにぽつんと突っ立っていたそうだ。いったいどうしたのか、何があったのかを問われて幼子は答えた。

白い着物を着た女の人に助けてもらった………

 山の中で迷っていたら、その女性が手を引いて連れていってくれたというのである。命に別状はなく、怪我もしていなかった。しかし助けるのなら集落のほうへ連れていってくれればよいのにと思うのは私だけだろうか。

 

<山から出られない人>

・何が怖いのか、それには理由があった。

その人たちがキノコ採りに行った時なんですよ。山から出られんようになったんです

「険しい谷か何かに迷い込んだんですか?」「いやいや、原っぱです」

原っぱ?」ご婦人たちが足を踏み入れたのは草原、広々とした場所である。いつもの山道を汗をかきながら登っていくと、突然広々とした場所に出てしまったのだ。

「こんな所があったんやねえ」「そやなあ」

 誰もが初めて来た場所である。そして誰もが話にも聞いたことがない場所である。この謎の場所から抜け出すのに彼女たちは必死で出口を探し回った。

「凄く大変やったらしいです。あっちこっち歩き回っておったら、いつの間にか知った山道に出られたそうです」

 慣れ親しんだはずの場所で異空間に足を踏み込んでしまう。それが白い山や青い池だった話は東北地方でも聞いたことがある。大抵の場合は二度とそこへ行くことが出来ない。もちろん北山村のご婦人たちは二度と行きたいとは思っていないが。

 

・あれ、どこへ行くのかなと思いながらもベテランのことである。何か考えがあるのだろうとさほど心配はしなかった。ふっと遠くへ目をそらして再度先ほどの山筋を見ると……。

「また先輩の猟師が同じように歩いてきてなあ、開けた所を通りすぎて山へ入っていくんや。何しとるんかなあ思うたでえ」

 二度目である。まあ何かを確認するための行動かと思ったが、さすがに3回目となると話は違ってくる。そして4回、5回……

「同じ所を何度も回っとるんやなあ。そいで無線取って“お前何しとる、何回も同じ所歩いとるで”言うたんや」

無線に出た先輩猟師は応えた。

「何って、わしゃ山を下りよるだけじゃ」「下りるって、お前さっきから同じ所をぐるぐる回っとるだけやぞ」

 亀田さんに指摘されても先輩猟師には意味が呑み込めない。彼はひたすら山を下りているつもりだったのである。

「いやおかしかったけど、先輩やから笑うに笑われへんかったで」

 いわゆるリングワンデリングの類いなのだろうか。それを遠目に見ていた人の話は珍しい。その先輩は伐採し開けた場所を何度も通っていることに気がついていなかったそうである。

 

<奥山の女性>

・先に述べたように杉山さんの仕事は立木の買い付けである。山の面積と樹種を把握して持ち主と金額の交渉をしたり、銘木を探して山を一人で歩く。当然、遊歩道や登山道を歩く訳ではない。基本的に人と会うことがほとんどない山行きなのだ。そんな場所に女の人が一人でいるとは考えられないから驚くのである。

二回会ったことがありますよ。山の中で、その人、普通の格好なんです。山歩きじゃないですね。髪の毛がばさばさで凄く怖かったですよ。精神的に不安定な人なのかなと思いました

「はあ、二回ですか。それは同じ人なんですか?」

「いや、違う人ですね。場所も全然違いますから」

 この状況は想像するとかなり怖い。限られた山関係の人しか入らないような場所で、彼女たちはいったい何をしていたのだろうか。

 

<狸話>

・動物が関係する話は狐が多く、特に東北北部では独壇場である。しかしながら狸もなかなかのキャラクターとして度々登場する。そのほとんどが物真似をする程度でたわいもない。それが四国では人を死に追いやるような悪さをしでかすのである。

 

 

 

『鹿と日本人』   野生との共生1000年の知恵

田中淳夫  築地書館   2018/7/2

 

 

 

<シカが獣害の主役になるまで>

シカの増え方は“シカ算”

・これまでナラシカの現在と歴史的な経緯を記してきたが、あらためて振り返ると、ナラシカは宗教的な理由で保護される一方で、常に人との間に揉め事を引き起こしていた。その大きな理由はシカの食害であることは言うまでもない。ナラシカを保護すればするほど数が増え、その一部が農地を荒らす。

 

・1頭のメスが2年目から毎年子を産むというのは何を意味するか。20年生きる場合、単純計算では18頭の子どもを産むことになる。産んだ子どものうち半分がメスと仮定すると9頭が2年目から子どもを産む。親シカ、祖母シカも生み続ける。シカは、自分の子、孫、曾孫、玄孫………が同世代の子どもを産むのである。1頭の寿命が尽きるまでに子孫は何頭になるか計算していただきたい。いわば複利計算だ。もちろんすべてのシカが2歳から毎年出産するわけではないが、繁殖力は決して小さくない。

 実際の観察では、年間増加率は15~20%に達し、4~5年で個体数が倍増する計算になる。いわば「シカ算」が存在する。

 

<シカは飼育しやすい性格?>

食性は、植物なら何でも食べる。草も樹木も食べる。草も丈の高いものから地面にへばりついたシバまであまり選ばない。ササであろうと平気だ。餌の確保にそれほど苦労はしないだろう。牧草を育てるという手もあるし、干し草や草のペレットも可能となると、飼育時にはあまり困らないはずだ。もっとも「何でも食べる」食欲が獣害となるわけだが………。

 

現在、日本には1ヵ所だけ長崎に1000頭規模でシカを飼育し、鹿茸と肉と皮革を商品化するシカ牧場があるが、例外的な経営の成功例と言えるだろう。

 

・まず有用と言っても役割として小さかったのかもしれない。農耕に使うならウシのほうが力が強く、人が乗ったり荷物を運ばせたりするならウマ」だ。肉はあまり求めなかったし、シカから取れる肉の量は少ない。皮革も牛皮が一般的で、鹿革の需要は狩りで獲る分で十分需要に対応できた。毛が短いので防寒用には向かないだろう。またニホンジカは外国産のシカに比べると小さめで皮革も小さくなる。

 

昔から大変だった獣害

獣害の主役は、少し前までイノシシだったのだが、近年はシカに交代したようだ。推定生息数もシカのほうが多くなった(シカの生息数はイノシシの約3倍以上とされる)。

 農林業被害額は膨れ上がっており、ピークは2010年の239憶円である。肝心の農林作物を荒らす動物は、イノシシやサル、カラスなどの鳥類もいるものの、もっとも多いのがシカで、ざっと全体の3分の1を占める。

 もっとも実態はそんなものではない、という声も強い。そもそも被害額の算定は、それを農協や自治体などに届け出ないと顕在化しない。それにシカは、農家の作物だけでなく家庭菜園や個人宅の庭木や花壇の草木も食べる。それらの多くは泣き寝入りになるだろう。また植えた苗を食べられたり樹皮を剥がれたりする林業被害もすぐに気づけず表に出づらい。本当の被害額は約5倍、1000億円を超すのではないかという声もある。なお天然林の植生に与えるインパクトも被害額として計算しづらいが、結構深刻である。

 

・広く農村集落に野生動物が出没して被害を出すようになったのは30~40年前からである。

 しかし時代をさらにさかのぼり、江戸時代の様子をうかがうと今以上に獣害が苛烈をきわめていた事実が浮かび上がる。

 

・武井弘一琉球大学准教授の『鉄砲を手放さなかった百姓たち』(朝日選書)によると、江戸時代は武士より農民のほうが多くの鉄砲を持っていたそうだが、その理由は獣害対策であった。多くの古文書から実例を挙げているが、田畑の6割を荒らされたとか、年貢の支払いができなくなったから大幅に減免してもらった記録もあるという。だから、藩や代官に鉄砲の使用を願い出て駆除に当たっていたのである。

 

考えてみれば中世から江戸時代でも、ナラシカの食害は大問題だった。奈良近郊の農家はナラシカが田畑を荒らすことに苦しんでいたが、駆除ができなかったからである。追い払っても、その過程でナラシカを傷つけたら人のほうが罰せられた時代もあった。奈良も、古くから獣害被害に苦しんできたのである。

 だから明治になって、四条県令がナラシカを駆除対象にした際に喜んだ農民も少なくなかった。

 

・シカの分布の変遷を調べると、縄文時代には東北でも多くのシカがいたようだ。貝塚からシカの骨が大量に発見されている。ところが江戸時代の後期に入ると、急に減り始める。その背景に、大規模なシカ狩りを実施した記録が各地ある。1722年に男鹿半島秋田藩上げての狩りを実施して2万7100頭のシカを獲ったとされる。これも獣害対策の一環だろう。その後も狩りは続き、シカは男鹿半島では絶滅したらしい(近年、再び出没している)。同じくイノシシも獣害対策として東北各地で大規模な駆除を実施した記録がある。

 さらに資料を探っていると、トキを害鳥として鉄砲で追い払った記録も出てきた。

 

原因として考えられるのは、やはり明治以降は幕府の禁制が解かれ、高性能の銃が導入されて駆除が進んだことがある。食肉としてもシカやイノシシが狙われた。江戸時代も肉食はこっそりと行われていたが、明治に入って公に奨励されるほどになっていた。そのほか骨や角なども野生鳥獣は資源として追われるようになったのである。

 加えて野生動物そのものが毛皮の供給源として乱獲された。毛皮は欧米への輸出品として大きな割合を占めていたうえ、戦時下では軍用物資だった。大陸へ日本軍が侵攻すると、防寒用軍服などにも毛皮は求められたからだ。1880年代には軍用の毛皮を調達する制度がつくられ毛皮市場も形成された。じつは、猟友会が結成されたのもこの時期である。国の主導で狩猟者の組織化が進められたのだった。

 

毛皮の対象となったのは、ツキノワグマにヒグマ、オコジョ、カワウソ、カモシカ、シカ、クマ、キツネ、タヌキ、ウサギ………などである。よい毛皮の取れる動物は、軒並み狙われるようになる。さらにラッコやアザラシなど海の動物も対象になった。

 

戦後は、焼け野原になった町の復興のため、そして経済復興のために木材が求められ、伐採が加速した。そこに木材として有用なスギやヒノキを植える拡大造林政策も取られた。

 こんな状態では、野生動物も安穏と暮らすどころか生存の危機に陥っただろう。自然が荒れたから獣害も減るという皮肉な関係にある。

 

<国がシカを保護した時代>

・獣害が出ない時代とは、野生動物が激減した時代でもある。実際、シカの生息数も少ななかった。シカの生息数の長期データが見つからなかったので正確には言えないが、どうも1960-70年代がもっとも少なかったと思われる。

 

・シカも生息数が減少した時期は保護対象だった。その過程を追ってみよう。

 明治以降、北海道では1877年にエゾシカ猟の一部規制、さらに全面禁猟(90年)措置が取られた。当時エゾシカの肉を缶詰にして輸出する産業が発展していたのだが、そのためエゾシカの絶滅が心配されたのである。

 

・だから戦後の狩猟行政は変遷があるように見えて、じつは一貫してシカを保護してきたと言って過言ではない。保護策を見直したのは、21世紀に入ってからなのだ。

 

・ただシカは、ネズミのように1年に幾度も、多数の子を出産するわけではない。いきなり増加するのではなく、何年も前から人間が「近頃増えてきたな」と感じる徴候はあったはずだ。そして増える要因もそれ以前から存在していたと思われる。それらに気づいて早く手を打っていたら、事態の深刻化は防げたのではないか、と感じる。

 

<間違いだらけの獣害対策>

<シカが増えた3つの仮説>

・一般によく言われる要因は3つある。

まず①地球温暖化。次に②狩猟者の減少。そして③ニホンオオカミという天敵の絶滅。

 

・②「狩猟者の減少」だが、これを論じる前に確認しておかねばならないのは、本当に狩猟者は減ったのかどうかである。

 動物の狩猟には、まず資格がいる。そこで狩猟免許(銃猟とワナ猟に分かれる)の所持者数を見ると、1975年には51万8000人もいた。それが90年には29万人となり、2014年には19万4000人と急減している。

 

しかも有害駆除数の推移を見ると意外な点が浮かんでくる。1990年と2014年の駆除数を示すと、シカは4万2000頭から58万8000頭、イノシシが7万200頭から52万600頭へと急増している。両年の間に10万人以上も狩猟者が減ったにもかかわらず、駆除数は数倍から10倍以上になっている。狩猟者数と有害駆除数は必ずしも相関しない………というより、逆転しているのだ。

 では、なぜ狩猟者が減っているのに、駆除数は増えたのだろうか。

 その裏には報奨金の値上げがある。有害駆除を行うと支払われる報奨金額は自治体によって違うが、以前は1頭当たりせいぜい5000円だった。それが地域によって2万~3万円まで上がっている。これまでボランティアに近かった駆除も、頑張りがいが出たのだろう。ハンターの高齢化は進んでいるが、まだまだ猟は行なっているのだ。

 

野生動物が増えた最大の理由

・最初に掲げた3つの要因を考察すると、ことごとく否定的な見解が出るわけだが、じつはあまり指摘されてこなかった、しかし最重要なシカの増加要因がある。シカだけでなく、野生動物全般が増えた理由だ。それは………餌が増えたことだ。

 

・加えて里山は主に落葉広葉樹林に覆われているが、シカが好んで食べる草木はそれこそ山とある。照葉樹林化している里山も少なくないが、照葉樹の葉も食べられるし、ドングリを実らせる樹種も多くシカに餌を提供する。

 全体として山には野生動物の餌が豊富といえるのではないか。

 

・山に豊富な餌があり、里にも農業廃棄物がたっぷりある。人が少なくなり農地に侵入しても追い払われない。だから野生動物は、奥山と里山を行き来している可能性が高い。これこそシカを含む野生動物増加の最大要因ではないだろうか。

 環境省によると2013年のシカの推定数は約305万頭、イノシシが約98万頭(いずれも推定中央値)。イノシシは近年横ばいだが、シカはこのままだと23年には453万頭に増えると推定されている。

 

<有害駆除には向かない猟友会>

・猟友会はあくまで狩猟愛好者の会であり、有害駆除の主戦力には向いていない。有害駆除のプロ集団をつくるべきだとする声も強いが、利害関係が交錯してなかなか進まないのが実情だ。

 

獣害対策は「防護」と「予防」にあり

・じつは駆除より先に考えるべきは「防護」だ。具体的には被害を被るものに防護柵を張ることになる。これは農作物や樹木を単体でガードするものと、農地や林地を囲むもの、そして集落など地域全体に野生動物が入れないように囲むもの、そして集落など地域全体に野生動物が入れないように囲む防護柵の3つの段階がある。これらしっかり設置しておけば、確実に内側の農作物は守れるはずである。

 しかし、いずれも設置の仕方を誤ると効果が出ない。たとえば防護柵の場合は地際をしっかり押さえておかないと、シカやイノシシは簡単に持ち上げてくぐってしまう。

 

ジビエ(野生鳥獣肉)が獣害対策にならない理由

ジビエの最前線を追うと、シカ肉が人気を呼べば獣害の元であるシカの駆除も進む、というほど単純ではないことが浮かび上がる。ジビエの普及は有害駆除とまったく別の次元であり、連動していないのだ。それどころかジビエを得るための狩猟が獣害対策と相反することも有り得るだろう。

 もし、獣害対策としての狩猟とジビエの普及を両立させようと思えば、現在の有害駆除体制を根本から組み直さないと難しい。専門的に駆除を担当する組織と効率的な解体処理施設、そしてジビエの販売先と綿密な連携を組む必要がある。

 ともあれ補助金目あての有害駆除と流行に乗るだけのジビエを抱き合わせても、決してうまくいかないだろう。

 

2016年の処理数は、約1800頭にのぼった。ニホンジカ専門の処理施設としては日本最大級だという。これほどの数を扱うようになったということは、ジビエブームに乗って急成長か……。

「全然、利益は出ません。一時は廃業を考えたくらいです」

 意外や柳川瀬社長の口調は重かった。ようやく話を聞いたジビエ事情からは、この世界の抱える根本的な問題が浮き彫りになる。

まず会社の設立には補助金を使わなかったという。その代わり引き取るシカは選ぶ。質のよい肉を提供することで事業化をめざした。銃猟で仕留めた獲物は、頭か首を撃ち抜いた個体でなければ使えない。銃弾が肉はもちろん内臓に当たったものは商品にならない。とくに胃腸部分に当たると、大腸菌が体内に飛び散るため食用にできなくなる。

 

・「まずシカは売り物になる肉が少ない。体重で見ると、だいたい肉、内臓、骨と皮で3分の1ずつの割合。その肉もおいしくて売り物になるのは背ロースとモモ肉ぐらい、肉質が良いのはさらに少なくなる。ほかの部位の肉は臭くて人の口には合いません。計測したところ、販売できるのは全体の15%程度でした。だから肉の注文が増えても十分に供給できないのです」

 背ロース肉は100グラム当たり卸値700円前後で取引されるが、これ以上値を上げるのは難しいという。