『鬼』 怪異の民俗学4
<鬼と山人と 折口信夫>
・季節の替り目は魂の浮かれやすい時である。殊に初春と初秋とには、生き身の魂さえ、じっとして居られなくなるらしい。死人の魂は固より、ふらふらと遥かな海のかなたの国土から、戻って来るのである。常世と言うのは、実は海岸の村の海に放った、先祖代々の魂が到り尽して常には安住している国の名であった。村の元祖を一人又は男女二人として、それに多くの眷属として、個性のない魂が集って居る。その先祖を代表した魂が、常世の神となり上り、なり替って、醇化した神となった。そうして、死の国と常世とは別になって了うた。常世の元の形の記憶はまだなくなりきらない中に、常世神に縁のない山国に移った村々は、常世をもっと、理想化して高天原を考えた。そうして常世神の性格の一部を山の神に与えた。けれども、初春毎に来ては、一年を祝福しては去った先祖の魂の、祝福はせなくなっても、ともかく戻って来る事だけは忘れなかった。あいにく仏教はそう言う事を思い出させる様に出来ていた。平野・山国となって、山を背景にした。だから歳神は、山から来る。但し、山の中ではなく、野越え山越え来るのらしい。
・山の神は海岸を見捨ててからは、親しみ易くて頼み易いので、段々善的な神として行った。併し常世神以来、祝福がすすめばすぐにも還って欲しい様な畏い気むつかしい所のあるのが神であった。山の精霊も神に近づいて、醇化して行く程、段々気のとりにくい畏い処が出て来た。
・おにと言う語は、日本固有の語で、隠でも陰でもなかった。鬼をものと同じ(此は魔の略格かも知れぬ)、おにと称したのは、語に両面の意があったからである。おにの第一義は、「死人の魂」で神に近いものと思う。其が段々悪く考えられて安住せぬ死霊の様に思われて行った。恐らく常世神とまでならぬ先祖の霊と常世神との間の、死の国の強力者とも言うべき、異形身を考えて居たであろう。死の国において、皆現世の身を失うて変形するものと考えて居たのである。神と死霊との間の妖怪でいて好意あるものと言う位の内容であろう。身躰の大きい事が恐らく必須条件であろう。ものは本身を持たぬ魂で、依るべのないものなのである。だから、常に魂のうかれる時を窺うて、人に依ろうとするのである。人に災する物の中、庶物の精霊はたまであるが、これは、唯浮遊しているのである。時々動物などの身の中に憩うこともあるようである。
・その変化した考え方から人の魂でも、身を離れて悪化した場合には言うている。おにの居る処は、古塚・洞穴などであるらしい。死の国との通い路に立つ塚穴である。神の奴隷・従者・神の弟子・神になる間の苦しみの形と言う様な意味を持って来たのは第二義らしい。悪事をせない様に、神の所属にせられているのであった。だから、常世と此土との間の洞窟や海底にいるものと考えられている。煉獄の所生で、此時期を過ぎれば神になれるのであろう。おにと謂われる物は、八瀬のおにも、大峰のおにも皆山の洞穴に縁がある。鬼隅皇女など言う名も巌穴洞穴に関係あり相だ。手長と言うのも、神社におけるおにである。神奴として、異形身なるものをいうのだ。
・地獄の生類の名としたのは、第三義で、仏教以後である。御霊になっても、おにとは謂わなかった。巨大さがない為である。
さすればおには、恐らく大人の義で、おおひとと同義である。おには空想の所産で、山人・山の神は人間であるが、おには先住民をそう考えていたのであろう。先住民は巌穴に住むものと見、それが神力で従えられたものの子孫が、神奴のおにだとするのだ。巨人伝説の上の大人を先住民と見ていたのである。八幡の大人弥五郎の如きも、神奴の先祖を形に表したのである。八握脛七束脛など言うのも、先住民の名として大きな者なることを示す。智恵の勝利を示すと共に、威力を見せる手段であろう。大太郎法師も、八幡系統の高良山の大多良男命大多良女命なのである。ひいては、寺にまでも此信仰が這入って、金剛力士を門の両側に立たせることになった。異教の村の神を征服した姿を見せるので、八幡には昔は、弥五郎を門にすえたに違いない。神と神との争いに小さな神の勝利を示す事から、転じて人の上にも移されたのだ。安倍貞任も巨人であり、松岡五郎も巨人、三浦荒次郎も巨人だった様に、わが国では被征服者が巨人化するのである。
<収録論文解題 丸山泰明>
<折口信夫「春来る鬼」 1931年 折口信夫「春来る鬼――秋田にのこる奇習――」1934年>
・折口の思想の重要な概念として「まれびと」がある。「まれびと」とは、共同体の外部から訪れる神や精霊であり、祝福をもたらしたり禍をもたらしたりする。折口は「まれびと」を実体としてみなすよりも、むしろ操作概念として用い、独自の類化性質に基づいて多様な現象を捉えようとした。両論考は、現在一般にナマハゲとして知られている秋田県男鹿半島の行事を素材にして、「まれびと」としての鬼を論じたものである。
・「なもみたくり」をはじめとして、「ほとほと」や「えびす神」などの共同体の外から訪れる神霊を取り上げ、祝福をもたらす神霊の一種として鬼を位置づけている。
・1934年の「春来る鬼」は口述筆記である。初出時は「秋田にのこる奇習(春来る鬼)」だったが、旧全集に収められた際に、表題に改められた。こちらは、年の終わりに訪れる鬼とは祖先の霊であり、厄払いをすることに重心が置かれている。
<馬場あき子「鬼の誕生」 『鬼の研究』1971年>
・1971年に初版が刊行された『鬼の研究』は、国文学の分野で初めての、まとまった鬼の研究書である。
・論者にとって、鬼とはあまりに「人間的」すぎるために、人間の規範にあわず人間社会から逸脱する存在のことである。本書に収録した部分では、中国から移入された「鬼」の漢字表記にどのような存在を当てはめたのかを検討している。
『鬼の研究』は国文学以外の分野からも大きな反響を呼んだ。出版された同年には、谷川健一の『魔の系譜』も出版されており、鬼に限らず怪異の学問的研究の先駆けになった研究書だったといえるだろう。
<山路興造「修正会の変容と地方伝播」 1988年>
・大陸から移入された仏教儀礼である修正会が、日本の中央の大寺院において変容し、地方に伝播した過程を考察した論考である。
修正会とは修正月会の略で、正月に修する法会のことである。本来罪過を懺悔する儀礼が、日本では五穀の豊穣を祈願する儀礼へと重点を移し、鬼を追い払う儀礼として中央の寺院で行われた。やがて地方にも伝播して民俗行事と結びつき、邪悪な鬼を追い払い、あるいは鬼の祝福を受ける行事となったとしている。
・大陸渡来の儀礼が日本において変容する過程の考察を通じて日本の民俗思想を浮かび上がらせようとするこころみは興味深い。
<小松和彦「蓑着て笠着て来る者は……――もう一つの『まれびと』論に向けて――>
・副題にもあるように、折口信夫の「まれびと」論を意識しつつ、批判的に受け継ぎながら、新たな「まれびと」論を構想する試みである。
折口は共同体の外部から訪れるならば、祝福をもたらす神霊も禍をもたらす神霊も「まれびと」としてとらえ、鬼もこの概念の中に包摂した。この概念はその後の民俗学にも受け継がれたが、論者は「まれびと」のなかに鬼を入れたことにより、鬼もまた両義的な存在とされ、鬼の性格を捉えそこなっていることを指摘する。そして、鬼を本質的に反社会的・反道徳的存在として再定義し、鬼を善なる神霊の対角に位置する存在としている。
・本論では、史実と説話を響かせあいながら、弥三郎-伊吹童子-酒呑童子の系譜をたどる鬼の姿を描き出している。同時代の物語世界や宗教世界・風習までも視野に入れて論を進めるその手法は、たいへん魅力的である。
<天野文雄「『酒天童子』考」1979年>
・能の「酒天童子」を、酒天童子について語る室町物語の諸本との関係を考察することを通じて、その特異性を明らかにすることを試みた論考である。能の作品それだけではなく、中世の物語世界・宗教世界の中に位置づけて考察している視点が興味深い。
酒天童子物語の諸本を比較検討することにより、能の「酒天童子」の本節が逸翁美術館所蔵の香取本『大江山絵詞』であることをつきとめ、その上で「酒天童子」そのものについて考察している。劇中に昔語りとして出てくる、伝教大師(最澄)による比叡山からの追放が、見方を変えれば叡山開闢説話であることから、酒天童子とはもともと童形の姿を両方そなえる護法童子と酒天童子との共通性を見出し、前者が後者の原資になったことを論じている。
また、能の「酒天童子」の特異性として、他の物語とは異なり酒天童子が恐ろしげに描写されているのではなく、かわいらしい童子として演出する児物語的雰囲気をおびていることを指摘する。
<伊藤昌広「『百鬼夜行』譚」>
・夜中、市中に異類異形のものたちが徘徊する「百鬼夜行」について、文献資料を整理しながらその性格を考察した論考である。
「百鬼夜行」という表現を二つに分け、「百鬼――諸々の人間とは異なる異類異形のもの」「夜行――市中なり山中を夜半に徘徊するもの」と規定し直し、この二つの規定を満たす文献資料を整理している。そして文献資料を比較総合しながら、「百鬼夜行」の話の性格や「百鬼」の姿、「百鬼夜行」が現れる「百鬼夜行日」について論じ、「夜行」する「百鬼」とは、実生活における危機感が形象されたものではないかと推察している。
・上田秋成の近世怪異小説『雨月物語』に収められている『青頭巾』と『吉備津の釜』を素材にして、疎外される存在としての「鬼」を描き出している論考である。
『雨月物語』全9話のうち、「鬼」という語が用いられるのは17例だけである。そのうち8例が『青頭巾』に集中しており、次いで多いのが『吉備津の釜』である。『青頭巾』とは、阿闍梨が病を得て死した寵童を愛するあまり屍体を姦しながら喰らい、やがて人肉を求めて村人を襲うようになる話である。かつて密教の高僧として聖域の中心に位置しながら、下野国の山寺に疎外されて周縁化した阿闍梨の堕ちた聖性に、「鬼」と化した理由を見る。
・『吉備津の釜』とは、嫉妬により「鬼」となった磯良が夫を一口に喰らう話である。秋成が嫉妬に狂う女が夫に復讐する因果論的俗解を乗り越えて、制度としての「家」から絶対的に疎外されてしまう「女」が、「鬼」が現世に現れる回路になったと捉えていたことを論者は指摘している。
<深沢徹「羅城門の鬼、朱雀門の鬼――古代都市における権力産出装置としての楼上空間――」1984年>
・平安京の正門である羅城門と大内裏の入口である朱雀門の楼閣に鬼が住むといわれた理由を考察した論考である。羅城門・朱雀門の鬼を手がかりにした王権論であると同時に、平安京の都市論でもあるといえるだろう。
羅城門・朱雀門には、楼上へ登るための階段や梯子の施設がない。このことから、楼上空間が実用的な人間活動の場として作られたのではなく、宗教的な理由により造られたものだと考える。そして、鬼や怨霊が楼上空間に住むとする説話や、門前で催された国家儀礼を検討することにより、国家権力にとっての門の役割を浮かび上がらせる。門とは、国家が災厄をもたらす悪しき力を封じ込める場であったと同時に、その一方で国家管理の下に置くことにより、悪しき力を新たに京城へと侵入する災厄を排除し撃退する善なる力へと変換する装置だったと論じている。
<池田昭「鬼の子孫の一解釈――宗教社会学的考察――」1963年>
・全国各地には「鬼の子孫」を自称する家計や集落が存在するが、その中でも特に有名な八瀬童子について論じたものである。
京都北郊にある八瀬の集落の人々は、八瀬童子と呼ばれ、鬼の子孫と称してきた。八瀬童子に関する柳田國男や喜田貞吉・林屋辰三郎の諸説を検討した上で、これらの説ではどれも八瀬童子がなぜ「鬼の子孫」とされるか説明しきれていないことを指摘し、独自の見解をしている。八瀬童子が、座主や天皇の駕神輿丁として奉仕したことに注目し、祝福をもたらすために訪れる「まれびと」としての鬼は、悪霊を追い払う守り主でもあると論じている折口信夫の説を引きながら、八瀬の人々が座主や天皇の守り主の役割を果たしていたために鬼と見なされたのではないかと推察している。
<稲垣泰一「鬼と名楽器をめぐる伝承」1977年>
・琵琶の名器「玄象」と横笛の名器「葉二」をめぐって語られる鬼の説話について考察した論考である。
琵琶の名器「玄象」には、羅城門・朱雀門の鬼に盗まれたという説話があり、管弦の名手である源博雅が取り戻したとする説話がつけ加わっている場合もある。「葉二」は横笛の名手が笛を吹きながら朱雀門の前を通りかかったとき、朱雀門の鬼が笛の音に感嘆して共に笛を吹き、鬼から与えられたとする伝承をもつ横笛である。これらの名楽器をめぐる鬼の説話を検討しながら、技芸の才とは極限において鬼に通じ、一道を究めた達人と鬼は心を通わせあうことを説いている。
<谷川健一「弥三郎婆」1979年>
・新潟県を中心に残っている弥三郎婆の伝説から、鬼と鍛冶師の関係性を見ようとする論考である。
論者は山に住む一つ目や片足の怪物を、山を仕事の場とする鍛冶師を投影したものだとしている。本論では、新潟を中心に残る弥三郎婆の伝説を、鍛冶師伝承の流によりそいながら論じる。弥彦神社の神が片目であること、弥三郎婆が弥彦神社の棟上げのさい鍛冶師よりも大工が優先されたことに憤って暴れ始めたこと、酒吞童子の出生地を新潟の栃尾とする伝説があることを、三題噺のようにして展開し、それぞれの伝説に底流する鬼の姿を見ようとしている。
<高橋昌明「大江山と『鬼』説話」1981年>
・酒吞童子説話生成の背景を、京を中心とする空間意識から考察した論考である。
酒呑童子が住む大江山は、ふつう丹波丹後国境にある大江山(千丈ヶ岳)であるといわれる。しかし、古代・中世には京都市西方の西山山地老ノ坂峠の南、丹波山城にある大江山(大枝山)の方が一般的であり、酒吞童子の首塚も老ノ坂(大枝境)にある。天歴六年(952年)に外部から侵入する悪霊を追い払い京の安寧秩序を守る四境祭が行われたさい、四境のひとつである大枝境に祭官が送られた。都の治安を守るために賊を取り締まった大索の儀においても、大江山は山賊征伐の対象になっている。これらの儀礼から、退治されるべき悪霊や盗賊がいるとされる大江山の象徴性を浮かび上がらせている。また、酒吞童子が「捨て童子」の転訛であるとする説に着目し、異常児が山に捨てられる伝承や子供を境に捨てるふりをする民俗慣行を引き合いに出しながら、酒吞童子の住む大江山の境界性にも言及している。
・麻呂子親王の鬼退治伝説を描いた縁起絵を参照しつつ、仏教の伝播と伝説の関わりを考察した論考である。
麻呂子親王は聖徳太子の異母弟であり、民衆に害をなす丹後国の鬼を征伐した。征伐の際に加護してくれた七体の薬師如来の像を作り、分置したことを縁起とする寺社がある。これらの寺社に伝わる鬼退治の縁起絵は、その発生の上限が源頼光の酒呑童子退治伝説と近く、両者が密接な関係にあったのではないかと推察している。
<黒田日出男「絵巻のなかの鬼――吉備大臣と<鬼>――」1994年
>
・古代において姿を見せないものとされてきた鬼は、やがて中世に入ると具体的にイメージされていくようになる。本論は『吉備大臣入唐絵詞』を中心にして、鬼にどのようなイメージが与えられ、それがどのような意味をおびていたのかを考察した論考である。
『吉備大臣入唐絵詞』は、唐において高楼に幽閉され餓死し鬼になった阿倍仲麻呂に助けられて吉備大臣(吉備真備)が活躍する物語である。この物語では異国との外交が説話的な異郷訪問譚として描かれている。このような説話化は現実離れをした他者認識を生み出し、外交に成功すれば高名をえるが、失敗すれば危険に陥る、両義的な異国・他島のイメージが現れたという。
また、末尾では、異国・他島の人々を鬼として描くことが鎌倉末期に発生し、同時に、鬼退治や征伐の物語も生まれたことを指摘している。
<折口信夫「鬼と山人と」1956年>
・海辺から内陸に入り、海の彼方にいる、先祖が醇化された常世神を失った人々は、山の神に常世神の性格を与え、山の神が年毎の祝福に訪れるようになったと述べる。このような世界観は「春来る鬼」と変わらないが、本論の特異性は、霊的存在として鬼に、征服された先住民の影を見ていることであろう。
折口は、柳田國男の山人論を読み込んだ後に、本論を記したと思われる。山人=先住民論は、柳田において初期の重要なテーマであり、「天狗の話」「山人外伝資料」「山人考」と続き、『山の人生』で幕を閉じている。
<和歌森太郎「山と鬼」1969年>
・山伏の成立を山岳信仰の性格から考察している論考である。
日本古来の山岳信仰には、山から吹き下ろされる風などによって災厄をもたらす性格と農耕が入ってきてからの灌漑用水の源としての性格、それに死霊のおもむく山という三種の面があったと整理する。中国からわたってきた「鬼」の字が当てはめられたのはこのうちの一番目と三番目であり、山伏が災厄をもたらす鬼を調伏する力を持っていたこと、山伏は山という死者の世界で修行することから、山伏が成立する根底に鬼がいたことを説いている。
<若尾五雄「鬼と金工」1970年>
・さまざまな角度から、鬼と鉱山の関係を考察した論考である。後に『鬼伝説の研究』(1981年)に収録されている。
・鬼が語られる神社仏閣の縁起・伝説・昔話や、「鬼の子孫」の伝承、修験道場に鉱山がある事例を全国的に収集し、鬼が金工・鉱山に関わることを説いている。そして、鬼の読みが、暗闇に隠れていることを示す「隠(オニ)」に由来すると述べる『和名抄』の説をひきながら、鉱石は暗い地下に隠れていることに、鬼と金工・鉱山とがつなげられる理由を見出している。
なお、鬼と鉱山の関わりについては、谷川健一も『青銅の神の足跡』『鍛冶屋の母』で論じているので、併読を勧めたい。
・本論を収録している『鬼むかし』は、宗教民俗学の立場から「鬼むかし」としてくくられる多様な鬼(および山姥)の昔話を考察したものである。論者によれば、鬼とは死霊と祖霊が形象化されたものであり、仏教の鬼や修験道の山伏・天狗とも結合してさまざまな性格の鬼が生まれた。
本論では、昔話「鬼の子小綱」におけるいくつかのモチーフ(「鬼が人間に子を産ます」「鬼の難題」「五百里車と千里車」「箆(へら)または杓子の咒力」「鬼の自己犠牲」)を考察し、昔話を構成する民俗を読み解いている。
<橋本裕之「鬼が演じる祭礼芸能――『大江山絵詞』雑感――」1991年>
・源頼光一行が酒吞童子を退治する話を題材にした絵巻である逸翁美術館本『大江山絵詞』のなかに、異類異形の鬼たちが田楽を演じている場面が描かれている。その理由を考察しているのが本論である。
同じ『大江山絵詞』には、人間が田楽を演じている場面もあるが、両者は動作や姿勢などの細部にいたるまで、まったく同じ構図で描かれている。祭礼芸能をめぐる社会的背景を踏まえながら絵巻を読み解き、演者が鬼として描かれているのは田楽法師たちを「霊狐」「異類異形」とした当時の視線によるものではないかと論じ、さらに鬼とはそのような視線の寓意的表現だったのではないかと推論している。
<内藤正敏「鬼の原風景――津軽岩木山の鬼神――」1994年>
・青森県岩木山に残るさまざまな鬼の伝承から、重層する民俗文化を掘り起こしている。
岩木山には、坂上田村麻呂の蝦夷討伐により退治された鬼がいるとする伝説があり、岩木山の頂部を形成する三山のうちのひとつである北東の巌鬼山に棲んでいるといわれている。そして西南のシトゲ森で殺され東南の地蔵森で再生したことから、岩木山の鬼をめぐる民俗空間論を展開する。また、北東側には鬼と鉄が関わり合う伝説があること、実際に製鉄遺跡も発見されたことから、製鉄民がいたことを推察し、鬼神社の大祭にニンニクの市が立つことから製鉄技術を携えて漂着した渡来人の姿にまで想像を広げている。
侵略者に対する先住民、農耕民に対する製鉄民、大陸からの渡来人など、重層する民俗文化を解きほぐしながら、周縁性に鬼の影を見ている論考である。
鬼といえば、一般的には頭に角をもち、虎の皮を身にまとった姿を想像しがちである。しかし、本書所収の諸論文からは、実に多彩な鬼の姿が見えてこよう。本書では酒吞童子を扱った論文がいささか多いが、それは絶対数が多いからであり、代表格ではあっても酒吞童子が鬼のすべてであるわけではない。民間伝承や文学・絵画・芸能・宗教史など、様々な角度から迫ることができるのも、鬼の研究の魅力だろう。
<鬼 解説 小松和彦>
<「鬼」とはなにか>
・「鬼」は、いいかえれば「鬼」という語は、長い歴史をもっている。早くも「記紀神話」や「風土記」のなかに登場し、古代、中世、近世と生き続け、なお現代人の生活のなかにもしきりに登場している。ということは、当然のことながら、長い歴史をくぐりぬけてくる過程で、この言葉の意味が多様化した、ということを想定しなければならないだろう。実際、鬼は歴史のなかでかなり変化し、そのために鬼の研究も多岐にわたっている。
・ところで、上述の「鬼」の特徴は二つの分けることができる。
一つは図像的説明である。鬼の姿かたちは、現代の絵本やコミックなどにたくさん描かれている。そのほとんどは、姿は人間で、顔は醜悪で、肌の色は赤や青や黄、黒といった原色、筋骨逞しく、虎の皮の褌を締め、牛などの動物の角に似た角を一つないし二つ、ときにはそれ以上をもち、口の左右からは鋭い牙がはみ出ている。
・いま一つの特徴は、図像にも暗示されているが、鬼の行動上の性格である。鬼の住みかは夜の闇の彼方、人間世界以外のどこかで、節分の夜には必ず人間世界に登場し、人を取って食べ、人間の富を奪い取ったりする。
こうした現代人が普通に思い描く鬼のイメージを、わたしなりに言い直すと、「鬼」とは日本人が抱く「人間」の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形された概念・イメージということになる。
・興味深いのは、現代に流通しているこうした「鬼」の図像的なイメージと行動上の性格は、過去にさかのぼって検討してみても、ほとんど基本的な性格においては変化がみられないことである。鬼の姿を彫った図像のもっとも古いものは、仏に踏みつけられる鬼の彫刻である。また『北野天神縁起絵巻』に描かれた地獄の獄卒や雷神の姿かたちも、現代人が思い描く鬼とはほとんど同じである。
図像的に確認できるのはこのあたりまでだが、鬼という語はさらにさかのぼって「古事記」や「日本書紀」「風土記」などにも見出すことができる。
・これまで、わたしは鬼の性格やイメージかが昔からそれほど変わらないことを強調してきたが、その一方では大きく変化したことがある。それは、現代人のほとんどが鬼を想像上の生き物と考えているのに対して、時代をさかのぼればさかのぼるほどその実在を信じる人びとの比率が増える、ということである。必然的にそれに対するリアリティも変化している。文献類を見てみると、鬼の実在がもっともリアリティをもって語られたのは、平安王朝時代であった。
・ところで、鬼概念が日本人(大和言葉共同体の成員)のあいだに成立してから久しいわけであるが、いったんこうした語彙が人びとに共有されると、この語はさまざまな事物・現象に適用されるようになる。鬼刑事とか鬼百合もそうした適用の一側面を伝えるものであるが、鬼の文化史を考えるうえでとくに重要な側面は、鬼の実在を信じた時代における用法である。
・さらに、次のようなことも考えなければならない。鬼概念をもった土地で生まれ育った者が、鬼文化の外側の地つまり異国・異文化の地に赴いたときに、鬼を想起させるような物語や芸能を見聞したとき、その土地では「鬼」という語彙がないのに、それを「鬼」と翻訳してしまうことがある。
<「鬼」への二つのアプローチ>
・文化の内側からみた鬼のイメージの研究とは、いわば異文化社会に赴いてその社会の文化の仕組みやコスモロジーを学習していく異文化研究の手法に近い視点で、当該文化ののなかにおける鬼の意味や社会的役割を観察する研究である。それは、「鬼」という民俗語彙を用いて説話や昔話を語ったり、芸能をおこなったりしている当事者たちの文化の内部に入り込み、かれらの側から見た鬼について考察しようとする。
・文化の内側からの研究には、大別して二つの視点がある。一つは、社会学的なレベルでの鬼の意味の研究である。たとえば、本巻所収論文の論者の多くが言及する酒吞伝説を絵画化したものに、「大江山酒吞童子絵巻」がある。これは大江山に酒呑童子と呼ばれる鬼を首領とする一党が棲んでいて、京に出没して姫や子どもを誘拐していた。だが、勅命を受けた源頼光一党が討伐するという物語である。この絵巻を丹念に分析し、その物語のなかでの鬼の性格や構造的な意味を析出するとき、それはこうした鬼の内在的意味の研究ということになる。
・いま一つのレベルは、「心の鬼」と呼ばれる、人間の心のなかに生じた邪年に鬼の発生をみる説話テキストや、「女の鬼」がこの世に出現せざるをえない事情を切々と語る能楽などの演劇的テキストの分析から、当時の人びとが鬼に仮託した人間の内面に生じる苦悩を考察する研究である。
・田中貴子も馬場あき子の研究に影響をうけながら、鬼の成長期ともいうべき王朝時代の人びとの心に発生する鬼を、次のように把握している。「『心の鬼』とは人の心の中に邪悪な部分を意識し、それを『鬼』になぞらえるという精神作用であって、この場合の『鬼』は人の心なくしては存在しえないものだし、心を認識することなしに『鬼』が生み出されることはない。『鬼』は心の一部であって、心と切り離すことができないのである、……心の中の闇をそのまま放置している限り、人は永久に闇の正体不明さに脅えるばかりである。だがそれをいったん『鬼』と名付けてしまえば、不可知のものが人間の理解の範疇に取り込まれることになる。いうなれば、不可知で不可視の現象を言語によってからめとるという認識方法だ。こうして、『心の闇』は『鬼』となり心の中の他者として独立してゆく」。すなわち、言語にからめとられた「心の闇」=「鬼」が「他者」として疎外されて心の外に吐き出され、それが具体的表象を求めることによって見える存在=社会的存在としての「鬼」が創り出されるわけである。
・「鬼」へのアプローチのもう一つの方法は、鬼文化の外側に身を置いて、歴史学的もしくは比較論的な視座から鬼を分析しようというもので、「鬼」の科学的合理的解釈を目的とする研究といっていいかもしれない。
こうした鬼文化の外部からの研究の土台にあるのは、「鬼は想像上の生き物」だという認識である。近代になると「鬼」を想像上の生き物と認識した上で研究する人たちが少しずつ現れてくる。
・もっとも、この時代の研究は鬼の考察というよりも、鬼が登場する資料の発掘・紹介の方に力点が置かれていた。これは、いまからすればまことに物足りない研究であるが、しかし、文献に現れた資料発掘は、外部からの眼差しのもとでの研究の基礎・基本となる研究であった。そして、その集大成ともいえる研究が、戦後20年ほど経って著された知切光蔵の『鬼の研究』(大陸書房、1978年)である。
・その先駆的かつ豊かな内容をもった作品として真っ先に挙げるべきは、やはり、佐竹昭広の『酒呑童子異聞』であろう。佐竹は、「酒呑童子」伝説を大江山ではなく伊吹山を舞台にした伝承もあることに注目する。そして、そのもとになったと思われる弥三郎伝説、さらには「山に捨てられる」という特徴等々の考察を通じて、この伝承の原像・生成過程を明らかにした。
・さらにまた、「鬼」というラベルを外部から貼られるだけでなく、むしろそのようなラベルを自ら引き受け、それによって現実の世界のなかで生きる糧を確保した人たちもいた。それが、柳田國男などによって明らかにされた「鬼の子孫」と称する人たちである。こうした人びとは、各地に存在し、上述の製鉄技術集団とか修験とかも関係しているのだが、本巻では、池田昭の論文を紹介することにした。
<「鬼」の祭儀・芸能と民俗学>
・ところで、鬼の登場する祭儀・芸能は多い。鬼の芸能のもっとも古く、かつ鬼の民間芸能の成立に大きな影響を与えたと思われる祭儀・芸能は、奈良・平安の時代からおこなわれていた「追儺」の儀礼・芸能である。廣田律子(『鬼の来た道』1997年)が詳細に説いているように、これは中国の「邪悪なもの」を追い払う儀礼を輸入したものである。この「追儺」の儀礼には、遅くとも平安中期には、鬼の仮面をかぶった鬼役の者が登場していた。宮中では「方相氏」が、またそれを修正会などの結願の儀礼のなかに取り入れた寺院では「毘沙門天」や「観音」などが、この「鬼」を追い払った。
・その理由を簡単に述べておこう。民俗学は一般的に、目の前にある現実の民俗をしっかりと見ようとしない傾向がみられる。目の前にある民俗事象を手がかりに、その民俗の「前代の信仰」を推測しようとするからである。眼差しはその民俗の向こう側遥か彼方に向けられているのである。鬼についてもそうである。この解説で強調してきたように、日本の「鬼」は、文献にその語が登場したときから現代まで、「恐ろしい存在」であるという点は変わっていないし、平安時代から現代まで、その基本的図像・彫像のイメージの中核には「角をもっている」という特徴がある。したがって、鬼の文化史の骨組みは、それに沿って描かれねばならない。
・ところが、民俗学は、もっとはっきりいえば、折口信夫はこうした史実の鬼それ自体に考察の目を注ぐのではなく、「鬼」の遥か彼方に眼差しを向け、次のように言い直したのである。「鬼は、我々の国の古代においては決して今人が考えるような、角がない。虎の皮の褌という、あの定型を持ったものでもなかった。単に巨人を意味するものに過ぎなかったのである。その鬼は多くは常に姿を現さず、時あって霊の集中することによって巨大な姿を現すものと見られていた。その多くは鬼の中、もっとも原始的なものに近く、又傍ら懐かしい心で眺められていたものは、村々の祖霊であった」。
・ここで提出されている折口の仮説は、折口が想像(創造)する「鬼」のイメージにすぎない。かれは、ナマハゲ行事などの民間行事の観察から、「おに」という大和言葉が文献に現れる以前の時代に、「おに」という語は単に巨人を意味する語であり、さらにそれ以前は「村々の祖霊」を意味する語であったというのである。さらに、その「おに」は村々にときを定めて来訪し、人びとに祝福を与えたという。文献以前のことだから、もちろんこれを証明する直接的な証拠はまったくない。間接的な根拠として挙げられたのがナマハゲ行事なのであった。すなわち、かれはこの行事の彼方に、そうした文字もないような時代の古代人の生活に生きる「角のない鬼」の意味とイメージを幻想したのである。ここでは、文献に現れた「恐ろしい角をもった鬼」の長い歴史がないがしろにされているのである。
・それはそれとして、折口信夫やその他の民俗学者たちは、ナマハゲは鬼の一種という考えを踏襲して「鬼」のラベルとナマハゲの関係をいっそう強固なものにしていった。当然のことながら、ナマハゲ面に「鬼」のラベルが貼られ、鬼について意味やイメージを地元の人びとが知るにつれて「ナマハゲ」の面のほとんどに角が生え、顔立ちも「鬼」にいっそう類似してくることになった。すなわち、「ナマハゲ」は近代化の過程で、民俗学者たちの手で鬼文化の一員に組み込まれ、「ナマハゲの鬼」に変容していったのである。その一方では、「ナマハゲの鬼」の面の下に「古代のおに=つののない巨人=祖霊」を幻想するわけである。
・このように解釈すると、折口の鬼論は露と消え去ってしまうのではなかろうか。民俗学の定説は、こうした仮説に基づいて、鬼はかつて「祖霊」であったという。やっかいなことに、そればかりではなく、この仮説としての「おに」=「祖霊」説から、後の史実のなかの鬼を解釈しようとするのだ。「恐ろしい神霊」である「鬼」の性格やイメージは、古代にあったはずの「本来」の「おに」信仰が崩れたもの、零落したものというふうに解釈するわけである。鬼を見ればそのような解釈の自動ボタンが作動するようになってしまっているのだ。たとえば、国東半島の修正鬼会の鬼は人びとを祝福する鬼であるという性格をもっていることから、そこに原初の「おに」の名残を見出すのだが、山路興造が説くように、それは、大和から伝播した鬼行事と、地元の民間信仰の神霊とが接触し融合した結果生じた、鬼文化の派生形と見た方が説得力がある。山路説はナマハゲにも適用できる納得できる仮説のように思われる。
・鬼は一言でいえば、「恐ろしい存在」であり、「怪異」の表象化したものであった。田中貴子などがいうように、「怪異」あるいは「闇」は、「鬼」と名付けられることによって言語の世界にからめ取られ、「他者」として独立し、図像化されて、人間が統御可能なものになっていたものであった。本巻では、このあたりのことを伝えるような論文群から、比較的入手しにくいものを集めてみたが、長い歴史をもち、多様性に富んだ鬼を、本巻所収の論文のみで理解することはとうてい不可能である。