『たどりついたアイヌのモシㇼでウレシパモシリに生きる』
水谷和弘 はる書房 2018/10/12
<縄文・アイヌ文化を伝える土地に住む>
・10年ほど前に私は8年間借りていた荷負の家を買いました。その我が家の土地と家の周りの私が管理している畑から石器をはじめ多彩な物たちが出土します。
磨石や石皿、削器(スクレーパー)、石斧、ナイフ型石器などの遺物が出てきた場所は山の中腹、周囲は畑と山林で小高い山も奥にあります。細石器も数多く、石器の加工場があったことが分かります。アオトラ石や黒曜石の石器の完成美品も出てきました。
この地域に現在3世帯しか暮らしていませんが、かつてはアイヌの世帯が53あったと聞きます。私の畑のあたりは、エカシ(長老のこと、ホピポイ部落長)が住んでいた所だとアイヌの古老の男性が教えてくれたことがあります。
・石器以外にも土器も多数破片で出土していて、平取町立歴史博物館に預けてあります。その土器片は沖縄中期から擦文時代のもので、さらに収集した、もしくは収集しきれない陶器と石器のスクレーパーなどを造ったときに生じる細片が畑から出ます。
近隣には「荷負2遺跡」と「荷負小学校遺跡」と「荷負ストーンサークル跡遺跡」がある。平取町全体で100を超す遺跡があるという話です。我が家の周りに盛土が崩れないように設置された石も、元はストーンサークルの石だったと知人は言っています。さらに古老から、平取にストーンサークルは13ヶ所あったと聞かされました。
・また、我が家から200メートル離れた所に湧き水がありますが、その水は大切に利用されてきたと思います。元の家の持ち主曰く、家より25キロほど離れた岩志地という所にある鍾乳洞の絵が描いてあった岸壁は戦争中セメントを作るため壊したが、家の入口に置いてある石はそこの鍾乳石だと教えてくれました。絵は見ることができませんが、その鍾乳石はいまだに私の家にあります。
縄文時代の生活道具――石器だけでなく土器(草創期から晩期)、また擦文土器、そしてかなり古い陶器の破片からビール瓶やガラス片までが出てくる。そんな大地に私たちは住んでいるのです。
・かつて、ここはホピポイ部落と呼ばれていました。でも、アイヌ語のホピポイの意味は私には判りません。しかし、アイヌ語地名を漢字にして当てはめるとき、ニオイを荷負(逆から読むと負荷)とするとは、なんて先住民族アイヌに対して失礼な卑劣なことでしょうか。こんなところにも、言葉が奪われ文化が奪われている。土地が盗られ、心が囚われていったことを私なりに知りました。
・ちなみに、ニオイとは樹木が多い所、あるいは木片がごちゃごちゃある所という意味があるとか、のようです。ニオイに限らず北海道の地名はアイヌ語由来が多く、市町村名のおよそ8割がアイヌ語から来ているそうです。
私の畑から出てくる遺物はさまざまな時を刻んでいます。すなわち、この場所は縄文の草創期より近現代までの複合施設だということです。そして、縄文人=アイヌであることを間違いなく証明できる遺跡なのです。
なお、擦文土器というのは、北海道や東北北部で出土する土器のことで、木のヘラで擦った文様が多く見られたので名付けられたといいます。そして、この土器の使われた7~13世紀の文化を特に「擦文文化」というようです。13世紀後半からは「アイヌ文化」という名でくくられて、北海道全体がこの文化を共有することになったといわれています。
・17日の北海道新聞朝刊が、日高管内平取町の沙流川水系額平川の支流で、縄文時代の石斧材料として重要な「アオトラ石(緑色片岩)」の露頭が確認されたことを報じていた。
・なお、このアオトラ石はアイヌ文化期にも丸木舟の製作に用いられていたという。いくらでも鉄器があった時代なのに、にわかに信じがたいが、何か丸木舟製作に特別な信仰との関わりがあったのであろうか。
<“民族”として根源に繋がっていればいい>
・「アラハバキ」を絆につながる民族、東北{蝦夷}も、三内丸山の時代――縄文時代前期にはすでにアイヌと交流があった。このことは北海道アイヌの大地から出た「宝物」=黒曜石・アオトラ石が、津軽海峡を渡り本州各地に旅をしていることで分かる。
つまり、本州の遺跡から北海道産出と分かる黒曜石・アオトラ石が出土しているのだ。黒曜石・アオトラ石は狩りの道具や武器に加工でき、また穴開けや肉削ぎ等の各種道具になり、鉄器が一般に流通する室町時代以前、貴重な物であった。
<伝統儀式か無用の殺生か、生きることは殺すこと>
・2007年4月、北海道は知事名で、1955年に支庁長と市町村長に対して出した通達を撤廃した。アイヌのイオマンテを野蛮だと事実上禁止した通達だ。これには北海道アイヌウタル協会の撤回要請があったようだが、道が国に諮って動物愛護管理法に抵触しないという判断も出たことで撤廃したという。
が、このニュースが流れると、ウタリ協会や知事に抗議の電話やメールが相次いだという。ネット上でも、批判や誹謗が渦巻いていた。もちろん、撤廃を支持する声も上がる。
・イオマンテは?「カムイ送り」、神の国に<カムイを>返す儀式です。クマ<キムンカムイ>とともに暮らし、ともに遊び、ともに苦しみ、ともに生きる、心と心がつながり一体になる。
生きるということは、殺すことを内包する。殺さなくっては生きていけない。
<季節を知るアイヌの星座>
・印象的なのは北斗七星の話です。北斗七星はチヌヵルクㇽ[我ら人間の見る神]という名の星座ですが、その姿を見せるとき、冬はクットコノカ[仰向けに寝る姿]、夏はウㇷ゚シノカ[うつ伏せに寝る姿]と呼ばれる。星の1年の奇跡が、あたかも神が寝姿を変えて季節を教えてくれるというわけです。
<聖なる地、コタンコㇿカムイが来るところに>
・ソコにはシマフクロウがやってくる。ソコには白いカラスがやって来ている、そうです。
私は、鳥が来る意味を聞きそびれましたが、おそらく八咫烏神話と似たように、カムイの伝言をする聖なる鳥だと思う。
八咫烏は、熊野本宮大社の主祭神、素戔嗚尊のお仕えで、太陽の化身(太陽の黒点だという説もある)、導きの神だという。日本サッカー協会のマークに使われたので有名になったが、あの3本足は天・地・人を現すとか。
シマフクロウは、アイヌ語でコタンコㇿカムイ=集落(部落)を護る神さまだ。カムイチカㇷ゚=神の鳥とも呼ばれる。知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』に収められた「銀のしずく降る降るまわりに」も、コタンコㇿカムイが主役で登場する。
古代の“日本人”は鳥に霊能力があるとしていた。八咫烏が、ほぼ伝説の初代天皇を熊野から大和へ導いたというのだから。ほかにも古神道とアイヌの世界観は共通項が多いと思う。
シンクロが当然のように起きていた。ソコではエカシ(先祖の翁)がいつも祈りを捧げている、エカシがソコに居るようだった。
聖地はなにげなくソコにある。磨き抜かれた聖地。それらの聖地はすべてつながり、聖地の経路をつくっていることをタモギタケが教えてくれた。
<良き隣人ではなかった和人>
・北海道に移り住み20年ほどですが、アイヌに対して、いまだ勘違いな歴史観を持っている日本人がいることを時折強く感じます。
・まだ茅葺きの家に暮らしている――日本人と違わない暮らしをしています。
・土人という表現を聞くことがある――非道な同化政策のなかで定められた「北海道旧土人保護法」を引きずった誤った表現です。
・純粋なアイヌはいない――アイヌ民族はいますし、血の濃さで決めることは誤りです。
伝統的生活空間(イオル)・伝統文化も含んで考えます。多神教アニミズムのアイヌの世界観を持つアイヌ文化を大切に暮らす者も含むと私は思っています。
・アイヌ文化は一つだ――本来は長を中心に置いた家族単位の共同体が育む部族文化です。したがって、共通の基層文化はありますが、部族によって、言葉や儀式、習俗、刺繍や文様、さまざまな異なる面を持っています。
・アイヌは乱暴者――どこからそんな考えを仕入れてきたのでしょうか。中央政権に服わぬ民という政権側の見方を受け継いで、無自覚のまま敵対しているところから出た表現なのかもしれません。
・搾取と自然破壊を行なう「良きシサムではない」敵対する和人に対して、服わぬ民は戦で臨み、あるいは集団蜂起をしました。よく知られているものでは、東北での東北アイヌ=蝦夷の阿弖流為の戦いと、蝦夷地でのアイヌによるコシャマインの戦い、シャクシャインの蜂起、クナシリ・メナシの蜂起があります。
<オキクㇽミカムイは宇宙人なの?>
・平取町は、現在もアイヌ民族が多く暮らしていることで知られている。
私が住む平取町荷負には、「オキクㇽミカムイのチャシとムイノカ」があります。2014年には国指定文化財「名勝ピㇼカノカ(アイヌ語で美しい形)」に加えられています。
・チャシとは居城や祭祀の場などを言い、平取町にはその跡がたくさんあります。オキクㇽミカムイの居城と伝えられる美しい崖地には、蓑の形をした半月形の岩があります。ムイノカは蓑のことで、ここにオキクㇽミカムイが妻と住んだと言われ、蓑は妻が置いていったものだそうです。とても大事にされ、祀られてきた場所であり、この地域の人びとから敬意が払われていたとのことです。
「オキクルミ」は「カムイユーカラ」(神謡)に登場する人間(アイヌ)の始祖となる英雄であり、アイヌに生活文化や神事を教えました。「アイヌラックル」の別名とも言われますが、こちらは「人間くさい神」。また、知里幸恵さんのアイヌ神謡集では、「オキキリムイ」と表記されています。
・オキクルミはシンタ(ゆりかご)に乗って東の空から降臨したという言い伝えもありますし、アイヌラックルは燃え盛る炎の中から生まれたと山本多助さんの記した「アイヌ・ラッ・クル伝」にあります。ネットで検索してみると、次のような面白い紹介がありました。
・義経神社は、寛政10年頃、近藤重蔵が源義経公の像を寄進して創立したとされる古社である。一般に義経は奥州平泉で自刃したとされるが、実は密かに三廐から蝦夷地に渡ったとする義経北行伝説が古来よりまことしやかに伝えられている。
もともと平取にはアイヌ民族の始祖に関する伝説が多く、神社のあるハヨピラ(武装した崖の意)もアイヌの文化神オキクㇽミカムイが降臨した土地と伝えられていた。オキクㇽミカムイは家造りや織物、狩猟法など様々な知恵をアイヌに授け、アイヌ民族の生活の起源を拓いたとされる神である。そこに義経北行伝説が入り込み、知人がアイヌを鎮める政策としてオキクㇽミカムイと義経が意図的に結びつけられ、いつしかアイヌはオキクㇽミカムイと義経を同一視するようになった。明治11年に平取を訪ねたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと、当時のアイヌは、義経を自分たちの民族の偉大な英雄としてうやうやしく祀っていたことがわかる。
・古代遺跡とUFOは何らかの関係があるということは現代においても否定しがたいものがあるが、UFO研究団体CBA(コズミック・ブラザーフット・アソシエーション、宇宙友好協会)は、各地の民族伝承を調査する中で、アイヌの文化神オキクㇽミカムイの伝説に着目、オキクㇽミカムイは宇宙人であると結論づけた。
・義経が自害せず北へ逃げたという「義経北行伝説」は江戸時代から広められ、北海道から海を渡ってチンギス・ハーンになったというお話もあるほど、蝦夷地でカムイになっても不思議はないかもしれませんが、アイヌの人たちはどう思ったのでしょうか。
2006年にプレステで発売された「大神」というアドベンチャーゲームには重要なキャラクターとして「オキクルミ」が登場します。炎の中から生まれたり、生活文化を伝授したり、大活躍するオキクㇽミカムイを宇宙人と見るのは、ナスカの地上絵と宇宙人を結びつけるのと近い感性なのでしょう。いずれにしろ、オキクㇽミカムイはアイヌの人たちにとっては身近な存在なのだと思います。オキクㇽミは実は宇宙人だったという話には、私はロマンを感じないのですが。
<森町の環状列石と私の夢>
・北海道一の規模、森町にある環状列石は、過去に拘束道路建設のため破壊の危機がありました。
ある日、運転手兼同行者としてアイヌの友人に連れられ、森町の役場、教育委員会に赴きました。アイヌの彼は、そこで「俺の先祖の墓であり、貴重な考古学的資料となる環状列石を破壊するな、むしろ観光の資源とせよ」と申しいれたのです。その夜、私は、こんな夢を見ました。
部族に飢饉が襲い、疫病が流行ります。長がシャーマンに懇願すると、シャーマンは精霊を呼びます。そして、部族に住むすべての民が各々大小の石を持ってシャーマンのいる広場に集まってきます。病気の者もおぶわれながら、あるいは足を引きずりながら小石を大切そうに持ってきました。すべての民が揃うと、輪になって祈りを捧げ、シャーマンを通して精霊の声を聴きます。その導きに従って、部落のみなが新しい地へ移動することになり、その列が続きます。
義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日[1])と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。
(室町から現在までの大まかな流れ)
源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。
江戸時代中期の史学界では林羅山や新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され徳川光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者の新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。
沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏の近藤重蔵や、間宮林蔵、吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には『金史別本』の内容が広まり、幕末まで源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。
シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。小谷部や末松らは、この説に関連し軍功に寄与したため勲章を授与されてもいる。義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。
明治以後の東洋史などの研究が西洋などから入り、史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北・北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。
戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説はとしてアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなっている。現代では、トンデモ説、都市伝説と評されている。
(新井白石)
新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いている。しかし義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。
『図解 アイヌ』
角田陽一 新紀元社 20187/7
<天地の図>
・アイヌモシリ(人間世界)からふと空を見上げてまず目に入るのはウラルカント(霞の天)。春の訪れとともに靄が湧く空だ。続いてランケカント(下の天)、人間世界の山頂近く、黒雲が渦巻き白雲が乱れ飛ぶ空。その上はニシカント(雲の天)、ここは英雄神アイヌラックルの父であるカンナカムイ(雷神)の領分だという。その上がシニシカント(本当の空の天)、チュブ(太陽)とクンネチュブ(月)が東から西へと歩む空。さらにその上はノチウカント(星の天)ここまで上がれば、もう人間は息ができなくなる。さらにその上が最上の天上界であるリクンカントシモリ(高い所にある天界)だ。カントコロカムイ(天を所有する神)の領分で、人間の始祖が住む。金銀の草木は風を受けてサラサラと鳴り、川も文字通り金波銀波を立てて流れ下る。以上、六層の天上界だが、アイヌ語で「六」は「数多い」との意味を併せ持つため、必ずしも六層でなくても良いともいう。
・一方でアイヌモシリの下、死者の国であるポクナモシリ(あの世)は、人間世界同様に山川に草木があり、死者の魂は生前同様に季節の運行に合わせて暮らす。だがその運行は人間世界とすべて反対で、この世が夜ならばあの世は昼、この世が夏ならあの世は冬になるという。そしてポクナモシリの下はテイネポクナモシリ(じめじめした最低の地獄界)。英雄神に退治された魔神や生前に悪行を重ねた者が落ちるところで、落ちた者は決して再生させてもらえない。
<カムイモシリ>
・野生動物とは、神が人間に肉と毛皮を与えるためにこの世に現れた仮の姿である。神の本体は天界で、人間と同様の姿で日常生活を営んでいる。そんな神の世界こそがカムイモシリ。山中に、海中に、天空に神が遊ぶ。
- 神は神の国で、人間同様の生活をしている
カムイモシリとは、カムイ(神)が住まう国。アイヌ伝承における「天界」だ。それは文字通り天空にある。一方で人間世界に住まう熊の神のカムイモシリは山の奥の水源にあるともされ、そしてレプンカムイ(シャチの神)など海神の住まいはならば海中にあるとされている。
ここで神々は人間同様の姿で、人間同様に住まい、着物を着て暮らしている、というのが伝統的なアイヌ文化における神の解釈だ。熊の神ならば上等の黒い着物をまとい、天然痘の神ならばあられ模様の着物を着ている。そんな姿で男神なら刀の鞘に入念な彫刻を施し、女神ならば衣装に心を込めた刺繍を縫い描いて日がな一日を過ごしている。そして窓からははるか下方に広がる人間世界を眺める。
・神は空飛ぶシンタ(ゆりかご)に乗ってカムイモシリと人間界、さらには地下のポクナモシリ(冥界)を自在に行き来するが、人間が生身でカムイモシリに行くことはできない。人間が天界に行くためには肉体と魂を分離、つまり死ななければかなわない。
<コタンカラカムイ>
・天地創造の神・コタンカラカムイ。巨大な体躯と寡黙な仕事ぶりを武器にアイヌモシリの山河を築き、人間を生み出した。しかし聖書の神のような絶対的な創造主ではないのが特徴。
- アイヌモシリを創造した巨神
コタンカラカムイという言葉を訳すれば「村を作った神」。しかし彼が作り上げたのは一村落のみならず天地全体。つまりアイヌ神話における創造神である。そのためモシリカラカムイ(国を作った神)の別名を持つ。だが万物の創造主ではなく、天界の神の命を受けて創造業務を請け負ったとされる。巨大な容姿の男神で、海を渡っても膝を濡らすことがなく、大地を指でなぞった跡が石狩川になり、鯨をそのまま串焼きにして食べたという。
・コタンカラカムイは楊の枝を芯にして土を塗り付け、人間を作った。だから人間が年老いれば、古い楊のように腰が曲がる。そして地上に近い、草の種の混じった土でアイヌ民族を作ったので、アイヌは髭が濃い。和人の髭が薄いのは、地中深い、草の混じらない土で作られているからだ。
<チュプカムイ>
・天空を照らす太陽を司るチュプカムイ。女神であるとされ、アイヌ民族は太陽の昇る方角を神聖なものとした。日の神が魔神に誘拐されれば天地は暗闇に包まれる。それが日食である。
- 天地を黄金色に染める女神
太陽はアイヌ語でチュプと呼ばれる。その太陽を司る神が、チュプカムイ。一般的には女神とされている。
<ポクナモシリ>
・死者はポクナモシリへ行く。人間世界と同様に季節があり、人は狩りや山菜取りで永遠の時を過ごす。一方で悪人や正義の神に退治された魔神が落ちるのはテイネポクナモシリ(最低の地獄)、湿気と臭気が覆う世界だ。
- この世とあの世は、すべてがアベコベ?
明治初期、布教活動の傍らでアイヌ文化を調査した英国人宣教師、ジョン・バチュラーの書籍によれば、アイヌにとっての「あの世」は3種類ある。ひとつは善人の魂が向かうカムイモシリ(神の国)、次に普通の人が行くポクナモシリ、そして悪人や退治された魔神が落ちるのがテイネポクナモシリである。だが、カムイモシリは外来宗教の「極楽」「天国」の影響から生まれたもので、本来はポクナモシリとテイネポクナモシリの2種のようだ。
ポクナモシリはアイヌモシリ(人間世界)同様に草木が生い茂り魚や獣が遊び、死者はその中で、生前同様の暮らしを永遠に続けるという。
・人間世界同様、あの世でもコタンコロクル(村長)が集落をまとめ上げるが、閻魔大王やギリシャ神話のハデスのように、死者の国全体の長はいない。そして面白い事に、現世の事があの世ではすべて反対になる。この世が夜なら、あの世は昼。この世が夏なら、あの世は冬になる。だから死者が来世で不自由しないよう、夏に死んだ者は冬靴を履かせた上で埋葬したという。
<オキクルミ>
・雷神がハルニレの木に落雷して生まれたオキクルミは、アイヌラックルの別名を持つ。陽の神をさらった魔神を退治する英雄であり、ユーモラスなトリックスターでもある。アイヌ神話における文化神、英雄神。
<落雷の炎から生まれた英雄神>
・成長した後に、再度天下り、人間たちに火の使用法や家の作り方、狩りの方法、そして天界から密かに盗み出した穀物の種を元に農業を伝え、ともに平和に暮らした。だがある年のこと、豪雪によって鹿が大量に餓死し、アイヌたちは飢餓に苛まれる。そこでオキクルミの妻は椀に飯を盛り、家々の窓から差し入れて施しを始めた。だが不埒な男が椀を持つ手の美しさに見とれ、家に引き込もうとする。その瞬間に大爆発が起き、男は家ごと吹き飛ばされてしまった。オキクルミ夫妻はこの無礼を怒って天界に帰って行ったが、人間を見捨てることなく神聖なヨモギを束ねて人形を作り、自身の身代わりの神として地上に残していったという。
・ところでオキクルミにはサマイクルという兄弟、もしくは相棒がいたとされる。北海道胆振日高地方ではオキクルミは正義、サマイクルは乱暴者で間抜けとされるが、逆に北海道東部や石狩川上流ではサマイクルが正義、オキクルミは間抜けとされている。石狩川上流、カムイコタンで川を堰き止めて村の滅亡を企んだ魔神を退治したのは、サマイクルである。
<ミントゥチ>
<河童は北海道の河にも棲む>
・河童は日本各地に伝承がある。だが「カッパ」の名称は関東周辺で、九州ではカワタロウがガタロ、中国地方ではカワワラワ、東北地方の北部ではメドチとそれぞれ名前も変わる。北海道のアイヌ伝承にも、「カッパ」に該当する妖怪がいる。それがミントゥチだ。
<キムンアイヌ>
里には人間が住む。一方で山には人とも人外のものともつかない者が住んでいる。そんな「山人」の伝説は日本各地に残るが、アイヌの伝説にも同様の逸話がある。それが「キムンアイヌ」……山の人だ。
- 山中に棲む人外の巨人
・柳田国男の『遠野物語』には山中に住む人とも妖怪ともつかない存在「山男」が登場するが、同様の逸話は日本各地にある。優れた体格の男性(女性がいるかは不明)で、衣服を着ている場合もあれば半裸の場合もあり、
餅や煙草を差し出せば山仕事を手伝うなど、人間に対しては概して友好的である。そんな山人、山男の逸話はアイヌ伝説にもある。
・キムンアイヌ、訳すればそのまま「山の人」。里の住人の3倍の体格を誇り、特別に毛深く、口から牙がつき出している。着物は着ているが、何を素材にした布地か毛皮かはわからない。腕力にも優れ、鹿でも熊でも虫のように捕えてしまう。時には人を殺して喰らうこともある。だが煙草が大好物で、煙草を差し出せば決して悪さをしない。
・刺青や耳輪はしない。時に人間をさらって自分たちの仲間に加えるが、そんな者は刺青や耳輪をしているからすぐに判る。(女性の個体もいる?)
・樺太のキムンアイヌは訛ってキムナイヌと呼ばれ、さらにロンコロオヤシ(禿げ頭を持つ妖怪)の別名通りに頭頂部が禿げあがっている。彼らは人間に友好的で、重い荷物を代わりに背負ってくれる。
<ウェンカムイ>
<アイヌ世界の神は、豊穣の神ばかりではない>
・「ウェン」とは、アイヌ語で好ましくない状況全般を意味する言葉である。ウェンカムイとは、精神の良くない神、つまり邪神や魔神の類である。
・神は人間に豊穣のみを約束するものではない。人間にあだなす魔の神、悪霊、それこそがウェンカムイである。太陽を誘拐する悪の権化から、水難事故や病魔を運ぶ疫病神まで、自然界は悪魔に充ち溢れている。
<コロポックル>
<「かわいらしい」だけではない小さき人>
・アイヌの伝説には、コロポックルと呼ばれる小さき人が登場する。一般的には「コル・ポ・ウン・クル」(蕗の葉の下の者=蕗の葉よりも背が低い人と紹介され、北海道の観光地では蕗の葉をかぶったキャラクターの木彫などを目にすることも多い。
・童話作家の作品にも登場するアイヌの小人伝説「コロポックル」。その実態は「かわいらしい」ばかりの物ではない。正体は千島列島北部のアイヌか?伝染病を恐れる彼らの風習が物語として伝えられた?
<パコロカムイ>
・中世から近世にかけて北海道に伝来し、アイヌ人口減少の一因ともなった天然痘。アイヌはあられ模様の着物を着た疱瘡の神「パコロカムイ」の仕業として恐れ、患者が出れば全村で避難するなど策を講じた。
- アイヌモシリに災厄をもたらす疫病神
天然痘が北海道に侵入したのは鎌倉、室町時代と考えられる。江戸時代寛永元年(1624年)の記録に「蝦夷地痘疹流行」の一文が初めて現れる。以降、江戸時代を通じて流行が繰り返され、和人との交流が盛んな日本海沿岸においては特にアイヌ人口が激減する原因ともなった。
アイヌ民族は天然痘を「カムイタシュム」(神の病)と呼んで恐れ、パコロカムイのしわざと信じた。
・幕末になって時の函館奉行がアイヌ対象の大規模な種痘を行い、明治以降に種痘が義務化されるに及び、パコロカムイの影は去ることになる。
『図説 日本の妖怪百科』
宮本幸枝 Gakken 2017/6/6
<相撲好きでおとなしい ケンムン>
・「ケンムン」は「ケンモン」ともいい、奄美諸島一体で伝えられる妖怪である。
奄美の民話では、ケンムンは月と太陽の間に生まれたが、天に置いておけないため、岩礁に置いてきたと伝えられる。しかし、海辺ではタコがいたずらをしにくるので、ガジュマルやアコウの老木に移り棲むようになったという。
その姿は小児のようで、足が長く、座るとひざが頭を超す。髪や体毛が赤く、よだれは青く光るという。猫のような姿であるという話も多い。
ケンムンの中には、頭に皿を持っているというものもあり、人に相撲を挑んだりするなど、「河童」によく似た習性が伝えられている。相撲をとるときは皿を割れば勝てるのだが、負けたケンムンが一声鳴くだけで、何千何万とケンムンの仲間が集まってくるため、手加減する必要があるのだそうだ。
また、ケンムンと漁に出ると、大漁になるが、とれた魚はすべて片目がとられているという。棲んでいる木を切られた際には、切った人間の目を突くといわれており、目に何か特別なこだわりがあるようだ。
ケンムンは、もともとおとなしい性格で、人を害することはあまりないといわれる。第2次世界大戦前まではよく目撃されていたらしいが、GHQの命令により奄美のガジュマルの木が大量に伐採されたことを機に姿を消したという。
<ガジュマルの木に棲む精霊 キジムナー>
<沖縄県のマジムンの代表格>
・ガジュマルの木に棲み、長く赤い髪をした子どものような姿をしているという沖縄県の妖怪「キジムナー」は、鹿児島県の「ケンムン」や「河童」と似た姿や習性が伝えられている。
その呼び名は同じ沖縄県内でもさまざまで、「キムジン」「ブナガヤ」「セーマ」「アカガンター」などとも呼ばれる。人をだましたり、いたずらをすることが好きで、仲良くなると山仕事や漁を手伝ってくれるなど、人間ととても親しい存在だったようである。タコを非常に嫌うといい、キジムナーがいたずらをしないように、赤ちゃんにおしゃぶりの代わりにタコの足をしゃべらせることもあったそうである。
旧暦8月10日のヨーカビーには、キジムナーが点す“キムジナー火”が現れるといわれ、その火は触っても熱くなく、海に入っても消えないといわれた。
・昭和の時代に入ってからも、沖縄の子どもたちのあいだでは“キジムナーの足跡を見る”という遊びがあったという。その方法は、まず、薄暗く、静かな場所で円を描いて小麦粉などの白い粉を撒く。円の中心に、火をつけた線香を立てておき、呪文を唱えて隠れる。20数えてその場所に戻ると、小麦粉にキジムナーの足跡がついているという。
・また、沖縄県北部の大宜味村では、専用の小屋を建ててブナガヤが出てくるのを夜通し待つ「アラミ」という風習が戦後まで行われていたそうだ。