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戦時下の天狗や現在の秩父地方の天狗が人間の生と死、運命も左右できるほどの存在であったという伝承は、山の神においても同様に、人間の生と死にかかわる伝承があるという仮定を成立させてくれる。(1)

 

『天狗と山姥』

怪異の民俗学 5

小松和彦 責任編集 河出書房新社 2000/12/1

 

 

 

加賀・能登の天狗伝説考   小倉學

・天狗は、「山中でのさまざまな怪異現象に関して、それを起す本体と考えられている妖怪」、あるいは「鼻が高く、修験山伏のような服装をし、羽団扇をもち、空中を自由に飛行するという妖怪」だと説明されている。これが現在、天狗に関する通説だといってよかろう。

 天狗については、早く柳田国男先生に『山の人生』を始めとする卓説があって、学恩を蒙ること深厚なるものがある。これらに導かれて地方の天狗伝説を広く集め綿密に検討を加えていくとき、天狗にも地方的特色といったものの存することに気づき、なかには、従来見過ごされてきたいくつかの属性を見出す。

 

・天狗伝説は時代とともに信を失ってきた。天狗の憑依するという天然記念物も枯損あるいは破壊され、伝承は急速に消え去っていく。しかし、地域によっては、まだ天狗は常民の生活のなかに生きている。たとえば加賀地区の能美郡川北町地帯においては、家屋の建て前儀礼に、藁三把をつけた糸枠を家のオモ柱に結びつけ、糸枠の上に鯖を載せておく。これは天狗が家に入らぬ魔除けのためだとされる。

 

・加賀・能登には、どのくらい天狗伝説があるのだろうか、もとより明らかでないが、今ここに検討の対象としたものは、昭和初期までに成った郡誌や近世の地誌・奇談集の類を中心とし、これに年来採訪にかかるものを加ええた54例である。

 

・天狗はいかなるところに棲息するのか。山中の妖怪というのであるから深山幽谷ということがまず考えられる。しかし実際はかならずしもそうではない。

 

奥山よりも城下近くの山々すなわち邑里に近いところに多いというのは、人間との接触がしばしば見られるところでなければ天狗は出没しないからであろう。上記54例のうち山や谷が20例をしめるが、いずれも邑里を去ること遠くない地域で、日常通行したり仕事場になっているところが多いのである。そのうちいわゆる断崖絶壁をなす岩壁が5例ある。天狗壁・天狗岩・天狗山の名がつけられている。天狗は羽翼を有するのでかように人間の近づきがたい険阻な高所に棲むと信じられたのであろう。

 もっとも著聞するのは能美郡山上村(辰口町)岩本の天狗山である。

 

・意外に多いのは、山ではなくして人の住む村里である。村はずれや神社の森を入れて21例を数える。そのなかには屋敷内の主屋が3例もある。いわゆる天狗の間である。さらに金沢や大聖寺といった城下町にも天狗が出没したと見え、5例を算する。いわゆる天狗つぶての類が多い。金沢の本田町の武家屋敷には天狗の棲む楓の木もあった。

 以上は天狗の棲む土地であるが、さらに具体的に見れば、天狗のもっともよく宿るのが樹木であって18例を算する。樹木の種類は松が11例で一番多く、次は杉の3例。

 

・つぎは天狗の姿態について見よう。石川郡白峰村の伝承によれば、天狗は隠れ蓑・隠れ笠をつけるため姿が見えず、かつ神通力を有するので、いかなるところへも行け、いかなるものにも化けることができるという能美郡西尾村(現・小松市)の天狗巌伝説では、天狗にさらわれた次郎が一ヶ月後に父の枕頭に姿を現わし、白髪の老翁に連れられて巌窟内で生活したことを告げたというから、ここの天狗は白髪の老人の姿をとっていたのであろう。石川郡鳥越村の虎狼山の天狗は、白昼、白馬に化して釜清水の与兵衛の妻女を蹴倒して負傷させたが、附近で農耕していたものは一人としてその白馬を認めるものがなかったという。また、ここを三ッ屋野の熊谷某が暗夜に通行すると、突如四辺が明るく輝き、一巨人が仰臥するのを見たといわれる。この二話はいずれも明治末年のことだという。

 

・鳳至郡七浦村(門前町)の老人が夜、市ノ阪附近で四人の大男に地上に投げつけられた。その大男が煙草の火打石を打つのを見たところ、火の長さが三尺もあったというから、ここの天狗は巨人と見られたことが判る。

 

天狗の所業のうち、もっとも怖れられかつ罪ふかきは神隠し・人さらいであろう。石川郡白峰村の大道谷には太鼓壁とよばれる天狗棲息の断崖があり、天狗がよく子供をだまして連れ去ったという。よって好天に仕事の手伝もせずウロンとしている子供がおると、天狗が連れて行くぞと親がよく戒めたものだという。白峰地方では、天狗は親の言をきかない悪童を捉えて隠すといわれている。加賀・能登の天狗伝説中、天狗にさらわれたものが後に許されて帰宅したとか、あるいは夢に現われたというのが五例もあって注目される。

 

能美郡川北町の草深の天狗松は、草深の甚助の墓じるしの松として知られていた。甚助が、かつて天狗に捉えられて行方しれず、その間、剣術の奥儀をきわめて帰り、深甚流の祖となったと伝えられている。同じく能美郡西尾村(現・小松市)の天狗巌については前にも述べたが、樵夫の利兵衛の子で神童といわれた次郎が突如として姿をかくし、ついに発見することができなかったので仮りに葬儀をした。それより後、山中では太鼓の音がする。伐り倒した老杉が空中に浮かぶ、大石が落下する、山地が崩壊するという怪異が続いた。しかるに一ヶ月後、次郎が父の枕頭に現われて一部始終を語るには、白髪の老翁にともなわれて巌窟のなかで生活している、老翁は天狗の属である、人間は天狗の世界を侵してはならないと告げて行くところを知らず、これを聞いた父利兵衛は大いに怖れ、ついに木樵は廃して遠く去り、これまた終わるところを知らずというのである。

 

・石川郡の松任には名物アンコロ餅の由来にまつわる天狗伝説がある。出城村の成(現・松任市成町)の円八なるもの、一夜天狗にさらわれたが数年後に飄然と帰り、天狗の秘伝だというアンコロ餅を製して繁昌、子孫相伝えて現在に及ぶというのである。

 

能美郡川北町上先出の伝承に、サクとよばれた少年が行方不明になった。このとき親が「鯖食うたサク」「鯖食うたサク」と二晩唱えてまわったところ、甚兵衛どんの倉に寝ていたのを発見、尋ねてみると、天狗に捉えられて欅の梢に載せられたのをおろして貰ったのだという。明治末年の実話だといわれる。柳田先生の『山の人生』にも、同じ能美郡遊泉寺村でやはり神隠しに遭った伊右衛門老人を「鯖食った伊右衛門やい」と村人が口々に唱えて探し歩いて発見したという立山徳治氏の談話を掲げておられる。

 

・天狗にさらわれたのとは異なり、みずから進んで天狗になることを念じ、ついに天狗に化したという伝説が金沢にあった。すなわち加賀藩の老臣本多氏(五万石)の家老で本多町に屋敷のあった千石どりの篠井雅楽助の若党が天狗化生の祈念むなしからず、ある日煙のごとく消え失せた。その後、主人篠井氏の夢に現われ、奉公中の御礼として馬の鞍とお守りを差し出した

 

・右には明治維新の後は天狗にとらわれるということが絶えたとあるが、かならずしもそうではなかったことは、柳田先生の『山の人生』に徳田秋声君談として、明治十年頃に金沢市浅野町の徳田氏の隣家の二十歳ばかりの青年が行方不明になった話が出ている。この青年は、発見されて正気づいたとき仔細を問うと、「大きな親爺に連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べて来た、又行かねばならぬと謂って駆け出そうとした」そうである。

 

<『幽冥界覚書』   荒俣宏

<天行居>

・題して、『古神道秘説』。

 これは、「古神道、霊学、国学の隠れたる権威」、神道天行居創立者友清歓真(ともきよかんしん)が、概世憂国の情やみがたく、赤禍狂乱のまっただなかに「敬神尊皇」の大旗を高くかかげ、霊筆をふるって天下を警策した教説の結集である――。

 と、冒頭からすこしばかり仰々しい書きだしになったが、問題はようするに友清歓真という人物である。この人、本居・平田系の復古神道にさえ飽きたらず、天行居という御座に秘密の神々を拝したてまつり、仏教もキリスト教も何もかも神道の傍系亜流とする「超神道」を建設しようとした。

 

・友清がここでいっている、密封した秘密命令書というのは、おそらく、当時日本に流入していたH・P・ブラヴァツキーの「神智学協会」のやり方を模したものだろう。神智学協会の場合には、「マハトマ」と呼ばれる秘密の指令者がいて、これがブラヴァツキー夫人に密封した指令書を送りつける。一方、ブラヴァツキー夫人は、それを読んで協会の運営、つまりオカルトによる世界革命の方針を決定するという寸法である。このやり方は、西欧世紀末の秘密団体内でブームになったものらしく、英国の<黄金の夜明け>教団もアンナ・シュプレンゲルという秘密の首領をでっちあげて、シュプレンゲル書簡が届く人間が会の指揮をとったりしていた。もっとも、「マハトマ書簡」も「シュプレンゲル書簡」も、のちにその詐欺性が暴露されてはいる

 ともあれ、友清歓真のこの秘教的な活動は、まさに日本の神智学協会というにふさわしいかもしれない。なぜならば、友清の超神道思想には、世界各国の秘教をいっぺんに巻きこんでしまうだけの「ふところの深さ」、雑種性、たくましさがあるからである。

 

<通信>

・ところで、このへんで、なぜここに友清歓真が登場しなければならないかを説明しておかなければいけないだろう。それは、ひとえに、彼が大正9年に出版した奇怪な資料集『神仙霊典』のためである。この『神仙霊典』なる書物は、大正12年になってあらたに『幽冥界研究資料』と題されて再販されており、この新タイトルからも察せられるとおり、主として江戸末期にさかんに書かれた霊界探訪記をあつめたアンソロジーなのである。集められた内容は、むろん、実録――つまりノンフィクションということになっている。

 

・ちなみに、日本人として仙界にもっとも早く足を踏みいれた人物のことを話しておきたい。友清によれば、その人は照道大寿真(しょうどうだいじゅしん)という足利時代の神官である。彼は、足利義満の時代に某神社に奉仕していたが、時代の潮流をいとい、四十歳過ぎで山にこもり、天下の名山をめぐるうちに富士山中でふしぎな神仙に出会い、道を得てから悟りをひらき、それより四百余年を経た明治9年7月7日、吉野の奥より肉身のまま昇天して神界の幽政(幽界の支配管理)に参与したという。

 

・しかしここまでの話で、すくなくとも明治から大正期にかけて、ときの神道関係者のあいだでは、「幽界からの通信」が大いに期待されていたことはあきらかだろう。ここに、国家とオカルティズムが期せずして結合する世界的現象のひとつが、確実に日本においても発生する。そして、幽界からの通信を期待する人々にとって、共同幻想のシンボルともいえる幽界探訪文献は、友清らの手によって、ひそかに巷間に流出していった。

 

<幽界>
・日本には、古くから「この世」と「黄泉の国」というふたつの領域についての概念があった。さらにいえば「高天原」と呼ばれる天界もが想定されていたわけだが、しかし、イザナミイザナギの「国生み」の神事以降、人間と神々が活動する舞台は、もっぱら「現世」と「黄泉(よみ)」とにかぎられてきた。そして、もちろん「現世」とは、われわれが生きるこの世、「黄泉」とは死してのちにわれわれがおもむく世界のことである。だが、古くから日本人は、「黄泉」という別世界を、この世と地つづきの領域と考えるだけで、いってみれば「この世の終点」や「この世の裏がわ」としか理解していなかった。そしてそこに、すべての事態は発端をみた。

 

・つまり宣長は、神道において死とは、ただ悲しむ以外に方法のないできごとなのだ、といい捨てる。むろん、これが<安心なき安心><救いなき救い>であることは、思慮ぶかい宣長の意図するところだろうが、しかし一般民衆にとっては、この発言は死後の生活についての<絶望>以外のなにものでもないだろう。こうして、お手上げ状態になった本居の<死後観>に対して、決然として国学古道の体系に幽界のあきらかな空間を設立し、完璧なシステム化を達成した人物こそが、平田篤胤であった。かれによって、死後の生の不安は、はじめて国学=古道の側からも救済されるのである。

 

<救済>

・では、魂はどこに行くのか?天界か? いや、天界のおわすところである。魂がともかくも赴くのは、幽冥界という、もうひとつの領域なのである。ここは神の世界と物質の世界のはざま、したがって神と物質とが直接的に交感しうる唯一の場所だ。そして幽冥界の支配者は大国主神である。幽冥界では、魂は不合理な現世での処遇を埋めあわせる「裁き」を受け、<安心>を得る。平田にとっての幽冥界とは、こうして、現世での不条理を埋めあわせる<安心>の領域、まさにひとつの魂の救済となるのである。

 

<寅吉>

・では、上田秋成から友清歓進にいたるこれら<幽冥界>騒動の発端になった事件とは何か。これを仙童寅吉物語という。文化九年(1812)に、七歳で卜筮(ぼくぜい)のことを学ぼうとした少年寅吉(のちに高山嘉津間と名のる)は、ある日、東叡山の前にある五条天神にでかけたとき、薬を売っている五十歳ばかりの翁にであった。ところがこの老人がじつに不思議な人物で、差しわたし三、四寸ほどの壺から薬を出しては売っていたのだが、暮れどきになると、その小さな壺のなかに、まわりのガラクタから敷きものまで、すっぽりと納めてしまった。おまけに、壺は、フワリと宙に浮いたかと思ったとたん、いずこともなく飛び去った。おどろいた寅吉に近づいた翁は、「卜筮のことが知りたくば、わしとともにこの壺にはいり、某所まで尾いてこい」ともちかける。寅吉は、つい言葉にさそわれて、常陸国の南台丈という山へついていった。これが、寅吉による仙界との第一回接触となった。この接触は十一歳のときまでつづくが、一時とぎれる。その間、寅吉の父が病を得、その快癒祈願のために出家することになった。すると例の翁がふたたびあらわれ、空中を飛行して常陸国岩間山というところに連れてゆかれ、そこで種々の行をおこない、高山白石平馬なる行名をもらって、ふたたび家に帰った。寅吉がそこで接したのは、神仙界の住人として一般に天狗と呼ばれている存在であった

 

・こうして岩間山での異常な体験を得た寅吉少年は、江戸中に知れわたる奇人となった。平田篤胤とその門下がこの仙童に接触したのは、ちょうどこの時期にあたる。このとき寅吉は十五歳であったという。

 

・――問云、未熟なものを飛行させるときに用いるという、金色をした玉を見なかったか。

寅吉;人間を飛行させる聖なる玉というのは、見ていません。

――問云、よく不審火が、こうした異形の飛行人から出る火の玉によって起こるというが?

寅吉;そういうこともあるでしょう。家所を焼くなども、ひとつの天罰です。

――問云、では、そういう天罰を下すことは、どういう神の命令によるのか?

寅吉;知りません。たぶん神々の命令を受け伝え来て、行なうわざでありましょう。

――問云、大空より見たこの国土の様子は?

寅吉;すこし飛びあがると、ひどく広くて丸く見えますが、もっと上へあがると海川野山も見分けがつかず、うす青く網目を引きのばしたような感じになります。なお上って、星のみえるあたりまで行きますと、国土は光って、月よりはよほど大きく見えます。

――問云、そこまで上ると、月はどう見えるか?

寅吉;月に近づくと、だんだん月球が大きくなり、おそろしい寒さを感じてきますが、二町ほどにまで近づくと、こんどは意外にあたたかくなります。光っているところは地上の海のようでドロドロとしており、俗にウサギが餅つきをしているといわれる所には穴が二、三、あいていました。

 

天狗と戦争――戦時下の精神誌――   岩田重則

柳田國男『先祖の話』

柳田国男の数多くの著作のうちで、もっとも代表的なもののうちのひとつに、『先祖の話』(1946)がある。

 

・二つは、『先祖の話』を読みすすんで行ったときに、結論部分に近づくにつれて、「生まれ替わり」とか、「七生報国」といった、一見、祖霊信仰とは無関係に思われる文言が登場して来ることである。『先祖の話』は、全81節で構成され、最終節「81」の「二つの実際問題」はあとがきとしての意味を持つと考えられるので、事実上の結論は、「80」の「七生報国」ではなかったかと考えられる。具体的には、どのような論理の展開によってこの「七生報国」に至っているのかというと、柳田によれば、日本人の祖霊信仰は生まれかわりの思想があり、それを基礎として、七回生まれかわり国に尽くすという「七生報国」の思想が発生して来たことになっている。特に、実例として、日露戦争広瀬武夫と『太平記』の楠木正成があげられ、広瀬の最後の言葉として「七生報国」があったことが紹介されている。

 

・このように『先祖の話』を読み直したときに、柳田がこの著作に込めたメッセージは、学説としての祖霊信仰を基本に据え、そこから「七生報告」の精神の必然性を説明しようとしていたと考えなければならないだろう。そして、それは、積極的な戦争協力ではないにしても、柳田民俗学の学問体系が、戦争の精神を肯定的に評価しようとしたものであったと思われる。戦場に赴く者たちへの想い、せつなさが、このような霊魂観の研究として昇華したのであろうが、『先祖の話』の内容がこうした性格を持つとすれば、柳田によってなされた祖霊信仰の解明を学説として再検討する必要があるとともに、戦時下の日本人の精神生活を、柳田とは異なる民間信仰研究の視点から解明する必要があるのではないだろうか。

 

戦時下の天狗

・戦時下、柳田が扱ったような「七生報国」が世相の表面に現象として現われ、民衆の間に大流行していたのは、「七生報国」の精神ではなく、むしろ俗信や、神社・小祠などに対する祈願であった。八幡八社参りや千社参りに代表される武運長久祈願、千人針に代表される弾丸除け祈願が爆発的に大流行を見せていたのである。

 

・具体的には、戦時下に、武運長久祈願や弾丸除け祈願として大流行していた神社・小祠に実態を分析してみることが重要であろう。

 こうした視点により、戦時下に大流行した神社・小祠を見てみると、それらの中には、なぜか天狗(あるいは天狗類似の者)が祭神あるいは祭神の眷属であることが多い奇妙なことに、戦時下、日本社会では、天狗が大活躍していたのである。

 

・【事例1】山梨県南都留郡忍野村内野の天狗社は、戦時中、戦の神様と言われたり、出征した人が無事に帰るということで、遠くは富士吉田や甲府の方からも、多くの人々が参詣に来た。

 

・【事例2】静岡県三島市玉沢の妙法結社も、戦時中、ここへ参詣すると戦死することがないと言われ、多くの人々が参詣に訪れた。

 

・それだけではなく、社殿に掛けられた垂れ幕には天狗の団扇がえがかれ、社殿内祭神前には、大天狗と烏天狗と思われる一対二匹の天狗像が置かれている。戦時下、信仰を集めた妙法結社は、天狗社としての性格を持っていたのである。

 

・【事例3】次は、修験道の影響を受けた寺院が、戦時下、信仰の対象となっていた事例である。徳島県麻植郡山川町、吉野川の南側に、円錐形をして美しくそびえる高越(こおつ)山は、日露戦争からアジア・太平洋戦争期にかけて、武運長久、弾丸除け祈願の対象となっていた

 

・【事例4】天狗を祀る神社・小祠ではないが、「天狗様のお爪」と呼ばれる物体が、戦時下、弾丸除け信仰の対象とされたこともあった。静岡県小笠郡大東町入山瀬・土方では、山や畑で土中から「天狗様のお爪(鮫の歯の化石)」が出て来ると神棚などに納めることがあった。

 

・天狗が神隠しをするという説話をあるので、多聞天神社の由来譚は、天狗信仰と無縁ではないだろう。

 

・【事例5】これまで見てきた事例は、いずれも、戦時下における天狗への祈願である。しかし、平時において、徴兵除け祈願の対象とされていた天狗もあった。

 

・【事例6】静岡県引佐郡引佐町奥山の半僧坊大権現も、戦前は、徴兵除け祈願として、多くの参詣者が訪れた神社であった。

 

・【事例7】再び、戦時下の天狗に戻ろう。1937年、日中戦争勃発から約5ヶ月後、富山県下の村々では、戦争が起ると、天狗が皆戦地へ出かけ、戦場の兵隊たちを護っているという俗信が流行していた。また、戦争が起ると、烏が日本の内地には居なくなり、中国大陸へ渡って行くとも言われていた。

 いわば、空飛ぶ天狗、天狗の出征である。このような戦場へ出かけた天狗の話は富山県下だけではなく他にもあり、たとえば、徳島県美馬郡脇町西赤谷の山彦大明神では、祭神の「山彦はん」の前に眷属として大天狗と烏天狗、二匹一対の天狗像が安置されているが、この二匹の天狗が、「山彦はん」を乗せて戦場へ行き、兵隊たちを助けたという。一般的に、天狗は羽を持ち、空を翔ぶと考えられていたがゆえに、このような伝承が創造されたのかもしれない。

 

・【事例8】この天狗の出征のような、戦場へ出かけた神々の話は、天狗以外でも多く、戦時下の記録でも見ることが出来る。また、山彦大明神のある脇町から、吉野川を隔てた対岸の美馬郡穴吹町宮内の白人神社は、戦時下に脇町や遠く香川県からも祈願に訪れる人々が多かった。

 

・以上、八例、戦時下の武運長久祈願や弾丸除け祈願、あるいは平時においては徴兵のがれ祈願の事例を見て来たが、これらによって、戦時下の民衆の信仰が天狗と大きくかかわっていた事実は確認出来たと思う

 

天狗と人格神

・こうして、強い威力を発揮した戦時下の天狗であったが、全国津々浦々、至るところに存在する天狗の総数からすれば、戦時下に活躍した天狗はわずかであろう。天狗の中でも、戦時下に活躍した天狗と、戦争とはまったく無関係な天狗があったのである。

 

・【事例14】すでに簡単に紹介したように、徳島県美馬郡脇町西赤谷の山彦大明神は、通称「山彦はん」と呼ばれ、そのおかげで戦地で助かったという人が多かった。祭神「山彦はん」の眷属の大天狗と烏天狗、この二匹の天狗が「山彦はん」を乗せて戦地に行き、兵隊を助けたというのである。

 

・【事例15】静岡県庵原郡由比町倉沢の藤八(とうはち)権現は、戦時中、出征地で助かるということで多くの人が参詣に来た。ある北海道の人が、大陸の荒野で方角がわからなくなったときに、藤八権現が出現し助けられたなどという話が伝えられ、参詣者で賑わったという

 

・【事例16】天狗という伝承は、明確に聞くことは出来なかったが、人格神としての性格が強い山の神が、戦時下、弾丸除け祈願として大流行した場合もあった。茨城県高荻市大能では、集落から離れた山地の中に、勝之丞(かつのじょう)山の神が祀られている。

 

・これらの人格神、山彦大明神、藤八権現、勝之丞山の神は、それぞれ不思議なことが出来た(妖術を使う)伊勢伝左衛門、並はずれた霊力を持つ藤八、千頭の獣を獲った勝之丞、いずれも人間離れした人間であったがゆえに神として祀られていた。そして、強い威力を発揮出来得ると期待されたためであろう。

 

・【事例17】静岡県御殿場市神場の山の神は、戦時中、この山の神のお札を持っていた出征兵士が、弾丸が当たったのだが、お札のために助かったということが伝えられ、多くの人々の参詣で賑わった。

 

・【事例18】このほかに、天狗ではないが、魔王様と呼ばれる恐ろしい名前の神が、戦時下、信仰を集めた場合もあった。山梨県南都留郡鳴沢村鳴沢の魔王天神社は、戦時中、ここへ祈願すると無事に帰るということで、賑わった。

 

現在の天狗

・これまで見て来たように、天狗は、出征兵士の無事を祈る信仰の対象

であり、また、明らかに戦時下の流行神であった。しかし、それが戦時下の流行現象であったとしても、天狗信仰の中で、突然変異として生じたものではなかった。

 

・【事例19】埼玉県秩父郡小鹿野町から両神村にかけての地域では、神社としての天狗社をはじめ、天狗信仰が濃厚に存在している。たとえば、小鹿野町漆ヶ谷戸のコーチの十二天神社は通称「お天狗さん」と呼ばれ、集落近くに「お堂」を持つほか、山の中に「奥の院」を持っている。

 

・【事例20】両神村小沢口のコーチの大山祇神社も、通称「お天狗さん」と呼ばれている。

 

・【事例21】小鹿野町津谷木のコーチの木魂神社も、通称「お天狗さん」と呼ばれている。

 

・【事例23】両神村滝前で、あるとき、娘が3日間いなくなるということがあった。ムラの人達が探したところ、この娘は、誰も上ったことのない、高い岩山にいるところを見つけ出された。見つけ出されたあとでこの娘が語ることには、家の縁側にいたところ、「お天狗さま」が現われ、「おいで、おいで」をするので、ついて行った。そして、この岩山の上に来たという。3日間は馬の糞を食べていたという。

 

・これによって、戦時下に、天狗が流行神となったことの背景は理解出来るのではないだろうか。天狗は、平生から、人間の生存そのもの、あるいは、運命をも左右できる存在であった。だからこそ、生と死に直前した時代、戦時下に、死という人間にとって最大の災厄を除去出来る天狗が、世相の表面に浮かび上がって来たと考えられるのである。

 

山の神と産神問答

・このように、実態として、天狗イコール山の神という等式が成立しているとすれば、戦時下の天狗や現在の秩父地方の天狗が人間の生と死、運命も左右できるほどの存在であったという伝承は、山の神においても同様に、人間の生と死にかかわる伝承があるという仮定を成立させてくれる。そうした仮定の上に立ったとき、現在の民俗学ではおおむね認められている、山の神イコール産神であるという伝承は、重要な意味を持って来ると思われる。山の神だけが、他の神々とは異なり、生命の誕生、人間の出発の瞬間である出産に立ち会い、さらに、誕生した生命のその後の運命をも予測出来る存在であったのである。

 

戦時下の精神誌
・これまで見て来たように、産神――山の神――天狗という系列で結ばれる神体系は、人間の運命、生と死を左右し、戦時下のような非常時には、人間の生命を助けることが出来るほどの存在であった。図式化すれば、生命誕生を管轄する産神の具象化された姿が山の神であるといえるだろうし、さらに、山の神のより具象化されたものが天狗であるといえよう。そして、この神体系は、具象化されればされるほど、人格神としての性格を帯び、神としての威力も強めるものであった。

 戦時下において、弾丸除け祈願、武運長久祈願のために、天狗が流行神として大流行したのは、こうした、日本の民間信仰における、産神――山の神――天狗の系列の顕在化であった。戦時下、多くの日本人が、自らの意志とはかかわりなく、生と死に直面することを余儀なくさせられた。戦争の時代がそうした時代であったからこそ、人々は、生と死を司る産神――山の神――天狗の系列に助けを求め、その中でも、もっとも強烈な天狗への祈願に殺到したのである。

 

・しかし、柳田のように、張り詰めた戦時下に「固有信仰」を見ようとするならば、祖霊信仰ではなく、産神――山の神――天狗の系列の方が、人々の間に広がっていたという意味では、“固有信仰”にふさわしいもののように思われるのである。

 なお、戦時下に、天狗への弾丸除け祈願・武運長久祈願が大流行したことをもってして、それを戦時下の民衆の抵抗(あるいはその萌芽)であるとか、厭戦的行動であると評価することは出来ない。そうした思想・行動にまで昇華されることのない、素朴な意識・行動が、天狗への祈願であった。ただし、それは、素朴であるがゆえに、人間のもっとも根本的な部分、生存そのものへの欲求の噴出であったと考えなければならない。

 

天狗と山姥    解説  小松和彦

「天狗」も「山姥」も長い歴史をもった妖怪である

・「天狗」も「山姥」も広く知られた妖怪種目である。山の怪異を語るときには欠くことのできないキャラクターだといって過言ではないだろう。

 

・「天狗」も「山姥」も長い歴史をもった妖怪である。「天狗」の名称はすでに古代に姿を現わし、とくに活躍したのは古代末から中世であった。また、「山姥」の登場は「天狗」にくらべてはるかに遅く、室町時代になってからであった

 

・妖怪種目としての著名さにくらべると、その研究の蓄積はあまり多くない。とりわけ「山姥」に関してそれが顕著である。

 

「天狗」研究の足跡

・「深山にすみ、自由に空を飛ぶことができるという想像上の妖怪。その形はおおむね中世にでき上がり、山伏姿で、翼があり神通力があり、大天狗は顔が赤く鼻高く、羽団扇をもつ。小天狗は烏天狗といい、烏様の顔をしている。諸地方の社寺に祀られている天狗の多くはこの形で、浮世草子や草双紙から、今日の民話集や絵本の類に描かれる形も同様であるが、その諸相は時代により異なる」

 

・「天狗」をもっとも詳細かつ多角的に記述した研究は、知切光蔵『天狗の研究』(大陸書房、1975年)である。しかし、それ以前にも研究した人たちがいた。早くは江戸時代の『本朝神社考』を著した林羅山で、その著の「僧正が谷」の項において「我邦古より天狗と称するも多し」と述べたあと、世俗に伝わる天狗伝承を紹介している。江戸時代の知識人の多くがその著書で天狗の伝承や風聞に言及している。

 

・近代の天狗研究は、これまでもたびたび紹介してきた妖怪研究の先駆者井上円了柳田國男によって始まった。井上円了は『天狗論』で、たくさんの天狗伝説を紹介した上で、例のごとく一括して、天狗の仕業とみなされたものはじつは自然現象であって、天狗とは不思議に思った自然現象の異名にすぎない、と一蹴している。ようするに、井上にとっては、天狗もまた他の妖怪同様に、早急に撲滅しなければならないものであったわけである。

 柳田國男はこれと対照的に、天狗を他の妖怪種目と同様に、天狗という存在を想定しさまざまな伝承を生み出してきたということをまず認め、その心意の歴史と構造を究めようとした。とくに柳田國男は『遠野物語』の著述から『山の人生』あたりの頃まで、天狗をはじめとする山の「異人」に関心を注ぎ、一時期、そうした「異人」=「山人」資料からヤマト民族によって排斥された異民族の痕跡をそこに見いだそうとしていた。柳田はのちにこうした観点からの山人の追及を放棄し、それにともなって天狗への関心も薄れてしまうのだが、民俗社会における天狗伝承の採集の必要性、天狗と神隠しとの関係、天狗伝承が中世に隆盛を迎えたこと、山伏・修験道との関係など、その後の天狗伝承研究を導く指針を提供したという点で高く評価しなければならないだろう。

 

・知切光蔵がこうした仕事に取り組むことになったのは、「天狗は日本特有の魔怪である………天狗こそ日本人が創造し育成した確乎たる日本種の魔妖である」という熱い思いであった。なにをもって日本特有とみなすか、また天狗のみを特別視していいのかという疑問が残るが、天狗が日本において生み出された興味深い妖怪であることはたしかである。

 

・興味深いのは、この時代の「天狗」は、仏法と反仏法(魔界)という絶対的な二元的な構造のなかの一方に位置するわけではなく、道を誤った僧なども天狗の棲む魔界、つまり畜生道に堕ちて天狗になる、と考えられていたことである。つまり、天狗のなかにはもとは人間であったという経歴の持ち主もいたのである。そうした天狗が、復讐・祟りとして人に乗り移ることもあった。同様の性格は「鬼」にも見いだせるので、鬼と天狗の性格の類似性と差異性を詳細に考察する必要があるだろう。たとえば、小峯和明は「相応和尚と愛宕山の天狗太郎坊」で、呪力の優れた祈祷僧相応を中心に、天狗の履歴を解き明かしている。そして後世の伝承では、真済が愛宕山の太郎坊天狗となったという。「真済」伝説は、多くの天狗研究者が言及するように、天狗の代表であり、それゆえ天狗の本質を考察するのに最適な素材であって、鬼伝承の典型である「酒呑童子」伝説に相当するといえるかもしれない。

 

・ところで、不思議に思われるのは、そんな天狗を祀る人びとがいたことである。

 

「天狗」の民俗学的研究
ところで、昔話に登場する天狗は間抜けな天狗が多い。知恵のある男が天狗をだまして、天狗の隠れ蓑や笠、鼻の高さを変えることができる団扇を手に入れる話などがよく知られている。民俗学では、こうした昔話の滑稽な天狗を根拠にして、天狗の零落と捉える傾向がある。しかし、たとえば、『是害坊絵巻』の物語に描かれているように、天狗は第一期黄金時代でさえも間抜けで滑稽な側面を抱えもっていた。したがって、一概に零落とみなすわけにはいかない。天狗の本質はしばしば「鬼」と属性が重なりながらも、姿かたちは大きく威厳があるが、その内容は愚かさ・間抜けさを抱えもっている、という点にもとめられるのかもしれない。さらに、天狗の社会は男のみからなる社会であって、そのシンボルが高い鼻であり、「神隠し」現象に、どことなくセクシャルな、あるいはホモセクシャアルなイメージが漂っているのも、これと関係しているのであろう。「天狗」の特徴はこうした両義性にあるのだろう。

 

「山姥」研究の足跡

・天狗は男性ばかりの妖怪集団である。この「天狗」に対応するかのような山の妖怪種目が「山姥」である。しかし、これはあくまでも性の「対応」をいっているに過ぎず、「天狗」と「山姥」が夫婦であるということではない。むしろ、そうした伝承はまったくないようである。

 「山姥」もしくはそれに類する者が文献に登場するのは、中世後期の室町時代である。有名な謡曲の『山姥』はその一つであるが、お伽草子『花世の姫』にも山姥が登場している。さらに『当代記』という書物には、慶長十四年(1609)に、京都の東山東福寺付近で「山姥」というものを見世物にしたという記録も留められている。

 

「山姥」が「鬼女」の系譜に連なることは、謡曲『山姥』で、妄執が塵のように積もって山姥となった、と語ることからもわかる。この時代の人びとは、女が「妄執」を抱くと山姥に変わる、と考えていたわけである。また、『花世の姫』の「山姥」は、顔は折敷のごとく、目はくぼみ玉は抜け出て、口は広く、牙は鼻の傍まで生え出ていて、頭の毛は赤いしゃぐまのようであり、そのなかに角のような瘤が十四、五ほどあったという。明らかに鬼のイメージが描かれている。ところが、このいずれの山姥も、鬼女系の山姥でありながら、困った人を助ける好ましい役割を演じている。山姥は善悪の両義的な性格をもっていたのであった。

 

「山姥」はまた、天狗と同様、民俗社会でも伝承されている妖怪である民俗社会の「山姥」は、「山女郎」とか「山母」「山姫」などともいわれ、その夫は「鬼」もしくは「山男」「山爺」などと語られている。地方によって多少は異なるものの、背が高く、長い髪をもち、眼光鋭く、口は耳まで裂けている、というほぼ共通した特徴をもっている。

 

・わたしが調査した高知県の物部村に伝わる山姥伝承も、そうした両義性・二重性をもっている。この地方では、山にはいろいろな魔物・魔群が棲んでいるが、山姥(若い女の場合は山女郎)もその一つで、山姥に山のなかで出会うと、よくないことが起こるという。とくに山姥と出会ったあとに原因不明の病気になると、それは「山姥の祟り」とか「山姥憑き」とみなされ、祈祷師を招いて祓い祓い落とした。

 

・しばしば山姥研究の端緒となった研究として、柳田國男の『山の人生』が挙げられるが、これは山と人との関係を論じたもので、そのなかで山姥伝承も取り上げられ、山姥伝承の背後に、山の神の信仰や山に消えた女性の影が認められることを暗示的に述べているにすぎない。従来の民俗学では、こうした柳田の考察を踏まえて、山姥の古形(起源)を山の神(女神)に求め、その零落したものと解釈してきた。

 

折口信夫は、山の神に仕える巫女の幻想化したものと解釈している。

 

お伽草子酒呑童子』にも、麓の長者の娘が伊吹大明神に仕えるために山に入るエピソードがあるので、こうした山の巫女が里人から妖怪視されることがあったとしても不思議ではない。

 

・日本の妖怪の代表ともいえる「天狗」と「山姥」は、山の怪異の説明装置として伝承されてきたものである。きわめて単純化していえば、「天狗」は「男」もしくは「男社会」のシンボルであり、他方の「山姥」は「母」もしくは「女社会」のシンボルであった。これまで述べてきたように、そして性格は異なるが、両義的性格を帯びているところに本質があった。その研究はまだ少なく、未開拓の領域が多いといっていいだろう。本巻に収録した論文に偏りやばらつきが見られることに、そのことが物語られている。