日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

鞍馬寺の説明では、僧正坊は「護法魔王尊」と呼ばれ、650万年前に金星から人類救済のためにやってきた「サナートクマラ」の仮の姿だとしている。(1)

 

(2024/5/8)

 

 

 

日本怪異妖怪事典 近畿

御田鍬、木下昌美(著)、朝里樹(監修) 笠間書院 2022/5/26

 

 

 

一目連(いちもくれん)

三重県桑名市の多度(たど)大社別宮の一目連神社に祀られているもので、暴風雨の際に大きな音とともに現れ、これを制するという。片目の龍とも言われ、『勢陽五鈴遺響』などでは天目一筒神(あまのひとつのかみ)と同一視される。

 『多度町史 民俗』によると、海で時化(しけ)にあった時に祈ると、ドーンと大きな音がして白馬に乗った一目連が現れ、助けてくれるという。また日清・日露戦争の際、大きな音を残し、白馬に乗って戦場に行くことがあったとされる。多度大社にある白い木馬の右足が欠けているのはこの時に負傷したものだという。

 

おさだ狐

三重県南勢町(現・南伊勢町)神津佐(こんさ)に伝わる。昔、おさだ狐という狐がいて、体の弱い人によく取り憑いた。これに取り憑かれた人は、わめいたり歌いだしたり奇妙な仕草をしたりするという。また、これに取り憑かれた人が死ぬと、狐がそのはらわたを食べるとされ恐れられた

 ある時、徳重という僧がやってきて、「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑を建て、墓参りのたびにお参りさせ、各組ごとに、毎月旧暦の15日の晩に南無阿弥陀仏の掛図をかけ、線香一本が燃える間念仏を唱えさせるようにすると、狐はいなくなったという。この石碑は現在も残っている。

 

河童の夫婦

三重県紀宝町に伝わる。昔、相野谷川に河童の夫婦がおり、畑の瓜や茄子や西瓜を盗むので、村人は作物を芋に切り替えた。食料に困った河童は村で一番たくましい酒屋の栗毛の馬を川へ引き込もうとするも、村人に見つかり、西照寺の本堂の前にある黒松と赤松にそれぞれ縛り上げられ、火あぶりにされることになった。

 河童が涙を流して詫びるので住職が村人を諭し助けてやると、河童は「うまく騙してやった。寺の松が枯れたらこの村を泥の海にしてやるからそう思え」と言って川に入った。なお現在、この二本の松はすでに枯れているようである。

 

五ヶ所浦の牛鬼

・昔、現在の三重県南伊勢町にある切間の谷の岩の洞穴に牛鬼という怪物が住んでいた。これは首から上は牛で、人の言葉を話し、一日に千里(約3927キロ)を駆け回る強い鬼で、毎月牛を一匹ずつ食べていたという

 ある時、五ヶ所城の城主の愛洲重明(あいすしげあき)が弓の稽古をしていると、脇の岸壁の上に牛鬼が現れそれを見ていた。重明が牛鬼に弓を放つと、胸に命中し、牛鬼は叫び声をあげて転げ落ちた。

 

少女郎狐(こじょろうきつね)

三重県伊賀市上野徳居町の広禅寺にいたという狐。

 大和(奈良県)の「源五郎狐」と同じく延宝年間(1673~1681)にいたとされ、源五郎狐の妻だと誰ともなく言われていたという。12、3ほどの少女の姿で、庫裏(くり)で手伝いをしたり、野菜を求めて門前に来たりしており、昼間に豆腐などを買って帰るのを見て、子どもたちが「こじょろ、こじょろ」と囃すと振り向いて微笑み、相手はしなかった。そうして4、5年ほど暮らしていたが、その後の行方は知れないという。

 

コボシ

三重県志摩市では河童のようなものを「コボシ」、「シリコボシ」、「カワコボシ」などと言う。

 岩田準一『志摩の海女』によると、天王祭の日に海に入るとシリコボシに生き胆を抜かれ、その死体の肛門は必ず開いているという。また、もしその日が口開け(海藻をとる定められた日)の場合、海女はシリコボシよけとして山椒の枝を糸で胸にかけて行ったという。

 

サンキジン

三重県伊勢市の大山祇(おおやまつみ)神社が社宮司社と呼ばれ、山の上にあった頃、境内にサンキジンという祠があった。明治の初め頃までは

大山祇神社の右側に碁石を積んだような跡があり、宮守であろうと触ると瘧(おこり)をふるうと恐れられていた。

 サンキジンは三鬼神のことだともいわれ、生贄を要求する神だった。ある人が生贄の娘に付き添ってみると、その正体は大猅々(ひひ)(あるいは大蛇、三つの顔を持った鬼などともう)だったので斬り殺した。それ以来、生贄の習慣はなくなったが、毎年正月三日には藁で30センチほどの人形を作り、女性の髪の毛を添えて社宮司社に供え、海に流すようになったという。

 

鈴鹿御前(すずかごぜん)

鈴鹿山(三重県亀山市)に現れたとされる鬼女。「鈴鹿姫」、「立烏帽子」とも。

 坂上田村麻呂が勅命で退治に立烏帽子の御殿へ行ったが、立烏帽子は様々な神通力で田村麻呂と戦い、また「三明の剣」という特別な剣を持っていると語る。そして二人は結ばれ、協力して近江国の「明石の高丸」や奥州の「大嶽丸」といった鬼を退治する。その後、立烏帽子は25で死ぬ運命だったと語り死ぬが、田村麻呂が閻魔王の前で暴れたため、閻魔王は最近死んだ同じ年の娘を生き返らせ田村麻呂はその娘を妻とした。

 

曾根(そね)の牛鬼

三重県尾鷲市曽根に伝わる牛鬼に次のような話がある。

 室町時代の末期、牛鬼が毎夜現れ人間の尿を飲みに来たので、村人は

恐れ早くから戸を閉めていた。ある時、戸締りを忘れた家に牛鬼が入ったが、どうしたはずみか熱い灰の中に落ち、奇怪な叫び声をあげて逃げた。家人が恐々起きてみると、灰に一本足の足跡が残っていた。村は大騒動になり、地蔵灯籠を建てて祀ったという。

 

高法師さん(たかぼっさん)

三重県紀伊長島町(現・紀北町)に伝わる。大島や佐波留(さばる)の沖の海底に眠っている大男で、普段は寝ているが嵐が吹くと沖を歩き回り、波切(志摩市)から潮岬(和歌山県串本町)まで七またぎで届くほどだという。

 

ダンダラボシ

三重県各地で巨人のことを指す言葉。これの足跡とされる場所が多く残っている。

 三重県志摩市大王町波切では一つ目の巨人として伝わる。

 

天狗になった子

三重県東員町に伝わる。中上の遍崇寺の住職の大住という人には五人の男の子がいたが、そのうちの一人がある日、鞍馬山に行って天狗の修行をしたいと言い出した。皆が止めたがその子は聞かず、いつの間にか村からいなくなった。

 それから長い年月が経ち、その子から「立派な天狗になったので、一度故郷の中上に帰りたい。癸亥(みずのとい)の中秋の夜、遍崇寺の本堂の戸を全部閉め切って、縁側にうどんを作って並べておいてくれ」と便りがあった。村人は怖くなって隠れていたが、翌朝見ると縁側に置いたうどんは消えていた。

 それから毎年、寺では中秋に村中でうどんを作り本堂の縁側に並べ天狗を待っていた。その際、戸の隙間から覗くとたくさんの天狗が踊っていたという。

 

鳥羽の鬼女

・鳥羽城(三重県鳥羽市)の築城伝説として伝わる。九鬼嘉隆が夢のお告げで鳥羽に城を構えようとしてやって来た時、山の上に小さな茅葺きの寺があり、寺の中には千手観音があった。堂守がいないのをいぶかしんで見回してみると、琵琶のような声をした鬼女がいた。汝はいかなるものかと鬼女に聞くと、鬼女は面目を怒らせ飛びかかってきたので、これと戦い首を落としそのまま谷に投げ落とした。以来この地は琵琶の首と呼ばれるようになり、その後、観音像は堀の上というところに建立した観音堂に移され、現在も残っている。

 

ともかづき

志摩(三重県)の海女(あま)に伝わる。海中に潜っていると、他に誰もいないはずなのに自分と同じような姿の海女を見ることがある。海上に上がっても見知らぬ船はないが、海中に潜るとやはりいる。これは海女の亡霊で、魔よけの糸が縫い付けられていない、鉢巻が長い、あるいは足がないことで見分けがつくとされる。

 

長太(なご)のわたり

三重県鈴鹿市に伝わる。昔、長太の浜に、背が高く目のぱっちりした美しい女がやってきた。漁師たちが「こんなに美しい人は竜宮様に違いない」と、自分の家に泊まってくれるよう口々に頼んだため、女は北長太の村と南長太の村に交互に泊まることになった。すると、その通った道筋がピカピカと輝いた。

 これを聞いた漁師の一人が「そんなことあるもんか」と言うと、それを聞いた女は海の上を渡って遠くへ行った。その後、長太の浜には神輿に乗って槍、高張提灯、馬を従えて海の上を渡っていく竜宮様の行列が見られるようになった。一説には、これは東海道大名行列が蜃気楼になって映るためだという。

 

猅々(ひひ)女王

・神島(三重県鳥羽市)に伝わる。ある船が大時化(おおしけ)のため難破し、船員の一人がかろうじて無人島に漂着した。その島の洞窟にはたくさんの狒々が住んでおり、一匹の雌が女王となっていた。船員は女王と仲睦まじくなり、女王は船員を洞窟に住まわせて世話を焼いた。やがて女王は船員の子を産むほどになったが、船員は故郷を思う気持ちが絶えず、その心を計りかねてか、女王は留守の間必ず手下を監視につけていた。

 長い年月の後、船員は沖を通る船を見つけ救いを求めた。女王は幸い留守であり、船員は監視の者を殺して伝馬船に乗って島を離れた。女王は悲しげな声をふり絞って船を呼び止めたが止まる様子がないので、形相を変えて洞窟に引き返し、子どもを連れて再び岸辺に行き高く掲げると、怒声を発し子供の両足をつかんで股裂きに引き裂いたという

 

蛇池の大蛇

三重県上野市(現・伊賀市)の上野城下の蛇池は、城ができる前から大蛇が出たという伝説がいくつかのバリエーションで伝わっている。そのうちの一つに以下のようなものがある。

 丸ノ内に大きな手のある蛇が住んでおり、一年に一度町にやってきて若い娘をさらい、食べて若さを保っていた。それを聞いた明神尊という旅人が、生贄の娘の赤い着物を着て娘になりすまし、用意しておいた樽酒を飲ませた隙に大蛇の手を切り落とした。その夜、娘の家に左手の不自由なおとなしそうな娘が一晩泊めてくれとやってきた。明神尊がその首を切ると、その娘は大蛇だった。

 

伊吹弥三郎(いぶきやさぶろう)

伊吹山滋賀県米原市)に住むとされる怪人。

 古くは『三国伝記』にあるが、ここでは盗賊の名前となっている。源頼綱は住処を移す弥三郎を捕らえられず長年が経っていたが、摩利支天の隠形の術を習得し高塒川の中でこれを倒す。しかし弥三郎の怨霊は毒蛇となり川に落ちたので、田は枯れ水は飲めず九年間飢饉となった。そのため弥三郎を井明神とし井口の守護神として祀ったという。また、年に一度真夏の頃、空が曇り雷が鳴り霰が降り、人々は弥三郎が伊吹禅定に行くのだと恐れるという

 

御伽草子の『伊吹童子』では、伊吹弥三郎は伊吹山中で獣や村人の牛馬を食い、恐れられた人物とされている。大野木殿という裕福な家の娘のもとに毎夜通う者があり、母親が娘に苧環(おだまき)をその者の衣につけさせ跡を追うと、その正体は弥三郎であった。弥三郎はその後もてなさせた大酒がもとで死ぬが、33か月を経て子どもが生まれ、伊吹童子と呼ばれた。伊吹童子伊吹山の谷底に捨てられ、後に大江山に向かう

 

特に『酒呑童子異聞』では弥三郎について、近江国柏原荘の地頭であり数々の無法を行い佐々木定綱に討たれた柏原弥三郎との関連を指摘している。

 

弥三郎は巨人だともされ、弥三郎の足跡、弥三郎の小便が染みこんで薬となる泉など、弥三郎にまつわる伝説の地が多くある。また、ある時弥三郎は琵琶湖の水を飲み干してしまったが、泳げなくなった魚たちを見て申し訳なく思い泣き、その涙が姉川妹川となりまた琵琶湖に水が戻ったという話もある。

 

天女

余呉湖(よごこ)(滋賀県長浜市)に関する伝説。『帝王編年記』に書かれているが、これは『近江国風土記』の転載であると考えられており、日本における羽衣伝説の中でも最も古いものとされる。

 昔、余呉の伊香の小江(余呉湖)に天女が白い鳥となって降り、水浴びをすることがあった。伊香刀美(いかとみ)という人がこれを見て、白い犬を使い、最も若い天女の天の羽衣を盗んで隠した。天女七人は天に帰ったが、羽衣を盗まれた天女は帰ることができず地上の人間となり、天女が水浴びをしていた所は神の浦と呼ばれた。

 天女と伊香刀美は夫婦となり、男二人、女二人の子どもが生まれた。この子どもたちが伊香を開拓した伊香連(いかごのむらじ)の先祖である。また、天女はのちに天の羽衣を捜し取り、天に帰ったという。

 

二十年を経て帰りし者

寛延宝暦の頃(1748~1764)、近江八幡滋賀県)の松前屋市兵衛という金持ちが妻を迎え、しばらくして行方不明になった。家中の者が金を惜しまずに探したが行方は知れなかった。跡継ぎがいなかったが、妻も一族から迎えた者であったため新しい夫を迎え跡継ぎとし、行方不明となった日を命日とした。

 行方不明となった日、市兵衛は夜に便所に行き外で下女を待たせていたが、いつまでも出てこず、妻が声をかけても返事がなく、戸を開けるとどこかへ消えていたのであった。

 20年後、便所で人を呼ぶ声がするので見てみると、市兵衛が行方不明となった当時の服を着て座っていた。人々が驚き事の次第を述べたが、はっきりと応えず、空腹のことなので食事を勧めると、しばらくして衣服は埃のように消え失せ裸になった。衣服を与え、薬などを飲ませたが、以前の出来事を覚えている様子はなく、その後は病気や痛い所の祈禱をしているという。

 

入道坊主

・見上げれば見上げるほど大きくなるものとして全国に伝わる。

 

人魚

・『日本書紀』には推古天皇27年(619)4月、近江国滋賀県)の人が「蒲生河に物有り。その形人の如し」と言ったとある。蒲生河は日野川下流とされる。『人魚の動物民俗誌』などによると、これは一般的な人魚像とは異なるものの、日本最古の人魚の記録だとされることもあるという。そのためか、滋賀県内には人魚に関する伝説や人魚のミイラが多くある。

 

目建解(めたてかい)と川獺(かわうそ

滋賀県長浜市に伝わる。昔、平方の神社に怪物が現れるため、この辺りでは人身御供の娘を差し出していた。ある夜、旅人がここを通りかかると、琵琶湖から上がってきた怪物が「平方のメッキに喋るな」とつぶやいていた。翌日旅人が村人に聞いてみると、浅井の野瀬の長者の飼っている目建解という犬であるということが判明し、その犬を借りて人身御供を供える夜に待ち伏せた。怪物は犬に噛み殺され、その正体は大きな川獺だったという。

 

鞍馬山僧正坊

鞍馬山京都市)に住む天狗であり、『太平記』などに見られる愛宕山の「愛宕山太郎坊」などと同様に日本の天狗の中でも名のあるもののひとつとして、能の『鞍馬天狗』、『花月』、御伽草子の『天狗の内裏』、『天狗経』などに挙げられている

 『平治物語』、『義経記』などでは、源義経は鞍馬の天狗に兵法を学んだとされるが、先述の芸能・物語ではその場面において僧正坊が登場することが多い。

 

・なお村上健司『京都妖怪紀行』などによると鞍馬寺の説明では、僧正坊は「護法魔王尊」と呼ばれ、650万年前に金星から人類救済のためにやってきた「サナートクマラ」の仮の姿だとしている

 

酒呑童子

・『大江山絵詞』『酒伝童子絵巻』御伽草子の『酒呑童子』、能の『大江山』などにある。「酒顚童子」などとも表記される。

 一条天皇の時代、京の若君や姫君が行方不明になることがあり、安倍晴明の占いにより大江山の鬼王の仕業と判明した。

 

是害房(ぜがいぼう)

・『是害房絵』にある。是害房を描いた絵巻は諸本によって細部が大きく異なるが、共通する大まかなあらすじは次の通りである

 康保三年(966)春、唐の天狗である是害房は、唐のあらゆる僧の法力を凌駕したため、次に日本にやってきて愛宕山の「日羅坊」に案内を頼んだ。日羅坊とともに比叡山に行った是害房は余慶律師らに返り討ちにあり、「平山聞是房(もんぜぼう)」ら日本の天狗の忠告も聞かず続けて良源座主滋恵(ざすじえ)大師を襲い、護法童子に打ちのめされる。

 傷ついた是害房を賀茂川で湯治させるため輿に乗せて運んでいると、小天狗たちが次々と是害房を囃し立てる。そして是害房は治療後、日羅坊らに名残を惜しまれつつ帰っていく。

 

宗旦狐(そうたんきつね)

相国寺京都市)の伝説にある狐。お辰狐と並ぶ風流狐で、囲碁が上手く茶道にも造詣が深かったとされ、宗旦稲荷として祀られている。

 

・宗旦狐には他にも、僧に化けた宗旦狐が相国寺の会計係を命じられ、経営を立て直したという話や、碁をやっていると尻尾が出て、指摘されると「これは失礼」と言ってひっこめた話、源平合戦を詳しく語ったとする話などさまざまな伝承が伝わっている。

 

高入道

天明年間(1781~1789)の末期、御幸町五条(京都市)の北に化け物が出るとされた。そこに住む銭屋九兵衛という者が深夜に外に出ると、月明かりで明るかったがにわかに空が曇り真っ暗闇となり、高さ一丈(約3メートル)あまりの高入道が九兵衛を睨んで立っていた。九兵衛が木の棒を投げつけると高入道は消え、もとの月夜となった。その後は化け物は出なくなったという。

 

土蜘蛛(つちくも)

・『平家物語』では次のように書かれる。昔、源頼光が瘧(おこり)の病になり、祈禱も効かず自宅(京都市)で30日余り臥せっていた。そしてある時まだ高熱が出たが、その後少し落ち着いたので、看病していた頼光四天王は部屋に戻っていった。その夜、丈七尺(約2.1メートル)ばかりの僧が現れ、頼光に縄をかけようとした。頼光が「何者だ」と枕元の名剣膝丸で切り付けると、騒ぎを聞きつけた四天王がやってきて、見ると灯台の下に血痕があった。その跡をたどると、血は北野社の塚に続いており、握ると中には四尺(約1.2メートル)ほどの「山蜘蛛」がいたので、鉄の串に刺し河原にさらした。これにより膝丸を蜘蛛切と称したという。この話は能の『土蜘蛛』や浄瑠璃、歌舞伎などの題材としても広まっている

 

橋立小女郎(はしだてこじょうろう)

天橋立京都府宮津市)に住むという化け狐で、人を騙したという話が多く残っている。

 ある農民が大根を小舟に一杯積んで夕方帰っていると、松の間から見知ら娘に「その舟に乗せてください」と言われた。これは小女郎狐に違いないと思い、乗せるやいなや縄で縛り、帰るとすぐに青松葉を燃やしその上に女を投げ込んだ。しかしそれは大根で、狐はすでに逃げていたという。

 また、成相寺の文海という小僧は、橋立明神のそばを通るたびに穴に油揚げを置いてやって長い時間かけて仲良くなり、ついに狐の玉を借りたという。

 

八九郎狸(はちくろうだぬき)>

京都府京都市中京区高瀬川筋四条上ル東の路地に、「臼(うす)大明神」とされる臼が石祠に祀られており、願いをひとつだけ聞くと言われている。これは大津紺屋関(滋賀県)に住んでいた八九郎狸が住処を失って臼の中に移ったとされ、託宣によって一度に祠を営まず次第に築いていくのだという。

 

・一説には、臼大明神とはゼウスのことであり、キリスト教宣教師からもたらされた信仰だともいう。

 

羅刹鬼(らせつき)

・『今昔物語集』にある。

 昔、鞍馬寺京都市)に一人の修行僧がいた。夜、この僧が焚火をしていると、女の姿となった羅刹鬼が現れ、火に当たっていた。僧はこの女が鬼であることに気づき、金杖の尻を焼いて鬼の胸に突き立てて、逃げて堂の西の朽木の下に隠れた。金杖を突き立てられた鬼は激怒し、僧の逃げた跡を追って走り、僧を見つけ大口を開け食おうとした。恐れた僧が毘沙門天に「我を助け給え」と祈ると、急に朽木が倒れ鬼を圧し潰した。僧はこれを見て泣いて毘沙門天を礼拝し、この寺を出て他所へ移ったという。また、これを見聞きした人々は毘沙門天の霊験の尊さを語り伝えたという

 

茨木童子

酒呑童子の配下の鬼としてさまざまに伝わる。

 浄瑠璃の『傾城酒呑童子』や歌舞伎の『茨木』などでは次のような話が知られる。

 源頼光の四天王の一人である渡辺綱羅生門で女に化けた茨木童子の腕を切り落とし、唐櫃(からびつ)に入れて物忌みをしていた。するとそこに伯母の真柴が現れ、綱は一度拒否するものの家に上げる。すると伯母は「これは私の腕だ」と言い、茨木童子となって腕を掴んで逃げる。

 

葛の葉(くずのは)

仮名草子安倍晴明物語』、説教節『信太妻』、浄瑠璃芦屋道満大内鑑』をはじめとした浄瑠璃古浄瑠璃、歌舞伎などに登場する。共通した大まかなあらすじは次のとおりである。

 村上天皇の時代、安倍保名がある女と夫婦となり、子どもをもうけた。しかし女は子どもに狐の正体を見られ、「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と障子に書き残し信太の森(大阪府和泉市)に去っていく。歌の通り森に訪ねてきた父子と出会った狐は、子どもに玉を与えるが再び姿を消す。この子供は後に安倍晴明となる。

 

刑部姫(おさかべひめ)

・姫路城(兵庫県姫路市)の天守閣にいるものとして広く伝わり、歌舞伎や、泉鏡花天守物語』、岡本綺堂『小坂部姫』などの小説の題材にされている。

 『甲子夜話(かっしやわ)』によると、天守閣の上層にいるが人が入ることを嫌い、年に一度老婆の姿で城主に対面するという。また、姫路では「ハッテンドウ」と呼ぶとされている。

 『諸国百物語』では刑部の名前は出ないが、次のような話がある。姫路城主の秀勝が夜中に家々の者を集め「城の五重目に夜な夜な火を灯す者があるが、見てくる者はいないか」と言い、18歳の武士が上って証拠として提灯に火を灯してくることになった。すると17、8歳の十二単を着た女性がおり、「主の命ならば許そう」と提灯に火をともし、さらに証拠として櫛を与えた。この提灯の火は秀勝が消そうとしても消えなかったが、18歳の武士が消すと消えた。

 

鹿松峠(かのししまつとうげ)の鬼神

兵庫県神戸市須磨区妙法寺・大手町に伝わる。永延年間(987~989)、高取山の北の鹿松峠に鬼人が出て旅人を苦しめていた一条天皇高野山で修行をしている藤原伊尹(これただ)の三男の英雄丸に鬼人を鎮めるよう命じ、英雄丸は名を証楽上人と改めて峠の近くに堂を建て日夜経を唱え、鬼人は姿を消した。高取山の西の鬼ヶ平はこの鬼人が住んでいた所だといい、堂は後の勝福寺だという。

 

神隠

・子供が姿を消すこと。澤田四郎作神隠しの事例」によれば奈良県香芝市ほか、県内各地で聞かれる話であるという。狐に入られた、または狐の悪戯であるなど、往々にして狐が原因とする。

 また御霊神社(奈良市)の狛犬は、神隠しにあわないように、家出人や悪所通いの足が止まるようにと願掛けするとよいと伝わっている。

 

源九郎狐(げんくろうぎつね)

・洞泉寺(奈良県大和郡山市)の源九郎稲荷に祀られる狐。郡山城の殿様の使いであり、徳川・豊臣の合戦の時諜報員として活躍したとする。徳川方に有利な情報をもたらしたが、ついに豊臣方のために毒殺された。殿様は不憫に思って寺に祀ったのだとする。

 

・なお現在(2022年3月)はコロナウイルスの影響で中止だが、同市の「春の大和郡山お城まつり」では、白狐面をつけた子供行列が練り歩く白狐渡御が行われる。

 

前鬼後鬼(ぜんきごき)

役小角(えんのおづぬ)(役行者)が従えていた鬼たち。

 

高坊主(たかぼうず)

背の大きな坊主の姿をした化け物。主に狸などが化けたものであるという。

 

土蜘蛛

・『古事記』や『日本書紀』などにもみられる。風土記にもその名があり、各地土着の土蜘蛛の記述がみられる。朝廷に従わない者たちのことを、そう呼んでいた。『日本書紀』の「神武即位前紀」では、大和(奈良県)は葛城の土蜘蛛は身が短く手足が長いとしており、同「景行紀」では石窟に住み皇命に従わなかったと書かれている。

 

天狗

・天狗にまつわる話は、奈良県内各地にみられる。天狗はもともと凶事などを知らせる流星であると言われるが『大乗院寺社雑事記』の寛正六年(1465)九月十三日には、夜「天狗流星一」があり天下が振動した旨が記載される。

 また天狗杉と呼ばれ、天狗が棲んでいたとする杉の木も少なくない。

 

飛ぶ鉢(お椀)

・『信貴山縁起』にある。信濃(長野県)から出て東大寺で受戒した命蓮(みょうれん)が夢告で信貴山に上り修行し、鉢を飛ばすなどして供物を得るなどしていた。供物を怠っていた山崎の長者のもとにも鉢を飛ばし、その鉢に校倉(あぜくら)造りの倉が乗って、倉ごと信貴山にいる命蓮の所まで飛んで来たという。

 また奈良県十津川村の果無(はてなし)に飛ぶ椀の話がある。果無谷の果無滝から月に一回、昼過ぎくらいになると「ウウーン」という音をかすかに立ててお椀が飛んで来るという。同じ家に続けて飛んで来ることはない。椀はまるで目が付いているように、目当ての家の人が外で働いていても家の中にいても、必ずその人の目の前に止まる。お椀を受け取った人は、その中に麦飯や粟飯をてんこ盛りにつぐ。漬物があればそれも付ける。すると椀は「ウウーン」と果無滝へ帰っていく。

 

<蛇女房>

・蛇が美女に化けて男の妻になるも正体を見破られ、そのまま姿を消すという話が一般的。

 

<蛇婿>

蛇が男になって人間の娘に求婚するという内容の昔話群の総称。一般的に「苧環(おだまき)型」、「水乞(みずこい)型」、「蛙報恩型」に大別される。奈良県では「苧環型」が多いだろうか。これは、夜中に娘のもとに見知らぬ若い男が通ってくることを怪しんだ親が、男の着物に糸を通した針を刺すように娘に言う。男が帰ったあと糸をたどると蛇の住処に到り、蛇の親子の会話を聞き、娘に宿った蛇の子を堕ろす方法を知るといった内容。

 

<大人(おびと)>

和歌山県各地で巨人のことを指す言葉。各地に大人が作ったとされる山、川、湖などがある。

 

<猩々の女>

和歌山県田辺町(現・田辺市)に伝わる。昔、元町天神崎の立戸の浜で、ある笛の巧みな若者が笛を吹いていると、美しい娘が現れ聞きほれていた。女は「私は海の世界に住む猩々の女です。貴方の笛にあこがれて女に姿を変えてきました」と言った。若者は女の望みを聞いて演奏し、女はその礼に餌がなくても釣れる釣道具として、釣り針に髪の毛をつけたものを渡し姿を消した。その針を使うと鯖、鯛、鰹などが思うように釣れたという。

 男が初めに釣った釣り場が猩々という名前で現在も残っており、後に釣り針は西富田堅田浦の八幡神社に寄進された。

 

奈良の河童の妙楽について

河童が持つという薬の話が、各地に伝わることはご存じだろう奈良県五條市(旧大塔村)などでも「辻堂錦草」「蒲生錦草祐玄湯」と呼ばれる河童ゆかりの薬の話が聞かれる。興味深い点は、実際に近年までその薬が売られていたという点だ。筆者が販売を請け負っていた方の親族に聞き取りをしたところ、紀伊半島大水害(2011年)までは流通していた記憶があるとのことだった。

 桂皮や丁子など数種類の生薬をブレンドしたもので、煎じて飲むタイプの薬だったという。外傷や神経痛、風邪など何でも効く万能薬扱いだったようだ。

 

騰黄(とうこう)

・京のある身分の高い家には騰黄という神獣の図がある。その神獣の形は狐のようだが狐とは異なる。一説に、この獣は神代から日本に2000年いて大陸に渡り、その際に黄帝がこれに乗って天下を巡り、それによって馬に乗ることをはじめて皆に教えたという。

 

 


『深宇宙探訪記』  

(オスカー・マゴッチ)(加速学園) (発売 星雲社)1991/8

 

 

 

 葉巻型の宇宙船は世界各地で目撃談が多い大型宇宙船だ!?

・ 宙型船内宇宙研究室(連盟登録番号 SLA8701)

 宇宙研究用の移動研究室。12の異なる世界を展示。多種族の乗組員と科学者が搭乗。総搭乗員数3000『人』

 全長2400m。直径約400m(厚さ約188mの単独航行可能モジュール18基で構成)

 

 宇宙研究室の外観>

・各モジュールは、居住者の便宜を考え、それぞれの貫通路に沿って観測窓が、一つずつ付いている(実際には大型の展望用球体で、拡大機能および夜間赤外線利用暗視機能がある。)

 

 種々のUFO

・『帝国同盟』の三角形をした地球外の戦闘機。『悪魔機』として知られている。

 

・7機の円盤を収容できる中型円盤型母船。直径100m。高さ40m。

 

・偵察型の円盤(直径25m。高さ10m)

 

・幽霊船(およそ、長さ40m、幅10m)  本船が生きている存在で、固体の固い金属構造物ではない。準バイオニック船である。

 

・ダイヤモンド型エーテル船(高さ12m、幅12m)

 

 深宇宙探訪記に書かれてある中型船内宇宙研究室は、葉巻型UFOか

宇宙研究用の移動研究室は、搭乗員が3000人で、全長2400メートル、直径400メートルで長さ122メートルの単独航行可能なモジュール18基で構成されているようです。そして、バミューダ三角海域の次元間移行ゾーンを利用しています。これが、有名な葉巻型のUFOのように思われますが、大きさから考えると世界中で見られているのとは違うかもしれません。

 

・オスカー・マゴッチの本によると「シリウスは連盟の送信センターである。暗黒の勢力とその地球の光明派の召使達はシリウスから来た善玉になりすましている。暗黒の勢力は、自分達の基地は、オリオン大星雲にあると、私達に思い込ませようとしている。しかし、彼らはそこからやって来たにすぎない。オリオン座は、光の主たちの故郷であり、銀河系委員会の故郷であるのだ。そしてアルクトゥルスを中継基地に使っている。暗黒の勢力と彼らが支配する悪の帝国の本拠地は、大熊座にあり、ドラコニスを主要作戦センターとしている。宇宙連合の宇宙人は、友好的な善意の宇宙人であるが、惑星連合や地底連合の宇宙人は、邪悪な宇宙人である」

 

 アメリカ政府と宇宙人の契約

・1947年7月2日ニューメキシコ州ロズウェルでUFO墜落事件が起きた。だが、米軍は、気球の墜落だと発表し、事実を偽装した。奇妙なことに1949年1月30日同じロズゥエルで、UFO墜落事件がおき、その際、偶然にも地球外生命体が1名生存しており、ロスアラモス研究所に送られた。その地球外生命体は、「イーバ」と名づけられ、1952年6月18日まで生きた。その間の調査では、イーバは自らの母星が、地球から55光年離れたところにあると告げたという。

 

・彼の身体的外観は、現在多くの人に知られるところとなった「グレイ」に似ており、爬虫類と昆虫の特徴を持っていた。そして、1954年1月、アメリカは、後に「ラージ・ノーズ・グレイ」と呼ばれるようになる地球外生命体と初コンタクトを行なう。この地球外生命体の出自は、オリオン座のペテルギウスを巡る一つの惑星だった。これは、500光年離れた赤色巨星を巡る惑星からやってきた事になる。1954年2月

 

・ラージ・ノーズ・グレイの代理として、イーバそっくりの「クリル」と名づけられた地球外生命体が再度地球人とのコンタクトのため送り込まれ、この時、アイゼンハワー大統領が統括していたアメリカ政府は、この「クリル」を全権大使とした「オリオン座領域から来訪した」地球外生命体と何らかの契約を結んだと言われている。「それから50年、国家最高機密は、厳重に守られている」。

 

 ハリウッド映画で有名なグレイは、人類に比べ科学力で優に5万年を先んじている

・Tシャツのプリントになるほど、スター化した地球外生命体の「グレイ」のルーツは、琴座である。約50年前、かって琴座領域にあったアペックスと呼ばれる惑星で核戦争が起き、生き残ったアペックスの人々は地下生活を余儀なくされた。核戦争を引き起こした2つの勢力は、ポジティブ派が、主として、レチクル座の2重星(ゼータ)付近を拠点としているが、ネガティブ派のほうは、その多くがオリオン座のペテルギウス領域や大犬座のシリウス領域に移住した。

 

・ネガティブ派の中で特にオリオンに拠点を置く者たちは、リゲリアンという種族だが、地球でグレイと呼ばれる存在は、このリゲリアンを指している。リゲリアンという呼称そのものは、ケンタウルス座のα星であるリギル・ケンタウルスにも隠れたつながりがあるが、彼らのルーツには、判然としない部分がある。現在、地球には、惑星アペックスに出自を持つ地球外生命体が、時空を超え、過去、現在、未来の次元から同時に訪れている。

 

 ウォーク・インとワンダラー(スターピープル、スターシード、スターライト)

・ 地球人に生まれ変わったワンダラーや、人生の途中で地球外の魂と劇的なソウル・チェンジ(魂の変換)を起こしたウォーク・インなどを地球外生命体(ET)の魂を持つという意味で、ETソウルと呼んでいる。ウォーク・インやワンダラーは、白色同胞団でも活躍している。白色同胞団(ホワイト・ブラザーズ・フッド)のルーツは、プレアデスと同じ牡牛座のアルデバランという説と、火星でアルデバランの人々と共存していたさそり座のアンタレスからの人々だという説がある。

 

・また、チャネリングは、日常ではない、別次元の意識やいわゆる地球外生命体と意識のレベルで交信することを言います。シリウス経由のチャネリングによりますと、地球に介入した2種類の生命体があると語ります。約2600万年前、地球に2種類の非人間的生命体が入植した。それらは、射手座星系からやって来た爬虫類的存在とオリオンのベラトリックス星系からの恐竜的存在だったという。(ここで言う爬虫類と恐竜は生物学的に分類されるそれらの意味とは異なる)そして、地球ではこの2種類の生命体が入り込んだ後に、人間の祖となる哺乳類的生命体が現れる。

 

地球と多数の銀河系を持つその可視宇宙は、中域VR3(第3密度)

・自分の故郷の次元の他にもたくさんの次元がある。こうした次元は隣接して存在しているか、あるいは部分的に重なり合っていることすらある。どの次元も物理的には似通っているがお互いに探知できない。それは、周波数『域』が異なっているからだ。低周波数『バンド(帯)』や高周波数『バンド』にも次元は存在している。

 

・どの知覚型生物形態にとっても、周波数の『高バンド化』や『低バンド化』は非常に難しく、専用宇宙船かブースター支援、あるいはその双方を必要とすることが多い。こうした『バンド』は、実際には、異なる世界秩序であり、宇宙の進化スケール上にある各種の存在レベルで構成されているからだ。つまり、密度が異なる別々の振動界(VR)ということだ。

 

・地球と多数の銀河系を持つその可視宇宙は、中域VR3(第3密度)だし、サイキアンと連盟世界の多くは、高域VR3ないし低域VR4だ。このような振動界は玉葱の皮のように球体の中に球体があるようなものだが、周波数界の高低差が非常に大きいので、それぞれ十分に隔絶されている。振動界の主体も居住者も、別の振動界のものとは(固体対エーテル、火と水のように)相容れない。お互いの技術を利用することも出来ないし、物や道具を別の振動界に持ち込むことも出来ない。精々できることといえば、相互影響力を僅かに働かせることぐらいだが、それとて、間接的にしか出来ない。したがって、別の振動界に旅する者は全く自分の力しか頼るものはなく、現地と融合し、現地の方法しか使えない。

 

・「ガーディアン評議会」が私に会ってみたい、と興味を示しているのだと言う。彼ら“ガーディアン”は肉と血のある生物ではなく、時空を超越した非物質的領域に住む純粋エネルギーの存在だという。天国の主人役のように彼らは『兄』であり、広大な秩序ある体系としての宇宙全体を通じて、ありとあらゆる次元と宇宙に存在する人類の運命を導いている。もし、私が行くと決めたなら、体ごと、存在の非物質的な次元へ移送され、その間、最終移転地点で変質を遂げなければならないのだという。

 

延命者・最延命者

連盟の半分以上の場所では、人間の平均寿命は地球年の2百歳で、半分以下のところのいわゆる『長命』の寿命は8百歳だ。子供時代と青春期は地球のと同様で、18歳から521歳で成年に達する。壮年期は35歳から50歳の間だが、長命の場合の壮年期は安定した『最盛期』の状態で5百歳まで続き、その後に2百年間の中年期が来る。年齢による衰退期は、7百歳ぐらいを大分超えてから始まる。

 

非常に優れた功績のある個人に対して、連盟は寿命を5千年まで伸ばすことができる。延命処理は極秘のクリニックで行われ、(「延命者」と呼ばれる)寿命の延長を受けた者は100年位に一度クリニックに戻って追加処置を受ける必要がある。これは生物学的処置というよりも、本質はサイ粒子にかかわり、オーラを徹底的にいろいろと調整をする。

 

また、極めて希有な場合、代替の交代がない不可欠の一握りの個人については、ガーディアン評議会が、3万5千年から4万年まで肉体面で第二の延命を与えることがある。(こうした寿命)延長者は『最延命者』と呼ばれる。)最初の処置とその後の追加処置はガーディアン達が超次元的に行うが、そのプロセスは不明だ。

 

 グランド・マスター達の下に位置する評議会を構成するガーディアン達

・ありとあらゆる系に存在し、人類の長老である彼らガーディアン達は、二度とあのような宇宙規模の破壊行為が生じるのを防ぐことと、暗黙の勢力から守ることに献身するようになった。グランド・マスター達の下に位置する評議会を構成する彼らガーディアン達は、多宇宙の構造の『外側』に、つまり時空を超越した完全に非物質的な次元の最上階域に存在し機能している。彼らは霊的存在であり、時としてその在住場所に光の存在として出現することがある。私達の故郷がどのような宇宙界であろうとも、彼らは、この世のものでない在住場所から私達人間世界が適切に機能し進化するよう導いてくれている。

 

・このように数十万年前の昔に私達の多宇宙の遠い所でさまざまな人間世界系の諸問題を管理するために大連盟が誕生した。第11部門もそうして誕生し、その中核であるサイキアン諸世界が大連盟の中心部門となった。その統治惑星をザンシウスという、連盟の33部門を構成しているのは総計5千の主な世界センター惑星だが、それに加えて手付かずで未開発の惑星がその数の百倍はある。

 一部門として参加しているのが銀河系連合で、その代表はアシュター司令部だが、もしかしたら連盟加盟につながるかも知れないので、惑星地球の進化に関心を払っている。)」

 

 太古の昔、『光の勢力』と『暗黒の勢力』との間に宇宙大戦争が起こった>

・時たま、『暗黒の主』が肉体を持って具現化することもある。(たとえば、かって『ダーズ・ヴェイダー』がそうだ。この宇宙人は実在していたのだ!)『暗黒の勢力』の『帝国同盟』UFO飛行士は、地球任務では大体三角形をしたコウモリ型の偵察機や戦闘機を使う。昼間は鈍い黒色で、夜間は消防車みたいな赤色に輝き、いみじくも『悪魔機』という名で呼ばれている。『暗黒の勢力』は残忍な破壊行為を行ったり、人間に危害を与えたり、誘拐したり、動物をばらばらに切断したりするので悪名が高い。

 

・まず、『連盟』とその始まりについて全般的な説明を簡単にしましょう。太古の昔、『光の勢力』と『暗黒の勢力』との間に宇宙大戦争が起こった。その結果、巨大なエネルギーが放たれ、私達の多宇宙の何百万という多数の世界が破棄されてしまった。

 

・全領域の構造自体も粉砕され、多数の次元へと細分化されてしまい、新たに形成された亀裂線が恒久的な障壁となってしまったのだ。即時とも言える宇宙旅行とコミュニケーションが以前は自然に行えたのだが、それももはや不可能となってしまった。

 

・この戦争からの復興は遅々として進まず、部分的にしか行えなかった。だが、例に違わず、生命は勝った。生き残った幾つかの世界は、人類も異星人も同様に新規蒔き直しを図った。救出された生き残りから、そのままのところまで復興した世界もあれば、完全にゼロの状態から原始的状態での再出発というところまで行った世界もある。

 

・そして何千年もの時間が経過し、戦争の影響を受けた諸世界の大半は、程度こそ違え、文明が繁栄するようになった。その大方は、たとえ、小規模であるにしてもまた宇宙を航行するようになった。貿易や交流が惑星間や星系間で始まった。地域間のリンクができている所もすでにあり、地域間同盟も出来上がっている。

 

・そうした地域のひとつが諸世界サイキアン連盟だった。この連盟は率先して大複合体の発展にも着手し独立した一部門を構成するようになった。これが後に連盟11部門に指定されることになる。それはまさにこの地域に33の広大な部門を持つ(正式名称を自由諸世界次元間連盟という)大連盟が最終的に形成されたからだ。これは、(光の勢力を支援する)ガーディアン評議会に派遣された宇宙派遣者達の提案と指導によってなされたことなのだ。

  

悪の帝国(正式名は『正義を任ずる諸世界帝国同盟』の本拠地は大熊座にあり、ドラコニスを主要作戦センター

・『暗黒の勢力』は、自分たちの基地はオリオン大星雲にある、と私達に思いこませようとするが、彼らは、単にそこからやって来たにすぎない『落ちた者』で、依然として周辺にまつわりついているだけなのだ。実際は、オリオン座は『光の主達』の故郷であり、『銀河系委員会』の故郷でもあるのだ。そして、アルクトゥルスを中継基地として使っている。

 

私達が、いる宇宙領域において、『暗黒の勢力』と彼らが支配する悪の帝国(正式名は『正義を任ずる諸世界帝国同盟』の本拠地は大熊座にあり、ドラコニスを主要作戦センターとしている。私達の太陽系においては、冥王星を中継基地に使い、地球から見えない方の月面を地球への侵入基地に使っているが、両基地とも昔から存在している協定に違反している。地球ミッションの人員は『連盟』にしろ『帝国同盟』にしろ、比較的少なく、その役割も大半が「監視活動と互恵的平和維持活動」に限定されている。

 

・MIBすなわち『黒服の男達』は、嫌がらせや威嚇、テロや殺人を専門とする『暗黒の勢力』の手先だ。報酬を得ていたり強制されていたり、あるいはその両方の場合もある。

 手先となった人間が政府に雇われた人間傀儡か、あるいは洗脳されたバイオニック操作されている消耗品同様の人間ゾンビか、そのどちらかであろう。時には異星から来たまったくのロボットのこともある。(実在している人間の短命複製クローンである)の生霊のことも多い。さらには『ポルターガイスト』の悪霊やホログラフィーによる投影像のこともある。仕事の内容次第で何にでもなる。

 

・彼らMIBは、地球在住の主人たちに取り仕切られており、いろいろな基地(通常の地球基地は南極大陸のエレブス山中にあり、太陽系内の基地は地球から見えない月面やいろいろなアステロイド冥王星)にあるから調整・統合を図られ活動についての指示は『反対勢力』の宇宙艦隊の知性に仰ぎ、背後では地球のような次元に住む『暗黒の主達』に支配されている。

  

自由な世界次元間連盟

・地球人類の起源は、プレイアデスの散らばった系に由来する。地球人類が地球に移住してきたのは『多数の千年期』の昔である。それ以来私達の『後に残された』人間の祖先たちは、銀河系と他の次元領域の至る所に広がった。

 

さまざまな次元に存在する何千という星系からなる彼らの緩やかな『共通利害団体』は、『自由な世界次元間連盟』と呼ばれ、多次元宇宙の33の広大な領域に及んでいる

 

シリウスは、私達に向けた「連盟」の送信センターとして使われている。私達を高め、迫りくる宇宙的なコンタクトと、その結果として起こる変貌に対して、この世界を準備させるためなのだ。何千年にもわたってシリウス人は地球人とコンタクトしてきたが、その際、彼らとその仲間は『ホルスの目』という印(三角形の中に目を配したデザイン)を用いてきた。

 

・『暗黒の勢力』とその地球の『光明派』の召使達は、シリウスのセンターから来た『善玉』になりすましている。これは地球人を混乱させ利用せんがためで、本来のシリウスからの送信内容を歪めたものに変え、自分たちの悪の教えを植えつけようとしているのだ。そのために、シリウスの『ホルスの目』のデザインの印も使っている。『暗黒の勢力』に支配されているのはメン・イン・ブラック(MIB)たち、すなわち、あの恐ろしい『黒服の男達』は、一つの目ないし一条の稲妻を中に配した例の古典的な三角形を自分たちが使用する黒塗りのキャデラックのドアにつけている。

 

 金髪碧眼のクェンティン

・彼の話では私が見た円盤は地球と違う次元のもので、母船を伴いバミューダ三角海域のようないわゆる『窓の領域』を通って地球に来たのだという。円盤は意のままに物質化・非物質化できるという。

 

・クェンティンは、背が高く、年齢は30代と思える。髪の毛はブロンドで、射るような青い目をしており、レジャースーツを着て、対変奇妙なお守りを身に着け、今までに誰からも感じたことのないような不思議な魅力を醸し出していた。

 

・それから数分して、投げ出されたところは、惑星地球から何千キロも離れた深宇宙の中だった。(後で分かったのだが、円盤はゴビ砂漠の『シャンバラ』の移行窓をわざと使い、素早く深宇宙へと移動したのだ。)近くには大きな円盤型母船がいる。その母船に非常に奇妙な方法で乗船した。私を乗せた円盤は、すっかりと言っていいほど非物質化してから、母船の胴体を通過したのだ。母船内の七つの円盤駐機区画の一つに入ると、今度は物質化して以前の状態に完全に戻った。

 

・今乗っているのは連盟登録の宇宙研究室船で、長さは約2.4キロ、中規模の宇宙船です。本当に大規模な宇宙船は、この十倍から20倍はあります。超大型の大きさは言うとびっくりするでしょうから、言うのは遠慮しておきましょう。

  

都市の大きさはあるクリスタル宇宙船

・そうこうするに、白く輝くものが頭上に出現し、急速にその輝きを増していく。間もなく、明るく輝くオーロラがずっと強烈にきらきら輝く光に消されてしまった。巨大な形のものが降下して、視界に入ってくる。都市の大きさはある。だが、途方もないほど大きなボワーッとした塊のクリスタル・シャンデリアのようで、まるでクリスマスの飾り物みたいに様々な色の光を閃かせたり点滅させたりしている。

 「何・・・ 何だ それは?・・・・」

 私は吃ってしまった。天から現われたものが私達の視野一杯に広がるのに完全に飲まれてしまっていた。私達から2、3キロ離れたところだ。

 

・「感動するのも当然だ。このクリスタル宇宙船は現在『地上の平和』号と命名されていて、あなたがたの太陽系の惑星間ヒエラルキーの最高の旗艦なのだ

 

 

 

 

(2021/9/18)

 

 

 

『河童』

怪異の民俗学  3 

小松和彦  責任編集   河出書房新社 2000/8/1

 

 

 

千葉徳爾 座敷童子

私が主として説明を試みたのは、この信仰の基くところと、何故この地方のみに濃厚な伝承を留めているかである。この点については、最上孝敬氏の論考「家の盛衰」に啓発されるところが多かった

 ザシキワラシの伝承に付随して研究されるべき多くの興味ある話題については、単にその方向のみを注意することにとどめ、更に稿を改めて論じたいと思う。

(注) たとえば隠れ里に行ってもらって来た品物が、富の根源となるという話などがその一つである。

 

・こういっては失礼であるが、この研究を最も熱意をもって進められた佐々木氏などは、事例を追加しようとするあまりに、今から考えるとザシキワラシの本質から遠いものまで、資料として集積報告しておられたところがあるように見受けられる

 ザシキワラシの数多い呼びかた、ザシキボッコ、クラワラシ、クラボッコ、ノタバリコ、ウスツキコなどが、すべて童児を意味することから、それが童形のものと考えられていたことが確かである。また、これが居ると家が豊かで、それが居なくなると家が衰えるということも欠くことのできぬ性格である。憑物とちがって、一定の家系に永久的に附属しないこと、その家屋に居ていたずらなどはしても、決して「たたり」といった種類の行為をしないことなども注意してよい。

 以上の要素をそなえず、単に屋内に住む精霊(ホソテ、ナガテと呼ばれるもの)、そうしたものが示す

 

姿の有無に拘わらず、座敷に寝る者を安眠させず、枕返しをし、床の中に入り、押しつけ、押出すなどは、およそこの地方でザシキワラシの特性のように伝われている。寝ているときに、このような感覚を受ける場合は、他の地方では「もの」に憑かれる時に語られており、それには生理的原因があるらしい。例えば就床前に胃が満ちていたり、調子のよくないときがそれである。しかし、このような理由以外に、既に忘れられた潜在意識も作用しているのではあるまいか。

 

・ザシキワラシが童形にしてその存在が家の富貴繁昌をもたらす精霊とすれば、名は異なっても日本のフォクロアに類例の求められない存在ではない。「紫波郡昔話集」にのせられた福の神ヨゲナイなどが、最も近い場所の一例といえる。

 

 昔、南昌山(岩手県紫波郡煙山村)に門松迎えに行くと、笊淵に鴨が一羽浮いていた。門松を投げつけると鴨も門松も沈んでしまう。すると淵からアネサマが出て来て門松の礼を云い、自分の家にまねく。そして家で門松の礼に何か与えると云うから、ヨゲナイを欲しいといえと教えてくれる。行くと立派な座敷でもてなされ、ヨゲナイというみたくないカブクレワラシをもらう。それを家のでこに隠しておくと、よくかせいでくれるので、キシネビツに米があふれ、財布の銭がいつもあるようになった。夫が朝晩にでこに入って、にかっと笑って出てくるのをみた女房が、でこに入ってさがすと、みたくないワラシが居ったので箒で追出したところ、家は前のように貧しくなってしまった。

 

竜宮もしくは水神のおくりものとしての竜子ならば、天竜川の流域にも数多い話が伝えられている静岡県引佐郡鎮玉村のクルメキ淵から出て来た童児は、竜宮小僧といわれて、村の家々の田植の手伝いをしたり、夏のにわか雨にはすぐ出て来て干しものを片づけてくれた。長野県下伊那郡大下条村川田では、大家という家の後にある一坪ほどの井戸のような池から、カハランベが出て来て、田植の手伝いをしたり、膳椀鋤鍬の類を貸してくれたり、進んでは竈の火をも焚いてくれた。愛知県北設樂郡富山村市原の田辺家でも、屋敷の下の青淵について同じような話が伝えられる。ここから出て来た小僧は来客の時には必ずアメノウオを二尾ずつとってくれた。農業の手伝もしてくれるし、平日は竈の上もしくは釜の蓋の上に居て食事をしたとも伝え、その食事につかった御器は、欠けているが今も尚残っている。欠けた一方はこの家の親類の豊根村下黒川の荒川家にあるが、ここではこれを河童が竜宮から持って来てくれたのだといっている点は注意してよい。同郡振草村小林の大谷池という家もスミドン淵という淵に臨み、ここから出たカハランベが田植の手伝いをし、また膳椀の入用なときは貸してくれた。

 

・しかし、竜宮から来た子供の話が関東にもなかったわけではない。栃木県佐野市には俵藤太秀郷が竜宮からもらって来た童子、竜太、竜次の二人の子孫という家があり、水の神の使者だから水に手足をひたしても冷くないといって紙すきを家業としていた。そして家伝のひび薬を売っていたというのは、後にふれる河童相伝の医薬と考え合せるべきことなのである。

 

一般にザシキワラシが居るとか、家が衰えてワラシが他の家に移ったということはよくいうことであるが、元来これがどこからやって来たかを説くものは少ない岩手県では上閉囲軍大槌町に、猿が山から下りて来て家の守神となった話があるが、これをザシキワラシと呼んでいるか否かは明らかではない。土淵村の阿部家のザシキワラシはフチサルというものだといわれるが、淵猿は河童の一名である。

 

・猿ガ石川に沿う多くの旧家で、家の子供が淵の主のたたりで育たぬとか、河童が娘のところに通って来て河童の子が生まれたとかを伝えるのは、やはり家と水の神との縁を語る神話の零落した姿であろう。橋野川、閉伊川に沿っても、家の娘が淵の主の妻になったという話は二、三に止まらない。有名なのは茂市村腹帯のハラタイ淵の主で、すでに三つの家がこの淵の代々の主と婚姻を結んだと伝えている。例えば釜石の板沢家では、娘がこの淵の主に嫁入りして、毎年一度帰って来るといい、その日玄関に水をたたえたたらいを置き、新しい草履をそろえておくと、翌朝必らず草履が濡れているのを、娘の帰ったしるしとしていた。更に上流の川井村でも、長者の娘が淵の中で機を織っているのを、その家の奉公人が落とした斧をとりに入って発見した話がある。この類話は小本川の流に沿っても岩泉町に語られており、それぞれ昔話のモティーフが、土地の旧家の淵や泉に臨むものと結びついて根をおろしたものである。

 

馬淵川にそっては、河童(メドツ)が旧家の事跡に関して淵ごとといってよいほどに語られている。或は馬を引き込もうとして捕えられ、詫証文や薬を残し、或は角力をとるなど、さまざまのいたずらをする点はザシキワラシとも似ている。やはり淵ごとに特定の家がその神を奉じて住んでいたためではなかろうか。

 

・腹帯淵にはまた、水神の文使いの話も結びついているが、同じ形は遠野郷の物見山の沼についても伝えられている。遠野の町の池ノ端という屋号の孫四郎という人、物見山の沼の主から大阪の姉神のところまで手紙をたのまれて往復し、その礼に使っても尽きぬ銭百文と、米一粒を1日に入れて一回転すれば、金の粒一つを挽出す臼とをもらった。そして長者になったが、その妻が「おれもホマツをすべえ」と思って、沢山の米を入れてがらがらと挽き廻したために、神棚から臼がころび落ちて庭の水溜りに入って消え失せてしまった。この臼が転び入った池は、明治23年の遠野大火の時に埋ってしまったというが、池ノ端の屋号はこのためにできたものであろう。「老媼夜譚」には同じモティーフの話が沼宮内にあったこととして黄金を生む子犬の形で語られており、気仙郡、胆沢郡でも黄金を挽出す臼の同じモティーフで採集され、この地方にひろく分布しているらしい。

 

・竜宮に門松や薪を奉ってその礼に小童をもらって家が栄えたというモティーフと、水の神の手紙をもって往復した礼として黄金の挽臼や尽きぬ銭をもらって富んだという語りかたとの関係をたずねる上に、参考となるのは、吉里吉里浜の善平長者の話である。

 

・ただこの一例ならばあった話が消え失せたとも考えられるが、私がこれまでに知り得た限りでは、北上地方の代表的豪家と考えられる地頭の家には、ザシキワラシが居た、または居るという家が極めて少ない。

 

・土淵村山口の孫左衛門長者はザシキワラシをもっていたが、その没落に先立ってワラシは泣きながら気仙郡日頃市村の稲子沢の長者のところに移った。

 

・このことは、遠野地方でも、九戸郡でも、ザシキワラシは旧家でしかも繁昌する家に出るもので、成上りの家にはどんなに豪家でも出ないのだといっていることが、単なる噂でなく、かなり根拠のある伝承であることを示すのである。

 

・当時、村の物持は村会議員か区長のような職をもつのが普通だったと思われるが、約80のうち17ばかりがそうした公職をもつだけだから、他の約60は財産がそれほどない家とみられる。つまり、ザシキワラシの居る家の富の程度は県内指折りというほど大きくなく、せいぜい近郷の物持として評判される程の家にすぎない。

 近世中期以後に急激に富を増加した豪家は、いろいろの事情から、ザシキワラシを水の神から与えられるような神に愛される性格をそなえているとはみなされぬことが多かった。江刺郡、胆沢郡地方でもモゲンといわれるのは一代分限であるが、呪詛や法術といった正道ならぬもので富を積んだ家のことで、かなり多くきく話である。モゲンは関西で無間筋といい、無間の鐘をついて得たゆえに、来世は地獄におちると評判される。北上地方の富豪の多くが関西出身の商人で、その蓄財法もかなり冷酷な手段のあったことが、このような噂の発生の源になっているのであろう。

 

・前に述べた上閉伊郡土淵村山口の孫左衛門長者は没落の前に狐を飼って富を得ようとした話をもつ。九戸郡山形村の豪家清水家でも盛岡から迎えた嫁が持参したという狐の像をまつり、毎月八日をマメシトギをあげていた。狐が富を与えてくれるという信仰はこの地方では比較的新らしく入ってきた文化らしく、特に小さいイヅナという狐を使って他人の秘密を知り、または貨財をひそかに盗むといった方法で、一代に分限となるという話は北上山地北部、八戸、鹿角などにひろがっている。二、三の昔話集にみられる盗人人形の話も、越中地方のヒンナ神と同じく、イヅナ系統の憑物による富の形成を意味している。従ってザシキワラシは富豪の成立には結びつかず、その衰亡にあたって出現するに止まることが多くなった。

 

・「奥州のザシキワラシの話」で、さまざまの要素の混在する伝承を一括して居られた佐々木氏は、大正十三年の「人類学雑誌」の上告では、主としてザシキワラシが女性であるものに注意されたが、昭和4年の「東北文化研究」には河童との類似に関心を向けて居られた。氏の20年の成果からのこの方向は、私の、ザシキワラシが海神小童信仰の残留であろうという推定を裏づけるものと考える。

 

・このことは、ザシキワラシの伝承が完形のモティーフとしてその出自までを説くものとすれば、北上川平地や気仙地方ではそれが脱落していることを示したものといえる。また北上山地北部で、伝承例数が絶対的に乏しいことは、やはり統計的に意味あることとして注目される。

 

・再びいうなら、ザシキワラシの出自を説く例が、一例を除いてはことごとく水中から来たといい、その分布は最も古い生活様式が残存した猿ガ石川、小本川にそう地域である。

 

収納論文解題  丸山泰明

折口信夫「河童の話」1929年

・折口自身によれば、「河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交えて来たこと」を論じたものである。しかし、本文を見てみるとその内容はそれだけにとどまらず、河童のさまざまな属性に言及している。さらに折口特有の論証抜きの解釈と想像が繰り広げられており、安易な要約を許さない論考である。おそらく、折口の文章を直線的にまとめてしまえば、その魅力は半減してしまうだろう。根拠がないからこそ豊かな想像力が発揮されるのであり、それにより生み出される発想から学ぶことも多いのではないだろうか。

 

柳田國男「河童の話」 1954年

・柳田は妖怪の発生を、かつて神とされていた存在が人々の信仰の衰退により零落したものだと考えていた。河童についても例にもれず、河童の諸特性に着目しながらも、水の神が零落したものが河童であると主張している。現在では、妖怪は信仰の衰退により零落した神であるとする仮説はすでに多くの人々によって批判されているが、柳田の説いた「河童=水神零落説」はその後の民俗学における河童研究を方向づけていくことになった。

 

千葉徳爾「座敷童子」1952年

・本論文では、家に住みついて富をもたらし悪戯をする、いわゆるザシキワラシにとどまらず、河童をはじめとしてウントクやヒョウトク・ヨゲナイ・ハナタレ小僧などの童形の神もしくは妖怪、さらにはイヅナ狐やモゲンなどの、家を富み栄えさせるさまざまな存在について論じられている。

 千葉はザシキワラシを「海神小童信仰の残留」と推定し、社会の生産段階・経済団塊から河童から小童への変化を説明している。すなわち、自給中心の経済社会では、人の労働力が最も重要な資本であり、よく働くことが家を繁昌させる要因であり、交換価値のみで使用価値の乏しい黄金は遠い空想に過ぎなかった。このような社会の農業段階では水利を得ることが重要であり、水の神の恩賜が家の歴史に結びつけられ、富貴の原因として河童が語られる。しかし、交通路が開かれると商品作物や手工業が流入し、ザシキワラシも河童に近い姿から色白く愛らしい小童の姿に美化され、水の神との関係が忘れられていったとしている。

 

・実際に河童からザシキワラシへと変わったかは検討を要するが、富貴譚のモチーフを生産段階・経済段階の変化と関連づけているのは興味深い。なお、千葉には本論文の他に、河童が農作業を手伝う話を分析した「田仕事と河童」(1958年)がある。

 

野村純一「河童が火を乞う昔話」 1968年

・河童が火を乞う昔話を入口にして、水の精霊である河童と火のかかわりを考察した論考である。なぜ水の精霊である河童が人間に火種を貰いに来るのかという問いを野村は立てる。そして対照的に見える水と火の関係を、柳田國男の『山島民譚集』や他の伝説集の記述をひきながら考察し、「水をよく管掌するものにして、はじめて火をも管理する資格がある」とする論理が流れているのではないかと推測する。

 

・ところで、野村が河童が火を乞う昔話として引用しているふたつの話は、両方とも尻を求めてきた河童に火を与えて追い払った話であり、野村がいうように河童が火種を求めて人間に近寄ってきた話ではない。また、河童が火を嫌うことも不知火や出火の原因であることも一緒にして河童と火のかかわりについて論じようとしており、これらの点で野村の議論は錯綜しているといわざるを得ない。しかし、だからといって河童と火のモチーフのかかわり自体を考察する意味がなくなったわけではないだろう。

 

神野善治「建築儀礼と人形――河童起原譚と大工の女人犠牲譚をめぐって――」1983年

・本論文は「大工と人形」にかかわる河童の人形起源譚と大工の女人犠牲譚の二種類の説話を比較することにより、建築儀礼における人形の役割を考察したものである。寺社の建築に際して大工が人形を作り仕事を手伝わせ、仕事が終わったあと川や海に捨てられた人形が河童になったという説話の発生を、かつて大工が人形を作り祀った建築儀礼のなごりではないかと推測し、さらに棟上げのときに祀る人形と、その由来譚としての建築に際して女性が犠牲になった説話の構造の中で同等の位置をしめていることから、両方の説話の背景に大工が建築儀礼として人形を作ったことがあるのではないかと想像している

 本論文は、河童を主題にして考察した論考というわけではなく、建築儀礼における人形についての論文である。しかし、それまでの「河童=水神零落説」とは異なる河童の人形起源譚に注目したという点で画期的な論文であり、その後の河童研究に大きな影響を与えることになる。

 

川田牧人「妖怪の交響楽――奄美加計呂麻島における妖怪譚の構造分析試論――」1987年

河童と似たような外見的・能力的特徴をもつ奄美地方の妖怪「ケンムン」を分析したものである。それまでになされた先行研究が、ケンムンと河童の相同性を見出しケンムンを山の神の系譜だとしているのに対し、川田はケンムン譚を奄美の民俗社会・文化の中に位置づけることにより、その論理構造をとらえることをこころみている。奄美加計呂麻島において、生業や年中行事のサイクルなどの人間の生活・神観念・動物観の三者はそれぞれ、海-山・畏憚-招迎・恩益-害悪という対の構造があり、これらが組み合うことによって3次元の二項対立構造を形成している。そして個々のケンムン譚を集積することにより得られるケンムンの全体像は、この3次元の二項対立構造を一身に体現しているとされる。

 

若尾五雄「河童の荒魂」1972~1975年

・河童の属性のひとつである「尻子玉を抜かれる」ことを水死した状態であるとし、水死するような川の淵は渦を巻いていることから、渦巻きは河童の荒魂であり、河童は渦巻きの和魂であるとしている。そして渦巻きは水流が交叉して回転することから「河童は<交>である」というテーゼを引き出し、河童のあらゆる属性をこのテーゼにしたがって読み解く。のちの河童研究において議論されることになる河童と建築・土木事業との関係や、「河原者」との関係についてふれている部分もあり、この点では先駆的だったといえる。

 

小松和彦「河童――イメージの形成――」1987年

現在のような河童のイメージが近世に形成された歴史的過程について考察している論文である。後の研究にとって重要なのは、農民とは異なる生業を営み、賤視・差別されていた「川の民」「非人」「河原者」の役割に着目したことであろう。大工が仕事を手伝わせるために作った人形を川に捨てたところ河童になったという河童の人形起原譚と、近世の資料である「小林新助芝居公事扣」の記述にある「非人」の起原譚が非常に似ていること、「川の民」「河原者」に対する当時のゆがんだイメージに関連する諸属性が河童にも見られる。これらのことから、賤視された人々のイメージが核となり、カワウソやスッポン・猿などの動物のイメージが付与されて、河童のイメージが形成されたのではないかと推測している。

 

神野善治「木子としての傀儡子」1991年

神野による先の「建築儀礼と人形」と同様、河童を主題として考察した論文ではなく、木の人形である「傀儡」について論じたものである。全体の構成としては全国各地の人形芸能を紹介しながら傀儡について考察し、その一部として河童の人形起原譚についてふれている。

 奈良時代末には、人形は「ひとがた」と呼ばれ一般的に進行儀礼に用いられて、それには木製の人形も含まれていた。それにもかかわらず「木の人形」が「クグツ」と呼ばれて区別されていることに注目し、「クグツ」とは生きた人間のように動く「木の人形」のことであり、やがて人形遣いも「クグツ」と呼ばれるようになったのではないかとしている。さらに「木の人形」を操る人形遣いは特殊な能力をもっており、息を吹き込んで魂を与えることができると考えられていたのではないかと推定している。

 その上で河童について論じられており、河童起原譚と河原者起原譚が同型であることが認められ、これらの説話が源を同じくするものである可能性を認めるにしても、だからといって小松が主張するような「河原者」の実像が河童のイメージの根源になったとする三段論法は誤りではないかと批判している。

 

中村禎里「河童の誕生その他」1991~92年

・古代において信仰され、また畏怖の対象にもなった「わに」の系譜に河童を位置づけて、歴史的な資料にもとづき、その変遷を考察している。論述は多岐にわたるが、大筋において「零落」もしくは「衰退」のあとをたどっている論文だといえるだろう。

 

小馬徹「河童相撲考――『歴史民俗資科学』のエチュード――」1996年

・それまでの河童人形起原譚に批判的検討を加えた上で、小馬は河童が相撲を好む属性を考察する。古代において陸墓を増築し埴輪を製作した土師氏が始祖神とするノミノスクネは日本神話において初めて相撲をとった神でもあることそして渋江氏が祖先とする橘島田麻呂(島田丸)が春日神社を造営した際に内匠頭某に人形を使役させ、造営ののちに人形を川に捨てたところ河童になったことから、渋江氏がノミノスクネ神話をもとにして島田麻呂神話をつくり、そのために河童が相撲を好むとされたのではないかと論じている。

 

毛利龍一「河童をヒヤウスベと謂うこと」1914年

・著者は、河童の主である渋江氏を祀る佐賀県の潮見神社の神職であり、神社にまつわる河童の話が報告されている。

 

小池直太郎「河童資料断片」1927年

・その内容は長野県を中心として集めた河童に関する話の聞き書きである。

 

中田千畝「河童の妙薬」1928年

・河童に膏薬や傷薬などの病気の薬・骨接ぎの方法を教えてもらったという話は実に多い。本報告において、中田が埼玉県の熊谷で実際に聞いた河童から傷薬を教えてもらった話を記述し、さらに筑前博多の接骨医の話三篇を紹介している。また、文末には河童に関する江戸時代からの文献があげられている。

 

金久正「ケンモン(奄美大島)」  1943年

・河童に似た妖怪である奄美大島のケンモンの属性と体験談の報告である。

 

丸山学「肥後葦北のヤマワロ」1950年

・本報告は、丸山が昭和24年12月から翌25年1月にかけて、当時の熊本県葦北郡佐敷町湯浦町・津奈木町での調査で得たものである。「一切私見を加えず、聞いたままを整理して記載」したものであり、ヤマワロのさまざまな属性が紹介されている。

 

楳垣実「河童考」1959年

・「川殿」の項にある<河童の異名は元来忌み言葉だった>という仮説にしたが、忌み言葉以前の河童の本名を全国各地の「河童」に該当する妖怪の呼び名から探ろうとしている。

 

・本書では民俗学において「河童」と名づけられていた妖怪が、実際にはさまざまな名称をもっていたことを示す資料として収録した。

 

矢口裕康「日向の河童伝承――伝承存在と意識――」1981年

・宮崎県域の昔話集・伝説集、および宮崎県諸塚村における河童の話を整理し、さらに矢口自身が調査で得た河童の話を報告している。そして収集・整理した資料を分析することによって、河童に対する意識は零落したと述べている。

 

河童     解説   小松和彦

「河童」とはなにか――近世に発見された「河童」

・「河童」は、数ある妖怪のなかでももっともよく知られた妖怪である。最初は恐怖を抱いていた人びとも、それが架空の生き物であったことがわかると、グロテスクでありながらひょうきんさを帯びた顔かたちに親しみを覚え、自分たちのさまざまな思いを託す手段にさえしてしまった、あの「河童」である。しかし、「河童」とは何者だったのか。改めて問い直すと、わたしたちはほとんど何も知らないことに気づくのではなかろうか。

「河童」は、川の淵や沼などの水辺に出没し、人間や家畜にさまざまな怪異をもたらすと信じられてきた「生き物」である。

 

・「河童」という語は現在では全国に知られる語である。だが、以前は地方によって呼称が異なっており、カッパは関東から東北にかけての地方の人びとの間に流布していた語であった。それがやがて共通語になり、さらに民俗学でもそれに従って学術用語として用いるようになったのである。

 民俗学者の報告に従って「河童」伝承を整理した石川純一郎によれば、河童の地域語(方言)は、おおざっぱにいえば、青森地方がミズチ系、関東から東北にかけての広い地域がカッパ系、長野・愛知地方がカワランベ系、佐渡能登半島がカワウソ系、奈良・和歌山地方がガタロー系、四国から広島・山口地方がエンコー系、九州の大分地方でドチ系、宮崎地方ではヒョウスベ系、熊本から鹿児島にかけての地方ではカワワラワ(ガワッパ)系、奄美地方ではケンモン系である。

 

・たしかに民俗学者たちは「河童」という総称の普及には貢献した。しかし、「河童」を発見し「河童」という総称を創り上げ、その研究に本格的に取り組んだのは、近世の江戸を中心とする知識人たちであった。とくに本草学者(博物学者)がとりわけ熱心に「河童」研究をおこなっていた。自分たちが作る事典に入れるべきかどうかが大問題だったからである。

 

・そこで、文献調査と聞き書き調査などをおこなって「河童」に関する情報を収集することになった。そして分析・考察を重ねた結果、たしかなことはまだわからないが、と断わりつつ、本草学者たちは、とりあえず「河童」が実在する動物らしいと考えたようである。そして、それは、中国の「水虎」と呼ばれる動物にほぼ相当するとした。つまり、簡単にいうと、中国名「水虎」、和名「河童」、地方による異名多し、というように分類・記述されたわけである。

 これから百年ほど後の江戸後期、日本の本草集成として記述された、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1802年)には、その後情報がたくさん収集されたことを反映して、きわめて詳細な記述がなされている。

 

・江戸の知識人のあいだでは、「河童」は口頭伝承から文字表象と絵画表象になっていった。このような作業を通じて、わたしたちが思い浮かべることができる河童の性格とその姿かたちが、幕末までにほぼ完成をみたのであった。

 ところが、近代に入ると、「河童」は、画家や小説家などが描く想像世界のなかに活動の舞台を移していくことになるわけである。

 

「河童」の民俗学的研究

・ところで、近代になって、この「河童」を再び学問の対象として見出した人がいた。柳田國男である。柳田國男は『山島民譚集』(1914年)のなかで「河童駒引」と題する一章を設けて「河童」について論じた。もちろん、実在の動物かどうかを吟味するのではなく、伝説上の生き物、つまり幻想動物としてである。柳田は近世の文献を博捜しながらその諸特徴を分析し、その河童伝承の本質を明らかにしようとした。すなわち、柳田がおこなったのは、本草学者が集大成した河童の性格を、逆に「河童家伝の妙薬」「馬を水中に引く河童」「河童の詫び証文」「河童の異名」等々に腑分けしながら、柳田なりの解釈をおこなったことにある。いったい、いかなる理由で、近世に全国各地に、「河童」のような幻想動物が発生したのか。その謎を解こうとしたのだ。

 

・こうして、近代の河童研究が民俗学によって開始された。だが、柳田の弟子たちは、主に河童に関するデータを民俗社会から収集することに力を注いだ。本館にもそうした調査報告のいくつかを収録してみた。かれらが柳田が提出した「河童駒引」の解釈を妥当なものと受け止め、それを疑うことをせずに、むしろそれを補強するようなデータを集めようとした。報告者が解釈を加えることがあった場合でも、河童=水神零落説にそった解釈がほとんどであった。

 

・ところが、民俗学者が民俗社会から「河童」伝承を採集していたとき、

隣接の民族学の側から、柳田國男の「河童駒引」の研究に刺激され、いわば柳田の仮説すなわち水神零落説をユーラシア大陸の文化史に視野を拡げて探るという研究が現れた。

 

・ところで、「河童」信仰(民俗学では「俗信」)の原型としての「水神」信仰を想定し、「水神」信仰から、「河童」伝承を説明しようという、いささか迫力を欠いた民俗学的研究が多いなかでも、いくつか注目すべき研究が存在している。

 

「河童」研究の新しい展開

・1974年に「河童」の民俗誌的データのダイジェスト版集成ともいえる、石川純一郎の『河童の世界』が刊行されて以降、民俗学では、ときおり調査報告はあるものの、研究という言葉に値するような論文はほとんど現れなかった。

 

・こうした、いわば広い意味での河童ファンによる河童論の流行は、昨今の妖怪ブームや「闇」の文化史への関心の高まりと無縁ではない。もっとも、こうした河童論は示唆に富んだ大胆な仮説も随所に見られ、興味をそそるものがあるが、従来の河童研究を実証的な手続きをふんで更新するといったものではない。

 

・次の第二章で、「河童の行動」のパターンが検討される。すなわち、近世初期(17世紀)の第一段階の「河童」の特徴を、文献資料によりながら析出する。

(1) 人を手中に引き入れるという特徴をもつが、これは中世のヘビや近世同時代のスッポンなどの行為を反復しているにすぎないが、河童に生息地が川の淵・用水・堀などに特定される傾向があるという特徴をもつ。

(2) 河童は人だけでなく馬にも執着する。

(3) 人に捕らえられると謝罪するどころか祟るという性格をもつ。

(4) 河童が人に相撲を挑む現象、および人に憑く現象は、この時期に始まったらしい。

(5) この時期の河童の行動には、人への攻撃と人の反撃、河童の敗北と帰順といった民間伝承にみられる定型パターンはまだ現れていない。

(6) 人に捕らえられると謝罪と赦免、その返礼としての魚類の贈与、という特徴が現れる。

(7) この時期に、女性とセックスするという特徴も現れる

 

次いで、18世紀前半の第二段階での、以下の特徴が現れる。

(8) 河童が手を切られる。

(9) 手を返して貰う見返りに、手継ぎの秘伝を人に伝授する。

 

・そして第三章では、18世紀末からの第四段階の、中村が「先祖がえり」と評した新しい特徴が加わることになる。

(10) いくつかの地域で、これまではどちらかといえば忌避すべき水の精霊=妖怪であった河童が祭祀の対象になる。

(11) 九州地方では、山童との季節的変換つまり山と里の去来伝承がうまれる。

(12) さらにまた、この時期に、河童が海に出没するという伝承が現れるようになる。

(13) この結果、水神関連の伝承たとえば、「竜宮童子」系の昔話とも連絡するようになる。

 

 このような分析に従うならば、河童伝承は、近世に生まれ、その特徴を次第に増やし、その活動領域を拡張していったということになるだろう。

 

 

 

『関西弁で読む遠野物語

読んでいるっていうより聴いている感じ。ええ感じ。ええ感じの『遠野物語

柳田国男(著)  畑中章宏(著、翻訳)

エクスナレッジ  2020/4/1

 

 

 

岩手県遠野市出身の佐々木喜善(鏡石)から聞き書きした話

・『遠野物語』には、妖怪や亡霊が登場し、さまざまな怪異現象が記録されています。こうした現実離れした話の数々を、柳田は「目前の出来事」、「現在の事実」だと主張し、近代的知性や合理的思考では計り知れない世界を世に知らしめようとしました。「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という有名な言葉には、柳田の発見と驚きと反響への期待が示されているのです。

 

当ブログ註;本文修正

 

<地勢>

1話 遠野は大昔、湖だった ⁉

5話 山男山女を避けて回り道

・遠野郷から三陸海岸の田ノ浜、吉利吉里の方に超えるんやったら、昔から笛吹峠の山道があります。山口村から六角牛の方へ入っていくさかい、だいぶん近道やねんけど、最近この峠を越えようとしたら、山の中で必ず山男や山女に出くわしまんねん。

 そんなんやさかい、みんなが怖がってしもて、人通りがだんだん少なくなってきて、境木峠とゆう方にべつの道を開いてん。和山を馬次場にして、二里以上も回り道やのに、みんなこっちばっかし超えるようになってしもてます。

 

98話 石塔の多く立つところ

 

神の始 いちばんええ山もろたんは、何番目の姫神

<2話 姉神が寝ているすきに、妹が……>

 

【解説】

・遠野三山のそれぞれを、三人の姫神のだれが領有するか。母神の名は明らかにされてないが、さぞかし気高い神なのでしょう。

 早池峰山は山地の最高峰で「日本百名山」のひとつ。北麓の集落に伝わる「早池峰神楽」でもよく知られています。

 

カクラサマ 子どもと遊ぶのが大好きな里の神様

<72話 遊びを止めたら祟られる>

<73話 信仰されていない神>

74話 神名は地名に由来する

 

解説

・題目では大きなくくりで「星の神」として98話だけが取り上げられ、「カクラサマ」と「ゴンゲサマ」は、それ以外の星の神の話として分類されています。

 カクラサマの「カクラ」は漢字で、神楽・角羅・賀久羅・神楽・神座などと記され、遠野ではかつて堂宇の中に祀られていたようですが、信仰や祭祀の詳細はわからないようです。

 カクラサマは子ども好きの神様だとされます。子どもが神仏と遊ぶのをとがめたため祟りにあったという話は、『遠野物語拾遺』の51話や52話にもみられ、前者では馬頭観音、後者では阿修羅が登場します。

 

ゴンゲサマ   火伏の神様は、片方の耳がない

110話

・「ゴンゲサマ」ゆんは、神楽舞の組ごとに一つずつ備わってる、木でできたお像のことで、獅子頭によう似てるねんけどちょっと違てます。せやけど、なかなかご利益のあるものなんやていいます。

 

解説

・「ゴンゲサマ」は権現様のことで、「権現」というのは仏・菩薩が衆生を救うために仮(権)の姿をとって現れること、また現れた姿を言います。

 遠野を含めた南部領では、神意を獅子頭に移したものを権現様と呼びますが、柳田は獅子頭とは「よく似て少しく異なれり」と書いています。遠野の権現様は「火伏せ」に霊験があるとされていますが、各地では愛宕権現秋葉権現などの権現が火伏せの神として信仰されました。

遠野物語拾遺』にも新張八幡の権現が喧嘩して片耳を失う話があり、そこでは本編110話とはまた別の権現様が片耳を喰い切られています。柳田国男は『一目小僧その他』(1934)所収の論考などで、動物の片耳、片目片足などについて、かつての供儀との関連性を示唆しています。

 

オクナイサマ お祀りしたら幸せになる神様

14話 神様の顔に白粉を塗る風習

15話 神様は泥にまみれて田植えを手伝う

16話 コンセ様とオコサマ様

70話 木像や掛け軸でお祀りする

 

【解説】

・題目「家の神」にはコンセサマを取り上げた16話が収められ、さらに「オクナイサマ」、「オシラサマ」、「ザシキワラシ」が小項目として立っています。ここでは「オクナイサマ」に入る三篇と、「家の神」の16話を収めました。

 オクナイサマは「屋内様」や「御宮内様」と記される、まさに屋内の神です。「オコナイサマ」とも呼ばれ、次項のオシラサマと同様に、桑の木でつくり衣装をかぶせた木像のほか、掛け軸を信仰する場合があるようです。陰陽ひと組なところもオシラサマと似ていますが、田植えを手伝うことで人を幸せにするなど、農業神の性格が強いのかもしれません。

 なお16話のコンセサマは「金精様」、オコマサマは「お駒様」で、五穀豊穣や安産を祈願する性神と考えられます。

 

オシラサマ  結ばれた娘と馬は、死んで神様に祀られた

69話  桑の木をめぐる悲恋と信仰

 

【解説】

馬娘婚姻譚として知られ、桑の木に因むことから養蚕業にかかわると思われるオシラサマの話ですオシラサマ(オシラ様・おしら様・お白様)は。東北を中心に東日本の広い地域で信仰され、「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などとも呼ばれます。

 佐々木喜善の『聴耳草紙』にはこの69話の後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、蚕を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませて、それが養蚕の由来になったとあります。このようにオシラサマは養蚕の神として知られていますが、農業の神、馬の神などともされていて、地域により祈願の目的がさまざまなのです。

 

ザシキワラシ “気配”がしたら、金も地位も思いのまんま

17話 こどものすがたをした神さん

18話 幸福も連れて去っていく

 

【解説】

・ここには二種類のザシキワラシが登場します。ひとつめは、家の中のどこかに住みつき、物音や気配はするものの姿は見えません。しかし、この“神”がいると、金も地位も思いのままだと言います。ふたつめは二人の少女で、彼女たちが家を出て行くと、その家は没落してしまいます。二種類とも富貴を左右する“小さな神”として描かれているのです。

 なお、東北地方に伝わるザシキワラシの性格としては、枕返しをはじめとしたいたずらが強調される場合もあります。また、遊んでいる子どもたちの数をかぞえると、実際の人数より一人多く、それがザシキワラシだといわれます。

 佐々木喜善岩手県内で、「ザシキワラシと河童は同じものだ」という証言を採集し、喜善と親交のあった宮沢賢治も、童話『ざしき童子のはなし』(1926年)を執筆しました。

 

山の神 真っ赤な顔で輝く目をした大男の不思議

89話  鉢合わせに、山神も吃驚

・和野の何某っちゅう若もんが柏崎に用事があって、夕方にお堂のあたりを通ったら、愛宕山の上から、えらい背ぇの高いやつが降りてきよったそうです。

「どこのどいつや」て、林の木超しに見えるそいつの顔目がけて近寄ったら、道の角でばったち出くわしてもてん。そしたら思いもせんかったせいやろ、むこうのほうが滅茶苦茶吃驚しておる。そのこっちを見た顔はえらい赤うて、眼もぎらぎらして、ほんまにたまげた顔や。

 何某は、それが「山の神」やてわかったもんやさかい、後も見んと、柏崎の村まで走り着いたんやて。

 

<91話 鳥御前の災難>

93話 山中で子どもの死を告げられる

<107話 「河ぷちの家」の娘>

・上郷村」を流れてる早瀬川の岸に、「河ぷちのうち」て呼ばれている家があります。この家の若い娘が、ある日河原に出て石拾っとったら、見たこともない男が来て、木の葉となんかをくれよった。背が高うて、顔の赤い男やった。

 その日からこの娘は、占いの術使えるようになってんけど、「そのけったいな男は山の神で、娘は山の神の子になったんや」て言われています。

 

108話 人心を読む術を授けられる

 

【解説】

・89話の原注に、遠野で多くの山神塔が立っている場所は、「かつて山神に逢いまたは山神の祟りを受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり」(原文)とあるように、『遠野物語』に登場する山の神は、山や森や木に宿る精霊的な存在ではないようです。リアルな身体を備えて、人に似てはいるものの、人とは違う能力をもつ「異人」というべき存在なのでしょう。

 山の神のなかには108話のように特殊な能力を身に着けたものもいますが、山で修行する修験者を山の神に見立てたのかもしれません。山中で暮らすこうした異人・山人を、柳田は民俗研究の最初期には重要な課題にしていました。なお題目で「小正月の行事」と重複している102話はそちらに収めました。

 

<神女 言うとおりにしたら財を得、約束を破ると……

27話 黄金があふれ出す石臼

54話 秘密を守る約束のお返し

 

【解説】

約束を果たしたおかげで財産を手にする報恩・致富譚二篇で、富をもたらしたのはいずれも神秘的な女性です。27話では川渕にいた女が、昔の知り合いと出会います。柳田はこうした不可思議な女性をめぐる話を「神女」という題目に収めたのでした。

 27話の原注に

この話に似たる物語西洋にもあり、遇合にや」(原文)とありますが、イギリスには黄金を生む卵の話、また世界の各地に託された手紙を書き換える話が伝わっています。

 なお27話に登場する「池の端」の家、池端家は現在も継がれていて、敷地内に石臼大明神が祀られています。

 

天狗 山の中で出くわしたら、ただでは帰れぬ

29話 天狗が住む山に登る賭け

62話 鉄砲打ちの奇妙な体験

90話 力自慢のゆえの惨劇

・松崎村に「天狗森」ゆう山があります。

 その山の麓の桑畑で、村の若もんでなんちゃらゆうやつが仕事をしていたらえらい眠とうなってきたんやそうです。ほんで、畠の畔に腰掛けてちょっとのあいだ居眠りしようと思てたら、顔が真っ赤で、めちゃくちゃな大男が現れよってん。

 

【解説】

・遠野には鶏頭山や天ヶ森など、天狗が住むと恐れられた山がありました。遠野の人々は故人や、知人が天狗に遭遇した体験談から天狗の実在を固く強く信じていたのです。

 日本の天狗には修験道の修行者=山伏の姿が色濃く投影しています。かつての人々は天狗の姿を、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴を持つ、あるいは山伏姿で羽根をつけ、羽団扇を持っていて自由に空を飛ぶといった姿をイメージしていました。

 人が突然いなくなる「神隠し」でも、天狗にさらわれたという事例が近世以後は多くなります。国学者平田篤胤は『仙境異聞』で、天狗にさらわれた仙童寅吉が、空中を飛んだり、異世界を見てきたりした経験を記録しました。

 

山男 娘をさらったり、焼け石を食わされたりする異人

6話 さらわれた糠前長者の愛娘

<7話 子どもをどこかに連れ去る怪物>

<9話 笛の名人が聞いた声>

<28話 餅だと信じて坊主が食べたのは>

<30話 高いびきをかく大男>

31話 女の子が狙われやすい

遠野の里に住んでる子どもが、異人にさらわれて行ってしまうのは毎年しょっちゅうなことでした。子どものなかでも女の子のほうが、ようけさらわれたんやそうです。

 

92話 風呂敷を背負って、急ぎ足で

 

【解説】

・この題目に収められている話の多くは、子どもや女性が突然行方不明になる「神隠し」と呼ばれる現象です。かつては神隠しがあると鉦や太鼓を叩いて名前を呼び、捜し歩いたものだと言います。

 その原因は、天狗や狐、鬼や隠し神などに隠されたものと信じられてきましたが、遠野では山男にさらわれることが多かったようです。神隠しには永遠に帰らない場合と山中で発見される場合があり、古来、異界と交渉する手段のひとつだと思われてきました。

 28話で描かれた「白髪水」は、北上川流域を繰り返し襲ってきた氾濫災害伝承としてよく知られるものです。なお題目「地勢」と重複する五話はそちらに収めました。

 

山女 長い髪を垂らした美女の正体は

<3話  証拠に切った黒髪>

<4話  粗末な着物で赤子を背負う>

34話 小屋をのぞく謎の女

<35話 空を走るように駆ける女>

<75話 長者屋敷への出没>

 

【解説】

山深く住む山女は、山姥・山姫・山女郎・山姥などとも言い、この題目に収められた話のように長い髪をもち、肌が白いといった特徴があります。また山女に出会ったものの多くは、病気などの災厄を受けるなどと言われています。

 東北地方で起こる神隠しでは、女性の場合、山男に連れ去られその女房になったという言い伝えが少なくありません女性が神隠しに遭いやすいのは、産後の肥立ちが悪いなど、精神的に不安定な時期が多いなどと言われてきました。

 

姥神  異能をもった女性たち

<65話 今も生きている貞任の母>

71話 「隠し念仏」の信者

 

【解説】

・71話で描かれる隠し念仏は、現在の岩手県を中心に青森県から福島県の一部にまで広がった秘密性を重んじた念仏集団です。江戸時代に広く行われ、西の隠れキリシタンに対して、東の隠し念仏といわれたほどでした。伝統的な浄土真宗の信仰を起源としますが、世俗化した本山の本願寺を嫌い、直接的に親鸞の教えに従おうという信仰だったようです。

 

雪女 冬の満月の夜には気をつけて

<103話 雪女が遊ぶ日>

 

【解説】

雪女にかんする伝承は日本列島の各地にあり、地域によって「雪おんば」、「雪女郎」などとも呼ばれています。

 青森県の西津軽地方では元旦に現れ、最初の卯の日に帰っていくという言い伝えがあり、また山姥や一本足の子どもの姿で現れるというところもあり、こうした伝承から雪女には、歳神や山の神の性格がみられます。

 遠野でも小正月や満月が雪を照らす夜、多くの子どもを連れてやってくると伝えられていますが、雪女の出現は珍しかったらしく、その姿を確認したものは少なかったようです。

 

川童  遠野の河童は体が赤く、女を身ごもらせる

55話 川べりの家では嫁が寝取られる

56話 捨てた河童を拾いに行けば

<57話 河童の足跡>

<58話 姥子淵の河童の約束>

59話 真っ赤な顔をした男の子

 

【解説】

・河童(川童)は日本各地の川や池などに住み、川太郎・ガタロ・エンコウ・ヒョウスベ・メドチ・スイジン・スイコなどと呼ぶところもあります。特徴は子どもの姿で、頭の上に皿があり、髪の形はおかっぱ頭、背中には甲羅、手には水掻きといったものです。

 相撲を好み、田畑を荒したり、水の中に馬を引き入れたりするかと思えば、田植えや草取りを手伝ったり、毎日魚を届けたりするかと思えば、田植えや草取りを手伝ったり、毎日魚を届けたりする河童もいます。

 しかし遠野の河童は、女性の寝床に入り、子どもを身ごもらせるなど、多くの人が思い描く河童とはイメージがかけ離れています。しかも生まれてきた子どもは赤く、醜く、殺したり捨てられたりするのです。こうした河童像は、遠野地方をたびたび襲った飢饉により、子どもを死に至らしめざるを得なかった過酷な歴史が背景にあるかもしれません。

 

猿の経立(ふつたち)年取った猿は化け物になって人をおどかす

44話 炭焼きの小屋をのぞく不審者

・六角牛山の峰続きに橋野っちゅう村があって、その上の山に金抗があります。

 ここの鉱山に使う炭を焼いて、生計立ててるもんの中に、笛がえらい上手な人がいてます。その人がある日の昼の間、小屋で仰向けに寝転んで笛吹いていたら、小屋の入口に掛けたる垂菰(たれこも)をめくるやつがいてまんねん。びっくりしてそっち見たら、猿の経立(ふつたち)や。

 あんまし怖くて起き上がったら、猿の経立(ふつたち)は向こうにゆっくり走っていきよった

 

45話 頑丈な毛並みで女をさらう

猿の経立(ふつたち)は人にえらい似てきて、里の女をなんべんも連れ去るようになります。

 経立(ふつたち)は毛に松脂塗ったくって、その上に砂をつけとるもんやさかい、毛皮は鎧みたいで鉄砲の弾も通らへん

 

46話 鹿笛をほんとの鹿だと勘違い

・栃内村の林崎に住んでる、いまは五十近い何某っちゅう男が、十年ほど前、六角牛に鹿撃ちに行ってオキ吹いていたら、猿の経立に出くわしたんやそうです。

 猿はオキの音をほんまの鹿やと思ったみたいで、地竹を手でかきわけながら、大きい口開けて、峰の方から下りてきよる。何某は胆潰れるぐらいびっくりして、笛吹くのんやめたら、経立はそのうち道反れて、谷の方へと走っていきよった。

 

47話 山から経立(ふつたち)が降りてくる

<48話 峠で待ち受けるいたずらもの>

 

【解説】

・ふたつの題目、「猿の経立(ふつたち)」と「猿」(47話)をひとつにしました。経立は、動物が驚くほど長い年齢を取り、妖しい力が使えるようになったものを言います。猿の経立のほか、犬の経立、雄鶏の経立などさまざまな経立がいて、青森県の野辺地あたりでは経立のことを「へぇさん」と言い、愛知県の北設楽郡では年を経た狐や山犬、猿のことを「フッコ」と呼ぶそうです。岩手県下閉伊郡安家村では、雌鶏の経立が、卵を食べる人間を怨み、子どもを取り殺したと言います。

遠野に現れる猿の経立は、人間の女をさらう点で、山男や天狗のような山界の異人と共通しています。

 

山の霊異 夢か現か幻か、深山での出来事

<32話 白鹿と地名由来>

<61話 白鹿と白石>

<95話 けったいな大岩>

<49話 仙人峠の落書き>

 

【解説】

・鹿は古くは「シシ」「カノシシ」とも呼ばれ、人々と深い関りを持ってきました。鹿皮が武具などに用いられるほか、肉、骨、角などもさまざまな用途に利用されてきたのです。

 また古くから奈良の春日大社広島県厳島神社などでは、神使として神聖視され、害獣であるシカを捕らえて豊作を祈願することもありました

 白いシカを神聖視する伝承は中国にもあり、北海道のアイヌは、シカは神が天上でウサギ狩りをするときの猟犬で、シカの毛は真っ白で立派な角を持つと伝えています。

 なお49話だけの題目「仙人堂」はこちらに入れました。

 

昔の人 いまでも語り継がれる変わりものたち

8話 サムトの婆

日暮れるころ、女や子どもが家の外に出てたら、神隠しによう遭うたりするんは、よその国と同じです。

 松崎村の寒戸てゆうとこにある家で、若い娘が梨の木の下に草履脱いだまんま、行方知れずになりましてん。せやけどそれから30年もして、親類や知り合いがその家に集まってるとこへ、その娘がえらい老けて帰ってきよった。「なんで帰ってきてん?」て尋ねたら、

「あんたらに会いたいから帰ってきたんや。せやけどうち、また行くわ」

言うて、跡形も残さんと、また消えてしまいよってん。その日は、風のえらい強う吹く日やったんやて。

 そんなことがあったもんやさかい、遠野の人はいまかて風がにぎやかな日には、「きょうはサムトの婆さんが帰ってきそうな日やなあ」て言うんやそうです。

 

<10話 夜中で聞く叫び声>

<11話 狂ったせがれ>

<12話 遠野の生き字引>

<13話 赤ゲット、赤頭巾の酔狂>

<21話 お稲荷さんのご利益>

<26話 田んぼのうち>

<84話 海辺に住む西洋人>

<85話 「白子」がいる家>

 

【解説】

8話は有名な「寒戸(サムト)の婆」の話です。じつは遠野に「寒戸」という地名はなく、松崎村に「登戸(ノボト)」が実在します。このため「寒戸」は「登戸」の誤記であるとか、柳田の聞き間違いであるとか、あるいは柳田が話を改変したのではないかという説があります登戸では、急にいなくなった旧家の娘が数十年後に村に現れたと伝わり、「モンスケ婆」と呼んで、恐れられてきたと言われています。

 なお題目にはない85話をここに収めました。

 

家の盛衰 長者の家はなぜ衰えてしまったのか?

<19話 孫左衛門家の没落>

<20話 蛇を殺した報い>

<24話 「大同」の由来>

<25話 吉例の片門松>

<83話 開かずのつづら>

 

【解説】

・山口孫左衛門は18話と24話にも出てきます。また21話で、狐から家を富ます術を得ようとしたのもこの家の当主でした。裕福な長者が没落したり、何かのきっかけで滅亡したりすることは、民話の世界にとどまらない厳しい現実だったことでしょう。

 

マヨイガ 山中で気配がする家を見つけたら……>

<63 無尽蔵の器>

・小国村に住んでいる三浦某は、村いちばんの金持ちです。その三浦家のいまから二、三代前の主人のころは、家はまだ貧しいし、奥さんはちょっとのろい人でしてん。

 

64 手ぶらで帰ってきた婿

 

解説

マヨイガは「迷い家」で、山中に忽然と現れる人気のない屋敷、またその屋敷を訪れたものをめぐる伝承のことですマヨイガを訪れたものは何かを持ち出して帰ると、富貴が得られるのですが、63話と64話の結末が異なるように、だれもがマヨイガの恩恵を受けられるとはかぎりません。

 こうしたマヨイガは、「隠れ里」をめぐる伝承とも重なります。隠れ里は、人間が容易にはたどり着けない富貴自在の別世界で、山の中や水の底にあると想像されてきました。川の上流からお椀や箸、米のとぎ汁などが流れた、米搗きや機織りの音が山の中から聞こえてきたといった伝説が、日本の各地に数多く残されています。

 

前兆 あの出来事は悲劇は前触れだったのか

<78話 雪合羽を着た男>

<96話 芳公馬鹿と出火>

 

【解説】

・ものごとの前兆に気づく予知能力をめぐる話は『遠野物語』のなかにはいくつもあり、少しあとに登場する「まぼろし」にも出てきます。

 96話の芳公馬鹿は、火事を予知する超越的な力が備えており、原文では「白痴」とみなされています。しかし民俗的な社会においては、知的に障害がある人は差別されるだけでなく、人に見えないものが見えたり、感じられないことが感じられたり、未来に起こる出来事を予知する能力をもつのではないかと畏怖されることもありました。

 なおもとの題目のうち20話は「家の盛衰」に、52話は「色々な鳥」と重複のためそちらに移しました。

 

魂の行方(その1) 親しかった人への最後の挨拶

22話  ひいばあさんの帰還

23話 この世への執着

<86話 道普請を手伝う>

 

【解説】

・「魂の行方」は『遠野物語』のなかでも重要な題目です。

 

・その22話と23話における幽霊出現のリアリティを、三島由紀夫は『小説とは何か』(1972年)のなかで激賞しています。「『裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり』と来ると、もういけない。この瞬間に、われわれの現実そのものが完全に震撼されたのである」。炭取の回転によって「超現実が現実を犯し、幻覚と考える可能性は根絶され、………幽霊の方が『現実』になってしまった」。幽霊の出現を現実にする遠野の奥深さを表す話だと言えるでしょう。

 

魂の行方(その二) 思いがけない死者との再会

97話 菩提寺の上空を飛ぶ

99話 津波で妻と別れた男

・土淵村の助役をしている北川清の家は、字火石にあります。

 北川家は代々の山伏で、お祖父さんは正福院てゆう、ぎょうさん本を書いてる学者で村のことをよくしてきた人です。

 清の弟の福二ゆう人は、海ぎわの田の浜に婿入りしてんけど、こないだの大津波で奥さんとお子さんを失くして、屋敷の立ってたとこに小屋をこさえて、そこに助かった二人の子どもと一年ほどいてます

 清二が、夏の初めの月のええ晩、便所に行くのに立ったら、遠くの波がザバーンて打ち寄せる、浜辺に沿うた道の方が気になりましてん。そしたら、深い霧の中から男と女の二人連れが近よってくるさかい、よう見たら女のほうは、死んでしもうたはずの嫁さんやないかいな。

 気づかれへんように後つけて、船越村の方に行く岬の洞穴まで追っかけて名前呼んだら、こっちのほう振り向いて、「ニコッ」て笑いよる。「男はどこのどいつや」と思て見たら、同じ里の、やっぱり津波におうて死んだ男やってん。そう言うたらじぶんが婿入りする前に、嫁さんと仲ようしとったちゅう男や。

「あんた、すんまへん。この人と夫婦になりましてん……」言うもんやさかい、

「おまえ、子どものこと可愛いことないんか?」て言うたら、嫁さんは顔色変えて泣きよる。

 せやけど、死んだもんと口きいたと思われへんし、なんやもう悲しゅうて、情けのうて足元見てたら、男と嫁さんは急いで行くんで、小浦へ行く道の山陰まわって見えへんようになってしもてん。

 追っかけてみてんけど、「あれは、ほんまに死んでしもたやつらや」て気ぃついて、夜明までぼーっと立ってて朝になって帰りよった。

 そんなことがあってから、福二は長いことわずらったんやて言います。

 

<100話 化けた女狐>

 

【解説】

明治29(1896)年6月15日、犠牲者約2万2千人にのぼる明治三陸地震津波が発生しました。このとき99話の舞台である田の浜(現在の岩手県下閉伊郡山田町船越)では、138戸の家のうち129戸が流出し、死者が483人、生存者は325人と、集落の半分以上の人が亡くなってしまったのです。北川福二の妻もそのうちのひとりだったのです

 柳田国男は明治三陸地震津波の被害をもとに『二十五箇年後』という文章を書いています。津波から四半世紀後、三陸沿岸を歩いた柳田が目にしたのは、漢文で記された津波記念碑で、現在の村民には読むことができないため津波の教訓が伝わっていない。高台に移転してもやがて海辺に戻ってくる人々の現状とその心情に、柳田は思いめぐらせたのでした。

 97話は目に浮かぶほど鮮やかな「臨死体験」の記録です。

 

まぼろし 思いすごしか、前兆か

77話 石を枕にして寝る男

79話 ヨバヒトの気配

<80話 遠野特有の間取り>

<81話 青ざめた顔の男>

<82話 手に映る人影>

 

<106話 山田の蜃気楼

・海岸の山田では蜃気楼が毎年見えるねんけど、いっつも外国の景色なんやそうです。見たこともあらへん都会のようすで、馬車が路上をさかんに走ってて、人の往来かてびっくりするぐらい。せやけど家の形は、毎年ちょっとも違うことがあらへんのやて。

 

【解説】

・79話や81話で柳田は、「間取り図」を示しながら、幽霊や物の怪は、家の「構造」から生まれてくると示唆しているかのようです。そんな柳田の間取りに対する関心は明治44(1911)に山梨県南都留郡道志村を旅した際「常居」という言葉が気に掛かって以来だと考えられています。なお、もとの題目のうち23話は「魂の行方(その1)」に移し、題目「家のさま」から80話をこちらに移しました。また題目に含まれない106話はここに収めています。

 

昔々 結びの言葉は「コレデドンドハレ」

115話 山姥話の宝庫

<116話 木の唐うどと石の唐うど>

117話 オリコヒメと鶏

<118話 紅皿欠皿の話>

 

【解説】

・民間伝承のなかには、瓜から生まれた「瓜子姫」、「瓜姫」、「瓜子織姫」、「瓜姫御寮」などと呼ばれる娘の話が全国に残っています。

 美しく成長した瓜子姫は、機織りをしている最中に、アマノジャクにだまされて殺されそうになります。結末はおもに二つあり、殿様に嫁いで幸福に暮らす話と、アマノジャクに殺されてしまう話です

 瓜子姫をだますのはアマノジャクのほか、『遠野物語』のようなヤマハハ(山姥)や猿などの場合もありますが、最後には退治されてしまいます。大事に育てた娘が殺されてしまう陰惨な話は、現実に起きた出来事を記憶するために物語化したものかもしれません

 

 

 

『山神を見た人びと』

 高橋貞子   岩田書院   2009/3

 

 

 

東北文化史の古層へ

今では有名になった『遠野物語』ですが、当時これを評価したのは泉鏡花と芥川竜之助くらいで、多くの人は趣味本位の書物にすぎないと見ていました。しかし、この発刊が機縁になって、地方に埋もれた文化への見直しが始まり、やがて民俗学が生まれました。人々の語る伝承の比較によって日本人の歴史がわかるというのは、まったく新しい学問の誕生でした。

 

遠野で、『遠野物語』が再発見されたのは新しく、昭和45年(1970)ごろからでした。岩手国体の実施に当たって、地域の文化を観光資源として活用することが図られましたが、その年はちょうど発刊60年にあたっていました。その後、遠野では民俗学資料に重点を置いた博物館、佐々木記念館を核にした伝承園、柳翁宿と柳田の隠居所を含むとおの昔話村、南部の曲がり家を移築した遠野のふるさと村といった施設を整備しました。

 

・『昔なむし』の巻末にある「岩泉地方の昔ばなしとわたくし」には、幼少時に昔話を聞いた思い出から、家業と子育てをしながら採集と執筆を行った様子が書かれています。店先や汽車の中が聞き書きの場であり、夜中や早朝が原稿用紙に向かう時間だったのです。書くことへの執念と信頼が、こうした貴重な資料集を生みだしたのです。

 

<山の神に出遭った人>

・岩泉の向町の佐々木亥之松(いのまつ)さん(明治生)は、20歳だったある日、山仕事で山中に入りました。奥山まで行ったとき、いきなり樹の間から顔の真っ赤な大柄の人が出て、ずいと顔を合わせました。「あ、あー」とおどろいた亥之松さんは、後退りました。ところが、相手は亥之松さん以上におどろいた様子で、うろたえながら樹の蔭に隠れました。

 さあ、亥之松さんは転がるようになって家に戻ると、

「その顔はらんらんとして燃える火のようだった」

と家の人に話したきり、40度の高熱を出して寝込んでしまいました。

 高熱はなかなか下がりません。亥之松さんは重態でした。あまりのことに家の人は、神子さまに、ご祈祷を頼んでお宣託を聞きました。

 お宣託は、

山中で出遭った顔の赤い人は、山の神だったのです。

山の神は<木調べ>のために山中を歩いておられたのです。人間に見られてはならない姿を見られて、山の神もおどろかれたのでしょう。亥之松さんの病は、40日間病床に臥せば恢ります」

と、告げました。

 そのご、ほんとうに亥之松さんは40日間でもと通りの健康体にもどって、そのあと長生きをして生涯を終えました。

 

<山男にさらわれた娘>

田野畑村田代の南という家に、名をハツエと呼ぶ美しい娘がおりました。ある日、ハツエは、手籠を持って春菜を摘みに出かけたまま、突然、姿を消しました。

 家族はもちろんのこと、村中が総出となって探しましたが、ついにハツエを見付ける「ことはできませんでした。ところが、その日から十数年たったある日、村のまたぎ(狩人)が山中でハツエを見ました。

 ハツエは、ごつごつとした岩の上に座って、長い髪を櫛でとかしていました。またぎはおどろいて、「ハツエではないか」と、声を掛けました。

 ハツエもまたぎを見ると、おどろいた様子で、なつかしそうに涙をはらはらと流しました。やがて、

「あの日、山男にさらわれて山女になった。あのころのハツエではない。今は山女なれば、おいらに出会ったことをだれにもしゃべるな。もし、しゃべったら、われの命は無いと思え」

 こう言うと、さいごは恐ろしい形相となって威しつけました

またぎは、

「だれにも一切しゃべらない」

と、約束をしました。ハツエは、

「約束を破れば、3年のうちにお前は死ぬぞ」と、更に威しました。

またぎは秘密を抱えて山を下りましたが、心の中は平らではありませんでした。だんだん体の調子まで悪くなるようでした。こらえかねたまたぎは、ついにある日、ハツエと出会った一部始終を、村のだれかに話しました。

 またぎはだんだんやつれてきて、青白くなって死にました。山女に出会って3年以内のことでした。

 

<人身御供とヒヒ>

・遠い昔のことです。小本海岸の波鼓が舞のあたりに巨大な松の古木があって、その枝に強そうなヒヒ(マントヒヒの異称)が腰掛けていました。そこは浜通りとして人びとの往来するところでした。

ところが、よく人隠しがあって、突然、人が見えなくなってしまう騒ぎがありました。

「なんでもあのヒヒが人を食うらしい」と、人びとは恐れました。

 村人たちは相談の結果、若い娘を人身御供にヒヒに差し出して、ご祈祷をすることになりました。

若い娘は毎年一人ずつ、裸にされてヒヒに供えられました。のちにその娘たちの魂を鎮めるために「人殺神社」が建立されましたが。明治以前に廃社になったということです

 

天狗山から鼓の音

・小川の国境峠に天狗山があります。海抜654メートル。昔から天狗の隠れ住む山と伝えてきました。

今でも国境集落の人びとは、

「トン、トン、トン、トン」

と、天狗山から鳴り出す鼓の音を聞いています。

 やがて鼓の音は、集落を囲んで立つ峰から峰をわたり歩いて、

「トン、トン、トン、トン」

と、鼓の音を聞かせるといいます。

 鼓の音は、四季も時刻も関わりがなく、いつ、どうともなく聞こえ出すようだと、国境の人びとは気付きました。

「きっと、天狗様は、ご自分の所在を知らせたくて、鼓を打つのだろう」と言い合って、鼓の音を聞くと、どんな仕事をしていても手を休めて戸外に集まり、天狗山を眺めるということです。

 

天狗に殺された12人の神楽団体

・天狗森は、猿沢の奥にあって、昔は天狗が隠れ棲んでいた深い森でした。近くの与一屋敷では、あるとき神楽宿をしたのですが、朝には、12人の神楽団体全員が死んでいました。与一屋敷の人は全員無事でしたが、この一大事に気付きませんでした。

 その夜、真夜中の与一屋敷に天狗が舞いおりて、神楽衆の一人ひとりの口に息を吹き込んで殺したのでした。人間は天狗に息を吹き込まれると、即、死ぬといいます。その方法は、天狗は鼻が高いので、人間の頬に頬を近寄せて息を吹き込むと伝えていました。

 猿沢の武田博さん(昭和4年生)は、少年時代に与一屋敷跡に行ってみました。そのときの与一屋敷跡には、土台石や腐った建築材が見えたので、そんなに遠い出来事ではないと思ったそうです。

 

ツチグモと呼ばれた種族

・遠い昔、この地方をはじめて開拓したころ、われわれと別にアイヌとツチグモがいました。アイヌは狩猟をして山で暮らしていましたが、ツチグモは極端に小さい体で、山野に穴を掘ってその中に隠れ住んでいました。

 穴の入口に木の葉や草を被せていましたが、とても獰猛でアイヌや村人が通ると、いきなり襲って穴の中に引きずり込んで、猟物や食料を奪い、衣類を剥ぎ取りました。ツチグモはとても怖かったということです。

結局、ツチグモは絶滅したのですが、ツチグモを退治したのはアイヌでした。

 

 

 

『キジムナー考』

木の精が家の神になる

赤嶺政信    榕樹書林  2018/8/1

 

 

 

キジムナー

キジムナーは、沖縄の人々にとって最も馴染みのある妖怪であり、キジムナーについては、これまでにいくつもの論考が発表されてきた。従来の研究を振り返ってみると、筆者には重要な論点が看過されてきたという思いを禁じ得ず、本稿の出発点はそこにあって、第一部では、その点と関わるキジムナーの民俗学的考察を行う。第二部では、第一部の検討結果につなげるかたちで、八重山諸島における家屋の建築儀礼をめぐる問題の検討を行ない、建築儀礼のなかに窺うことのできる人間と樹木霊(キジムナー)との交渉をめぐる問題について考察していく。そして結論として、八重山の床の間で祀られる家の神は家屋の材料となった樹木の精霊が転化したものであること、すなわち、「木の精が家の神になる」という見解を提示するつもりである。

 

キジムナーは何モノか

・キジムナーは、地域によって、セーマ、ブナガヤ、ボージマヤなどの異名がある。これらの語義について深く立ち入って検討する用意はないが、いくつかの説については紹介しておきたい。

 折口信夫は、ブナガヤの「ぶながる」は長い髪をふりみだすという意味で、ブナガヤはそれに由来するという。山原出身の宮城真治もブナガヤは、「蓬髪の意である」と述べている。また宮城真治は、羽地のボージマヤについて、ボージは坊主でマヤは迷わす義であろうとしている。なお、宮城は、今帰仁のセーマについてその語義は不明だとしている。

 奄美地域にはケンムンの話が豊富にあるが、キジムンとケンムンは語の構成や説話の内容の類似からして同様のものと判断できる。また、宮古八重山にはキジムナーという名称はないが、沖縄本島地域のキジムナーと共通する性格を有する説話上の存在が認められ、それについては後段で注意を向けるつもりである。

 さて、キジムナーとはいったい何モノなのか、その正体にせまるために、キジムナーという言葉の意味について立ち入って検討することにする。

 キジムナーはキジムンの愛称辞だから、キジムンという言葉の意味を考察する必要がある。キジムンの語頭にある「キ」は、キジムンが樹木を棲み処としていることからしても「木」であることは間違いないだろう。そして、末尾の「ムン」は、ヤナムン(悪者)、マジムン(魔物)などの用法にもみられる「ムン」であることも疑い得ないが、琉球語の「ムン」が日本語のモノノケ(物の怪)などに用いられる「モノ」にも通じる言葉であることに注意を向けておきたい。すなわち、『大辞林』で「もの(物)」を引いてみると、六番目に挙げられる意味として、「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語」とある。

 

・次に、保育園の園児の遊戯歌としてもよく使われている「チョンチョンキジムナー」の歌詞に注意を向けることによって、キジムナー像の輪郭を浮かび上がらせていくことにしたい。

 

・この歌詞に歌い込まれているキジムナーに関する情報は、以下のように整理できる。チョーバン石という家の側にガジマル木に住むキジムナーは、その家の住人であるカマデーという男と友だちになった。カマデーは、月夜の晩にキジムナーに誘われて漁に出かける。魚取りがうまいキジムナーのお陰で毎回大漁するが、キジムナーは魚の目玉だけ食べて、あとはすべてカマデーにあげる。カマデーはキジムナーから貰った魚を売ってお金を稼ぎ、立派な家が造れるほどであった。キジムナーの嫌いなものは、暁を告げる鶏の鳴き声、蛸とオナラである。キジムナーは実にいい奴で、キジムナーと友だちになるとただで中国(唐)旅行やアメリカ旅行にも連れていってくれる。キジムナーとの魚取りは実に楽しいものであるが、夜が明けきらない内に切り上げて家に戻らねばならない。

 

この歌詞に注意を向けるのは、歌い込まれているキジムナーの性質が、これまで明らかにされてきたキジムナーの性質とかなりの部分が一致するためである。たとえば、『沖縄大百科事典』でのキジムナーについての解説は以下のようになっている。姿は赤面、赤頭、小童で、古い大樹の穴に住み、行動・性質は、①漁を好み、魚の左目を食い、蛸を嫌い、②松明を持って海や山の端を歩く、③寝ている人の胸を抑えるなどの特徴をもつ。アカガンダーとは、直訳すれば「赤い髪の毛」だが、今風に言えば茶髪といった方が通りがいいであろう。

 

柳田國男は、岩手県遠野市で伝えられていた話を聞き書きしたものを、1910年に『遠野物語』として出版するが、そのなかの第27話として次の話を掲載している。

 

(第27話は当ブログ修正)(ウェッブサイトmikovskaja  noteから引用)

早池峰から出て東北の方角、宮古の海に流れる川を閉伊川という。その流域が下閉伊郡である。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行っての帰り道、この川の原台の淵というあたりを通ったのだが、若い女ありて一封の手紙を託してきた。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行って、手を叩けば宛名の人が出て来るでしょうと言う。この人は請け合いはしたれども、道々心にひっかかっていたところ、一人の六部(巡礼者)に出会った。この手紙を開き読んでその人が言うには、「これを持っていかないとあなたの身に大きな災いがある。書き換えて渡した方がいいでしょう」とて更に別の手紙を渡した。これを持って沼に行き、教えられた通り手を叩いたら、若き女が出てきて手紙を受け取り、その礼ですといってとても小さな石臼をくれた。米を一粒入れて回わせば下より黄金が出てくる。この宝物の力にてその家はやや豊かになったが、妻が欲深く、一度にたくさんの米をつかんで入れたところ石臼はしきりに自ら回転して、ついには毎朝主人がこの石臼に供える水の、小さい窪みの中に溜まっていた中へ滑り落ちて見なくなってしまった。その水溜まりはのちに小さな池になって、今も家のかたわらにある。家の名を池の端というもそのような理由である。

 

・「池の端」という家が裕福になったことの由来を語る話であるが、藤井が指摘するように、それに関与している二人の「若き女」は明らかに通常の人間ではなく、その意味では妖怪の話と同様に怪異に属しているといえる。

 柳田は『遠野物語』を出版した翌年の1911年に「己が命の早使い」という小論を発表するが、そのなかで柳田は、『遠野物語』第27話と同じ話が、遠野地方に限らず、遠野から遠く隔たった甲州備前にもあり、また、12世紀に記録された『今昔物語』にも掲載されていること、さらには、中国の古い文献にも似た話が見出されることを指摘したうえで、以下のように述べている。

 

何故こんな突拍子もない話がわざわざ日本にまで輸入されたか。また、仮に偶合であるとすれば、何故人の頭脳のなかにこういう思いがけず空想が発現したか。これらは、学者が、万年かかっても、とても明らかにする事のできない人類の秘密で、妖怪研究の妙味も、結局するところ、右のごとき神韻渺の間に行かなければならないのかと思うと、やはり宇宙第一の不思議は、人間その物であるといわねばならぬ。

 

 すなわちこの文章から、妖怪や怪異談についての研究が目指すべきものは、妖怪の存否や怪異談の真偽の追求にあるのではなく、それを「空想」した「宇宙第一の不思議」な存在である「人間その物」の研究であるという柳田の考え方を読み取ることができる。「キジムナー考」と題する本書は、キジムナーという妖怪についての研究ではあっても、柳田にならって言えば、キジムナーの怪異談の真偽そのものの解明が目的ではなく、最終的には、キジムナーの怪異談を「空想」した人間についての研究であることを強調しておきたい。

 

・ところで、先述したようにキジムナー譚に共通する特徴として魚の片目(左目)だけを食べるというがあるが、その背景をめぐる問題について若干触れておきたい。柳田國男に『片目の魚』という論文があって、そのなかで、社寺などの池にすむ魚が片目であるという伝説の存在に注目し、次のように述べている。

 つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が一段と神に親しく、仕えることができたのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったわけは、ごく簡単に想像してみることができます。神にお仕え申す魚は、川や湖水から撮って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放しておくとすると、これを普通のものと差別するためには、一方の眼を取っておくということができるからです。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがわるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われる。

 

 すなわち、片目の魚の伝説は、祭の際の神への供物として、ほかの魚と区別するために片目を潰した歴史的事実と関連するはずだというのである。

 そして柳田は、同じ論文において、沖縄・奄美のキジムナーが魚の片目を食べることに関しても、以下のように言及している。

 また天狗様は魚の目が好きだという話もありました。……山から天狗が泥鰌を捕りに来る……天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島の村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多くの獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、たいそうつごうがよいという話もありました。

 

沖縄のキジムナーを山の神だとする柳田の見解には関心が引かれるところであるが、ここでは措いておくとして、沖縄や奄美のキジムナーが魚の片目だけ食べることと、日本の各地にある片目の魚の伝説が関連しているだろうというのが柳田の見通しである。ただし残念なことに、柳田は沖縄のキジムナーについてそれ以上の言及をしていない。柳田の見通しについては筆者もその通りだと考えるが、それ以上の議論を展開する力量は筆者にはなく、ここでは柳田の見解については筆者もその通りだと考えるが、それ以上の議論を展開する力量は筆者にはなく、ここでは柳田の見解について読者の注意を喚起しておくに留めざるをえない

 

・また、蛸を嫌うのも各地のキジムナーに共通する性格であるが、その意味するところについては筆者には見当がつかず、またこれまでの研究においても、説得力のある見解は出されていないと思う。これについても、今後の課題ということになる。

 

富を司るキジムナー

「チョンチョンキジムナー」の歌詞に、キジムナーと一緒に漁をしたカマデーが、魚を売って得たお金で立派な家を造るというのがあったが、本章では、そのことに関わる問題について検討することにする。キジムナーのお陰で人間が富を得るという話は数多く、次の事例はそのひとつである。なお、以下における説話の引用では、読みやすくするために文章の一部を変更することがあることをことわっておく。

 

事例1

 大宜味村謝名城の某家の主人は、ブナガヤに稼がせてなり上った。山に居て、ブナガヤが来ると食い物を始終やって手なずけておき、材木などを運ばせた。大力だから大きな木を担いで、庭の真中に投げ出した。走る事も速くその姿は人に見えなかった。しまいにはブナガヤが離れるのを望むようになり、柱ごしに蛸をかけて置いたら逃げてしまって、その後一切来ることがなかった。ブナガヤは、木のうろの中に居る。

 

・ブナガヤを使って山から木を運ばせ、そのお陰で「なり上った(金持ちになった)」家の話である。この話では、後には蛸で脅してキジムナーと縁切りをしているが、その後の展開については語られていない。次にあげる二つの事例のように、縁切りをした後の結果について語る話も多い。

 

(事例2)

 豊見城村名嘉地の大家の大きなガジマルの木にキジムナーが住んでいて、その家の主人と親しくなった。キジムナーは、主人を連れて海に行き、魚をたくさん取ってくれたので、その家は豊かになった。あるとき海でキジムナーの嫌いな屁をしたら、キジムナーは怒ってその家のガジマルには住まなくなったために、その家は貧乏になった。

 

事例3

 宜野湾市間切新城村の中泊の屋敷に大きなビンギの木があり、そこに住むキジムナーがその家の翁と友だちになり、毎晩彼を海に連れて行った。キジムナーは魚の左目だけ自分で食べ、あとは翁に与えたために、翁は裕かに健やかに生活していくことができた。翁は、始めは嫌でもなかったが、後には毎晩起こされるのがつらくなってきた。翁は何とかしてキジムナーと手を切ろうと思い、一夜かのビンギに火をつけると、キジムナーは、「熱田比嘉へ、熱田比嘉へ」と云いながら去って行った。その後、裕かに暮らしていた新城村の家はたちまちつぶれ、キジムナーが移り住んだ熱田村(北中城村)の比嘉家は金持になった。

 

・次に、奄美ケンムンも富を司る性格を有していることを、以下の二つの事例によって確認しておきたい。

 

事例4

 その家は、野菜などを作るには便利の良い所だったが、そこまで行く道が悪かった。その家の後に水溜りがあって、そこの娘は暑い時にはすぐそれに入って浴びたところ、まだ十才にもならぬ娘なのに、おなかが大きくなった。不思議なことじゃねーといっているうちにお産をしたら、生まれた子がケンムンによく似ていた。ていねいに育ててみると、猫か何かみたいに、家の周囲を廻っていた。その家に野菜がいくら出来ても不便なので買いに行かなかったのであるが、女たちはその赤子を見たくて遠方からでも野菜を買いに来たために家計がよくなったそうだ。

 

事例5

 オジさんの奥さんの妹が山に入っていた時、ケンムンに迷わされて妊娠した。生まれた赤子はケンムンの子どもで、頭が丸く、手も足も真黒で手足の指は長かった。いつもヨダレをたらしていたが、たいへん力が強く、山へ行ってたき木を投げたり、モチを容易にひっくり返したりした。その家は笠利村で一番の分限者で金貸しなどもしていたが、そのケンムンの子供が五才ぐらいで死んでしまってから、たちまちのうちに落ちぶれてしまった。

 

・このふたつの話では、主人公はケンムンではなくケンムンと人間の間にできた子供ということになっているが、富を司るケンムンのイメージが反映しているものと理解していいだろう。

 ところで、次の話はどうであろうか。平安座島うるま市)に伝わる話として佐喜真興英が報告したものである

 

事例6

 浜端の翁がキジムンと友達になり、キジムンは毎晩彼を連れて漁に出掛けた。左の目だけ自分で食べて後は、皆彼に与えた。彼はお蔭で長生きをした。後になって彼は、キジムンと交際するのが末恐ろしくなり、キジムンと交際を絶とうと決心した。ある晩、お前は何が一番恐いのかと聞くと、キジムンは蛸と鶏だと答へた。翁は次の晩タコを門口にかけ、自分は蓑を着て屋根の上に、キジムンがきた時に羽ばたきをして暁を告げる鶏の真似をした。キジムンは鶏かと思って立ちよらなかったが、よく見ると浜端の翁であることを知り、取り殺してやろうと進もうとしたが、門口にかけてあるタコが恐くて慄へあがって、そのまま姿を消してしまった。キジムンは浜端の家には来なくなったが、翁はその後三日経って死んでしまった。

 

・この話で、キジムンと付き合って浜端の翁が得た者は具体的な富ではなく長命ということになっているが、長命はすぐれた富の一種であり、これまでみてきた富を司るキジ譚と同一のメッセージを伝えるものとして理解していいだろう。

 

・以上のことより、キジムナーが家の盛衰を司る存在であることが明らかとなる。くりかえして言うと、キジムナーと仲良くなり、それとうまく付き合っている間はその家は富み栄えるが、キジムナーを追放した家は何らかの災いを被り、衰退することになるのである。この点でのキジムナーは、主に東北地方で伝えられているザシキワラシと共通した性格を有することになる。

 

キジムナーと縁切りをする理由

・この説話におけるキジムナーとの縁切りは、魚を独占して金持ちになった家が周囲の人に妬まれたことが契機となっており、話の展開としては納得しやすい内容になっている。しかし、この種の筋書は管見の限りではこの一例しかなく、他のほとんどすべては、キジムナーと親しくしてきた当人自身がキジムナーを追放する話である

 縁切りをする理由について多くの逸話にあたってみても、明確に語られることがなく、また語られたとしても、キジムナーとの付き合いが煩わしくなったからといった程度のものでしかない。富み栄えたことを妬まれた結果、妬みを抱く人々によってキジムナーが追放されるのは理にかなった筋書で納得しやすいのだが、富をもたらしてくれるキジムナーを、それとの交際が煩わしいというだけの理由で追放したというのは、どうも釈然としないものが残る。話の結末を知っている我々としては、少々煩わしくてもキジムナーとの交際を続けておけばよかったのに、と思うことになるのである。

 

キジムナーの両義的性格>

本章では、人間に対するキジムナーの存在が、正・負(プラス・マイナス)両面の性格を有して、いるということに注意を向けていきたい。まずは、正の側面からみていくことにする。

 キジムナーが人間にとってプラスの存在であることは、海での漁や山から木を運ぶ手伝いをすることによって人間に富をもたらす存在であることに端的に現われている。さらに、キジムナーと友だちになり、大和見物に連れていってもらった話や、キジムナーが住んでいるウスクの木に芋を置くと、一週間ほどでキジムナーと友だちになることができるという話も、キジムナーのプラス面と関わるはずである。

 その一方で、キジムナーのマイナス面を語るものとしては、井戸裏の燃えさしで人間の目に突き刺すなど、人間に非常に残忍な仕返しをするという点に見出すことができるだろう。以下で、キジムナーによる残忍な復讐譚の事例をさらにいくつか追加しておく。

 

・さらに、キジムナーの性格のマイナス面を示すものとしては、おなじみの寝ている人の胸を押さえつける話や、キジムナーが人間の霊魂を抜き取るという話などをあげることもできる。久高島(南城市)では、キジムナーに連れ去られた女性が、村人の必死の捜索により洞穴から発見され家に連れ戻されたが、赤土を食べさせられた痕跡があり、周囲の人間による看病のかいもなくしばらくして病死したという話が伝えられている

 

事例12)

(1) ある人が嫁に行ったけれど、姑めがとてもきびしくていじめたそうな。

(2) 最期には、夫も姑めといっしょになって、嫁をだまして奥山に連れて行ったそうな。

(3) そして、両方の手を広げて、カジュマルの木に、五寸釘で打ちつけたそうな。そして殺したそうな。

(4) この嫁の魂が、ケンムンになったそうな。神様にはなることができず、人間に石を投げたり、千瀬や山のガジュマルの木にいたりするそうな。

(5) ケンムンは、人が「おうい」と言うと、「おうい」と答えて、「相撲取ろう」と言うそうな。夜歩いていると、火が何十もついたり、消えたりするのを見ることがあるけれど、あれは、ケンムンの頭に皿があって、その中の水が光って、そう見えるということだよ

 

・副田晃は、奄美ではケンムンの由来譚として語られる説話が、沖縄では、この事例のように木の精の由来譚として語られる傾向にあることを指摘しているが、そのことからも、木の精とキジムナー(ケンムン)との間にはつながりがあることが理解できるだろう。

 

「最近、キジムナーがめっきり見えなくなったのは、沖縄戦の時に艦砲射撃で皆やられたらしい」という説があるという。キジムナーの絶滅化の一方では、大宜味村は1998年の村制90周年記念事業として、ブナガヤのキャラクターデザインを公募し、大賞に選ばれた作品を村起こしに活用しようと試みている。大賞に選ばれた作品は愛らしくデザインされており、子どもたちのマスコットに相応しいものとなっている。当然のこととはいえ、人間を拉致したり、人間に残忍な仕返しをしたりするキジムナーのネガティブな側面は完全に捨象されており、その点は冒頭に掲げた「チョンチョンキジムナー」の歌も同様である。

 キジムナーの絶滅化と、一方でのキジムナーのマスコット化という今日的現象は、われわれの社会が長い歴史を通じて維持してきた人間と自然との緊張が失われてしまったこと、あるいは失いつつあることと相関関係にあると考えていいだろう。

 

山から木を運ぶキジムナー

伊波普猷は、キジムナーを「もと海から来たスピリットで、藪の中や大木の上に棲み、人間には少しも害を及ぼさないもの」と述べているが、海から来たスピリットであることの根拠は示されていない。また渡嘉敷守も、キジムナーが海で漁を営むことに着目してキジムナー海に原郷を持つ存在として捉えている。これらの見解は、先に検討したキジムナーの語義からしても同意できるものでなく、本章で注目するところの「山から木を運ぶキジムナー」の性格を無視したことから導かれた誤った見解である。 本章では、従来の研究では注意が向けられることのなかった山から木を運ぶキジムナーにについて焦点を当てることによって、キジムナーについての理解をさらに深めていくことにしたい。

 

・大宜見村の二つの事例から、山から材木を運び、あるいはさらに家造りを手伝うというキジムナーの性格が明らかになる。山から材木を運ぶというキジムナーの話は、その他に、大宜味村白浜と国頭村安田からも採録されているが、他のモチーフに較べるとそれほど数は多くなさそうである。しかし、このモチーフを有する話がかなり古い時代から存していたことは、17世紀初頭の琉球に滞在した僧侶の袋中が記した『琉球神道記』の記事からして明白である。

 

・この話でいう「國上」(国頭)は、沖縄本島北部のいわゆる山原地方のことだと思われる。造船用の材木を山原の山から伐る際に、琉球国の人たちは「山神」(山の神)に依頼するのだが、山の神は次郎・五郎という二人の小僕に言い付けて(下知して)それを実行させるというのである。小僕という表現は、次郎・五郎が山の神の家来であり、かつキジムナーがそうであるようにその身なりが小さいことを意味しているだろう。次郎・五郎が日本衣装を着ているとか、名前も日本的だというのも興味深いが、いずれにしてもこの次郎・五郎が、今日のキジムナーに系譜的に繋がるものであることは疑い得ない。

 この説話の舞台も沖縄本島北部であるが、山から木を運び家(船)造りの手伝いをするというモチーフの話は、砂川拓真が指摘するように山が豊富にある沖縄本島北部に集中的に分布するものである

 

山から木を運ぶキジムナーの性格に注目する理由について言及する前に、類話が宮古奄美にも存在することを確認しておきたい宮古にはキジムナーという言葉はないが、キジムナーと類比できる説話上の存在が認められる。マズムン(マズムヌ)あるいはインガマヤラブ、インガマヤラウなどと呼ばれるものがそれであり、まずは、旧伊良部町佐和田の次の説話に注意を向けたい。

 

事例19)

・伊良部の人がインガマヤラウというマズムン(魔物)と友だちになり海に漁に行くが、マズムンのすみかをつぎつぎと焼いたので、マズムンは八重山に移り住むことにする。マズムンが「遊びにこい」と言ったので、男は八重山に行きマズムン家を捜す。男はマズムンの友だちに会ってマズムンの家を聞き、「マズムンの家を焼いたのは自分だ」と話す。マズムンの友だちが、それをマズムンに話すと、マズムンは男に仕返しをしようと思い、みやげ箱を一つ与えて、「家に帰ったら、家族を集めて戸を閉めきって箱を開けろ」と言う。男は帰る船の中でみなに「箱を開けて見せろ」とせがまれ、箱を開けると、マラリヤの菌が飛んでいって来間島に着き、島の人はみな死んだ

 

・この説話に登場する「インガマヤラウというマズムン」は、人間と漁をし、住処を焼いた人間に復讐するという点において、キジムナーと同じ性格を有していることがわかる。罪のない来間島の人たちがマズムンの仕返し犠牲になったという語りは興味が引かれるところだが、その点は不問に付しておく。

 つぎに、宮古のマズムンも家造りのために木を運ぶ性格があることを、以下にあげる旧上野村新里の説話によって確認したい。

 

(事例20)

津波で生き残った人たちが、知らずにマズムン(魔物)の集まる所に村を作る。村人たちが広場で踊っていると、マズムンも加わって踊り、鳥の鳴き声がすると帰っていく。ふしぎに思った村人が鳥の鳴きまねをして、あわてて帰ろうとしたマズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる。マーガという人がマズムンたちのところへ行って、「家を建てる材木を運んできてくれたら、ごちそうをする」と言うと、マズムンは承知する。マーガは、マズムンたちが家の近くまで材木を運んでくると、屋根で鳥の鳴きまねをすると、マズムンたちは材木を置いて逃げる。マーガは翌日の夜「ごちそうを作って待っていたのに、なぜ来なかったか」とマズムンに言い、同じようにして一軒分の材木を運ばせた。

 

・このように、宮古の説話に登場するマズムンやインガマヤラブは、沖縄本島地域のキジムナー同様に、材木を運び、家造りを手伝う性格を有していることがわかる。キジムナーとの違いは、宮古の場合は、人間にだまされて木を運ばされるという点にある。事例20の「マズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる」という語りやインガマヤラブのヤラブが樹木の名称であるのは、この妖怪が、キジムナーと同じく木の精霊の化身したものであることを示しているものと思われる。

 次に、奄美ケンムンについてみていきたい。

 

事例22>)昔、ある所にひとりの大工の棟梁がいた。その人は独身で、自分には嫁の来てがないだろうと思っていた。ところが、同じ村に絶世の美人がいて、これまた自分には良人になる人がないだろうと思っていた。が、ある日のこと、棟梁が美人を見染めて、自分にはあの人以外には妻になるものはいないと思ったので求婚した。

(1) ところがその女がいうことには、「はい。あなたの妻になりましょう。だが一つ条件があります。それができたら私はあなたの奥さんになりましょう」と言った。その条件とは、畳が六十枚敷ける家で、内外の造作のできた立派な家を一日で建築してほしいというのであった。

(2) それで棟梁は「よろしい、一日で完成してみよう」と言って家に帰った。ところが容易に引き受けたものの、はたと困ってしまった。考えに考えぬき、そこで彼は藁人形を二千人作ってまじないをして、息を吹きかけてみたら人間になった。彼は、二千人のひとりひとりにそれぞれの役を割りあてて、その一日で注文通りのすばらしい家を完成した。

(3) そこで彼は彼女の所へ行き、約束を果たしたことを告げると、「仕方がありません。約束通りあなたの奥さんになりましょう」と言って、そこで二人は夫婦になった。

(4) 数年経て、妻が棟梁に「自分はこの世の者ではない。自分は天人である、だから人間であるあなたと暮らすことはできない」と言った。が、棟梁も、「自分も人間ではないテンゴの神である」と言った。そして、「先の二千人の人間は元に返そう」と言って息を吹きかけたところが、みんなケンムンになった。

(5) そこで千人は海、残りの千人は山に放してやった。七月頃になると、「ヒューヒューヒュー」と言いながら海から山にケンムンが登るそうだ。

 

 この話では、大工の家造りの手伝いをした藁人形がケンムンになったとはっきりと語られていることに注目したい。この点を踏まえたうえで、奄美ケンムンに関する資料に注意を向けていくと、たとえば、「クィンムンは人間に悪戯もするが、また協力もする。山から木を伐って下ろす手伝いをしたり、海での貝拾いを手伝ったりする」という報告を見いだすことができる。

 

・原田信之は、八重山地域におけるキジムナーと同類の妖怪の名称として、石垣島のマンダー、小浜島のマンジャー、マンジャースー、西表島のアカウニなどがあるとし、次の小浜島の事例をあげている。

 

(事例23)

 昔、男がマンジャーと友達になった。毎日魚を取り、マンジャーは目玉を、男は魚を取った。うるさくなった男は、マンジャーが出てくるあこうの木に火を付け、伐採した。怒ったマンジャーは、男を呪い、焼いたので、男は岩の下に隠れた。

 

 この話に登場するマンジャーは、友人となった人間との魚取り、人間の裏切りとその後のマンジャーによる復讐などの筋書きからして、明らかに沖縄のキジムナーと同類のものである。類話は、西表島でも確認できるのでそれについてもみておこう。

 

(事例24)

 網取のクバデーサーの木にいたシーというのは木のヌシ(主)のようなものです。クヮーキ(桑の木)にもやっぱりヌシがいます。桑の木の穴から人の形をしたシーが出て来て、魚をとる時にたくさん魚がとれるように助けてくれるのです。

 

 「人の形をした木のシー」というのはキジムナーそのものであり、魚取りのモチーフも沖縄のキジムナーの話と一致する。このように、数は少ないものの、八重山地域においても沖縄のキジムナー譚と類比できる説話があることがわかる。しかし、筆者が注目したいのはこの種の存在(説話)ではなく、じつは、これまで沖縄のキジムナーとの関係では全く言及されることなく看過されてきた説話が八重山地域には存在しているという事実である。

 以下にあげるのは、「小人伝説」という項目で『沖縄文化史辞典』に掲載されたものである。

 

(事例25(西表島祖納))

 昔、西表島の祖納部落にひとりの貧しい若者がいた。住むに家なく、着たきり雀の乞食同然のあわれな姿で、誰も相手にしてくれない。赤子の時に両親を失い、お爺さんに養われたが甲斐性がないので、お爺さんにもきらわれて家を追い出されてしまった。悲しさのあまり若者は泣きながら、無茶苦茶に山奥を歩きまわり、泣き疲れて洞穴かと思われるばかりの大木の虚にたどりつき死んだようにねむった。何時間たったかわからぬが、ふとどこからか声がする。「若者よ悲しんではいけない、元気を出して懸命に働けば、きっとお前は幸福になれる。御前はこれからすぐ御前が生まれたお父さんお母さんの屋敷に帰って見るのがよい」。ハッと若者は起き上がった。木の虚からさすすがすがしい朝の光に、若者は元気を取りもどして山をかけ下り、自分の屋敷にいった。ところがどうだろう。屋敷は草一つないまでに掃き清められ、屋敷の真中に大きな大黒柱が一つ立っている。これはどうしたことか、昨夜の夢といいこれはただごとではないぞ、と若者は物陰に隠れて、しばらく様子を見ているとたくさんの小人がエッサ、コラサといろいろな材木を運んで来る。物に憑かれたように若者が小人の後を見え隠れにつけていくと、だんだん山奥へ入り、驚いたことにたしかに昨夜一夜の宿を借りたあの大木の虚へ入っていくではないか。彼は夢ではないかとじっと目をこらしていると今度は小人たちがエッサ、コラサと建築材料をかついで麓へととんでいった。彼は木のほらの入り口へ近づき、そして梢を見上げると、それは西表の樵夫達がジンピカレーといっている木(和名、ヤンバルアワブキ)であった。若者はその一枝を折り取って急いで自分の屋敷へ引き返したが、そこはりっぱな家がすでにできあがって村の人達が集まって落成式の準備をしているところであった。村の人たちは若者を大黒柱のそばに案内した。若者がよくよく見れば、それはジンピカレーであった。思いあたるところがある若者は、手にもったジンピカレーの枝を打ち振り打ち振り大きな声で落成式の祝いごとをとなえながら大黒柱のまわりを何回もまわり、村の人たちも唱和した。それ以来だれも若者を馬鹿にする者はいなくなった。小人の話を伝え聞いた村人たちは誰いうとなくジンピカレーにユピトゥンガナシ(寄人加那志)の名をつけ、柱立て(建築の初め)の儀式にはかならず大黒柱の先きにユピトゥンガナシをかけるようになった。

 

 この「小人伝説」は、琉球諸島の説話資料を集大成している山下欣一・他編(1989)および稲田・他編(1983)にも収録されておらず、キジムナー説話の類話としてとりあげられたのはかつて一度もないが、これまで山から材木を運び家造りの手伝いをするキジムナーの話をみてきた我々としては、この説話に登場する小人は「八重山のキジムナー」だと断定することができる。この説話から「八重山のキジムナー」が建築儀礼と関わっていることを窺うことができる。

 

八重山の家の神

八重山諸島では、床の間に「家の神」を表彰する香炉が置かれるのが一般的で、それをザーフンズンと呼ぶ宮良部落についての報告では、「ピヌカンとザーフンズンがそろって一世帯という条件とみなし、それを『プトゥキブル』と呼んでいる。プトゥキブルの一つであるザーフンズンは家の主要な守りであるとし、新築したときの落成式に拝んだ香炉を床の間に置き、ザーフンズンとする」とされている。

 

八重山の家の神の変遷について、次のような仮説を導き出すことができたと考える。八重山の床の間で祀られる家の神の正体は、両義的性格が馴化された木や茅の精霊である。この家の神は中柱に宿るものであったが、家屋の内部に床の間が設置されるようになったことを契機にして床の間の香炉を通しても拝まれるようになった。その点については、与那国のトラノハの香炉とドゥントゥヒラの関係、白保のミーシキ儀礼におけるフンジンと中柱の関係などにその痕跡を窺うことができた。次の段階として、床の間の香炉と中柱の関係が忘失される一方で、中柱に対する信仰は残存し、さらに、床の間の香炉で祀られる神は、実体不明の家の神として拝まれるという現在のような状況を迎えることになった

 

 

 

琉球怪談』 現代実話集  闇と癒しの百物語

小原猛   ボーダーインク  2011/2

 

 

 

<キジムナー>

・たとえば沖縄でもっとポピュラーな妖怪であるキジムナーは、戦後という垣根を越えると、急激に目撃例が減少している。取材していく中でも「戦前はキジムナーがいっぱいいたのにねえ」「戦後すぐはいたけど、もういないさ」という、オジイ、オバアの声を聞いた。

 もしかしたら戦争でのウチナーンチュの意識が変わり、キジムナーの存在を受け入れなくなってしまったのかもしれない。沖縄戦、という次元を超えた壁が、怪の世界にも立ちはだかっていることを、身を持って実感した。

 

<戦後の駄菓子 キジムナーのはなし1>

・Nさんはとある離島の出身である。

 Nさんのまわりでは小さな頃から、キジムナーの話は日常的に伝えられてきたのだという。

 その昔、キジムナーは家々を回り、さまざまな人々と物々交換をしていたのだという。

 

・島のキジムナーは、本島のキジムナーのようにガジュマルの樹を住処とせず、洞窟の中で暮らしていたという。

 戦前までは、むらを訪れては食べ物を交換したり、人間に火を借りにきたことさえ、あったのだという。そんなキジムナーも、戦後はぱったりと現れなくなった。

 だがNさんは、幼い頃にキジムナーを一度だけ見たことがあるのだという。

 夕暮れどき、Nさんがまだ子どもの頃、実家の家の近くの浜辺で遊んでいたときのこと。

 一人のキジムナーが、森の中から現れて、Nさんのほうをじっと見ていたのだという。友達数人もその場所にいたが、彼らにはキジムナーを見えるものと、見えないものに分かれたのだという。見えたもの代表として、Nさんはキジムナーに声をかけることになった。

 Nさんは、知っている限りの方言でキジムナーに挨拶をしたが、どれも無視されてしまった。

友達の一人が、駄菓子をくれたので、Nさんはキジムナーのそばまでいって、駄菓子をあげたのだという。

 するとキジムナーはそれを奪ってから、すばやく林の中に逃げていった。それが、おそらく島で見られた最後のキジムナーに声をかけることになった。

 それ以来、キジムナーを「感じた」とか、「らしき影を見た」という話は、何度も耳にしたそうだが、キジムナーに正面で出会ったという話は、あまり聞かれない。

 

<小便 キジムナーのはなし2>

・Tさんが子どもの頃、Fくんという友達がキジムナーが棲んでいたといわれているガジュマルの木に立小便をしたそうである。

 友達は、えい、キジムナーなんていないさ、怖くない、と大声で叫びながら、木の周囲に小便を輪のようにひっかけた。キジムナーを見たことはなかったが、信じていたTさんは怖くなって一目散に家に帰ったという。

 夕方、気になったTさんは、小便をかけた友達が住んでいる団地へ行ってみた。

 

・すると、部屋の中は見えなかったものの、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についているのが見えた。

 まるでニワトリの足のような、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についていた。

 

・次の日、Fくんは学校を休んだ。そして次の日も、次の日も学校を休んだ。

結局、1週間学校を休んで、帰って来たときにはゲッソリと痩せていた。

学校で久しぶりに会ったFくんは、Tさんにこんな話をしたそうだ。

 小便をかけてしばらくすると、気分が悪くなってきた。

 家に帰ると、立てなくなってそのまま寝込んだ。

 母親がどうしたのかと聞くので、しかたなくガジュマルに小便をかけた、と本当のことを言った。母親はあまり迷信を信じるほうではなかったので、風邪ぐらいにしか考えていなかった。

 ところが、Fくんが寝ていると、ベランダにまっ赤なキジムナーが何人もやってきては、ガラスをぺちゃぺちゃたたき出した。母親も一緒になってそれを見たので、すぐさま知り合いのユタを呼んで、その夜にお祓いをしてもらった。

 ユタがいうには、この子がしたことは悪質だったから、お灸をすえる意味でも、1週間は熱を引かさないようにした、とのことだった。

 その言葉通り、Fくんはちょうど1週間後に熱が引き、学校に来ることができたという。

 

<赤ら顔  キジムナーのはなし3>

・Wさんが子どもの頃、学校に行くと、友人の一人がおかしなことになっていた。

 顔は赤く晴れ上がり、はちきれんばかりにバンバンになって、非常に苦しそうだった。本人も、息ができんし、と喘いでいる。先生が寄ってきて、どうしたね、と聞くと、その生徒はこんな話をしたそうだ。

 朝起きてみると、顔が赤く腫れ上がって、息ができない。オバアに相談すると、「これはキジムナーが悪さをしているから、ユタに見てもらいに行こう。ただし、そのユタは午後からしか見れないから、昼過ぎに学校に迎えに行くまで、学校でおとなしくしている」と言われたそうだ。

 

・次の日には、その子は何事もなかったようにケロッとして、学校に登校してきたそうである。

  

今帰仁の小さなおじさん>

・Fさんが早朝、自転車に乗っていたとき、目の前の空き地に、知り合いのオジイが倒れていたという。

 死んでいるのかと思って自転車を降りて近寄ってみると、酒のちおいがプンプン漂ってきた。おい、このオジイ、酔っぱらってるし。Fさんがオジイの肩に手をかけて、起こそうとしたその時。

 倒れているオジイの周囲に、5人くらいの小さなおじさんが、オジイを背もたれにして座っていたのだという。

 オジイを揺らしたものだから、びっくりした5人のおじさんたちは悲鳴を上げながら、一斉に走って逃げたという。

 おじさんたちは空き地の中へ一目散に逃げると、そのままパッと掻き消えるようにしていなくなった。

 

・Fさんが眉をひそめながら自転車に戻ろうとすると、自転車の周囲にも小さなおじさんたちが複数いた。

 Fさんがびっくりして「うわあ!」と叫ぶと、それに逆にびっくりしたのか、クモの子を散らすようにして逃げ去ったという。

 おじさんたちは、それぞれ上半身は裸で、眉毛がつながっていたのが印象に残っているという。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

<小さいおじさん(ちいさいおじさん)>は、日本の都市伝説の一つ。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めている。

『概要』 目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度。窓に貼りついていた、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などの話もある。ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されている。

 

<キジムナー(キジムン)>は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。 沖縄県を代表する精霊ということで、これをデフォルメしたデザインの民芸品や衣類なども数多く販売されている。

多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴。

『概要』 「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。

 

 

 

『ニッポンの河童の正体』

 飯倉義之  新人物ブックス  2010/10/13

 

 

 

<外国の河童たち>

 <○○は外国の河童?  -河童は日本固有種かー>

・では日本以外の土地に河童は存在しないのだろうか?どうやらそうではないようだ。世界各地の妖怪を紹介する本や文章ではしばしば、「妖怪○○は××国の河童である」というような紹介され方がなされるように、海外の妖怪を日本の河童にあてはめて紹介することはままある。たとえば、韓国のトケビがそれである。

 

 <「トケビは韓国の河童」か?>

・韓国の「トケビ」は山野を徘徊する小鬼で、その正体は多く血がついたことにより化けるようになった、箒(ほうき)やヒョウタンなどの日常の器物である。トケビは人間を化かしたり、道に迷わせたり、野山に火を灯したり、快音を出して驚かせたり、夜に人家に忍び込んだり、格闘を挑んで負けたりと、ほとんどの怪しいことを一人でまかなう「万能妖怪」として大活躍を見せる。そのユーモラスな風貌と多彩な行動は、よく河童と比較される。

  

・前項でも河童の親類として紹介した奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のキジムナーもまた、そうした「万能妖怪」という点でトケビとよく似た存在である。小柄でザンバラ髪の童形、好物や嫌いな物がはっきりとしており、ユーモラス。人間に関わり、からかう。トケビとケンムン・ブナガヤ・キムジナーと河童とは、性格や行動が共通していることは一目瞭然である。

  

・しかし重大な相違点もある。トケビは器物の化け物、ケンムン・ブナガヤ・キジムナーは樹木や森林のムン(化け物)としての性格が強く、河童の存在の根幹である水の化け物という性格を持ち合わせない。性格の一致と属性の不一致が、河童とトケビの間にはある。

 

 <「ヴォジャノイはロシアの河童」か?>

・他に多く「外国の河童」として挙げられる存在に、中国の河水鬼や水虎、ロシアのヴォジャノイやルサールカ、チェコのヴォドニーク、ポーランドのハストルマン、ドイツのニクス。フィンランドのネッキ、スコットランドのニッカールやケルピーなどが挙げられる。

これらの存在はいずれも水界に棲む存在で、人間や牛馬を水の中に引き込むとされ、彼らに挙げる季節の祭りなどが催されることなどが、河童と同一視される点である。

  

・しかしこうした水精の属性や行動以外の点では、河童と彼らの隔たりは大きい。河水鬼やヴォジャノイ、ヴォドニーク、ハストルマンは髭を蓄えた老人とされ、湖底で自分の財産である牛馬の群れや財宝を守って暮らし、機嫌が悪いと川を荒れさせるという固陋な存在である。ニクスやネッキ、ニッカールは成人男性の姿で現れて、荒々しく牛馬や子どもや婦女子を奪い去る肉体派である。ネッキやその同類が、半人半馬や馬に化けた姿を取るというのは、馬の姿をしていて人を水の中に誘い込むケルピーとも共通する。

  

・ケルピーに代表される「ウォーター・ホーズ」伝承は、ヨーロッパ各地にあまねく広がっており、龍の妖怪伝承といえば、ロッホ・ネス・モンスター、すなわち「ネッシー」である。ケルピーは河童と同じくらい、ネッシーにも近しい存在なのだ。

 

・ルサールカには溺死者の浮かばれぬ霊というイメージが色濃くついており、この点で幽霊や産女、雪女に近い属性を持つといえる。

  どうやら「××の河童だ!」と言われてきた妖怪たちは、河童と重ね合わせて理解できる部分とそうでない部分とを、同じくらいの分量で持ち合わせているようである。

 

 <やはり「河童は日本の河童」か?>

・水はわれわれの生存に欠かせないと同時に、恐るべき存在であるがゆえに、水の神と水の妖怪を持たない文化はない。そのような意味で、「河童は世界中に存在する」。

  

・しかし今見てきたように、そうした河童的な存在がどのような姿で現れ、いかなる言動をとるかは、文化によって全く違う。ロシアの冷たい湖水に棲むヴォジャノイは老人の姿で重々しく、スコットランドの湖沼地帯に棲むケルピーは活動的で攻撃的だ。そして里近くに多くの川や小川、沼や溜め池をもつ日本の河童たちは、人に近しく愛嬌があり、どこか深刻でない表情を持つ。一方で、日本の河童に近い韓国のトケビ、奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のクジムナーは、水の精という性格をほとんど持っていない。

  

・こうした水の神・水の妖怪の多様なありようは、各々の文化において人と水とがどう関わっているかに規定されている。その意味では、「河童は日本にしかいない」。

  妖怪を比較することはすなわち文化を比較することなどである。「妖怪○○は××国の河童である」という言い切りは、あまりにも大胆すぎるもの言いであるだろう。

 

 

 

『絵でみる江戸の妖怪図巻』

 善養寺ススム、江戸人文研究会     廣済堂出版 2015/9/3

 

 

 

<キジムナー 琉球伝承>

・ガジュマル、赤榕、福木、栴檀の古木に棲むと言われる精霊。

 姿は様々で、髪は肩まであり、全身が赤い子供、または小人で、手は木の枝のようだとも言われる。地域によっては真っ黒な大人サイズだったり、睾丸が大きいとされることもある。

 木に棲んでいるが、主食は魚介類でグルクンの頭や、魚の左目が好物だと言われる。魚好きなので仲の良い漁師の手伝いをするというが、蛸や屁が嫌いなので、魚を捕っている時に屁をひると、消えてしまうらしい。

 悪戯もよくする。人を誑かし、土を飯だと騙して食べさせたり、木の洞に閉じ込めたり、寝ている人に乗ったりもするし、夜道を行く人の灯を消すのも十八番だ。

 さらに、木を伐ったり、虐めたりすると、家畜を殺したり、船を沈めたりもする。昼間は人間には見えないので、キジムナーの悪口を言うと、意外に側にいて聞いていて、夜になって仕返しされるという。

 

<くへた  伝承 越中国富山県)、神、招福>

越中国立山の予言神で、5年以内に疫病の流行すると予言しに現れた。自分の姿を写し、それを見れば病を避けられると告げた。

 

ケンムン 伝承、奄美大島、妖怪>

・【キジムナー】と【河童】を合わせたような妖怪。姿は様々だが、ほとんどが、5~6歳の子供のようで、全身赤みがかった肌に毛が生えているそう。頭には皿があり、油や水が入っているという。ガジュマルの木に棲み、木の精霊ともされ、勝手に木を伐ると、眼を突かれて腫れてしまうとされる。蝸牛や蛞蝓が好物で、ケンムンの棲む木の下には蝸牛の殻が多く落ちていると言われる。

 河童のように相撲を取ったり、片方の手を引っ張ると、もう片方と繋がって抜けるともいう、性格は友好的だが、中には悪いのもいて、子供を攫って魂を抜くとも言われる。

 

コロポックル アイヌ伝承/小人>

・《蕗の下に住む人》の意。アイヌ以前に北海道に住んでいたとされる小人で、アイヌ伝承に登場する。

 住んでいたのは、北海道から樺太南千島列島におよび、各地に伝承が残されている。蕗の下というのは、蕗を傘にしている他、蕗で屋根を葺いた家に住んでいたからとされる。身長は1尺(30センチ)くらい。それよりも小さい、1~2寸(3~6センチ)の小人は【ニングル】と呼ばれる。

 

・十勝地方の伝説では、コロポックルは、昼は隠れて暮らし、夜になると5人から10人くらいで、川に数艘の丸木舟を浮かべ、魚を捕っていた。捕った魚の一部はアイヌの村に持って行き、チセ(家)の戸の隙間から手だけを出して差し入れていた。これは土地の恵みを分かち合う、当然の行為だったのだろう。しかし、決して姿は見せなかった。

 

<座敷童  伝承 全国 妖怪、招福>

・座敷童は陸奥国岩手県)を中心に全国で信じられている家の妖怪。座敷や蔵に棲み、その家の繁栄を守っていると言われる。

 おかっぱ頭の幼児が最も多く、家によっては15歳くらいの子供もいる。また、老婆の場合もあり、性別も一定していないし、複数が現れる家もあるという。

 座敷や土間で、幼い子供と遊ぶが、糸車や紙、板戸を鳴らす悪戯もする。座敷童が消えた家は、衰退したり火事や災害に見舞われるという。その場合、逃げて行く座敷童に道で出会うことがある。「何処へ行くのか?」と声をかけると、「あの家はもう終わりだ」と答えるという。

 

【蔵ぼっこ】陸奥国花巻、遠野の蔵に現れる座敷童。蔵の中に籾殻などを撒いておくと、朝には小さな子供の足跡が残されているという。

 

<覚(さとり)  『今昔画図続百鬼』  全国 妖怪>

・【天邪鬼】の類にも同名のものがいるが、こちらは唐(中国)伝承の妖怪。体中黒い毛に覆われた霊獣で飛騨や美濃の山深くなどに棲む。人の言葉を話し、人の心を読む。人に害はおよぼさず。捕まえようとしても、人間の意思を読んで、先回りして逃げてしまうという。

 

<天狗 伝承 全国 神、妖怪>

・天狗はもともと《隕石》のことをいい、唐(中国)伝承では虎に似た妖獣とされていた。『日本書紀』では《アマツキツネ》とされる。そのため《天狗》の字を用いる。

 

・やがて、仏教を妨害するとされ鳶のような姿で表わされ、次第に人間化して行った。その代表が【外道様】とも呼ばれるように、修行僧が己の知識に奢って悪心を抱いた末に、天狗と化したとされるもの。そのため知識が豊かで【神通力】を用い、弟子や家来を沢山抱える。

 山岳信仰では修験道の寺院や修行僧を守り、修行の地である山の結界を管理する。一方で、天候の怪異や【神隠し】を起こすとされる。

 天狗の代表は《日本八大天狗》と呼ばれる八人の天狗である。筆頭の【愛宕山太郎坊】は、京都・愛宕山に祀られる天狗で、【栄術太郎】とも言われる。

・その他に、江戸時代中期に作られた祈祷秘経の『天狗経』に《四八天狗》があげられていて、それぞれに逸話がある。さらに異名や天狗伝承は数知れない。

 

【尼天狗】『今昔物語集』に載る天狗。仁和寺の円堂に棲むという女の天狗。

 

鞍馬天狗鞍馬山に祀られる大天狗で日本八大天狗のひとり。牛若丸に剣術を教えたとされる。【僧正坊】や京の一条堀川の陰陽師・鬼一法眼と同じとされる。

 

【木の葉天狗】地位の低い天狗で【烏天狗】に似る。【白狼】とも呼ばれる。小僧の姿に化け、山を行く人や物を背負って小銭を稼ぎ、天狗の仲間達を支えているそう。

 

【守護神様】三河地方の天狗で、山の神とされる。毎月七日は山の忌み日とされ、入ることを避ける。

 

【僧正坊】鞍馬山の僧侶だったが、修行中に悟りを開いたと、自分の知識に驕り、年老いてなお死に欲を増し天狗となる。死後も僧侶の高い位に執着し続けた。

 

【空神】紀州の天狗。空を自由に飛ぶため、こう呼ばれる。

 

【天狗隠し】【神隠し】に同じ。天狗によって攫われたとする。行方不明事件のこと。

 

<鬼 伝承 全国>

・鬼は様々な妖怪や怪異に使われる名称。古代(平安中期以前)の王朝と闘う異部族や怪異など、外敵の他、人の心の中が変化する鬼もある。実態のあるものもあれば、実態のないものもあり、また、悪の象徴でもありながら、地獄では番人をする仏教を守る側にもいるという、様々な面で両極に存在する怪である。

 牛の頭に、虎の腰巻き(パンツと呼ばれるのは明治以降)として描かれる姿は、江戸時代に固定化された。

 

・また、流行病も鬼の仕業とされた。他の病気は《罹る》と呼ばれるが、風邪は鬼が悪い病気を引き込むので《引く》と呼ぶ。

 

【青鬼・赤鬼】

・物語には、赤・青の鬼が登場する。色の他にも目がひとつや複数あるもの、口がないものなど、様々な姿が語られ、描かれ《異形》を象徴する。

 

【悪路王】陸奥国岩手県)・常陸国茨城県)の鬼。坂上田村麻呂に討たれ、鹿島神宮に納められたとされる。

 

【悪鬼】世に悪をバラ撒く鬼達のこと。かつて流行病は鬼の仕業とされていたので、蔓延すると、人々は鬼の退散をひたすら神仏に願った。

 

【一条桟敷屋の鬼】『宇宙人時拾遺物語』に登場する鬼。ある男が都の一条桟敷屋(床の高い建物)で遊女と臥していると、夜中に嵐となった、すると「諸行無常」と言いながら通りを歩く者がいるので、蔀(上げ戸)を少し開けて覗くと、背丈は建物の軒ほどあり、馬の頭をした鬼だった。

 

茨木童子】【酒呑童子】の家来。

 

【牛鬼】石見国島根県)で語られる。水辺で赤子を抱いた女が声をかけてきて、赤子を抱いてくれと言ったり、食べ物を求めたりする。赤子受け取ると急に石のごとくに重くなり、動けなくなったところで牛鬼が現れ襲われるという。

 

 また、牛鬼が女に化けて出て騙す。四国や近畿地方には《牛鬼淵》や《牛鬼滝》など、牛鬼の棲む場所が多くある。

 

【温羅】かつて吉備国岡山県広島県)に渡って来た鬼の集団で、鬼ノ城を築き周辺を支配した。天王に対峙したため、吉備津彦に討ち取られた。斬られた首は死なず、犬に喰わせて骨にしても静まらず、地中に埋めても13年間もうなりを発していたと言われる。

 

【鬼の手形】陸奥国岩手県)伝承。盛岡の町では【羅刹】に荒らされて困っていた。そこで、人々は町の神である《三ツ岩様》に祈願すると、羅刹はこの岩の霊力で、岩に貼りつけられてしまう。堪忍した鬼は、二度と現れないという誓いを立てて放免してもらい、その証しに三ツ岩に手形を残して行ったという。これが県名《岩手》の由来とされる。

 

【鬼女紅葉】信濃国(長野県)戸隠や鬼無里に伝わる鬼。平安中期のこと、公家・源経基の子を宿した紅葉は、嫉妬のために御台所(正妻)に呪いをかけ、その罪で都を追われる。鬼無里に流された紅葉はやがて怨念で鬼となり、戸隠山を根城にして、付近の村を襲った。そこで都から平維茂が討伐に出陣し、観音の御使いから授かった《降魔剣》で退治される。しかし、鬼無里伝承では、都の文化を伝えた貴女とされて、尊ばれている。

 

【牛頭馬頭】地獄の鬼のこと。定番の牛の頭の他に、地獄には馬の頭をした鬼もいる。

 

【猿鬼】能登国(石川県)柳田村を襲った、一本角の猿のような鬼。村の岩穴に棲みついたため、氏神によって弓で射殺されたという。

 

【瀬田の鬼】『今昔物語集』東国の国司(地方官)が都に上り、瀬田の橋近くの荒ら家に泊まった夜に出た鬼。逃げて瀬田の橋の下に隠れると、追いかけて来た鬼が、侍を見失ってしまう。しかし、何処かから声がして、「下におります」とばらしてしまう。声の主は何者か知れず、その後、国司がどうなったかも、知る者はいない。

 

【火の車】地獄の鬼が燃え盛る車を引いて、生前の行ないのよくない死者を迎えに来る。『因果物語』では、強欲で行ないのよくない庄屋の妻を八尺(2.4メートル)もある大きな男が連れて行ったとある。連れて行かれる先は地獄。

 

<河童 全国 妖怪、水神>

・河童伝承は、

1.姿の目撃談。

 

2.相撲を挑み、人や馬を水中に引き込む。

 

3.泳いで遊ぶ子供を襲い、尻の穴から手を入れて【尻児玉】を抜く。

 

4.女性に悪戯をして腕を斬られ、その腕を取り返すために《腕繋ぎ》の治療法を伝授する。

 

5.冬の間は山に住む。と多彩。

 

 

豊前国(福岡県)の北野天満宮には河童のミイラが伝わる。江戸時代には河童のミイラは猿の赤子とエイなどを組み合わせて作られた。

 

【伊草の袈裟坊】武蔵国(埼玉県)の河童の親分。

【かーすっぱ】【がーすっぱ】駿河国静岡県)、九州で使われる。《すっぱ》は忍者のこと。

 

【があたろう】五島列島で呼ぶ河童。河童というと、川の妖怪の印象が強いが、【海御前】が河童の女親分と言われるように、海にも多くいる。

 

【かしゃんぼ】紀伊国和歌山県)、伊勢国三重県)の河童、【山童】。芥子坊主頭の6~7歳の子供で、青い着物を着ている。

 

【がめ】越中国富山県)、能登国(石川県)、筑後国(福岡県)の河童。筑後国久留米では女性に取り憑き病気にする。能登国ではよく子供に化け、越中国では鱗形の模様のある甲羅に、腹には赤いふさふさの尾があるとされ、千年生きて【かーらぼーず】になると言われる。

 

【川天狗】武蔵国多摩川では悪さはしない河童。村人に熱病に効くみみずの煎じ薬を伝えた、津久井では夜の川漁に現れ、大きな火の玉を出したり、網打ち音の真似をする。

 

 

 

コロポックルとはだれか』

―中世の千島列島とアイヌ伝説

瀬川拓郎  新典社新書   2012/4/24

 

 

 

<封印されたアイヌ伝説>

<小人伝説はおとぎ話か>

・昔は十勝川に沿ってアイヌのほかにコロポクウンクル(ふきの下に住む者)という、ふきの下に5、6人が集まって住むぐらい小さい者たちがいた。コロポクウンクルは何でも人に与えるのが好きで、ごちそうを椀に入れてアイヌの戸口のござの下から差し出し、それをアイヌが受け取って押しいただくと喜んでいた。あるときアイヌのウエンクル(悪い奴)が、ごちそうをもってきたコロポクウンクルを家の中に引っ張り入れると裸の女であった。女は泣きながら帰ったが、あとでコロポクウンクルの親方が怒ってやってくる。激怒したコロポクウンクルたちはレプンコタン(海の向こうの国)に引き上げることになり、そのときに親方が「このコタン(村)のものは、ネプチー(何でも焼けろ)、とかプチー(枯れてしまう)という名を付ける」と言う。それまではシアンルルコタンというりっぱな名前だったが、それからはこのコタンを「トカプチコタン」と呼ぶようになった(帯広市採録)。

 

・この伝説を読んで、コロポックルを実在の集団であったと考える人はおそらくいないでしょう。もしコロポックルが実在の集団だったと主張すれば、それは童話であり、妖精・妖怪譚のたぐいにすぎない、と一笑に付されてしまうにちがいありません。

 

<封印されたコロポックル論>

帝国大学東京大学)の人類学教室初代教授であった坪井正五郎らは、アイヌの伝説に登場するコロポックルこそが石器時代人だったのではないか、と主張した。

 

・一世を風靡した小人伝説は、河野常吉が「コロポックルアイヌの小説なり」と坪井を強い調子で批判したように、事実に根差さない昔話であり、童話のたぐいであるとみなされたまま、ふたたび学問的な議論の対象となることはありませんでした。

 

<中世千島の開発と小人伝説>

・小人伝説は、中世アイヌ社会の一端をうかがう貴重な資料といえそうです。

 

・古代の千島は、アイヌとは系統の異なるサハリンから来た人びと(オホーツク文化人)が住んでいました。しかし近世の千島はアイヌが占めるところとなっており、もはやオホーツク文化人は住んでいませんでした。

 

アイヌの小人伝説>

<ジョン・セーリス「二度蝦夷に行ったことのある一日本人が江戸の町で伝えた同地に関する情報」『日本渡航記』(1613年)>

・(道南の松前の)さらに北方には、同じ陸地上に、一寸法師のような背の低い人間が住んでいる。蝦夷人(アイヌ)は日本人と同じ丈の人間である。

 

<松坂七郎兵衛他『勢州船北海漂着記』(1992年)>

南千島のエトロフ島に漂着した勢州船の記事です。船員は、エトロフ島からクナシリ島を経て北海道本島に渡り、十勝を経て松前から帰郷しました。この小人伝説は、帰途、クナシリ島から道東太平洋沿岸のあいだで聞きとったものとおもわれます。小人が「小人島」に住んでいること、その島にはワシが多くいること、船路100里もある遠い地から船で本島にやってくること、その目的が土鍋製作用の土(粘土)の採取にあること、脅すと身を隠すことなどについて記しています。

 

松宮観山蝦夷談筆記(上)』(1710年)>

・道南の日本海側、現在の上ノ国町小砂子の地名由来にかんする聞きとりです。100人ほどの小人が「小人島」から渡ってきたこと、その目的が土と草(あるいは葦)の採取であったことを記しています。

 

<秦檍丸「女夷文手図」『蝦夷島奇観』(1807年)>

アイヌの女性の文身(イレズミ)の図に、道東の根室アイヌから聞き取った伝説を解説として付したものです。古くはコッチャカモイという小さな神が北海道の各地にいたこと、アイヌとの直接的な接触を嫌い北海道から去ったこと、この神のイレズミをまねてアイヌのイレズミがはじまったこと、かれらの住んだ竪穴住居の跡が各地に残り、土器や宝が出土することなどを記しています。

 

最上徳内『渡島筆記』(1808年)>

・むかしコロブクングル(フキの下にその茎をもつ人の意)と呼ぶ小人がいたこと、道東ではこれをトイチセウンクル(竪穴住居に住む人の意)と呼ぶこと、アイヌ女性のイレズミがこの小人の習俗に由来すること、声は聞いてもその姿をみた者はいないこと、アイヌの漁に先回りし、あるいはアイヌの魚を盗み、アイヌも家に来て魚を乞うこと、魚を与えないと仕返しすること、小人は魚を乞うたのではなく、反対にアイヌに与えたともいわれること、家の窓から魚を乞う小人の女の手を引き入れたが、3日食事を与えないと死んでしまったこと、小人はアイヌにさまざまな悪さをなし、戦うときには甲冑を帯びてフキの下に隠れたことなどを記しています。

 

<小人名称の三種類>

・一つ目は、竪穴住居に住む人(神)を意味するとおもわれる名称です。「トイチセコツチャ」「トイコイカモイ」「コッチャカモイ」「トイチセウンクル」がありました。二つ目は、フキの葉の下の(神)を意味する名称です。「コロボルグルカモイ」「コロブクングル」がありました。三つ目は、千島の人を意味する「クルムセ」です。

 

 

 

もののけの正体』  怪談はこうして生まれた

原田実   新潮社     2010/8

 

 

 

<恐怖の琉球――南国のもののけ奇談>

アカマタ――魔物の子を宿す>

・ある日のこと、乙女が畑に出て芋を掘っていた。乙女が一休みして、また畑に戻ろうとしたところ、岩のうしろから赤い鉢巻をした若者が顔を出してはまたひっこめたのに気づいた。歩こうとすればまた顔を出し、立ち止まればまた隠れる。乙女がその若者の顔に見入って動けなくなっていた時、乙女の様子がおかしいことに気付いた農民たちがかけつけて乙女を畑に引き戻した。

 乙女が見ていた若者の正体は、アカマタという蛇だった。アカマタは誘惑した乙女と情を通じ、自分の子供を産ませようとしていたのだ・・・。このパターンの民話は、沖縄の各地に伝わっている。

 

石垣島の宮良では7月の豊年祭にアカマタ・クロマタという神が現れ、一軒一軒の家を回り祝福していくという(なお、この祭りは秘祭とされ撮影が一切禁じられている)。

 沖縄では同じアカマタという名で、若い女性にとりつく蛇のもののけと、豊作を予視する来訪神の二通りの異界の者が現れる、というわけである。

 

・さて、蛇ににらまれた女性が動けなくなるという話は、本土の古典でも、たとえば『今昔物語集』などに見ることができる。また、蛇身の神が女性の元を訪れて交わるという話は古くは記紀にも見られ、さらに日本各地の伝説・民話などに見ることができる。ちなみに記紀ではその説話の舞台が大和の三輪山(現・奈良県桜井市)の麓とされているため、神話・民話研究者の間ではそのタイプの説話はその三輪山型神婚説話と呼ばれている。沖縄のアカマタの話はその三輪山型神婚説話に発展する可能性を秘めながら中断させられた話とみなすこともできよう。

実は、沖縄にも三輪山型神婚説話に属する類型の話が残されている。

 

・これは江戸時代の琉球王府が正史『球陽』の外伝として、琉球各地の口碑伝承を集めた『遺老説伝』に記された宮古島の始祖伝承の一部である。

 この話に登場する大蛇には、娘が魅入られるという点からすれば憑き物的側面があり、夜に訪れるという点からすれば来訪神的側面もある。この話は、憑き物としてのアカマタと来訪神としてのアカマタの関係を考える上で暗示的だ。

 ところで私はかつて、三輪山型神婚説話の起源について、異なる共同体に属する男女間の婚姻がその背景にある可能性を指摘したことがある。

 

キムジナー 日本のエクソシスト

・沖縄ではその昔、樹木に住む精霊の存在が信じられていた(あるいは今でも信じられている)。

 

・沖縄では古木の精をキムジナー(木に憑く物、の意味)という。また地域や木の種類によってはキムジン、キムナー、ブナガヤー、ハンダンミーなどの別名もある。赤い顔の子供のような姿とも全身が毛に覆われた姿ともいわれ、水辺に好んでよりつくことから、本土でいうところの河童の一種とみなす論者もいる。

 

・『遺老説伝』の話の全般に見られるように、キムジナーは友だちになれば魚をわけてくれたり、仕事を手伝ってくれたりするという。また、他愛ないいたずらを好む、ともされ、たとえば、夜、寝ていて急に重いものにのしかかられたように感じたり、夜道を歩いている時に手元の明かりが急に消えたりするのはキムジナーのしわざだという。

 

・キムジナーが出没するという話は現在でも沖縄ではよく語られる。ただし、最近では、観光客のおみやげなどでキャラクター化されたかわいいキムジナーが流布する一方、人に憑いて苦しめるような悪霊めいたキムジナーの話が広まる、という形でのイメージが二極化する傾向があるようだ。

 

<キンマモン――海からの来訪神>

・その昔、屋部邑(現・沖縄県うるま市与那城屋慶名)は幾度となく火災に遭い、多くの家が失われていた。ある日、その村に君真物(キンマモン)と名乗る神様が現れて村人たちに仰せられた。

「ここに火事が起こるのは屋部という村の名が悪いからです。屋慶名と改名すれば火事が起きることはない」

 

 村人たちがそのお告げにしたがったところ、その後は火事が起きることはなくなった(『遺老説伝』より)

 

・キンマモンに関する記録は、江戸時代初期の僧・袋中(1552~1639)の『琉球神道記』にすでに見ることができる。それによるとキンマモンは琉球開闢以来の守護神とされる。キンマモンは、ふだんは海底の宮に住んでいて、毎月、人間の世界に現れて遊んでは宣託を与えていくのだという。

 

・また、曲亭馬琴の『椿説弓張月』(1807~1811年)は保元の乱に破れて伊豆に流された源為朝流刑地から脱出して琉球にたどりつき琉球最初の王朝である舜天王統の祖になったという伝説を読本にしたてたものだが、その中でキンマモンは「きんまんもん」と呼ばれ琉球を守護する神だとされている。ちなみにこの読本に挿絵を付したのは葛飾北斎だが、北斎は「きんまんもん」を、魚の胴体に人間の顔、鱗だらけの手足

があって直立するという異形の姿に描いた。

 

 キンマモン=君真物で、「君」は君主もしくは神女は君主もしくは神女への尊称、「真」は真実、本物という意味の尊称、「物」は精霊の意味とみなせば、キンマモンは、精霊の真の君主ともいうべき偉大な精霊といった意味になる。「物」はまた本土の言葉で言う「もののけ」にも通じている。

 

・キンマモンは海から人里にやってくる宣託神であり、典型的な来訪神である。最近の沖縄では、この神について、単に沖縄の守護神というだけではなく、世界の救世神だとして主神に祭る新興宗教も出現している。

 沖縄の習俗伝承には、憑き物系のもののけや来訪神に関わるものが多い。これは沖縄の社会事情とも深く関連している。後述するように、沖縄では、ノロやユタといった神女たちがさまざまな祭祀をとりおこない、庶民の生活に深く関わる存在となっている。

 そして、彼女たちの職掌というのはつまるところ来訪する神を迎え、憑き物を払うことなのである。彼女たちが人々の生活に深く関わっている以上、来訪神や憑き物は社会的・文化的に認知された存在であり続けるし、またそうしたものたちが認知されている以上、神女たちの職掌も必要とされ続けるのである。

 

<メリマツノカワラ――神女と異神>

・沖縄には各地に御嶽と呼ばれる聖域がある。それらは神がかつて降臨した(あるいは今も降臨する)とされる聖地である。本土でいえば神社の本殿に相当するといえようが、御嶽は神社のような建築物ではなく自然の岩や洞窟をそのまま聖域と見なすものである。

 

 その御嶽の由来の中には、異形の神の降臨について伝えるものもある。

 

・13か月が過ぎ、真嘉那志は一人の男の子を生んだ。いや、それを男の子と言っていいものかどうか・・・生まれた子供は頭に2本の角を生やし、両目は輪のように丸く、手足は鳥に似て細長く、奇妙な顔立ちで少しも人間らしいところはなかったからだ。

 目利真角嘉和良(メリマツノカワラ)と名付けられたその子供は14歳になった時、母と祖母とに連れられて雲に乗り、空へと去って行ってしまった。

 しかし、その後、メリマツノカワラは彼らがかつて住んでいた近くの目利真山にたびたび現れ、その度に人々を助けるような霊験を示した。人々は目利真山を御嶽として崇めるようになったという。

 この話は『遺老説伝』や『宮古史伝』に出てくる。

 

・一部の古代史研究家は、メリマツノカワラの容貌が鳥に似ていたとされるところから、中国の長江流域にいた鳥トーテムの部族が漢民族に追われて海に逃れ、沖縄に渡来して鳥崇拝を伝えたのではないか、と考察している。

 

<神女が重んじられる文化>

・明治政府の廃藩置県によって王政が廃止された後も聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする神女制度は存続し、現在は聞得大君こそ空位だが、各地のノロ祝女、各地域の神を祭る女司祭)は祭祀によってそれぞれの地元の人の精神的なよりどころとなっている。

 

・一方、正規の神女制度に属さないユタという人々もいる。彼女らは庶民の祖先祭祀について指導したり、憑き物落としをしたりする民間の神女であり、その存在は沖縄の人々の生活に深く根付いている。ユタは祖先崇拝を通して庶民生活における伝統を伝えようとする存在ともいえよう。

 

ノロやユタが沖縄の人々の精神生活に深く関わっていることを思えば、沖縄の民俗伝承に来訪神や憑き物系のもののけが多い理由も改めてよくわかる。

 ノロの大きな職掌は来訪神を迎えることであり、ユタの仕事の一環には憑き物落としが含まれているからだ。沖縄の異神やもののけは、神女たちの存在意義を支えてきた。

そして、彼女らが沖縄の人々の生活に深く関わっているということは、とりもなおさず、彼女らに関わる異神やもののけが沖縄の人々の生活と密着しているということでもあるのだ。

 

もののけ天国・蝦夷地――アイヌもののけ

蝦夷地の妖怪や異神>

コロポックル――妖精はどこにいる?>

アイヌの伝説で本土の人にもよく知られているものと言えば、筆頭に挙げられるべきは、コロポックル(蕗の下に住む人)という小人族に関する伝説である。彼らはまた、トイチセウンクル(土の家に住む人)、トンチなどとも呼ばれる。この小人族たちは、伝承上、あくまで「人間」とされており、カムイ(神)でもカミムンでもないが、西欧の伝承における妖精などとよく似たところがあることも否めない。

 

・また、十勝地方の伝説では、コロポックルアイヌに迫害されてその地を去ったが、その時、川に「トカップチ」(水よ、枯れろ)という呪いをかけた。これがトカチという地名の由来だという。

 この伝説に基づき、コロポックルを北海道におけるアイヌ以前の先住民族とする説を唱える論者も多い。明治20年(1887)には人類学者・坪井正五郎コロポックルは北海道のみならず日本列島全域の先住民族で、日本民族に追われてかろうじて北海道に残っていたものが、そこからさらにアイヌに追われた、という説をたてた。

 

<魔女ウエソヨマ――北国の天孫降臨

アイヌの伝説を論じる場合に避けて通れないのはユーカラといわれる口承叙事詩だ。その中には、もののけと戦って人間の世界に平和をもたらした英雄たちの物語も含まれている。

 

<水の精ミンツチ――半人半獣の謎>

・ところでアイヌの信仰で、和人のカミ(神)にあたる霊的存在を「カムイ」ということはよく知られている。

 

・ミンツチは半人半獣のもののけで小さい子供くらいの背格好をしているという。肌は海亀のようで色は紫とも赤とも言われる。

 川辺に来る人を襲って水の中に引きずり込むとして恐れられる一方で、山や川で働く人を苦難から救うこともあると言われる。

 

・ミンツチの行動パターンには和人の伝承における河童に似たところがある。さらに言えば、ミンツチは和人との接触アイヌの伝承にとりこまれた河童とみなした方がいいだろう。ミンツチの語源「みずち」は、水の神を意味する日本の古語(「蛟」という漢字を当てられる)だが、一方で青森県における河童の呼称「メドチ」と同語源でもあるのだ。

 

 

 

『写真で見る日本に来た?!UFOと宇宙人』

 (矢追純一)(平安)(昭和51年)

 

 

 

<北海道函館市にはUFOの基地がある?>

・北海道の南端、函館市をのぞむ小さな港町、上磯では、しょっちゅうUFOが目撃されるそうだ。

 

・地元でもUFO目撃者の数が多い。

 

・吉川さん親子も白昼、巨大なUFOが頭上を通過して行くのを見た。それはまるで巨大な扇風機が飛んでいるようだったという。丸い円盤型のUFOで、全体がものすごい勢いで回転しているように見えた。そして、アッという間に急速にスピードをあげ、海上に消え去ったという。

 

・小坂さんたちは、ひんぱんに現れるUFO基地を探してやろうと毎晩のように近くの山々を探検してまわった。そして、ついに大沼山近くの、通称、貧乏山という山の裏側にUFO着陸跡らしい巨大な円形の焼け焦げを見つけたのである。

 

・グループのメンバーは毎晩交替で見張ることにした。そして、UFOらしい大きな怪光がオレンジ色に光りながらこの貧乏山を出入するのを8ミリにおさめることに成功したのである。

 

 

 

『エイリアンの謎とデルタUFO』

飛鳥昭雄・三神たける)(学研) 2003/5/27

 

 

 

<グレイは地球産UMAだ>

・とくに、グレイは日本人にとっては非常に馴染みが深い動物であるといってもいい。日本でもグレイは住んでいるからだ。昔から日本人はグレイをしばしば目撃してきた。ただ捕獲された正式な記録はないので動物というより、妖怪変化にされてしまっただけである。日本におけるグレイ、それは「河童」である。一口に河童といっても、そこには古代の被征服民や神話、それに呪術に至るまで、様々な要素が含まれる。その中のひとつに、実は未確認動物(UMA)としての河童があるのだ。アイヌの伝承に登場するコロポックル奄美地方のケンムン、沖縄地方のブナガヤやキムジナーもまた、そうした河童の一種でいわばグレイなのである。

 

 

 

『鬼』 高平鳴海/糸井賢一/大木憲司/エーアイ・スクウェア 

 (新紀元社)1999/8

 

 

 

 創造神とドラ息子

 伊吹(いぶき)弥三郎・伊吹童子

・弥三郎の特殊能力;鉄の体、巨体

  童子の特殊能力;不老長寿、仙術、怪力

  出自;『御伽草子』『三国伝記』『仮名草子』『伊吹童子絵巻』

 

 <伊吹の山神>

近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎には創造神という顔と魔物=鬼という顔がある。その息子の伊吹童子も多くの部下を従えて暴れまわった鬼である。

 

実は近江の伝説だけでなく、弥三郎は多くの文献にも登場している

 

 <天地を創造する>

・近江地方の伝承では、伊吹弥三郎は巨人として扱われている。日本のみならず、世界中の天地創造神話には、山や河川、湖などを創ったとされる巨人がよく登場する。世界の初めに巨人が存在していて、それが地形を創ったり、巨人の死体が山や川や海になったという話だ。弥三郎もそうした創造神の一種と見るべきだろう。

 

彼は伊吹山や富士山、七尾村(現在の岡山)を創ったと伝えられている。

 

 <魔物に堕とされた巨神>

・古に神は、時代と共に魔物に凋落していくことが少なくない。弥三郎はその典型といえるだろう。

 

・近江の伊吹山に弥三郎と言う男がいた。その体は、鉄のようで、千人力を持つ超人であり、人々はこれを恐れて「鬼伊吹」と呼んだ。

 

  <容姿>

・伊吹弥三郎も伊吹童子もその姿は一般的な鬼のイメージとは違う、ものもとの伝承から推測するに単なる巨大な男、いわゆる巨人であり、その他の細かい特徴は不明である。特に弥三郎は富士山などを造ったとされており、その体の大きさは他の鬼と波比べられないほどだろう。

 

・伊吹童子の方は、童子と呼ばれるだけあって童(わらわ)の姿をしていたらしい。不老長寿の薬といわれる「サンモ草の露」を飲んで以来、老いもせず、14~15歳の少年のままだった絵巻に書かれている。

   

<戸隠の女盗賊><紅葉(くれは)>

・各地の伝承でも能楽で語られる場合でも、絶世の美女であったと伝えられる。しかし、罪に問われて戸隠に逃れ、その後は悪事を重ねるごとに醜い姿になっていった。一説には、その身長は3メートルほどもあったという。

 

<英雄を助けた鬼女、鈴鹿御前>

・どの伝承を見ても絶世の美女だったと記録されている。鈴鹿山の鬼女も「女」で「盗賊」だったことから、立烏帽子と呼ばれるようになったと考えられる。

 

・彼女は記録によって鈴鹿御前と呼ばれる場合と烏帽子と呼ばれる場合がある。

 

・鬼女を御前と呼ぶのは変かもしれないが、伝説を見ると、どうも、彼女は、完全な悪玉というわけではなかったようである。あるいは、鬼神レベルの力を有していたために、敬称が付けられたのかもしれない。

 

・御前は田村丸を「光輪車」という神通力で飛行する乗り物に乗せたかと思うと、瞬く間に内裏に降り立った。そして、光輪車で去っていった。

 

<熱き情念の化身>(清姫・(異名)白拍子白拍子花子)

和歌山県熊野地方の伝承。容姿については、伝承のパターンによって、ふたつ存在する。ひとつには夫に先立たれた寡婦(やもめ)で、イメージとしては妖艶な中年女性だろう。もうひとつは白拍子の少女の姿である。清姫といった場合、特にこちらの少女を指す。

 

 さらに彼女は、全長10メートルもの大蛇に変身することができ、これが第三の姿と呼ぶこともできる。

 

 清姫の物語は、熊野権現と関係が深く、その舞台は道成寺という寺である。主な登場人物は、清姫と彼女が恋焦がれる安珍という僧だ。

 

<●●インターネット情報から●●>

 ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より、

 

鈴鹿御前の物語」

 

・現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。

 

 

 

『鬼』  (高平鳴海、糸井賢一、大林憲司)

新紀元社)1999/8

 

 

 

<鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?>

童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだそうです。

 

<日本の伝承に残る鬼として>

・桃太郎の鬼(温羅)(うら)

 

蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)

 

有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)

 

・黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)

 

・霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承

 

・飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)

 

・「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀御伽草子に登場)近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。

 

・天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)

 

・同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。

 

 

 

『異人その他』 

岡正雄) (岩波書店)  1994/11/16

 

 

 

<異人>

・異人もしくは外人は、未開人にとっては常に畏怖の対象であった。あるいは彼らは、異人は強力な呪物を有していると考えて畏怖したのであろう。あるいは悪霊であるとも考えたのであろう。

 

・自分の属する社会以外の者を異人視して様々な呼称を与え、畏怖と侮蔑との混合した心態を持って、これを表象し、これに接触することは、吾が国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与えた呼称の民間伝承的表象は、今もなお我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成と参加している。

 

 

 

『鬼がつくった国・日本』  歴史を動かしてきた「闇」の力とは

小松和彦内藤正敏   光文社文庫    1991/11

 

 

 

<「東北」の怨念を語りつぐ「田村三代記」>

・それで、こういう中央とまつろわぬ者の関係、日本の過去における京都を中心とする光の領域と、東北に代表される闇の領域との関係を象徴的に表している『田村の草子』という坂上田村麻呂の一族をモデルにした説話があるので、ここで紹介してみたいと思います。

 

 まず、田村利仁という人物が出て来て、妻嫌いをする。つまり、かたっぱしから縁談を断るんですが、ある日、大蛇が変身した美女を見初め、妻にする。女は妊娠し、自分の姿を見ちゃいけないといって産屋にこもる・・・。

 

・そう、タブーを破って見ちゃうわけ。それで、まさに「見たな」というわけで、「おまえは数年を経ずして死ぬが、子どもは英雄になる、覚えとけ」と預言して姿を消してしまうんです。

 

・それでね、いまの『田村の草子』には中央から見た鬼=まつろわぬ者のイメージがよく出ていると思うんですが、東北にも東北版『田村の草子』みたいなのがあるんですよ。『田村三代記』といわれているもので、話を簡単に紹介しますと、平安時代前期に都でまりのような光る物体が夜となく昼となく飛び回り、米俵、金銀、はては天皇への貢ぎ物まで持ち去ってしまうという騒ぎが起こるんです。

 

未知との遭遇だね。第三種接近遭遇(笑)。

 

・そこで、陰陽師の博士に占わせると、伊勢国鈴鹿山に天竺から来た魔王の娘である、巫女のいでたちをした立烏帽子というものがいて、日本転覆を計画しているという。しかも、日本にも立烏帽子におとらぬ鬼神である蝦夷の大嶽丸がいて、ほっておくといっしょになって攻めてくるというんです。で、そりゃたいへんだというので、田村利仁に追討を命じて、鈴鹿山に向かわせるんです。ところが、二万余騎の軍勢で探しても、立烏帽子は見つからない。そこで、魔の者に会うときは大勢で行くなという父利光の教えを思い出して、利仁一人を残して軍勢を返すと、三年以上たったある日、やっと立烏帽子を見つけるんです。すると、これがなんと紅の袴を着た歳のころは十六、七のピチピチのギャルちゃん。

 

・なんせ相手がかわいい女の子でしょ、さしもの田村丸も迷うんです。原文に「かようなる美麗なる女を討つとは何事ぞや。このうえはなかなか彼女にしたしむべきかと思召し賜えしが、いやまてしばし我心」とありますもの。

 

・ちょっと待て、だいたいそれで男は損しちゃうんだよね(笑)。そういえば、この『田村三代記』ってちょっとまえまで東北の座頭が奥浄瑠璃でやってたんでしょ。

 

・それでね、二人の戦いはなかなか勝負がつかないわけ。すると、立烏帽子が利仁の出自について語り始めるんです。それによると、利仁の祖父は星の子どもで、彼が龍と交わってできたのが父親の利光で、その利光が奥州の悪玉姫、これも鬼ですよ。それと契ってできたのが利仁だというんです。そして、田村三代は日本の悪魔を鎮めるための観音の再来だというんです。それで、自分は日本を転覆させにきて、蝦夷の大嶽丸にいっしょになってくれと何度も手紙を出したんだけれど、返事もくれない。でも、自分は女の身だからやっぱり男がいないとだめなの、あなたといっしょになって、二人で力をあわせて日本の悪魔をやっつけようといいよるんです。

 

・それで、二人は結ばれて近江の高丸という鬼を退治するように命じられるんです。二人が攻めていくと、高丸は常陸の鹿島の浦(茨城県)に逃げてしまったので、立烏帽子は利仁を光りん車というUFOみたいな乗り物に乗せて飛んでいくんです。で、高丸を攻撃するときの戦法っていうのがまたSF的で、呪文をかけて十二の星を降らせて星の舞いをさせたり、一本のかぶら矢を打つと、それがビーム砲か散弾銃みたいに千本の矢先となって鬼神に降り注いだり…。結局、高丸は二人に退治されてしまう。

 

<連綿と続く東北独立国家への試み>

・『田村三代記』の主人公である田村利仁は、征夷大将軍坂上田村麻呂鎮守府将軍、つまり蝦夷に置かれた軍政府の長官であった藤原利仁とを合体させた人物なんだけど、彼は星の子どもと龍が交わってできた父親が、さらに悪玉姫という鬼と契って生まれたといわれるわけでしょう。龍と鬼という二重の異類婚によって生まれるわけですよね。その利仁が、立烏帽子という外来の魔性の女と交わって呪力を得て、蝦夷の鬼神の大嶽丸を倒す。これはまさに、まえに話した「異には異を」、「夷をもって夷を制する」という古代東北侵略のパターンそのものだと思うんです。

 ただ、東北の『田村三代記』がものすごく伝奇ロマンっぽくなっているのは、京都でつくられた『田村の草子』が東北でもう一度再生産され、京都を他界として描いているからでしょうね。

 

<日本史のすぐ裏側に、闇の文化史――鬼の日本史のようなものがあるのではないか>

・『田村の草子』『田村三代記』については、すでに西村寿行氏が、それをネタにして傑作を書いておられます。これらとはり合うつもりの方、おられますか。おられませんか。