日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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わたしの住むベルギーは、ほかのベネルクス諸国(オランダ・ルクセンブルグ)やスイスなどと並び、安楽死、医師による自殺幇助が合法化されている。とくにベルギーは、子供の安楽死さえ容認している。(1)

 

 

『その「日本人論」に異議あり!』

大変革時代の日本人像を求めて

ティーブ・モリヤマ  芸術新聞社   2018/11/6

 

 

 

日本を離れてから、30年近くの年月が流れた。その間ずっと、1万キロ離れた欧州から日本を見つめている。日本を俯瞰していて気になることの一つに、この国を覆う「毒のヴェール」が挙げられる「米国では………」「××国では…」と、限られた海外体験から短絡的に日本を非難し、実しやかに「神話」を語る「ではの守」が跋扈する国、日本。本書では、健全なる猜疑心をもって「ニッポン神話」にまとわりついた偽のヴェールを剥がしていきたい。

 

だが、その国におけるごくごく限られた個人の体験をもとに、「海外では××が常識だ」「海外の人たちは××と言っている」といった「過度の一般化」をするのはいかがなものだろうか。

 

「海外ではこうなんだ」「海外の人たちに聞いてみよう」というコトバを聞くたびにわたしが感じる違和感はそこにある。おそらく“島国”日本における「ウチとソト」という瞬時の区分けが潜在意識下で行われるため、「海外では」という表現に違和感を覚える日本の人は少ないのかもしれないが、よく考えてみれば誰にでもわかる詭弁ではなかろうか。

 

・「A国では」「B国では」と「では、では」を繰り返す人は、A国にせよB国にせよ、そもそも日本という先進文化をもつ大国の比較対象としてふさわしい国かどうかを十分に検証した上で、そういうことを口にしているのだろうか。おそらくそうではあるまい。

 

・本当のところ、196ヵ国どころか、たとえ1ヵ国であっても、その国の置かれた状況や歴史・文化を理解した上で内在的論理をおぼろげながら把握し、多少なりとも真実に近い“本質論もどき”を語れるようになるまで、わたしの経験では最低10年はかかると思うのだが………。

 

時空を超えて大人気の「和風ごった煮のレシピ」

・「和風ごった煮のレシピ」は、今でも日本人のあいだで大人気のようだ。たとえば、昨今の異常ともいえるハロウィン・パーティーの盛り上がりには、正直なところ戸惑いを覚えるが、善し悪しは別として、世界の主要国では決して起こりえない現象だろう。

 

日本にとって本当に重要なのは何か?

・ところが、現実はどうだろう。鹿鳴館メンタリティーを引きずっているのか、あるいはアジアの人たちに対する複雑でビミューな優越感が影響しているのか、よくわからないのだが、日本のメディアでは、「欧米人がどう感じるか」という視点が「グローバルな代表的視点」かのごとく報道されることが少なくない。

 

ちなみに、欧州に住むわたしは、よく日本の知り合いから「向こうでは日本のことはよく報道されるの?」と聞かれるが、実際のところ、ほとんど報道されない。米国の大多数の州でも同じだろう。

 これは日本が悪いわけではない。ヨーロッパにせよ、米国にせよ、日本人が思っているほど国際的ではないのだ。もちろん、各論レベルでは例外は多数あるだろうが、総論でいえば、国際感覚に欠ける人たちがびっくりするほど多いのが現実である。そして、ここが重要なのだが、同じ視点で総論(平均)比較すると、日本人のほうがはるかに国際的なのである。

 もちろん、日本にはたくさん改善すべき点がある。しかし、大切なことは、完璧主義で考えないことだ。完璧な国も、完璧な人種も、そして完璧な人間もいないのだから。

 

入社式の謎

・「米国では……」「××国では……」と、限られた海外経験から短絡的に日本を非難し、実しやかに「神話」を語る「ではの守」が跋扈する国、日本。

 

・大企業に限っていえば、今でも新卒一括採用と終身雇用制度が事実上温存されているのが日本だ。一方、英米では中途採用が基本で、新卒で入社しても有期契約。当然入社式などなく、組織に貢献できなければ即クビ、となる。

 

未来がわかると心強い

・入社式を催すような企業に就職する人は、日本の労働力人口約6500万人の中ではごくわずかに過ぎない。彼らの幸福要因の一つは、入社時に組合から配られるモデル賃金表に表象される「予測可能性」だ人生において、将来の地位や収入などの未来をある程度予見できる、という意味である。

 雇用を保障され、30年ローンで家を買い、あとはひたすら会社のために滅私奉公するサラリーマン。安心感という、お金以上に大切な幸福要素に支えられた彼らこそ、高度成長期の日本の強さ、すなわち「集団収束力」の象徴だった。

 日本人は、予測可能性をある程度保障されると、集団として恐るべきパワーを発揮できる民族だ

 

だからこそ入社式は大切なのだ

・ただし、この国の会社数99%を占める中小企業では、入社式を行わない会社が大半であろう。大企業でさえ終身雇用制度が維持できなくなっている会社も少なくない。

とはいえ、冒頭の引用元にあったように「仕事なんて労働力とカネの交換に過ぎない」と割り切って働く人々は、この国では少数派である。

 興味深いことに、長期的雇用が保障されていなくても、日本の中小企業に勤める人たちは、「実在的虚無」に陥らず、集団の一員として一生懸命に働く。これはまぎれもなく、日本人のもつ強みである。

 

3Kを避ける本当の意味

・米国は巧みな移民政策の使い手だ。出生率は日本を大きく上回り、少子高齢化問題とうまく向き合っている。労働市場は明確に棲み分けられており、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事は、中南米出身者を中心とした移民が担っている。

 

・人手不足に悩むゼンショーHD社長が「日本人はだんだん3Kの仕事をやりたがらなくなっている」と呟き、物議を醸したのは記憶に新しい。傘下のすき家では、当時アルバイト不足で休業に追い込まれた店舗が相次いだという。

 人手不足の問題は、今や飲食、小売り、建設現場にも拡大し、企業は高騰する賃金や人材定着率等の問題を解消するべく、パート従業員の正社員化など、労働力確保に躍起になっている。

 

画一性vs.多様性

・豊かな社会は、確かに既存のストレス要素を減少させるが、同時に人々の寛容さやストレス耐性を弱めてしまう、しかも、複雑化する社会は、新たなストレス要素を生み出し、人々の精神的幸福度を下げてしまう側面もある。

 依存と堕落は表裏一体。豊かさや利便性の奴隷となりがちな成熟国の人間にとって、3Kの仕事は敬遠されがちだ。ただし、それは社会の発展に伴う自然の成り行きであって、善悪の価値観を持ち込む必要はない。

 本当のところ、なにが「問題」なのだろう。

 

・何事にも完璧はありえない。完璧な国もなければ、完璧な民族も、完璧な人間もいない。頑張れる人は頑張ればいい。頑張れない人は頑張らなくてもいい。「良い人生」の定義は人それぞれなのだから。

 

・3Kの仕事を「頑張れない」「我慢できない」若者が増えてきたことを、「日本人の退廃」と結論づける必要はない。むしろ成熟期を迎えた「大人の国」のごくごく自然な姿なのだから。

 

人間の本質は遊びである

・最近のアメリカでは長期休暇をとる人は多くないようだが、確かに欧州では数週間バカンスをとる人が大半だ。ただ、「余計なお世話。外国文化を押しつけるな」的なコメントが多く書き込まれ、著者の真意が伝わっていない印象を受けた。

 実際、日本では休まない人が多いようだが、本来、休む休まないは、各々の裁量で個人が自由に決めればよいことだろう。それでも休まない国民を政府が休ませようとしているのか、日本の祝日総数15日は、平均10日前後の欧州諸国よりも多く、世界第3位に数えられるようだ。

 

・もちろん、欧州諸国の法定年次有給休暇日数は少なくない。おそらく平均すると20日以上で、イタリアなど南欧諸国はもっと長い。一方、日本では最低10日だが、一般的なサラリーマンは勤続年数によって20日ほどの有給の権利をもっているはずなので、欧州とそれほど変わらない。確実に違うのは、消化率の差だ。この違いは何に起因するのだろう。

 

絶対神としての「世間様」

・まず、日本には八百万の神がいて一見すると多神教の国なのだが、最上位に君臨する絶対神はさまざまな局面で日本人の行動に影響を与える。その名は「世間様」、建て前レベルでは多神教信者だが、一定の場面で変幻自在に「世間様教」という一神教信者に改宗するのが日本人――といっても過言ではなかろう。

 このため、短い休みしかとらない同僚たちの前で、「世間様・他人様の目」を無視して、2週間休むのは容易ではない。

 

遊びは新しい秩序をうみだす

多神教であれ、一神教であれ、全能の源である神の近くにいると、人間は守られている気になり、深い安堵を覚える。だから休暇をとらなくても、みんなストレスを感じていないのかもしれない。

 

・「遊び」は、理性(大脳新皮質)と本能(大脳辺緑系、古代脳)を秩序立てて統合する要素として重要な役割を演じる。

遊んでいるときにこそ、人間は真の人間である」というシラーの言葉はおそらく脳科学的にも正しく、「真面目」(理性)一辺倒では、人間という生き物の真価を発揮できない。五感を大切にした戦前の日本人は、この点に気づいていた人が少なくなかったのではなかろうか。

 

・これだけ勤勉な人たちが支えている国、日本、人々が遊び心をもってもう少し長めの休暇をとれば、気力は充実し、独創性もアップし、技術力も生産性もさらに上がっていくのではないのだろうか。そこで日本経済復活の処方として、「有給完全消化の義務付け」を提案したい。企業もそう公言すれば優秀な人材が殺到するはずだ。

 

黒白のさかい目

・高度成長期の日本では、終身雇用・年功序列・滅私奉公の黙契社会の中で、勤め人は長時間労働と飲みニケーションを厭わず、しゃかりきになって働いた。もちろん、サービス残業もあっただろう。しかし、恒常的な人手不足のなかでは、残業手当を支払わなければ人手を確保できない。平均的に見れば、サービス残業は今よりも少なかったのではなかろうか。

 

集団秩序維持装置

・黙契文化は現代にも脈々と受け継がれている。たとえば、就活生は目立たぬよう、リクルートスーツを“無難な黒系”に統一するという。スーツの色程度でも「目立つと損をする文化」であれば、皆が残業しているときに「早く帰ります」といえば、飛んで火に入る夏の虫だろう。わたしも封建的な運動部にいたことがあるので多少はわかるのだが、そんな発言は、集団秩序維持装置を即座に作動させ、またたく間に発言者を“生贄のヤギ”にしてしまう。だから、誰もそんなことは口にしない。

 目立つことはご法度だ、忍耐と根性論を振り回し、絶対服従を強いる集団。和をもって、いや、長きをもって貴しとなす、ということで、集団で長時間同じ空間を共有し、独特な“和”を醸成する。

 裁量労働制にせよ、その拡大版にせよ、懸念されているのは、酷使、搾取、そして過労死であろうが、おそらくはその前に、ストレス耐性が弱い若者たちは同調圧力に屈して精神を病み、欧米型の抗鬱剤汚染が進んでいく気がしてならない。

 

搾取の連鎖を断ち切ろう
・一方、わたしの住むベルギーをはじめ、厳格な労働法をもつ欧州諸国では、日米と異なり、ILOの基本労働条約をすべて批准していることや労働当局による監査が頻繁なこともあり、企業が従業員に残業させることが構造的に難しい。このため、大企業の従業員の大半は、夕方になると、我先と家路につく。

 ただ、欧州においても、全企業数の99%は中小企業である。その多くを占める零細企業では、どこまで労働法が遵守されているかは、はなはだ疑わしい。

 特に、スぺインやギリシャといった労働法規制の強い国では、長期労働契約を結ぶことに企業は及び腰だ。その結果、25歳未満の求職中の若年労働者層の失業率が50%を超えている。大学を避難所にする若者が増えているが、学びも働きもしない「ニート」が20代の4分の1も占めると言われている。しかも、仕事にありつけた少数の幸運な人たちでさえ、極端に短い契約期間や低賃金など、厳しい条件のもとで働かざるをえない。

 

・労働法規制の厳格度と失業率の間にはある種の相関関係がある。現在、日本の若年労働者失業率は4%台の水準だ。諸外国と比べると、かなり健全な状態にある。日本の労務問題の真因が先述の黙契文化にあるとすると、その点を改善せずに労働法を改革していくと、その先で何が我々を待ち受けているのだろうか。欧州以上に未来に絶望し、抗鬱剤ジャンキーのような顔をした若年失業者がたむろする社会になってしまうのだろうか。

 

新しい共同体で輝くためのヒント
・人間がAI(人工知能)と共存する世界をイメージするため、久々に松本零士氏の約40年前の映画『銀河鉄道999』を観る。

 その映画はこんな場面から始まる。戦争があったのだろう。廃墟と化した大都市は機械人間に支配され、生身の人間は息を潜めてひっそりと暮らしている。そんな中、一見すると若く美しい女性が現れるのだが、実は機械人間で、年齢はおそらく200歳を超えている――天才表現者の描く未来予想図が、驚くべき臨場感をもって見る者に迫ってくる。

 映画を観た後、何冊か関連図書を斜め読みし、息抜きに日本の雑誌にも目を通す。

 ある女性キャスターの更迭記事が目に留まる。なぜか「55歳」と書いてあるが、年齢をそこに入れる必要性が見えない。そもそも、大人の女性の年齢を日本中に向けて発信するのは、書き手として粋なこととは言えそうにない。

 

年齢という属性から見えるもの

日本の新聞や雑誌を見ていていつも不思議に思うのは、記事の内容や性別にかかわらず、ほとんどの記事において登場人物の年齢が書かれている点だ。個人情報管理のほうは年々厳しくなっているのに、この点だけは変わらないようだ。韓国なども日本と同様かもしれないが、少なくとも欧州においては、年齢に対する固執は見られない。

 この違いはどこから来るのだろう。そもそも、年齢を気にする人が欧州にはあまりいないのか。もちろん、年齢に触れる記事もある。だが、それは年齢を明記することで、読者にある種の驚きや同情・共感、その他の強い感情が生まれる可能性が高いときか、エイジング関連の話に限られている。日常生活でも相手の年齢を聞くことは滅多にない。

 年齢に興味があろうがなかろうが、正直なところどちらでもよいのだが、同年齢に100万人以上の人間がいるなか、日本の人たちは年齢という属性から一体何を確認しようとしているのだろう

 

ひょっとすると、多くの日本の人たちは、年齢という要素から、深層心理レベルで瞬時に何らかの脳内分析をしているのかもしれない。

 わたしのように人生後半を生きる中年の場合、もはや年齢などマイナス要素に過ぎず、何の興味も湧かないが、年齢情報を遮断すると心もとなくなる人が一定数いるのだろう。

 もちろん、欧米でも親しくなれば年齢を聞くことはあるが、それは親近感の表れに過ぎない。おそらく日本にも、親近感から相手の年齢を確認したい人もいるだろうが、対人関係における自分の立ち位置や、特定集団内での序列を確認する手段として年齢を確認する人も少なくないはずだ。

 

個と向き合う新しい関係性を

・だが、母集団自体が大きく変質しているのだ。人口減少問題を抱える日本では、好むと好まざるとにかかわらず、外国人移民の受け入れは不可避であり、内なる国際化は急速に進んでいく。

 一方で、AIが人間を超えるのはもはや確実視されており、遅かれ早かれ、多くの仕事は機械に代替されていく。その結果、年齢不詳の外国人のみならず、そもそも年齢を超越した人型スマートロボットも増えていくことだろう。

 年齢という枠組みに囚われない新たな参加者を含む新たな共同体のなかで、我々は新たな立ち位置の確認方法や、差別化の手段を編み出す必要に迫られている。

 

・もはや、年齢のような曖昧な属性から恣意的な判断をして、根拠のない安堵や不安を覚える必要はなくなる。個について真剣に考え続ける人が、より豊かな人生を送れる時代が間近に迫っている。

 

「お疲れ様」は疲れてるの?

長いこと海外に住んでいると、日本で暮らしていたときには気づかなかった日本の横顔が見えてくる。時折、まるで航空写真のように地上からは決して見えなかった景観がリアリティをもって迫ってくる。母国の物理的喪失と引き換えに、和僑が手に入れる「観」なのだろうか。

 

・タテ社会の力学を肌で覚えさせるには理想的な環境かもしれないが、元気いっぱいの高校生男女の口から当たり前のように発せられるサラリーマン用語、「お疲れ様」にわたしは表現しがたい違和感を覚えた。

 

「忙」と「忘」で「心を亡くす」

・「あなた様」「先様」「上様」よりも上座にでーんと座っている“お疲れ様”は、ある種の神様といってもいいだろう。世間様という共同体のなかでは「忙しくて疲れている」ことは当然であり、且つ良いことなのだろう。

 とにかく、お互い苦労をねぎらって共感しあえる空気をつくってくれる、予定調和の守護神「お疲れ様」。

 

ちなみに、わたしが長年暮らしているヨーロッパでも、江戸っ子同様、人々は多忙自慢をしない。

 それどころか、バカンスのために働いているような人たちが半数以上を占める“ゆるい社会”では「忙しすぎてバカンスをとれない」と口にするほうがはばかれる。

 ビジネスにおいても、「スモール・トーク」と呼ばれる本題に入る前の雑談では、休暇の話でよく盛り上がる。誰かがエキゾティックな場所に行くと皆が興味津々になり、その人は質問攻めにあう。

 善し悪しは別として、休暇の話題で盛り上げようとすると相手にマイナスの印象をあたえる可能性が高い日本のビジネス環境とは対照的だ。

 

栄養ドリンクの陰にも潜む神

・ところで、「日本的忙しさ」の象徴といえば、「ユンケル」をはじめとする栄養補助ドリンクや「ヘパリーゼ」「ウコンの力」などの二日酔い予防ドリンクが挙げられよう。欧米にもエナジー・ドリンクと呼ばれる、栄養補助飲料的なものはあるが、「多忙な社会人」をイメージさせるものではない。

 その筆頭格のレッドブルは、タイや日本をはじめとするアジア諸国でのスタミナ・ドリンク人気を知ったオーストリア人が欧米人相手にはじめた商売だ。

 

エナジー・ドリンクに対する欧州の反応は各国さまざまで、一部で過剰カフェイン・糖分などの問題が指摘されているなか、青少年への健康被害リスクを理由に禁止・制限方向に向かっている国もあるようだ。サラリーマンやOLなどが主要購買層である日本とは大きく趣が異なる。

 

・この現象の背後に潜んでいるのも「お疲れ様」の存在である。ユンケルやヘパリーゼのボトルを見かけるたびに、共同体の秩序を守る世間様教の神、「お疲れ様」のご尊顔が見え隠れする。

 

・そう、「お疲れ様」には集団秩序維持装置・空気清浄機的機能もあるのだ。

 

「帰国子女」は傷ついている

・結局、留学や駐在でもしなければ、英語は上手くならないのではないだろうか?

――そんな壁を感じている人の目には、流暢な英語やその他の外国語を使って、物怖じせずに外国人と渡り合う帰国子女の人たちは、眩いばかりの光を放つ“格好イイ存在”に映るかもしれない。だが、本当にそうなのだろうか?

 

・初っ端から「ニッポン神話」のヴェールを剥がしてしまおう。実は、帰国子女と呼ばれる人たちは、意識・無意識にかかわらず、何らかの理由で、とても傷ついていることが多い。

 

周りの都合に翻弄されてきた人たち
・一度ならまだいい、だが、海外生活の後に日本へ戻り、せっかく友達ができた矢先にまた海外に行って、ゼロから新しい人間関係を構築せざるをえなくなる人たちも少なくない。

 それまで慣れ親しんだ母国の環境からまったく違う異国の世界にぶち込まれ、また新たな人間関係のしがらみの中に入っていくわけだ。

 人によっては、それを何度も繰り返す。異文化ストレス耐性や対人関係構築能力は人により異なるものの、たいてい大きなストレスと苦しみを抱えながら受容性を高めていくしか他に術がない。

 

ライフ・ゴーズ・オン

・当時の帰国子女は、たいてい特権階級出の人が多かったと思われるが、たとえそうであっても、今と違って簡単には日本に一時帰国などできないし、インターネットもないわけだから、我々の想像を絶する苦労があったはずだ。

 そんな彼が、一言こう呟いた。

「まぁ、いろいろありましたが、こうして元気で生きています」

 なるほど、「まぁ、いいか」か。ライフ・ゴーズ・オン(何があっても、人生は続いていく)。実に味わいのある答えと言えるのではないだろうか。

 

見えないはずの柵が見えてしまう

・日本の性風俗産業は諸刃の剣だ。上述のように凶悪な性犯罪への抑止効果もあるのだろうが、一方で、一般社会との境界線がないため、未成年が簡単にそういう世界に足を踏み入れることができてしまう。

 欧米の場合、性風俗産業のある地域に行くには「見えない柵」を超えていく必要がある。車で行かないとたどり着けないような郊外のさびれた場所にあったり、中心部であっても治安の悪いと言われる、足を踏み入れるには躊躇いを感じるような場所にある。

 つまり、心理的ハードルが存在し、未成年が足を踏み入れるのは容易ではない。

 一方、日本の場合、一般人が普通に買い物をしている渋谷の道玄坂など都心のど真ん中でも、ちょっと裏通りに入れば性風俗産業のオンパレードで、そこには「見えない柵」は存在しない。また、競争が激しいため、価格破壊が進み、おそらく性感染症の温床になっている低価格店も少なくないはずだ。

 

普通の風貌のオタク

・こういった点に加え、日本では「クールジャパン」などという不可思議な名のもと、アニメが日本の主要産業として世界に向けて発信され、「クール(恰好イイ)と諸外国で思われている」という報道もあるが、本当のところどうなのだろうか。

 人口比でみるとごくごく少数のマニアにしか知られていないのに、それで「諸外国で人気がでている」と結論づけるのはいかがなものかと思われる。

 

怪獣の卵の孵化器

・そこになぜ政府は対応策を出していないのだろうか。教育現場でも同じで、通学電車内の痴漢がそれほど多いなら、なぜ被害に遭った場合の対応について教員は具体的に指導しないのだろうか。

 欧米にも、ペドフィリア(幼児性愛異常者)はいる。おそらく総人口に対するそうした異常者の割合は日本と海外でそれほど変わらないはずだ。だが、日本の場合、そういった予備軍を刺激するものが街中にあふれていて、何かのきっかけで予備軍が犯罪者に転じる蓋然性は諸外国より高いのではないだろうか。

「怪獣の卵の孵化器」のような環境が日本にはある、と言ったら言い過ぎだろうか。この点、読者の皆さんはどうお考えだろうか。

 

禁断の果実の味

・「男らしさ」と「女らしさ」、いったいこの“らしさ”の正体は何か。欧米生活経験のある「ではの守」たちは、この問いの周辺に見え隠れする「男尊女卑」の概念を一様に「日本特有の現象」という。だが、それは本当なのだろうか。

 たしかに「女の子は女の子らしく」「女は愛嬌」といった表現がこの国には伝統的に存在する。「女は子供を産む機械」といった大臣もいたし、人気女優が妊娠して休むと「稼ぎ時を逃した」と関係者に批判されることが少なくない。

 

エデンの園の謎

・だが、『旧約聖書(創世記)』を紐解いてみると、キリスト教世界の価値観の根底に、男尊女卑的な側面が見えてくる。まず、神は男をつくり、男だけでは寂しいだろうと、男の肋骨から女をつくったという。禁断の果実を最初に口にしたのは女とされており、その後、男も女にそそのかされて、禁断の果実を食べてしまったそうな。そこには「女は男をたぶらかす存在」という偏見が見え隠れする。しかも、禁をおかした二人に神が課した罰は、男には就労、女には「産みの痛みと妻として夫の支配下に一生置かれる」である。男への罰が軽いな、と感じるのはわたしだけだろうか。

 

・そもそも米国という国は、「もっと厳格にキリスト教的価値観を追求しよう」という清教徒が英国から飛び出てつくった国である。その結果、米国は世界で最も敬虔なキリスト教信者が多い国となった。

 

性におおらかな国だった日本
・米国でも、保守的な州を中心に「性交渉は、子供をつくるための行為、快楽は求めるべからず」という人たちが少なくない。

 そもそも、こういう一神教的で厳格な価値観は、多神教の日本には馴染まない。民俗学者の文献を読むと、平安から江戸時代までは、地域にもよるが、性におおらかな国だったことがわかる。『万葉集』を読んでいても、当時の日本人の性的おおらかさがうかがい知れる。

 ところが戦後、日本的共同体が崩壊し、家族も核家族化し、上記の「欧米的なママ像」が間違った形で日本人に刷り込まれていった。それが今の「セックスレス家庭」や「ママさん飲み屋に通うサラリーマン現象」を引き起こしているといったら言い過ぎだろうか。

 

食事を共にする意味

・食といえば、食の都シンガポールで使われる表現の一つに「マカン・オールレディ?」がある。これはマレー語からの慣用語で、表面上の意味は「飯食ったかい?」だが、本当は「ハウ・アー・ユー?(お元気ですか?)」に相当する挨拶表現である。

 これに相当する表現はアジア言語に多い。中国語の「你吃飯了嗎(食事したか=元気か)」をはじめ、タイ語ベトナム語など、ほとんどのアジア言語に存在するのだ。今でこそ使わないが、「飯食ったか?」という日本語も、一昔前までは、挨拶として交わされていたのではないだろうか。アジア人にとっての「食事」は、深層心理的に、健康をはじめ、人生がうまくいっていることのメタファーなのだろう。

 

「二人で食事」の期待値の違い

・そのせいか、アジアの人たちは、他人と食事をすることに対する心理的バリアーが比較的低いような気がする。日本では、ちょっとした知り合い程度の男女が二人で夕食をとることは充分にあり得るだろう。だが、英米人にとって、レストランで男女二人が食事を共にすることは、原則として、特別なことであり、とてもプライベートなことである。

 

・気軽に承諾すると、相手に心の中で「脈ありだ」「しめたぞ」と思われる可能性がある以上、余計なトラブルを避けるためにも、まずは集団で食事に行かれることをおススメする。

 同じ国の人間同士であっても、甘い期待が裏切られることは少なくないが、それが国境を超えると、状況は数倍複雑化する。

 誤解が日常茶飯事の異文化コミュニケーションにおいては、きめ細かな期待値マネジメントは不可欠である。

 

離婚率№1の国

わたしが住むベルギーという国は小国だが、ある分野でランキング世界第1位に輝いたことが何度かある。それは、「離婚率」だ。平均で10組に7組も離婚するという。昔から日本では、「離婚大国アメリカ」と言われているが(実際に離婚率約6割と高水準だが)、それでも米国は10位前後である。

 ベルギーに限らず欧州の離婚率は軒並み高く、東欧を含め何ヵ国も10位以内にランクインする。一方、日本は極端に低いと思いこんでいたが、最近では20代、30代を中心に3組に1組は離婚しているそうだ。わたしが日本に住んでいた頃は、そんなに高くはなかったように思う。

 

0.1%vs.10%

・おそらく、先ほどの違いは、そのことを忘れていない、あるいは気づかぬふりをしない人の割合かもしれない。「本能的」と言い換えてもいい。たぶん、冒頭の離婚率の高さも動物的本能が関係しているのだろう。

 いずれにせよ、日本では神話的に「ヨーロッパ人=洗練された、理性の人」というイメージがあるが、そうとも言えないのだ。実際には、善し悪しは別として、日本人よりも「本能的な」人が多いように見受けられる。

 

動物ともスピード離婚?

たとえば、バカンス後に待ち受けている、犬をはじめとするペットの受難は、犬好きのわたしとしては耐えがたい現実だ

 日本などではいっさい報道されないが、ベルギーをはじめ欧州諸国では、休みが終わると大量の犬や猫が捨てられ路頭に迷い、市当局に捕獲、駆除されるという悲しい現実がある。

「動物を飼うことの責任」など考えもせず、ただ本能のおもむくまま飼いはじめ、きままに飽きて、気ままに捨ててしまうのか。配偶者とのスピード離婚のみならず、ペットの遺棄も“本能的”な行為なのだろうか……。

 離婚率の話から犬の遺棄の話になってしまったが、実は日本人の強みを間接的に書いていたつもりだ。

 

競争より協調なのか

・イメージ的なものなのか、あるいは日本人の伝統的価値観にフィットするからなのか、日本では北欧礼賛調の神話をよく耳にする。だが欧州で長年暮らしているわたしは、そんな話は一度も聞いたことがない。確かに「福祉国家=幸福」という方程式は一見成立しそうだが、完璧な国が存在しない以上、何事も陰陽あわせた上で判断しないと本質を見誤ってしまう。何度もいうが、神話は真実ではないのだ。

 断っておくが、わたしは北欧嫌いではない。

 

集団秩序を守る「ヤンテの法則」

・日本ではあまり知られていないが、デンマークのみならずノルウェースウェーデンなど、北欧人の心性を説明する際に、しばしば「ヤンテの法則」が引用される。“ヤンテ”というのは、北欧の作家サンデモースが書いた小説にでてくるデンマークの田舎町のこと、その町の住人は、「汝を特別と思うなかれ」「汝は皆よりも優れていると思うなかれ」といった数々の規則に縛られており、それが集団秩序維持装置として機能している。

 

合理性と感情論

・この話をきっかけに、日本と比較してみて感じたのは、日本の「禁止社会」の特異性だ。国籍を問わず、何でも「禁止」から入ってしまうとミレニアル世代(日本だと20代前半から30代後半くらいの年齢の人々)を動かすのは難しい。一方で、禁止しなければならないことも世の中には多々ある。

 

死を教えない医学部

・日本の状況はどうなのか。先日、医者をしている先輩からこんな話を聞いた。「医学部では、今も昔も『死』について教えない。この国では死が必要以上にタブー視されているのかもしれない」という。もちろん、死は臨床経験のなかで自分で掴むものであり、人から学ぶものではない、という側面もあるだろう。また、一部の治療者にとっては、治すことが仕事で、死は敗北的なマイナスを意味するのかもしれない。とにかく、この国の医学教育の現場において、死について考えさせる講義がほとんど存在しないのは事実のようだ。

 

「終末期鎮静」とは?

わたしの住むベルギーは、ほかのベネルクス諸国(オランダ・ルクセンブルグ)やスイスなどと並び、安楽死、医師による自殺幇助が合法化されている。

 とくにベルギーは、子供の安楽死さえ容認しており、2016年に未成年が安楽死したニュースは世界中のメディアで取り上げられた。

 また、スイスは「究極のメディカルツーリズムの目的地」として有名で、世界中から安楽死や医師による自殺幇助を求めてやってくる外国人を受け入れている。

 一方、ベネルクス三国では積極的な安楽死ではなく、苦痛緩和を目的とした医療行為「ターミナル・セデーション(終末期鎮静)」という形を取ることが多いようだ。結果的に死に至る点は同じであっても、最初から患者に死をもたらす薬を投与する安楽死と違い、「終末期鎮静」は、あくまで患者の苦痛緩和を目的としている点で趣が異なる。

 

・いずれにせよ、安楽死尊厳死を取り巻く状況は、法律や倫理、宗教などが複数に絡み合っていて、一筋縄ではいかないものだが、こうした終末医療先進国の状況については、「ニッポン神話」になるどころか、日本では話題にものぼらず、ほとんど知られていないのではなかろうか。

 

死を恐れて呆ける人々

・それゆえ、ガンをはじめとする死に至る病の告知に、彼は反対だという。なぜなら、告知は「今日よりも明日は絶対に良くならない」「いずれ確実に死ぬ」ことを知らされることと同義であり、人はその瞬間に絶望する。つまり「生きる希望を失うからだ」。しかも、その結果「死への恐怖から呆けてしまう者も少なくない」という。悪く言えば現実逃避、良く言えば「自衛手段」なのだろうか……。

 

完全なる神様のいる世界

・ところが、西洋が主導してきた近代文明は、一言でいえば、「一神教的価値で彩られた二項対立の世界」である。一神教の世界における神様は「完全」なる存在だ。そうした「完全」という概念に縛られた価値観の中で、「創造主と人間」「生と死」「我と他」「善と悪」など、すべて真っ二つに分け、制した上で、解らしきものを導いてきたのが西洋主導の近代文明だ。

 

異文化コミュニケーションと「空」の関係

・だからわたしは日本人としての誇りは持ち続けながらも「空」を意識し、相手が呼びやすいように横文字の名前も併用している。善し悪しはわからない。だが、少なくとも「モリヤマさん」という彼らにとって奇異に響く呼称を強要しなかったお陰で、より多くの外国人と深いレベルで理解しあえたのではないかと思っている。

 

盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)、優曇華うどんげ)の花

結局、世界70億人の中で、一瞬でも接点ができる人の数は限られていて、それは全て「ご縁」といっていい。義と勇というのは、そういうご縁を「きりがない」で終わらせるな、見て見ぬ振りをするな、ということ。肩に力をいれずに、できることをすればいい。ご縁の中でしか、自分は存在しえないのだから。

 

・そんな話を師匠の一人にしていたら「盲亀の浮木優曇華の花」という言葉を教えてくれた。「盲亀」とは、百年に一度水面に姿を現す盲目の亀。仏法に出会える確率は、盲亀が浮木の穴に頭を突っ込むほど少ないという喩え。「優曇華」とは、三千年に一度花を咲かせる伝説の植物。そのときに如来が現れるという。

 外国の少年少女に、武士道のみならず、仏の道まで教わるとは、まさに盲亀の浮木の如し、いつの日か、日本の地で、優曇華の花を見てみたい。