『世界の陰謀と戦争の謎』
「人類の歴史は戦争の歴史」である。闇の奥で陰謀と不思議と怪奇が蠢く
世界の戦争ミステリーの謎を暴く‼
<ナポレオンの怪異な噂>
<「戦争の天才」は、実は“縁起かつぎ”だった ⁉>
<政治と軍事に秀でた英雄の意外な一面?>
・フランス革命の混乱を清算し、皇位の位に上り詰め、一時はヨーロッパの大半を征服した英雄ナポレオン・ボナパルト。政治と軍事に傑出した才能を示した彼ならば、さぞや論理的な思考の持ち主だと思われるが、実は意外と迷信深い面があったと伝えられている。
・そんなナポレオンは自分だけに見える守護星を信じており、戦いの前や危険な目に会った時は、よくその星に祈っていたともいう。「あの星が自分にだけ見えているうちは万事がうまくいくのだ」と。たしかにあれほどの成功を収めた人間には、その生涯を護り続けた何かが存在したのかもしれない。
なかでも奇怪なのは、「赤い男」の守護、という噂だ。
<テュイルリー宮殿に棲む「赤い男」>
・ナポレオン時代以前から、テュイルリー宮殿にはフランス史に関わる奇怪な「赤い男」の伝説があった。
これは16世紀に建築が開始され、歴代王家やナポレオンも使用したパリのテュイルリー宮殿で、多くは不吉な大事件(宮殿の主が変わるような………)が起こる時に目撃されるという男の伝説だ。
その正体は、1563年にこの宮殿の建設を命じた当時の摂政、カトリーヌ・ド・メディシスの宮廷で働いていたジャンという男だという。彼は宮廷の秘密を知りすぎたことで、摂政お抱えの占星術師の手で惨殺されたのだが、以後その霊はこの宮殿に取り憑いて、しばしば目撃されてきたといわれる。
・たとえば、ブルボン朝初代国王であるアンリ4世は、1610年、暗殺される日の朝この男を見たという。また、ルイ14世の母で摂政のアンヌ・ドートリッシュは、1648年のフロンドの乱(重税に怒ったパリ高等法院と民衆の暴動)が起こる数日前にこの男に遭遇し、かのマリー・アントワネットは1792年、フランス革命でテュイルリー宮が襲撃され、国王一家が幽閉される「8月10日」事件の前夜、宮殿の廊下でやはりこの男を目撃したといわれる。
・さて、ナポレオンが最初にこの「赤い男」を見たのは、一説にはテュイルリーではなく、エジプト遠征の最中だともいわれるが、その際、男はナポレオンに秘密契約による守護を申し出たという。以後、その加護によってか栄華を極めたナポレオンも、やがて運命が傾き、1814年、ついにパリを占領されて、皇帝を退位する直前に、やはりこの男の姿を見たというのだが………。
このほかにもナポレオンには、流刑地・セントヘレナ島での毒殺説や遺体すり替え説、はたまた影武者を使っての脱出説など、様々な噂がある。さすがに世界史でも特筆すべき英雄。ミステリアスな伝承にも、事欠かない。
<116年前のナポレオンからの手紙 ⁉>
<絶体絶命の危機を救ったのは世紀を超えた手紙だった ⁉>
<部隊は全滅の危機に瀕していた>
・時は1915年、第1次世界大戦の中東戦線、シナイ砂漠の堡塁を守って孤立したイギリス軍の分遣隊があった。周囲の敵はトルコ軍に、非友好的なアラブ人などで、堡塁を襲うチャンスを常に狙っていた。分遣隊はすでに食料を食い尽くし、水も尽きかけており、たとえ脱出に成功しても水なしではいずれ全滅は免れないと思われた。
イギリス軍指揮官ケイザル大尉は、部下を集めてこの窮地を脱する方法を探ったが、良い知恵はなかなか浮かばなかった。そこへ歩哨が、一人のアラブ人の老翁を引き連れてきた。しわくちゃで、相当の年齢と思われる老翁は、シナイ半島の住人で名をシェイク・ラファイ・ラバイと名乗った。
・老翁ラファイは、私はケイザル大尉宛の手紙を持参しました、と切り出した。「長い間、お渡しする機会を待ち、持ち続けてまいりました」と。ケイザル大尉はいささか困惑しながら、手紙を受け取ってみると、すでに褐色に変色しかなりの年数が経っているように見えた。さっそく開封して読んでみると「親愛なるケイザルへ」との書き出しで、古風なフランス語の書体で書かれていた。しかしフランス語はケイザルの第二の母国語であったので、読むに困らなかった。
ケイザルはラファイに訊ねた。「いったい、どこでこれを手に入れたのだ?」
ラファイは答えた。「かの大ナポレオン自身から預かり、ケイザル大尉以外には渡してはならない、と言われました。私はずっとあなたに渡そうと思っていましたが、あまり長い時間が経ってしまって何年になるか覚えておりません」。「そんな馬鹿なことはありえない。ナポレオンがエジプト遠征でこの地へやってきてから、116年経っている……」。そういいながらケイザルはゆっくりと手紙を翻訳していった。
「親愛なるケイザルへ
住民の少年に託したこの命令を受け取ったら、すぐに堡塁の下に埋めてある食糧・弾薬を掘り出せ。必要なだけ取ったら残りはすべて破棄し、エジプト国境へ撤退せよ。利用できる3つの道路の中で、海外沿いの道は進まず、砂漠の只中を通る中央の道を行け。一緒につけた地図にお前たちにとって重要な水穴の位置が書かれている。
確かにナポレオンからの手紙であった。
<奇跡の脱出を成功させた「偶然の一致」>
・信じられぬ面持ちで見つめる部下たちにケイザルは話した。
「これが我々の取るべき唯一の道だ。実は私の曽祖父に当たる人はナポレオン軍に従軍し、この地で戦死したと聞いている。恐らくこの手紙は彼に当てたものだろう。とすれば本当にこのあたりに食糧があるかもしれないぞ」
ケイザル大尉は直ちに部隊の全員に周辺を探させた。
やがて食糧・弾薬や水までもが発見された。それはイギリス軍がこの堡塁を占拠する2~3か月前に、あらかじめ敵軍が自分たちで利用するために埋めておいたものらしかった。元気を取り戻したケイザル大尉の分遣隊は、指示されたとおりの道を行き、水穴をすべて発見し、無事にエジプトへと脱出することが出来た。
老翁ラファイのかすかな記憶によれば、ナポレオンから金貨2枚とともに手紙を託され、堡塁に赴いたとき、すでにそこは放棄されて誰もいなかった。以来、律儀なラファイは、いつかナポレオンとの約束を果たすべき手紙を持ち続けていた。そして1世紀以上も後に、同じ堡塁にやってきたケイザル大尉の名前に過去の記憶を呼び起こし、手紙を届けたというわけである。
ラファイは相当の高齢であったろうが、奇しくも本来の届け相手の子孫の手に手紙を渡し、イギリスの一部隊を救ったことになる。
この不思議な「偶然の一致」。ロバート・リプレーの有名な奇談集『信じようと信じまいと』に掲載された“真実”とのことである。
<ナチスは地下王国の支配を企んでいた?>
<ヨーロッパを制圧したヒトラーの次の目的は ⁉>
<ベルリンで見つかったチベット僧の遺体>
・1945年4月、ドイツに攻め込んだソ連軍がベルリンに突入した際、市街の廃墟からチベット人の遺体が次々に発見された。彼らはドイツの軍服をまとっていたが、記章や階級章はつけておらず、なかには、整然とならび、それぞれ短剣で自分の腹を貫いている者もいた。緑色の手袋をはめた遺体も見つかった。一説に、死体の総数は1000以上に及んだという。
・ナチスがチベットに何度も調査団を派遣していたことは、歴史的事実である。
彼らは何を目的としていたのか?その謎を解くカギを握る人物に、ナチスの政治顧問だった地政学者カール・ハウスホーファーがいる。
<伝説の王国「アガルタ」はアーリア人の原郷?>
・ハウスホーファーは、若い頃にインドやチベット、また日本にも滞在し、チベットでは密教僧から奥義を伝授されたと主張している。そして、ドイツに戻ると、ヴリル協会という秘密結社に加入した。「ヴリル」とは、未来の人間が持つはずの霊的能力を指し、アーリア人種のルーツを探り、ヴリルを覚醒させることを目的としていた。
ヴリル協会の中心人物となったハウスホーファーは、やがて、超古代文明の源とされる伝説の王国「アガルタ」がチベットの地下に実在すると信じ、そこに今も超人が潜んでいると考えた。そしてこの超人こそが、アーリア人のルーツだと確信したのだ。
・ハウスホーファーのこの奇矯なオカルト理論は、助手を務めていたルドルフ・ヘスを介して、ヒトラーやナチスにも影響を与えることになる。政権を掌握した頃から、ナチスはチベットに探検隊を送り、チベット僧に接触を始めたという。「アガルタ」への道を探ろうとしたのだろうか?
一方、チベット僧団の一派はドイツに招かれ、ベルリンにはチベット人居住区まで作られ、ヒトラーと極秘に接触を持ったという。そして、数々の予言を行ったこの僧団の指導者には、「緑の手袋をした男」という異名があったというのだ。
<ナチスのルーツとなった秘密結社があった ⁉>
<ナチズムの狂気は、ヒトラーのオリジナルではなかった?>
<謎の結社・トゥーレ協会>
・フランス革命やアメリカの独立戦争に、秘密結社フリーメーソンが少なからぬ影響を与えたことは有名な話だが、ナチスドイツの誕生にも、同様に秘密結社が関与していたという説がある。
実は、ヒトラーが権力の基盤としたナチス(国家社会主義ドイツ労働党)は、オカルト的な半秘密結社をルーツとしている、といわれているのだ。
その結社とは「トゥーレ協会」。1918年頃にミュンヘンで結成された。「トゥーレ」とは古代ギリシャ人が極北にあると考えた伝説上の島のことで、アーリア人(ゲルマン民族のルーツ)の発祥地とも信じられた。強固な民族主義を奉じるこの協会のメンバーは、ユダヤ人排斥を掲げ、さらには悪魔崇拝や黒魔術の儀式を執り行っていたともいわれる。
トゥーレ協会結成の中心となった人物は、ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ。機関士の息子だが、トルコ在住の貴族の養子となったとして男爵を自称していた。フリーメーソンに加入していたこともあったといい、トルコからドイツに戻ると占星術雑誌の編集長となり、やがてキリスト教以前に遡る、ゲルマン民族古来の宗教の復興をめざす「ゲルマン教団」の団員となった。
<ヒトラーが隠蔽した過去>
・そしてゲルマン教団のバヴァリア支部の姉妹組織として誕生したのが、トゥーレ協会なのである。
ほどなくトゥーレ協会の支援を受けて、第一次大戦敗戦直後の1919年、右翼団体のドイツ労働者党が組織された。そして、幹部に見込まれて、この党の55番目の党員となったのが、アドルフ・ヒトラーだ。ヒトラーはすぐに幹部となってこの弱小団体を急激に成長させ、1920年に党はナチスと改称。翌年ヒトラーは党首となる。
だが、成長をつづけるナチスの幹部とヒトラーは、やがて怪しげな秘密結社との関係を過去の汚点と考えるようになり、トゥーレ協会の幹部を弾圧、ゼボッテンドルフは国外に逃れている。
しかし、この協会がモットーとした民族主義と結びついた異常な人種思想・狂的な反ユダヤ主義は、しっかりとナチズムの血脈に受け継がれたといえるだろう。
<大量虐殺を推進した「ヒトラーの後継者」の不気味な素顔>
<オカルトに憑かれたヒムラー>
・ナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーの配下には、逸話に富んだ薄気味悪い悪役にことかかない。ハインリッヒ・ヒムラーはその筆頭格で、秘密警察ゲシュタポと親衛隊(SS)の実権を握った彼は、悪名高いナチスの虐殺や粛清で、陣頭指揮を執った。そのあまりに非人間的な冷酷さゆえに、あのヒトラーをも恐れさせたといい、ヒムラーはナチスドイツの影の実力者であったともいえるだろう。
このヒムラーは、異常な人種観にかぶれたオカルト思想や、魔術の熱心な信奉者だったともいわれている。
・彼がオカルト結社の会員となったのは10代のころだったといわれる。そこで民族主義に目覚め、熱心に政治活動に取り組んだヒムラーが、結党されて間もないナチスに入党したのは24歳のころだった(その後、養鶏業を営んだ時期もあったらしい)。
それからおよそ10年。ナチスは政権を掌握し、ヒムラーは親衛隊長にまでのぼりつめたのだ。
<秘密結社「血の13騎士団」とは?>
・こうしてナチス内で実質ナンバー2の地位を築いたヒムラーは、やがてある危険な野望を抱きはじめる。それは、第3帝国内に親衛隊帝国を独立させ、ヒトラーに代わる権力者になることだった。
そして、あやしげなオカルト研究者を顧問にすえて結成されたのが、秘密結社「血の13騎士団」だった。これは選りすぐりの親衛隊の将校12人とヒムラーからなるもので、中世に建造されたヴェーヴェルスブルク城を本拠地とし、キリストの脇腹を突いたという「ロンギヌスの槍」を団のシンボルとした。
なぜ、この城を本拠地としたかというと、「東方で巨大な赤い嵐が発生して、ドイツを危機に陥れるとき、ヴェーヴェルスブルク城の騎士たちによってそれは鎮圧され、その団長は世界の救世主にして支配者になる」という伝説があったからだ。「東方で巨大な赤い嵐」――それを、ヒムラーは共産主義のソ連と考えたのだ。
団の活動の実際は謎のベールに包まれているが、集まった13人員は、黒い衣裳をまとってここで魔術儀式を執り行い、霊の召喚を試みたといわれている。だが、聖槍の秘密を知っていたという、中核になっていた団員のひとりが不可解な死を遂げると、騎士団は解散状態となる。そして、これと符合するかのように、第3帝国の命運は凋落をはじめた。
ヒムラーは戦争末期、ヒトラー失脚を企んだが、失敗。「ヒトラーの後継者」を名乗って連合軍との講和を試みたが、これは拒絶される。
ヒトラーの死後、ドイツからの脱出を図るが、イギリス兵に拘束されてしまう。すべての交渉を拒否され心理的に追い詰められたヒムラーは、奥歯に仕込んでいた毒物を噛み砕いて自殺した。44歳であった。
<秋山真之は超能力者だった ⁉>
<「坂の上の雲」主人公の意外な素顔とは?>
・英文学者で、明治から昭和の戦前に隆盛した新宗教・大本教の幹部も務めた浅野和三郎は、日露戦争で活躍した日本海軍連合艦隊の名参謀・秋山真之と親しかった。
秋山の没後、浅野は日本海海戦での秋山の次のような不思議な体験を、本人から直接聞かされた、と述懐している。
明治35年5月、ロシアのバルチック艦隊との日本海での決戦を控えた、日本海軍連合艦隊の旗艦<三笠>は、朝鮮半島南岸沖で待機していた。司令長官の東郷平八郎元帥とともに<三笠>に作戦参謀として座乗していた秋山は、24日明け方、士官室の安楽椅子に腰掛けてウトウトとしていると、夢うつつのなかで、対馬海峡の光景が現れた。そこを、バルチック艦隊が二列縦隊を作って北へ進んでいた――。
「なるほど、敵はあんな隊形でくるのだな、それならこの手で迎撃すればよい………」
そう考えた瞬間、夢は覚めた。ちなみに、24日の時点では、インド洋を横断してウラジオストクに向うバルチック艦隊が、対馬・津軽・宗谷の各海峡のうち、どのコースを通って日本海に侵入するか、日本側は計りかねていた。
果せるかな、3日後の27日、バルチック艦隊対馬海峡に現れた。秋山が見たその光景と敵の隊形は“霊夢”で見たものと、寸分違わないものだったという。
日本海海戦は、対馬海峡で待ち受け、秋山が唱えた奇策「敵前大回頭(T字作戦)」で滝艦隊を翻弄した連合艦隊の完勝に終わったことは、周知のとおりである。
<名参謀の知られざる意外な晩年>
・ところで、なぜ秋山と浅野の二人に交流があったのかというと、実は秋山は晩年、宗教の世界にのめり込み、海軍機関学校の教官でもあった浅野を介して大本教に接し、入信していたのだ。
・そして大本教に深くのめり込んだ秋山は、「鎮魂帰神」という修行に取り組み、海軍関係者を多数入信させている。
・秋山は日本海海戦の勝利を、自身の能力を超えた、天佑神助によるものと感じたといわれる。類い稀な戦運が、晩年の彼を宗教の世界に導いたのかもしれない。
<日本の敗戦を予言した「日月神示」とは ⁉>
<日本を襲う災厄の予言は、まだ終わっていないのか?>
<戦争末期に降臨した謎の神?>
・昭和19年4月18日、帝都東京・原宿のとある家の座敷で、十数名の人間が集まって「扶乩(フーチ)」の実演会が行われていた。
・集まっていたのは古代史研究グループ修史協翼会のメンバーと、小川喜一陸軍少将らで、この実演会の司会役を務めたのが、当時、千駄ヶ谷の鳩森八幡宮の留守神主をしていた岡本天明という人物であった。
今後の戦局を占おうというのが目的のひとつだったが、実験が始まると、盤上には「ひつく」という文字が描かれた。みな首をかしげたが、後にこれは「天之日月神」を指しているとわかり、これをきっかけに岡本天明は千葉県の天之日津久神社を訪れた。
ところが、参拝するや岡本に神霊が降り、手が勝手に動いて自動書記を始めた。これが「日月神示」と呼ばれるもので、神示は以後10年以上、断続的に岡本を介して告げられることになった。
<軍部に回覧された驚愕の霊示>
・数字・かな・記号などで構成される日月神示の解読は容易ではなかったが、驚くべきことに終戦の1年以上前に、明らかに日本の敗戦を予告する言葉が記されていたのだ。
「東京はもとの土に一時はかえるぞ」「偉い人みな俘虜となるぞ」…………。
軍人の一部にはオカルティックな思想に凝り固まった者もいたが、日月神示はそうした神国日本を狂信的に奉じる将校たちの間では有名であり、ガリ版で刷られて配られるなど、広く読まれていたといわれる。
・そして予言どおり、日本は敗戦を迎える。だが、当時の岡本の神示には、不気味な言葉も含まれていた。
「本当の戦はこれからである」
<ロシア将軍トゥチコフ伯爵夫人の予知夢>
<ナポレオンのロシア遠征の陰で起きた奇妙な出来事>
<繰り返される悪夢の意味は?>
・1812年、フランスの皇帝ナポレオンは、60万人ともいわれる諸国の軍隊を率いて、ロシアへと侵攻した。
文豪トルストイの小説『戦争と平和』にも描かれたこの大遠征で、ナポレオンは広大なロシアの大地深く攻め込み、一時はモスクワを占領したものの、夏の酷暑や冬の酷寒というロシアの大自然の脅威や補給の不備、さらにはロシア側の焦土戦術や徹底抗戦などに苦しみ、結局はとてつもない人命を犠牲にして撤退することになる。この敗北が以後のナポレオンの運命を大きく狂わせることはよく知られている。
・さて、この話はナポレオンが侵攻を開始した当初、ロシアの将軍・トゥチコフ伯爵の夫人に起こった不思議な出来事である。
ある日、夫人は夢を見た。見知らぬ町の宿屋の一室に自分がいる。すると幼い息子を抱いた父が部屋へ入ってきて言った。
「お前の幸福は終わった。彼は倒れた。彼はポロディノで倒れた」
二度もこの夢を見た夫人は、さすがに気になって夫のトゥチコフ将軍に打ち明けた。むろん将軍はいたって元気そのものだ。
・9月7日、退却を続けていたロシア軍は、聖都モスクワの間近まで攻め込まれ、ついにナポレオン軍を迎え撃つ覚悟を決めた。トゥチコフ将軍もこの戦いに馳せ参じ、戦線左翼で指揮を執った。
・翌朝、夫人が休んでいた部屋へ、父が幼い息子を抱いて入ってきた。そして父は口ごもりながら言った。「彼は倒れた」「彼はボロディノで倒れた」と――。
前日、両軍合わせ25万ともいわれる軍勢が激突したその戦場は、名も知れぬ寒村に過ぎなかった「ボロディノ村」の周辺で戦われたのである。そして、トゥチコフ将軍も、この地で名誉の戦死をとげたのであった。この大会戦は、この後「ボロディノの戦い」と呼ばれることになる。まさに予知夢となってしまったのである。
<「フー・ファイター」の正体は ⁉>
<戦空を飛び回る謎の飛行物体はUFOなのか?>
<「フー・ファイター」の正体は ⁉>
・第2次世界大戦中、連合軍や枢軸軍のパイロットたちは敵機でなければ友軍機でもない、正体不明の謎の飛行物体をたびたび目撃している。アメリカ軍パイロットたちはこの謎の飛行物体のことを「フー・ファイター(Foo Fighter)]と呼び、恐れたという。
このフー・ファイターという呼び名は、当時アメリカで人気だったナンセンス漫画の主人公で、消防士であるストーパーの口癖「Where there’s foo,there’s fire(フーあるところにファイアーあり)」からとって付けられたと言われている。
・1943年10月14日、アメリカ軍爆撃機がドイツのシュバインフルトを爆撃しているさなか、第384爆撃飛行隊がフー・ファイターに遭遇している。同飛行隊が爆撃行程に入ろうとした時、その経路上に正体不明の銀色に光る飛行物体群が確認されたのである。このときにはドイツ空軍の戦闘機はいなかったし、第一その物体は攻撃をしてこなかった。
<ヨーロッパ戦線でも太平洋戦線でも目撃された光る飛行物体>
・1944年後半になると、ヨーロッパにおけるフー・ファイターの目撃報告は急増した。11月27日、マンハイム上空を飛行中の連合軍機はオレンジ色に光る巨大な球体が、機体から500メートル上空を飛行しているのを目撃している。
・当然このフー・ファイターはヨーロッパ戦線だけでなく、太平洋でも目撃されている。1942年のソロモン諸島で、アメリカ海兵隊の兵士が150個もの銀色に輝く物体が飛行しているのを目撃。飛行機の形状はしておらず、日本軍の航空機よりも速く移動していたという。
<フー・ファイターの正体に関する仮説>
・ドイツではこの正体不明の飛行物体を調査する特別委員会U13を設置したとされているが、どのような活動をし、いかなる結論を出したのかは不明である。
また、アメリカでは戦後の1953年、空軍のUFOデータを検討する目的で、ロバートソン委員会がCIAの後押しで設けられ、大戦中のフー・ファイターの再検討を行っている。
<ナチスは本当にUFOを開発したのか ⁉>
<戦後も世界を恐怖させたナチスの亡霊?>
<「フー・ファイター」はナチスの秘密兵器だったのか ⁉>
・多くの人には荒唐無稽としか感じられないかもしれないが、UFOはナチスの残党が逃亡先で作った特殊航空機であるという説がある。21世紀の現代では都市伝説の類にされてしまうが、「UFO=ナチス製」というのは、宇宙人の乗り物説と同じくらいポピュラーなものだったのだ。
第2次大戦の後半に、アメリカ軍パイロットがヨーロッパ戦線でたびたび目撃した光る飛行物体フー・ファイターを、当時のアメリカ紙では「この奇怪な飛行物体はナチスがドイツ上空に出現させた新兵器だ」と報じているし、イギリス紙も「“フー・ファイター”はドイツの秘密兵器で、クリスマス・ツリーに飾るミラー・ボールそっくり」と報じている。
また、ナチスは数々の秘密兵器を研究開発していたが、複数の円盤型航空機を研究していたことは事実である。
・しかし、フー・ファイターはドイツ軍パイロットも目撃しているが、一般の兵士には知られずに極秘で特殊機の飛行実験をしていたこともありえない話ではない。
第2次世界大戦でドイツは敗北したが、ナチスの残党が南米あるいは南極に逃亡し、コミュニティを作っているという噂は根強く囁かれ続けている。
・戦後、多くのドイツの技術者たちが、アメリカに引き抜かれ、なかには軍の研究機関で円盤型航空機の開発に従事した者もいたとわれる。
そして、いわゆるUFOが世界中目撃されて大ブームとなったのは、第2次大戦後の1947年からのことだ。当初、アメリカの空軍基地近くでの目撃報告が目立って多かったことは非常に興味深い。
UFO伝説の背後には、オカルトから最新科学まで、あらゆる可能性を追求したヒトラーとナチスの影が、いつまでも揺曳しているようだ。いや、ナチス残党のUFO、あるいは米軍のUFOにしても、ナチスドイツという存在が人類にとっていかに強烈であったかを示す事例といえよう。戦争が終わってからも、世界はナチスの亡霊に怯えていたのだ。
<自衛隊は“UFO情報”を隠蔽している ⁉>
<レーダーで捉えた未確認飛行物体の情報をなぜか公表しようとしない?>
<スクランブル機がUFOと交戦?>
・「自衛隊の戦闘機がUFOに撃墜された」という“都市伝説”をご存知だろうか?
これは1970年代にあった事件といわれ、撃墜されたのはスクランブル発進したF-4EJ、脱出したパイロットは死亡したということになっている。
一部ではパイロットの氏名や機体番号まで示されたが、そんな機体番号は航空自衛隊には存在しないことがわかり、この「事件」は結局フィクションだったと結論づけられている。だがそれも「最初の情報提供者が機体番号を間違えた」「防衛庁が情報を操作した」などと、陰謀論の視点に立てば、いくらでも都合よく説明できてしまう。
“UFO情報”を政府や軍(日本なら自衛隊)が隠している、あるいは宇宙人との密約を交わしている………というのは、どうやら主要先進国にはつきものの噂、都市伝説のようだ。
・平成21年4月4日、北朝鮮の弾道ミサイル打ち上げを警戒中だった千葉県旭市飯岡の空自レーダーが、日本海上空で飛翔体の航跡で捕捉した。飯岡からの通報により弾道ミサイル発射警報が出されたが、これは北のミサイルではなかった。
・では、空自のガメラ・レーダーが探知した「飛翔体」は、いったいなんだったのだろうか?
<レーダーは捕捉していた ‼ >
・速度の遅い気球や航空機ならば、システムも現場のオペレーターも、北朝鮮のミサイルなどと判断することはないだろう。
ミサイルほどの速さで飛翔する物体、つまりは高速の飛行物体の航跡を、ガメラ・レーダーが捕捉したのは間違いないのだ。北のミサイルでないとすると、それは隕石だったのだろうか。あるいは北のミサイル動向を監視するロシアやアメリカのステルス偵察機、それとも…… ⁉
<UFO情報が公開できない理由>
・これは米軍でも同じだが、自衛隊のレーダーで補足されたUFO――未確認飛行物体について、仮に情報開示請求を行っても、防衛省がそのすべてを公開するようなことはありえない。
その理由は、宇宙人との密約があるからではない。
レーダーが捕捉した飛行物体の公開が問題になるのではなく、情報を公開することで、間接的にそのレーダーの能力が他国に知られてしまうことが問題となるのだ。
つまり、防秘上の理由により、自衛隊は「UFO情報」を隠すしかない側面があるというわけだ。
『世界霊界伝承事典』
ピーター・ヘイニング 柏書房 1995/11
<黄色い人>
・根強く残る言いつたえによれば、フランス国民の運命は、通称「黄色い人」という幽霊の出現となぜだか関係している。顔は黄色で喉のまわりに赤印のあるこの妖怪は、1870年にはじめて目撃されたとの由。これは、いざ普仏戦争(1870~71)が勃発しようという時期だった。エリオット・オードネルは、『諸族の幽霊と幽霊現象』(1933)でこの幽霊について書いている。同書にはこうある。
・「戦争を生きのび、いわゆる<黄色い人>を見た記憶のある人の意見では、それはなぜかフランスの命運に関係していて、その出現によってフランスがもうすぐ戦いに参じることが告知されたという。<黄色い人>は、政治家のガンベッタ(1838~82)が死ぬ前にもふたたび下院で何人かに目撃されたし、カルノ大統領(1837~94)の暗殺前夜にも同じ場所で一群の人びとが見た。1910年にも、同じ建物でまたもやだ。最後に現れたのは(第1次)大戦の始まる数日前だったという噂もある」。
<帰還霊>
・たんに幽霊の異名とされることも多い単語。だが本来的に言うと、長らく姿を消したのちに黄泉の国から戻ってきた存在をこう称したのであって、たとえば吸血鬼がこれにあたると思われていた。吸血鬼は一時死んだように見えても、やがて蘇る力を持っているからだ。それどころか、帰還霊は伝統的な幽霊とはじつはそうとう異なる。というのも、これは何十年、はては何百年も待ちに待った末に、はじめて世に再登場した霊と言うべきだからだ。
<キキーモラ>
・古代スラヴ人が、あるいくつかの一族になつくと言われた幽霊につけた名前。丁重にもてなせば、家族を災いから守るばかりか、たまに屋敷の整頓や掃除をして、家事を手伝ってくれるときまであった!
<「時に霊ありて我面の前を過ければ我は身の毛よだちたり」(「ヨブ記」)
>
・最近英国で行われた調査によると、回答者の44パーセントが幽霊の存在を信じており、うち7人にひとりが、その姿を見たり、音を聞いたり、取り憑かれたりした経験があると主張したとか。またこの世論調査から、英国民の半分以上がある種の心霊現象を信じている点も明るみに出た。
・アメリカでも似たような大規模な調査が行われ、それにより、海の向こうでの幽霊侵攻は一段と強いことが判明した。なんと成人人口の57パーセント以上もが、幽霊を信じていたのだ。
・筆者の知るかぎり、ほかの物書きはだれひとり、世界各地に見いだされる、さまざまなタイプの幽霊を定義づけようとしたり、史上名高い怪異現象を列挙したり、この問題にかかわった泰斗や著名人を詳述してはこなかった。とにもかくにも、一巻本では!
<ウェストポイントの幽霊>
・ニューヨーク州ウェストポイントにある名高い米軍陸軍士官学校には、150年ほど前に死んだ兵士の幽霊が、アンドルー・ジャクソン将軍(1767~1845)の時代の軍服に身を固めて出没する。これまで何人もの生徒が、シャコー(軍帽の一種)とマスケット銃を完備した、この印象的な妖怪を見たと報告している。
<レヴィ、エリファス>
・通称「最後のマギ」。傑出した19世紀フランスのオカルティスト。幽霊を意のままに呼び出す力をはじめ、超能力がかなりあったとされる。
・またレヴィは、イギリスの作家エドワード・ブルワー・リットンと親しく、リットンの傑作短編小説『憑きものと憑かれるもの』(1859)に魔術師として登場している。
<ワシントン、ジョージ(1732~99)>
・アメリカ合衆国初代大統領。1777年の凍てつく冬にペンシルヴァニア州のフォージ渓谷で部下と野営中、霊怪を見たと言われる。その幽霊は美女の姿で宿営中のワシントンの前に現われ、妙なる声でこう言った。「共和制の申し子よ、見て学べ!」ついで幽霊は、ワシントンが影響力を行使してアメリカに平和を回復させ、万人が平等に生活させてもらえるようにならなければ、アメリカがどうなってしまうのか、幻視で体験させた。ただ、この話の真偽は十分確証されてはいない。というのも、それが公表されたときには、すでにワシントンの死後60ほどたっていたからだ。
<ロンドン塔>
・「世界一の幽霊出没地」と呼ばれる場所。だが塔が建てられてから9百年、その間にここで処刑されたり死んだりした人間の数を考えれば、驚くにはあたるまい!なかでも一番よく知られているのが、ヘンリー8世の妻のひとり、アン・ブリンの幽霊。タワー・グリーン(芝生の広場)で斬首された彼女は、今も頭部を小わきに抱えて塔の界隈を歩きまわる。また「血塔」にも、そこで処刑された人びとの妖怪がいくつか出没するというし、宝物館にも、異様な青白い怪人がいたことが一再ならず報じられている。
<ホワイトハウスの幽霊>
・アメリカで一番有名な建物であるワシントンのホワイトハウスで幽霊を見かけたという話はいくつもある。が、この大統領官邸にいる確率がもっとも高いのは、当の大統領を務めたエイブラハム・リンカーンの妖怪だ。住人も客もリンカーンを見たと言っているばかりか、第26代大統領セオドア・ルーズヴェルト(1858~1919)も目撃者のひとりになっているほどなのだ。
・どうも1865年にリンカーンが暗殺されてからというもの、いずれの政権下でもだれかが必ず彼の幽霊を目にしているらしい。
・しかしリンカーンの幽霊がホワイトハウスに出没したところで、驚くこともないかもしれない。彼が超能力者だったのは周知の事実だし、超自然にたいする関心が昂じたあげくに、1863年4月には「深紅の間」で交霊会を開く許可を出したほどなのだから。そのさいは、約30分ほどさまざまな現象が見られ、ラップ音が聞こえたり、テーブルが動きまわったりしたらしい。かくて死の当日まで、この大統領は霊界と交信できることを固く信じていた――そして心霊研究家によれば、死後は生前の住まいにふたたび現れることで、それを絶えず証明しているのだという。