『オカルティズム』 非理性のヨーロッパ
大野英士 講談社 2018/12/12
<聖母マリア出現と右派オカルティズム>
<「出現」の伝統>
・聖心信仰が、せいぜい18世紀に始まる新しい信仰形態であるのに対し、聖母マリア信仰は、初期教会に遡る伝統をもつ。ただし19世紀の聖母マリア崇拝は、それが「聖母マリア」の「出現」というオカルト現象を中心に形づくられ、様々な異端宗派を生み出すと共に、反ユダヤ陰謀論の一つの源泉となったという意味で、特別な意味を持っていた。
・横山茂雄は「稲生平太郎」名で書いた「空飛ぶ円盤」論、『何かが空を飛んでいる』の中で、「当然のことながら、19世紀以前だって人々は空に何かを見ていた。/古今東西を問わず、空に変なものが飛ぶのを見た人は少なくなかった。/ただ、昔は、基本的にはこれ(空飛ぶ円盤)を乗り物だなんて誰も考えはしなかった。(……)災厄や宗教的奇蹟の到来を告げる超自然的な予兆だと解釈されたのである」と指摘し、マタイ伝に現れたキリスト誕生を告げる星、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』に記されたウーサー、アーサーの王位就任を告知する不思議な光、さらには日本近世随筆に現れる「光り物」の伝説などを列挙している。もちろん、ヨーロッパにおいて、この時代以前に聖母をはじめ「聖なるもの」の出現の伝統がなかったわけではない。
・しかし、横山が記述する「空飛ぶ円盤」が、ある特異な時代的背景や、そこに生きた人々の精神情況を反映しているように、19世紀から20世紀初頭に至る「聖母マリア」出現、あるいは「聖なるもの」の出現は、この時代背景を無視しては語れない特有の現象であったと言わねばならない。19世紀の「聖なるもの」の出現において特徴的なのは、「何か変なもの」が空を飛ぶというのにとどまらない。
・ただし、それゆえに、彼ら、聖母マリア出現の証人たちは、彼ら自身の言説を通じ、あるいはその周囲の人間たちの形づくった言説・神話とともに、さまざまな異端信仰と結びつき、さらには反ユダヤ主義や陰謀論などの温床となった。
・さて、クロードギエによれば、この「王党派預言の系譜」は、1816年1月15日、シャルトルにほど近いガラルドンで「インゲン畑で堆肥を撒いていた」農夫トーマ・マルタンのもとに襟の詰まったフロックコートを着て、ブルジョワ風の髪型に山高帽を被った「大天使ミカエル」が現れたことに始まる。この人物はマルタン・ド・カラルドンに、おおよそ次のように告げたのだ。「フランス各地で政府転覆の陰謀がめぐらされ、王や王子に危機が迫っているので、急いでパリに赴き、王に面会しその旨を告げ、全国に峻厳な権力を帯した警察を組織するように。また、多くの民によって主日がないがしろにされているので、主日の重要性を改めて周知させるように」。村の司祭レベリュックの後押しでパリに赴いたトーマ・マルタンは最初、取り調べにあたった警察関係者をはじめ誰にも信用されず、臨床医学の父として名高いフィリップ・ピネルの診断により、ロワイエ・コラールが院長を務めるシャラントン病院に入院させられる。この間も、大天使ミカエルは頻繁にトーマ・マルタンの前に現れ、「国中に陰謀が廻らされ、王権が危機に晒されている。警戒と抑圧を強化せよ。民衆をキリスト教に回帰させ、神の主日やカトリックの祝祭日を厳密に守らせよ。さもなくば神による怖しい天罰が下されるだろう」と再三にわたり警告した。1816年4月2日、警察長官ドカーズの計らいにより、とうとうルイ18世との面会に成功するが、結果ははかばかしいものではなかった。トーマ・マルタンは仕方なくガラルドンに戻った。
しかし、マルタン・ド・ガラルドンの噂は、彼の「保護者」ラペリュック司祭の手紙による「伝道」活動も手伝って、またたくまにフランス全土に広まり、彼のもとを訪れ彼の話を聞いた者たちの報告書からジャンセニスト、ルイ・シルヴィによる一種の「聖者伝」が編まれるまでに至った。
・ただし、クロード・ギエによれば、歴史家の間ではこのマルタン・ド・カラルドン事件は、見え透いた「詐欺」だということが通説となっているという。
・さて、全贖宥の聖年が終わろうとしている1825年12月17日の夕刻、フランス西部ポワティエ近郊の小村ミニェで、教区教会の前にカルヴァリの十字架を据え付ける作業を終えようとしていた3千人ほどの村人の見守る中、地上100メートルの高さに燦然と輝く巨大な銀色の十字架が現れ、30分ほど目撃されるという「奇蹟」が発生する。
<聖母マリア出現>
・聖母マリア信仰が黄金時代ともいうべき新たな時代を迎えるのは、1830年になってからだ。この年の、7月革命が勃発する直前の7月19日、パリの中心近くバック街のフィーユ・ド・シャリテ修道院の聖堂で、同修道院の見習い修道女カトリーヌ・ラブレーのもとに、聖母マリア、より正確には「無原罪の御宿り」の聖母が重要な使命を与えるべく出現する。
・1830年のこの日付から、約50年間、つまり1830年から76年までの間に、マリアはほとんどひっきりなしに民衆の前に姿を現した。フランスに限っても、次の5件については、ローマ教会も厳重な調査の後に出現を「公式」に認めている。
1、1830年7月19日と11月27日の2回。パリ・バック街140番地のフィーユ・ド・シャリテ修道院内の聖堂で、カトリーヌ・ラブレーに聖母出現。
2、1846年9月19日。イゼール県ラ・サレット山にて、二人の羊飼い、メラニ・カルヴァとマクシマン・ジローに聖母出現。
3、1858年2月11日。オート・ピレネー県ルルドのマサビエル洞窟で、ベルナデット・スピルーに聖母出現。
4、1871年1月17日、マイエンヌ県ボンマンで、少年2人、少女3人に聖母出現。
5、1876年2月11日。アンドル県ペルヴォワザンで、エステル・ファゲットに聖母出現。
・ちなみに、世紀をまたぎ、領域をフランスの外に拡大すれば、1917年、ポルトガルのファティマでルシア・ドス・サントス、フランシスコ・マルト、ジャシンタ・マルトの3人の子どもの前に聖母が出現している。そして、稲生平太郎(横山茂雄)が指摘するように、民間パイロットのケネス・アーノルドが、アメリカ、ワシントン上空で最初の「空飛ぶ円盤」を目撃するが、それから30年を経過した1947年6月24日のことである。
民衆は、自発的にマリアの現れたこれら「奇蹟の地」に大規模な巡礼団を組織した。聖母マリアは19世紀を通じ、キリスト教信仰のヒエラルキーの最も高い地位に昇った。
<ラ・サレットの聖母出現>
・聖母出現は、すでに述べたように民衆の間に蓄積していたさまざまな欲求にもとづくものであり、時にはその周辺にいわば「マリア派異端」と言うべき正真正銘のオカルト・セクトや秘密結社を多数生み出すことになった。特に、「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義の確立に大きな影響を与えた1846年のラ・サレット出現は、当初からさまざまな「疑惑」に取り囲まれ、後には純然たる異端や陰謀論と結びついたという意味で、典型的な意味を持つ。
1846年9月19日、深夜3時頃、年若い、というかまだ子供といってもよい年齢の2人の羊飼いが、南アルプスのイゼール県ラ・サレットの山腹で目のくらむような衣装を着た「美しい婦人」に遭遇した。この時、メラニ・カルヴァは15歳、マクシマン・ジローは11歳だった。子供たちはいずれも貧しく、親からは全く放任され、ほとんど教育を受けていなかった。この見知らぬ女性は、最初子供たちにフランス語で話しかけたが、彼らがフランス語が理解できないと分かると、今度は土地の方言で次のような預言を告げた。
・子供たちよ、前に進み出なさい。私は大事な知らせを伝えるためにここにやってきました。
私はあなた方人間に6日間は仕事をし、7日目は私のために取っておくように定めました。ところが、人間は7日目を私に捧げようとしないのです。そのため、私の息子の腕は、ひどく重くなってしまいました。
そればかりでなく、荷車を曳く者は罵りの言葉を口にする時、必ず我が子の名前をそのなかに交えるのです。この二つのことで、私の息子の腕はすっかり重くなっています。
作物が凶作になるのは、あなた方人間にイエス様のご不興を知らしめんがためです。去年は、ジャガイモを不作にして、あなた方に示しました。しかし、あなた方人間は、私の警告に全く気をとめませんでした。それどころか、あなた方は、ジャガイモが不作だとわかると、私の息子の名前を真ん中に置いて、とんでもない罵りを口にしました。ジャガイモの不作はこれからも続き、クリスマスには、もはや、ジャガイモが口にできなくなるでしょう。
・子供たちは、雇い主のところに戻って自分たちの見てきた不思議な出来事を話した。雇い主たちは、この話をフランス語で書き取ると「ラ・サレット=ファラヴォーの山で二人の子供に聖母が語ったお告げ(手紙)」という題をつけて公表した。聖母出現の話が広まると、聖母に対する自然発生的な崇拝が湧き起こり、村人や巡礼者が聖母の救いと許しを求めて大挙して山に登った。まもなく奇蹟的に病気が治ったとか、不信心者が回心したという報告が続き、聖母の「奇蹟」が喧伝されるように、なった。
・しかし、この出現には、最初から各方面から疑義が寄せられた。
まず、この聖母出現は、カトリック世界の奇蹟である前に、フランス農村地方に古くから伝わる「泉」に対する信仰と深く結びついていた。少なくとも地元の村人にとって、彼女は「泉の夫人」と同一視されていた。クロード・ギエによれば、聖母とされた女性はいずれも、郷土の神聖な場所に因んで出現する妖精や大地母神と特徴を共有している。
<マクシマンと偽王太子派異端>
・軽率な性格で知られたマクシマンが、まず、ラ・サレットの秘密を自派の大義の為に利用しようと狙っていた輩、具体的にはリッシュモン男爵一派の陰謀に巻き込まれた。
<マリア派異端(1)ユージェーヌ・ヴァントラスと「慈悲の御業」>
・「聖なる存在」の出現の伝統と偽王太子派の陰謀とが結びついた結果生まれた異端派として、ノルマンディー地方、ティイ=シュル=ソールの預言者、ピエール=ユージェーヌ・ヴァントランスが率いた教団の存在がある。
彼は、天からの啓示を得て、自らを「第三の支配、助け主の時代、永遠のキリストの到来」を準備するために地上に遣わされた預言者エリアの再来と説いて「慈悲の御業」という異端セクトを設立して多くの信者を集めた。「慈悲の御業」自体、神的な存在の幻視や、精霊崇拝、千年王国説、ナウンドルフ派(上記。偽王太子ナウンドルフを崇拝するグループ)のオカルト神秘主義・政治運動などの交点に出現した奇妙なセクトだ。
・ナウンドルフ派の活動家フェルナン・ジェフロウなる男から水車小屋の番人を委されていたユージェーヌ・ヴァントラスは1939年、大天使ミカエルを見て、啓示を受ける。
・「慈悲の御業」の教理は、元カトリック司祭シャルヴォーズによって体系化されたが、その教理の柱は、神の怒りを強調する終末観、「第3の支配」と呼ばれる聖霊の支配する千年王国の到来、王太子生存説に基づく神聖な王の君臨、聖母マリア信仰と聖霊信仰の奇妙な結合といったもので、オカルト神秘主義にかぶれた19世紀のカトリック=王党派が抱いていたさまざまな教理を寄せ集めた感がある。
<マリア派異端(2)ジョゼフ=アントワーヌ・ブーランと『カルメルの子どもたち』>
・ブーランは、後に聖母出現で有名となるルルドに近い、フランス南西部サン=ポルキエに生まれた。生まれ故郷に近いモントーバンの神学校で神学とラテン語を修め、モントーバンの教会で助祭を務めた後、ローマに赴き、神学博士号を取得している。彼自身の証言によれば、イタリアから帰国後は、アルザス地方のトロワ=ゼピ修道院の上長者を務めていたが、教区に属さない無役の司祭としてパリに出、ローマ時代に習得したイタリア語を生かして翻訳や宗教雑誌への寄稿を行っていた。
彼の関心は、最初から、神の啓示や奇蹟、超自然的なものにあった。
・パリに戻った後も、彼の神秘主義への熱意は一向に衰えず、『19世紀聖性年報』という聖者・福者の奇蹟・神秘に特化した雑誌をほぼ一人で執筆・編集しはじめる。この雑誌の中では特に聖母マリアにまつわる奇蹟譚に大きなスペースが割かれており、また、様々な箇所で彼独自の「異端」教義が開陳されていた。また、彼が神に対する「修復」を目的として新たに設立した修道会においても、「悪魔祓い」や催眠術を用いた「治療」を行っていたという。
<ラ・サレットの聖母、第二の預言>
・しかし、こうしたマリア派異端より、カトリックにとって危険であったのは、マクシマンと並んで聖母マリア出現の証人であったメラニー・カルヴァその人だった。メラニー・カルヴァは、10人兄弟の4番目に生まれ、貧しく、教育もなく、幼い時から他人の家に奉公に出され、寡黙で打ち解けない性格だったが、聖母マリア出現直後から、自らの恵まれない過去を美化し、未来を予知する幻想を語り出した。つまり、彼女はヴァントラスなどと同様、幻視者あるいは異端の教祖となるべき生来の素質を備えていたことになる。
・こうして、ラ・サレットの羊飼いの存在が、聖母出現を教会の伝道のために利用しようとしていたカトリック教会の意図に沿うどころか、むしろ有害であることが明らかになると、教会側は、彼女の危険な資質が増え続ける巡礼の信仰に悪影響を与えないように二つの措置を講じた。
一つは、羊飼いたちが聖母マリアから聞いたとされる「(第2の)秘密」を詳細に聞き出し、教会の手でこれを封印することだった。グルノーブル司教の事務局長オーベルニュが子供たちから秘密を聞き出すことに成功し、書き写された「秘密」は1851年、教皇ピウス9世に送られた。これらの秘密はヴァチカンの書庫に収められ二度と日の目をみないように厳重に保管されることになった。
・もう一つは、子供たちの聖母出現の証人としての使命がすでに終わったこと、従って、今後、メラニーが彼女の幻想の赴くままに彼女の「預言」を他人に語ったとしても、それが真正のマリア出現や、マリアの「預言」とはもはや関わりないと宣言することだった。
・メラニー・カルヴァについては、災厄の芽を未然に摘み取るため、慎重な対策が練られた。彼女は、聖母出現後「神の摂理修道女会」の手に委ねられ、修道志願者、見習い修道女となるが、グルノーブル司教ジヌイヤックは、彼女にキリスト教徒としての服従と純真の徳を教えるため、彼女に修道女の誓願を敢えて立てさせなかった。
1854年、メラニーは同じくジヌヤックの命により、イギリスのダーリントンにあったカルメル修道会に送られそこで6年を過ごした。事実上の軟禁生活である。しかし、教会としても、成人したメラニーの行動をそれ以上監視することはできなかった。1860年、メラニーはダーリントンを出ると、フランスやイギリスを転々とした後、イタリア、ナポリ近郊にあるカステラマーレに居を定め、そこで17年の歳月を過ごすことになるが、1870年代からヴァチカンの反対にもかかわらず、異端臭の濃厚な「著作」を次々に出版し始める。
・さて、メラニーが執筆した「著作」の中で、最も影響が大きく、問題を孕んでいるのが、1878年11月21日にカステラマーレで執筆し、1879年11月15日、やはりナポリに近いレッケの司教サルヴァトーレ・ルイジ・ゾラの印刷許可を受け「ラ・サレット山上における聖母マリア出現」の題のもとに刊行された、メラニーの「第2の秘密」である。
・マリアの指示と共に語られる「第2の秘密」は、まず聖職者の堕落に対する激しい非難・呪詛、それに対する神の怒りと復讐の預言に始まる。
・1864年、リュシフェルは多数の悪魔の軍団を引き連れて地獄を離れ、その悪魔の仕業により神に身を捧げた聖職者の間でさえ信仰が次第に失われることになろう。彼らは悪魔により盲目にされ、特別の恩寵がなければ、これら悪しき天使たちの精神を自らのものとし、数々の教会も全て信仰を失い、多くの人々の魂を失わしめることになるだろう。
・教皇ピウス9世は、度々命を狙われるが、命を落とすまでにはいたらない。聖母マリアは常に教皇と共にあるだろう。
・第2段階においては、フランス、イタリア、スペイン、イギリスが戦争状態に入り、同国人同士が相争う凄絶な戦で、多数の血が流される。パリは焼かれ、マルセイユも消滅する。くり返し地震が発生し多くの都市がそのために倒壊する。
・そして第3段階、世界はさらに恐るべき災厄に襲われる。
そして正にこの間、不純の主たる古き蛇と交接した偽りの乙女から、ヘブライの宗教に属する反キリストが生まれるだろう。父親は司教だ。反キリストは生まれながらにして牙をもち、冒瀆の言葉を吐き散らすだろう。一言で言えば、彼は受肉した悪魔なのだ。反キリストは怖しい叫びを上げ、奇蹟を起こすだろう。
・気候は変化し、大地は悪しき果実しか生まず、星は通常の運行をやめ、月はもはや赤みを帯びた弱々しい光しか放たない。大地は震動し、山や街も地震に飲み込まれる。ローマは信仰を失って反キリストの本拠となり、大気の悪魔たちが反キリストとともに、地上や大気中に奇蹟を起こし、人間はますます堕落する。
・世界の終わり、最後の終末が訪れ、教会は衰退し、世界は悲嘆に暮れる。血腥い戦争、飢饉、黒死病をはじめとする疫病が蔓延する。怖ろしい雹が降り注ぎ、雷が街に轟き、地震が数々の国々を呑み込むだろう。
聖母マリアが介入するのはこの時だ。聖母マリアは、地上に切実な訴えをなし、天にいまし天をすべる神のまことの信者に呼びかけ、人となりしキリストを真にまねぶ者たちに呼びかけ、人間の唯一、真の救い主に呼びかける。やがて神の霊に満たされたエノクとエリアが現れ、神の力と共に祈り、善意の人々が神に対する信仰を回復する。義人たちは聖霊の徳によって霊的進歩を遂げ、反キリストの悪魔的な過ちを断罪することになるだろう。これら義人の血と、涙と祈りによって、神の心はようやく動かされる。善と悪の最後の死闘が行われ、エノクとエリアはその途上で殺されるが、悪霊の王は、大天使ミカエルによって息の根を止められる。それと共に人間の傲慢も葬り去られ、全てのものが再生する。神に対する祈りが捧げられ、神の栄光が称えられる……。
・全体として、奇怪な幻想を長々と述べたてた。何を言わんとしているのか判然としない。冗長な上に誇張やくり返しの多い、およそマリアの口から出たとは思えない悪文の類だが、19世紀の末期から20世紀初頭にかけて、この預言は一部のカトリック信者の間に熱烈な信奉者を得た。
・例えば、文学者で厳格派カトリックに回心したレオン・ブロワは、ほぼこのメラニー・カルヴァの預言にもとづいて、『泣く女』(1908)などの作品を書き、いわばメラニー派ともいえる信仰を確立する。
・しかし、ユイスマンのようにオカルティズムを経て原理主義的カトリックに転向した者たちも含めて、多くのオカルティストたちは、このメラニー・カルヴァの「第2の預言」で語られる「反キリスト」を反ユダヤ主義、反フリーメーソンと重ね合わせる形で、一種のオカルト陰謀論を紡いでいく。ドイツの場合、反ユダヤ主義は、白人=アーリア人優越思想のゲルマン化した形態である「フェルキッシュ思想」を介して、ナチスによるホロコーストへとつき進んでいくが、フランスをはじめとするカトリック圏においても、右派オカルティスト、原理主義カトリックの圏域から、対独協力派のヴィシー政権、シャルル・モーラスやセリーヌに連なる妄想的な「オカルト=陰謀論」が形成されていくことになる。
『何かが空を飛んでいる』
<異界の言葉―テオドール・フルールノワ『インドから火星へ』>
・たとえば、1895年夏には、アメリカの霊媒スミード夫人の許に、死者の霊を通して火星の住民に関する啓示が届いた。いっぽう、それを少し遡る1894年暮れ、大西洋を隔てたスイス、レマン湖畔でも、カトリーヌ・ミュレルという名の女性が、火星からの詳細な通信を受けはじめた・・・。
・そして彼が1894年に出会った霊媒こそカトリーヌ・ミュレルにほかならず、フル-ルノワは以降5年に及ぶ詳細な研究を経て、その成果を『インドから火星へ』として世に問うたのである。
・ミュレルは当時30代前半で昼間はジュネーヴの大きな商店に勤務していた。彼女のプライヴァシーを考慮して『インドから火星へ』ではエレーヌ・スミスなる仮名が用いられており、今ではその名前のほうで知られているから、ここでも以下彼女をエレーヌと呼ぶことにしよう。
・霊媒としてのエレーヌを特徴づけているのは、ひとえに彼女―もしくは彼女に憑依する霊たちーの紡ぎ出す『物語』に他ならない。それは簡単にいえば、長大な転生譚である。すなわち、彼女は15世紀にあってはインドの土豪シヴルーカの王妃、18世紀においてマリー・アントワネットであった。そして、彼女の指導霊レオポールトとは、実は仏国王妃の愛人、かのカリオストロであり、いっぽう、フルールノワ教授も観察者の位置にとどまることを許されず、シヴルーカの生まれ変わりの役を振り当てられた。容易に想像がつくように、フルールノワとエレーヌの間に、精神分析医と患者に発生する共感現象が起こっていたのは疑えない。
・そして、火星。彼女の霊魂は地球の軛を離れて火星にも転生したのであり、火星の住民、自然、風景などの描写がやがて交霊会の席上にもたらされるようになった。それはあるときは言葉によってであり、あるときは絵画によってである。
もちろん、こういった複数の生(フルールノワはこれらをそれぞれヒンドゥー物語群、王妃物語群、火星物語群と呼ぶ)をめぐる通信は、エレーヌとその信奉者にとっては紛れもない事実としてうけとめられた。
<私を涅槃に連れていって>
・そういうわけで、本章では、空飛ぶ円盤の世界のなかでも最もいかがわしく、かつ生臭いUFOカルトに焦点をあてることにしよう。
UFOカルト、あるいは宇宙人カルトという言葉は、普通の人にはおそらく馴染みがないでしょう。ただし、実際には、円盤をめぐる運動のなかではこれが社会的にも最も影響力が強いんだよね。ともかく、具体的な例からまず挙げてみようか。
・たとえば、1980年に発足した「日本ラエリアン・ムーブメント」-この団体はフリーセックスを教義のひとつとしているためにマスコミで騒がれたりしたが、本質的には、世界中に数多ある典型的なUFOカルトのひとつである。「教祖」はクロード・ボリロン・ラエルと名乗るフランス人で、彼は1973年にUFOに乗ってきた宇宙人と接触、宇宙人と人類についての「真理」を告げられて、「ラエリアン・ムーヴメント」を興し、現在、日本を含めて世界中で約3万人の信者を従えている。
・ラエルによれば、人類を地球上に創造したのは彼方から飛来した宇宙人たち(エロヒムと呼ばれる)であり、聖書とはその事実を記述したものに他ならない。2万5千年前の創造以来人類を見守ってきた宇宙人たちは、現在ラエルを自分たちのメッセンジャーとして用いているのだが、破滅に瀕した世界を救うためにはエロヒムを地球に再度迎え入れねばならない・・・。
どっかで聞いたような話のような気がしますが、実はそのとおりで、基本的には昔からある話です。陽の下に新しきものなしって言うけれど、僕たち人間は大昔から同じ話に聞きほれてきて飽きない動物なんだ。
・こうして熱狂的なコンタクティ・ブームが始まり、彼らの周囲に集まった人々はカルトを形成して、UFOカルトの第一次黄金時代が現出したのである。外来文明の受容の素早さには定評のある我が国にも昭和30年代全般にこのブームは波及、イギリスのコンタクティ、ジョージ・キングの創設したカルトの日本支部があっという間にできているし、「宇宙友好協会(CBA)」という世界に誇るべき(?)カルトも形成された。CBAはその行動性、熱狂性で群を抜いており、地軸がもうすぐ傾いて世界は破滅、異星人の宇宙船に乗っけてもらって助かるんだという「教義」のゆえに、悲喜劇が展開することとなった。
・なお、三島由紀夫の怪作『美しい星』は、CBAのことを知らないと理解できない部分が多いので要注意。そうそう、CBAといえば、僕には個人的な思い出がある。僕が70年代の円盤ムーヴメントに足を突っ込んでたことは話したよね。で、その頃CBAなんて幻の団体というか、とっくの昔に潰れてると最初思ったんだけれど、ところがどっこい、円盤の裏の世界で依然として精力的な活動を続けているのを目撃して、驚いてしまった。このへん、ほんまにやばいような気もするので、詳しく語るのはやめにしよう。
『口語訳・遠野物語』
<さらわれた娘(上郷村)>
(原文修正:当ブログ) ・上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山に入ったまま、とうとう帰って来ないことがありました。いくら待っても待っても帰ってこないものですから、家の人たちもついに諦めてしまいました。しかたなく、かわいい娘がいつもしていた枕を娘の身代わりにして、泣く泣く葬式を出しました。そして、いつの間にか2、3年たってしまいました。 ところがある日、同じ村の人が猟をしに古葉山の中腹に入ったときのことです。遠くからは気がつきませんが、大きな岩がおおいかぶさって、その下が洞窟のようになったところで、思いがけず、この娘とばったり出会ったのです。 二人は互いにびっくりして、しばらくは声も出ませんでした。が、猟師が尋ねました。 「ほだら、おめえはなにしてこんたな山の中にいるんだ・・・・」 「栗拾いに山の中に入ったところ、とってもおっかない人にさらわれで、気がついだら、こんなどこにいたったのです。なんども逃げて帰りたいと思ったけれども、少しもすきを見せない人だから・・・」と、娘は青い顔で答えます。 「それでは、そのおっかない人って、どのような人なんだ」と猟師がたずねますと、「私には、普通の人間と変わりなく見えるけれど。ただ、背丈はとても高くて、眼がきつくて、恐ろしいときがあるのす。私は子供を何人も生んだけれど『この子供は、おれに似てないから、おれの子ではない』と言って、どこかに連れで行かれてしまったの。本当に、食うんだが、殺すんだが分からないけれど・・・」 「その人は、ほんとうに、おらと同じ人間なんだろうか・・・」と猟師がかさねて尋ねますと、「着ている着物などを見ても、普通の人と変わりないけれど・・・。そういえば、眼の色が違っている。市日と市日の間に、1回か2回、同じような大きな人たちが、4、5人集まって来て、なにが、一緒に話をして、どこか出かけるようだった。食物など、外から持ってくるところをみれば、町にも出かけるんでないですか」と娘が言ったあと、「あや、こんな事言っているうちにも、あの人、帰って来るかもしれぬ・・・」と、おびえたようすで、あたりをきょろきょろ見回し始めました。 この猟師も急に恐ろしくなり、あわてて逃げ帰ったということです。いまから、せいぜい20年くらい前のことだと思われます。 <人さらい> ・遠野の里に住む人々の子女で、異人にさらわれていく人は、毎年多くありました。ことに女の人に多かったということです。
『聖母マリアの奇跡』
世界中に出現する「キリストの母」からの預言メッセージ
鬼塚五十一 学研 2003/5
<『ファチマ第3の秘密を全世界に公表しろ!』>
・改めて振り返ってみると、すでに23年の歳月が流れている。当時、私は『週刊現代』(講談社)の記者をしていた。
そんなある日、デスクから「面白そうだから、これを追いかけてみろ」と、小さな新聞記事の切り抜きを渡された。記事といっても、わずか1段数十行の、いわゆる「ベタ記事」と呼ばれるものである。丹念に隅から隅まで読む人でないと、思わず見落としてしまうような小さな記事だ。そこにはこう書かれてあった。
「ハイジャック犯の要求『ファチマ第3の秘密を全世界に公表しろ!』」
ロンドンのヒースロー空港で、旅客機がハイジャックされ、犯人はそう要求しているものの、その要求内容はまったく不明だということだった。そのほか、詳細は何も書かれていない。
<聖母出現の聖地に続々と訪れる巡礼者たち>
・ポルトガル人を夢中にさせるものは、3F。ファチマ、ファド(ポルトガルの演歌)、フットボールである。その3Fのひとつ、ファチマが聖母出現の聖地であり、毎年5月13日がその祝日となっている。人々の群は、そのファチマへ向かう巡礼者なのだ。
彼らは昔から何日もかけ、歩いてファチマに巡礼する。今やこの国民的行事となった巡礼のため、政府の軍隊や赤十字は国道の要所に仮宿泊所や治療所のテントを設け、国をあげてこの宗教的行事に対応するのである。
<3人の子供たちに告げられた3つの預言>
・ファチマは、首都リスボンから北東へ約150キロのところにある、人口わずか2500人の小さな村である。この村に聖母マリアが出現したのは、ロシア革命が勃発した1917年のことだった。
・その年の5月13日、ルチア・ドス・サントス(当時10歳)と、その少女のいとこにあたるフランシスコ・マルト(当時9歳)とヤシンタ・マルト(当時7歳)の兄弟が、羊を負いながらコーワ・ダ・イリアという窪地にやってきたとき、聖母の出現を受けたのである。
そのとき、聖母は雪のように白い衣服をまとい、黄金色で縁取られた白いマントを羽織っていた。聖母はこの世のものとは思えない清らかな声で、3人の少年少女に優しく呼びかけた。「怖がらないで。悪いことはしません。私は天国からやってきました。世界が平和であるように、毎日熱心にロザリオの祈りを唱えなさい」
そして聖母マリアは3人の子供たちと、毎月13日の同じ時刻、同じ場所での再会を約束して別れを告げたのである。
「ご出現があったのは合計6回で、第3回目の7月13日、聖母は3人の子供に3つの預言をいたしました。第1の預言は、当時の第1次世界大戦(1914年~1918年)が間もなく終結するだろうということ。第2の預言は、第2次世界大戦の勃発、核兵器使用とソ連の脅威です。そして第3の預言は、まだ公表されていないのです。その第3の預言が秘密にされつづけたため、『ファチマ第3の秘密』といわれるようになったのです」
いうまでもなく、第1と第2の預言は見事に的中している。とくに第2次世界大戦の預言は、恐ろしいほどに当たっている。
・預言を受けた3人の子供のうち、ルチアは1948年から現在までコインブラのカルメル修道院で健在であり、2003年には96歳になる。彼女には、ローマ教皇の許しがない限り、親戚以外は面会することができない。
筆者も当修道院を訪れ、取材を申し込んでみたが、ガードは堅く、断られてしまった。近所の人の話だと、彼女は選挙のとき以外は外出しないという。
カルメル修道院はルチアに関して、厳しく沈黙を守ったままである。
残りのふたり、フランシスコとヤシンタは、聖母マリアの預言どおり、出現から1年たらずのうちに死亡している。
<輝く太陽が火車のように回転し、落下した!?>
・出現当時、3人の子供たちは当然のことながら、人々から嘘つき呼ばわりされ、地元の教会からもきつく戒められていた。
ところが、噂が噂を呼び、第5回目の出現があった9月13日には、刈り入れの忙しい時期にもかかわらず、2万5000人から3万人の群衆がファチマの地に押し寄せてきた。その日の目撃者は次のように語っている。
「前の日からひっきりなしに人々の列が続き、明日の出現に立ち合うために徒歩でファチマへ向かった。それは本当に人の山だった。道を歩きながらロザリオを唱えつつ進む、無数の巡礼者の敬虔さ。燃える信仰。私は深く感動し、たびたび目から涙が溢れでた。10時ごろ、私たちは到着した。群衆はすでにおびただしい数にのぼり、ほとんどの人がひざまずいて熱心に祈った。最後には群衆の数は、3万人近くもなっていると思われた」
・3人の子供たちには、球に乗った光り輝く聖母マリアが見えた。
・聖母マリアは3人の子供たちに、戦争の終結を願うためにはロザリオの祈りを続けることが必要だと説いた。そして、かねてからの約束である奇跡の実現の日と、10月13日に再来することを告げ、再び光を放つ球に乗って太陽の中に消えていった。
約束の10月13日、ファチマには10万人以上の群衆が押し寄せ、興奮の坩堝と化していた。聖母マリアはその10万人の群衆の前で、太陽を火車のように回転させたのである。
太陽の大きな光の束は、緑、赤、黄、紫、青と変化し、四方八方に飛び散った。周囲の雲は虹を浴びたように輝きわたり、木も草も人間も動物も、地上のものは大光線の綾なす世界に飲み込まれてしまった。群衆は息を殺し、身動きひとつせず、この光景に見入っていた。
この光の乱舞は合計3回続いた。ところが、3回目の回転が終わると、太陽は赤く燃え上がる火の玉になり、群衆目がけて突進してきたのだ。まるで世界の終わりが来たかのようだった。
詰めかけた群衆は大混乱に陥った。大多数はその場にひざまずき、うめき声や涙とともに、大声で今までの自分の生き方に対する改悛の祈りを唱えはじめた。人々はこのとき、強い熱を感じていたのである。
人々の祈りが高まったとき、突如、太陽は落下を止め、降下したときのように稲妻の光のようなジグザグの経路をたどって元の場所に昇っていった。やがて、少しずつ普通の輝きを取り戻し、青空の中におさまったのである。
奇跡は終わった。
このとき、出現前に土砂降りの雨に打たれ、濡れていた人々の着物は乾いていた。
群衆の中には信者もそうでない者も、田舎の人も都会の人も、科学者も新聞記者もいたが、すべての人々は一様に信じた。
さらに、この現象を何も知識のない多くの人々が、ファチマから30~40キロ離れたところで目撃している。
・翌日の新聞は、このファチマの大奇跡を大々的に報道した。教会ではあまりの事の大きさに、10年以上厳密な調査を重ね、1930年10月13日、ファチマの聖母に対する信心を許可することを正式に宣言した。この奇跡が許可された日、出現があったコーワ・ダ・イリアには10万人もの巡礼者が、世界各地から集まってきた。
1932年5月13日には、リスボン駐在教皇大使自らが大巡礼団の団長を務め、ファチマを訪れた。
現在、ファチマの聖母出現地には、広大なファチマ大聖堂が建てられ、世界各地のカトリック信者が年間200万人も訪れている。