日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

折口の眼差しのなかにあったヤクザやゴロツキのたぐいは、そうした聖なる異人の末裔であった。(1)

 

 

『異人・生贄』   

 怪異の民俗学7

小松和彦  責任編集   河出書房新社  2001/5/1

 

  

 

よそ者・来訪者の観念    吉田禎吾

憑き者筋の起源とよそ者性

・日本の村では、狐、犬神、オサキ狐などを持っている(あるいは飼っている)という家があって、こういう動物が人に憑くと信じられていることがある。たとえば群馬県多野郡などの山村ではオサキとかオーサキといわれる動物に憑かれると狂乱状態になって、油揚が欲しいとか、すしが食べたいなどと口走る。この地方ではオサキを何匹も飼っているという家々があり、こういう家の人から憎まれると、オサキが主人の代りに復讐して憑き、憑かれた者は時には腹を食い破られて死ぬこともあるという。こういう憑きものを所有しているとされる家々のことを狐持、オサキ持、犬神持といい、あるいは、「筋」の家、「悪いほう」、「黒」ともいう。

 

これら憑きもの持、筋の家々の創設者は、一般に、村の草分けといわれる最も古くからいる家の先祖ではなく、たとえば江戸中期などの比較的後の入植者であることが多い。

 

島根県安来市T部落の村田家は狐持の家筋とされており、隣の部落から寛永――慶安期(1624-1651年)にこの部落に分家し、入村してきたことが明らかである。村田家が入村分家してくる以前からあった家で現在続いている家は二戸に過ぎないが、絶家した家、転出した家が少なくとも六戸はあり、その当時すでにT部落が存在していたことは他の資料から明らかである。この村田家は藩政時代、庄屋をしており、この部落の地主の筆頭であったし、親方でもあった。そしてこの家の二戸の分家はいずれも親方=地主まであり、本家の村田家と同様に狐持とされている。なお、この部落の昔からの四軒の親方=地主のうち三軒までが狐持であった。

 そして狐筋のいわば「よそ者性」はさらに強化される。この村田家の三代目か四代目の頃(享保-安永期)に「素性の分からない女」を妾として家にいれたが、この女が狐持であったことが分り、この時から狐持になったと伝えられている。

 島根県能義郡里部落の中尾家の本家は狐持とされているが、中尾家の先祖は兄弟二人で元禄時代(1688-1704年)によそから里部落に入村した。

 

群馬県多野郡U村K部落38戸のうちもと狐持が一戸あった。この地方にはオサキ持といわれる家と狐持といわれる家とがあるが、K部落には昔からオサキ持はいない代りに狐持がいたという。

 

・同じU村のN部落の狐持についても、その先祖がよそからきた行者であったといわれているが、詳細は不明である。

 群馬県多野郡Y部落では持筋の起源について明確な資料がえられなかったが、以上の例にみられるように、持筋がよそ者に由来するということ、またそのように表象されていることがしばしばあることは明らかである。

 

日本の村落では、他国の者、よそ者に対しては恐怖感、猜疑心が強く、これを警戒する態度があった新潟県蒲原地方では自村以外の世界を「セケン」といい、鹿児島県の村や長崎の対馬その他九州各地などでは自村の者でない者がすべて「タビ」あるいは「タビの人」であった。よそ者が村に往来する場合、一人前の村人としてつきあいするまでに種々の条件を課する制度は日本の村落の各地に見られる。これがいわゆる「村入り慣行」である。

 筆者が1970年の夏に訪れた宮城県田代島では、よそ者がそこで定着するために「たのみ本家」として、村の有力者に「本家」になってもらい、その分家という形で入村して生活するという習慣があった。各地の村において、村入りのさいには米一俵と酒一升を持って部落長の処にあいさつに行き、一定の期間、共同労働としての村仕事をとどこおりなく一定期間実施しなければ村の一員とは認められなかった。共有林などの共有財産のあるところでは、このような「閉鎖性」はいっそう強かった。こういうムラでは、部落の住民の中に共有財産の株をまだ持っていない家がたいてい数軒はあった。

 

幸をもたらす来訪者

・ところで、日本の「よそ者」「異人」「来訪者」という観念は、前述のように、神秘的な邪悪な力に結びついているだけでなく、善なる力、幸をもたらすものとも結びついている。異人、来訪者、乞食など「よそ」の世界からやってくるものが人びとに幸いをもたらすという観念かが古来から存在している。

 いうまでもなく「よそ者」の中にもさまざまな種類があり、職業的な分化の進んでいない伝統的な村落にとって、来訪する職人、芸人、商人の中には、鍛冶屋・桶屋・笠直し・屋根職・大工・井戸掘などの旅職人、薬屋・小間物商・博労など諸種の行商人、巫女・山伏・御師などの宗教者、万歳・春駒・神楽などの祝言人、浪花節・芝居などの諸芸人などがいた。

 

このように、よそからやってくる漂着死体が幸をもたらすという観念がエビス信仰、寄神信仰に由来することは明らかだろう。エビス神は、中世以降は七福神の一つとして、福神の代表格として大黒とともに民間に祀られてきたし、当初は漁民の中で後には商人の間でも福神とされてきた。

 

・異人が幸福をもたらすという観念は、古代日本のマレビト(客人)信仰にもさかのぼることができるらしい。ここで折口信夫のマレビト研究の当否を論ずる必要はなく、古代にもそういう観念のあったことを指摘できれば充分である。折口信夫氏によれば「まれびとは古くは、神をさす語であって、とこよから時を定めて来り訪ふことがあると思われていた……」のであって、マレビトは「古代の村村に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた」。折口は「常世」は「妣(はは)の国」であると共に「死の国」「祖霊のいます国」と述べている。常世は人が死ねばそこに行くところであり、老いることも飢えることもない楽土であり、魂のふるさとである。これは沖縄でニライカナイとかニルヤカルヤと称している、海のあなたにあるという世界である。

 

・なお、海のかなたから人びとに幸いをもたらすために訪れてくる来訪神の観念は、奄美諸島から八重山諸島にいたる琉球列島の島々に現在でも見出すことができることは多くの報告が示している。

 

寄りきたるものの神性

・このように見てくると、大漁の時、たまたま来あわせたよそ者をエビス神として歓待したり、海から寄った石をエビスとして祀ったり、あるいは徳利のような漂流物や、海上をただよう水死人までもエビスとして拾ってくるといった習俗が、基本的には異郷から来臨して幸を人びとにもたらすという信仰に基づいていることが明らかである。その意味でエビス神は、寄神、客神(まろうどがみ)、来訪神、マレビトなどの観念と同種のものといえる。

 

・遠くから訪れてくるよそ者、渡り者が実は神であり、あるいは福祉をもたらすという観念はインド・ヨーロッパ諸民族にもある。古代ギリシャにおいても、ホメーロスの『オデュッセイアー』などによれば、神々が他国からの渡り者に姿を似せて諸国をまわると考えられていたし古代インドにおいても、『マヌの法典』によれば、賓客をもてなすと、富、名声、長寿、天上の福祉を招くといわれた。

 

・なお<よそ者>の神秘的価値は、決して過去のものではなく、現代社会の文学・映画・演劇などの世界に脈々と生き続いているように思える。映画やテレビの時代劇などに、よそからきた浪人者や渡り者などが悪人を倒し、人びとを救い、また去っていくという筋が少なくない。黒澤明監督の映画『七人の侍』がそうだし、これに類似のテーマは日本に限らず西洋にもあり、アメリカの西部劇などにもよくみられる。よそ者の神秘的価値は日本固有のものでも、過去の遺物でもなく、かなり世界に広く見出されるものであろう。

 

異人殺しのフォークロア――その構造と変容―― 小松和彦

異人の両義性について

・民俗社会の外部に住み、さまざまな機会を通じて定住民と接触する人びとを、ここでは「異人」と総称するわけであるが、その内訳は多種多様であって、とてもここでその詳細なリストを示せそうにない。私が取り上げようと考えているのは、そのほんの一部、すなわち、定期的もしくは不定期的に定住民の社会を訪れる旅する者たち、とくに六部や座頭、山伏、巫女などである。

 

・たしかに、社会の周辺に姿を現したときの異人についてのイメージは、山口昌男の説く通りであろう。その異人が人びとに「富」をもたらしてくれるのか、それとも「災厄」をもたらしてきたのか、見当がつかないからである。

 

「異人殺し」の伝説

・しかしながら、各地に残る「異人殺し」の伝説をみてみると、村びとたちは自分たちの喰う飯にすらこと欠く生活をしているにもかかわらず、村を訪れては飯や金品を要求する異人たちをうとんで殺人に及んだというだけではなく、さまざまな理由から異人殺しを行なったようである。そのなかでもひときわ目立っているのが、異人たちの所持する金品の強奪を目的とした殺人である。また、殺された異人たちも、座頭に限らず、山伏や六部(正しくは六十六部)、巡礼、巫女、その他の旅人など、さまざまである。

 

・これらの四つの事例の内容は大同小異で、殺された異人は「六部」「山伏」「行者」となっている。いずれも異人の側に非があったと述べ、殺人の正当性をほのめかしている。もちろん、村びとと異人との間にささいなことからトラブルが生じたこともあっただろうし、婦女子に悪戯をしたり盗みをするような異人もなかにはいたであろう。異人の目に余る悪行に怒って殺人に及んだということもあったであろう。

 

「異人殺し」伝説のメカニズム

・それほど遠くない昔のこと、遠山谷の入口に位置する平岡村の庄屋の家に、七人の旅の六部が宿をとった。ところが、この六部が大金をもっているのを知った庄屋が、欲にくらんでこの六部を人里離れた山のなかに誘い込み、殺してしまったのである。六部を殺した庄屋は、奪った金で一時は羽振りがよかったが、六部の祟りのせいであろう、子孫に不幸が続いてやがて衰えたという。

 

・では、その、もう一つの「異常」とはなんなのだろうか。

 それは、村内に急速に金持ちになった家があったり、金持ちの家が急速に没落したり、あるいはまたたくまに金持ちになり、数世代も経つと没落した家があるという事実、そしてそれが本当なのか私には確かめようがないのだが、多くの場合、そうした家の子孫に身体的もしくは精神的障害をもった者が続出したという事実であろう。こうした事実に対して村びとたちは、なぜそうなったかの合理的な説明をそれに与えることができなかったのである。

 

家の盛衰とその民俗的説明

・座敷ワラシ伝承の報告のなかで、柳田国男が気になる話を書きとめている。すなわち、附馬村の某という家では、先代に一人の六部が来て泊り、そのまま出て行く姿を見た者が無かったなどという話があり、近頃になってからこの家に、十歳になるかならぬ位の女の児が、紅い振袖を着て紅い扇を持って現われ、踊りながら出て行き、同じ村の某の家に入ったという噂がたち、それからこの両家の貧富が逆になった。女の児の移った家を急にたずねると、神棚の下に座敷ワラシがうずくまっていた、などといわれた。

 ここで語られる「六部」はどうなったのだろうか。殺されたのだろうか。消えた六部とその家を立ち去った女児の座敷ワラシとはどのような関係があるのか。あれこれと想像を掻き立てられるのだが、それに答えを出せる遠野からの資料がないのが残念である

 

・さて、私たちは「異人殺し」という“出来事”が民俗社会のシステムのなかにどのように組み込まれているかを解明する過程で、それが民俗社会の「異常」、それもとくに「家の盛衰」の原因を説明するシステムに組み込まれているということを明らかにしてきた。

 

変形されていく「異人殺し」伝説

・民俗社会における「異人殺し」伝説のメカニズムを解明する過程で、私たちはこの伝説が家の盛衰、とくに衰退・没落の原因を説明するために利用されていることを理解した。すなわち、民俗社会には、大雑把にいうと家の急速な盛衰の原因に関して四つのタイプの説明の仕方が存在しており、その一つが「異人殺し」伝説を持ち出しての説明なのである。

 

「現実」の“表層”と“深層”

・中沢が紹介する「零度」に近い伝説は、サデエの娘おせんのもとに養子に入った男の弟で、サエが松の土地を管理している老人によって語られる。

事例19 サデエの時代に山伏のような男が毎晩のように(年の晩だけではなく)やってきては何やかやと強要するものだから困って手打の士族をよんでこの男の首を切ってもらった。さてのちになって語り手であるこの老人には男の子が三人生まれたのに、皆早死してしまうという不幸にみまわれた。そこで今から二十年ほど前、鹿児島から祈祷師をよび占ってもらったところ、抜け目ない祈祷師は村で伝えている方のサエが松伝説をよそで聞き知って、首を切られたのは天神という偉い修験者で、年の晩に訪れたものである、人を殺すと七代たたるので天神の祠を立て霊を鎮めるようにと託宣を与えたものである。そこで老人は今の場所に祠を立てたのだ。

 

・もちろん、いつ、どのような形で、こうした「異人殺し」伝説が語り出されたのかを知ることはできない。実際にかつて異人殺しが行なわれたか、もしくはそれに近いスキャンダルがあって、それがこうした伝説の発生源なのかもしれない。

 

「異人殺し」伝説から「神霊虐待」伝説へ

さて、中沢新一は慎重に「異人殺し」伝説の分析を「伝説」というジャンルを踏み越えないところで留めている。つまり、彼のいう「両義的テキスト」とは伝説という性格を失わない程度に幻想化された物語である。それ以上の変形を行なえば、そのテキストは伝説のテキストではなくなるからだ。

 

「異人殺し」のフォークロアとはなにか
・「異人殺し」伝承はきわめて裾野の広い伝承であると思われる。私たちはこのことを繰り返し思い起こさねばならない。たとえば、この小文で扱った特定の個人による金品を狙っての「異人殺し」と、村びとの総意に基づく「人柱」を求めての「異人殺し」とでは、同じ「異人殺し」でも性格がとても違っており、したがって、民俗社会の殺された霊に対する対応の仕方も当然異なってくるはずである。

 

・その意味で、これまでの考察は、「異人殺し」伝承についての、さらには「異人」の登場するさまざまな伝承についての私なりの研究のプロローグにすぎない。

 

収録論文解題 >

肥後和男「八岐大蛇(抄)」 『古代伝承研究』河出書房 1985年>

・筆者は古代の残存として民俗、特に祭儀を捉えている。それらの事例から蛇が神、とくに山の神あるいは水神や穀神であったことを確認する。それらの神は自然の表象としての荒ぶる神であり、それらとの宥和の為に生贄が差し出されていた。しかし、素戔嗚尊伝承においては八岐の大蛇は素戔嗚尊に退治されるのであり、それは人間自覚の発達による、人間による動物神の否定であり、八岐の大蛇から素戔嗚尊へ、という動物神から人格神への変化を秩序の発生と関連させて論じている。また、さらなる解釈の可能性として穀霊を殺すことにより豊穣を祈る、というフレーザー的な呪術的意味の可能性も示唆している。いずれにせよ、資料的にも充実しており、また後の「自然から文化への移行」や「カオスからコスモスへ」、といった議論に通じるものがあり、生贄について考える際に欠かすことのできない論考である。

 

小松和彦 「異人殺しのフォークロア――その構造と変容」 『異人論』青土社 1985年>

・本稿を含む『異人論』は、80年代の「異人ブーム」を巻き起こした著作である。異人殺し伝説は、それが語られる地域での特定の家の盛衰という「異常」を説明する際に、必要に応じて選択される説明体系のヴァリエーションの一つであり、民俗社会の外部にその力の源泉を求め、その家の忌避、差別を伴うものである。

 

<矢野敬一「『家』の盛衰――『異人殺し』のフォークロア――」 『口承文芸研究』 1992年>

・本論は家の盛衰にまつわる説明の研究において、これまで、異人殺し伝承を始めとする神霊にことよせた超越的な説明体系が特権化されてきた状況を指摘し、本州中部地方のとあるフィールドにおいて家の盛衰をめぐる複数の語りを丹念に追い、より広い視野のもとで論じられたものである。「異人殺し」を騙る側と語られる側の語りの差異は、空間的認識、市場経済へのまなざし、言葉/語の担う歴史性等において決定的な違いを示す。近代化における、人々を取り巻く状況の変化とそれらに対する身の処し方のダイナミズムがそこから浮上することを指摘する。

 

異人・生贄   解説  小松和彦

異人・生贄

「異人」とはなにか

「異人」とは、一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことである。その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人びとにとって具体的な問題となる。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのである。

 ところで、「こちら側」の人びとが接触あるいは想像する「異人」は、おおむね次の四つのタイプに分けられる。

➀ある社会集団(共同体)を訪れ、一時的に滞在するが、所用を済ませばすぐに立ち去って行く「異人」。こうした「異人」の例として、遍歴する宗教者や職人、商人、乞食、観光目的の旅行者、聖地への巡礼者などを挙げることができる。

 

② ある社会集団(共同体)の外部からやってきて、その社会集団に定着することになった「異人」。こうした「異人」の例として、戦争や飢饉などによって自分の故郷を追われた難民、商売や布教のために定着した商人や宗教者、共同体を追われた犯罪者、「異国」から奴隷などとして、強制的に連行されてきた人びとなどを挙げることができる。

 

③ ある社会集団(共同体)が、その内部の成員をさまざまな理由で差別・排除する形で生まれてくる「異人」。前科者や障害者、金持ちや貧乏な人などが、この「異人」の位置に組み入れられることが多い。

 

④ 空間的にはるか彼方の「異界」に存在しているとされているために間接的にしか知らない、したがって想像のなかで一方的に関係を結んでいるにすぎない「異人」。海の向こうの外国人や、はるか彼方の「異界」に住むという「異神」たちが、こうした「異人」のカテゴリーを形成している。

 

・こうした種類の「異人」たちが「異人」とみなされた社会集団の問題になってくるのは、当該集団がその集団としての「境界」を意識し、その集団の構成員とそれ以外の人びとを区別しようとするときである。人びとは「我々の集団・仲間」を作り出すために、その<外部>に「異人」を作り出すのである。この「異人」を媒介にして集団は結束し、その「異人」に対処する作法を編み出し、ときには歓待し、ときには差別や排除に及ぶことになる。

 

・すでに述べたように「異人」とは関係概念である。したがって、「ある特定の集団にとって」という固定化をはかることによってしか具体的な「異人」は現れてこない。従来の異人論の多くは、いいかえれば、民俗的な異人論はこの「特定の集団」を「民俗社会」(村落共同体)に求めてきた。すなわち、民俗社会の(外部)に属し、さまざまな機会を通じてその構成員と接触する人びとを、つまり定期的にあるいは不定期的に共同体を訪れる旅人たちを具体的対象としてきた。

 こうした人びとは、共同体に対して「福」をもたらす存在か、それとも「災厄」をもたらす存在かをにわかには判断しがたい。このために、来訪当初は両義的なイメージを帯びている。それがやがて、共同体の異人解読装置による解読にしたがって、また両者の間になんらかの関係が作り出され、その両義性は解消してゆくことになるのである。異人論が着目したのは、この異人解読装置とその装置を運用した「異人」への対処方法であった。

 

異人論の先駆的研究として位置づけられる研究は、折口信夫のマレビト論であり、岡正雄の異人論であろう。

 折口の「マレビト」概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的なマレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれと祝福芸能者を「神」そのもの、もしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで「異人」を理解すべきであるということを示唆したわけである。

 

・折口はこうした観念が十全に機能していた時代を古代に想定し、時代が下るにつれて衰退した結果、祝福芸能者の排除や神の妖怪化が生じたと考えていた。たしかに、このような「異人」理解は、日本文化研究において有効な考え方である。たとえば、托鉢して回る僧に関して、信仰があれば彼に人びとは手を合わせ喜んで米や銭を施すが、人びとから仏教や僧に対する信仰がなくなれば米や銭を喜捨する人もなくなり、彼は乞食に等しい存在に成り果てるだろう。折口の眼差しのなかにあったヤクザやゴロツキのたぐいは、そうした聖なる異人の末裔であった。

 

折口のマレビト論に刺激されて書かれた岡正雄の異人論は、副題が示すように、折口とは視点が異なり、経済的な関係つまり交易関係として把握する方向を論じている。たとえば、彼は次のように言う。「…………経済史にとって異人は第一次的概念であり、また宗教史においても神表象のある形式は、この概念を予想しなければならない。即ちこの『異人』の表象概念は文化史の様々の方面に印象もしくは型を残して居る。……原始民族が相互に異族として接触する場合、必然的に両者は争闘的関係に入るという提説はそのままに受容れられない。そうして多くの学者は、先ず好意的贈答が(少くとも多数の民族と場所とにおいて)一次的関係であるとした。この好意的贈答は、広く各民族間に行わるる客人歓待の習俗を前提とした」。ところが、このように述べつつも、岡正雄は「客人歓待の風習を、ただ単に未開人の善良なまた好意的性質(この事が己に独断であるが)をもって説明することは不充分であろう」と述べているように、その習俗の裏には、じつは異人恐怖・異人排除の念が隠されていたことにも注意を向けていた。

 

・しかしながら、多方面に展開してよかったはずなのに、従来の異人研究は、前者の好ましい側面に着目することによって展開してきた。したがって、そうした側面から描き出される共同体は、共同体の<外部>からやってくる人びとにとって「優しい」共同体ということが強調されることになった。しかし、後者の側面に着目すれば、訪れる共同体は「恐ろしい」共同体ということになるはずである。

 

異人・生贄・村落共同体

・すなわち、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくるからである。そして、この二つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供犠」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると言えよう。別の表現をすれば、「異人」が「村落共同体」を訪れたとき、その共同体は異人を迎え入れてその村落祭祀のための「生贄」に利用したり、難工事の橋や築堤を成功させるための「人柱」に利用することがあったのだろうか、あるいはまた共同体の特定の家を「幸せ」にする目的のために殺害されることがあったのだろうか、といった問題群が浮かび上がってくるのである。

 

・まず最初に、この巻で問題となっているテーマの核となる物語をいくつか紹介してみよう。『今昔物語集』巻二六に、「生贄」説話の典型ともいうべき物語が二話並んで載っているが、そのうちの一つが、以下の物語である。

 

 飛騨の山中で迷った僧が山奥の村に招き入れられる。その僧を預かった家の者が、この僧をご馳走攻めにし、さらに娘をあてがって睦ませる。しばらくの間、その娘と夫婦として過ごしていたが、あるとき、妻の様子がおかしくなり、しかも一日に何度も食事を出して「男は太っているのがよい」と言う。不思議に思ってわけを聞くと、「この国の神は生贄を食うので、年に一度村人が順番に一人の生贄を差し出すことになっている。今年はわたしが差し出されることになっていたが、あなたがやってきてくれたので身代わりにしようということになったのです」と言う。夫が「その生贄は人が料理して差し出すのか」と問うと、「そうではなく、生贄を裸にしてまな板の上に載せて差し出し、それを神が料理する。生贄がよく肥えていないと、神が怒って作物を荒らすので、太ってもらうために、このように何度も食事を出すのです」と言う。さらに「その神の姿が猿だ」と聞いた夫は、妻に用意させた刀を隠し持って、生贄の祭儀に臨み、現れた神つまり猿を捕まえて、村に戻ってくる。

 

柳田國男も「生贄」や「人柱」に深い関心を注いだ研究者で、たとえば『一つ目小僧その他』で「ずっと昔の大昔には、祭りの度ごとに一人づつの神主を殺す風習があって」と述べているように、当初は実際に人身供犠がおこなわれていたとの見解に立っていたが、やがてそれを否定する方向に向かっていった。したがって、多くの民俗学者も、実際に人を生贄にするような祭儀は存在しなかった、つまり実践としての生贄の習俗を否定し、伝説上の出来事とみなすようになっていったのであった。ほぼ同じ頃に、南方熊楠は日本をはじめ世界各地の事例を紹介した「人柱の話」において、「こんなことが外国に聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」と言い放って、人柱が実際におこなわれていたことを当然のこととして記述している。

 

・この南方の見解を引き継ぐような論文を展開したのが、高山純の「我国の人柱に関する民間信仰の起源についての比較民俗学的研究」で、世界各地の人柱習俗や老古学的資料などに基づいて、生贄・人柱が実際におこなわれたと主張するとともに、この習俗は大陸から入ってきたもので、その渡来には二段階あり、最初の段階は焼畑耕作文化とともに、第二段階は稲作文化とともに入ってきた、との見解を述べている。

 

柳田國男および彼の系統を継ぐ民俗学者たちは、「生贄・人柱」がおこなわれたかどうかといった議論から離れ、そうした伝承の伝搬さらには日本人の神観念・信仰観やその変遷を探り出す方向へ向かっていった。それがどのような輪として示されるのかを簡潔に物語っているのが、宮田登「献身のフォルク」で、たとえば人柱伝説を、水神に奉仕する巫女のための聖化のプロセスに対応するとか、橋の工事で亡くなったものの鎮魂の儀礼に対応するか、スケープゴート儀礼などに対応するといったことを想定している。文学の側からもこうした傾向の研究がかなりあり、たとえば、矢代和夫『境の神々の物語――古代伝承文学私語』などはその早い時期の成果であろうか。これとはいささか趣向が異なるのが、若尾五雄の「人柱と築堤工法」である。彼は人柱伝説に登場する言葉が土木築堤工事に関する用語となっていることに着目することで、架橋工事の擬人化した表現・物語が人柱伝説であったのではないか、と推測している。

 

・なるほど、神に捧げるために実際に人を殺したという儀礼に関するたしかな記録は存在していない。にもかかわらず、意外なことに、現在の祭りの起源もしくは説明として、人身御供を持ち出すところが多いのである。たとえば、能登半島には、七尾の大地主神社の祭りや輪島の重蔵神社の祭りなど、そうした伝承をもつ神社が散見されるその一つである日吉山王を祀る七尾の大地主神社の青柏祭は、山犬が人身御供を要求する老猿を退治したことを記念する祭りであるという祭儀起源伝承をもっている。それによれば、山王神社に毎年娘を人身御供することになっていた。自分の家に白羽の矢が立ったので、父親が神社に隠れて見ていると、「越後のしゅんけんは、おれがここにいることはわかるまい」という声がする。山を歩いていると、「しゅんけん」という名の山犬が現れ、「悪い三匹の猿のうち二匹は退治したが、一匹がわからなくて探しているところだ。それを退治する」と約束する。父親は山犬を唐櫃に入れ神前に送った。翌日、そこで猿と山犬が死んでいるのが発見される。この三匹の猿にちなんで、三台の山車が祭礼に出るようになった。

 

・この種の伝承は「猿神退治」として知られるもので、昔話や伝説として各地に伝わっている。この伝承の多くは、猟師や旅の僧などが、とある村に行くと、土地の神に若い娘を人身御供に出さねばならないという。不審に思って神社に行くと、「しっぺい太郎に聞かせるな」と語っているのを盗み聞きする。しっぺい太郎を恐れていることを知って、各地を歩き回ってこのしっぺい太郎という者を探すと、じつは犬の名であることがわかる。そこでこの犬を人身御供の代わりに神前に送ると、その翌日、老猿が犬に食われて死んでいるのを発見する、というものである。

 

・したがって、上述の大地主神社の伝承もこの物語のヴァリエーションであることがわかるだろう。そこで問題になるのは、この三匹の猿を象徴するのが「山車」であるとすれば、旧来の神に代わって山王社に祀られることになったのは、いかなる「神」なのだろうか、ということである。ここでの文脈で言えば「農耕神」としての山王神ということになるだろう。「しっぺい太郎」の昔話でいえば、外部からやってきた旅の僧などの「異人」や「人間の側の犬」が、そこに祀られていることになるはずである。

 

すでに述べたように、「生贄・人身御供」伝承の研究は少ない

 

「異人」と「家」の盛衰

「共同体」というものが安定し、その意思がはっきりしているときには、時と場合によって「異人」は「共同体」のために犠牲となる。しかし、それが弛緩すると、それに対応するかのように、「家」の論理・意思が浮上してくる。つまり、家のために「異人」を殺すということがみられるようになってくる。もちろん、実際に「殺害」されたかどうかはわからない。だが、そうした伝承が広く見られるようになったのはたしかである。その物語の一つが最近まで民間に流布していた、次のような物語である。これをわたしは「異人殺し」伝承と名づけた。「異人殺し」伝承は、怪異・怪談そして恐怖といった要素がたっぷり詰まった伝承ある。

 旅人(六部や座頭、巡礼、薬売りなど)が、とあるムラのとある家に宿を求める。その家に泊めてもらった旅人が大金を所持していることに気づいた家の主人が、その金欲しさに、旅人を密かに殺して所持金を奪う。この所持金を元手にして、その家は大尽になる。だが、殺害した旅人の祟りを受ける。

 

この物語は明らかに「生贄・人柱」伝承とは異なった位相での「異人殺し」である。「殺害」の担い手は「家」もしくは「夫婦」にあるからである。「幸せ」を手に入れるのも、その後「祟り」を受けるのも、その対象は「家」(夫婦)なのだ。この伝承からも、「共同体」を構成する家々が抱えもっている「異人」に対する両義的イメージや「共同体」および「家々」の欲望、「異人」に対する恐怖心などいろいろなことを引き出すことができるだろう。

 

・中沢は鹿児島県の甑島桜田勝徳が採集した「異人(山伏)殺し」伝承の報告を分析し、山伏を殺害したという当の家とそれ以外の家々で語られる伝承の違いに着目し、後者の場合において伝承が幻想化の処理が施されるという傾向が強く見られると指摘し、その幻想化の素材として「トシドンの祭り」を挙げている。つまり大晦日の日にやってくる来訪神とイメージ連関を起こすように物語化されるわけである。野村の研究は、「異人殺し」伝承の昔話版である「こんな晩」型の昔話の全国における分布・伝承状況を丹念に調べ上げ、それに基づいて「こんな晩」型の昔話は、世間話として発生した伝承が昔話化したものであるが、まだ昔話化が十分になされていない、つまりその途上にある伝承と把握したものであった。

 

・これらの論文での主張は多岐にわたるが、とくに強調したかった点は、こうしたフォークロアが異人歓待と排除を併せ持った怪談・祟り話であるというだけでなく、家の盛衰が貨幣によって左右されるということを前提にしているので、村落共同体が貨幣経済に組み込まれていく過程に生み出されたものであること、そしてこうした伝承を騙り出すのが宗教者であり、またその背後には来訪神その他の神観念とのイメージ連関も関わっている、というものであった。つまり前近代から近代への移行期に立ち現れてきた伝承が「異人殺し」であった。

 

民俗学およびその隣接学問では、これまで「共同体」と「異人」の関係のダイナミックな相互関係、さらにこれとは水準の異なる「共同体」のなかの「家」と「異人」のダイナミックな相互関係に関する研究は、意識的なかたちではほとんどなされてこなかったといっていいだろう。しかしながら、本巻に収めた諸論考からうかがい知ることができるように、「異人」に着目することによって、「共同体」や「家」の成り立ちやその性格を理解することが容易となるのである。なぜなら、冒頭にも述べたように、「社会集団」は「異人」あるいは「異界」との関係のなかで成立するからである。「生贄・人柱」や「異人殺し」の伝承はそのことを如実に物語る伝承であろう。そしてその成果は現代社会を照射する手がかりを与えるはずである。さらなる異人研究が求められている。