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ひとりこの飛騨の牛蒡種(ごんぼだね)のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。(1)

 

 

 

 

『憑きもの』

怪異の民俗学1  《憑依》現象の根源を解明する

小松和彦 責任編集  河出書房新社  2000/6/1

 

 

 

憑物系統に関する民族的研究――その一例として飛騨の牛蒡種――喜田貞吉

序論――術道の世襲と憑物系統――

ここに憑物系統とは、俗に狐持・犬神筋などと言われるいわゆる「物持筋」のことである。

 

飛騨の牛蒡種に関する俗説――牛蒡種と天狗伝説――

・国そのものが山間にあるところの飛騨において、しかも更にその山間のある一地方には、牛蒡種(ごんぼだね)と呼ばれる一種の系統が今も認められているという。

 由来狐憑・狸憑・犬神憑等憑物に関する迷信は広く各地に存して、その憑くものの種類は種々に違っていても、とにかくある人間に使役せられたある霊物が、他の人間に憑いて災をなすという信仰においては、ほとんど同一であるが中に、ひとりこの飛騨の牛蒡種のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。

この牛蒡種の人に恨まれると、その恨まれた人はたちまち病気になる。

 

・加賀の白山は言うまでもなく天狗の本場である。したがってこの事実は、この地の天狗伝説と相啓発して、いわゆる牛蒡種の性質を考える上において、最も注意すべき材料だと思う。

 

牛蒡種の名義――牛蒡種と護法神――

・これについてまず考えてみたいのは、いわゆる牛蒡種という名称である。その由来については、牛蒡の種に小さい棘があって、よく物にひっつくように、この人々は容易に他にひっ憑くから、それでこの名を得たのだと言われている。これもひと通り聞こえた説明ではあるが、自分は別に本来それが「護法胤(ごほうだね)」ではなかろうかと考えているのである。

 護法とは仏法の方の術語で、護法善神・護法天童・護法童子などの護法である。本来は、仏法を守護するもので、いわゆる梵天・帝釈・四大天王・十二神将二十八部衆などという類、皆護法善神である。その護法善神に使役せられて、仏法護持に努める童形の神を、護法天童とも護法童子ともいう。不動明王の左右に侍する可愛らしい矜伽羅(こんがら)・制叱迦(せいたか)の二童子、その他八大童子の類、すなわちいわゆる護法童子である。

 

・我が国では、仏教家が地主神を多く護法神として仰いでいる。修験道の元祖たる役行者が、葛城山で鬼神を使役したというのも、やはり一種の地主神を護法に使ったのであった。今も大峯山中には、ちょっと前編に言ったように、この時業者に使役せられた鬼の子孫だと称するものが住んでいる。

 

・護法のことはいろいろの場合に現われている。しばしば験者の手先になって、悪魔を追い払うことなどをもつとめている。

 

・この外にも護法のことは古い物語や小説などに、送迎に遑ない位に多く出ている。しかしてその護法はこれを使役している人のために、しばしば第三者の身に取り憑くもので、護法に憑かれた場合には、その人は甚しく身震いするものだと信ぜられていたらしい。

 

現に役行者に使役せられたという護法の鬼の子孫が、今も大峯山中に前鬼の村人として存在しているというではないか。さればこれを人事について言ってみれば、白山を擁護して破邪折伏の任務に当る祇園の犬神人(つるめそ)の如きは、身分は低いがやはり一種の護法と言って然るべきものである。しかして彼等は現にそれを使役する山門の宗徒の指揮の下に、しばしば反対者に打撃を与えるべく活躍したものであった、護法の子孫がなお祇園の犬神人のそれの如く、一種普通民と違った筋のものとして、世間から認められるということはあるそうなことである。この意味に於いて自分は、問題の牛蒡種は護法胤(ごほうだね)ではあるまいかと思うのである。

 

護法祈と護法実――護法系統と憑物系統――

・土俗の学に堪能なる柳田国男君はかつて「郷土研究」に護法童子の事を論じて、『作陽志』から美作の修験道の寺なる本山寺の、護法祈のことを引いておかれた。

 

しかし護法祈は美作の山間ばかりではない。京都に遠からぬ鞍馬にも、今にそれが伝えられているのである。尤も鞍馬は京都に近い所だとはいえ、やはり極めての山間で、その東南一里半ばかりの土地には、かつて自ら鬼の子孫だと称した八瀬童子の後裔が、今も現に住んでいるところである。

 

・この鞍馬の護法善神社は、本堂の後右の閼迦井(あかい)の辺にあるので、地主神たる大蛇を祀ったのだとある。

 

護法と天狗――天狗は一種の魔神――

・鞍馬では右の護法堂の大蛇以外、別に天狗という名高い護法のあることを忘れてはならぬ。いわゆる魔王大僧正を始めとして、霊山坊・帝金坊・多聞坊・日輪坊・月輪坊・天実坊・静弁坊・道恵坊・蓮知坊・行珍坊以下、名もない木の葉天狗・烏天狗の末に至るまで、御眷属の護法が甚だ多いので、ひとたび足を鞍馬の境内に入れたものは、何人もたちまち天狗気分の濃厚なるを感ぜぬものはなかろう。寺伝によるといわゆる魔王大僧正は、当寺の本尊毘沙門天の化現だともある。しかし天狗はひとり毘沙門天を祀った鞍馬のみのことではなく、他の名山霊嶽にも、同類の護法の信仰は甚だ多い。しかしてこれらはやはりその他の地主神、すなわち先住民の現れと見るべきものであろうと解せられる。

 

・加賀の白山の天狗は鞍馬寺所伝『天狗神名記』によるに、白峰坊大僧正というとある。そしてその下には正法坊という眷属天狗の名も見えているが、無論その外にも配下の天狗達は甚だ多いに相違ない。何しろ日本の天狗界には、部類眷属合して十一万三千三百余というのであるから、後世にその名は伝えられずとも、有象無象の天狗達の各地に多かったことは言うまでもない。

 

牛蒡種は護法胤――鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗――

・いわゆる牛蒡種の本場なる上宝村雙六谷が、もともと護法なる天狗の棲処であったということは、果して如何なる意味であろうか。山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した『八瀬記』にそう書いてあるのだから間違いない。しかしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。彼の酒呑童子や茨城童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一の「護法胤」と見てよいのであろう。しかし鬼の子孫というものはひとりこの八瀬童子のみには限らぬ。

 

・我が神代の古伝説によっても、天津神系統の天孫民族は現界を掌り、国津神系統の先住民族は、幽界のことを掌ると信ぜられていた。大国主神が国土を天孫に譲り奉ったというのは、実は現界の統治権のみであって、神事幽事はやはり保留しておられたのであった。この神が医薬禁厭の元祖として伝えられているのもこれである。しかして大国主神は、一に大地主神とも言われて、実に我が国の地主神の代表者とますのである。

 

・勿論、地主側のものがすべて山人となったものではない。またその山人のすべてが後世鬼と言われたものではない。中には疾くに足を洗うて里人に同化し、いわゆるオオミタカラになってしまっているものが多数にあるには相違ない。

 

・鬼が護法であるように、天狗もまた護法なのだ。しかして飛騨の牛蒡種が、天狗の棲処なる雙六谷にその本場を有しているということは、この意味からして了解されるものではあるまいか。天狗は一の護法であると同時に、また鬼と同じく或る霊能を有して、人間に取り憑いて災いをなすことがあると信ぜられているものである。この思想は『今昔物語』を始めとして、中古の物語にはうるさいほど見えているのである。しかしてこの雙六谷の牛蒡種と呼ばれる人々が、やはり他からは人に憑くものと認められているのであってみれば、それが護法胤すなわち護法たる雙六谷の天狗の子孫として、他から認識される結果であると解して、名実共に相叶うものではあるまいか。

 

・元来飛騨は山奥の国であって、なお大和吉野の山中に国栖人(くすびと)と呼ばれた異俗が後までも遺っていたように、また『播磨風土記』に同国神崎郡の山中には、奈良朝初めの現実になお異属が住んでいたとあるように、ここでは中古の頃までも、未だ里人に同化しない民衆が住んでいたのであった。

 

・かくの如きはひとり飛騨にのみ認められるのではない。各地に同様の経過を取ったものが、けだし少からなんだに相違ない。しかるに彼此の人口ようやく増加して、これまで丸で別世界の変った人類であるかの如く考えられていたものも、だんだん境を接して住まねばならぬこととなる。狩猟や木の実の採集のみで生きていた従来の山人も、それでは食物不足とあって農耕の法を輸入する。

 

霊物を使役する憑物系統――自分で憑く物と人に使われて憑く物――

牛蒡種の外に狐持・外道持・犬神筋等、各地その名称を異にし、また幾分その憑依の現象をも異にするものの甚だ多いことはすでに述べた。しかし実際上これら各種の憑物の間にそう著しい区別のないことは、本書に紹介した各地の報告に見ても極めて明白な事実であるただ飛騨の牛蒡種のみは、人その物が直接に来て他人に憑依すると信ぜられ、他の憑物系統のものは、その系統の人の使役するある霊物が来て、他人に憑依するという点に於いて相違があるのみである。すなわち飛騨の牛蒡種は人その物が直ちに護法であり、普通の物持筋は、その有する護法が他に憑くという点において相違あるのみである。

 

結論――憑物系統と民族問題――
自分の物持筋すなわち憑物系統の起原に関する解釈は右の通りで、大抵は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものだと信じるのである。かく言えばとて彼等があえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、いわゆるオオミタカラなる里人といえども、その大部分はやはり国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。

 

・かの飛騨の牛蒡種の如く、一村民ことごとく憑物系統だと見られているが如きはよくよくの場合である。尤も『雪窓夜話』にも、中国のある村々は一村ことごとく犬神持だとあるように、他にもそんな例がまんざらない訳でもあるまいが、大抵は「筋」を異にしながら同じ村内に雑居して、他からアレだと排斥される場合が多いのである。

 

・現に出雲に於いても、村中の住民の過半が狐持であって、いわゆる白米のものは比較的少数だというのが少なくないのである。さればこれを民族的に論ずれば、本来彼此の間に何等区別のないものであって、したがってこれを疎外すべき理由は毛頭存在しないものである。

 

収納論文解題  香川雅信

柳田國男「巫女考」(抄)

・日本民俗学創始者柳田國男による日本のシャーマニズム研究である本論考は、柳田自らが編集に携わっていた日本民俗学の初の専門誌『郷土研究』に創刊号より連載されたもので、柳田にとって非常に重要な意味を持つ論考であったことが推察できる。

 

・この中で柳田は、飛騨の牛蒡種や蛇神・犬神といったいわゆる「憑きもの筋」の問題についても触れている。柳田は、「憑きもの筋」はかつて特殊な神を祭祀していた家系であり、信仰の零落とともに、邪悪な霊を用いて他者に害を与えると見なされるようになったと論じている。

 

・後に速水保孝によって、「憑きもの筋」は宗教者の家筋ではなく、江戸中期以降の貨幣経済の浸透によって急速に富を蓄積したために、村落共同体から脅威と見なされ、疎外・排斥された新興地主であったことが明らかにされるまで、こうした柳田式の「信仰の零落」による説明は長く民俗学の常識となっていた。

 

喜田貞吉「憑物系統に関する民族的研究――その一例として飛騨の牛蒡種――」

・本論分は、飛騨地方の憑きもの筋である牛蒡種を例として、憑きもの筋の起源について考察したものであるが、牛蒡種は護法胤→護法は地主神→地主神は先住民族の代表→牛蒡種は先住民族の子孫、というように、推測の上に推測を重ねることによって導き出された結論は、今日では到底受け入れがたい。しかし、憑きものと護法信仰、天狗信仰、白山信仰、鬼伝説などとの関係について考察している点など幅広い視野を持っており、示唆に富む論考である。

 

酒向伸行「平安朝における憑霊現象――『もののけ』の問題を中心として――」

平安時代に特徴的な憑霊現象として、「もののけ」の問題が挙げられる。本論文では、平安時代における「もののけ」の憑依とそれに対する祈祷のメカニズムが、さまざまな文献の記述より明らかにされる。殊に、筆者は霊的存在の影響力である「気」に注目して日本人の霊魂観を解き明かそうとしている。

 

高田衛「江戸時代の悪霊除祓師」

・ここでは、17世紀後半を中心に多くの奇蹟を行った祐天上人と、彼が解決した下総国岡田郡羽生村の憑きもの事件が紹介されている。羽生村の事件は、後に「累」の怪談としてよく知られるようになる。

 

川村邦光狐憑きから『脳病』『神経症』へ」『幻視する近代空間』青弓社

・本論文は、狂気に対する視線が、近代精神医学の枠組のもとでどのように変質していったのかを、さまざまな言説を分析することによって明らかにしたものである。近世において超自然の外在的な<モノ>である狐の憑依によるものとされ、それゆえ狐を心身内から排除することによって治療可能であると見なされていた狂気が、近代になって神経や脳という特定の器官の障害として内在化され、治療不可能なものとして排除の対象となっていく、というパースペクティヴの転換が鮮やかに描かれている。殊に、遺伝という新たな差別の形態が生み出されていったという指摘は注目すべきものである。

 

千葉徳爾「人狐持と大狐持」

山陰地方は「狐持ち」と呼ばれる「憑きもの筋」の多数地帯である。「狐持ち」の発生を、江戸中期以降の貨幣経済の浸透による新興富裕層の出現と関係づけて実証したのは、1954年に刊行された速水保孝の『つきもの持ち迷信の歴史的考察』であったが、本論文はそれ以前に同様の指摘を行ったものであり、注目すべき論考となっている。さらに、家の守護神としての狐と憑きものとしての狐の二種を区別すべきこと、憑きもの信仰の地域差を地域の事情と関連づけて考えるべきこと、など教えられる所の多い論文である。

 

中西裕二「動物憑依の諸相――佐渡島の憑霊信仰に関する調査中間報告――

・従来の憑きもの研究は、「憑きもの筋」の問題、すなわち家筋を形成する憑きもの信仰の研究が主流であり、それ以外の憑きもの信仰が正面から取り上げられることは少なかった。本論文では、新潟県佐渡島の貉信仰という家筋を形成しない憑きもの信仰が、当該地域の人々の観念体系の中で考察されている。

 

・筆者は後に、同地域の貉憑き・生霊憑き・呪詛・死霊憑きなどさまざまな憑霊現象についての膨大な事例を紹介し分析した論文を発表している。

 

波平恵美子「『いのれ・くすれ』――四国・谷の木ムラの信仰と医療体系――

・これに対して新たに憑きもの信仰をフィールドとするようになったのは、人類学者たちであった。

 

・波平は、「タタリ・ツキ信仰」を民俗社会の医療体系の一端をなすものとして捉え、これまで「憑きもの筋」の問題に矮小化されがちであった憑きもの信仰を、包括的な視野の中で考えるための一つの枠組を提示したといえる。

 

佐藤憲昭「『イズナ』と『イズナ使い』――K市における呪術―宗教的職能者の事例から――

・「イズナ」は、中世の文献にもその名が見えるほど古い歴史的背景を持つ憑きものであるが、かつて柳田國男をして、「今日、いくらさがしても見当らぬほどその影は薄く、たまにあったとしても、当事者らが不思議がっている程度である」と言わしめたように、現代における事例報告はきわめて少なかった。本論文は、現代の、それも都市部における「イズナ」と「イズナ使い」に関する事例を紹介した貴重な報告である。特に本論文では、「憑きもの使い」の問題に焦点が当てられ、宗教的職能者間の社会的関係と憑きもの信仰との関係が論じられている。

 

松岡悦子「キツネつきをめぐる解釈――メタファーとしての病い――

本論文は、ある一人の女性のキツネ憑き体験について、その語りの変遷を詳細に迫った興味深い報告である。この中で、女性自身の語りと民間治療及び精神医学の解釈が並行して記述され、それらがいずれも「分かりにくいことを具体的に把握する」ためのメタファーであり、いずれのレベルにも還元できるものではないことが主張される。

 

香川雅信「登校拒否と憑きもの信仰――現代に生きる『犬神憑き』――」

・本論文は、徳島県のある町において、登校拒否(不登校)という現代的な「病気」が、伝統的な憑きもの信仰の中で捉えられているという「逆説的な現象」について報告し、それを当該地域の医療体系や社会関係と関連させて論じたものである。憑きもの信仰を「文化的に制度化された物語発生装置」として捉え、超自然的な存在によって惹き起こされる災厄――「障り」の物語が生成される過程を明らかにしているが、いささか図式的に過ぎるきらいがある。

 

昼田源四郎狐憑きの心性史」

・筆者は精神科の医師であるが、憑霊現象にも大きな関心を寄せており、近世のある地域社会における病い、狂気への接し方を古記録から再構成した『疫病と狐憑き』は、日本の憑霊信仰の研究において貴重な文献の一つとなっている。ここでは、人間に憑依する存在の時代的変遷について、精神医学の立場からの説明を試みている。筆者は、死霊や生霊に代わる狐をはじめとする動物霊が、近世において人間に憑依する存在として主流になってきたのは、対人関係に直接的な葛藤を持ち込むことを回避しようとする機制が働いたためだとしているが、「憑きもの筋」の問題をやや軽視しているのではないかという疑問が残る。

 

高橋紳吾「都市における憑依現象――宗教観からみた日本人の精神構造――」

・近年、民俗学文化人類学において、憑きもの信仰はさほど人気のあるテーマとは言えず、事例報告も決して多くはない。これに対し精神医学の分野では、その空洞を埋めるように憑霊現象に関する事例報告がコンスタントに行われている。本論文もその一つであり、現代都市における憑依現象という興味深い事例が報告されている。

 

仲村永徳「沖縄の憑依現象――カミダーリィとイチジャマの臨床事例から――

沖縄におけるカミダーリィ(巫病)とイチジャマ(生霊)という二種類の憑霊現象が報告されている。精神医学的な臨床事例の報告とともに、それらの背景となる伝承の紹介、さらに沖縄の憑霊現象の特質を社会的・文化的背景と関連させて論じるなど、本来ならば民俗学者文化人類学者が担うべき仕事を行っており、憑霊信仰に関するものとしてきわめて良質な報告となっている。

 

桂井和雄「七人みさきに就いて――土佐の資料を中心として――

・文書によるアンケートと聞き取り調査によって、「七人みさき」と呼ばれる怪異について、土佐を中心として各地の事例を集めたもの。「七人みさき」を土佐の風土病として、医学的研究と照らし合わせてその病原体について推測した部分が特に興味深い。

 

掘一郎「諸国憑物問状答」

・この記事は、その報告の一部を掲載したものであり、九州・四国の犬神、群馬のおさきが事例として挙がっている。特に香川県三豊郡の一例は、犬神が一種の守護神として病気なおしをおこなっているという貴重な事例報告である。

 

下野敏見「種子島呪術伝承」

・モノシリと呼ばれる呪術師を中心とした、種子島の呪術伝承に関する詳細な調査報告である。犬神やカゼといった憑きもの信仰についても紹介がなされており、当地の宗教的世界観を知る上で重要な意義を持つ資料である。

 

三浦秀宥「岡山のシソ(呪詛)送り

小松和彦は『悪霊信仰論』の中で、日本の「つき」現象は個人に限定されず、特定の社会集団や一定の土地・屋敷にも発現することを指摘し、憑きもの信仰をより広い視野の中で捉えようとした。そのような視点に立つならば、ここで紹介されている「シソ(呪詛)」は、人よりもむしろ家に憑く「憑きもの」として捉えることができる。本論文では、この「シソ」を送り出す儀礼と、その儀礼を執り行う宗教者について報告がなされている。

 

浮葉正親「長野県遠山谷のコトノカミ送り――山村社会における神送りの一形態――

・本論文は、長野県遠山谷の「コトノカミ送り」と呼ばれる年中行事の調査報告である。コトノカミ送りは、いわゆる「事八日」の習俗として、厄病神様(風邪の神)を送るという意味を持つ儀礼であるが、当地の憑き祟り信仰、殊に「クダショ」と呼ばれる憑きものに対する信仰と密接に関連している。災厄をもたらす悪しき霊に、どのような宗教的技術で対抗してきたのか、を知る上で貴重な報告である。

 

憑きもの  解説    小松和彦

・「憑きもの」という言葉は現在ではひろく世間に流布している言葉である。日常生活のなかでも、がらっと生活態度が変わったとき、「憑きものが落ちたみたいだ」などと表現することがよくある。あるいはまた、不幸なことが度重なったときに、「なにか悪い憑きものでも憑いたのかもしれないからお祓いでもしようか」などと表現することもある。そうした表現をした本人に、「その憑きものってなに?」と尋ねたとしても、きっとそれほど明確な答えが返ってこないだろう。日常のコンテキストでは、尋常ではない状態、すなわち好ましくない状態を引き起こしている霊的な存在を、漫然と指しているにすぎないからである。

 

・しかし、ちょっと立ち止まって「憑きもの」とはなにかを考えてみると、「乗り移った物の霊」ではあまりに漠然とし過ぎていることに気づく。たとえば、自分の住んでいるムラの氏神さまが憑いたら、それはやっぱり「憑きもの」なのだろうか。辻に立っているお地蔵さまが憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。自分が堕した子どもの霊が憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。裏山に住む狐が憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。源氏物語』にみえる葵上に取り憑いた六条の御息所の霊も「憑きもの」なのだろうか。そんな疑問が湧いてくるはずである。

 広義ではそれらすべてが「憑きもの」であるということができる。

 

・しかしながら、じつは、狭義では上述の例のほとんどが「憑きもの」に該当しないのだ。狭義の意味での「憑きもの」は広義の「憑きもの」の意味にさらにいくつかの条件が加えられているのである。

 あまり知られていないが、「憑きもの」という語は民俗学的研究のための学術用語として生み出されたものである。その研究史を簡単にたどってみる限りでは、「憑きもの」という語を学術用語として自覚的に用いようとした最初は、おそらく大正11年に刊行された喜田貞吉の編集する『民族と歴史』八巻一号「憑物研究号」であろう。それ以前に、現在と同じような意味合いで、世間あるいは知識人のあいだで用いられた形跡がないからである。その意味でこの特集は記念碑的な位置を占めている。この時期の研究を、ここでは、第一期の「憑きもの」研究期と呼びたいと思う。

 

しかし、留意すべきは、この当時はまだ「憑きもの筋」という用語は存在していなかったということである。もっとも、喜田貞吉は民俗語彙としての「狐持ち」とか「牛蒡種」とともにその総称として「憑きもの筋」とほとんど同じ意味で「物持筋」とか「憑物系統」といった用語を用い、倉光清六は「憑物持」という語を用いていた。

 

・第二期の「憑きもの」研究は、この「憑きもの筋」に焦点をあわせた研究が中心であった。この時期の研究は、人に乗り移って害をなす「憑きもの筋」に関心を絞り込んで、それを、民俗学的あるいは社会経済史的、さらには文化人類学的に研究するというものであった。

 

・ところで、民俗学的な「憑きもの」研究史を紐解くとき、必ずといっていいほど、柳田國男の『巫女考』が最初に言及される。たしかに、そのなかで、喜田貞吉たちの研究に先行するかたちで、たとえば、犬神筋や蛇神筋、オサキ狐持ちについての考察がなされている。しかし、注目したいのは、柳田國男はそのとき「憑きもの」とか「憑きもの筋」という語を用いていないし、その後も、少なくとも『定本柳田國男集』の「索引」による限り、その語を用いた形跡はまったくないのだ。

 

・すなわち、民俗学では、研究の戦略として、民俗調査のなかから浮かび上がってきた特定の現象にかかわる神霊群を「憑きもの」と総称したのである。

すでに述べたように、「憑きもの」は、文字通りに理解すれば、「憑きもの」つまり「人などに乗り移る霊」はすべて「憑きもの」である。しかし、従来の民俗学でいう「憑きもの」はそれとは大きく異なっている。というのは、民俗学が「憑きもの」という概念を創出してくる過程で、いいかえれば「憑きもの」という言葉を貼り付けるにふさわしい「神霊」を発見する過程で、「神霊」の選別・分類がなされたからである。

 

・その神霊群の分類基準は、大別して三つあった。ひとつは、人間に危害を加えるために人に憑いた神霊、つまり「悪霊憑き」に限定したことである。「憑きもの」とは「悪霊」でなければならないのである。したがって、これは英語でいう憑依現象一般を指すポゼッションよりも限定されたオブセッション(悪霊憑き、妄想憑き)に相当する。柳田や喜田の視野のなかにあった「憑霊現象」は、ポゼッションであり、その下位概念としてオブセッションがあった。

 もうひとつは、「民俗誌的現在」の「悪霊憑き」に限定したことである。すなわち、民俗学者たちが調査に赴いた先の村落において遭遇もしくは伝聞した「悪霊憑き」に限定していったのである。柳田や喜田の顔のなかにあった「憑霊現象」ないし「憑きもの」は、古代から民俗学的現在に至るとても広い視野のもとでの「憑きもの」現象の考察であった。それが遠景になっていったのだ。

 いまひとつは、特定の家に飼い養われているとその地域の人たちに信じられている「憑きもの」に研究の対象を絞り上げたことである。こうした絞り込みの結果、「憑きもの筋」を形成しない「憑霊現象」を考察することが確かになっていた。

 

・さらに、民俗学は、明らかに民間信仰の一種である「憑きもの」に、「俗言」という特別な名称を与えて信仰から区別しようとした。好ましくない信仰、断片化した信仰というという判断によって「民間信仰」からはずしてしまったのである。

 

こうした条件を満たす「憑きもの」の代表とみなされたのが、「狐憑き」「狐持ち」であった。この、具体的・地域的バリエーションが、関東地方の「オサキ狐」とか中部地方の「クダ狐」とか出雲地方の「人狐」、こうした「狐憑き」信仰に類似した動物霊憑きとして四国・東九州地方の「犬神憑き」「犬神統」、トウビョウとかナガナワとも呼ばれる九州・中国地方の「蛇神憑き」「蛇神持ち」、飛騨地方のゴンボダネと称する「生霊憑き」「生霊筋」であった。

 

・しかも、こうした「憑きもの」に関する基本的な情報源は、意外にも、柳田國男喜田貞吉、倉光清六などの第一期の「憑きもの」研究期においては、郷土研究者たちからの報告も多少あったが、江戸時代の知識人たちの随筆類のなかから抽出されたものが中心を占めていた。

 江戸中期ころから、それまであまり聞くことのなかった「妖しい獣」に関する噂が、農山村部のあいだで語り出されていた。その噂が江戸の知識人たちの耳にも入り、これに興味を覚えた人たちが、その伝聞を自分の随筆に収めたり、仲間と情報を交換したりしながらその考察を行ったりしていた。

 

・こうした近世の知識人(プレ民俗学者)たちの記述に興味をもち、それに導かれて、柳田國男喜田貞吉たちが、全国の郷土研究者や郷土史家に呼びかけて、こうした信仰のその後の状態をより詳しく知るための情報収集を開始したのである。そして、その集積がやがて「憑きもの」研究という民俗学の一ジャングルを形成することになったのであった

 しかしながら、近代化の浸透によって、たとえば、淫祠邪教のたぐいの撲滅運動がさかんに知識人の手によって進められたり、社会構造や経済構造が変化したりしたこともあって、第一期の「憑きもの」研究期には、もうすでにそうした信仰のたぐいが次第に衰退に向かっていた。だが、それでもまだ戦後の高度成長期前後にあたる第二期にくらべれば、濃密なかたちで近世から続く「憑きもの」信仰が生きていた。

 

・そして結論として、「憑きもの筋」の成立を、ムラに定着した巫女や修験、陰陽家といった、特殊な信仰能力をもつ人たちの子孫が、信仰の衰退、零落の結果として差別されたり忌避されたりする家筋に転訛していった、という仮説を立てた。

 

柳田國男は、次のように述べている。「自分の解するところでは、本来ある荒神の祭祀に任じ、宣託の有難味を深くせんがために正体をあまり秘密にしていたお陰に、一時は世間から半神半人のような尊敬を受けたこともあったが、民間仏教の逐次の普及によって、おいおいと頼む人が乏しくなって来ると、世の中と疎遠になることもほかの神主などよりも一段と一段早く、心細さのあまりにエフェソスの市民のごとく自分等ばかりで一生懸命にわが神を尊ぶから、いよいよもって邪宗門のごとく見做され、畏しかった昔の霊験談が次第に物凄まじい衣を着て世に行われることなった。これがおそらく今日のオサキ持、クダ狐持、犬神・猿神・猫神・蛇持、トウビョウ持などと称する家筋の忌み嫌われる真の由来であろう」。

 喜田の場合は、その基本的な輪郭を柳田説に求めながら、鬼の子孫=鬼筋に着目し、物持筋すなわち憑物系統の起源は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものと解釈を打ち出した。「かく言えばとて彼等があえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、いわゆる国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。ただ彼等は早くに農民となって国家の籍帳に登録され、夙に公民権を獲得したがために自らその系統に誇って、同じ仲間の非公民を疎外するに至ったに外ならない」。とくに飛騨の牛蒡種を修験の憑り祈祷=護法憑けにおける依坐「護法実」の転訛したものではないかという説を出している点が注目される。

 

・石塚が、現地調査からようやく「憑きもの」を大文字の歴史的研究から小文字のつまり地域史的考察からその社会的機能の側面に気づいたとき、出雲の「憑きもの筋」の家に生まれ、それに由来する差別や中傷のなかで育った速水保孝が、「憑きもの筋」信仰の撲滅のために、自らの家の歴史を中心に、社会経済史的観点から非常に説得力のある実証的な「憑きもの筋」の成立・変遷論を著した。それが『憑きもの持ち迷信の歴史的考察』と、これを発展させた『出雲の迷信』である。

 速水は『出雲の迷信』の冒頭で、次のように宣言する。「狐持ち迷信といえども、歴史的産物である。しかも歴史をつくるのは人間である。したがって、われわれは、先人のつくりだした狐持ち迷信が、社会的害悪を伴うものである以上、これをみずからの手によって、消滅させねばならない責務がある。ましてや、私たち狐持ちはこの迷信の被害者である。子孫のためにも、一日もはやく、いまわしい迷信の打破をはからねばならない」。

 

・こうした使命のもと、丹念に史料にあたりその分析を通じて、「初めに狐憑きに指定された人々は、けっして、村の草分けではない。近世もだいぶ下って、村に入り込んできた他所者、あるいは新しい分家などの新参者で、ともに、急速に成金化した新興地主である彼らは、草分け百姓、土着者たちから、村の秩序をみだすものとして、狐持ちというレッテルを貼られ、疎外排除された」。つまり、「近世中期以降の松江藩では、すでに寄生地主小作人という階級対立を内に包含していた。そして、現実の事態は、村の土着的体制派農民と、新参者である外来者的反体制派地主層との、社会的緊張対立が激化という形で推移していたというのである。つまり、寄生化しつつあった地主層にたいする小作人階級意識は、見事にすりかえられ、外来者的新興地主排斥に向けられるのである。こうして、機会あらば新興成金たちの鼻をあかそうと、虎視眈々、その機が到来するのが待たれていたのである」。そして、鼻をあかすために、出雲地方のすでに広流布していた人に取り憑いて祟りをなす狐信仰を利用して排斥に及んだというのであった。それが一時的なものではなく、特定の家筋の排斥という恒久的なものになっていったのだ、と推測している。

 たしかに、速水が分析したように、出雲の狐持ちは近世中後期の貨幣経済の浸透によってそれを背景にして新興成金化した地主側に対してなされた疎外排斥の手段として創り出された新たな共同幻想であり、いうまでもなく撲滅しなければならないのもたしかであろう

 だが、速水の考察を読んでいて、私の視点が、速水の側と速水が糾弾する狐持ちの噂を流す草分け・小作人層の側とのあいだを揺れ動くのを否定できない。

 

・しかし、社会構造が「憑きもの」現象を要請しているとすれば、その社会構造の改変なくしてはそうした信仰の廃棄の可能性もありえないであろう。

 

・彼らのグループの調査をした時期は、ちょうど高度成長期にあたっていた。山間僻地にまで都市化・過疎化の波が押し寄せ始めていた。実際、「憑きもの」信仰は以前に比べて衰退していた。そして、やがて、都市化の荒波を受けて、ムラの社会・経済構造や価値観も大きく変化し、ほとんどの地域から「憑きもの」信仰も変容し消滅していったのであった。

 ここに至って、民俗学者や社会経済史家、社会人類学者たちによる「憑きもの筋」の研究は、対象の消滅という事実によって、ほぼ終息することになった。

 

「憑きもの信仰」研究から「憑霊信仰」研究へ

私も「憑きもの」信仰に興味を抱いてきた。だが、それは戦後の民俗学的研究が関心を注いだ否定的な意味合いを賦与された「憑きもの筋」ではなく、「憑きもの」現象一般とさらにその根底にある人間の精神構造を理解するための手がかりを得るための素材としてであった。

 私が考えたのは「憑きもの」信仰を理解するには、民俗学のような「憑きもの筋」に限定せずに、もっと広い枠のなかに置いて考える必要があるのではないか、ということであった。「家筋」という条件、「邪悪な憑依」という条件、さらには「現代の民俗社会」という条件を取り払い、素直な気持ちで現象に向かうべきだ、と考えたのである。

 まず最初に挙げるべき重要なことは、昔から「憑依現象」(精霊憑依)と認定される現象が存在しているという事実であった。

 

・まず確認しておくべきことは、「憑依現象」は二つの類型に分けることができるということである。それは憑かれている本人にとって好ましい霊(善霊)の憑依と好ましくない霊(悪霊)の憑依、の二種類である。留意したいのは、人々が信じている諸霊・諸神格が、この二つに分類できるというわけではないということである。もちろん、日本人が信仰した神仏には阿弥陀や観音のように、けっして悪霊にならない善霊もあり、たとえば、第六天の魔王のように、善霊にならない悪霊もある。

 

・また、これとは異なるかたちで、二つに分類することもできる。それは人間に制御された憑依と制御されない憑依の二種類である。私たちがシャーマンと呼ぶ宗教者は、自分の望むときに、自分の身体や他人の身体に、善霊や悪霊を憑けることができる。ところが、そうした能力がない者の憑依は、本人の意志とは関係なく、善霊や悪霊が憑くという現象が生起する。人々が予想していない「憑依現象」が発生するわけである。

狭い意味での「憑きもの」信仰は、こうした二重分類の一角、制御されない、悪霊憑き、という部分を構成する信仰要素に属するわけである。「憑霊信仰」はそうした大きな視野のなかで考察されるべき信仰なのであろう。制御された悪霊憑き、たとえば、病人に憑いている思われる霊を確定するために、祈禱師が「依り坐(まし)」に悪霊を引き移して示現させるような状況も「憑霊信仰」であり、あるいは制御された善霊憑き、たとえば巫女が託宣を得るために楽器を鳴らしたり舞を舞ったりしながら神寄せをして神憑り、有名な寺社の神や氏神などが乗り移る状況も「憑霊信仰」であり、制御されない善霊憑き、たとえば、氏神や守護神が氏子・信者の危急を告げるために、人に乗り移って託宣をするような状況もまた「憑霊信仰」なのである。そして、そのような状況での「憑霊」も「憑きもの」とみなすべきなのである。

 

その延長上に、もちろん地域差・時間差はあるが、近代西洋医学が登場し、「狐憑き」を「脳病」へ、さらには「神経病」そして「精神病」へと置き換えていく作業が展開するのである。

 

・しかし、こうした「進歩」観を単純に納得してしまうわけにはいかない。香川雅信や高橋紳吾の報告が物語るように、現代においても新たに生起する具体的現象の説明のために「憑きもの」が利用されたり、大都市においても憑依現象が頻発しているからである。下部構造が変化して「憑きもの筋」といった信仰は消滅しても、「憑きもの」信仰は、共同幻想が西洋合理主義的なものに取って替わられながらも、前近代的からの共同幻想も断片化・個人化しつつも現代にまで生き延びているともいえるのである。

 

・「託宣」はまた「神託」ともいうように、「神のお告げ」である。神が自分の意志を人に告げることが、あるいは人が神に自分たちの問いの答えを求めたその答えが、「託宣」である。この「託宣」を理解するには多くの紙面が必要である。ここはその場ではないので、必要最低限のことを述べるに留めねばならないが、前者の場合は、「憑霊」(制御されない)による託宣と「夢」による託宣が圧倒的に多かった。これに対して、後者では、「憑霊」(制御された)による宣託と道具を用いての「占い」が多かったといえるであろう。

 

しかも、見逃すことができない重要な点は、病人や病んでいる社会が、こうした託宣(物語)によって癒されるということである。それは虚偽だ、捏造だ、という糾弾によっては片づけることができない文化的できごとなのである。民衆のなかに生きる「物語」は、じつはさまざまなかたちで彼らの「現実」に根をもった物語であるということができる。

 

・最後に、すでに言及してきたことであるが、確認の意味も込めて、こうした「憑霊信仰」の諸要素を結びつけ巧みに動かしている存在、蔭の仕掛け人ともいうべき存在に触れなければならない。それは祈祷師とか占い師とか、民間の呪術・宗教者などといった用語で表現される者たちである。かれらは、人々が「不思議」に思うこと、原因をきわめられない病気を含むさまざまな「異常な出来事」を、説明する人たちである。かれらは人々が共有するコスモロジー共同幻想に通暁し、また個々人の歴史や社会状況も十分に調査し理解している者である。さらにまた、依頼者(病人)と共感共苦することができる者でもある。

 

・古代から現代に至るまで、多くの人々が、「憑霊現象」を認め、その霊の言葉に耳を傾けた。その霊のもたらす恩寵や災厄に一喜一憂してきた。日本文化のかなりの部分は、その結果生まれたものであるともいえるのである。いまさら確認するまでもないが、北野天満宮石清水八幡宮がそうであったように、京都の有名な神社の多くが、そうした託宣=憑霊信仰の産物であった。日本文化はけっして合理的な思考のみで創られたわけではないのだ。「憑霊信仰」の衰退は同時に共同幻想の衰退を意味し、個々人の歴史・体験が大きな社会のなかに位置づけられることなく、ミクロな状況のなかで漂流しているということでもある。

 

・以上に述べたことを踏まえれば、従来の意味での民俗学的な狭義の「憑きもの」概念は、もはや改変・廃棄されねばならないはずである。そのうえで改めて「憑霊現象」の一角に組み込まれなければならないのである。「憑きもの筋」は「憑霊信仰」の特殊な形態に過ぎないのである。