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能の物語では、生きている人間が主役になることもありますが、“この世ならぬもの”である神・亡霊・鬼などの霊的存在が主役になることが多い、という特徴があります。(1)

 

 

『能から紐解く日本史』

大倉源次郎   扶桑社   2021/3/21

 

 

 

<伝統文化>

・私はずっと、日本の伝統文化の中で「能楽」を見直すとはどういうことか?という問いを考え続けてきました。私たちが生きたしるしをいかに次の世代へ伝えるか、その役目を引き継いで、微力ながら必死に精進してきました。

 能は、変わらぬ伝統文化として七百年近く、日本人とともにあり続けてきたものです。

 

本書を楽しむ基本《能楽用語》

<◎能楽とは、何か?

能楽】能+狂言のこと

――まず一番大きな言葉の意味をお尋ねしますが、“能楽”とはどんなものなのでしょう?

 

源次郎 歴史的に言うと、室町時代観阿弥世阿弥親子によって大成された楽劇、ですね。

 室町時代は今から約650年ほど前ですね。楽劇というのは“音楽と演劇が融合した藝能”です。西洋ではワグナーのオペラを楽劇と呼びますが、能楽もオペラと同じようにすべての台詞が音楽になっていますし、音楽・演劇・舞踊が高いレベルで一体化した音楽詩劇といえる舞台芸術ですね。

 もう少し詳しくいうと、それ以前の奈良時代平安時代からさまざまな藝能があり、田楽・幸若舞・猿楽などをすべて「能」と呼んでいたのです。が、猿楽が一世を風靡したため「能=猿楽」と同義語になりました。古は多くの座が活動していたのですが、中世に大和四座(観世・宝生・金春・金剛)にまとめられ、江戸時代に喜多流が加わって四座一流となりました。

 明治維新以降は「能楽」と呼ばれるようになり、現代では「能」と「狂言」をあわせて表現するときに「能楽」と呼びます

 

能】五流が上演する、伝統的スタイルの曲

――この本のメインテーマである“能”とはどのようなものか、簡単にご説明いただけますでしょうか?

 

源次郎 現代の用語では、「能楽」のうちの「能」とは、観世・宝生・金春・金剛・喜多のシテ方五流が主体になって上演する曲を指します。伝統的な演能スタイルに則った演じ方をもっぱら「能」と呼びます。これは古典でも新作能でもそうですね。

 

<◎能楽を演じる人たち

能楽師】能・狂言の演者たち

 

源次郎 「能楽(能・狂言)」の演者を総称して「能楽師」といいます。

 公益社団法人能楽協会には、玄人の能楽師が一千百人ほど所属しています。必ず次のいずれかの役柄と、それぞれの流儀に所属しています。

シテ方五流=観世流宝生流金春流金剛流喜多流

ワキ方三流=高安流・福王流・下掛宝生流

狂言方二流=大蔵流和泉流

 

囃子方には笛(能管)三流、小鼓四流、大鼓(大皮)五流、太鼓二流

 

=一噲(いっそう)流・森田流・藤田流/小鼓=観世流・大倉流・幸流・幸清流/大皷=葛野(かどの)流・高安流・大倉流・石井流・観世流/太鼓=観世流金春流

――源次郎先生は「能楽小鼓方大倉流」の宗家になるのですね。

 

【シテ】能・狂言の主役、演出

――「シテ」とは能の主役とのことですが、他の演劇や映画の主役とはかなり違いますね?

 

源次郎 能の物語では、生きている人間が主役になることもありますが、“この世ならぬもの”である神・亡霊・鬼などの霊的存在が主役になることが多い、という特徴がありますまた、狂女・狂男のように人生が狂ってしまった者も主役になります。

――現代的なエンタメの主役と違って、謎が多いですよね。死んだ人や狂人が主役になることは現代ではめったにないですし、加えて、他のエンタメと違って、お面をかぶっていますよね。

 

源次郎 そうです。シテは役柄によって面をつけて演じられます。どの面をつけるかは曲に大体決まっており、面の種類で役の性格も定まってきます。

 

ワキ】シテに出会ってしまう、生きている人

――ワキはズバリ「脇役」ですよね?

 

源次郎 はい、そうです、と言いたいところですが……そうとも限らないのです。いってみれば“シテに出会ってしまう”“生きている人”でしょうか。観客の代表、ともいえます。

 ワキは場面上、生きている人間、という設定なので、直面(素顔)で演じられます。諸国を巡る僧・神職・武士など男性の役が多いですね。

 ワキには能の冒頭で場面設定・状況説明を行うなど構成上とても重要な役目があります。

 

ツレ】付き従う役

――舞台にはシテとワキ以外にもいろんな役者さんが登場しますが、その方々にも独特の呼び方があるのですか?

 

源次郎 そう、まず「ツレ」ですね。シテ(主役)の兄弟・姉妹・敵味方・貴人・従者などさまざまな役があります。

 詳しくいいますと、シテに対して同じ意思をもち、シテに連れられている関係の場合と、反対に相対する関係で登場しているときがあります。

 漢字では「連」。単に「ツレ」というと「シテツレ」の略で、主役側の従者など、「ワキツレ」というと、ワキの住者になります。

 さらに、シテやツレに付き従う従者の役に対しては「トモ(供)」という呼び名もあります。

 

【子方(こがた)】能だけの、ちょっとした特別な子役

――先日、拝見した舞台に出ていた子どもが凛々しくて、とても可愛かったです。

 

源次郎 「子方」です。いわゆる“子役”なのですが、能の場合はちょっと違います。

 まず、“子どもの役”を子どもの役者が演じる場合。現代劇でもある、普通の子役ですね。これには『百万』や『桜川』の子方、『鞍馬天狗』の牛若丸、『隅田川』の梅若丸などの役があります。

 次に挙げられるのが、能に独特な“天皇や貴人の役”です

 能は身分の高い人(貴人)の前で演じられることもありました。しかし天皇・皇族や貴人を大人が演じると似合わないことが多いのです。本当の貴人の前で大人の貴人の役を演じるのは憚れる、ということもありました。そういうとき、子どもが演じることでかえってリアリティが出るんですね。それが慣習化したのが“大人の役”を子どもの役者が演じる場合です。

 こちらは『船弁慶』の義経、『国栖』の天武天皇、『花筐(はながたみ)』の継体天皇などですね。

 

<◎能の物語には、ジャンルが五つ

五番立】五つのジャンル「神・男・女・狂・鬼」

――能のプログラム的なことを教えてください。ジャンルが五種類ある、とお聞きしたのですが?

 

・源次郎 じつは昔は、一日に七番、九番立のプログラムが組まれて、丸一日かけて能を楽しんでいたのです。そして、たくさんの謡曲を無理矢理分類したのが神・男・女・狂(雑)・鬼なのです。「神・男・女・狂・鬼」の五つの曲趣に分別された中から一曲ずつ、計五番を一日で演じるのが「五番立」です。そして能の合間あいまには狂言が演じられたのですね。

 現在の能の公演は二時間におさまる構成が多く、能→狂言→能のようになっています。

 

能には歴史の秘密が隠されている

<◎「国栖(くず)」――天武天皇の身を守った吉野の先住民族たち

聞き手(以下、――) 能に隠された日本史の秘密を探る、というテーマなのですが、能が日本の歴史とどうリンクしているか、能の知識がなかったり、鑑賞に慣れていない初心者にもわかりやすい曲を教えてください。

 

大倉源次郎(以下、源次郎)そうですね、たとえば古代の天皇の隠されたエピソードを伝える能はどうでしょう。その一つが『国栖』です。古代の日本を大きく変えた天武天皇の、壬申の乱(672年)前夜を謡った曲です

 天武天皇の兄・中大兄皇子(のちの天智天皇)は、乙巳の変大化の改新・645年)で歴史に残るクーデターをなしとげ、古代日本の政治を刷新しました。そこに始まる歴史の大変化がこの能に謡われているのです。

 

――天智天皇崩御すると、息子の大友皇子諡号弘文天皇)と弟・大海人皇子(のちの天武天皇)とが後継を争うことになってしまいます。世にいう壬申の乱です。

 

・源次郎 この曲『国栖』にははっきりと、「吉野山地の奥に住む人びとが天武帝を守った」「権現(ごんげん)思想を奉ずる人びとが帝の後ろ盾についたのだよ」ということが描かれています。

 天智天皇七(668)年から天武天皇元(672)年の4年間に起きた歴史上の出来事が、能に謡われているんです。

 能では天武天皇を子方が演じ、「伯父何某の連(むらじ)に襲われ」ということになっています。しかし史実では大海人(おおあまの)皇子は壮年で、政敵・大友皇子はまだ若い。二人は叔父・甥の間柄ですから、『国栖』ではこれらの関係がなぜか逆転された設定になっています能楽研究者の故・表章先生も「これはおかしい」と指摘され、天野文雄先生も「これは謎です」と首をひねっておられました。

 さておき、天武天皇一行をかくまう老夫婦は、国栖族と呼ばれる先住民族です。平地の民族と違って米を食べず、山の幸(根芹などの山菜)や川の幸(国栖魚=鮎など)を食べて暮らしていたそうです。川に小さな舟を浮かべて漁をし、その舟で吉野水系を自在に移動していました。

 

・翁はすごい剣幕で、山や谷に響きわたる大声を出して一族を呼び寄せようとしました。多勢に無勢と、追っ手は慌てて退散します。

 この吉野の山中には翁と同じ国栖族の仲間が大勢住んでいるのです

 ではなぜ、大海人皇子は助けられ、天智帝側の兵士は追い払われたのでしょう?それは国栖の人たちと天武天皇とは同じ信仰を奉じていたから、ではないでしょうか。それが権現思想を信じる人びとから支持された、追い払われた天智帝側の人たちはどちらかといえば神道系だった、と考えられます。

 国栖の翁は、兵士が家や舟を捜索しようとしても勝手にさせません。ほうほうの体で追っ手が去り、騒動が落ち着くと、官人が老夫婦を称揚し、帝もみずから感謝を示されます。老夫婦は、かたじけない、と感激の涙を流します。

 現行の演出では、夜も更けたところで「中入」となり、老夫婦はいったん退場します。再び現れたとき、媼は天女に、翁は蔵王権現に変じています。

 蔵王権現とは、吉野山中の金峯山寺蔵王堂に祀られる菩薩さまです。

 

こうして終盤に蔵王権現が顕れることで、国栖族は権現思想を信奉した人びとだった、ということが明かされます

 

『国栖』は、追いつめられた大海人皇子が、吉野山中で権現思想の民族=賀茂族や国栖族と出会い、助けられて復活し、ついに政権を取った、という物語です。別の言い方をすると、天武天皇は吉野で、山岳信仰の人びとの大きなネットワークに助けられた、ということです。

 

<◎権現思想とは何か――鍵を握る“役行者
源次郎 権現思想は『国栖』だけでなく、ほかの曲にもしばしば現れます。いわば、能楽に広く影響を与えた重要な宗教思想です。

権現」とは“姿を持たないあらゆる神仏が、神仏習合から生まれた日本独特の神や仏として顕れる”という意味です。「権現」の「権」とは、「権禰宜(ごんねぎ)」「権大納言」などの「権」と同じで、「仮の」という意味です。「仮に現れる」から「権現」なのです。

 

<◎京の都を席巻していた天台宗と、世阿弥のすごい関係

・源次郎 比叡山は、のちに念仏宗法然親鸞や、法華宗日蓮禅宗栄西道元など立派な宗派の宗祖を輩出しました。それだけ多くの人材が集まったということです。

 天台宗の中心思想は法華経ですが、密教・念仏・禅なども含んでいて、仏教数学の総合大学のようなものだったといえます。

 

・――本地垂迹とは、「日本のローカルな神々は、じつはインドの仏さまたちが化身したものだ」という思想ですね。

 

源次郎 そうです。ですがこれ、「神仏の姿は皆、仮のもの」という権現思想に似ていませんか?

 

能の謎の中心――翁と秦氏

翁面(おきなめん)が各地の神社でご神体になっている謎

・聞き手(以下、――) 大昔の能楽師たちが日本の各地からもち帰った物語は、どのように能の曲になり、今に伝えられたのでしょうか。その代表的なものは?

 

大倉源次郎(以下、源次郎) 一番に挙げるなら、『翁』でしょう。

 能の中でも『翁』は特別な曲です。じつは「能にして能にあらず」と言い伝えられていて、ほかの曲のようなストーリーがありません。詞章も「とうとうたらりたらりら」という謎の呪文のような言葉から始まります。

 もう一つ、『翁』の舞台では、能役者はほかの曲のように面をつけた姿で登場するのではなく、直面(素顔)で登場し、舞台上で面箱から翁の面を取り出して、お客さまの前でつけるのです。

 それほど一種独特な曲であるにもかかわらず、やはり『翁』は能を代表する重要な曲なのです。

翁』の舞いは天地開闢天孫降臨、ビッグバンといった宇宙の出来事を象徴的に表している、とされます。すべての能が演じられる前に一番はじめに演じること、あるいは新しい舞台をはじめて使うとき、正月などの節目に上演する特別な「始まり」の曲です。

『翁』の曲構成は、各地の祭礼に見られる翁舞、翁藝能のパターンと共通しているといわれます。能の『翁』に関してもほかの曲とは分けて、特別に「翁藝能」と呼びます。

老いて神仏の境地に近づき、にこやかに微笑む老人は、近未来の象徴といえます。その老人が舞台上で「天下泰平、国土安穏」を祈願し、この“所”(場所)に集まった人たちを祝福する、あるいは鎮魂する。こうした構造を「予祝藝能」といいます。

 

・能の古い形が今も生きている、いわば古典中の古典のような曲なのです。

 始まりの頃の能楽師が、各地で、春の田植えや秋の収穫などの節目で演じたのがこの『翁』と各種の「藝能」だったことでしょう。

 

・最初、そのご神体は岩や巨木のような依り代だったと思うのですが、だんだんと変わっていきました。たとえば丹波地方では翁面をご神体とする神社が多いのです。ほかにも翁面をご神体にする神社は多々あると思います。

 おそらく翁藝能の発生と伝播にともなって、翁面がご神体となっていったのでしょう。仏教が東大寺から国分寺として全国に広がったように、寺社仏閣が協力して広げる全国ネットワークと、翁面の伝播ルートは完全に一致するのです。

 これらの変化がいつの時代に起きたかを調べれば、もっとスリリングな日本の歴史がわかるのではないでしょうか。

 

水田稲作と切っても切れない“在原(ありわら)”『伊勢物語

源次郎 翁藝能を稲作とともに広めたのは、在原氏ではないかと私は考えているんです。平安時代前期の頃でしょうか。

 

――平安時代の前期、承和(じょうわ)(834~848)や貞観(じょうがん)(859~877)年間は、九州から奥州(現・東北地方)まで、藤原家が全国に勢力を伸ばした時代だそうですね。京都から九州・奥州へということは、貴族制度を支える荘園文化が各地で起こった天変地異などをきっかけに全国に広がったともいえるかもしれません。

 承和の変では大伴氏・橘氏などの名家が追い落とされ、いよいよ藤原氏の権力が強くなっていきます

 

源次郎 荘園制度の普及とともに、おそらく水田稲作も改良されていくと思うのですが、より進んだ水田稲作とともに能面も広がっていったのではないか、と思います。

 

翁というのは老年男性への尊称になっている通り、老人、大変に年をとった男性のことです。

 稲積翁は、長年の経験と知恵で稲作を完成させる、ということの象徴ではないでしょうか。一人の人間ではなく、何世代もの人間が長老や先達の知見をもとに稲作を工夫し、それが成功する、という意味ではないかと。

 米作り、稲作というのは大変な農作業です。今は水田といえば平野部に広がっているから、昔から平らな平野に田んぼを作っていたかのように思いがちですが、先にも触れたように、じつは平野にまんべんなく水を引くというのは平野部に水田を広げたときに出た残土を積み上げて作った、という説を最近知りました。なるほど、たしかにどちらも相当の土木技術がないと作れませんからね。

 

『翁』――謎の翁たちは在原氏なのか

・源次郎 在原の業平は『伊勢物語』では色男、陰陽の神のように描かれているけれども、じつは生産の神さまなんですね。陰陽の神さまですから男女の和合にも関係してくるのですが、要するに作物がどうすればできるかを知っている人たちなんです。

 

地震と管丞相(かんしょうじょう)

・源次郎 ちょっと寄り道をしましょうか。“貞観大震災五点セット”というものがあるのだそうです。非常時持ち出し品ではなく、歴史の話です。

 まず富士山の大噴火(864年)。次が播磨国大震災(868年)。そして陸奥国(現・東北地方)を襲った貞観地震(869年)、それと日蝕(873年)。残る一つは? 菅原道真なんです。

 

・さて、この五点セット、現代でもあったというのです。

 まず阪神淡路大震災(1995年)、そして東日本大震災(2011年)。日蝕は2012年に九百年ぶりの見事な金環食が観察されたとのことです。さすがに富士山の噴火は起きていませんが……。

 では菅原道真は?

 これがいたんですね。それも東日本大震災のときにいたんです。事故翌日の3月12日に福島第一原発の緊急視察に、菅直人総理大臣がヘリコプターで飛んでいった。

 菅総理とは、古い言葉でいうと“菅丞相”にほかなりません。「原」が省略されていますが、貴人の古い呼称では「菅公」「藤家」など氏の一字で呼ぶのです。

 

在原氏は源氏や平氏と同じく姓を賜って臣籍降下した天皇家の傍流です。菅原氏は古代から天皇家に仕えた家臣の家系。藤原氏も家臣の家系ですが、歴史の中では藤原氏が押しも押されぬ主流派となってゆき、「望月の欠けたることもなしと思えば」と謳うほどの藤原の天下をつくっていきました。奈良時代から平安時代にかけて一大勢力だった興福寺も、鎌倉時代以降の大勢力となった本願寺も、皆、藤原氏と関係する寺院でした。

 仏の教えで民衆をつかみ、経済効果を上げて、結果的に藤原氏が天下を支配したと批判材料にされますね。

 菅原道真地震について述べた百年、二百年後、東北に赴いて東蝦夷アイヌ?)の地を開拓していった人たちも藤原氏の系統です。奥州藤原氏のもとになった人びとで、11世紀頃でしょうか、藤原氏の勢いが日本の隅々にまで及んでいきます。

 その藤原氏のスポンサードを受けられたおかげで、猿樂は活躍の幅を広げていき、やがて能楽が生まれる下地になるのです。それは確かなんですね。

 

<◎驚くべき国際社会だった飛鳥・奈良時代

源次郎 もう一つ寄り道して、少し時代をさかのぼりましょう。

 6、7世紀には聖徳太子がたくさんのお寺を建てました。奈良に法隆寺法起寺中宮寺、橘寺、葛木寺。これに加えて難波の四天王寺、京都太秦広隆寺が、太子建立七大寺と呼ばれます。また、太子建立四十八院という伝承もあり、たとえば奈良大淀町の比曾寺(ひそでら)などが挙げられます。

 当時のお寺は単なる宗教施設ではありません。僧侶の修行道場・教育や研究の専門機関というだけでもない。もちろんそれらの機能はあるのですが、それに加え、外交などのデモンストレーションや祝祭も担う、一大文化センターだったのです。その代表が東大寺です。

 6、7世紀の朝鮮半島三国時代高句麗百済新羅)ですが、日本と関係の深い百済が盛んでした。日本で大きな寺院が開闢するときには、大陸からは百済を通ってさまざまな使節が来ていたと思います。使節には藝能をつかさどる楽人や舞人も大勢含まれていたはずです。藝能は当時の外交儀礼には欠かせなかったからです。

 

『梅』――権現思想と対立する儒教思想

――なるほど、藝能の歴史に当時の政治や戦争が大きく影響していた、というのはたしかにありそうですね。むしろ影響を受けないほうがおかしいです。

 

源次郎 数世紀にわたってさまざまな渡来人がやってきた、これはもう歴史の定説として確定的だと思います。しかし、先住民たちとどのようにして仲よくなったのかがわからないのです。

 たとえば、私は、徐福伝説の渡来人たちは仏教の影響を受けたユダヤ教徒だった、と考えています。では、その人たちが日本に入ってきたとき、アニミズムである多神教の先住民たちとどのように付き合っていったのでしょう?

 戦争して征服したのでしょうか。平和的に取り込んだのでしょうか。

 繰り返しますが、定説では3世紀以降の大和、つまり奈良にはさまざまな民族が入ってきました。難波からは巨大古墳の文化を持った人たちが、越前からは継体天皇とその一派の人たちが、また熊野からは神武東征の伝説を示す勢力が入ってきたとの考え方があります。あるいは伊勢など別のルートもあったのでしょう。

 奈良盆地に多くの民族がひしめき合った結果、奈良は歴史の舞台として栄えましたが、争いも絶えませんでした聖徳太子の時代、あるいはもっと前の第21代雄略天皇の時代から壬申の乱まで、戦乱が繰り返し起きています。

 

・――都が奈良から京都へ移って、宗教的な権威も南都仏教から北嶺の天台仏教に移ります。どんな変化が起きてきたのでしょうか?

源次郎 そうです、天台宗が大きく台頭してきます。ですから謡曲観阿弥世阿弥が能をつくり出した頃の曲には、天台の教えが数多く入っているのです。梅原猛さんはそれをよくおっしゃっていました。「神仏習合の原型がそこに描かれている」と。

 天台宗は仏教の立場から神仏習合を打ち出してきました。神道神道で、神宮寺を建てるなどして仏教勢力を取り込む、といいますが宥和していこうとします。このトレンドは長く続いたと思います。

 

『養老』――権現思想と風水思想で国家をととのえる

源次郎 ひるがえって、権現思想にもとづいたお能の例を挙げてみましょう。たとえば『養老』ですね。室町時代世阿弥作と伝えられる曲です。

 

・つまり、お互いに扶け合って、豊かな国を造っていきますよ、といったことを謡うわけです。こうしてひと言ひと言を見ると、『養老』という曲の詞章は、まさしく権現思想を、そして国のあり方のようなものを謡い上げていることがわかります。

 これを室町幕府の将軍宣下のときにプレゼントする。能楽師の心意気です。

 

足利将軍・信長・秀吉もできなかったことをなしとげた徳川家康

源次郎 謡曲『養老』に込められた意味が足利将軍には百パーセント伝わっていたのかどうか。もし伝わっていれば、足利政権はもっと続いたかもしれませんね。

――それでも徳川政権に次いでおよそ235年も続いたのですから、立派ではないですか?この足利政権時代から戦国時代を経て、信長、秀吉の時代に、能が全盛を迎えますね。2016年の大河ドラマ真田丸』でも秀吉の能好きの様子や武将たちの謡曲の素養が描写されていました。

 

源次郎 武田信玄上杉謙信なども能の庇護者で、力の弱った足利将軍家から離れて地方へ散っていった能楽師たちを大勢保護しました。

 

<「謡」が方言を超えて、日本の共通言語になった

源次郎 能楽が正式に武楽に制定されたのと同じ時期、参勤交代も精度として定まりました。

 参勤交代というのは、「特産物を江戸に届けよ」という儀式でもあるわけです。つまり、全国各地の大名に「おのおの領民を督励して特産物を造らしめよ」と命令したのです。当時はまだまだ全国規模の流通網はありませんから、今でいう「地産地消」として全国各地で特産品に力を入れるようになった。これが全国の経済と文化を非常によくしていきました。

 一方、能楽武家の式楽に制定されたことで、全国に読み書きのできる人が増えました。

お能の基礎は謡、謡曲です。これをどのように習うかといえば、要は謡のできる人に弟子入りして、謡本を見ながら、先生のお手本にしたがって謡い、覚えていくのです。

 

――よく「江戸時代は識字率が大変に高かった」といわれますが、文字を読み書きできたのは神官・僧侶や医師などの知識層と、庄屋・名主・行事など村役人と呼ばれる統治層だけだったそうですね。

 しかし武家が皆、謡を習うようになると、それを真似て、農民や町人など庶民も謡をするようになった。庶民も謡本を手にすることになり、その結果、読み書きをするようになったのですね。

 

『石橋(しゃっきょう)』――能楽師が“ゾーン”に入るとき

・源次郎 あるとき、狂言師野村萬斎さんが「オリンピック選手がいい記録を出すときは“ゾーン”に入るという言い方をされている」と話しておられました。なるほど、「ゾーンに入る」というのはよい表現だなと思いました。

 私たち能楽師も舞台に臨んでいるとき、そういう“ゾーン”に入ることがあるのです。面白いことに、何十年も稽古をしないとこの境地に至らないかといえば、そうでもない。子どもでも“入る”ことがあります。

 舞台には魔物が潜んでいるといわれますが、「この子はもう完全に入っているな」と思うときがある。そういうチャンネルを開くことができる子どもは羨ましいです(笑)。

 

<◎魂魄の記憶

源次郎 『翁』が表現しているのは天地開闢、ビッグバンです。これを演じるというのは、始まりはここです、ですから皆さんくだらない喧嘩などやめましょう、というメッセージだと思うのですね。天地開闢に思いを馳せる、ビッグバンからの記憶が翁藝能には内包されています。

 記憶には、細胞のタンパク質の中に宿るものと、もう一方の意志や意欲として顕れるものとがあるわけです。それを「魂」と「魄」に分けて考えます。魂が根源的な直感とすれば、能はその時の感情や意志的なものだといえます。合わせると「魂魄」という言い方になります。

 

古代仏教寺院で展開された、世界最先端芸術ショウ
能はさまざまな民族と歴史の藝能を取り入れたミュージカル

源次郎 本書でお話ししている歴史は、けっして宗教学者歴史学者の方々が認める学説などではありません。藝能者としてずっと伝わってきた曲を演じ続けることで感じてきたことなのです。

 口承文学と同じで、身体で演じ続けていることの強みがそこにあります。そんないい加減なことを語っていいのか、とお叱りをいただくかもしれませんが、能自体、かかわった人の数だけ解釈が生まれる藝能なのですから。

 

「翁狩衣」と蜀江錦、バチカン

謎に満ちた聖徳太子と、太子を支えた秦氏

源次郎 三国時代が終わると蜀=蜀漢という国はなくなりましたが、蜀という呼び名は残りました。蜀江錦も作り続けられ、貴重品として日本にも西洋にも売られていきました。蜀とローマ・バチカンがつながっていた、ということは蜀江錦という証拠によってはっきりしています。ではそれが日本に入ったのは?翁藝能の原型になるものを日本に伝えたのは、渡来人の一族、秦氏だといわれています。

 秦氏は3世紀の応神天皇の頃に百済から日本に帰化した、あるいは5世紀雄略天皇の御代に新羅から渡来した、いや中国本土から渡来した漢民族系だ、などと謎に包まれた一族です。

 はっきりしているのは、先進的な知識や技術で飛鳥時代以降、大和朝廷を支える大きな力になったこと。人口が多く、戸籍記録に載っているだけでも数万人もいたこと。きわめて有力な豪族でした。

 秦氏は大陸から、感慨や陸墓造営などの土木技術者、寺院や神社の建築技術、養蚕・機織り・酒造の技術、そして紙や楽器を携えてきました。秦=機織り、の語源とも考えられます。

 飛鳥時代秦氏で著名な人物は秦河勝です。

 

・――太子が建てた法隆寺の伽藍はなぜ現存しているのか。なぜ山背大兄王はじめ一族が突然滅びたのか。『日本書紀』や『聖徳太子伝歴』、『上宮聖徳法王定説』にある数々の奇跡の記述は事実なのか。あまりに謎に満ちているので、聖徳太子=実在しなかった説まで唱えられています。

 奇跡の多さに、イエス・キリストを連想する人もいるでしょう。馬小屋で生まれた、という伝説一つだけでも似ている! と思ってしまいます。

 たとえば『日本書紀』に、聖徳太子が片岡山を通ると飢えて寝ている人がおり、太子は憐れんで食物と服を与えたが亡くなったとの報せがあり墓に葬った。数日後、太子が命じて墓を開けると遺骸はなく、畳んだ服が棺に置かれていた、という記事があります。

 これなど、『新約聖書』にある“ラザロの復活”とそこかしこが似ているのです。

 

源次郎 最近では、渡来人・秦氏ユダヤ民族には関係がある、といったこともイスラエルでは常識的に、日本でもオープンに語られるようになりました。とすると、聖徳太子の伝説にはなぜかキリスト教の影がつきまとっている、という謎も自由に考えてみてもいいのではないでしょうか。

 がんばって考え続けてみましょう。

 史書によると、聖徳太子は歴とした皇族ですから、キリスト教と関係のある渡来人などではありません。では、太子という存在にキリスト教の影を投影したのは誰か。

 太子ともっとも関係が深かった豪族は蘇我氏です。蘇我馬子は太子とともに『国記』『天皇記』を著していますし、太子自身、蘇我系の皇妃の血を引いています。

 

・しかし聖徳太子蘇我氏は一心同体というより緊張をはらんだ協力関係だったようです。互いに利用し合い、牽制し合う関係です。太子は天皇家の権威を、蘇我氏は豪族の権力を追究したので、本来的には対立したのだと思います。

 太子の側近として重要な枠割りを果たしたのは秦氏秦河勝でしょう。

 上宮王家とまで呼ばれた聖徳太子の一族は、山背大兄王蘇我入鹿と対立したため、一族すべて滅んでしまいましたその後我が世の春を謳歌した蘇我氏も、乙巳の変大化の改新)で入鹿は殺され、蝦夷は自害し、蘇我宗家は滅びます。

 蘇我氏の中には中大兄皇子中臣鎌足側に協力した石川麻呂という傍系有力者もいたのですが、のちに謀反を疑われて自害しています。蘇我氏も滅びてしまったのです。多くの氏族が聖徳太子と深くかかわっていますが、そのひとつが秦氏なのです。

 

秦氏が残した謎のメッセージは、今も能の中に生きている

――とすると、聖徳太子の生涯に見え隠れする数々の奇跡の意味もわかってくるかもしれません。すでに滅びてしまった聖徳太子とその一族を顕彰し、遺徳を語り伝えたのは、秦河勝以降の秦氏にほかならないわけですよね。

 秦氏にとっては、聖徳太子が偉大な聖人であればあるほど、それを支えた河勝も偉かったということになるからです。

 

源次郎 ここでもう一度『翁』に注目してみましょう。『翁』は三人の人物によって舞われる曲です。まず「千歳」という、直面(素顔)の若い男。次にシテの翁ですが、白い面をつけるので「白色尉(はくしきじょう)」と呼ばれます。最後に狂言方が舞う「三番叟(さんばそう)」です狂言方は前半は若い男の姿で「揉之段」を踏み、後半は鈴を持って「鈴之段」を踊ります。これは黒い面をつけるので「黒色尉(こくしきじょう)」。白いお爺さんと黒いお爺さんと若い男、の三人なのです

 この組み合わせで何かを連想しませんか?

 そう、キリスト誕生を祝福しに訪れた東方の三賢人です

 

日本史の影に存在した渡来人・秦氏能楽

――ここで秦河勝一族について、簡単にまとめておきましょう。ごく定説的なまとめです。

 秦氏は一説に3世紀から6世紀頃、朝鮮半島を経由して日本にやってきた大陸系渡来人です。秦氏という氏族の名は始皇帝の秦に由来するとの伝承があるので、本人たちは秦の末裔を自任していたということでしょう。

 

源次郎 当時の渡来人は先進的な技術や知識をもってやってきました。秦氏はその一方の代表で、もう一方の代表は漢氏(あやうじ)でしょう。これは漢の劉邦一族の末裔を称し、奈良に本拠を置いた東漢氏(あずまのあやうじ)と大阪湾方面の西漢氏(かわちのあやうじ)とがあります。

 秦氏の特徴は人数が多いことで、欽明天皇在位頃の戸籍には七千戸以上の秦姓が記録されています。古代律令国家では家族と郎党合わせて25人ほどで一戸を構成したといいますから、その計算でいくと17万人以上の動員力をもつ大勢力ということになります

 

――その頃から秦氏は「大蔵」や「内蔵」をもって朝廷に仕えたとされていますね。「蔵」とは財政のことですから、財力で朝廷の権力を支えたのですね。

 

源次郎 古代の秦氏でもっとも有名なのは先に触れた秦河勝で、欽明・敏達(びだつ)・用明・崇峻・推古の五代の天皇に仕えたともいわれ、推古朝では聖徳太子のもっともそば近くに仕えました。河勝は山城、今日の京都府に領地をもっていました。山城とは山背とも表記されます。聖徳太子の長子である山背大兄王は、山城の秦氏を後ろ盾にして育ったとも考えられます。皇族の名前にはしばしば地名が使われますが、それはパトロンの所在地であったり育った場所だったりするのです。

 一説には山背大兄王子とその一族は聖徳太子歿後、蘇我入鹿に皆、一度に滅ぼされます。

 

『翁』の祈り、神さまのお辞儀

源次郎 『翁』はすべての曲の中でもっとも古く、神聖とされる曲です。特別な曲であるため、能の「五番立」(神・男・女・狂・鬼)のどれにも分類されません。能楽師だけで演じるのではなく、三番叟は必ず狂言師が演じます。果たしてこれは能に分類できるのか、ともいわれます。「能にして能にあらず」といわれる所以です。

 能でも狂言でもないかもしれない。それゆえ『翁』だけ特別に『翁藝能』として語られることがあります。

『翁』は祝福の曲です。おめでたいことがあったときに特別に舞われます。

 

この『翁』の舞いの最初と最後には翁がお辞儀します。この礼が誰に対してのお辞儀なのか、謎といえば謎なのです。