日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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鬼や中世に勢力を拡大した天狗といった、常人の目には見えない存在が、人間社会に人知れず災いを振り撒いていると考えられるようになっていったのである。(1)

 

(2022/1/27)

 

 

 

『鬼と異形の民俗学

漂泊する異類異形の正体

飯倉義之 ウェッジ   2021/7/20

 

 

 

・現代に蘇る異類異形たち

酒吞童子百鬼夜行羅生門の鬼………

日本人が長い歴史のなかで追いやった「鬼」なるものの正体とは?

 

令和の闇に躍る「鬼」

・人はなぜ鬼退治を求めるのか。そもそも鬼とは何なのか。

 そもそも上古の時代においては鬼は穏、隠れたもの、目に見えぬものであった。私たちの生きるこの現世からはうかがうことのできない不可視の存在であり、その出現は凶事や災害の予兆であった。鬼は災害や疫病、飢饉や戦乱を知らせるモノであった。そうして時代が下り武士の世の中である中世に差し掛かるころ、鬼は災害や疫病、飢饉や戦乱の予兆ではなく、原因と考えられるようになっていった鬼や中世に勢力を拡大した天狗といった、常人の目には見えない存在が、人間社会に人知れず災いを振り撒いていると考えられるようになっていったのである

 そうした中世に作られたのが鬼退治・天狗退治の物語だった。『酒呑童子絵巻』では、京の都で狼藉を働く神出鬼没の酒呑童子とその配下の鬼たちを、源頼光と配下の四天王らが大江山で見つけ出し、神仏の加護と武力で退治する。『是害坊絵巻』では、中国から来た不可視の天狗「是害坊」が日本の高僧を誑かそうとする試みを、高僧を守護する仏の使者である、これまた不可視の護法童子が打ち砕く

 世の中に災いをもたらすのが不可視の鬼などであるならば、英雄がその不可視の鬼を見つけ出し、退治して悪さを止めさせる物語は、禍の終息を望む人々にとっては安寧を与えてくれるものであっただろう。

 

異形の怪物、ヤマタノオロチ――日本神話にみる鬼の原点

本来の「鬼」は、「化け物」「妖怪」である

・日本の鬼はこれ以前からさまざまな文献・史料のなかに現れていて、じつは長い歴史をもっている。

 たとえば鎌倉時代の絵巻物をみると、「角をもたない鬼」を描くものがある。

 さらにさかのぼって奈良時代に編まれた『日本書紀』や『風土記』をひもとくと、そこに「鬼」という語を見出すことはできるが、その容貌についてはあまり細かい描写がない。また、「鬼」という漢字はオニではなく、モノ、カミと読まれることもあった。ちなみに、漢字としての「鬼」は「死者の魂」が原義である。

 どうやら、古代の日本人は、禍をもたらす正体不明の怪物や邪神、あるいは王権に服従しない異民族・異邦人のことをひろく「鬼」として観念していたらしい。

 

古事記』のヤマタノオロチ

・やがて八頭八尾のオロチがほんとうにやってくるが、桶に入った酒を飲むと、酔いつぶれて寝てしまった。そこでスサノオは剣を抜き、オロチを切り刻んで斬殺。肥の河は真っ赤な地で染まった。

 このときオロチの尾を切り裂くと、中から剣が現れ出たが、スサノオはこれを霊剣とみなしてアマテラスに献上した。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

 こうして見事にオロチを退治したスサノオは、出雲の須賀の地に宮を建て、クシナダヒメを妻にめとり、多くの子孫をもうけた。

 

大蛇の「化け物」としてのヤマタノオロチ

・蛇というと、とぐろをまく不気味な姿から、現代人には気色悪い生き物にみられがちだ。だが、美しい姫の前に奈良の三輪山の神オオモノヌシノカミが蛇の姿をとって示現したという『日本書紀』の挿話が暗示するように、その神秘的な形象、脱皮する生態などゆえに、古代の日本では、蛇は神の化身として崇敬される対象であり、生命力のシンボルとみなされていた。そして、仏教が流入すると、蛇信仰は、仏法守護神あるいは水神としての龍への信仰と習合していったのである。

 

記紀が描いた鬼の原像

・一般に、大蛇は水神、あるいはその化身とみなされている。

 このことから、「ヤマタノオロチとはしばしば氾濫を繰り返した肥の河(斐伊川)の象徴であり、ヤマタノオロチ退治の神話は、人びとを脅かす荒ぶる大蛇=暴れ河を英雄が制圧し、治水を成功させて、社会に平安をもたらした様を寓意している」という解釈がなされることが多い。

 

・このようにさまざまな解釈が成り立つが、「英雄が生贄を求める怪物を倒して弱者を救い、平穏や幸福を取り戻す」というこの神話の骨格は、これから本書でも紹介する後世のさまざまな鬼退治伝説に共通している。仮にここでヤマタノオロチを鬼に置き換えたとしても、それは神話・説話として十分に成り立つだろう。

 

歴史に現れた原初の鬼たち――『日本書紀』の中の「まつろわぬ民」としての鬼

化外の民、異民族を「鬼」と呼んだ

・神話ではなく、歴史の中では、どこまで鬼の記録をたどることができるだろうか。

 日本の史書で「鬼」という語が登場する最古の文献は、養老四年(720)に成立した『日本書紀』である(『古事記』には「鬼」の語は一度も出てこない)。

 

天皇の葬儀を観察していた謎の鬼

・まもなく葬儀が行われたが、その夕、朝倉山の上に大笠を着た鬼が現れ、葬儀をじっと見守っていたという。

 

出雲国風土記』が記録した一つ目の人喰い鬼

・また、阿用の鬼は「目が一つ」だったという。

 一つ目の妖怪や神を、天目一箇神(あまのめひとつのかみ)という一つ目の神を奉じた山間地に住む鍛冶師たちの信仰伝承と関連づける説や、祭りの日まで生贄とすべき人や魚を聖別しておくために片目をつぶしておいた習俗に由来するととらえたりする説(柳田國男氏)もある。ともあれ、阿用の鬼についていえば、その「一つ目」は、「鬼」の不気味さ・異形さを端的に伝える、きわめて効果的な表現となっているのではなかろうか。

 

鬼神を使役した役小角

役小角が鬼神を使役したという話は、後世には「役小角は前鬼・後鬼という一対の鬼を弟子にした」という伝説を生み、役小角の彫像や画像では、主の左右に童子風の、見ようによっては可愛らしい姿の二鬼を配するのがならいとなった。

 

平安京を跋扈した鬼たち――王朝人を恐れさせた異界からの訪問者

伊勢物語』が描く美女を喰った鬼の正体

・だがじつは、この人喰い鬼のエピソードは、宮廷社会の醜聞が生み落としたものだった。伊勢物語』の筆者は、種明かしをするかのように、この話のあとにこんな注記を加えている。

 

<この話は、二条の后(清和天皇の女御となり、陽成天皇を生んだ藤原高子のこと)が宮仕えしていたまだ若いころに、在原業平がその美貌を聞きつけて盗み、背負って逃げたときのものである。このとき、后の兄弟の藤原基経・国経が、宮中に参上する途中、彼女がひどく泣いているのを聞きつけ、引き留めて取り返した。それをこのように「鬼に喰われた」と言い換えたのだ。>

 藤原高子は当時としては長生きをし、延喜十年(910)に69歳で没している。

 

内裏のすぐそばに不気味な鬼が出没

・『伊勢物語』はあくまで物語で、在原業平の生涯をもとにしつつもフィクションの要素が濃い。しかし、平安時代のれっきとした史料にも、人喰い鬼にまつわる事件は記録されている。

 

・もっとも『日本三代実録』では、この事件記録に対しては「道行く人がある人に告げた話」、つまり伝聞であると断り書きされていて、事件が鬼の仕業だというのもあくまで世人の噂にすぎず、誰かがはっきりと鬼の姿をみたわけではない。したがって、謎の猟奇殺人事件の犯人として、「鬼」という幻想が持ちだされたにすぎないのかもしれない。

 しかし、正史に残されたこの記録からは、平安時代の宮廷人が鬼の存在をリアルに意識していたことをうかがうことができるだろう。

 

琵琶を弾きこなす羅生門の鬼

・『今昔物語集』は、羅城門の鬼が盗んだ玄象という琵琶を博雅にあっさり返した理由をとくに記していないが、玄象の音色を聞き分けた博雅の管弦の才能に鬼が感服した、というところなのだろう。

 

鬼は音楽や詩歌に秀でたインテリだった

朱雀門大内裏の、羅生門平安京の外部との境界であった。そうしたマージナルなポイントには、音楽や詩歌に異常な才能をもった(まさしく鬼才である)、教養高い鬼が隠れ棲んでいる――というのも、王朝時代の鬼に対するイメージの典型のひとつだったのである。

 

渡辺綱の戻橋鬼女伝説

・勇猛な武将・渡辺綱が深夜の一条戻橋に出現した鬼女に襲われるが、逆にその腕を斬り落としたという武勇譚である。

 

怪異の世界と隣り合わせだった魔都

・ところで、平安時代なかばに編まれた辞書『和名抄』は、「鬼」についてこう解説する。「オニは隠(おん)の訛りで、鬼は、隠れて形をあらわすことを欲さないゆえにそう名づけられた」

 

オニたちのパレード、百鬼夜行――都の夜を闊歩した闇の異形者たち

プレイボーイが都の真ん中で遭遇した鬼の行列

・藤原常行は戸をそっと開けて外を見た――すると、なんと彼らは人間ではなく、とりどりに恐ろしい姿をした鬼たちであった。

 

百鬼夜行の出没スポットだった二条大路周辺

・ただし、奇妙なことに藤原師輔(もろすけ)の侍者たちの目には鬼たちの姿は見えなかったという。藤原師輔儀礼儀式にやかましく、陰陽道的な禁忌や作法に人一倍神経質なたちだったらしいが、鬼を恐れるあまりに幻覚にでも襲われたのだろうか。それとも、師輔は一般人には見えない鬼を見ることができる特殊な能力の持ち主であったということなのか。

「あわわ」の語義は不詳だが、人が驚きふためく声とする説もある。その辻は現在の二条城のあたりである。

 

一条戻橋にも出現した百鬼夜行

・もう一つここで注目したいのは、「一つ目の鬼もいれば、角の生えた鬼、手が何本もある鬼、一本足で跳んでいる鬼もいる」と、鬼たちの姿が具体的に描写されている点である。『今昔物語集』が編まれた平安時代末期から、「鬼」は目に見えない存在ではなく、具体的な「異形」としてイメージされるようになってきたのである。それは現代の私たちの想像する「妖怪」に近いものともいえるのではないだろうか。

 

鬼を操った安倍晴明――鬼気を退散させ、疫病を祓った陰陽師たち

朝廷専属の占い師だった陰陽師

平安時代、京の人びとは周囲にうごめく鬼の影に日夜怯えていたが、そんな人びとの不安や恐怖を払うべく、呪術を用いて鬼を退散させ、あるいは使役することを職掌とした人もいた。それが陰陽師である。

 

陰陽師のスター、安倍晴明

・貴族たちのあいだで占いや呪術が重んじられた平安時代には、陰陽師が大いにもてはやされたが、その代表が安倍晴明で、彼の名は現代においても陰陽師の代名詞となっている。

 

鬼を封じる呪術を使った陰陽師

・師の供奉をしていた若き日の安倍晴明百鬼夜行を機敏に察知し、弟子から知らされた忠行は陰陽道の呪術を用いて鬼から身を守った、というエピソードである。具体的にどんな呪術を用いたのかは不詳だが、「陰陽師は鬼を退ける不思議な技術を身につけている」というのは、平安時代の人びとに普遍的な認識だったのだろう。

 

陰陽師に仕えた「式神」という小鬼

・さらにこの話には、安倍晴明播磨国陰陽師の挑戦を受けるも、その陰陽師が使役する「式神」を捕らえて降参させたという逸話が続き、晴明は自宅では式神を使って蔀戸(しとみど)の上げ下ろしや門の開閉をさせていたとか、晴明の死後もその屋敷ではごく最近まで式神の声が聞かれたといった噂話もつづられている。

式神」は、識神とも書かれ、陰陽師が使役したとする神霊のことをさし、しばしば小鬼のような姿でイメージされる。

 

疫病対策としての陰陽道の鬼気祭

陰陽師の鬼伝承の源泉は、このような疫神としての鬼を退散させる祭祀に取り組んだ平安京陰陽師たちの姿に求められるのではないだろうか。彼らは、現代にたとえれば、新型コロナウイルスに立ち向かう医師たちということにもなろうか。

 安倍晴明とは、そんな有名無実の幾多の陰陽師たちのシンボルなのである。

 

平安貴族を苦しめたモノノケ――『源氏物語』が描き出した心の中の鬼

法皇の前に現れた源融(みなもとのとおる)の幽霊

嵯峨天皇を父にもと平安時代初期の左大臣源融(822~895年)は生来、風流を好み、豪奢な生活を送ったことで知られる。

 鴨川のほとりの東六条に大邸宅。河原院を営んだが、その庭園には陸奥の塩釜の景色を模したもので、つねに海水を池に運び入れ、海の魚を泳がせ、塩屋には塩焼きの煙がたなびいていたという。 

融が深く愛したこの邸宅は、彼が亡くなったのちは宇多法皇(867~931年)の手に渡るのだが、まもなくそこは怪異な事件の舞台となった。

 

兵乱を巻き起こした天狗たち――仏法と王法を妨げる山の魔物

古代中国では天狗は流れ星のことだった

・天狗というと、山伏姿で翼があり、鼻が高く赤ら顔の妖怪の姿を思い浮かべるのが相場だろう。しかし、それは近世になって定着したイメージで、鬼と同様に、天狗もそのイメージや伝承に変遷と歴史がある

 

・流星としての天狗は、中国の民族宗教である道教では、日食を起こして赤子を病気にする、天を翔ける狗とされるようになっていった。しかし、そのような流星としての天狗という観念は、日本にはあまり定着することがなかった。

 われわれがイメージする天狗の萌芽がみられるのは、平安時代のなかばごろからだ。

 たとえば『源氏物語』の最終巻「夢浮橋」には、宇治川に入水するも横川僧都に救助された浮舟について、周囲から「天狗や木霊などにたぶらかされて連れ去られていたのか」といぶかる声があったと、僧都が語る場面がある。

 ここでは、天狗は山に住まう魔物として観念されているようである。

 

今昔物語集』に描かれた天狗

・今は昔、智羅永寿という中国の強い天狗が、日本の修験僧と法力くらべをしようと日本に渡り、このことを聞いた日本の天狗に、空を飛んで比叡山に案内された。

 永寿は老法師に化けて石塔のわきで僧侶を待ち受けていたが、しばらくすると、余慶という高僧が輿に乗って山を下りてきた。永寿は余慶を襲おうとしたが、すると不思議なことに輿の上の余慶の姿が消え、代わりに炎がはげしく燃え上がったので、近づくことができず、怖くなって谷に逃げ込んだ。

 

反体制のシンボルとなった天狗

・憤死した崇徳はしだいに怨霊として人びとに恐れられるようになるが、一方で、没後の崇徳が大天狗として闇の世界に君臨したという伝説も語られた。

 

南北朝の争乱がつづいたころ、上京した羽黒山の山伏・雲景は、老齢の山伏と知り合い、「私たちが住む日本無双の霊地を見せてあげましょう」といわれて、平安京西北の愛宕山に案内された。

 そこには立派な寺院があり、本堂の後ろの僧坊の座敷へ行くと、上座

には大きな金色の鳶がいて、周囲には大男や、天皇の礼服を着た高貴な身分とおぼしき人、水晶の数珠をつまぐる高僧らしき人などが居並んでいる。

 

大江山酒呑童子――鬼のイメージを決定づけた中世の英雄譚

南北朝時代に成立した酒吞童子伝説

・再三記してきたように、平安時代、「鬼」という語は、広く妖怪一般をさすニュアンスで用いられていた。

 ところが、室町時代になると、そうした妖怪のなかで、頭に角を生やし、口に芽をもった容貌魁偉な怪物だけがとくに「鬼」と呼ばれるようになりはじめた。室町時代になってようやく、現代人にもなじみ深い鬼のイメージがかたまりだしたのである。

 

・伝説自体は平安時代を舞台としているが、話の原型が成立したのは南北朝ごろではないかといわれている。絵巻や御伽草子などのかたちで流布し、諸本の内容には大小の異同もあるが、現存する文献の中で最も古いものは、14世紀ごろに作られたと推測される絵巻物の『大江山絵詞』である。

 

源頼光と四天王の鬼退治伝説

一条天皇(在位986~1011年)の時代、都の若君・姫君がつぎつぎに失踪するという怪事件が起こった陰陽師安倍晴明の占いによって大江山に住む鬼王の仕業と判明すると、追討の武将として源頼光藤原保昌(やすまさ)が朝廷によって選ばれた。

 二人は八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り、頼光は四天王(渡辺綱、坂田公時、卜部季武、平忠道もしくは貞通)、保昌は大宰少監(だざいのしょうげん)を従えて大江山に向かった。

 深山幽谷に分け入ると、とある山のほこらで老翁・老山伏・老僧・若き僧の四人に出会った。一行は老翁たちのアドバイスで山伏姿に変装し、彼らの案内で奥山に踏み分けてゆく。

 

・しばらくするとふたたび童子が現れて、廻国中の山伏とかたる一行に、自分の身の上を語りはじめた。

 酒を深く愛するゆえに眷属から酒呑童子と呼ばれている。昔は比叡山一帯を先祖代々の所領としていたが、伝教大師というけしからん坊主や桓武天皇に追い出された。うさばらしで時々大嵐や旱魃を起こした。百五十年ぐらい前から大江山に住み着いた……。

 上機嫌の童子に頼光はひそかに用意した毒酒をすすめ、やがて童子は酔っぱらって寝所に入った。

 やがて暗くなると、眷属の鬼たちがつぎつぎにあらわれ、一行を誑かそうと田楽に興じたり、仮装行列を演じたり、あるいは美女に化けて言い寄ったりする。しかし、頼光の鋭い眼光に圧倒され、「あれは都人の恐れる源頼光にちがいない」と噂して退散する。

 頼光と保昌は老翁の助けを借りて姿を消して城内に潜入したが、牢獄には藤原道長の息子や唐人が捕らわれていて、庭には人間を切り刻んで漬けた大きな桶が置かれ、無数の死体が散乱し、またある建物には鬼たちがたむろしていた。

 廓に戻った二人は仲間に自分たちが見た有様を話し、戦いの準備をした。

 そして一行は、老僧と若い僧の祈禱の力を借りて、童子が寝ていた鉄石でできた部屋の戸を開けて中に入った――するとそこにいたのは最前の童子ではなく、体長が5丈(15メートル)もある鬼で、頭と体は赤、左足は黒、右足は白、左手は青、右手は黄色と、5色に色分けられ、頭には5本の角を生やし、眼は15もあった。

 

史実なのか、それともフィクションか

・『大江山絵詞』は絵巻物だが、全体を見ていて目を引くのはやはり異形の鬼・酒吞童子の姿である。

 

・ところで、この起伏にとんだ鬼退治譚を読んでおそらく多くの人が気にかかるのは、これがなんらかの史実に拠っているのかどうか、ということではないだろうか。

 

頼光四天王のひとりである渡辺綱は『平家物語』「剣巻」にも頼光の郎党として登場し、一条戻橋で鬼を斬っているが、彼の実在を証明する確実な史料はなく、これもすでに触れたが、架空人物説もある。

 このようなことからすれば、酒呑童子伝説は、史実とは切り離してあくまで伝説としてとらえられるべきなのだろうが、平安後期の『今昔物語集』には丹波大江山をアジトとする盗賊の話もみえる。何らかの史実をもとにして書かれている可能性は排除できない。

 

疫病祓いの陰陽道祭祀の寓意か

・一方で、まったく別の観点から、この酒呑童子伝説を平安時代の史実、あるいは社会の現実を象徴的に反映させたものとみる立場もある。

 前出の高橋氏の諸説がそれで、同氏によると、酒呑童子の原像は、平安時代の都で猛威をふるった疫神、とくに疱瘡をはやらせた鬼神だという。

 

吉備の温羅伝説――桃太郎の鬼退治の舞台はほんとうに岡山か

吉備津神社に伝わる温羅伝説

・桃太郎についてもさまざまな研究があるが、そのルーツとしてしばしば指摘されるのが、岡山の吉備津神社岡山市北区吉備津)を中心に伝わる「温羅(うら)」という鬼にまつわる伝説だ。

 

・この温羅伝説で鬼退治のヒーローとして活躍する大吉備津彦命は『古事記』『日本書紀』に第七代孝霊天皇の皇子として登場する人物で、祟神朝にいわゆる「四道将軍」のひとりとして西道(山陽道)つまり岡山方面の平定に朝廷から派遣されている。なかば神話的人物だが、吉備津神社は彼を祭神としており、温羅伝説は同社の成立縁起にもなっている。

 

酒吞童子伝説と温羅伝説の類似が語ること

・桃太郎との関係はどうだろうか。

 先に記したように、桃太郎童話の成立は室町時代にさかのぼるが、その発祥地は明確ではない。桃太郎童話は、話の細部を微妙に変えつつも、全国各地で民話として語り伝えられてきたからだ。

「桃太郎のモデルは吉備津彦」「鬼ヶ島のモデルは鬼ノ城」といった話を聞いたことがある読者もいるかもしれないが、桃太郎伝説発祥地を称する土地は全国にいくつもあり、岡山はそのうちのひとつにすぎない。

 しかも、桃太郎岡山発祥説が本格的に唱えられるようになったのは、どうやら昭和に入ってかららしい。

 

日本の闇に蠢く「異形のもの」列伝――異界からの訪問者を総覧する

・日本の伝説・史書に現れる異形の化け物は、もちろん鬼に限られるわけではない。逆にいえば、鬼は、日本人が伝承し、恐れてきた、多種多様な怪異・異類のなかのひとつであるにすぎない。

 

土蜘蛛(つちぐも)

・土蜘蛛とは、古代において、天皇や朝廷への服従を拒んだ土着民・土豪に対して用いられた蔑称である。

古事記では「土雲」と書かれるが、神武天皇が東征した際、忍坂(おさか)(奈良県桜井市忍阪(おつさか))で倒される民として登場する。彼らは大室(おおむろや)(穴倉)に住み、尾が生えていたという。日本書紀』では、神武に抵抗した土蜘蛛の容貌が「からだが短く、手足が長く、侏儒(ひきひと)に似ていた」と形容されている景行天皇紀の天皇西征の記事にも土蜘蛛が登場するが、彼らは九州豊後国大分県中部・南部)の岩屋に住み、やはり皇命に従わなかったので、征伐されている。

 

・このように、土蜘蛛は朝廷側から敵視・蔑視されていたが、珍しいことながら、『風土記』には彼らを好意的に記す箇所もある。

大山田女、狭山田女という二人の土蜘蛛がニニギノミコトに稲作を教えた」というのがそれで、土蜘蛛が文化英雄的な性格も有していたことを示唆している。

 土蜘蛛は、弱者・敗者だったがゆえに征服者側によって異形の姿にイメージされたが、ローカルな視点からみれば、未開の沃野を切り拓いた英雄であり、勇者であった。そして結果的に王権に服従し、その支配下に組み込まれた土蜘蛛もいたが、大多数の土蜘蛛は討たれたり追いやられたりして姿を消していった。

 

仏教系の鬼

◉餓鬼 サンスクリット語ではプレタといい、元来は「死者」「死者霊」を意味した。仏教では、輪廻する世界である六道のひとつである餓鬼道の存在を餓鬼と呼んでいる。餓鬼道は畜生(動物)道の下位にあり、嫉妬深かったり物惜しみや貪りの心が強かったりする人間が死後に転生する世界で、ここに転生すると餓鬼となり、食べ物や飲み物を得られずに飢えに苦しむ。腹のみふくれた、やせ細った姿で描かれる。

 

◉夜叉 サンスクリット語でヤクシャ、パーリ語でヤッカという。薬叉とも書かれる。古代インドで森林に住むと信じられた神霊がルーツ。仏教には仏法護持の守護神として取り入れられたが、悪人を喰い、善人を守護するとされた。また特定の神霊を指すのではなく、仏教の鬼類全般の総称とされるが、毘沙門天の眷属や、釈迦の眷属である八部衆のひとつにこの名をもつ尊格がある。

 

◉羅刹 サンスクリット語でラークシャサ、パーリ語でラッカサという。インド神話に登場する悪魔の一種で、しばしば夜叉と同一視されるが、人をたぶらかし、血肉を喰うという。仏教には仏法の守護神として取り入れられ、十二天のひとつに、西南の方位を守護するものとして羅刹天がいる。甲冑をつけ、刀を持った姿で描かれる。また、『法華経』には、法華行者の守護神として鬼子母神とともに十羅刹女つまり十人の羅刹女が説かれている。

 

◉天邪鬼(あまのじゃく) 仏教で北方を司る護法神である毘沙門天の鎧の腹部にある鬼面のことを、中国では海若、河伯などと呼んだ。日本では海苔の訓読「あまのじゃく」から、人間の望みを邪魔する日本古来の妖怪・天邪鬼と習合してこの字があてられるようになったものらしく、毘沙門天を含む天部の諸神が足で踏みつけている小鬼のことも天邪鬼、あるいはたんに邪鬼と呼ぶようになった。

 

天狗

・山を住みかとする妖怪の一種。赤ら顔で鼻が高く、眼光が鋭く、鳥のようなくちばしをもっていて、山伏のような服装で羽団扇をもっているというのが一般的なイメージで、自在に空を飛ぶことができるという。

 

・そして、修験道の主要な霊場には固有名をもつ大天狗が棲んでいると信じられるようになった。俗に「八天狗」と称される天狗界の有名なボスたちを紹介してみよう。

 

愛宕山の太郎坊  京都・愛宕山に棲む大天狗。「日本第一の天狗」と称される。

 

鞍馬山の僧正坊  京都・鞍馬山の僧正ガ谷に棲む。源義経(牛若丸)に兵法の奥義を伝授したという。僧正ガ谷の天狗の居処とされる場所に、現在は魔王殿が建つ。魔王殿は魔王尊が降臨した地と伝えられるが、魔王殿は鞍馬の大天狗を神格化したものだろう。牛若丸に剣術を教えたという伝説の大天狗は、鬼一法眼と同一視されることがある。

 

◉比良山の次郎坊  琵琶湖西岸の比良嶽に棲む。愛宕山の太郎坊についで神通力があるという。

 

◉飯縄(いづな)の三郎坊  信州の飯縄山飯綱山)に棲む。飯縄修験者に信仰された飯縄権現は白狐に乗った天狗形で描かれるので、三郎坊への信仰も習合しているのだろう。

 

◉大山の伯耆坊(ほうきぼう)  伯耆大山鳥取県)に棲む。大山は大智明権現を祀る修験霊場として栄えた。

 

◉彦山の豊前坊  福岡県の英彦山(ひこさん)(彦山)に棲む。英彦山は一大修験霊場で、山内には豊前坊という坊社があった。

 

◉大峰の前鬼坊  修験道の根本道場である大峰山を拠点とする。

 

◉白峯の相模坊  讃岐の白峯山(香川県坂出市)が拠点。

 

 これらの大天狗は反体制的な魔王として恐れられたが、勧善懲悪・仏法守護を行うこともあり、善悪両面の要素をもつ。

 

・江戸時代後期のことだが、江戸下谷の寅吉という少年が「天狗にさらわれて常陸国の山中の仙境を訪れ、現界と往還をして神仙の修行を積んだ」という趣旨の証言をして話題を集めた。これに強く関心を抱いたのが国学者平田篤胤で、彼は少年寅吉を自宅に招いて詳しく話を聞き、『仙境異聞』という書をものにした。寅吉によれば、仙境のリーダーは、杉山僧正という名の天狗の首領だったという。

 

憑き物

「憑き物」は、文字通りの意味では「ある人間に憑依したモノ(霊的存在)」のことである。だが、民俗学民間信仰の世界では、人間や家に取り憑いて病気や死などの不幸をもたらすと信じられた、動物の霊のことをとくに「憑き物」と呼ぶ。

 憑き物になる動物、つまり人や家に憑依すると信じられた動物の例としては、キツネやイヌ、ヘビ、タヌキ、ネコ、サルなどが挙げられるが、とりわけキツネとイヌが憑き物となるケースが多く、憑き物としてのイヌの霊はイヌガミ、インガメなどと呼ばれる。

 

・具体的なケースを想定してみよう。たとえば、ある村落の住人の言動が急におかしくなり、イヌのような妙な唸り声をあげたり、四つん這いになって歩き出したりしたとする。すると家族はこれをイヌガミに憑かれたためと信じ、祈禱師を呼んで祓い落としてもらう。祈禱のあいだ、その人物はあばれたりはねたりするが、やがておさまって普段の状態に戻る。このような憑き物現象は、昭和年代までは地方ではけっして珍しいことではなかった。

 

・憑き物には地域ごとの傾向や特色があり、たとえば、イヌガミは四国に多いが、関東地方にはオサキ、中部地方はクダショウ、山陰にはニンコなどと呼ばれる憑き物があり、これらはキツネの霊の一種とされている。また、トウビョウと呼ばれる蛇系の憑き物は中国・四国に多く分布する。飛騨地方のゴンボダネ(牛蒡種)のように、その正体が動物霊かどうかもはっきりしない例もある。

 

<河童>

・川や沼、池などの水界に棲むと信じられてきた妖怪である。全国に伝承があるが、カッパという呼び名はもとは関東地方で用いられたもので、カワコ、カワランベ、ガメ、エンコウ、カワシソウ、ミズシ、メドチ、水虎など、地域によってじつに多様な呼称がみられる。

 

・河童の歴史はそう古いものではない。文献上の記述では文安元年(1444)序の『下学集(かがくしゅう)』という辞書にみえる「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)になる」が最古とされている。また、水辺に出没する童形の妖怪をめぐっては各地に伝承があり、前記したように種々の名称で呼ばれていた。しかし江戸時代になると、これらを実在するらしい動物と考えた本草学者(博物学者)らによって、カッパ(河童)と総称されるようになり、それが浸透して今に至ったのである。

 

・だが民間伝承には、「高名な大工が社寺や城を建立する際、木偶人形や藁人形を作って命を吹き込み、それを使役して建築を完成させた。工事後、その人形は邪魔になったので川に捨てられたが、それが河童になった」といった内容の起原譚もみられ、このことから、河原やその周辺を居処とした職能民と河童との関係性を指摘する説もある。河童の「正体」も鬼同様、一つには決められそうもない。

 河童というと川や池に棲息するものと思われがちだが、対馬五島列島では海に棲むものとされた。また、「秋は山に入り、春は川に降りる」、「猿に似ている」など、河童伝承には思いのほか多様性がある。

 

岩木山――シャーマンに霊感を授けた津軽の鬼が住まう 青森県弘前市

赤倉が岳の麓は女性シャーマンの修行場

岩木山津軽富士とも呼ばれる津軽のシンボルだが、この山には鬼が棲んでいるとする伝説が古くからある。

 

・江戸時代後期の国学者菅江真澄は寛政十年(1798)に津軽を旅した際、赤倉が岳に登っているが、「ここには鬼神がかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿を見た人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病のおこる者がある」と書き留めている。                                        

 

赤倉の鬼を祀る鬼神社

・ところが、じつは鬼神社は地元では「オニ神社」「オニガミサマ」とも呼ばれていて、今説明したものとは異なる、鬼に関連するつぎのような興味深い神社縁起も伝わっているのだ。

 

 昔、村に弥十郎という正直でおとなしい農夫がいた。ある日、岩木山の赤倉へ薪伐りに入ったが、山中で見たこともない怖ろし気な大男に出会った。これが山の大人(おおひと)(鬼)であった弥十郎はその後、大人とたびたび会って親しくなり、大人は弥十郎の家に薪をどっさり運んでくれた。さらには、田畑の開墾まで手伝ってくれた。

 

・つまり、鬼神社は赤倉が岳に棲んでいた鬼を神として祀っているのである。

 

貴船神社と深泥池――鬼の子孫が伝える古社と豆塚

貴船神社の社人・舌氏の先祖は牛鬼

・昔むかし、天上からこの地に貴船の神々が天降ったとき、仏国童子という者もともに降った。天上のことは一切しゃべってはいけないという掟があったが、童子はこの掟を破ったため、貴船大明神は怒って童子の舌を八つに裂いた。童子吉野山に逃げ込み、そこで五鬼などを従えていた。

 童子はやがて貴船山に帰り、山中の鏡岩に隠れていたが、これを知った貴船大明神は、3年後、再び童子を召し返し、仕えさせた。

 あるとき、大明神が怒って童子を鉄の弓で射、また鉄の鎖で縛りつけようとしたが、童子はこれをかわし、130歳のときには、雷とともに天にのぼってしまった。

 仏国童子から四代目の安国童子までは牛鬼の姿をしていたが、五代目から人間の姿になり、子孫代々、大明神に仕え奉った。また、先祖の苦難を忘れないために、名字を「舌」と名乗り、家紋には菱の中に八の字をもうけたものを使った。

 貴船神社の社人・舌氏の始祖・仏国童子は、貴船大明神に従って天上から降臨した異形の鬼であったというのである。鬼が「童子」と名乗っている点には、酒吞童子と通じるものがある。

 

八瀬の里――天皇行幸に供奉した鬼の子孫の故郷

延暦寺の麓にある鬼の里

・八瀬童子比叡山の門跡が閻魔王宮から帰るときに輿を舁(か)いてきた鬼の子孫だという。つまり、八瀬童子の先祖は、延暦寺の座主が冥府を往来する際に輿をかついで供奉した鬼だというのである。

 

昭和天皇の葬儀にも供奉した八瀬童子

・江戸時代の諸書によると、八瀬の人びとは髪が総髪、すなわち月代(さかやき)を剃らぬざんばら髪で、言葉も京市中とは異なり、独特の風俗を有していたという。また、村人が1年ごとに交代で神主を務める宮座が古くから営まれていたという。

 ふつうの人たちとは明らかに異なる習俗は、彼らを鬼の子孫とする伝承に説得力を与えるもので、また八瀬童子のカリスマ性を示すものであっただろう。早くから八瀬童子に注目した柳田國男氏は「鬼の子孫」という論考のなかで、八瀬童子はある神を奉じてこの地にやって来た集団であろうと指摘している。