<ニッネプリ>
・アイヌに伝わる怪異。「魔神の山」を意味する名前で、石狩方面に存在したという。この山には魔神たちが隠れ住んでおり、常に人間の世界を邪魔していた。そこでオタシトンクルというアイヌの英雄がそれを退治するため、六日六晩にわたり戦った。この戦いで多くの魔神が倒されたが、その頭領とは容易に決着がつかず、なおも激しい戦いが続いた。
<ヌプリコルカムイ>
・アイヌに伝わる神。「山を支配する神」という意味で、かつて日高の幌尻岳にいた熊だという。この熊は時を経て足から人間に変わっていき、人間の女と恋をして子どもが生まれた。その子孫は千歳に住み、今でも幌尻岳に酒を捧げる人がいるという。
・昔、平取(現沙流郡平取町)の奥にきれいな娘がいたが、どういうわけか腹が膨れてきたので理由を聞くと、毎晩若い男がやってくるのだという。
そこで集落の者たちが見張っていると、嶺上から大きな熊が下ってきて、足から順に男の姿に変化し、娘の家に入って行った。
それから娘は子どもを産み、その子孫が増えたため、この集落の人は熊の子孫だから毛が多いのだ、と言われるようになった。
<化海獣>
・和人が残したアイヌの記録に登場する妖怪。昔、室蘭に漁を家業としているシャウチクという男がいたが、ある時から急に痩せ疲れ、いつも独りで家の中にいて、誰か客を相手にしているように話したり笑ったりするようになった。
そんなある日、シャウチクの友人が彼の家に集まり、酒盛りをしたが、そこでシャウチクは自分のところに毎晩のように神様のような美しい女が来るが、最近疲れたので誰かに譲ろうと思う、などと言う。そこでその美女がどこにいるのかと友人が問うと、そこにいると言う。しかし友人たちの目にシャウチクの言う美女の姿は見えなかった。
シャウチクの話を聞き、整理してみると、船で漁をしていた彼の元にどこからともなく一人の美しい女が現れ、船に乗ってきた。それからその女は毎晩のように彼の元を訪れるようになったが、あの酒盛りの晩以来、姿を見せなくなったという。これは海獣たちのいたずらではないかと地元の老人が語ったようだ。
<パケママッ>
・アイヌに伝わる神。「頭の焼けた女」という意味で、疱瘡神(パヨカカムイ)の妻と伝えられる。静内(現日高郡新ひだか町)における話では、昔、染退川(しべちゃりがわ)(現静内川)の付近の農村にノルヤルケマッという髪の毛のない女がいたが、通りかかった疱瘡神がこの女をすっかり気に入り、疱瘡神の仲間として、新たにパケママッという名前を与えたという。
その後、パケママッは故郷の人々の夢に現れ、「これからは昔の仲間の目印として笹を束ねて家の屋根に立てなさい」と伝えた。こうすると、パケママッが病気の神に話をし、その目印のあるところには寄らないように頼んでくれると伝えられる。
<ポンモユク>
・アイヌに伝わる不思議な動物。ポンモユクは子狸を指す言葉だが、アイヌには子狸が空飛ぶ籠に乗って人間を津波から救った話がある。
天の中でも低い位置にあるランケカントという世界を領有する神の召使いであったポンモユクは、神々が人の世界は夢のように素晴らしい場所だと語っているのを聞いて、人の世界を見てみたいと思った。特にシシリムカ(沙流川)は素晴らしいと聞いたため、カネシンタ(鉄の揺り籠)に乗って人間界に降りた。そこで人間界の美しさに感動したポンモユクだったが、帰りに漁をしている人々が津波に襲われそうになっているのを見つけ、波を鉄の扇で仰ぎ、鎮めて人々を救った。これにより人間たちが崇拝する神、カムイフチに感謝され、人々からはたくさんの酒が捧げられたという。
<大女の化け物>
・和人に伝わる妖怪。檜山郡上ノ国町の石崎という場所には昔、地獄穴と呼ばれる奇怪な穴があり、その中に天をつくほどの巨大な女の怪物が棲んでいて、「大女の化け物」と呼ばれ、恐れられていた。今でもこの町では子どもが言うことを聞かないと「大女に食べさせるぞ」と脅すのだという。
しかし地元に伝わる話では、大女は身長2メートル、むき出しになった大きな目に、腰に布を巻いているという容貌であったものの、人に危害を加えることはなかったという。もしかしたら妖怪などではなく、少し他の人と容貌の異なる、普通の人間の女性だったのかもしれない。
<大人(おおひと)>
・和人が記録した妖怪。平田内(現久遠郡せたな町)の山に出現すると語られていた妖怪で、非常に大きく、口が耳元まで裂けた人間のような姿をしているという。普段は人間に化けているが、人間の背骨を抜いて殺したり、大石を落としたりすると語られていたようだ。
・大人は通常の人間より大きな人間の姿をした存在全般を指す言葉で、今でいう巨人の意味に近い。そのため大きさは様々だが、本州では山に出現する山男や山人を大人と呼ぶ場合もあった。
またアイヌに伝わる話でも山に現れ、人を殺害するキムナイヌという人型の化け物がいる。
<立石野の巨人>
・和人に伝わる妖怪。現在の松前郡松前町にある松前城の西にあった立石野には、巨人が出現したという。1775年のこと、当時10歳だった蠣崎廣時(かきざきひろとき)という人物が立石野の藤巻石というところへ野菜などを摘みに行った。すると昼を過ぎた頃に石の上に一人の男が立っていることに気が付いた。
驚いたことにその男は普通の人よりも背丈が二丈(約6メートル)余りも高く、廣山の方へ飛んでいき、そのまま山の麓を伝いながら飛行していったという。
<手長足長>
・和人に伝わる妖怪。その名の通り非常に長い腕と足を持った怪物とされ、爾志郡乙部町の貝子沢という小さな沢に現れたという。18世紀頃のこと、この怪物は夜になると貝子沢にやってきては貝を採って棲み処に持ち帰り、食っては貝殻をその辺に捨てていた。
それが何十年も続き、漁師たちは自分たちが採る分がないとすっかり困ってしまった。さらに食べる貝がなくなった手長足長が自分たちを襲って食らうのではないかと恐れ、怪物が昼間眠っている隙をついて生け捕りにして、手足を斬り落とそうなどと話し合った。しかし一人の古老があの怪物は神に違いないと言い、それに従って祠を建てたところ、手足足長はすっかり現れなくなったという。
・手長足長は日本各地に同名の妖怪が伝わるが、手が長い手長と足が長い足長の兄弟や夫婦とされることもあれば、手足が異常に長い巨人、怪物とされることもあり、その性質は地域や話によって大きく異なる。
乙部町に現れたのは二人一組の巨人ではなく、手長足長は長い手足を持った怪物であると考えられ、同書では現代で言えば怪獣と書かれていることから、巨人というより獣に近い姿をしていたのかもしれない。
<天狗>
・和人が記録した妖怪。現在の松前郡福島町にはかつて天狗が現れたという話が残されている。白神岬の荒磯山と呼ばれていた場所に天狗が飛んできて休み、檜倉の沢という奥山に入って行った。以来、人々は火が飛ぶような景色を見るようになったが、目撃した人々の中にはその天狗の姿を捉えた者もいたという。
<オササンケカムイ>
・アイヌに伝わる不思議な人々。裸族と訳される札内川上流の山の中に住んでいたという存在で、服を纏わず生活するが、冬になると獣の皮を纏ったという。そんなオササンケカムイに纏わるこんな話が残されている。
明治の中頃のこと。ヤム・ワッカ(現幕別町)に住んでいた一人のアイヌの狩人が札内川の上流に狩りに行ったときのこと、山に詳しい彼はなぜかこの日だけは迷ってしまった。
湖に辿り着き、水を飲んで一息ついていたところ、彼の背後にはオササンケカムイの女性が現れ、こう告げた。
「我々の里に入った者はここを出ることは許されない。ここを出ることは死ぬことである」
しかし狩人には妻子がいたため、女性に3日間の猶予をもらい、最後の別れをしに村へ戻り、一切のことを語って再びオササンケカムイの里へと戻って行った。それ以来、この狩人を見たものはいないという。
・『森と大地の言い伝え』によれば、この裸族の人々日は山に住む先住民族だったと記されている。
<カステン>
・アイヌに伝わる悪神。カスンデと表記される場合もある。疱瘡神(パコロカムイ)と人との間に生まれた男で、彼が歩くとどんなに暗い夜でも水面に月が浮かぶように光り輝いたという。
このカステンはイクレシェという人物を唆し、イクレシェの一族の首長を殺させ、宝物を得ようとした。しかし首長の死によりその一族がカステンに報復を行い、これを殺した。
カステンは神の子であったたため、幾度も生まれ変わったが、最後にはその上下の顎をばらばらにし、上顎を木の股枝に立てて縛り、下顎を石に括り付けて海底に沈めたことで蘇らなくなった。
しかしこの悪神の祟りにより、釧路の厚岸のアイヌたちは疱瘡を患って死に、残った者は津波によって攫われ、このために厚岸のアイヌは全滅してしまったという。
<屈斜路湖の山の神>
・和人に伝わる神。屈斜路湖畔には山で働く男たちを守る女神の伝説が伝えられている。かつてこの湖畔に仲の良い木こりの夫婦がいたが、ある時妻が山で働く夫の姿が見たいと言い出した。夫は山の神が怒ると大変だから、と説得しようとしたが、妻が納得しないので仕方なく連れて行った。そして木を切っていると、いつの間にかとても美しい女が夫の腰に抱き着いていた。
驚いた妻が「その女は ⁉」と叫ぶと、女の姿が消え、直後伐った木が夫の方に倒れてきて、そのまま押し潰してしまった。
実は夫の腰に抱き着いていた女こそ、木こりたちを守っていた山の女神だったのだという。
<座敷わらし>
・和人に伝わる妖怪。座敷わらしは東北地方、特に岩手県で語られる童子の姿をした妖怪だが、北海道でもいくつか出現した例がある。
根室市弥生町では、1901(明治34)年12月頃、真夜中の遊郭に13、4歳の坊主頭で色の透き通るように白く美しい少女が現れた。この少女は薄黄色の薄い衣物を着て袖屏風をしており、目撃した男が一度部屋に戻り、もう一度見ると既にいなかったという。
また函館市では遊郭の三階の座敷でトントンと手を叩く音がすることがあり、これが聞こえると遊郭の主人は羽織袴で料理を持って行ったという。
・この他にも江差町には、小坊主の妖怪が出ると繁盛したという座敷わらしのような性質を持つものが出た旅籠の話がある。
<シトンピーチロンノップ>
・アイヌに伝わる妖怪。太陽神であるチュプカムイに代わって天に昇り、太陽となって地上の民から尊敬されることを望んだ黒い狐とされ、チュプカムイが位を譲ろうと考えていた彼の息子のポンチュプカムイを誘拐する。シトンピーチロンノップはそのままポンチュプカムイを殺害しようと目論むものの、シトンピーチロンノップの六人の娘のうち、末の娘だけは心が優しく、ポンチュプカムイを助けてしまった。
それでポンチュプカムイを殺すことに失敗したシトンピーチロンノップは自ら天に昇り、子を誘拐されて悲しみのあまり病気になっているチュプカムイに躍りかかった。チュプカムイはそのまま地上へと落ちそうになるが、地上の民が歌を唄ってチュプカムイを勇気づけたことでチュプカムイは再び元の位置まで上昇し、また地上の村人が放った矢のうち1本がシトンピーチロンノップに突き刺さり、その真っ黒な体が大地に落ちた。
それからというもの、ポンチュプカムイは天に昇って月となり、彼を助けた末の娘が新たな太陽の神となって空を照らすようになった。
しかしシトンピーチロンノップはいまだ太陽神となることを諦めておらず、隙を狙って太陽や月に近づくため、日食や月食が起こるのだという。
<樺太>
<ウンカヨ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。子どもを背負って攫ってしまう化け物だという。
<オハチスエ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。「空き家の番人」を意味する名前で、空き家になっている家に勝手に棲み着く妖怪だという。その姿は魚皮製の粗末な衣服を纏った毛だらけの老人で、凶暴であるとされる。さらにすさまじい切れ味の刀を持ち、多くの人畜を殺傷した話が残されている。また、人の真似をよくするという性質もある。
<カリジヤメ>
・ウィルタ(オロッコ)に伝わる妖怪。人間よりも巨大な大男で、頭が尖っており、水たまりを渡らないなどの特徴がある。また血を怖がり、人間の子どもを攫い、石の家に住む。
・同様にウィルタに伝わる妖怪として巨人で子どもを攫うカリジヤメというものがいるが、名前や性質の類似点から同じものではないかと考えられる。
<雁皮の籠の化け物>
・ニヴフ(ギリヤーク)に伝わる妖怪。その名の通り雁皮でできた籠に化けた妖怪で、大木の半分はあるという巨大な人間の姿をしている。古い形の土小屋に住んでおり、化物川と呼ばれる川に現れては舟ごと人を攫い、食い殺していたという。
<グルフ>
・ニヴフ(ギリヤーク)に伝わる悪神。病気の神の中でも大将に当たり、人間に大病を引き起こすという。
<シカトロチカ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。樺太の真岡では渡り鳥の一種とされるが、疱瘡を運ぶ疱瘡神の一種とされ、人が死ぬとこの妖怪に生まれ変わることがあると伝えられていた。この鳥は子どものような声で鳴き、これが止まった集落では疱瘡が流行るという。
・渡り鳥を疱瘡神や流行病の神と見なす考え方はアイヌ全般にあり、シカトロチカに類似した妖怪にシカトロカムイがある。
<セタホロケウポ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。「犬男」を意味する。犬の毛皮を纏い、片耳に穴が開いている男の姿をしており、蕗を採っている人間を見つけると、その人間に蕗をねだり、蕗を受け取る際にその人間を引っ張って水中に落として殺す、ということを繰り返していた。
・ある時セタホロケウポは一人の娘を川に落とすことに失敗し、その娘と一緒に暮らすことになった。しかしセタホロケウポが留守の時、人間の男がやってきて、彼にセタホロケウポの正体について、彼は犬であると教えた。そしてそれが真実かどうかを知りたければ魚を食べさせてから外に出て、「日の光よ、出ていけ」と言えばいい、と告げた。
そしてセタホロケウポが仲間を連れて家に戻ってきたとき、魚を食べさせてから娘が外に出て「日の光よ、出ていけ」と告げると、男たちは外に飛び出して吠え始めた。
これにより、セタホロケウポたちは一人を除いて棒で殴られて死んでしまった。その正体はやはり犬だったという。
・最後の一人は「私が殺されてしまったら、この辺りの犬は皆いなくなってしまう」と人々を説得し、そのセタホロケウポは娘と夫婦になって幸せに暮らしたという。
<タースダーダーダル>
・サハ(ヤクート)に伝わる妖怪。地獄からやってきたという鬼であったが、空から降りてきた天の男によって懲らしめられ、地獄へ逃げ帰ったという。
<トンチトンチ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。樺太アイヌの伝説や伝承に登場する小人で、北海道のアイヌでいうコロポックルと同じものだという。
<ヌムリアンバニ>
・ウィルタ(オロッコ)に伝わる妖怪。犬を連れた化け物で、山に入るとよく遭遇したという。この犬は人間を見つけると吠え、人間がいることを知らせるという。
<バルンニクブン>
・ニヴフ(ギリヤーク)に伝わる妖怪。山に入ると遭遇するという山男で、人を襲うという。
・バルンニクブンは「山の人」を意味する言葉。山に入ると山男に遭遇するという話はアイヌのキムナイヌ、ウィルタのヌムリアンバニなど北方民族に広く伝わるほか、道南に移住した近世の和人も山に大人(おおひと)が出るという話を伝えている。
<人さらいの化け物>
・ニヴフ「ギリヤーク」に伝わる妖怪。その名の通り人を攫う化け物で、袋に子どもを入れてどこかへ持ち去るという。その姿は背が高く、目が大きい男性だとされる。
・ 山音文学会著『ギリヤーク民話』にある。この話だと単に人間の誘拐犯が現れたようにも思われるが、同書では化け物と書かれている。子どもを攫う妖怪は日本全国におり、隠し神と総称される。袋を担いで子どもを攫うものだと青森県津軽地方の叺親父(かますおやじ)、長野県の袋担ぎなどがいる。
<ロンコロオヤシ>
・樺太アイヌに伝わる妖怪。山に棲む頭が禿げた人間のような妖怪で、荷物が重いときなどに助けを頼むと手伝ってくれたりするという。
一方、禿げ頭の話だけは禁物で、山中でうっかり禿げた頭の話などしようものならロンコロオヤシが憤慨して山は荒れ、雨が降り出し、どこからか木片が飛んできたり大木が倒れたりするという。
<アラクントゥカプ>
・同じような意味の名前にアラウェントゥカプがある。
<イウェンテプ>
・アイヌ語で悪鬼、悪魔を表す言葉。
<イトゥレン>
・アイヌに伝わる怪異。憑き物が憑くことを指し、動物や物の霊が人間に乗り移ることをいう。その憑き物によって幸運、不運が左右されるという。
<イワコシンプ>
・アイヌに伝わる妖怪。山にいる妖精の類だという。海の妖精であるルルコシンプと対になる存在で、男女がいるという。
・これらコシンプの類は人間と同じ姿をしているが、色が白く、大変な美貌を持つとされる。また山に棲むコシンプは狐の姿に化けるとされる。
<コロポックル>
・アイヌに伝わる妖怪。小さな人間の姿をした存在で、アイヌの伝説に度々登場する。蕗の葉の下に暮らしており、時にアイヌを助けてくれるという。
<馬人(うまびと)>
・和人に伝わる妖怪。室町時代の御伽草子『御曹子島渡』にある。源義経が、蝦夷が島(北海道)に至る途中に訪れた馬人島という島にいたものたちで、腰から上は人間、下は馬という姿をしている。馬と人の間に生まれたためこの島に流されたのだという。同書では複数いることが記されている。
<河童>
・アイヌ、和人に伝わる妖怪。アイヌにおいてはよく水の妖怪が河童と訳される。『アイヌ伝説集』によれば、新冠町の新冠川の河口にある判官岩の下には昔から河童が出るといわれている。
・同書によれば位高の染退川(しべちゃがわ)(現静内川)にも河童がいたといい、この川では不漁となることはないが、必ず1年に一人か二人、川で命を失ったのだという。これは旭川で人間の女の家に婿入りした河童が、川で死人を出すことと引き換えに豊漁になるようにしていたが、それがばれて石狩川を追われ、染退川に移って同じ悪さをしているからなのだという。
同書ではほかにも石狩川に棲む河童は頭が禿げていて男女がおり、男は人間の女に憑いたり、女は人間の男を籠絡するなどするが、巨鳥フリーから人を守るためのお守りを授けた話もあるという。
<アイヌの世界観>
・アイヌの人々は、自分たちの住む世界をアイヌモシリ(人間の世界)と呼び、その下にも上にも世界があると考えていた。
下にあるのは死者の国であるポクナモシリ、英雄などに倒された悪神や化け物が堕とされるテイネポクナモシリと考えられていた。
一方、天にはカムイモシリ、すなわち神の国があると考えていた。また、天の国はさらに六層に分けられるとされる伝承もあり、その場合、カムイモシリは最も高い位置に存在するという。
このカムイモシリからアイヌのカムイたちは度々地上に降りてくる。カムイはカムイモシリにおいては人間と変わらぬ姿をしており、家を持っていて、衣服を着て生活する。しかし地上に降りる際には様々な姿になる。
例えば熊の神は黒い毛皮を纏い、ヒグマの姿になって地上に降りる。
『たどりついたアイヌのモシㇼでウレシパモシリに生きる』
水谷和弘 はる書房 2018/10/12
<縄文・アイヌ文化を伝える土地に住む>
・10年ほど前に私は8年間借りていた荷負の家を買いました。その我が家の土地と家の周りの私が管理している畑から石器をはじめ多彩な物たちが出土します。
磨石や石皿、削器(スクレーパー)、石斧、ナイフ型石器などの遺物が出てきた場所は山の中腹、周囲は畑と山林で小高い山も奥にあります。細石器も数多く、石器の加工場があったことが分かります。アオトラ石や黒曜石の石器の完成美品も出てきました。
この地域に現在3世帯しか暮らしていませんが、かつてはアイヌの世帯が53あったと聞きます。私の畑のあたりは、エカシ(長老のこと、ホピポイ部落長)が住んでいた所だとアイヌの古老の男性が教えてくれたことがあります。
・石器以外にも土器も多数破片で出土していて、平取町立歴史博物館に預けてあります。その土器片は沖縄中期から擦文時代のもので、さらに収集した、もしくは収集しきれない陶器と石器のスクレーパーなどを造ったときに生じる細片が畑から出ます。
近隣には「荷負2遺跡」と「荷負小学校遺跡」と「荷負ストーンサークル跡遺跡」がある。平取町全体で100を超す遺跡があるという話です。我が家の周りに盛土が崩れないように設置された石も、元はストーンサークルの石だったと知人は言っています。さらに古老から、平取にストーンサークルは13ヶ所あったと聞かされました。
・また、我が家から200メートル離れた所に湧き水がありますが、その水は大切に利用されてきたと思います。元の家の持ち主曰く、家より25キロほど離れた岩志地という所にある鍾乳洞の絵が描いてあった岸壁は戦争中セメントを作るため壊したが、家の入口に置いてある石はそこの鍾乳石だと教えてくれました。絵は見ることができませんが、その鍾乳石はいまだに私の家にあります。
縄文時代の生活道具――石器だけでなく土器(草創期から晩期)、また擦文土器、そしてかなり古い陶器の破片からビール瓶やガラス片までが出てくる。そんな大地に私たちは住んでいるのです。
・かつて、ここはホピポイ部落と呼ばれていました。でも、アイヌ語のホピポイの意味は私には判りません。しかし、アイヌ語地名を漢字にして当てはめるとき、ニオイを荷負(逆から読むと負荷)とするとは、なんて先住民族アイヌに対して失礼な卑劣なことでしょうか。こんなところにも、言葉が奪われ文化が奪われている。土地が盗られ、心が囚われていったことを私なりに知りました。
・ちなみに、ニオイとは樹木が多い所、あるいは木片がごちゃごちゃある所という意味があるとか、のようです。ニオイに限らず北海道の地名はアイヌ語由来が多く、市町村名のおよそ8割がアイヌ語から来ているそうです。
私の畑から出てくる遺物はさまざまな時を刻んでいます。すなわち、この場所は縄文の草創期より近現代までの複合施設だということです。そして、縄文人=アイヌであることを間違いなく証明できる遺跡なのです。
なお、擦文土器というのは、北海道や東北北部で出土する土器のことで、木のヘラで擦った文様が多く見られたので名付けられたといいます。そして、この土器の使われた7~13世紀の文化を特に「擦文文化」というようです。13世紀後半からは「アイヌ文化」という名でくくられて、北海道全体がこの文化を共有することになったといわれています。
・17日の北海道新聞朝刊が、日高管内平取町の沙流川水系額平川の支流で、縄文時代の石斧材料として重要な「アオトラ石(緑色片岩)」の露頭が確認されたことを報じていた。
・なお、このアオトラ石はアイヌ文化期にも丸木舟の製作に用いられていたという。いくらでも鉄器があった時代なのに、にわかに信じがたいが、何か丸木舟製作に特別な信仰との関わりがあったのであろうか。
<“民族”として根源に繋がっていればいい>
・「アラハバキ」を絆につながる民族、東北{蝦夷}も、三内丸山の時代――縄文時代前期にはすでにアイヌと交流があった。このことは北海道アイヌの大地から出た「宝物」=黒曜石・アオトラ石が、津軽海峡を渡り本州各地に旅をしていることで分かる。
つまり、本州の遺跡から北海道産出と分かる黒曜石・アオトラ石が出土しているのだ。黒曜石・アオトラ石は狩りの道具や武器に加工でき、また穴開けや肉削ぎ等の各種道具になり、鉄器が一般に流通する室町時代以前、貴重な物であった。
<伝統儀式か無用の殺生か、生きることは殺すこと>
・2007年4月、北海道は知事名で、1955年に支庁長と市町村長に対して出した通達を撤廃した。アイヌのイオマンテを野蛮だと事実上禁止した通達だ。これには北海道アイヌウタル協会の撤回要請があったようだが、道が国に諮って動物愛護管理法に抵触しないという判断も出たことで撤廃したという。
が、このニュースが流れると、ウタリ協会や知事に抗議の電話やメールが相次いだという。ネット上でも、批判や誹謗が渦巻いていた。もちろん、撤廃を支持する声も上がる。
・イオマンテは?「カムイ送り」、神の国に<カムイを>返す儀式です。クマ<キムンカムイ>とともに暮らし、ともに遊び、ともに苦しみ、ともに生きる、心と心がつながり一体になる。
生きるということは、殺すことを内包する。殺さなくっては生きていけない。
<季節を知るアイヌの星座>
・印象的なのは北斗七星の話です。北斗七星はチヌヵルクㇽ[我ら人間の見る神]という名の星座ですが、その姿を見せるとき、冬はクットコノカ[仰向けに寝る姿]、夏はウㇷ゚シノカ[うつ伏せに寝る姿]と呼ばれる。星の1年の奇跡が、あたかも神が寝姿を変えて季節を教えてくれるというわけです。
<聖なる地、コタンコㇿカムイが来るところに>
・ソコにはシマフクロウがやってくる。ソコには白いカラスがやって来ている、そうです。
私は、鳥が来る意味を聞きそびれましたが、おそらく八咫烏神話と似たように、カムイの伝言をする聖なる鳥だと思う。
八咫烏は、熊野本宮大社の主祭神、素戔嗚尊のお仕えで、太陽の化身(太陽の黒点だという説もある)、導きの神だという。日本サッカー協会のマークに使われたので有名になったが、あの3本足は天・地・人を現すとか。
シマフクロウは、アイヌ語でコタンコㇿカムイ=集落(部落)を護る神さまだ。カムイチカㇷ゚=神の鳥とも呼ばれる。知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』に収められた「銀のしずく降る降るまわりに」も、コタンコㇿカムイが主役で登場する。
古代の“日本人”は鳥に霊能力があるとしていた。八咫烏が、ほぼ伝説の初代天皇を熊野から大和へ導いたというのだから。ほかにも古神道とアイヌの世界観は共通項が多いと思う。
シンクロが当然のように起きていた。ソコではエカシ(先祖の翁)がいつも祈りを捧げている、エカシがソコに居るようだった。
聖地はなにげなくソコにある。磨き抜かれた聖地。それらの聖地はすべてつながり、聖地の経路をつくっていることをタモギタケが教えてくれた。
<良き隣人ではなかった和人>
・北海道に移り住み20年ほどですが、アイヌに対して、いまだ勘違いな歴史観を持っている日本人がいることを時折強く感じます。
・まだ茅葺きの家に暮らしている――日本人と違わない暮らしをしています。
・土人という表現を聞くことがある――非道な同化政策のなかで定められた「北海道旧土人保護法」を引きずった誤った表現です。
・純粋なアイヌはいない――アイヌ民族はいますし、血の濃さで決めることは誤りです。
伝統的生活空間(イオル)・伝統文化も含んで考えます。多神教アニミズムのアイヌの世界観を持つアイヌ文化を大切に暮らす者も含むと私は思っています。
・アイヌ文化は一つだ――本来は長を中心に置いた家族単位の共同体が育む部族文化です。したがって、共通の基層文化はありますが、部族によって、言葉や儀式、習俗、刺繍や文様、さまざまな異なる面を持っています。
・アイヌは乱暴者――どこからそんな考えを仕入れてきたのでしょうか。中央政権に服わぬ民という政権側の見方を受け継いで、無自覚のまま敵対しているところから出た表現なのかもしれません。
・搾取と自然破壊を行なう「良きシサムではない」敵対する和人に対して、服わぬ民は戦で臨み、あるいは集団蜂起をしました。よく知られているものでは、東北での東北アイヌ=蝦夷の阿弖流為の戦いと、蝦夷地でのアイヌによるコシャマインの戦い、シャクシャインの蜂起、クナシリ・メナシの蜂起があります。
<オキクㇽミカムイは宇宙人なの?>
・平取町は、現在もアイヌ民族が多く暮らしていることで知られている。
私が住む平取町荷負には、「オキクㇽミカムイのチャシとムイノカ」があります。2014年には国指定文化財「名勝ピㇼカノカ(アイヌ語で美しい形)」に加えられています。
・チャシとは居城や祭祀の場などを言い、平取町にはその跡がたくさんあります。オキクㇽミカムイの居城と伝えられる美しい崖地には、蓑の形をした半月形の岩があります。ムイノカは蓑のことで、ここにオキクㇽミカムイが妻と住んだと言われ、蓑は妻が置いていったものだそうです。とても大事にされ、祀られてきた場所であり、この地域の人びとから敬意が払われていたとのことです。
「オキクルミ」は「カムイユーカラ」(神謡)に登場する人間(アイヌ)の始祖となる英雄であり、アイヌに生活文化や神事を教えました。「アイヌラックル」の別名とも言われますが、こちらは「人間くさい神」。また、知里幸恵さんのアイヌ神謡集では、「オキキリムイ」と表記されています。
・オキクルミはシンタ(ゆりかご)に乗って東の空から降臨したという言い伝えもありますし、アイヌラックルは燃え盛る炎の中から生まれたと山本多助さんの記した「アイヌ・ラッ・クル伝」にあります。ネットで検索してみると、次のような面白い紹介がありました。
・義経神社は、寛政10年頃、近藤重蔵が源義経公の像を寄進して創立したとされる古社である。一般に義経は奥州平泉で自刃したとされるが、実は密かに三廐から蝦夷地に渡ったとする義経北行伝説が古来よりまことしやかに伝えられている。
もともと平取にはアイヌ民族の始祖に関する伝説が多く、神社のあるハヨピラ(武装した崖の意)もアイヌの文化神オキクㇽミカムイが降臨した土地と伝えられていた。オキクㇽミカムイは家造りや織物、狩猟法など様々な知恵をアイヌに授け、アイヌ民族の生活の起源を拓いたとされる神である。そこに義経北行伝説が入り込み、知人がアイヌを鎮める政策としてオキクㇽミカムイと義経が意図的に結びつけられ、いつしかアイヌはオキクㇽミカムイと義経を同一視するようになった。明治11年に平取を訪ねたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと、当時のアイヌは、義経を自分たちの民族の偉大な英雄としてうやうやしく祀っていたことがわかる。
・古代遺跡とUFOは何らかの関係があるということは現代においても否定しがたいものがあるが、UFO研究団体CBA(コズミック・ブラザーフット・アソシエーション、宇宙友好協会)は、各地の民族伝承を調査する中で、アイヌの文化神オキクㇽミカムイの伝説に着目、オキクㇽミカムイは宇宙人であると結論づけた。
・義経が自害せず北へ逃げたという「義経北行伝説」は江戸時代から広められ、北海道から海を渡ってチンギス・ハーンになったというお話もあるほど、蝦夷地でカムイになっても不思議はないかもしれませんが、アイヌの人たちはどう思ったのでしょうか。
2006年にプレステで発売された「大神」というアドベンチャーゲームには重要なキャラクターとして「オキクルミ」が登場します。炎の中から生まれたり、生活文化を伝授したり、大活躍するオキクㇽミカムイを宇宙人と見るのは、ナスカの地上絵と宇宙人を結びつけるのと近い感性なのでしょう。いずれにしろ、オキクㇽミカムイはアイヌの人たちにとっては身近な存在なのだと思います。オキクㇽミは実は宇宙人だったという話には、私はロマンを感じないのですが。
<森町の環状列石と私の夢>
・北海道一の規模、森町にある環状列石は、過去に拘束道路建設のため破壊の危機がありました。
ある日、運転手兼同行者としてアイヌの友人に連れられ、森町の役場、教育委員会に赴きました。アイヌの彼は、そこで「俺の先祖の墓であり、貴重な考古学的資料となる環状列石を破壊するな、むしろ観光の資源とせよ」と申しいれたのです。その夜、私は、こんな夢を見ました。
部族に飢饉が襲い、疫病が流行ります。長がシャーマンに懇願すると、シャーマンは精霊を呼びます。そして、部族に住むすべての民が各々大小の石を持ってシャーマンのいる広場に集まってきます。病気の者もおぶわれながら、あるいは足を引きずりながら小石を大切そうに持ってきました。すべての民が揃うと、輪になって祈りを捧げ、シャーマンを通して精霊の声を聴きます。その導きに従って、部落のみなが新しい地へ移動することになり、その列が続きます。
義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日[1])と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。
(室町から現在までの大まかな流れ)
源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。
江戸時代中期の史学界では林羅山や新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され徳川光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者の新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。
沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏の近藤重蔵や、間宮林蔵、吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には『金史別本』の内容が広まり、幕末まで源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。
シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。小谷部や末松らは、この説に関連し軍功に寄与したため勲章を授与されてもいる。義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。
明治以後の東洋史などの研究が西洋などから入り、史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北・北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。
戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説はとしてアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなっている。現代では、トンデモ説、都市伝説と評されている。
(新井白石)
新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いている。しかし義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。
『図解 アイヌ』
角田陽一 新紀元社 20187/7
<天地の図>
・アイヌモシリ(人間世界)からふと空を見上げてまず目に入るのはウラルカント(霞の天)。春の訪れとともに靄が湧く空だ。続いてランケカント(下の天)、人間世界の山頂近く、黒雲が渦巻き白雲が乱れ飛ぶ空。その上はニシカント(雲の天)、ここは英雄神アイヌラックルの父であるカンナカムイ(雷神)の領分だという。その上がシニシカント(本当の空の天)、チュブ(太陽)とクンネチュブ(月)が東から西へと歩む空。さらにその上はノチウカント(星の天)ここまで上がれば、もう人間は息ができなくなる。さらにその上が最上の天上界であるリクンカントシモリ(高い所にある天界)だ。カントコロカムイ(天を所有する神)の領分で、人間の始祖が住む。金銀の草木は風を受けてサラサラと鳴り、川も文字通り金波銀波を立てて流れ下る。以上、六層の天上界だが、アイヌ語で「六」は「数多い」との意味を併せ持つため、必ずしも六層でなくても良いともいう。
・一方でアイヌモシリの下、死者の国であるポクナモシリ(あの世)は、人間世界同様に山川に草木があり、死者の魂は生前同様に季節の運行に合わせて暮らす。だがその運行は人間世界とすべて反対で、この世が夜ならばあの世は昼、この世が夏ならあの世は冬になるという。そしてポクナモシリの下はテイネポクナモシリ(じめじめした最低の地獄界)。英雄神に退治された魔神や生前に悪行を重ねた者が落ちるところで、落ちた者は決して再生させてもらえない。
<カムイモシリ>
・野生動物とは、神が人間に肉と毛皮を与えるためにこの世に現れた仮の姿である。神の本体は天界で、人間と同様の姿で日常生活を営んでいる。そんな神の世界こそがカムイモシリ。山中に、海中に、天空に神が遊ぶ。
- 神は神の国で、人間同様の生活をしている
カムイモシリとは、カムイ(神)が住まう国。アイヌ伝承における「天界」だ。それは文字通り天空にある。一方で人間世界に住まう熊の神のカムイモシリは山の奥の水源にあるともされ、そしてレプンカムイ(シャチの神)など海神の住まいはならば海中にあるとされている。
ここで神々は人間同様の姿で、人間同様に住まい、着物を着て暮らしている、というのが伝統的なアイヌ文化における神の解釈だ。熊の神ならば上等の黒い着物をまとい、天然痘の神ならばあられ模様の着物を着ている。そんな姿で男神なら刀の鞘に入念な彫刻を施し、女神ならば衣装に心を込めた刺繍を縫い描いて日がな一日を過ごしている。そして窓からははるか下方に広がる人間世界を眺める。
・神は空飛ぶシンタ(ゆりかご)に乗ってカムイモシリと人間界、さらには地下のポクナモシリ(冥界)を自在に行き来するが、人間が生身でカムイモシリに行くことはできない。人間が天界に行くためには肉体と魂を分離、つまり死ななければかなわない。
<コタンカラカムイ>
・天地創造の神・コタンカラカムイ。巨大な体躯と寡黙な仕事ぶりを武器にアイヌモシリの山河を築き、人間を生み出した。しかし聖書の神のような絶対的な創造主ではないのが特徴。
- アイヌモシリを創造した巨神
コタンカラカムイという言葉を訳すれば「村を作った神」。しかし彼が作り上げたのは一村落のみならず天地全体。つまりアイヌ神話における創造神である。そのためモシリカラカムイ(国を作った神)の別名を持つ。だが万物の創造主ではなく、天界の神の命を受けて創造業務を請け負ったとされる。巨大な容姿の男神で、海を渡っても膝を濡らすことがなく、大地を指でなぞった跡が石狩川になり、鯨をそのまま串焼きにして食べたという。
・コタンカラカムイは楊の枝を芯にして土を塗り付け、人間を作った。だから人間が年老いれば、古い楊のように腰が曲がる。そして地上に近い、草の種の混じった土でアイヌ民族を作ったので、アイヌは髭が濃い。和人の髭が薄いのは、地中深い、草の混じらない土で作られているからだ。
<チュプカムイ>
・天空を照らす太陽を司るチュプカムイ。女神であるとされ、アイヌ民族は太陽の昇る方角を神聖なものとした。日の神が魔神に誘拐されれば天地は暗闇に包まれる。それが日食である。
- 天地を黄金色に染める女神
太陽はアイヌ語でチュプと呼ばれる。その太陽を司る神が、チュプカムイ。一般的には女神とされている。
<ポクナモシリ>
・死者はポクナモシリへ行く。人間世界と同様に季節があり、人は狩りや山菜取りで永遠の時を過ごす。一方で悪人や正義の神に退治された魔神が落ちるのはテイネポクナモシリ(最低の地獄)、湿気と臭気が覆う世界だ。
- この世とあの世は、すべてがアベコベ?
明治初期、布教活動の傍らでアイヌ文化を調査した英国人宣教師、ジョン・バチュラーの書籍によれば、アイヌにとっての「あの世」は3種類ある。ひとつは善人の魂が向かうカムイモシリ(神の国)、次に普通の人が行くポクナモシリ、そして悪人や退治された魔神が落ちるのがテイネポクナモシリである。だが、カムイモシリは外来宗教の「極楽」「天国」の影響から生まれたもので、本来はポクナモシリとテイネポクナモシリの2種のようだ。
ポクナモシリはアイヌモシリ(人間世界)同様に草木が生い茂り魚や獣が遊び、死者はその中で、生前同様の暮らしを永遠に続けるという。
・人間世界同様、あの世でもコタンコロクル(村長)が集落をまとめ上げるが、閻魔大王やギリシャ神話のハデスのように、死者の国全体の長はいない。そして面白い事に、現世の事があの世ではすべて反対になる。この世が夜なら、あの世は昼。この世が夏なら、あの世は冬になる。だから死者が来世で不自由しないよう、夏に死んだ者は冬靴を履かせた上で埋葬したという。
<オキクルミ>
・雷神がハルニレの木に落雷して生まれたオキクルミは、アイヌラックルの別名を持つ。陽の神をさらった魔神を退治する英雄であり、ユーモラスなトリックスターでもある。アイヌ神話における文化神、英雄神。
<落雷の炎から生まれた英雄神>
・成長した後に、再度天下り、人間たちに火の使用法や家の作り方、狩りの方法、そして天界から密かに盗み出した穀物の種を元に農業を伝え、ともに平和に暮らした。だがある年のこと、豪雪によって鹿が大量に餓死し、アイヌたちは飢餓に苛まれる。そこでオキクルミの妻は椀に飯を盛り、家々の窓から差し入れて施しを始めた。だが不埒な男が椀を持つ手の美しさに見とれ、家に引き込もうとする。その瞬間に大爆発が起き、男は家ごと吹き飛ばされてしまった。オキクルミ夫妻はこの無礼を怒って天界に帰って行ったが、人間を見捨てることなく神聖なヨモギを束ねて人形を作り、自身の身代わりの神として地上に残していったという。
・ところでオキクルミにはサマイクルという兄弟、もしくは相棒がいたとされる。北海道胆振日高地方ではオキクルミは正義、サマイクルは乱暴者で間抜けとされるが、逆に北海道東部や石狩川上流ではサマイクルが正義、オキクルミは間抜けとされている。石狩川上流、カムイコタンで川を堰き止めて村の滅亡を企んだ魔神を退治したのは、サマイクルである。
<ミントゥチ>
<河童は北海道の河にも棲む>
・河童は日本各地に伝承がある。だが「カッパ」の名称は関東周辺で、九州ではカワタロウがガタロ、中国地方ではカワワラワ、東北地方の北部ではメドチとそれぞれ名前も変わる。北海道のアイヌ伝承にも、「カッパ」に該当する妖怪がいる。それがミントゥチだ。
<キムンアイヌ>
里には人間が住む。一方で山には人とも人外のものともつかない者が住んでいる。そんな「山人」の伝説は日本各地に残るが、アイヌの伝説にも同様の逸話がある。それが「キムンアイヌ」……山の人だ。
- 山中に棲む人外の巨人
・柳田国男の『遠野物語』には山中に住む人とも妖怪ともつかない存在「山男」が登場するが、同様の逸話は日本各地にある。優れた体格の男性(女性がいるかは不明)で、衣服を着ている場合もあれば半裸の場合もあり、
餅や煙草を差し出せば山仕事を手伝うなど、人間に対しては概して友好的である。そんな山人、山男の逸話はアイヌ伝説にもある。
・キムンアイヌ、訳すればそのまま「山の人」。里の住人の3倍の体格を誇り、特別に毛深く、口から牙がつき出している。着物は着ているが、何を素材にした布地か毛皮かはわからない。腕力にも優れ、鹿でも熊でも虫のように捕えてしまう。時には人を殺して喰らうこともある。だが煙草が大好物で、煙草を差し出せば決して悪さをしない。
・刺青や耳輪はしない。時に人間をさらって自分たちの仲間に加えるが、そんな者は刺青や耳輪をしているからすぐに判る。(女性の個体もいる?)
・樺太のキムンアイヌは訛ってキムナイヌと呼ばれ、さらにロンコロオヤシ(禿げ頭を持つ妖怪)の別名通りに頭頂部が禿げあがっている。彼らは人間に友好的で、重い荷物を代わりに背負ってくれる。
<ウェンカムイ>
<アイヌ世界の神は、豊穣の神ばかりではない>
・「ウェン」とは、アイヌ語で好ましくない状況全般を意味する言葉である。ウェンカムイとは、精神の良くない神、つまり邪神や魔神の類である。
・神は人間に豊穣のみを約束するものではない。人間にあだなす魔の神、悪霊、それこそがウェンカムイである。太陽を誘拐する悪の権化から、水難事故や病魔を運ぶ疫病神まで、自然界は悪魔に充ち溢れている。
<コロポックル>
<「かわいらしい」だけではない小さき人>
・アイヌの伝説には、コロポックルと呼ばれる小さき人が登場する。一般的には「コル・ポ・ウン・クル」(蕗の葉の下の者=蕗の葉よりも背が低い人と紹介され、北海道の観光地では蕗の葉をかぶったキャラクターの木彫などを目にすることも多い。
・童話作家の作品にも登場するアイヌの小人伝説「コロポックル」。その実態は「かわいらしい」ばかりの物ではない。正体は千島列島北部のアイヌか?伝染病を恐れる彼らの風習が物語として伝えられた?
<パコロカムイ>
・中世から近世にかけて北海道に伝来し、アイヌ人口減少の一因ともなった天然痘。アイヌはあられ模様の着物を着た疱瘡の神「パコロカムイ」の仕業として恐れ、患者が出れば全村で避難するなど策を講じた。
- アイヌモシリに災厄をもたらす疫病神
天然痘が北海道に侵入したのは鎌倉、室町時代と考えられる。江戸時代寛永元年(1624年)の記録に「蝦夷地痘疹流行」の一文が初めて現れる。以降、江戸時代を通じて流行が繰り返され、和人との交流が盛んな日本海沿岸においては特にアイヌ人口が激減する原因ともなった。
アイヌ民族は天然痘を「カムイタシュム」(神の病)と呼んで恐れ、パコロカムイのしわざと信じた。
・幕末になって時の函館奉行がアイヌ対象の大規模な種痘を行い、明治以降に種痘が義務化されるに及び、パコロカムイの影は去ることになる。
『図説 日本の妖怪百科』
宮本幸枝 Gakken 2017/6/6
<相撲好きでおとなしい ケンムン>
・「ケンムン」は「ケンモン」ともいい、奄美諸島一体で伝えられる妖怪である。
奄美の民話では、ケンムンは月と太陽の間に生まれたが、天に置いておけないため、岩礁に置いてきたと伝えられる。しかし、海辺ではタコがいたずらをしにくるので、ガジュマルやアコウの老木に移り棲むようになったという。
その姿は小児のようで、足が長く、座るとひざが頭を超す。髪や体毛が赤く、よだれは青く光るという。猫のような姿であるという話も多い。
ケンムンの中には、頭に皿を持っているというものもあり、人に相撲を挑んだりするなど、「河童」によく似た習性が伝えられている。相撲をとるときは皿を割れば勝てるのだが、負けたケンムンが一声鳴くだけで、何千何万とケンムンの仲間が集まってくるため、手加減する必要があるのだそうだ。
また、ケンムンと漁に出ると、大漁になるが、とれた魚はすべて片目がとられているという。棲んでいる木を切られた際には、切った人間の目を突くといわれており、目に何か特別なこだわりがあるようだ。
ケンムンは、もともとおとなしい性格で、人を害することはあまりないといわれる。第2次世界大戦前まではよく目撃されていたらしいが、GHQの命令により奄美のガジュマルの木が大量に伐採されたことを機に姿を消したという。
<ガジュマルの木に棲む精霊 キジムナー>
<沖縄県のマジムンの代表格>
・ガジュマルの木に棲み、長く赤い髪をした子どものような姿をしているという沖縄県の妖怪「キジムナー」は、鹿児島県の「ケンムン」や「河童」と似た姿や習性が伝えられている。
その呼び名は同じ沖縄県内でもさまざまで、「キムジン」「ブナガヤ」「セーマ」「アカガンター」などとも呼ばれる。人をだましたり、いたずらをすることが好きで、仲良くなると山仕事や漁を手伝ってくれるなど、人間ととても親しい存在だったようである。タコを非常に嫌うといい、キジムナーがいたずらをしないように、赤ちゃんにおしゃぶりの代わりにタコの足をしゃべらせることもあったそうである。
旧暦8月10日のヨーカビーには、キジムナーが点す“キムジナー火”が現れるといわれ、その火は触っても熱くなく、海に入っても消えないといわれた。
・昭和の時代に入ってからも、沖縄の子どもたちのあいだでは“キジムナーの足跡を見る”という遊びがあったという。その方法は、まず、薄暗く、静かな場所で円を描いて小麦粉などの白い粉を撒く。円の中心に、火をつけた線香を立てておき、呪文を唱えて隠れる。20数えてその場所に戻ると、小麦粉にキジムナーの足跡がついているという。
・また、沖縄県北部の大宜味村では、専用の小屋を建ててブナガヤが出てくるのを夜通し待つ「アラミ」という風習が戦後まで行われていたそうだ。
『琉球怪談』 現代実話集 闇と癒しの百物語
小原猛 ボーダーインク 2011/2
<キジムナー>
・たとえば沖縄でもっとポピュラーな妖怪であるキジムナーは、戦後という垣根を越えると、急激に目撃例が減少している。取材していく中でも「戦前はキジムナーがいっぱいいたのにねえ」「戦後すぐはいたけど、もういないさ」という、オジイ、オバアの声を聞いた。
もしかしたら戦争でのウチナーンチュの意識が変わり、キジムナーの存在を受け入れなくなってしまったのかもしれない。沖縄戦、という次元を超えた壁が、怪の世界にも立ちはだかっていることを、身を持って実感した。
<戦後の駄菓子 キジムナーのはなし1>
・Nさんはとある離島の出身である。
Nさんのまわりでは小さな頃から、キジムナーの話は日常的に伝えられてきたのだという。
その昔、キジムナーは家々を回り、さまざまな人々と物々交換をしていたのだという。
・島のキジムナーは、本島のキジムナーのようにガジュマルの樹を住処とせず、洞窟の中で暮らしていたという。
戦前までは、むらを訪れては食べ物を交換したり、人間に火を借りにきたことさえ、あったのだという。そんなキジムナーも、戦後はぱったりと現れなくなった。
だがNさんは、幼い頃にキジムナーを一度だけ見たことがあるのだという。
夕暮れどき、Nさんがまだ子どもの頃、実家の家の近くの浜辺で遊んでいたときのこと。
一人のキジムナーが、森の中から現れて、Nさんのほうをじっと見ていたのだという。友達数人もその場所にいたが、彼らにはキジムナーを見えるものと、見えないものに分かれたのだという。見えたもの代表として、Nさんはキジムナーに声をかけることになった。
Nさんは、知っている限りの方言でキジムナーに挨拶をしたが、どれも無視されてしまった。
友達の一人が、駄菓子をくれたので、Nさんはキジムナーのそばまでいって、駄菓子をあげたのだという。
するとキジムナーはそれを奪ってから、すばやく林の中に逃げていった。それが、おそらく島で見られた最後のキジムナーに声をかけることになった。
それ以来、キジムナーを「感じた」とか、「らしき影を見た」という話は、何度も耳にしたそうだが、キジムナーに正面で出会ったという話は、あまり聞かれない。
<小便 キジムナーのはなし2>
・Tさんが子どもの頃、Fくんという友達がキジムナーが棲んでいたといわれているガジュマルの木に立小便をしたそうである。
友達は、えい、キジムナーなんていないさ、怖くない、と大声で叫びながら、木の周囲に小便を輪のようにひっかけた。キジムナーを見たことはなかったが、信じていたTさんは怖くなって一目散に家に帰ったという。
夕方、気になったTさんは、小便をかけた友達が住んでいる団地へ行ってみた。
・すると、部屋の中は見えなかったものの、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についているのが見えた。
まるでニワトリの足のような、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についていた。
・次の日、Fくんは学校を休んだ。そして次の日も、次の日も学校を休んだ。
結局、1週間学校を休んで、帰って来たときにはゲッソリと痩せていた。
学校で久しぶりに会ったFくんは、Tさんにこんな話をしたそうだ。
小便をかけてしばらくすると、気分が悪くなってきた。
家に帰ると、立てなくなってそのまま寝込んだ。
母親がどうしたのかと聞くので、しかたなくガジュマルに小便をかけた、と本当のことを言った。母親はあまり迷信を信じるほうではなかったので、風邪ぐらいにしか考えていなかった。
ところが、Fくんが寝ていると、ベランダにまっ赤なキジムナーが何人もやってきては、ガラスをぺちゃぺちゃたたき出した。母親も一緒になってそれを見たので、すぐさま知り合いのユタを呼んで、その夜にお祓いをしてもらった。
ユタがいうには、この子がしたことは悪質だったから、お灸をすえる意味でも、1週間は熱を引かさないようにした、とのことだった。
その言葉通り、Fくんはちょうど1週間後に熱が引き、学校に来ることができたという。
<赤ら顔 キジムナーのはなし3>
・Wさんが子どもの頃、学校に行くと、友人の一人がおかしなことになっていた。
顔は赤く晴れ上がり、はちきれんばかりにバンバンになって、非常に苦しそうだった。本人も、息ができんし、と喘いでいる。先生が寄ってきて、どうしたね、と聞くと、その生徒はこんな話をしたそうだ。
朝起きてみると、顔が赤く腫れ上がって、息ができない。オバアに相談すると、「これはキジムナーが悪さをしているから、ユタに見てもらいに行こう。ただし、そのユタは午後からしか見れないから、昼過ぎに学校に迎えに行くまで、学校でおとなしくしている」と言われたそうだ。
・次の日には、その子は何事もなかったようにケロッとして、学校に登校してきたそうである。
<今帰仁の小さなおじさん>
・Fさんが早朝、自転車に乗っていたとき、目の前の空き地に、知り合いのオジイが倒れていたという。
死んでいるのかと思って自転車を降りて近寄ってみると、酒のちおいがプンプン漂ってきた。おい、このオジイ、酔っぱらってるし。Fさんがオジイの肩に手をかけて、起こそうとしたその時。
倒れているオジイの周囲に、5人くらいの小さなおじさんが、オジイを背もたれにして座っていたのだという。
オジイを揺らしたものだから、びっくりした5人のおじさんたちは悲鳴を上げながら、一斉に走って逃げたという。
おじさんたちは空き地の中へ一目散に逃げると、そのままパッと掻き消えるようにしていなくなった。
・Fさんが眉をひそめながら自転車に戻ろうとすると、自転車の周囲にも小さなおじさんたちが複数いた。
Fさんがびっくりして「うわあ!」と叫ぶと、それに逆にびっくりしたのか、クモの子を散らすようにして逃げ去ったという。
おじさんたちは、それぞれ上半身は裸で、眉毛がつながっていたのが印象に残っているという。
<●●インターネット情報から●●>
<小さいおじさん(ちいさいおじさん)>は、日本の都市伝説の一つ。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めている。
『概要』 目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度。窓に貼りついていた、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などの話もある。ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されている。
<キジムナー(キジムン)>は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。 沖縄県を代表する精霊ということで、これをデフォルメしたデザインの民芸品や衣類なども数多く販売されている。
多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴。
『概要』 「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。
『ニッポンの河童の正体』
飯倉義之 新人物ブックス 2010/10/13
<外国の河童たち>
<○○は外国の河童? -河童は日本固有種かー>
・では日本以外の土地に河童は存在しないのだろうか?どうやらそうではないようだ。世界各地の妖怪を紹介する本や文章ではしばしば、「妖怪○○は××国の河童である」というような紹介され方がなされるように、海外の妖怪を日本の河童にあてはめて紹介することはままある。たとえば、韓国のトケビがそれである。
<「トケビは韓国の河童」か?>
・韓国の「トケビ」は山野を徘徊する小鬼で、その正体は多く血がついたことにより化けるようになった、箒(ほうき)やヒョウタンなどの日常の器物である。トケビは人間を化かしたり、道に迷わせたり、野山に火を灯したり、快音を出して驚かせたり、夜に人家に忍び込んだり、格闘を挑んで負けたりと、ほとんどの怪しいことを一人でまかなう「万能妖怪」として大活躍を見せる。そのユーモラスな風貌と多彩な行動は、よく河童と比較される。
・前項でも河童の親類として紹介した奄美のケンムンやブナガヤ、琉球のキジムナーもまた、そうした「万能妖怪」という点でトケビとよく似た存在である。小柄でザンバラ髪の童形、好物や嫌いな物がはっきりとしており、ユーモラス。人間に関わり、からかう。トケビとケンムン・ブナガヤ・キムジナーと河童とは、性格や行動が共通していることは一目瞭然である。
・しかし重大な相違点もある。トケビは器物の化け物、ケンムン・ブナガヤ・キジムナーは樹木や森林のムン(化け物)としての性格が強く、河童の存在の根幹である水の化け物という性格を持ち合わせない。性格の一致と属性の不一致が、河童とトケビの間にはある。
<「ヴォジャノイはロシアの河童」か?>
・他に多く「外国の河童」として挙げられる存在に、中国の河水鬼や水虎、ロシアのヴォジャノイやルサールカ、チェコのヴォドニーク、ポーランドのハストルマン、ドイツのニクス。フィンランドのネッキ、スコットランドのニッカールやケルピーなどが挙げられる。
これらの存在はいずれも水界に棲む存在で、人間や牛馬を水の中に引き込むとされ、彼らに挙げる季節の祭りなどが催されることなどが、河童と同一視される点である。
・しかしこうした水精の属性や行動以外の点では、河童と彼らの隔たりは大きい。河水鬼やヴォジャノイ、ヴォドニーク、ハストルマンは髭を蓄えた老人とされ、湖底で自分の財産である牛馬の群れや財宝を守って暮らし、機嫌が悪いと川を荒れさせるという固陋な存在である。ニクスやネッキ、ニッカールは成人男性の姿で現れて、荒々しく牛馬や子どもや婦女子を奪い去る肉体派である。ネッキやその同類が、半人半馬や馬に化けた姿を取るというのは、馬の姿をしていて人を水の中に誘い込むケルピーとも共通する。
・ケルピーに代表される「ウォーター・ホーズ」伝承は、ヨーロッパ各地にあまねく広がっており、龍の妖怪伝承といえば、ロッホ・ネス・モンスター、すなわち「ネッシー」である。ケルピーは河童と同じくらい、ネッシーにも近しい存在なのだ。
・ルサールカには溺死者の浮かばれぬ霊というイメージが色濃くついており、この点で幽霊や産女、雪女に近い属性を持つといえる。
どうやら「××の河童だ!」と言われてきた妖怪たちは、河童と重ね合わせて理解できる部分とそうでない部分とを、同じくらいの分量で持ち合わせているようである。
<やはり「河童は日本の河童」か?>
・水はわれわれの生存に欠かせないと同時に、恐るべき存在であるがゆえに、水の神と水の妖怪を持たない文化はない。そのような意味で、「河童は世界中に存在する」。
・しかし今見てきたように、そうした河童的な存在がどのような姿で現れ、いかなる言動をとるかは、文化によって全く違う。ロシアの冷たい湖水に棲むヴォジャノイは老人の姿で重々しく、スコットランドの湖沼地帯に棲むケルピーは活動的で攻撃的だ。そして里近くに多くの川や小川、沼や溜め池をもつ日本の河童たちは、人に近しく愛嬌があり、どこか深刻でない表情を持つ。一方で、日本の河童に近い韓国のトケビ、奄美のケンムンやブナガヤ、琉球のクジムナーは、水の精という性格をほとんど持っていない。
・こうした水の神・水の妖怪の多様なありようは、各々の文化において人と水とがどう関わっているかに規定されている。その意味では、「河童は日本にしかいない」。
妖怪を比較することはすなわち文化を比較することなどである。「妖怪○○は××国の河童である」という言い切りは、あまりにも大胆すぎるもの言いであるだろう。
『絵でみる江戸の妖怪図巻』
善養寺ススム、江戸人文研究会 廣済堂出版 2015/9/3
<キジムナー 琉球伝承>
・ガジュマル、赤榕、福木、栴檀の古木に棲むと言われる精霊。
姿は様々で、髪は肩まであり、全身が赤い子供、または小人で、手は木の枝のようだとも言われる。地域によっては真っ黒な大人サイズだったり、睾丸が大きいとされることもある。
木に棲んでいるが、主食は魚介類でグルクンの頭や、魚の左目が好物だと言われる。魚好きなので仲の良い漁師の手伝いをするというが、蛸や屁が嫌いなので、魚を捕っている時に屁をひると、消えてしまうらしい。
悪戯もよくする。人を誑かし、土を飯だと騙して食べさせたり、木の洞に閉じ込めたり、寝ている人に乗ったりもするし、夜道を行く人の灯を消すのも十八番だ。
さらに、木を伐ったり、虐めたりすると、家畜を殺したり、船を沈めたりもする。昼間は人間には見えないので、キジムナーの悪口を言うと、意外に側にいて聞いていて、夜になって仕返しされるという。
・越中国立山の予言神で、5年以内に疫病の流行すると予言しに現れた。自分の姿を写し、それを見れば病を避けられると告げた。
・【キジムナー】と【河童】を合わせたような妖怪。姿は様々だが、ほとんどが、5~6歳の子供のようで、全身赤みがかった肌に毛が生えているそう。頭には皿があり、油や水が入っているという。ガジュマルの木に棲み、木の精霊ともされ、勝手に木を伐ると、眼を突かれて腫れてしまうとされる。蝸牛や蛞蝓が好物で、ケンムンの棲む木の下には蝸牛の殻が多く落ちていると言われる。
河童のように相撲を取ったり、片方の手を引っ張ると、もう片方と繋がって抜けるともいう、性格は友好的だが、中には悪いのもいて、子供を攫って魂を抜くとも言われる。
・《蕗の下に住む人》の意。アイヌ以前に北海道に住んでいたとされる小人で、アイヌ伝承に登場する。
住んでいたのは、北海道から樺太、南千島列島におよび、各地に伝承が残されている。蕗の下というのは、蕗を傘にしている他、蕗で屋根を葺いた家に住んでいたからとされる。身長は1尺(30センチ)くらい。それよりも小さい、1~2寸(3~6センチ)の小人は【ニングル】と呼ばれる。
・十勝地方の伝説では、コロポックルは、昼は隠れて暮らし、夜になると5人から10人くらいで、川に数艘の丸木舟を浮かべ、魚を捕っていた。捕った魚の一部はアイヌの村に持って行き、チセ(家)の戸の隙間から手だけを出して差し入れていた。これは土地の恵みを分かち合う、当然の行為だったのだろう。しかし、決して姿は見せなかった。
<座敷童 伝承 全国 妖怪、招福>
・座敷童は陸奥国(岩手県)を中心に全国で信じられている家の妖怪。座敷や蔵に棲み、その家の繁栄を守っていると言われる。
おかっぱ頭の幼児が最も多く、家によっては15歳くらいの子供もいる。また、老婆の場合もあり、性別も一定していないし、複数が現れる家もあるという。
座敷や土間で、幼い子供と遊ぶが、糸車や紙、板戸を鳴らす悪戯もする。座敷童が消えた家は、衰退したり火事や災害に見舞われるという。その場合、逃げて行く座敷童に道で出会うことがある。「何処へ行くのか?」と声をかけると、「あの家はもう終わりだ」と答えるという。
【蔵ぼっこ】陸奥国花巻、遠野の蔵に現れる座敷童。蔵の中に籾殻などを撒いておくと、朝には小さな子供の足跡が残されているという。
<覚(さとり) 『今昔画図続百鬼』 全国 妖怪>
・【天邪鬼】の類にも同名のものがいるが、こちらは唐(中国)伝承の妖怪。体中黒い毛に覆われた霊獣で飛騨や美濃の山深くなどに棲む。人の言葉を話し、人の心を読む。人に害はおよぼさず。捕まえようとしても、人間の意思を読んで、先回りして逃げてしまうという。
<天狗 伝承 全国 神、妖怪>
・天狗はもともと《隕石》のことをいい、唐(中国)伝承では虎に似た妖獣とされていた。『日本書紀』では《アマツキツネ》とされる。そのため《天狗》の字を用いる。
・やがて、仏教を妨害するとされ鳶のような姿で表わされ、次第に人間化して行った。その代表が【外道様】とも呼ばれるように、修行僧が己の知識に奢って悪心を抱いた末に、天狗と化したとされるもの。そのため知識が豊かで【神通力】を用い、弟子や家来を沢山抱える。
山岳信仰では修験道の寺院や修行僧を守り、修行の地である山の結界を管理する。一方で、天候の怪異や【神隠し】を起こすとされる。
天狗の代表は《日本八大天狗》と呼ばれる八人の天狗である。筆頭の【愛宕山太郎坊】は、京都・愛宕山に祀られる天狗で、【栄術太郎】とも言われる。
・その他に、江戸時代中期に作られた祈祷秘経の『天狗経』に《四八天狗》があげられていて、それぞれに逸話がある。さらに異名や天狗伝承は数知れない。
【尼天狗】『今昔物語集』に載る天狗。仁和寺の円堂に棲むという女の天狗。
【鞍馬天狗】鞍馬山に祀られる大天狗で日本八大天狗のひとり。牛若丸に剣術を教えたとされる。【僧正坊】や京の一条堀川の陰陽師・鬼一法眼と同じとされる。
【木の葉天狗】地位の低い天狗で【烏天狗】に似る。【白狼】とも呼ばれる。小僧の姿に化け、山を行く人や物を背負って小銭を稼ぎ、天狗の仲間達を支えているそう。
【守護神様】三河地方の天狗で、山の神とされる。毎月七日は山の忌み日とされ、入ることを避ける。
【僧正坊】鞍馬山の僧侶だったが、修行中に悟りを開いたと、自分の知識に驕り、年老いてなお死に欲を増し天狗となる。死後も僧侶の高い位に執着し続けた。
【空神】紀州の天狗。空を自由に飛ぶため、こう呼ばれる。
【天狗隠し】【神隠し】に同じ。天狗によって攫われたとする。行方不明事件のこと。
<鬼 伝承 全国>
・鬼は様々な妖怪や怪異に使われる名称。古代(平安中期以前)の王朝と闘う異部族や怪異など、外敵の他、人の心の中が変化する鬼もある。実態のあるものもあれば、実態のないものもあり、また、悪の象徴でもありながら、地獄では番人をする仏教を守る側にもいるという、様々な面で両極に存在する怪である。
牛の頭に、虎の腰巻き(パンツと呼ばれるのは明治以降)として描かれる姿は、江戸時代に固定化された。
・また、流行病も鬼の仕業とされた。他の病気は《罹る》と呼ばれるが、風邪は鬼が悪い病気を引き込むので《引く》と呼ぶ。
【青鬼・赤鬼】
・物語には、赤・青の鬼が登場する。色の他にも目がひとつや複数あるもの、口がないものなど、様々な姿が語られ、描かれ《異形》を象徴する。
【悪路王】陸奥国(岩手県)・常陸国(茨城県)の鬼。坂上田村麻呂に討たれ、鹿島神宮に納められたとされる。
【悪鬼】世に悪をバラ撒く鬼達のこと。かつて流行病は鬼の仕業とされていたので、蔓延すると、人々は鬼の退散をひたすら神仏に願った。
【一条桟敷屋の鬼】『宇宙人時拾遺物語』に登場する鬼。ある男が都の一条桟敷屋(床の高い建物)で遊女と臥していると、夜中に嵐となった、すると「諸行無常」と言いながら通りを歩く者がいるので、蔀(上げ戸)を少し開けて覗くと、背丈は建物の軒ほどあり、馬の頭をした鬼だった。
【牛鬼】石見国(島根県)で語られる。水辺で赤子を抱いた女が声をかけてきて、赤子を抱いてくれと言ったり、食べ物を求めたりする。赤子受け取ると急に石のごとくに重くなり、動けなくなったところで牛鬼が現れ襲われるという。
また、牛鬼が女に化けて出て騙す。四国や近畿地方には《牛鬼淵》や《牛鬼滝》など、牛鬼の棲む場所が多くある。
【温羅】かつて吉備国(岡山県~広島県)に渡って来た鬼の集団で、鬼ノ城を築き周辺を支配した。天王に対峙したため、吉備津彦に討ち取られた。斬られた首は死なず、犬に喰わせて骨にしても静まらず、地中に埋めても13年間もうなりを発していたと言われる。
【鬼の手形】陸奥国(岩手県)伝承。盛岡の町では【羅刹】に荒らされて困っていた。そこで、人々は町の神である《三ツ岩様》に祈願すると、羅刹はこの岩の霊力で、岩に貼りつけられてしまう。堪忍した鬼は、二度と現れないという誓いを立てて放免してもらい、その証しに三ツ岩に手形を残して行ったという。これが県名《岩手》の由来とされる。
【鬼女紅葉】信濃国(長野県)戸隠や鬼無里に伝わる鬼。平安中期のこと、公家・源経基の子を宿した紅葉は、嫉妬のために御台所(正妻)に呪いをかけ、その罪で都を追われる。鬼無里に流された紅葉はやがて怨念で鬼となり、戸隠山を根城にして、付近の村を襲った。そこで都から平維茂が討伐に出陣し、観音の御使いから授かった《降魔剣》で退治される。しかし、鬼無里伝承では、都の文化を伝えた貴女とされて、尊ばれている。
【牛頭馬頭】地獄の鬼のこと。定番の牛の頭の他に、地獄には馬の頭をした鬼もいる。
【猿鬼】能登国(石川県)柳田村を襲った、一本角の猿のような鬼。村の岩穴に棲みついたため、氏神によって弓で射殺されたという。
【瀬田の鬼】『今昔物語集』東国の国司(地方官)が都に上り、瀬田の橋近くの荒ら家に泊まった夜に出た鬼。逃げて瀬田の橋の下に隠れると、追いかけて来た鬼が、侍を見失ってしまう。しかし、何処かから声がして、「下におります」とばらしてしまう。声の主は何者か知れず、その後、国司がどうなったかも、知る者はいない。
【火の車】地獄の鬼が燃え盛る車を引いて、生前の行ないのよくない死者を迎えに来る。『因果物語』では、強欲で行ないのよくない庄屋の妻を八尺(2.4メートル)もある大きな男が連れて行ったとある。連れて行かれる先は地獄。
<河童 全国 妖怪、水神>
・河童伝承は、
1.姿の目撃談。
2.相撲を挑み、人や馬を水中に引き込む。
3.泳いで遊ぶ子供を襲い、尻の穴から手を入れて【尻児玉】を抜く。
4.女性に悪戯をして腕を斬られ、その腕を取り返すために《腕繋ぎ》の治療法を伝授する。
5.冬の間は山に住む。と多彩。
・豊前国(福岡県)の北野天満宮には河童のミイラが伝わる。江戸時代には河童のミイラは猿の赤子とエイなどを組み合わせて作られた。
【伊草の袈裟坊】武蔵国(埼玉県)の河童の親分。
【かーすっぱ】【がーすっぱ】駿河国(静岡県)、九州で使われる。《すっぱ》は忍者のこと。
【があたろう】五島列島で呼ぶ河童。河童というと、川の妖怪の印象が強いが、【海御前】が河童の女親分と言われるように、海にも多くいる。
【かしゃんぼ】紀伊国(和歌山県)、伊勢国(三重県)の河童、【山童】。芥子坊主頭の6~7歳の子供で、青い着物を着ている。
【がめ】越中国(富山県)、能登国(石川県)、筑後国(福岡県)の河童。筑後国久留米では女性に取り憑き病気にする。能登国ではよく子供に化け、越中国では鱗形の模様のある甲羅に、腹には赤いふさふさの尾があるとされ、千年生きて【かーらぼーず】になると言われる。
【川天狗】武蔵国。多摩川では悪さはしない河童。村人に熱病に効くみみずの煎じ薬を伝えた、津久井では夜の川漁に現れ、大きな火の玉を出したり、網打ち音の真似をする。
『コロポックルとはだれか』
――中世の千島列島とアイヌ伝説
瀬川拓郎 新典社新書 2012/4/24
<封印されたアイヌ伝説>
<小人伝説はおとぎ話か>
・昔は十勝川に沿ってアイヌのほかにコロポクウンクル(ふきの下に住む者)という、ふきの下に5、6人が集まって住むぐらい小さい者たちがいた。コロポクウンクルは何でも人に与えるのが好きで、ごちそうを椀に入れてアイヌの戸口のござの下から差し出し、それをアイヌが受け取って押しいただくと喜んでいた。あるときアイヌのウエンクル(悪い奴)が、ごちそうをもってきたコロポクウンクルを家の中に引っ張り入れると裸の女であった。女は泣きながら帰ったが、あとでコロポクウンクルの親方が怒ってやってくる。激怒したコロポクウンクルたちはレプンコタン(海の向こうの国)に引き上げることになり、そのときに親方が「このコタン(村)のものは、ネプチー(何でも焼けろ)、とかプチー(枯れてしまう)という名を付ける」と言う。それまではシアンルルコタンというりっぱな名前だったが、それからはこのコタンを「トカプチコタン」と呼ぶようになった(帯広市で採録)。
・この伝説を読んで、コロポックルを実在の集団であったと考える人はおそらくいないでしょう。もしコロポックルが実在の集団だったと主張すれば、それは童話であり、妖精・妖怪譚のたぐいにすぎない、と一笑に付されてしまうにちがいありません。
<封印されたコロポックル論>
・帝国大学(東京大学)の人類学教室初代教授であった坪井正五郎らは、アイヌの伝説に登場するコロポックルこそが石器時代人だったのではないか、と主張した。
・一世を風靡した小人伝説は、河野常吉が「コロポックルはアイヌの小説なり」と坪井を強い調子で批判したように、事実に根差さない昔話であり、童話のたぐいであるとみなされたまま、ふたたび学問的な議論の対象となることはありませんでした。
<中世千島の開発と小人伝説>
・小人伝説は、中世アイヌ社会の一端をうかがう貴重な資料といえそうです。
・古代の千島は、アイヌとは系統の異なるサハリンから来た人びと(オホーツク文化人)が住んでいました。しかし近世の千島はアイヌが占めるところとなっており、もはやオホーツク文化人は住んでいませんでした。
<アイヌの小人伝説>
<ジョン・セーリス「二度蝦夷に行ったことのある一日本人が江戸の町で伝えた同地に関する情報」『日本渡航記』(1613年)>
・(道南の松前の)さらに北方には、同じ陸地上に、一寸法師のような背の低い人間が住んでいる。蝦夷人(アイヌ)は日本人と同じ丈の人間である。
<松坂七郎兵衛他『勢州船北海漂着記』(1992年)>
・南千島のエトロフ島に漂着した勢州船の記事です。船員は、エトロフ島からクナシリ島を経て北海道本島に渡り、十勝を経て松前から帰郷しました。この小人伝説は、帰途、クナシリ島から道東太平洋沿岸のあいだで聞きとったものとおもわれます。小人が「小人島」に住んでいること、その島にはワシが多くいること、船路100里もある遠い地から船で本島にやってくること、その目的が土鍋製作用の土(粘土)の採取にあること、脅すと身を隠すことなどについて記しています。
・道南の日本海側、現在の上ノ国町小砂子の地名由来にかんする聞きとりです。100人ほどの小人が「小人島」から渡ってきたこと、その目的が土と草(あるいは葦)の採取であったことを記しています。
<秦檍丸「女夷文手図」『蝦夷島奇観』(1807年)>
・アイヌの女性の文身(イレズミ)の図に、道東の根室のアイヌから聞き取った伝説を解説として付したものです。古くはコッチャカモイという小さな神が北海道の各地にいたこと、アイヌとの直接的な接触を嫌い北海道から去ったこと、この神のイレズミをまねてアイヌのイレズミがはじまったこと、かれらの住んだ竪穴住居の跡が各地に残り、土器や宝が出土することなどを記しています。
<最上徳内『渡島筆記』(1808年)>
・むかしコロブクングル(フキの下にその茎をもつ人の意)と呼ぶ小人がいたこと、道東ではこれをトイチセウンクル(竪穴住居に住む人の意)と呼ぶこと、アイヌ女性のイレズミがこの小人の習俗に由来すること、声は聞いてもその姿をみた者はいないこと、アイヌの漁に先回りし、あるいはアイヌの魚を盗み、アイヌも家に来て魚を乞うこと、魚を与えないと仕返しすること、小人は魚を乞うたのではなく、反対にアイヌに与えたともいわれること、家の窓から魚を乞う小人の女の手を引き入れたが、3日食事を与えないと死んでしまったこと、小人はアイヌにさまざまな悪さをなし、戦うときには甲冑を帯びてフキの下に隠れたことなどを記しています。
<小人名称の三種類>
・一つ目は、竪穴住居に住む人(神)を意味するとおもわれる名称です。「トイチセコツチャ」「トイコイカモイ」「コッチャカモイ」「トイチセウンクル」がありました。二つ目は、フキの葉の下の(神)を意味する名称です。「コロボルグルカモイ」「コロブクングル」がありました。三つ目は、千島の人を意味する「クルムセ」です。
『もののけの正体』 怪談はこうして生まれた
原田実 新潮社 2010/8
<アカマタ――魔物の子を宿す>
・ある日のこと、乙女が畑に出て芋を掘っていた。乙女が一休みして、また畑に戻ろうとしたところ、岩のうしろから赤い鉢巻をした若者が顔を出してはまたひっこめたのに気づいた。歩こうとすればまた顔を出し、立ち止まればまた隠れる。乙女がその若者の顔に見入って動けなくなっていた時、乙女の様子がおかしいことに気付いた農民たちがかけつけて乙女を畑に引き戻した。
乙女が見ていた若者の正体は、アカマタという蛇だった。アカマタは誘惑した乙女と情を通じ、自分の子供を産ませようとしていたのだ・・・。このパターンの民話は、沖縄の各地に伝わっている。
・石垣島の宮良では7月の豊年祭にアカマタ・クロマタという神が現れ、一軒一軒の家を回り祝福していくという(なお、この祭りは秘祭とされ撮影が一切禁じられている)。
沖縄では同じアカマタという名で、若い女性にとりつく蛇のもののけと、豊作を予視する来訪神の二通りの異界の者が現れる、というわけである。
・さて、蛇ににらまれた女性が動けなくなるという話は、本土の古典でも、たとえば『今昔物語集』などに見ることができる。また、蛇身の神が女性の元を訪れて交わるという話は古くは記紀にも見られ、さらに日本各地の伝説・民話などに見ることができる。ちなみに記紀ではその説話の舞台が大和の三輪山(現・奈良県桜井市)の麓とされているため、神話・民話研究者の間ではそのタイプの説話はその三輪山型神婚説話と呼ばれている。沖縄のアカマタの話はその三輪山型神婚説話に発展する可能性を秘めながら中断させられた話とみなすこともできよう。
実は、沖縄にも三輪山型神婚説話に属する類型の話が残されている。
・これは江戸時代の琉球王府が正史『球陽』の外伝として、琉球各地の口碑伝承を集めた『遺老説伝』に記された宮古島の始祖伝承の一部である。
この話に登場する大蛇には、娘が魅入られるという点からすれば憑き物的側面があり、夜に訪れるという点からすれば来訪神的側面もある。この話は、憑き物としてのアカマタと来訪神としてのアカマタの関係を考える上で暗示的だ。
ところで私はかつて、三輪山型神婚説話の起源について、異なる共同体に属する男女間の婚姻がその背景にある可能性を指摘したことがある。
<キムジナー 日本のエクソシスト>
・沖縄ではその昔、樹木に住む精霊の存在が信じられていた(あるいは今でも信じられている)。
・沖縄では古木の精をキムジナー(木に憑く物、の意味)という。また地域や木の種類によってはキムジン、キムナー、ブナガヤー、ハンダンミーなどの別名もある。赤い顔の子供のような姿とも全身が毛に覆われた姿ともいわれ、水辺に好んでよりつくことから、本土でいうところの河童の一種とみなす論者もいる。
・『遺老説伝』の話の全般に見られるように、キムジナーは友だちになれば魚をわけてくれたり、仕事を手伝ってくれたりするという。また、他愛ないいたずらを好む、ともされ、たとえば、夜、寝ていて急に重いものにのしかかられたように感じたり、夜道を歩いている時に手元の明かりが急に消えたりするのはキムジナーのしわざだという。
・キムジナーが出没するという話は現在でも沖縄ではよく語られる。ただし、最近では、観光客のおみやげなどでキャラクター化されたかわいいキムジナーが流布する一方、人に憑いて苦しめるような悪霊めいたキムジナーの話が広まる、という形でのイメージが二極化する傾向があるようだ。
<キンマモン――海からの来訪神>
・その昔、屋部邑(現・沖縄県うるま市与那城屋慶名)は幾度となく火災に遭い、多くの家が失われていた。ある日、その村に君真物(キンマモン)と名乗る神様が現れて村人たちに仰せられた。
「ここに火事が起こるのは屋部という村の名が悪いからです。屋慶名と改名すれば火事が起きることはない」
村人たちがそのお告げにしたがったところ、その後は火事が起きることはなくなった(『遺老説伝』より)
・キンマモンに関する記録は、江戸時代初期の僧・袋中(1552~1639)の『琉球神道記』にすでに見ることができる。それによるとキンマモンは琉球開闢以来の守護神とされる。キンマモンは、ふだんは海底の宮に住んでいて、毎月、人間の世界に現れて遊んでは宣託を与えていくのだという。
・また、曲亭馬琴の『椿説弓張月』(1807~1811年)は保元の乱に破れて伊豆に流された源為朝が流刑地から脱出して琉球にたどりつき琉球最初の王朝である舜天王統の祖になったという伝説を読本にしたてたものだが、その中でキンマモンは「きんまんもん」と呼ばれ琉球を守護する神だとされている。ちなみにこの読本に挿絵を付したのは葛飾北斎だが、北斎は「きんまんもん」を、魚の胴体に人間の顔、鱗だらけの手足
があって直立するという異形の姿に描いた。
キンマモン=君真物で、「君」は君主もしくは神女は君主もしくは神女への尊称、「真」は真実、本物という意味の尊称、「物」は精霊の意味とみなせば、キンマモンは、精霊の真の君主ともいうべき偉大な精霊といった意味になる。「物」はまた本土の言葉で言う「もののけ」にも通じている。
・キンマモンは海から人里にやってくる宣託神であり、典型的な来訪神である。最近の沖縄では、この神について、単に沖縄の守護神というだけではなく、世界の救世神だとして主神に祭る新興宗教も出現している。
沖縄の習俗伝承には、憑き物系のもののけや来訪神に関わるものが多い。これは沖縄の社会事情とも深く関連している。後述するように、沖縄では、ノロやユタといった神女たちがさまざまな祭祀をとりおこない、庶民の生活に深く関わる存在となっている。
そして、彼女たちの職掌というのはつまるところ来訪する神を迎え、憑き物を払うことなのである。彼女たちが人々の生活に深く関わっている以上、来訪神や憑き物は社会的・文化的に認知された存在であり続けるし、またそうしたものたちが認知されている以上、神女たちの職掌も必要とされ続けるのである。
<メリマツノカワラ――神女と異神>
・沖縄には各地に御嶽と呼ばれる聖域がある。それらは神がかつて降臨した(あるいは今も降臨する)とされる聖地である。本土でいえば神社の本殿に相当するといえようが、御嶽は神社のような建築物ではなく自然の岩や洞窟をそのまま聖域と見なすものである。
その御嶽の由来の中には、異形の神の降臨について伝えるものもある。
・13か月が過ぎ、真嘉那志は一人の男の子を生んだ。いや、それを男の子と言っていいものかどうか・・・生まれた子供は頭に2本の角を生やし、両目は輪のように丸く、手足は鳥に似て細長く、奇妙な顔立ちで少しも人間らしいところはなかったからだ。
目利真角嘉和良(メリマツノカワラ)と名付けられたその子供は14歳になった時、母と祖母とに連れられて雲に乗り、空へと去って行ってしまった。
しかし、その後、メリマツノカワラは彼らがかつて住んでいた近くの目利真山にたびたび現れ、その度に人々を助けるような霊験を示した。人々は目利真山を御嶽として崇めるようになったという。
この話は『遺老説伝』や『宮古史伝』に出てくる。
・一部の古代史研究家は、メリマツノカワラの容貌が鳥に似ていたとされるところから、中国の長江流域にいた鳥トーテムの部族が漢民族に追われて海に逃れ、沖縄に渡来して鳥崇拝を伝えたのではないか、と考察している。
<神女が重んじられる文化>
・明治政府の廃藩置県によって王政が廃止された後も聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする神女制度は存続し、現在は聞得大君こそ空位だが、各地のノロ(祝女、各地域の神を祭る女司祭)は祭祀によってそれぞれの地元の人の精神的なよりどころとなっている。
・一方、正規の神女制度に属さないユタという人々もいる。彼女らは庶民の祖先祭祀について指導したり、憑き物落としをしたりする民間の神女であり、その存在は沖縄の人々の生活に深く根付いている。ユタは祖先崇拝を通して庶民生活における伝統を伝えようとする存在ともいえよう。
・ノロやユタが沖縄の人々の精神生活に深く関わっていることを思えば、沖縄の民俗伝承に来訪神や憑き物系のもののけが多い理由も改めてよくわかる。
ノロの大きな職掌は来訪神を迎えることであり、ユタの仕事の一環には憑き物落としが含まれているからだ。沖縄の異神やもののけは、神女たちの存在意義を支えてきた。
そして、彼女らが沖縄の人々の生活に深く関わっているということは、とりもなおさず、彼女らに関わる異神やもののけが沖縄の人々の生活と密着しているということでもあるのだ。
<蝦夷地の妖怪や異神>
<コロポックル――妖精はどこにいる?>
・アイヌの伝説で本土の人にもよく知られているものと言えば、筆頭に挙げられるべきは、コロポックル(蕗の下に住む人)という小人族に関する伝説である。彼らはまた、トイチセウンクル(土の家に住む人)、トンチなどとも呼ばれる。この小人族たちは、伝承上、あくまで「人間」とされており、カムイ(神)でもカミムンでもないが、西欧の伝承における妖精などとよく似たところがあることも否めない。
・また、十勝地方の伝説では、コロポックルはアイヌに迫害されてその地を去ったが、その時、川に「トカップチ」(水よ、枯れろ)という呪いをかけた。これがトカチという地名の由来だという。
この伝説に基づき、コロポックルを北海道におけるアイヌ以前の先住民族とする説を唱える論者も多い。明治20年(1887)には人類学者・坪井正五郎がコロポックルは北海道のみならず日本列島全域の先住民族で、日本民族に追われてかろうじて北海道に残っていたものが、そこからさらにアイヌに追われた、という説をたてた。
<魔女ウエソヨマ――北国の天孫降臨>
・アイヌの伝説を論じる場合に避けて通れないのはユーカラといわれる口承叙事詩だ。その中には、もののけと戦って人間の世界に平和をもたらした英雄たちの物語も含まれている。
<水の精ミンツチ――半人半獣の謎>
・ところでアイヌの信仰で、和人のカミ(神)にあたる霊的存在を「カムイ」ということはよく知られている。
・ミンツチは半人半獣のもののけで小さい子供くらいの背格好をしているという。肌は海亀のようで色は紫とも赤とも言われる。
川辺に来る人を襲って水の中に引きずり込むとして恐れられる一方で、山や川で働く人を苦難から救うこともあると言われる。
・ミンツチの行動パターンには和人の伝承における河童に似たところがある。さらに言えば、ミンツチは和人との接触でアイヌの伝承にとりこまれた河童とみなした方がいいだろう。ミンツチの語源「みずち」は、水の神を意味する日本の古語(「蛟」という漢字を当てられる)だが、一方で青森県における河童の呼称「メドチ」と同語源でもあるのだ。
『エイリアンの謎とデルタUFO』
<グレイは地球産UMAだ>
・とくに、グレイは日本人にとっては非常に馴染みが深い動物であるといってもいい。日本でもグレイは住んでいるからだ。昔から日本人はグレイをしばしば目撃してきた。ただ捕獲された正式な記録はないので動物というより、妖怪変化にされてしまっただけである。日本におけるグレイ、それは「河童」である。一口に河童といっても、そこには古代の被征服民や神話、それに呪術に至るまで、様々な要素が含まれる。その中のひとつに、実は未確認動物(UMA)としての河童があるのだ。アイヌの伝承に登場するコロポックルや奄美地方のケンムン、沖縄地方のブナガヤやキムジナーもまた、そうした河童の一種でいわばグレイなのである。
『鬼』
高平鳴海、糸井賢一、大林憲司、エーアイスクウェア
新紀元社 1999/8
<「伊吹(いぶき)弥三郎・伊吹童子(創造神とドラ息子)>
・弥三郎の特殊能力;鉄の体、巨体
童子の特殊能力;不老長寿、仙術、怪力
<容姿>
・伊吹弥三郎も伊吹童子もその姿は一般的な鬼のイメージとは違う、ものもとの伝承から推測するに単なる巨大な男、いわゆる巨人であり、その他の細かい特徴は不明である。特に弥三郎は富士山などを造ったとされており、その体の大きさは他の鬼と波比べられないほどだろう。
・伊吹童子の方は、童子と呼ばれるだけあって童(わらわ)の姿をしていたらしい。不老長寿の薬といわれる「サンモ草の露」を飲んで以来、老いもせず、14~15歳の少年のままだった絵巻に書かれている。
<伊吹の山神>
・近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。その息子の伊吹童子も多くの部下を従えて暴れまわった鬼である。
・実は近江の伝説だけでなく、弥三郎は多くの文献にも登場している。
<天地を創造する>
・近江地方の伝承では、伊吹弥三郎は巨人として扱われている。日本のみならず、世界中の天地創造神話には、山や河川、湖などを創ったとされる巨人がよく登場する。世界の初めに巨人が存在していて、それが地形を創ったり、巨人の死体が山や川や海になったという話だ。弥三郎もそうした創造神の一種と見るべきだろう。
・彼は伊吹山や富士山、七尾村(現在の岡山)を創ったと伝えられている。
<魔物に堕とされた巨神>
・古に神は、時代と共に魔物に凋落していくことが少なくない。弥三郎はその典型といえるだろう。
・近江の伊吹山に弥三郎と言う男がいた。その体は、鉄のようで、千人力を持つ超人であり、人々はこれを恐れて「鬼伊吹」と呼んだ。
<戸隠の女盗賊><紅葉(くれは)>
・各地の伝承でも能楽で語られる場合でも、絶世の美女であったと伝えられる。しかし、罪に問われて戸隠に逃れ、その後は悪事を重ねるごとに醜い姿になっていった。一説には、その身長は3メートルほどもあったという。
<英雄を助けた鬼女、鈴鹿御前>
・どの伝承を見ても絶世の美女だったと記録されている。鈴鹿山の鬼女も「女」で「盗賊」だったことから、立烏帽子と呼ばれるようになったと考えられる。
・彼女は記録によって鈴鹿御前と呼ばれる場合と烏帽子と呼ばれる場合がある。
・鬼女を御前と呼ぶのは変かもしれないが、伝説を見ると、どうも、彼女は、完全な悪玉というわけではなかったようである。あるいは、鬼神レベルの力を有していたために、敬称が付けられたのかもしれない。
・御前は田村丸を「光輪車」という神通力で飛行する乗り物に乗せたかと思うと、瞬く間に内裏に降り立った。そして、光輪車で去っていった。
・和歌山県熊野地方の伝承。容姿については、伝承のパターンによって、ふたつ存在する。ひとつには夫に先立たれた寡婦(やもめ)で、イメージとしては妖艶な中年女性だろう。もうひとつは白拍子の少女の姿である。清姫といった場合、特にこちらの少女を指す。
さらに彼女は、全長10メートルもの大蛇に変身することができ、これが第三の姿と呼ぶこともできる。
清姫の物語は、熊野権現と関係が深く、その舞台は道成寺という寺である。主な登場人物は、清姫と彼女が恋焦がれる安珍という僧だ。
<●●インターネット情報から●●>
「鈴鹿御前の物語」
・現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。
<鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?>
・童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだそうです。
<日本の伝承に残る鬼として>
・桃太郎の鬼(温羅)(うら)
・蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)
・有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)
・黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)
・霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承
・飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)
・「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀、御伽草子に登場)近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。
・天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)
・同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。
『異人その他』
<異人>
・異人もしくは外人は、未開人にとっては常に畏怖の対象であった。あるいは彼らは、異人は強力な呪物を有していると考えて畏怖したのであろう。あるいは悪霊であるとも考えたのであろう。
・自分の属する社会以外の者を異人視して様々な呼称を与え、畏怖と侮蔑との混合した心態を持って、これを表象し、これに接触することは、吾が国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与えた呼称の民間伝承的表象は、今もなお我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成と参加している。
『鬼がつくった国・日本』
歴史を動かしてきた「闇」の力とは
<「東北」の怨念を語りつぐ「田村三代記」>
・それで、こういう中央とまつろわぬ者の関係、日本の過去における京都を中心とする光の領域と、東北に代表される闇の領域との関係を象徴的に表している『田村の草子』という坂上田村麻呂の一族をモデルにした説話があるので、ここで紹介してみたいと思います。
まず、田村利仁という人物が出て来て、妻嫌いをする。つまり、かたっぱしから縁談を断るんですが、ある日、大蛇が変身した美女を見初め、妻にする。女は妊娠し、自分の姿を見ちゃいけないといって産屋にこもる・・・。
・そう、タブーを破って見ちゃうわけ。それで、まさに「見たな」というわけで、「おまえは数年を経ずして死ぬが、子どもは英雄になる、覚えとけ」と預言して姿を消してしまうんです。
・それでね、いまの『田村の草子』には中央から見た鬼=まつろわぬ者のイメージがよく出ていると思うんですが、東北にも東北版『田村の草子』みたいなのがあるんですよ。『田村三代記』といわれているもので、話を簡単に紹介しますと、平安時代前期に都でまりのような光る物体が夜となく昼となく飛び回り、米俵、金銀、はては天皇への貢ぎ物まで持ち去ってしまうという騒ぎが起こるんです。
・未知との遭遇だね。第三種接近遭遇(笑)。
・そこで、陰陽師の博士に占わせると、伊勢国・鈴鹿山に天竺から来た魔王の娘である、巫女のいでたちをした立烏帽子というものがいて、日本転覆を計画しているという。しかも、日本にも立烏帽子におとらぬ鬼神である蝦夷の大嶽丸がいて、ほっておくといっしょになって攻めてくるというんです。で、そりゃたいへんだというので、田村利仁に追討を命じて、鈴鹿山に向かわせるんです。ところが、二万余騎の軍勢で探しても、立烏帽子は見つからない。そこで、魔の者に会うときは大勢で行くなという父利光の教えを思い出して、利仁一人を残して軍勢を返すと、三年以上たったある日、やっと立烏帽子を見つけるんです。すると、これがなんと紅の袴を着た歳のころは十六、七のピチピチのギャルちゃん。
・なんせ相手がかわいい女の子でしょ、さしもの田村丸も迷うんです。原文に「かようなる美麗なる女を討つとは何事ぞや。このうえはなかなか彼女にしたしむべきかと思召し賜えしが、いやまてしばし我心」とありますもの。
・ちょっと待て、だいたいそれで男は損しちゃうんだよね(笑)。そういえば、この『田村三代記』ってちょっとまえまで東北の座頭が奥浄瑠璃でやってたんでしょ。
・それでね、二人の戦いはなかなか勝負がつかないわけ。すると、立烏帽子が利仁の出自について語り始めるんです。それによると、利仁の祖父は星の子どもで、彼が龍と交わってできたのが父親の利光で、その利光が奥州の悪玉姫、これも鬼ですよ。それと契ってできたのが利仁だというんです。そして、田村三代は日本の悪魔を鎮めるための観音の再来だというんです。それで、自分は日本を転覆させにきて、蝦夷の大嶽丸にいっしょになってくれと何度も手紙を出したんだけれど、返事もくれない。でも、自分は女の身だからやっぱり男がいないとだめなの、あなたといっしょになって、二人で力をあわせて日本の悪魔をやっけようといいよるんです。
・それで、二人は結ばれて近江の高丸という鬼を退治するように命じられるんです。二人が攻めていくと、高丸は常陸の鹿島の浦(茨城県)に逃げてしまったので、立烏帽子は利仁を光りん車というUFOみたいな乗り物に乗せて飛んでいくんです。で、高丸を攻撃するときの戦法っていうのがまたSF的で、呪文をかけて十二の星を降らせて星の舞いをさせたり、一本のかぶら矢を打つと、それがビーム砲か散弾銃みたいに千本の矢先となって鬼神に降り注いだり…。結局、高丸は二人に退治されてしまう。
<連綿と続く東北独立国家への試み>
・『田村三代記』の主人公である田村利仁は、征夷大将軍の坂上田村麻呂と鎮守府将軍、つまり蝦夷に置かれた軍政府の長官であった藤原利仁とを合体させた人物なんだけど、彼は星の子どもと龍が交わってできた父親が、さらに悪玉姫という鬼と契って生まれたといわれるわけでしょう。龍と鬼という二重の異類婚によって生まれるわけですよね。その利仁が、立烏帽子という外来の魔性の女と交わって呪力を得て、蝦夷の鬼神の大嶽丸を倒す。これはまさに、まえに話した「異には異を」、「夷をもって夷を制する」という古代東北侵略のパターンそのものだと思うんです。
ただ、東北の『田村三代記』がものすごく伝奇ロマンっぽくなっているのは、京都でつくられた『田村の草子』が東北でもう一度再生産され、京都を他界として描いているからでしょうね。
<日本史のすぐ裏側に、闇の文化史――鬼の日本史のようなものがあるのではないか>
・『田村の草子』『田村三代記』については、すでに西村寿行氏が、それをネタにして傑作を書いておられます。これらとはり合うつもりの方、おられますか。おられませんか。
『異星人遭遇事件百科』
(郡純)(太田出版)(1991年)
<星座の名前は知的生物の姿?>
・星座の名称はこれまで単純に「星の形」とのみ関連付けて語られてきたが、近年その常識に見直しの気運が高まっているのは周知の事実である。
・星座の名称の由来は星の配列を似た動物にあてはめたとされるが、はたしてスバル(牡牛座)やシリウス(狼犬座)の配列が牛や狼の形に見えましょうか?これは他の星座すべてにいえることだが、(中略)星座の名称とは、その星座における代表的な知的生物を表現しているのではあるまいか?そして牡牛座と狼犬座の知的生物は、その名称通り「牛」と「狼」のような風貌をし、しかも、古くから交流があり、互いに月を前哨基地にして地球にも頻繁に訪れていた、と考えれば聖書を含めた多くの古代文献の記述も矛盾なく納得できるのである。
・ただ、異星人は単一の種族ではなく、様々な母星からきていたという立場に立つと話が違ってくる。人間をはじめ生き物はすべて異星人による被造物、と考えることが可能になるのだ。
・人間、牛、馬、鳥すべての動物は異星人がみずからの姿に似せて創造した。太古の書においては相互の「交配実験」も行われたのかもしれない。
『金髪碧眼の鬼達』
鬼・天狗・山姥は白人的特徴を持っていた
村昻 日本デザインクリエータズカンパニー 2015/9
<白人的特徴>
・過去の伝統的存在、鬼・天狗・山姥達は金髪・碧眼(黒以外の目)などの「白人的特徴」を持っていた……。再発見の数多くの資料や新しい科学的データも交えながら、彼らの正体に迫る!
<鬼・天狗が白人!?>
<鬼の絵と天狗のお面を見ると……そして驚くべき人類学の研究と>
・まず、鬼の絵を見て頂きたい。これは江戸時代に描かれた鬼の絵巻物だが、絵の中央で首を切られている大男がその鬼だ。名を酒呑童子という。この絵では鬼の首は宙に浮き上り、また、左方の武人の頭に噛みつく、という図にもなっている。しかし、ここでこの鬼の髪の毛を良く見てみよう。あれ、……これは金髪ではないか?そして、目の色も良く見れば金色になっている。これはどういう事なのだろうか?
・次は、天狗を見てみよう。これらは天狗のお面だが、これらのお面は群馬県の迦葉山弥勒寺という、天狗の信仰で有名な寺に奉納されている大天狗面というものだ。この図では、中央と左方に大天狗面が、また右下に小さく、普通の大きさの天狗面も写っている。しかし、いずれの髪色も淡いが金髪に見える。また、図の大天狗面の髪も金髪だ。これらでは、目の色も金色になっている。
しかし、鬼にしろ、天狗にしろ、この様に髪や目が金色なのは一体何故なのだろう?私達は金髪などというと……ヨーロッパ人のそれを想い出さないだろうか?また、ヨーロッパ人では金色の目の人も存在しているのだが……。
・実は驚くべき研究がある。今から十数年前に自然科学分野での専門論文として発表されたものなのだが、その中で「過去の日本列島に少数の白人系集団がやって来た可能性がある」という事が述べられているのだ。この研究は、東京大学医学部などの医学研究者達によって組まれたグループによる研究だった。
その研究の事を次に、まず簡単に触れておこう。この研究グループでは。最初、人間の体内に寄生する「JCウイルス」というウイルスについて医学的な研究をしていた。すると、このJCウイルスのDNAの型(タイプ)が世界各地の人類集団によって少しずつ違っている事が分かって来たのだった。
・そこで、研究グループは、このウイルスのDNA型の違いを利用して世界各地の人類集団の「系統分け」を試みる事にしたのだ。こういう手法は、生物学(分子系統学)で良く用いられているものだ。
そして、その結果、現代日本人の一部からも、ヨーロッパ人などの「白人」と対応している様に見えるJCウイルスの型が検出されたのだ(調査された日本人800余人の内の約2%)。
・そして、また、この研究グループが、日本人の中のこの白人対応と思えるウイルス型について、さらに詳しく調べてみると、このウイルス型が、ヨーロッパ人など白人の持つウイルス型と相似だが、少しだけ違いがある事も分かって来た。この事について、この研究グループは次の様に考えた。ヨーロッパ人など白人の持つウイルス型と日本人の持つ白人対応と思えるウイルス型とが「古い時代」に隔離したもの、と推測したのだった(この考え方は、この手の研究分野では、いわば情動的なものだ)。そして、この事をさらに進めて言えば、こういう事になった。白人対応のウイルス型を持っていた白人集団と、日本人の、白人対応らしきウイルス型を持っていた集団とが、古い時代に分れて別集団となった、という事だった。
さて、この事から、この研究グループは以下の様な驚くべき推論を導いた。
「少数の日本人の中から発見されたヨーロッパ人(白人)相似のウイルス型の存在は、古い過去の日本列島に少数の白人系集団が移住してきた事を示唆している」
つまり古い時代に、白人集団から分離した白人系集団が日本へ流入し、その後、この集団のウイルス型が、現代の日本人の中の白人型ウイルス型となった、とこの研究グループは考えたのだった。
・ところで、皆さんご承知の様に、この「白人」には、金髪、碧眼といった人達が大きい割合で含まれていた(碧眼とは青い目など、黒以外の色の付いた目の事)。という事は、過去の日本列島に、金髪、碧眼の集団が流入して来た可能性もあるという事に……なる筈だ。しかし、ここで思い出すのは、先の冒頭の、鬼、天狗の金髪、碧眼なのでは無いだろうか?
<柳田国男氏の山人=異族説>
・ところで過去、明治時代から昭和時代にかけて、民俗学者の柳田国男という人がいた(1875-1962)。歴史の教科書にも載る位の大学者だったこの人が、実は、鬼、天狗などの問題に関係して、一つの注目すべき説を提唱していたのだ。柳田氏は、江戸時代を中心とした資料中に、「山中で一種異様な者に遭遇した」という話が多数残る事を見い出し、その集団を鬼、天狗、山姥の末裔と想像して、「山人(やまびと)」と名付けていた。そして、この「山人」について、「山人=異族説」とでも呼べる説を提唱していたのだ。
この柳田氏と言えば、民俗分野でかつての大学者だった人で、しかもその人が自身の専門分野である民俗学で、山人や、また、鬼、天狗、山姥の資料を多数扱った上で、「山人=異族説」とでも言うべき説を唱えていた。これは見逃せない事ではないだろうか?
・柳田氏は、この山人達の、普通の日本人にはない様な「身体特徴」にも注目していた。彼の、この山人の身体特徴の指摘には、例えば次の様なものがあった。
赤頭というのは髪の毛の色でそれが特に目に付いた場合もあろうが、顔の赤いというのも山人にはそれ以上に多かったのである。或は平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかという事も一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖の種らしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の性質である。
・柳田氏は上述の様に「山人」の身体特徴の指摘をしていたのだが、但し、この文では、その身体の特徴が「人種的特徴」だろうとか、山人が「人種的傾向」を持っているらしいなどという様な事は何も言っていない事がわかる。そして、彼の他の文献を見てもやはりそういう指摘は見つからない。しかし、それは彼の、自分は人類学の専門家ではないから、という学問的慎重さゆえだったのかもしれない。ただし、上述の様な山人の身体特徴の指摘は、それが人種的特徴であるかも知れない、と連想させるもので、それを暗に示唆していた、という言い方はできるのではないだろうか。
<丹後大江山の鬼=外国人説>
・ところで、柳田氏は、以上の説を突然、思い付いたものでもなかったのかも知れない。というのは実は、科学的には不完全なものとは思えても、鬼が外人ではないかや、白人では?或は天狗にもそういった説が柳田説以前から存在していたのである。それらは彼らの髪色や、そして、良くは分からないが、何らかの伝説などを元にか、そういう説が唱えられていた。そこで、以下、それらの説がどんなものだったのかを、いくつか見てみる事にしよう。
まず、最初に見るのは、京都の丹後地方の大江山に昔住んでいたという伝説の残る鬼、この冒頭に出した「酒呑童子」という名の鬼なのだが、この鬼とその配下の鬼達が実は外国人ではなかったか、という説である。この説は、現在、この大江山周辺では比較的良く知られている説の様だ。ただ、説そのもののルーツはかなり古い様で、江戸時代に既にこの説を書いたものが見つかる。江戸時代の当地の地誌の中に、その鬼=外国人説が載っている。
・この様に、鬼とは「言葉が通じない」「衣服が人と異なる」(これは当時の普通の日本人のものと違ったという事か)者だったというのである。また、粗暴な性格だったともある。そして、こうした事から、鬼とは、日本人ではなく、外国より日本に上陸したいわゆる海賊だったのではないか、という説だ。
ここで、鬼が海賊だったというのは、この著者(?)の想像の部分だろうが、しかし、「言語通じない」「衣服人に異なる」という部分はそうでもなく、少なく共「伝説」として書かれている様だ。その「伝説」の真実味は果たしてどうだったのだろう?
<天狗の外国人説>
・以上、鬼に関する外国人説を見た。しかし、鬼に少し似た存在としてか、日本には天狗という存在も伝えられて来た。そして実は、この天狗にも、鬼同様に外国人説があった。この天狗の外国人説は現在でも少しは知られている説だが、最初に唱えられたのは近い年の事ではなく、少し以前の事の様だ。筆者の知る、最も古い天狗=外国人説というのは、菊地晩香氏という人物が唱えたもので、これは、戦争よりも以前の時代に唱えられたものらしい。
その菊地氏によると、天狗とは、昔、日本にやってきたユダヤ人だろうという。ユダヤ人は古くから中東やヨーロッパに居住していた民族だ。
菊地氏が何故、天狗をユダヤ人だろうと言ったのかといえば、まず天狗が頭に付けている兜巾(ときん)と呼ばれる小さな黒い箱、これがユダヤ人の誓文筥というものと同じだという。そして、もう一つには、天狗は、棒状に突き出た鼻形だけでなく、いわゆる鉤鼻形の天狗も少なくないのだが、この鉤鼻がユダヤ人に見られる鼻形だというのだ。
これらの理由から、菊地氏は天狗を日本にやって来たユダヤ人だと考えていた。そして、この天狗=ユダヤ人説は、現在では他にも証拠をいろいろと加えて、さらに日ユ同祖論者達によって唱えられている様だ。
『神仙道の本』
(秘教玄学と幽冥界への参入)(学研)2007/3
<地球大気圏の某所の映像>
・宇宙の根本神は、いうまでもなく天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)の造化三神だ。
・玉京山から放たれている「三色の霊光」というのがまさにそれで、神の姿は見えず、ただ中央の「水色にして五色を含みたる光」と左の「水色の光」と右の「白光」が、まばゆいばかりにキラキラと放電されているさまが拝まされるのみだという。そして、この神秘的な景観も友清流に言えば、地球大気圏の某所の映像なのである。
・北極星のような隔絶の神界と比べると日界は、指呼の間だが、あの猛烈な光熱で、どんな霊も燃えつくしてしまうように思われる。水位は、日界には入り難いが、下に見たことはあるといい、城郭のようなものが数十あったといっている。
・地球に最も近い月界だが、ここは「もろもろの穢(けがれ)の往留る」根の国、底の国に当たる。そのため、神仙から月球人にいたるまで、全て地球より「遥かに卑しく劣る」そうで、かぐや姫のようなロマンチックな世界ではないらしい。
<さまざまな神仙界>
<36天と大羅天><本邦神仙道のモチーフか>
・道教の36天説(元始天尊の坐す大羅天を最高天とし以下、玉清境、上清境、太清境の三清天、四種民天、仏教から取り込んだ三界(無色界、色界、欲界)の28天を重ねたモデル。
・日本の神仙道では、36天は道士のつくりごとだとして、ほとんど相手にしていない。
<五岳真形図と五岳神界>(地球霊界の軸柱となる神界)
<石城島(しきしま)霊界>(友清歓真(10歳のとき神隠しにあったといわれる)が赴いた理想郷)
・友清歓真が訪問した当時で人々は14万人。3ないし4つの行政区に分かれており、東部は科学的な研究機関、学校・工場などのある近代的な地域でアメリカの最新の意匠による別邸のようなものも建っている。
・東部と比べると西部は、鄙びた地域で友清と石城島霊界に招いた物故者の田畑氏は、20坪ばかりの菜園の世話をしていた。もっとも、肥料も水もやらないのに美しく立派な野菜ができるというから、世話というほどのこともない。
<仏仙界><神仙界と対立する妖魔の巣窟か?>
<神仙家が敬遠する世界>
・山人界でもないのに、愚賓がでてきているのは仏仙界にも僧侶のなりをした愚賓が住んでいるからだ。ただし、仏仙界の愚賓は「無官」だそうで、「理不尽に愚人を誑(たぶら)かすから「愚賓者」とも呼ばれるらしい。利仙君によれば、極楽も仏も、みな愚賓が見せる幻術だというのである。
・仙界に出入りした神仙家は多いが、不思議なことに仏仙界については誰も中に入って見聞しようとしない。敬遠しているのは明らかだが、それも道理で、彼らは、筋金入りの仏教嫌い、仏仙嫌いなのだ。仏教に対する嫌悪感を最も露骨に示しているものもいる。
<魔界と魔王><極悪の魔が救う禁忌の領域とは>
・魔界だけは、全くといっていいほど、探訪情報がない。
<死後「極悪の人霊」となった魔王>
<魔に堕した悪霊を掌る魔王>
・ 魔王の筆頭は、造物大女王という女魔で、天地開闢の際、積もり積もった陰気の悪気が凝結して生まれたという。
これに次ぐのが無底海太陰女王だ。
<宇宙の神仙界>
<大気圏の外にも広がる神仙の世界>
・実は、遠方の星の世界の状況が、この地球の大気圏内の或るところに影を映したような状況になって、そこへ行って来たからだという。
・この玉京山が紫微宮の中心の神山で、そこに天帝の住まう玉京山鳳宮がある。さらに玉京山の南方の海中には、宮殿楼閣を空に聳えさせている紫蘭島(しらんとう)があり、紫微宮神界の重要な施設が立ち並んでいる。
・毎年元日には、全世界の神々がこの島の紫蘭大枢宮号真光遊門という門の前に集まり、宇宙の根本神に拝礼朝賀するというのである。
<異界交通者が赴く山人界(天狗界)>
<僧侶や仏教信者など、仏教徒深い因縁で結ばれた者が入る「仏仙界」がある。>
<全霊界は「むすび」と「たま」の領界に大別される。>
・むすびの世界とは、「衣食住や山河草木や万般の調度品が、客観的に実在として殆ど人間界のごとく存在する」世界のことで、我々の現界もここに属する。現界もまた霊界の一種、むすびの霊界なのである。
・ 一方、たまの世界は「欲する品物が欲するままに、そこに現出する代わりに注意を怠っていると消えたり、一瞬にして千里を往来したり、もやもやと霊のようなものが友人や知人の顔となり手となって遂に完全な姿として、そこに出てきたり、高い階級で美しい光の乱舞の中に自分も光の雲の如く出没穏見したりする」世界をいう。
<高級神界の世界>
<神集岳神界・万霊神岳神界・紫府宮神界とは>
<全ての地の霊界を統制する大永宮>
・神集岳神界があり、中心は大永宮という巨大な宮城で、一辺が160キロもある高い壁に取り囲まれている。四方に大門があり宮城を四方から囲む数十の宮殿群もある。
・幽政の中府だけに膨大な数の高級官僚が働いている。東洋、西洋、人種はさまざまだが、日本人も沢山、含まれている。
・紫府宮神界は宇宙神界の紫微宮神界ではないので、注意。
・そもそも「天機漏らすべからず」といって神仙界の機密は人間界には伝えないのが決まり。
<現界人の生死・寿命を管掌する神>
・万霊神岳は現界人にとって最も重要な関連をもつ神界とされているのである。大きな島嶼としてまとまっている神集岳とは異なり、この神界は様々な霊界幽区が集まってできた“連邦体”だという。この世界に属する霊界はきわめて広く、いわゆる極楽や地獄も内包しているし、仏仙界も含まれるというから、その巨大さは想像を絶する。
<刑法所も存在する万霊神岳>
・神集岳神界・万霊神岳神界・紫府宮神界が地の霊界では最も高級な神界で、地の霊界全体を監督・支配している。
・刑法所もあり、極刑も執行され、霊魂は消滅させられるというから恐ろしい。
<神仙界の構造>
<神仙が住まう天の霊界と地の霊界>
・世界には目に見える物質的世界(顕界)と目に見えない霊的な世界(幽冥界・幽界)があると説いている。
・極陽に近い部分が天の霊界(天の幽界・天の顕界)、極陰に近い世界が地の霊界(地の幽界・地の顕界)ということになる。
<地の霊界の首都「神集岳神界」>
・神仙道の場合、まずトップに来るのが天の霊界、筆頭の大都(だいと)、「紫微宮(しびきゅう)」で、天地宇宙の根元神の宮であるという。
・この紫微宮の次にくる「大都」は、天照大神の神界である「日界」(太陽神界)で、ここが太陽系全体の首都ということになる。
・神仙道ではこの日界の次にくる大都以下を地球の霊界とし、その首都を「神集岳神界」と呼んでいる。
・神集岳は地の霊界全体を管理運営する神界で、地の霊界の立法府・行政府・司法府の最高官庁が、この都に置かれているという。
・首都・神集岳神界に対する副都を「万霊神岳神界」という。
・神界では、年に1回、現世の人間、霊界に入った人霊および仙人など一切の霊の“人事考課”を行い、寿命も含めた運命の書き換えが行われるという。この作業の中心が万霊神岳だそうなのである。
『「あの世」と「この世」の散歩道』
(天外伺朗)(経済界)2001/5
<宇宙の「明在系」と「暗在系」>
・―宇宙は、目に見える物質的な宇宙、「明在系」と目に見えないもう一つの宇宙「暗在系」により成り立っている。「明在系」のすべて、人間、時間、あるいは人間の想念でさえ、「暗在系」に全体としてたたみこまれているー
・周知のように、テレビの画面は放送局から飛んできた電波が元になっています。電波は広大な空間に分布しており、その広がりを「電磁界」といいます。今、「明在系」、つまり、目に見える物質的な宇宙をテレビの画面に、「暗在系」を電磁界にたとえてみます。実際の宇宙空間は3次元で、テレビの画面は2次元ですが、その違いは無視します。
・まず、最初に、電磁界がなければ、テレビの画面には何も映らないのは明らかでしょう。同じように、「暗在系」がなければ、「明在系」は存在できません。両者をひっくるめてひとつの宇宙が構成されています。
・次に、テレビ画面上の人物や物体は、電磁界のどこかに特定の位置に対応している、ということはなく、全体としてたたみ込まれています。従って、電磁界のどんな小さな部分にも、テレビ画面全体の情報が含まれています。
・私達が肉体を持って生まれてくるというのは、ちょうどテレビのスイッチをつけるようなものでしょう。逆に死ぬことは、スイッチを切るのに似ています。画面は消えますが、だからといって電磁界がなくなるわけではありません。「暗在系」というのは、生死と無関係で、時間を超越した、絶対的な存在なのです。
『戦争とオカルトの歴史』
(W・アダム・コンデルバウム)(原書房)2005/2
<ヒトラー親衛隊>
・テロリズムを好んだ夢見る神秘主義者たちの団体からナチズムが生まれた。そしてそれが、“大量殺戮”という言葉に新たな様相を付け加えた。第三帝国全体を特徴付けるのが、この神秘主義と魔術である。ナチスの部隊と言うと、伸ばした脚を高く上げて機械のように行進する様子が思い浮かぶかもしれない。SSには、ダース・ベイダーの衣装のような黒い制服と髑髏の記章が用意され、他のドイツ軍部隊と区別された。
・もともとは、ヒトラーの護衛部隊として作られたSSだったが、やがて帝国の悪魔崇拝者となっていった。SSの志願者は、1750年までさかのぼって民族的に純血であることを“アーリア人の血筋”を証明しなくてはならなかった。要求される身体的条件は非常に厳しかった。ルーベンスボルン政策(スーパー北方種族を創出するための交接・出産・養育施設のこと)のための繁殖所では、金髪・青い目の子供の父親として、新アーリア超人からなる支配者民族の中核となる役割をになうからである。
・彼らは、生まれたときから信じてきたキリスト教を捨て、寄せ集めの異教精神を詰め込まれ、クリスマスを古来から続く、ただの祝い日とし、古代ルーン文字の象徴的な意味を学ばされた。SSのシンボル・マークも、ルーン文字で作られ、親衛隊は、ナチスの“信仰”を守るテンプル騎士団となった。
・皮肉なことに金髪・青い目の超人をまとめる組織の指導者は、細いあごをして眼鏡をかけた養鶏農家出身の勇者にふさわしい体つきとはとてもいえない男だった。男の名は、ハインリヒ・ヒムラーという。
<金髪のアーリア人種出身の超人など歴史的に全く存在しなかった>
・アーリア人であるという以外にSS隊員の配偶者には、出産能力がなければならなかった。ナチスは嫡出・非嫡出を問わず妊娠を奨励し、妊娠・出産を望むものには報奨金を出す一方で、遺伝的障害を持つ“劣った種“を生まないように不妊手術と中絶手術を広く行った。ナチスは、”血こそ生である“という無意味なオカルト的信仰を持つ豊穣崇拝カルトだった。
・既成の教会に反対するSSによって、反教会権力のプロパガンダが広められた。キリスト教の教義は、ナチ“教”とはかみあわなかった。金髪の超人ばかりという架空の民族を発展させようというときに、柔和なるものが地位を継げるわけがない。もう片方のほおを差し出すことは、世界支配の夢とは全く相反し、ヒトラーの支配する暗い帝国で、イエスの説いた道は阻まれた。ある観点から見れば、ナチスとは、本質的には軍事と政治を一体化した大事業が、いかにして既成の宗教と対立するミュトスとオカルト活動を独自に生み出したという20世紀最大の例かもしれない。
『図解近代魔術』
(羽仁礼) (新紀元社) 2005/10/6
<ナチス>
・ドイツの政党で、政権取得後は国家と一体となって活動、第2次世界大戦により解体。その思想にはゲルマン系神秘思想がとりいれられている。
<神秘主義的政治結社>
・ドイツの政党、「国家社会主義ドイツ労働者党」のことで、1919年にミュンヘンで結成された「ドイツ労働者党」が1920年に改称したもの。
1926年、アドルフ・ヒトラーが党の総裁に就任して以来勢力を拡張し、1933年1月にヒトラーが首相に就任すると次第に国家との一体化が進み、「第三帝国」と呼ばれる体制化でその崩壊までドイツを支配した。
ナチス・ドイツは、共産主義者やフリーメイスンとともに魔術師や占星術師、秘密結社を迫害したが、ナチス自体魔術的世界観を背景に持つオカルト結社であったとの主張もある。また、ヒトラー自身魔術師であったとの説もある。
<マスター>
・神智学において、人類を密かに導く超人的存在。歴史上の偉人の多くがマスターであったとされる。グレート・ホワイト・ブラザーフッドなる団体を結成。
<神智学における人類の指導者>
・ブラヴァツキーの神智学では、世界のどこかに住む「マスター」、あるいは「マハトマ」「イスキン」と呼ばれる超人的存在を想定している。マスターたちの姿は限られた人間にしか見えず、密かに人類の魂を高めるために働いているのだという。
・過去に出現した優秀な宗教指導者や心霊術の導師は皆マスターでブラヴァツキーによれば、釈迦、孔子、ソロモン王、老子、さらにはフランシス・ベーコン、サン・ジェルマン伯爵などもマスターだという。
ブラヴァツキーが出会ったクートフーミというマスターは、以前ピタゴラスに姿を変えていたこともあるが、今は青い目をし、美形のカンミール人でバラモン(僧)の姿をしているという。
・ブラヴァツキーのみならず、ヘンリー・スティール・オルコットやクリシュナムルティなども、実際にマスターたちの訪問を受けたことがあるという。そしてこのマスターたちが構成するのが「グレート・ホワイト・ブラザーフッド」と呼ばれるグループである。
・様々な情報を総合すると、このグレート・ホワイト・ブラザーフッドは144人のマスターからなり、シャンバラ(チベット仏教におけるユートピア)にいる世界の王を頂点としている。この世界の王の祖先は、ヴィーナス(ローマ神話の愛と美の女神)で、手足となる数人の者を従えて、16歳の少年に変身しており、この世界の王の手足となっているものが釈迦、マヌ(インド神話における最初の人間)、マイトレーヤ(インド仏教の伝説的人物)たちである。
<地下世界アガルタ>
<サンティーヴ=ダルヴェードル(1842-1909)>
・独自の政治体制を構想、古代アトランティスの先進文明や地下世界アガルタの存在を主張した。
・彼が構想したシナーキズムは、当時流行していたアナーキズムに対抗するために考えだされたもので、世界の秘密の指導者とテレパシーでコンタクトできる人間たちの秘密結社が国家を支配する体制のことである。彼によれば、薔薇十字団やテンプル騎士団もそうした秘密結社であった。このシナーキズムを構想する過程で、彼は古代アトランティスの先進文明や地下世界アガルタに住む世界の王者といった観念を取り入れている。さらに根源人種の存在やアーリア人至上主義など、ブラヴァツキーの神智学やナチス・ドイツに引き継がれた概念も含まれている。
<地下世界アガルタと首都シャンバラ>
・中央アジアの地下に存在するという王国。首都シャンバラには、幾人もの副王と幾千人もの高僧を従えた世界の王ブライトマが住み、地表の人類とは比較にならない高度な科学技術を持つ。地上の世界とはいくつもの地下通路で連結され、チベットのポタラ宮の地下にも入り口があると伝えられる。
『神仙道の本』
秘教玄学と幽冥界への参入
学研マーケティング 2007/3
<宮地堅盤(かきわ)〔水位〕(1852~1904) 自在に仙境に出入りした近代神仙道の大先達>
<魂を飛ばして異界へ往来>
・「仙人というものは、いわば人間界の変り種で、昔からめったに世にでない稀有の存在であるにもかかわらず、常磐・堅盤の父子二代相ついで、神仙の位を生前において得たことは、人類史上ほとんどその例を見ないであろう」
・まさに宮地堅盤こそは、その実父常磐から教導された宮地神仙道の大成者であるだけでなく、近現代の神仙道史上、最大の巨星といっても過言ではない。
10歳で父の指導のもと、肉体はそのままで魂だけで飛行するという脱魂法(後年は肉体も伴ったとされる)を修得し、高知の手箱山の神界に出入りしたのを手はじめに、神界の諸相をつぶさに見聞し、同時に人間界でも文武両道に励み、修行を積んだ。
・つまり、堅盤は脱魂法、あるいは肉身のままで数百回も幽真界に出入りしていたというのだ。
堅盤の記録によれば、大山祗神のとりもちにより少彦名神(青真小童君)に面会を許され、さらに川丹先生こと玄丹大霊寿真(年齢は明治元年時に「2016歳」)と称する朝鮮の神仙界の大長老を紹介され、この両師を中心に、神界の秘事などの教示を受けたとしている。
・また堅盤の道号である水位という名も、22歳のころに少彦名神から名づけられたものだという。そもそも、堅盤は「謫仙」、つまり、神より特別な使命を受けて、本籍地の神仙界から人間界に流謫した仙人であったというのだ。
<神界の最高機密の大都へ>
・堅盤が自ら探求した幽冥界の様相を書きとめたものが、神仙道最高の書とされる『異境備忘録』である。神界・神仙界・天狗界など幽真界の情報がはしばしに織り込まれており、堅盤最大の功績はこの書を残したことだといわれるほどだ。
・堅盤は仙童寅吉ともいっしょに岩間山の杉山僧正に会い、各種の仙界へも飛行して出入りしたと書き残しているが、神仙界では寅吉より堅盤のほうが位が上であったという。
<全神界を包括する奇書『異境備忘録』>
・『異境備忘録』は、基本的には、先行文献としてあった平田篤胤の『仙境異聞』をふまえたうえで、道教的な神仙思想と日本の神道や古神道などを有機的に結合する比類のない世界観を確立した根本原典となっている。堅盤の開示した神仙道は、神仙思想の本場中国の影響圏内から脱して、逆にそれを傘下に組み入れ、さらにインドに本拠がある仏仙界や西洋の神界などまでを従属させた画期的なものであった。
つまり、堅盤ならではの《神国日本》ならぬ《神仙道日本》の宣言書だったのである。
・堅盤は、大病の時期を除き、ほぼ生涯にわたって健筆をふるった。その全著作は百数十冊とも二百冊ともいう。これを高さに概算すれば、10等身におよぶほどだったらしい。
・ちなみに、堅盤の著述や蔵書の多くは、戦前に、近代神道史学の先駆者・宮地直一東大教授を経由して高知県立図書館に寄贈された。その後、昭和20年に空襲で同図書館が被災したときに烏有に帰している。
『日本神仙伝』
(不二龍彦)(学研) 2001/5
<宮地水位>
<日本初の本格的「霊界探訪記」『異境備忘録』を著した宮地水位>
<シャンバラも含む幽界の多様性>
・また、チベット密教で言う「シャンバラ」とおぼしき幽区についての記述もある。
シャンバラというのは、代々一人の王によって統治されてきたとされるヒマラヤ奥地の理想郷で、永遠の光の下、賢者だけの理想国家を築いていると伝承されている。この霊的な王国には、未来のいつの日か、邪悪な勢力を最終戦争によって打ち滅ぼすという神聖な使命があり、今もそのための活動を密かに行っているというのである。
・今でこそ、広く知られるようになったシャンバラだが、水位の時代には、ごく一部の学者以外、その存在を知っているひとは皆無といってよかった。
・ところが水位は、「西洋国のヒマラヤ山」に「中凹(なかぼこ)」の「支那上代」の神仙界があり、「山上は闇夜でも昼の如く」輝いていると、ちゃんと記述している。
しかも、この「支那上代の神仙界」がある山は、神仙界では「地軸」と呼ばれているらしく伝説の西王母(せいおうぼ)が住んでいるというのも、シャンバラ伝説と通いあうところがあって面白い。
『術』
<天狗飛切りの術と軽身の習練>
・仙界に出入りしたという紀州のモグリ医者島田幸庵の報告によれば、仙人界と天狗界は同じ系列の特別世界で、その階級は仙人界のほうは神仙、山人(やまびと)、異人(霊人)、山霊(やまのかみ)、山精(こだま)、木精(すだま)、鬼仙(おに)、山鬼(たかがみ)、境鳥(たかとり)、麒麟(ましか)、鳳凰(ながなきどり)、霊亀(おうかめ)と順次し、狗賓(くひん)のほうは大天狗、小天狗、木葉天狗、魔天狗、邪鬼の順であるが、両界通じていえば、大天狗は仙界で山人の階級に相当するという(-『幸庵仙界物語』)。
・もとより架空の観念的構成にすぎないが、しかし古来、仙人も天狗もいろいろと変わった型のものがあって、綜合的に考慮するとすれば、結局右のような組み立ては常識的といえるかも知れない。
さすれば仙界・天狗界とも、上級者には超自然的な神仙型の飛翔を想像し、下級の者に鳥獣型の飛翔を想像するのは当然のことで、下ッ端の天狗は翼をもって飛ぶと考えられていました。
・では翼のない上等の天狗は、どのように飛翔したのか?私どもが、子供のころ聞いた話では、天狗は羽団扇をもっていて、それであおいでふわりふわりと翔ぶということでした。じつは羽団扇は飛ぶときの目標を定めるレーダー式のもので、下降するときには、方向舵の用をすると仙童寅吉は語っています。
・年代はよくわかりませんが、和歌山藩の餌差役で某という者が、鷹の餌にする小鳥をもとめて深山へ分け入り、小鳥網を張りました。知らず知らず殺生禁断の高野山の一部へ入りこんだらしく、おもしろいほど小鳥がかかる。
と、どこからか一人の異様な老人が立ち現れました。某をにらみつけながら、小鳥を次ぎ次ぎと網からはずして逃がしてやり、ここは殺生禁断だから、あきらめて帰れという。
某は何だか怖くなって帰ることにしたが、異人は気のどくに思ったのか、せっかくの機会だから跳ぶ術を教えてやると云い、某を高く突き出した岩石のうえへつれてゆきました。
・「さあ、谷底へ飛び下りてみろ。おれが下へ行って受け止めてやるから」という。しかし、怖くて、どうしても飛べない。ちゅうちょしていると異人は、うしろからいきなり某を突き落しておいて、すぐに谷底へあらわれてズシンと受け止めました。
「どうだ怖くないだろう。もういちどやってみろ」
こうして何回も飛び下りて受けてもらっているうちに、どうやら身のこなしなども会得して、平気で跳べるようになりました。
・某は礼をのべて和歌山へ帰り、高い屋根へ飛び上がったり飛び下りたりして人々をおどろかせるようになったが、その後三年ほどして、ふと飛ぶことに恐怖をおぼえ、急にそれっきり飛べなくなったという(-『積翠雑話』)。
・積極的な精神力が或る程度の危険を克服する事実は、この一話からも汲み取れるでしょう。跳躍は、昔は“軽身の術”とか“軽業”とかいいました。
(2022/7/29)
『日本怪異妖怪事典 東北』
笠間書院 2022/4/27
・東北地方は妖怪の宝庫です。例えば「日本民俗学」の創始者であり、現在の日本における妖怪研究に多大な影響を与えた柳田國男の代表作『遠野物語』には、岩手県の遠野地方に伝わる話が収録されており、座敷わらしや河童、マヨイガなど、よく知られた妖怪たちがたくさん登場します。
<青森県>
<赤い童子>
大正11年(1922)の末、貝屋敷の某家での出来事。亭主の妻が独り囲炉裏端でまどろんでいると、不意に囲炉裏から赤い童子が出て掴みかかってきた。妻が叫びを上げて逃げ出し、家の者が駆けつけたときには、童子の姿は影もかたちもなかったという。
<赤顔・白顔>
・青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)に伝わる。項目名は佐々木剛一の提案による。
三日市の呉服店・高半が繁昌していた時代、主人は座敷わらしを目撃することがあった。その顔色が白く美しく見えるときは家に吉事があり、赤く見えるときは凶事があった。店が傾きかけた時期は常に赤顔に見えたという。
伝承では座敷わらしの去来と家運の盛衰が関連づけられることが多いが、この話では座敷わらしの見え方が吉凶を示していることになっており、興味深い。
<赤倉様>
・青森県弘前市と鯵ヶ沢町の間に聳える岩木山(赤倉山)を信仰の場とする鬼神。
岩木山北麓の赤倉は古来「鬼の棲む地」といわれ、ゴミソやカミサマと呼ばれる民間宗教者の聖地となって、昭和期には多数の堂社が建立されて信仰は隆盛を極めた。
・大同二年(807)、津軽の蝦夷征伐に苦闘する坂上田村麻呂のもとに出雲大神第五王女である赤倉の鬼神が出現、鬼神祭祀を勧めたという。更に鬼神は赤倉沢にて賊を消すという不思議をあらわし、朝廷は赤倉に堂を建てて鬼神を祀るようになったという。宝泉院には鎌倉時代の作という鬼面が伝えられている。
・これとは別に、明治頃に種市村の太田永助という行者が赤倉に入って神様になったとも伝えられている。鬼神の姿になった永助が雲に乗って赤倉山へ飛ぶのが目撃されたこともあるといい、生神様たる永助への信仰も盛んになった。永助の実家である屋敷内には赤倉神社が建てられ、当主が信者の指導にあたった。
・内田邦彦『津軽口碑集』には、種市の某氏が奇異なふるまいから「神さま」と呼ばれ信仰を集めはじめるも、明治37、8年頃に衣類だけを残して消息を絶ったという話がある。他にもこの「変人の神様」にまつわる不思議な逸話が記されているが、どうやらこれも太田永助のことであったらしい。
<赤治鬼(あがちおに)>
・青森県青森市浅虫に伝わる。坂上田村麻呂が滅ぼしたとされる悪鬼の一種。
かつて浅虫の蝦夷館には赤治鬼が潜んでおり、坂上田村麻呂将軍がこれを退治しにやって来た。だが、鬼は昼は館にこもり、夜しか外に出てこない。将軍は一計を案じ、人形を作り外で大いに囃したてた。すると鬼が見物しに館から出てきたので、うまく捕らえることができた。これが「ねぶた」の起源なのだという。
<河童>
・青森県の河童に類する妖怪にはカッパ、カワタロウ、メドチ、スイコ、シッコなどの呼び名がある。水辺に出没して人畜に危害を加える、人に懲罰されて悪戯を詫びる、薬の製法を伝えるといった伝承がある点は他の地域と同じ。鯵ヶ沢の田中町で河童は川に住むもの、めどちは海に棲むものというように、別物として呼び分ける場合もある。
また、水虎様として水難除けの信仰に昇華されている河童もいる。
・Cattle mutilation――牛などの家畜が血を抜かれたり体の一部を切除されたりして変死する怪現象。アメリカでは1970年代に報告が増加した。UFO(未確認飛行物体)やその乗組員たる宇宙人の仕業と主張される際にこの語が使われる。
日本では1989年に青森県三郡田子町の牧場で発生した牛の変死事件が、この現象の事例として扱われる。早瀬の牧場で黒毛和牛が乳房などを切られて死亡、長野平でも同様の雌牛の死体が発見されたもので、変死事件自体は『読売新聞』青森版でも取り上げられたという。同じ時期、青森では奇妙な発光体の目撃が相次いでいあっという。
<キリスト>
・青森県三戸郡新郷村の戸来に「キリストの墓」と称する遺跡があることは現在よく知られているが、これは天津教教祖の竹内巨麿が、所蔵する古文書(竹内文書)に基づき主張した説に由来する。曰く、キリストは処刑されておらず、ゴルゴダの丘で死んだのは身代わりの弟イスキリであった。難を逃れたキリストは八戸に上陸し、戸来で女性と結婚。
・竹内文献の影響を強く受けた山根キクは『光りは当方より』を昭和12年(1937)に上梓、キリスト日本渡来説を世に広めた。さらに山根は天狗=キリスト説も主張している。「天狗とはキリストの事なり」というのは絶対的事実で、全国各地で祭祀され、伝説に残る天狗とは、渡来したキリストが日本中を巡った痕跡であるらしい。赤ら顔、高い鼻、鋭い眼光といった天狗の特徴は、当時のキリストの風貌を伝えるものだとか。
<岩手県>
<暴れる座敷わらし>
・岩手県一関市大東町に現れる座敷わらしは、暴れることで有名らしい。座敷わらしが出ると「触れられて、怖くて、寝ることができない」そうである。やはり同地区に座敷わらしが現れたが、その家で大変暴れ、最後にその家は火事で焼けてしまったそうである。大東町での座敷わらしはどうも、災厄を運ぶ存在であるようだ。
<オドデ様>
・岩手県九戸(くのへ)の江刺家岳(えさしかだけ)に棲む、オドデさまと呼ばれる、見た目は愛嬌のある怪鳥。毛だらけの小さな顔に、フクロウのような大きな光る目玉を持ち、毛だらけの胴回りが二升樽くらいの体をし、人間の子供のような短い足が二本ある。常に人の心を読み、ドデンドデンと啼く。また天候や失せ物をよく当てるので、その村の名主は神として祀ったが、金儲けの道具にされたため、名主の毎晩数える銭の音が嫌になって逃げてしまった。
・相手の考えたことを、すぐに当てて言葉を発することから、人間の心を見透かす妖怪覚(さとり)に近い能力を持っている。九戸村、江刺家岳限定の山の怪鳥である。
<小本の狒々(おもとのひひ)>
・岩手県下閉伊郡岩泉街小本地区に伝わる。遠い昔のこと。小本地区ではヒヒが人を攫って喰うため、地域の人々は恐れていた。それから村人たちは、毎年若い娘を裸にしてヒヒに供えた。後に、娘たちの魂を鎮めるために人殺(とがくし)神社が建立されたが、明治時代以前に廃社になったという。
岩手県内で、狒々の話は岩泉町にしかない。狒々の正体は、赤坂憲雄『異人論序説』に指摘されるような、異人の漂白と定住が根底にあるのかもしれない。
<母娘連れの座敷わらし>
・小国(宮古市川井小国地区)の峠付近で、美しい母娘が休んでいた。どこから来てどこに行くのかと聞くと、その女たちは、「今までは遠野の郷の海上嘉善長者におったが、今にあの家も瓦解してしまうのだから、これから小国の道又家に行くのだ」と言った。その後、道又家には母娘連れのザシキワラシがいるという噂が立ち、家の主人の目には、時折その姿が見えたということである。
・似たような話が柳田國男『遠野物語』第18話にある。ある男が二人の娘に会い、何処から来たと問えば「山口の孫左衛門の所から来た」と答え、何処へ行くと聞けば「それの村の何某が家に」と答えたという。
<クラワラシ>
・岩手県遠野市遠野町の市川家での話。市川さんが一人で家にいると、座敷わらしを見た。髪は、黒くて長く切り下げ、顔は赤く、素足であった。その後、今度はクラワラシを見た。座敷わらしよりも顔がより赤く見えた以外は、殆ど同じであったそうだ。
<子供を喰らう河童>
・岩手県西磐井郡平泉町に伝わる話。衣川の上流と下流に、たくさんの河童が棲んでいた。河童たちは、上流と下流で手紙のやり取りをしながら、美味しそうな子供たちを食べていた。ある時、旅の僧が機転を利かせて手紙の内容を書き換えて、上流の河童と下流の河童の間に争いを起こさせた。その後僅かに生き残った河童たちは、ある岩穴の中に隠れ住んだ。しかし、岩穴に坊さんの像が置かれ、坊さんが苦手な河童はそこから出ることができなくなり、河童は全滅した。
<座敷婆さん>
・岩手県岩手郡岩手町の遠藤家の奥座敷には、座敷婆さんが出ると伝わる。その遠藤家に、試しに泊まった女祈祷師がいた。夜中の2時ごろ、床の間から音がしたと思うと婆さんが近付いてきて「起きろ、起きろ」と言う。女祈祷師は声を出したくとも出ない。次は「餅を食え、餅を食え」と言う。次は「柿を食え、柿を食え」と言うが、布団の中で震えていると立ち去った。四尺五寸(約135センチ)くらいの婆さんであったそうだ。
<座敷婆子(ざしきばっこ)>
・岩手県栗橋村字砂子畑にある「清水の六兵衛」という裕福な家の奥座敷には、夜寝ていると部屋の床の間の辺りに、坊主頭の老婆が現れる。ゲタゲタと笑っては、四つん這いになって寝ている者の近くに寄り、また離れていって笑うを繰り返す不気味な老婆が、佐々木喜善『遠野奇談』に「座敷婆子」として紹介されている。
<寒戸の婆>
・岩手県遠野市松崎町に伝わる話。ある家に住む若い娘が突然行方不明となり、30年後の風の強い日、老いさらばえた婆様として帰って来た。それから風の強い日は、サムトの婆が帰ってきそうだと言われるようになった。
しかしもともと地域に伝わっていた話は、寒戸の婆が帰ってくるたび暴風雨が吹き荒れるので、村人たちが困っていた。そこで山伏に頼んで、山と里の境界に道切りの法をかけてもらい、そこに寒戸の婆が来られないように結界石を置いた。
寒戸の婆は六角牛山の山男に攫われたので、結界石は六角牛山と里との境界に置いた。寒戸の婆は、六角牛山の乙女ヶ沢にある岩窟で暮らしていたそうである。
<猿の経立(さるのふったち)>
・柳田國男『遠野物語』第45話には、「猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し、松脂を毛に塗り砂を其上に附けてをる故、毛皮は鎧の如く鉄砲の弾も通らず」と書かれている。『捜神記』の中の「豭国(かこく)」に、女性をさらい交わってしまう玃猿(かくえん)の話があることから、この猿の経立の性格は、中国から輸入されたものが結び付けられたのだろうか。日本が中国から輸入して参考にした、李時珍『本草綱目』にも、この玃猿(かくえん)が紹介されている。
猿の経立が女色を好むというのは、中国経由で伝わった猿のイメージであった。
<山中の不思議な家>
・昭和61年(1986)6月、初夏の穏やかな日に、岩手県大船渡市三陸町綾里田浜に住む山下トリさんは、いつも慣れ親しんだ山へと蕗採りへ行った。ところがいつもの道を歩いていたはずが今まで見たことのない場所に辿り着いた。そこには見たこともない立派な家があった。その家では、とても綺麗な女性が布団を干していたという。山で迷ったので電話を借りようと思ったが、何故かそのまま通り過ぎ、急に体が動かなくなってしまった。目が覚めると、目の前には、いつも見知った道があり、先ほどの立派な家に続く道は消えていたそうである。家に帰ってそのことを話すと、狐に騙されたんだろうと皆が言ったそうである。
<大工の呪術と座敷わらし>
・岩手県東磐井郡大東町中川村(現・一関市大東町中川)に伝わるザシキワラシは、禍を呼び込むものとされている。柱を逆にして家を建てたり、柱に童形の人形を彫ると座敷ワラシが出ると古くから伝えられていた。あるとき、施主と大工が賃金のことで口論となり、頭に来た大工は密かに柱を逆にして家を建てた。そして、その新築の家にザシキワラシが現れ、家は没落し施主は死ぬという話がある。
<宮城県>
<太郎大王>
・宮城県大崎市鳴子温泉に伝わる狐の統領。太郎狐とも。中山平、堺田峠付近の遠鈴山という山に棲み、何千何万という眷属を従え、里に下りて家畜を奪ったり、人々の持ち物を取り上げたりと暴れ回っていた。
<秋田県>
<赤倉山の八面鬼>
・秋田県五城目町、上小阿仁村に伝わる。赤倉山は別名を「八面山」と言うが、これは昔、頭が八つある鬼が住んでいたためだという。山頂から少し脇へ下った辺りに洞窟があるが、鬼の住処の穴ともされる。
<天狗の再生術>
・昔、雄猿部(北秋田市鷹巣七日市)の深山に大きな楠木があり、その梢に死骸が引っ掛かっていた。この死骸の身元は比内(大館市)に住んでいた作之丞という男だとされていて、天狗に攫われてこうなったのだいわれていた。作之丞が失踪してから80年経ち、比内に残っていた作之丞の子孫の家に作之丞を名乗る男が訪ねてきた。自称作之丞は次のようなことを述べたという。「自分は40歳の頃に、山で知り合った大男に未来を占ってもらおうとしたところ、大男が「お前をこの場で殺し、80年後に目覚めさせた上で30年の寿命をくれてやる」と言うなり自分は首を絞められて気絶し、目を覚ましたら大男に按摩にされていた。山を降りてみると、村の様子は変わっていたが、間違いなく自分の知っていた雄猿部の集落で、ここまで帰って来た」。家人は訝しんだが、更に聞いてみると昔のこの辺りの様子を詳細に語るし、雄猿部にあった梢の死骸も消えていたので、最後には本当に本人だろうと納得したという。この人はその後、大男との約束通りに30年ほど生き、正徳年間(1711~16)末に病死した。
<二面合鬼>
・秋田県男鹿市に伝わる。昔、二面合鬼というモノが女米木(雄和)の高尾山に住んでいた。
<ヒヒ憑き>
・秋田県横手市に伝わる。昔、田代沢から筏に嫁に来た女が娘を産んだが、女は産後の肥え立ちが悪く死んでしまい、生まれた赤ん坊は田代沢の母親の実家へ帰された。7、8歳になった頃、この娘は夜になると、見えない何者かと会話している様子で独り言を言うようになった。更に時を同じくし、台所に覚えのない魚の塩引きが置かれているのが発見されることが続いた。同居していた婆さんが「お前どこからか盗んだのではないか?」と叱ったが、娘は否定した。叱ったその日は魚が台所に置かれることはなかったが、代わりに火棚にいつの間にか木屑が置かれる悪戯がされていて、危うく火事になるところであった。それから娘を褒めればいつの間にか食い物が台所に出現し、叱れば酷い悪戯がされるようになった。ある日、娘を酷く叱ったら、鍋にどっさりウンチがされていた。激怒した婆さんが娘を詰問すると、娘は「私ではない。ヒヒがやったのだ」と言う。詳しく問い質すと、娘にはヒヒの姿が見えていて、独り言と思ったのはヒヒと会話しているためらしい。その日の夜、娘を叱ったからか、またもや火事が起きかけたので、婆さんは「ヒヒが憑いてる子供など置いておけん」と、筏にある父親の実家へ娘を突っ返したという。
<福島県>
<宇宙人>
・福島県福島市飯野町青木の千貫森はUFO(未確認飛行物体)の出現地として愛好家に知られ、1992年にはふるさと創生事業の一環で「UFOの里」が開園した。園内の施設ではUFOや宇宙人に関する展示等も行われる。UFOの里公式ウェブサイトによれば、千貫森は三角形のシルエットから古代のピラミッド説もあり、昔から発光物体が飛来する不思議な地だったとのこと。他にも千貫森はUFO基地だととの説や、異星人と交流できる文明があったのではないかとの説もあるそうだ。
・寺井広樹・村神徳子『東北の怖い話』には、福島出身の某氏が中学生の頃、千貫森でUFOから降り立った宇宙人を見たという話がある。それは白人の中年男性、アラブ系の子供、日本人の青年にみえる三人組で、後にそれぞれが世界的な影響を及ぼす著名な人物になったらしい。
<さとり>
・人の考えることをすべて読み取ってしまう妖怪。各地の昔話などに登場する。
<天狗様>
・古峰ヶ原参詣にまつわる怪異として、福島県東白川郡塙町真名畑に伝わるもの。
明治初期、古峰ヶ原詣でに行った真名畑の人の中に心がけの悪い者がいた。その人は風呂に入っているとき、天狗様によって風呂桶ごとどこかへ隠されてしまったという。
<天体の神様>
・太古に会津の里に集まっていた日・月・星の神々。
・はるか大昔、今の滝沢町の高台に日光・月光が祀られる荘厳な社殿があり、そこにお星さまたちが集まっていた。あるとき神様たちがわけのわからない叫びを上げ、4月15日には大洪水、大地震、大津波が発生、社殿は崩壊して泥海に沈んだ。これは日光・月光・星座の間に大革命が起こったためで、天体の神様たちは一瞬にして滅亡してしまったのだという。星々に捨て去られた会津だったが、時を経て越後の海へ水が引くと、鳥や獣たちがやってきて、人間も生活するようになった。神々の聖域は、後に稚彦霊命の拠点になった。これらは菊池家の祖先ヒエタノアレが口伝した夢のような神話だという。
<東北広域>
<悪路王>
・東北各地の坂上田村麻呂伝説や田村語り(坂上田村麻呂、藤原利仁をモデルとした田村丸利仁にまつわる物語)に登場する蝦夷の長。鬼であるともされる。陸奥国胆沢で活躍した蝦夷の族長、アテルイと同一視する見方もある。
<油取り>
・子供を誘拐し油を搾ると噂された怪人。『遠野物語拾遺』にある岩手県遠野の例がよく知られている。明治維新の頃「油取りが来る」という風聞が村々に広まった。夕方を過ぎてからは女子供は外出無用とのお触れが庄屋や肝煎から出されるまでになり、遊びに出ていた娘が攫われた、子供がいなくなったなどの噂が流れた。同じ頃、河原にハサミ(魚を焼くための串)が捨てられており「子供を串に刺して油を取ったのだ」とひどく恐れられた。油取りは紺の脚絆と手差を着けた人だともいわれ、これが来ると戦争が始まると囁かれていた。
『羽前小国郷の伝承』によれば、山形県最上郡最上町でも明治初頭に油取りの噂が流布したという。油取りは子を攫うので、他所者には気をつけ、夕方には早々に帰るようにと子供らにきつく言い聞かせていたという。人々は昔話の「油取り」(異国人などが人の油や血を絞って染物を作る話)を思い起こし、特に女の子は綺麗な油をたんと絞られるといって恐れていたらしい。
昔話の油取りは各地で語られていたもので、主人公が捕まり油を搾られそうになるが、実はそれは夢だった――という、どんでん返しの結末が多い。岩手県二戸郡浄法寺町では、博打うちが爺と婆の家に泊めてもらうが、実は二人は人肉を焼いて油を取る者で、慌てて逃げようとした瞬間に悪夢から覚めるという話が採集されている。
<大武丸>
・「おおたけまる」(大武丸、大嶽丸、大竹丸)という名の蝦夷、もしくは鬼の首領が、東北各地の坂上田村麻呂伝説や田村語り(坂上田村麻呂、藤原利仁をモデルとした田村丸利仁にまつわる物語)に登場する。「おおたけまる」と聞くと、御伽草子『田村の草子』や『鈴鹿の草子』に登場する、伊勢国鈴鹿山(もしくは奥州霧山)の鬼神「大嶽丸」を思い浮かべる人が多いであろう。阿部幹男によれば、東北に伝わる「おおたけまる」たちは、この「大嶽丸」が各地の寺社縁起や地名伝説に取り入れられたもので、その背景には、先述の御伽草子を底本とした奥浄瑠璃『田村三代記』が東北地方に流布したことがあるという。
<大人(おおひと)>
・巨人、ダイダラボッチのような地形を作り変えるサイズの者を大人と呼称する場合と、鬼や山男の顔を大人と呼ぶ場合の二例がある。前者はその大きさから地形の由来として語られる場合が多く、秋田県では鳥の海(伝説の湖)を開拓したダイダラボッチが挙げられる。このダイダラボッチは三吉様の化身だともいう。地形由来で特に多いのは沼や窪地を大人の足跡とするもので、枚挙にいとまがない。
<おしら様>
・おしら神、おしら仏とも。岩手県や青森県を中心に東北地方一帯で信仰される民俗神で、家の神、養蚕の神、馬の神、狩猟の神、男女和合の神、子供の神、女の病の神などと伝えられ、霊験あらたかで祟りやすいとされる。家々に男女一対の神像が祀られていたり、イタコなどが持参して神事を行ったりする。
<座敷わらし>
・岩手県を中心に東北地方で伝承される妖怪。柳田國男や佐々木喜善による紹介で広く知られるようになり、現在まで目撃・体験談も多く語られている。5、6歳から12、3歳ほど、すなわち童子(わらし)の外見で、土地の豪農や由緒ある旧家の奥座敷などにいるとされるのが一般的。性別は男女どちらの場合もある。座敷わらしがいる家は富貴繁盛が続くが、いなくなると家運も衰えていくという。
・『遠野物語』は「旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず」として、上閉伊郡土淵村(現・遠野市)今淵家、佐々木家、山口家のザシキワラシについて記す。山口孫左衛門家にいたザシキワラシは二人の女児で、ある年に他村の豪農の家に移ってしまった。間もなく、7歳の女の子を除く山口家の主従20数人は、茸の中毒で1日のうちに死に絶えたという。
・佐々木喜善『奥州のザシキワラシ』によれば、座敷わらしの伝承は青森、岩手、宮城、秋田各県にみられ、岩手県で圧倒的に多く採集されている。「ザシキワラシ出現の場所及家名表」には、岩手だけで100ヶ所もの出現地が挙げられている。福島県にも伝承があるとされ、山形県にはザシキワラスの話がある。
・座敷わらしは悪戯を好むものも多く、寝ている家人に枕返しをしかけた話などが各地にある。『遠野のザシキワラシとオシラサマ』では、奉公人に相撲を挑む、座敷に入った娘の目を突く、寝ている者をくすぐる、厩の馬を話す、物置の茶碗などを投げるといった座敷わらし行動の例がみられる。
・岩崎敏夫は座敷わらしの現れ方は大きく三通りあると分析している。一つは足音や楽器、箒で掃くなど、音だけを出すもの。二つ目は室内や布団の上を歩く、子供たちと一緒に遊ぶなど、姿を現すもの。三つ目はそれまで聞こえていた不思議な音が止んだり、残された足跡によって座敷わらしが去ったことを知り、家の衰退が示されるものである。
家人に対して言葉をかける例もある。
・座敷わらしを高貴な身分の存在だと語る例も時折みられる。『遠野物語拾遺』には綾織(現・遠野市)の多左衛門どんの家には元お姫様の座敷ワラシがいたとある。これが去ると家は貧乏になったという。
・一般的な童子形以外の外見的特徴をもつ座敷わらしもいる。岩手県江刺市のある家では、ザシキワラシは小さい子供で、一本足、目も一つだけ、人に姿は見せず、部屋を箒で掃除するといわれた。稗貫郡亀ヶ森村の箱崎家にいたザシキワラシはツルツルの坊主頭で裸だった。当主にだけ姿が見え、仏前に手を合わせていると灯明をフッと吹き消すことがあったという。岩泉町尼額大沢の水車小屋にいたザシキワラシは3、4歳の女の子で、手の指一本と足の指一本をそれぞれ赤い布きれで結わえていたので、指が6本あるのだろうといわれていた。おとなしく心優しい子で、小屋に来た村人の仕事を手伝い、大好きな団子をもらうこともあったという。
・座敷わらしにはカラコワラシ、ザシキボッコ、カブキレワラシなどの別名もあり、さらに細かい種別があるとも伝わる。岩手県江刺郡稲瀬村倉沢(現・奥州市)の某家にはザシキワラシの他に米搗(こめつき)ワラシとノタバリコがいた。ザシキワラシのうち最も色白で綺麗なものをチョウビラコと呼び、ウスツキコやノタバリコになると種族の中でも下等なものだとされる。青森県八戸市などでは土蔵にいるものを蔵わらしと呼んだ。『遠野物語拾遺』にも、遠野の家の蔵に住む御蔵ボッコの記述がある。
盛岡地方ではザシキワラシをザシキボッコとも呼び、貉などが化けたものだろうともいった。上閉伊郡栗橋村栗橋(現・釜石市)の家にいたザシキワラシは元河童だという。悪戯者の河童がある家の者に懲罰されて反省し、その家のザシキワラシになったという。下閉伊郡田野原村猿山では、河童が暮らし向きのよさそうな家を選び、ザシキワラシに姿を変えてやって来るといわれた。
・座敷わらしが住んでいるという旅館は各地にあり、その中でも岩手県二戸市の金田一温泉・緑風荘はテレビ番組や雑誌にもたびたび取り上げられ、全国的な知名度も高い。緑風荘の座敷わらしは名前を「亀麿(かめまろ)」という。旅館を経営する五日市家の祖先の子で、南北朝時代に6歳で亡くなったといわれている。「槐(えんじゅ)の間」で座敷わらしに遭遇し、幸運に恵まれた宿泊客たちは、お礼におもちゃを供えていく。五日市家の座敷わらしは昔から語られ、見た人は幸運で戦士ならば鉄砲の弾に当たらないし、役人なら立身出世するという。心霊研究家として著名な中岡俊哉も、緑風荘で御殿女中のような座敷わらしを目撃したと語っている。遠野市材木町の民宿とおのには5歳の男児と6歳の女児の座敷わらしがいて、ある祈禱者に「近行」「ゆかり」と名付けられたという。
・今や座敷わらしがいるとされる宿屋施設は関東から九州にまで存在しており、スピリチュアル方面での高い需要がうかがえる。
・「わらしちゃん」こと座敷わらしを呼び寄せられるブレスレットなど、開運商法に利用される例もみられる。
<山男>
・全国的に語られる山に住む異相の者たちのうち、見た目が人間の男に似た者を指す。山おじ、山爺、山人などの別名もある。大人(おおひと)と呼ばれる場合もあり区別が難しいが、ダイダラボッチタイプの巨人ではない者は、大人名義でも当項目で扱うこととする。
秋田県では田代岳、森吉山、赤倉山、太平山などを中心に広く伝わる。秋田で一番有名な山男は太平山信仰において崇拝される三吉様で、「太平山には三吉という山男がいて、心が邪な者はこれに攫われ、川の淵に投げ込まれ溺死させられる」と当時囁かれた噂が載っている。このためか、
太平山を行き来する山男の話は多く、秋田市から仙北刈和野へ超える峠では、毎晩のように山男たちが大声で話しながら太平山から女米木へ行き来したので、峠の茶屋は我慢できずに店を畳んだという。
・北秋田市にそびえる森吉山周辺は山男伝説の宝庫であり、数多くの伝説やそれに因む史跡が残されている。明治中頃までは、周辺で行方不明者が出ると「森吉山の山人に連れて行かれた」と言い表した。
・田代岳では、頂上付近にある神田は土用になると山人が耕すとされる。山人の見た目は腰が曲がり、頭には角のような瘤がある。人に見られるのを嫌がり、人気を感じると姿を隠してしまうという。また、山男は相撲が好きとされる。秋田県井川町の伝承では、井川上流に「金壺の滝」という滝がある。この付近の山頂には土俵があり、昔、山男たちが相撲を取り、金壺の滝で水浴びしていたとされる。五城目町の伝承では、ある樵が山男たちと相撲友達になった。しかし、山男達は木樵の家でご馳走になって以降、たびたびやって来ては厚かましくも飯を集るようになり、木樵は気を病んで病気になってしまった。
少し変わった伝承としては、人間に使役される山男の話がある。戦国時代頃、五城目に三光坊という行者がいて「式神使い」と呼ばれていた。この三光坊が使役した式神の正体は赤倉山に住む山男で、三光坊は山男に無形法(人に姿を見せないようにする術)を教授したという。三光坊が京都に出張した際、式神を秋田の実家へ送り出したところ、一昼夜で京都秋田間を往復したともいう。マタギの左多六も皮投岳の山人を弟子にしていたとされる。
・青森県では、山中に棲むと伝えられた異類で鬼とも大人とも呼ばれる。岩木山などを中心に伝承され、人と関わりを持つ善神的な面が語られる場合も多い。弘前市鬼沢の鬼神社の縁起にみられる鬼(大人)がこのような伝承の代表例といえよう。昔、弥十郎という温厚で正直者が山で鬼に出会い、交流を重ねて友人となった。鬼は弥十郎が困っているのを察すると、田の開墾を手伝ったり、赤倉の谷から水路を切り開いて農業用水を引いたりするなど、人知れず彼の力になってくれた。しかし弥十郎の妻に悟られては神から咎められると言って、身に着けていた蓑笠と鍬を残して去っていった。
・岩手県では、沿岸域から内陸に聳える早池峰山までに連なる、山母森・鳥ッコ森・高滝森・妙沢山・地獄森・白見山などは、ずっと古くから山男や山女の棲んだ山々と伝えられる。大槌町金澤の戸沢にある末田家は、代々のマタギの家系だった。数代前の仁吉という者が、ある夕方、
妙沢山の裾のトウサナイ沢を更に奥に入り、「猿の一跳ね」と呼ばれる大岩の陰に潜んでいた。すると何かが近付いてきたので伸びあがって覗いて見ると、山男と山女が土坂峠を横切って行った。山男は、かなりの大男で、片手に何かを持っていた。そして、非常に長い髪の毛を邪魔なふうにして、何度もかき上げていたそうである。
・他にも外国人を山男と見なす話もある。
江戸時代、幕府は南部藩に対し、外国船の監視の強化を命じた。それ以前にも何度となく、難破船が岩手県沿岸域に漂着していた。『遠野物語』だい84話には「海岸地方には合の子中々多かりしと伝ふことなり」と書かれているように、難破船で漂着した外国人と浜娘が結ばれて、よく子を成したと伝わる。しかし鎖国となってからは、難破した外国人たちは鉱山などに連れて行かれ、労働力として使われていたようだ。『遠野物語』第5話には、橋野溶鉱炉がある笛吹峠に関して、こう記している。「近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆怖ろしがりて」と。しかし調べてみると、どうやら峠を越える者達を恐れさせていたのは、溶鉱炉や鉱山で働く人夫たちであったようだ。『遠野物語』第89話で、山神の印象が記してある。「非常に赤く、眼は輝きて且つ如何にも驚きたる顔なり」と、日本人とは違う眼の色、そして白人特有の白い肌は、時には赤く染まり、確かに日本人のイメージする赤鬼のように見えたのかもしれない。
・他にも『遠野物語』第91話では、鳥御前という人が続石のある辺りで、山神と思われる男女に出会った話が載る。この男女は赤い顔をしていたとある。『遠野物語』第107話では、山神に占術を授けられた娘の話が載り、この山神も背の高さと朱を差したような真っ赤な顔いろに言及されている。『遠野物語』第7話では、上郷村の娘が行方不明となり、2、3年後、五葉山の麓辺りで狩りをしていた猟師と遭遇した話が載る。この話の中で娘は「自分を拐った恐ろしき人は異様に背が高く、目の色が少し「凄い」と瞳の色に言及している」のが印象的である。
<山女>
・全国的に語られる山に住む異相の者たちのうち、見た目が人間の女に似た者を指す。異様に長く艶やかな黒髪を持つとされ、山男同様に常人より背丈が高い姿で語られる例も多く、山の女神と同一視される場合もある。秋田県では田代岳周辺に伝承が多い。
・天保10年(1839)7月、津軽の井筒村(大鰐町居土))の百姓3人が連れ立って田代岳へ参詣登山したが、帰り道で迷ってしまった。途中、崖下に滝があったので覗くと、そこには身長六尺(約1.8メートル)はあろうかという裸の女が水浴していた。恐れをなして3人が逃げ出すと、女は水を巻き上げた。すると、急に大雨が降り始めて雲霧が谷を取り巻き、山中が鳴動すると今度は霰が降ってきた。身長1.8メートルの女性は割といそうではあるが、平均身長が現代より低かった江戸時代では異様な背丈に映ったと思われる。天候を操る点は女神的である。田代岳近くにある大館市川口の伝承では、昔、村に住む女が、ふいと田代岳へ行ったきり、戻ってこなかった。それから随分と長い年月が経ち、その女の家のハンド(窓)から「火を貸してくれ」と手を伸ばす者が出た。家人がよく見るとそれは昔行方不明になった女で、煙草の火を借りに実家へやって来たのであった。ハンドは高い位置にあり、帰ってきた女は異様な高い背丈になっていたのを暗喩している。
・岩手県では山男同様に柳田國男『遠野物語』に多く登場する。『遠野物語』第75話では離森の長者屋敷にあったマッチ工場小屋で起こった話として、夕暮れになると小屋を覗きに現れ、ゲラゲラと不気味に笑う女の話が載る。笑い声を聞いた人は皆うら寂しい気持ちになったという。後にマッチ工場が移転し、材木伐採の作業員が小屋に泊まるようになったが、今度は夕暮れになると女が作業員たちを誘い出すようになった。誘い出された作業員たちは帰ってからも暫くは腑抜けになってしまったという。
・『遠野物語』第4話には、山口村の吉兵衛が根子立の笹原に行った際、浮くように駆ける艶やかな女を目撃した話が載る。この女は黒髪を長く伸ばし、藤蔓で赤ん坊を結び付けて背負っていた。着物は縞模様のようであったが、裾はボロボロ、破れ目は木の葉で繕っていたという。拐って来た里の女に子供を産ませる山男の話は多いが、山女が子連れとはなかなか珍しい。
・また、職業の都合上、猟師は山女に遭遇することが多い。『遠野物語』第3話には、栃内村の佐々木嘉兵衛が山奥で山女を撃ち取った話が載る。この山女は嘉兵衛よりも背が高く、背丈よりも長い艶やかな黒髪を持ち、抜けるように白く美しい顔立ちだったという。嘉兵衛は魔性を撃ち取った記念として山女の髪を切り取り、帰路に着いたが、突然の睡魔に襲われて仮眠した。すると、何処からか山男が現れ、山女の髪を取り返されてしまったという。
・『遠野物語』第6話でも青笹村の猟師が深山で山女に遭遇した話が載るが、この山女の正体は、猟師と同郷である長者の娘であった。娘が語るには「自分はある者に拐われた。そして、その者の妻となり子を幾人も産んだが、夫は子を食ってしまうのだ」という。
変わったパターンでは、山女からプレゼントされた話がある。下閉伊郡小国村に凄腕鉄砲撃ちの翁がいた。この翁が若い頃、狩りで白見山へと行った際、深沢で山女と出くわし、小さな包み物を貰った。不思議なことに、以降、翁は狩猟を一切止めてしまったという。山女に貰った包み物の中身は、一体なんであったのだろうか。
<荒吐(あらはばき)>
・「アラハバキ」は東北や関東での祭祀が知られる神で、荒脛巾の字をあてて足や下半身の守護神とされる。宮城県多賀城市の荒脛巾神社では旅の安全や身体の健康を祈り、脛巾(はばき)や脚絆(きゃはん)が奉納されてきた。由緒などは未詳で、柳田國男が『石神問答』にて神名・由来ともに不明と言及して以来、謎めいた印象がつきまとっている。
・『東日流外三郡誌』では、アラバキやアラハバキ(荒吐、荒覇吐)という神が重要な存在としてたびたび言及される。これらの書物が説くアラハバキは、天地万物の創造神、大陸渡来の軍神、製鉄神、正邪をただす神など、様々な性質をもつ。青森県の亀ヶ岡遺跡をはじめ東北地方で多く発見された遮光器土偶は、このアラハバキ神を象った御神体なのだという。
東北に逃れてきたアビヒコ・ナガスネヒコの兄弟は津軽にて対立するアソベ・ツボケの二大民族を和解させ、新たな民族の基礎をなした。これを神の名をとってアラハバキ族と呼ぶ。アラハバキ族は古代の東北で栄え、中央政権にさえ影響を及ぼすこともあったというが、後衛は南北朝時代の大津波を境に衰退し、やがて歴史から消し去られたという。
・遮光器土偶=アラハバキというビジュアルなこじつけが強烈だったためか、様々な創作物にもこの設定が流用されている。ゲーム「女神転生」シリーズに登場するアラハバキは、遮光器土偶をモデルにデザインされた例として印象深いもののひとつである。
土偶型アラハバキの原典たる『東日流外三郡誌』には、他にも多種多様な設定が記されている。「荒吐神之創之事」では、荒吐はアラバキまたはアラハバキと発音するもので、人の住むあらゆる場所にある神で、万物を司る天神陰陽・地神陰陽からなる神だと説く。あるいは天神をアラハバキ、地神をアラバキと呼び分けるともされる。
・他にも「荒吐神五王神 ウワンカムイ」として、木神、火神、土神、金神、水神という五種の遮光器土偶型の神の姿が描かれていたり、やはり土偶と同じ姿荒吐神天神(シウリ)、荒吐神地神(ケホツ)などバリエーションも豊かである。「アラハバキイシカホノリガコカムイ」と神の名を呼ぶ祭文、アラハバキ自身の霊告なども書き残されている。さらには大宇宙の誕生と拡大、動化(ビッグバン)の理論を説いた支那国の聖者の名が阿羅覇吐であったとか、天・地・水のような自然そのものを神として崇めるのがアラハバキ信仰である。白鳥や鶴が神使だが倭人はこれらを喰らってしまうう、などとも語られ、全体像の把握は難しい。
<イシカホノリ>
・和田喜八郎が発見したと称されている文書群に記されている神。文書では、はるか古の時代に大陸より荒覇吐(荒吐、アラハバキ)神が伝来した際、東北の地ではイシカホノリガコカムイの名で語られたことになっている。ときおり掘り出される怪奇な土人形(土偶)こそ古代人が全能の神・アラハバキイシカカムイとして崇めた像であるなどの記述がある。
かの四次元作家・佐藤有文は、東北地方独自の祭祀や古代遺物にも強い関心を寄せており、児童層向けに書かれた著書でも、八甲田山西麓にある奇蹟をもたらす巨岩・石神様(青森市入内の石神神社の御神体のこと)が宇宙人の頭蓋骨の化石ではないか、遮光器土偶のモデルは宇宙人ではないかという説をくりかえし紹介している。
後年、佐藤有文はこれらに『東日流外三郡誌』の世界を組み合わせて語るようになった。
・「遮光器土偶のモデルか ⁉――奇跡をもたらす謎の巨石――」では従来語ってきた超古代神と宇宙からの来訪者のハイブリッド的存在とイシカホノリが結びつけられている。曰く、石神さまは太古に天空より火の玉として飛来し、その形はまるで巨大な髑髏か異星人の化石のようである。人間の生死を司る最高神・イシカホノリは、古代人にとって石神さまの分身と捉えられていたと推定でき、人々は巨石に深い信仰心を捧げ、その形に着想を得て遮光器土偶を作り出した。よってイタコや巫女たちも、聖なる神像として土偶に祈りをこめたのだという。土偶の大きな目は石神の目を模したもので、身体の渦巻模様は水を意味し、石神さまから湧き出す霊水を象徴しているとのことである。
(2022/2/11)
『大江戸奇怪草子』
忘れられた神々
花房孝典 天夢人 2021/6/16
<文明開化>
・江戸時代というと、なにやら遠い昔のような気がしますが、実は、今からおよそ百五十年ほど前の、長い歴史の流れの中では、ほんの昨日のような時代です。また1868年の明治維新によって、一挙に江戸が消滅してしまった訳もありません。続く明治の時代にも、文明開化といえ、市井の生活には、確実に江戸文化の面影が色濃く残っていました。
・志ん生師は明治23(1890)年の生まれですから、少なくとも明治の中頃までは、東京の夜は闇に覆い尽くされ、その中には、狐や狸に騙されたという、今考えれば、信じられないような話も多く含まれていますが、それは、当時の一般常識を超越した現象を、自ら納得させるために、狐狸に、その原因を帰結させた結果であり、このような超常現象に対する人間の対応は、現在でもあまり変わっていません。
また、現実の恐怖感が、逆に畏怖の対象となることもあります。本文にあるように、江戸時代、疱瘡(ほうそう)(天然痘)は最悪の疫病であり、死亡率の大変高い、まさに死に至る病でした。
<狸の書>
・文化二 、三(1805,6)年のことです。
下総香取(現在の千葉県香取郡)大貫村、藤堂家の本陣に詰める何某という家に、書をよくするという、不思議な能力を持つ狸が棲んでいました。その狐は、普段はその家の天井に棲んでおり、狸の書を求める人は、自身でその家を訪ね、天井に向かって丁寧に頼みますと、その家の主人は心得て、紙と筆を火で清め、さらに筆に墨を含ませて揃えますと、不思議や紙と筆は自然に天井へ上ってみますと、必ず紙に字が書いてありました。
・狸は、ときおり天井から下りてきて、主人に近づいてくることもよくありましたので、同藩の人はもちろん、近在の里人たちもその狸の姿をときおり目にしたということです。
・宴会の当日、主人は客に向かって、「本日は、趣向というほどでもございませんが、皆様ご存知の狸殿に、何か技を披露するように頼んであります。彼が果たして皆様を驚かすことができますかどうか、どうぞ楽しみにしていてください」
と言いましたので、宴会に集まった人々は、それは近頃稀な珍しい趣向と、その話を肴に、不思議の起こるのを今や遅しと待っていました。
ちょうど申の刻(午後4時)思しき頃、座敷の庭先に突然堤が現れ、そこに一宇の寺院が建ちました。その近くには、さまざまな商人たちが葦簀(よしず)張りの店を聞き、またある者は筵(むしろ)を敷いてくさぐさの商品を並べて賑々しく客を呼んでいます。また、それらの商品を目当ての客たちが群集して、その喧騒さは表現のしようがありません。その中にも、(ひさし)に茹蛸(ゆでだこ)を数多く吊した店が鮮やかに目に栄えます。この景色は、近隣の町に六の日に立つ六才市だろうと、人々は怪しみ驚いて打ち眺めていましたが、庭先の市の景色は次第に薄れ、ついには消えてしまいました。
この日以来、狸の評判は近隣に喧伝され、書を求める人々が陣屋に殺到し、病気をはじめ、あらゆる願いに御利益ありとの噂も立ち、まさに門前市をなすといった状態になり、その風聞は遠く江戸まで達し、公の耳に入りましたので、そのまま放置できず、さっそく役人を派遣してことの次第を調査することになりました。
調査の結果、山師のように人を騙すわけでもなく、かつ、陣屋の番士の家で起こったことでもあり、取りあげて咎めるまでもないということになりましたが、蕃士のほうでも、世間を騒がせたことに対して深く反省し、信頼できる人の紹介がなければ、書も出さず、まして狸と引き合わすようなことを絶えてなくなったということです。
<狐の証文>
・八王子千人頭(現在の東京都八王子市近辺に住んで、土地の警護に当たった千人同心の頭領)を勤める山本銕次郎(てつじろう)という人物は、私の友人、川尻甚五郎の親類に当たります。その山本銕次郎の妻について、一つの奇談があります。
銕次郎の妻は、荻生惣七(おぎゅうそうしち)という人の娘で、甚五郎の祖父が媒酌人となり、山本家に嫁いで来ました。ところがこの嫁に新婚早々狐が憑き、さまざまにあらぬことを口走り、異常な行動をとるようになりましたので、銕次郎は、狐に対し、「いかなる理由で、呼び迎えた妻に憑くという不埒なことをするのか。そのようなことをして、いったいなんの利益があるのか」と、諄々と道理を諭します。
・「証文があったとしても、事情を知らない人は怪しいことと思うであろう。狐が書いたという何か証拠があるのか………。そうだ、人間の世界では印鑑が手元にないときは、代わりに爪印というものをするものだ」
と言い聞かせますと、狐は、手に墨を付けて証文に押しました。そこには、何やら獣の足跡のような形が押されていたそうです。
<天狗に雇われた少年>
・江戸神田鍋町(現在の東京都千代田区)の小間物屋(日用品、装飾品を商う店)に、当時14、5歳になる丁稚(商家や職人の家で働く少年)がいましたが、正月の15日に、銭湯へ行くと言って手拭いなどを持って店を出ました。
しばらくして、裏口にたたずんでいる人間がいますので、誰かと尋ねると、銭湯に行ったはずの丁稚でした。丁稚は、股引、草鞋がけの旅姿で、藁苞(わらづと)を下げた杖をついていました。
その店の主人は、物知りでしたので、驚くようすもなく、まず草履を逃がせ、足を濯ぐようにと言いますと、「かしこまりました」と返事をして、足を洗いました。丁稚は、足を洗うと台所へ行き、藁苞を開いてから野老(ところ)(山芋の一種。正月の縁起物とする)を取り出し、「お土産でございます」と言って、主人の前に並べました。主人は、「ところで、お前は今朝、どこから来たのか」と問いますと、「私は、秩父(埼玉県西部)の山中を今朝発ちました。長々とお留守をしてご迷惑をおかえしました」と言いましたので、さらに、「お前は、いつ、ここを出たのか」と尋ねますと、「昨年の12月13日、煤払いの日の夜に御山へ行き、昨日までそこにいて、毎日お客様のために給仕をしておりましたが、そこでは、さまざまな珍しい物をいただきました。お客様は、すべて御出家でございました。ところが、昨日呼ばれまして、『明日は江戸に帰してやろう、土産用の野老を掘りなさい』と言われましたので、この野老を掘って参りました」と答えました。
その家のだれもが、丁稚が出ていったことに気づきませんでしたが、その代わりとして、先ほど銭湯へ行った者は、いったい何であったのか、きっと何者かが丁稚に化けていたに違いないと、あとになって気づきました。
その後、丁稚に怪しいことは二度と起こりませんでした。
<不思議な山伏>
・寛政九(1797)年七月下旬のことです。
麹町(現在の東京都千代田区麹町)三丁目に住む旗本、日下部(くさかべ)権左衛門の家来、何某が自室で休んでいますと、夜更けて、彼の名を呼び、激しく戸を叩く者がいました。彼は、「このような時刻に私を呼ぶ、あなたはいったい誰ですか」と声をかけましたが、返事はなく、さらに名を呼び続けますので気味悪くなり、息を潜めて物も言わずにじっとしていますと、しばらくして静かになりました。夜着をかけて寝ようとしますと、再び激しく戸を叩き、彼の名を呼ぶ声が聞こえました。
そのまま、息を殺してじっとしていますと、戸締りのしてある戸をどうして通ったのか、一人の男がすっと部屋に入ってきました。恐る恐る見ると、いかにも恐ろし気な大男の山伏(修験者)でしたので、男は脇差を引き寄せて、いきなり斬り付けると、山伏の姿は消えてなくなりました。
・その夕方、この男は、座敷の戸を閉めに行くといって、そのまま行方不明になってしまいました。
・それから5日後、男の在所から、彼が国元に帰っている旨の報せが届きました。国元からの書状によると、彼は、その日の夕方、座敷の戸を閉め、机の算盤に向かったことまでは覚えていますが、その後の記憶はなく、相州鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の山中に捨てられているのを、土地の人に発見され、その人たちの世話で、そこから国元へ送られたということです。
・また、次のような不思議な話もあります。
麻布白銀町(現在の東京都港区)に、大御番七番目を勤める石川源之丞という武士が住んでいました。
源之丞には一人の娘がいましたが、その娘が13歳のとき、ふと庭に出て、そのまま行方知れずになってしまいました。
・ところが、その翌日、木挽町(現在の東京都中央区)から、お嬢様をお預かりしていますとの報せが届きましたので、さっそく家来の者を迎えにやり、屋敷に連れ帰りました。娘が落ち着いたところで、事情を尋ねますと、「見知らぬ人に連れられて、面白いところを方々見物して歩きました」と答えました。
<魔魅(まみ)>
・小日向(こびなた)(現在の東京都文京区)に住む旗本の次男が、いずこへ去ったか突然行方知れずになりました。
・いよいよ当日がやってきましたので、心待ちにしていた祖母は供を一人連れて浅草観音へ出かけました。念仏堂へ行ってしばらく待っていますと、果たして次男が現れ、さまざまに話をしましたが、やがて、「まことに申し訳ありませんが、これ以上私を尋ねるのはやめにしてください。私は、前にも申し上げたとおり、何不自由なく暮らしておりますので………」と言い残してその場を立ち去りました。そのとき念仏堂には、次男の連れらしき老僧などが一緒に座っていました。それらの人々も次男といっしょに念仏堂を出て行きました。祖母は慌ててあとを追いましたが、次男たちの姿は人混みに紛れ、すぐに見えなくなってしまいました。このことは、供に連れた小者も確かに見届けています。後々、これは天狗というものの仕業であろうと評判になりました。私の親しい知人から聞いた話です。
<空から降ってきた男>
・文化七(1810)年七月二十日の夜、浅草南馬道竹門の近くに、25、6歳の男が突然空から降り下ってきました。男は足袋はだし、その他は下帯もつけぬ真裸で、そのままぼんやりと佇んでおりました。
銭湯の帰りに、その不可思議な現象の一部始終を見ていた近所の若者が驚いて逃げようとした途端、男はその場に倒れ伏してしまいました。それを見て、若者は急いで事の次第を町役人に知らせまた。
・人々が見守る中、空から天下った訳を尋ねました。
すると男は、「私は京都油小路二条上ル、安井御門跡(皇族や貴族が継承する寺院)の家来、伊藤内膳の倅の安次郎と申す者でございます」と語り、
「ところで、ここは、いったい何という所でございましょうか」と尋ねました。人々が、江戸の浅草だと答えますと、男はおおいに驚いて涙を流しました。人々は、さらに詳しく事の経緯を尋ねますと、男は涙ながらに次のように物語りました。
「本月十八日の朝四つ時(午前10時)頃、私は、友人の嘉右衛門という者と、家僕の小兵衛を伴い、愛宕山に参詣いたしました。其の日は大層暑く、参詣の後、私は衣服を脱いで涼んでおりました。当時の私の着物は、四つ花菱の紋のついた花色染め(薄藍色。別名はなだ色)の帷子(かたびら)(単の着物)に黒の絽(ろ)(極薄の絹織物)の羽織、それに大小二刀を帯びておりました。涼風を受けて心地よく涼んでおりますと、そこへ一人の老僧がやって参り、私に、面白い物を見せるから従い来るようにと申しました。
私は、老僧に操られるように付き従ったような気がしますが、それ以降の記憶はまったくございません。気がつきましたら、こちらにご厄介になっておりました……」