<「物怪」は神道の一部である>
・私は物怪のはたらきを、神道の一部と考える立場をとっている。怨霊も妖怪も霊魂をもつ、神に近いはたらきの存在だと考えるのである。日本人は古くから、こう考えてきた。
「物(霊魂)」が化けて「怪しい」行為をすると、物怪になって災いをもたらす。しかし人間が心を込めて物怪をまつると、物怪は良い『物(霊魂)』になって人びとのためにはたらいてくれる」
だから物怪と神とは、厳密に分離できないのである。
古代の王家(皇室)の祖先は、物部という豪族にさまざまな物怪をまつらせていた。「物部」というのは、「物」の祭祀をうけもつことにちなむ言葉である。「物をまつる夫(男)」をあらわす「もののふ」が「もののべ」になったのである。
物部氏が「物」をまつったところが、現在の奈良県天理市の石上神宮である。そこは古代以来の古社で、石上神宮は王家(皇室)や朝廷の守り神としてあつい崇拝をうけていた。
<『遠野物語』に記された妖怪譚>
・『遠野物語』という書物がある。民俗学者の柳田国男が、明治43年(1910)に民間の民俗学者から聞いた話を文章にしたものである。そこには岩手県の遠野地方の住民の話が集められている。
・「遠野郷の民家の子女で、異人にさらわれていく者が毎年多くいる。姿を消す者には女性が多い」
「恐ろしいことである」と、信じきっている者の言葉である。この素朴な語り口から、突然、姿を消す人間が遠野におり、その不思議が「異人」という妖怪じみたもののしわざだと信じられていたありさまが伝わってくる。
もう一つの話は、一つの地域の住民のあいだに広がる噂話のような形をとっている。「土淵村の山口の孫左衛門の屋敷には、昔から座敷童子がいた。しかし家長がそれだけでは満足せずに“金持ちになりたい”と願って、京都に行って伏見稲荷を勧請してきて家でまつった。
それから間もなく、そこの家族が毒キノコを食べて多くの死者を出して、家は没落した。この事故の前に、孫左衛門の屋敷から座敷童子が出て行く姿を見た者がいるという」
座敷童子については、後でくわしく述べるが、この話から遠野の人びとが座敷童子の存在を信じていたありさまが伝わってくる。
・『遠野物語』の時点で、お化けや幽霊が存在すると考えていた者がかなりいた。確かに現代の日本人にも、お化けや幽霊といった不思議を体験した者がいる。しかし、かれらはたいてい、こういった語り方をする。
「あなたは信じないかもしれないが、私は不思議な体験をした」
こういう前置きのあとに、怪異が語られる。それは父母や祖父母の幽霊や、人知を超えたお化けのようなものから授かった知恵に助けられたといった話である。科学万能の現代日本にあっても、科学では説明できない不思議に出会った経験をもつ者は確かにいる。
<「妖怪」と「怨霊」の違い>
・「お化け」や「幽霊」という言葉を聞くと、多くの人は怖さとともに不思議な懐かしさを感じる。子供は、お化けや幽霊の話が大好きだ。こういった不思議なものが、人間の能力では叶わない夢を実現させてくれるともいわれた。
天狗に連れられて、空を飛んで旅行した話もある。また天狗の隠れ蓑を得て、姿を消す物語もある。こういった言い伝えは、楽しい。
・「妖怪」と「怨霊」に区分しておくと、怪異なものの特質を理解しやすくなる。人間以外の奇怪なものは、すべて「妖怪」になる。そして、死亡した人間の霊魂が起こす不思議が「怨霊」となる。
<怪談の世界とは違う妖怪と怨霊>
・本書は、かつて日本人が実在すると信じていた、妖怪と怨霊について扱うものである。この考察にあたって、「実在すると信じられた妖怪、怨霊」と「怪談のなかの妖怪、怨霊」とを厳密に区分しておく必要がある。
近代以前の文献には、多くの怪異が記されている。しかし、そのなかの大半は、書き手によって面白おかしく脚色されたものなのである。
創作された怪異な物語は、「怪談」にすぎない。
<物怪は“裏”と“表”がある>
・天狗、河童などの妖怪は、人びとと異なる生活をして人間と違う考えをもつ、人知を超えるものとされていた。しかしかれら妖怪には、きわめて人間的な部分があった。
・これに対して外国には、ただ恐ろしいだけの化け物が多い。「まったく救いのない怪異」が語られる怪談が多いのだ。
・日本人は物怪を恐れ、物怪をまつった。このような物怪の信仰は、広い意味での神道の一部である。これから神道の陰の部分、「裏神道」と呼ぶべき物怪に対する信仰についてみていこう。
<鬼、雷神、天狗、河童……“異形のもの”たちはこうして信仰の対象になった>
・日本では、神と妖怪との境界があいまいである。妖怪のなかには、人間に近い姿をとるものも多い。日本の神は霊魂とされるが、神は人前にあらわれるときには、人間の形をとる。
日本で神々の姿を描いた絵画や彫刻がつくられてきたが、神々はいずれも気品のある美しい姿をしている。これに対して神に近いはたらきをする妖怪はたいてい、人間に近いが異様な姿形をとると考えられている。
<“異形のもの”たちはこうして信仰の対象になった>
・日本人にとって、もっともなじみ深い妖怪をあげるならば、鬼、天狗、河童の三者になるのではあるまいか。多くの人が、この三者の名前を聞いたときに思い描く容姿は、だいたい同じであろう。鬼は頭に角をもつ。天狗は鼻が高い。河童には頭に皿があり、背中に甲羅をもっている。
かれらはこのように異様で、「神々しい」とはいいがたい姿をしている。しかしこれから述べるように、鬼、天狗、河童をまつる神社が確かに存在する。
<巨人ダイダラボッチ>
<全国に広がるダイダラボッチ伝説>
・日本の伝説には、やさしい巨人がしばしば登場する。かつての日本人は、巨人が大好きであった。かれらは「想像の及ばないような強い力をもつ巨大な神が、私たちの生活を助けてくれる」と考えていたのだ。
ダイダラボッチは、日本各地の民話、伝説に数多く登場する巨人である。「大きな人」を意味する「大太郎」という言葉がある。これに「法師」をつけると、「だいたろうほうし」になる。
この「だいたろうほうし」を短縮する形で「ダイダラボッチ」という呼び方が起こった。「大太郎法師」の言葉は、背の小さい「一寸法師」と対になるものである。
人びとは「大きな不思議な人」「小さな不思議な人」を、愛着を込めて「〇〇法師」と呼んだのである。
地方ごとに、「ダイダラボッチ」に対応するさまざまな名称がある。「でいだらぼっち」「だいだらぼう」といった名前はすべて、不思議な巨人をあらわすものである。
民俗学者の柳田国男が、各地のダイダラボッチ伝説を集めている。その例を、いくつかあげてみよう。
群馬県の赤沼は、ダイダラボッチが赤城山に腰かけて、踏んばったときにできた足跡に水がたまったものだと伝えられる。静岡市のだいだらぼう山頂に、全長150メートルほどの窪みがある。これは、ダイダラボッチが左足をおいた跡だといわれる。
また、ダイダラボッチが群馬県の榛名山の山頂に腰かけて利根川で脛を洗ったという伝説も残っている。これは日本に人間があらわれる、はるか前の出来事だといわれている。
<各地の主な巨人伝説>
・「ダイダラボッチ」「手長足長」(秋田 )/ 「ダイダラボウ」(茨城)/ 「ダイダラボッチ」「大道法師」(東京) / 「ダイダラボッチ」(群馬) /「でいらぼっち」(神奈川) / 「弁慶」(近畿地方日本海側) / 「伊吹弥三郎」(琵琶湖周辺) / 「三穂太郎」(岡山) / 「大人」(兵庫) / 「弥五郎」「みそ五郎」(九州地方) /
<古代の巨人伝説>
・不思議な形の窪地や池があるところには、それを「巨人の足跡」とする伝説ができる。また、子供が遊びでつくる砂山のような形の山は、「巨人が戯れで土を盛ったところ」といわれる。
人びとはこのような自然にできた地形を、「人類以前の巨人がつくったもの」と考えた。巨人伝説は、古代の文献にも出てくる。
<巨大神、巨人神の時代>
・ダイダラボッチは、日本列島の創世記に活躍したとされる巨大な神の流れをひくものである。日本の神話は、伊弉諾尊と伊弉冉尊の夫婦の神が、日本列島を構成する島々を生んだと伝える。
この夫婦の神は、日本列島を箱庭のように扱う「巨大神」と呼ぶのにふさわしい神であったろう。そして伊弉諾尊の目から天照大神と月読尊が、鼻から素戔嗚尊が生まれたといわれる。天照大神などの巨人神の次の世代の神々の背丈は、巨大神の目や鼻の大きさとほぼ同じであったろう。
巨人神は巨大神よりはるかに小柄である。それでも巨人神は、低い山ほどの背丈の巨人神であった。山頂に腰かけて貝をとるダイダラボッチは、日本列島を構成する島々ぐらいの体をもつ巨大神ほど大きくはない。かれらは巨人神と同等の巨人であった。
・秋田市の大平山三吉神社に、つぎのような伝承がある。
「横手盆地に大きな湖があったが、人びとがそこを埋め立てて農地にした。この工事のときにダイダラボッチがあらわれて、大きな手で水を汲み出し、土を運んで人びとを助けた。このダイダラボッチは大平山の山の神をまつった大平山三吉神社の祭神であった」
巨人神の1人とされるダイダラボッチは、はるか昔にこの日本の地形を形づくった。そして何かの折に、人前に姿をあらわして大きな仕事をするといわれたのである。
<小さな神々>
<国づくりを助けた少彦名命>
・少彦名命は医薬の神や酒の神、温泉の神として各地で信仰されている。茨城県ひたちなか市酒列磯前神社は、少彦名命を主宰神とする古代以来の有力な神社である。奈良県桜井市大神神社や茨城県大洗町大洗磯前神社のように、大国主命と少彦名命をともにまつる神社も多い。少彦名命は『古事記』などに、大国主命とともに「国づくり」をした神として出てくる。
力のある大きな体の大国主命と、知恵のある小さな少彦名命が人びとの生活を安定させた。かれらは農業を教え、医術を広めたという。「国づくり」とは土地を生み出すことではなく、良い政治をおこなって人びとを育むことをあらわす言葉である。
少彦名命は遠い国からやって来て、はるか彼方に去っていったという。
・日本の伝説には、「まれびと」と呼ばれる遠い世界の住人が善良な人を助けるものが多くみられる。少彦名命も、そのような「まれびと」の一例である。
<弥生時代の“小さな神”信仰>
・弥生時代の日本には、小さな「まれびと」に関する信仰が広まっていたのではあるまいか。弥生時代後期にあたる2世紀末から3世紀はじめの日本の姿を記した、「魏志倭人伝」という書物がある。
これは『三国志』という中国の公式の史書の一部で、その記述は中国の使者の見聞や外交関係の記録をもとにしたものである。「魏志倭人伝」のなかに、侏儒国に関するつぎのような記事がある。侏儒は背の低い「小人」をあらわす語である。
「女王国の東方の海を千余里渉ったところに、別の国がある。そこの住民は、みな倭種である。またその南には、侏儒国がある。そこの人びとの身長は、3、4尺であるという」
邪馬台国が北九州にあったとして、解釈してみよう。「女王国」と呼ばれた邪馬台国の領域から、海を渡って東方に千余里いくと本州もしくは四国に着く。その南方に、身長が90センチメートルから1メートル20センチメートルほどの小人の国があるといわれているというのである。
「自分たちがほとんど知らない東方の倭人の国の南方に、小さな「まれびと」が住む地がある」
邪馬台国の人びとは、このような信仰をもっていたのではあるまいか。
前にも記したように、日本各地に小さな神さま、もしくは「まれびと」に関する伝説は多い。アイヌではコロポックルという、背の低い神が信仰されていた。縄文時代の日本に小さな神の信仰があり、それが少彦名命やコロポックルにつながっていったのではあるまいか。アイヌ文化は、縄文文化の流れをひくものである。
<民話に登場する矮小の子供たち>
・『日本書紀』に、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)という勇者が出てくる。かれは雄略天皇に仕え、天皇の命で宮墻(みやがき)のほとりで児を養ったとある。この栖軽は王家に仕える侏儒の集団の長であったとする説がある。
『日本書紀』には栖軽が雄略天皇の言いつけで、三諸岳(三輪山)の神を捕えた話も出てくる。栖軽は大蛇の姿をした神を、雄略天皇の御前に連れていった。
そうすると、神は大いに怒り、雄略天皇を両眼でにらみつけて、雷鳴を起こしたという。天皇は大いに脅えて、「すみやかに神を山に帰せ」と栖軽に命じた。
三輪山に住む大物主神は、大物主命と同一の神とされている。侏儒を束ねるとされた栖軽は、少彦名命のものと共通する何らかの呪力をもっていたとされたのかもしれない。ゆえに少彦名命と一対となる大物主神(大国主命)は、栖軽とは理解しあえても雄略天皇とは対立したというのであろう。
<“鬼”とされた異端の神>
<仏教の教えと融合した鬼>
・日本では、多様なものが「鬼」と呼ばれてきた。鬼についてもっとも広く定義するなら、つぎのようになる。「人間に害はなく、正体のよくわからないもの」
節分の行事で、豆によって追われるのも鬼である。桃太郎に退治されて、盗んだ宝物をさし出すのも鬼である。平安時代後期の都で乱暴をはたらいていた酒呑童子は、源頼光とかれの部下の頼光四天王に退治されたという。
頼光四天王の1人が、金太郎の幼名をもつ坂田金時である。昔話のなかで金太郎は、桃太郎とならぶ人気者である。
・平安時代末から室町時代にかけて、浄土教と呼ばれる仏教の一派が、日本全国に広がった。これは、地獄の苦しみから逃れて、阿弥陀如来の極楽浄土に往生することを求めるものである。
浄土教の信者は、死後の世界である極楽と地獄の存在を真剣に信じた。そのため浄土教の信者によって、地獄の獄卒を模した鬼の姿が広まっていった。
<古代日本の“鬼”とは>
・「鬼」は浄土教や陰陽道の影響によって、恐ろしいものとされるようになった。古代の日本では、「鬼」の字が「もの」とよまれることも多かった。これは「鬼」が「神」に近い概念であったことを示している。
<まつられる鬼>
・『日本書紀』に、つぎの文章がある。
「山に邪しき神あり、郊(のら)(町や村の外れの原野)に姦(かだま)しき鬼あり」
これは、日本武尊に東国遠征を命じた景行天皇の言葉に出てくるものである。東国には山に悪い神がいて、原野には恐ろしい「もの」がいて道をふさぎ、多くの人を苦しめている。天皇は、それらを平定せよと命じているのである。
ここに出てくる「鬼」は、「もの」であり、「おに」、つまり「目に見えないもの」でもある。
<「なまはげ」と鬼信仰>
・秋田県男鹿半島の「なまはげ」は、そのような「招かれる鬼」の代表的なものである。なまはげは祖先の霊で、平素は真山と呼ばれる奥深い山にいるとされる。男鹿山の真山には「なまはげ」ゆかりの真山神社がある。
・現在のなまはげの行事は、集落の若者が鬼の面をつけて家々を巡って子供や嫁を叱り、もてなしをうける形をとっている。このような、なまはげに似た行事は、日本全国に分布している。
<鬼の伝説や信仰の分布>
・鬼神社(青森) / 鬼の手形石(岩手) / なまはげ(秋田) / 安達ヶ原の鬼婆(福島) / マダラ鬼神祭(茨城) / 酒呑童子(京都) / 花祭りの鬼(愛知) / 鬼のまな板、鬼の雪隠(せっちん)(奈良) / 温羅の砦(岡山) / 鬼ヶ島(高松市女木島) / 内金城御嶽(うちかねぐすくうたき) 沖縄 /
<角を生やした雷神>
<水の神と雷神>
・電気を知らない古代人にとって、雷は正体のわからない恐ろしいものであった。空が厚い雲に襲われると突然、雷が起こる。大きな音と激しい光をともなう雨が降り、あちこちに落雷する。
雷が落ちたところでは、樹木や建物が壊れて火事が起こる。雷に打たれた人間は、黒焦げになって即死する。避雷針のない時代の人びとにとって、雷は予想できない突然の死をもたらす恐怖であった。
そのために、雷を起こす恐ろしい神がいるとされた。しかし雷は、農業に欠かせない水の恵みももたらす。そのために、雷神は水神としてまつられた。古代の朝廷は雨乞いのときに、賀茂別雷社や「火雷神」の別名をもつ乙訓社(おとくにしゃ)に使者を送って捧げ物をしていた。
・多様な神が、雷神とされている。これは各地の集団がまつる土地の守り神である農耕神が、水神そして雷神としての性格をもつようになったことによる。栖軽が捕えたとされる三輪山の神である大物主神も、そのような水神の一つである。京都の上賀茂神社の祭神、別雷神は、賀茂川の水神が雷神となったものである。
<伊弉冉尊から生まれた雷神>
・古代人は雷神を酷いもの、凶悪なものと考えていた。日本神話には、黄泉国の八柱の雷神の話が出てくる。
これは、伊弉諾尊の黄泉国訪問の物語のなかに出てくるものである。伊弉諾尊と伊弉冉尊は、日本列島(北海道・沖縄は除く)を構成する大八洲の島々をつくり、そこを守る神々を生んだ。
ところが火の神を生むときに、伊弉冉尊が炎に焼かれて亡くなってしまう。このあと伊弉冉尊は、死者が住む黄泉国に行く。この黄泉国には、そこを治める黄泉神がいた。
妻に先立たれた伊弉諾尊は、伊弉冉尊を生き返らせようと考えて黄泉国を訪れた。しかし伊弉諾尊はそこで、腐って蛆がたかった妻の体を見てしまった。
このとき伊弉諾尊の体のあちこちから、醜く恐ろしい姿の八柱の雷神が生まれていた。大雷、火雷、黒雷、析雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷である。
<雷神と鬼との類似点とは>
・仏教が説く地獄の獄卒が、鬼だとされる。そして日本神話では、八柱の雷神が黄泉国(よみのくに)の支配者となった伊弉冉尊の家来だとされている。
「あの世に本拠をおきながら、しばしば人びとの前に出現して災厄をもたらす」この共通点によって、雷神の姿が鬼の姿に似たものになったのであろうか。しかし災害を起こす悪い雷神はしても、三輪山の大神神社や上賀茂神社といった有力な神社の祭神も雷神である。この点からみれば、雷神は鬼より神に近い位置にあったと評価される。
<山を治める天狗>
<山の神としての天狗>
・平安時代の『源氏物語』などにようやく、「山のなかに天狗という怪しい者がいる」といったたぐいの記事が出現する。そして源平争乱以後の武士の時代になって急に、山の神としての天狗の話が広く語られるようになる。
天狗は、農村に根をはる武士の信仰から生まれたものなのである。牛若丸(源義経)が鞍馬山の天狗に武芸を習ったという伝説も、天狗を山中の勇者と慕う武士たちがつくり出したものだ。
「天狗は自由に空を飛び、武芸の達人で強い正義感をもつ弱者のみかたである」といわれた。このような山の神としての天狗に対する信仰は、現在も残っている。
秩父地方では、子供たちが中心になってひらく「天狗祭り」が見られる。またそこの正月行事のなかに、天狗に「ぐひん餅」を供える習俗もある。
<猿田彦と天狗>
・『古事記』などの神話に、猿田彦という異様な姿をした神が出てくる。その神は、約1.1メートルの長さがある鼻をもっていた。かれの目は、大きな鏡のようで真っ赤に光っており、その唇のふちも明るく輝いていたという。
天照大神は太陽の神で、父の伊弉諾尊から、天上にある高天原という神々の住む世界を治めるように命じられた。この天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に地上を治めるように命じた。この瓊瓊杵尊の嫡流の子孫が皇室であると、日本神話は記している。瓊瓊杵尊は家来の神々を率いて高天原から降ってきた。このことを「天孫降臨」という。このときに、地上に住む国神のなかの一柱である猿田彦が、瓊瓊杵尊の一行の案内人をつとめた。
この案内役を終えたあと、猿田彦は故郷の伊勢の海で溺れ死んだと伝えられる。漁をしているときに比良夫貝という巨大な貝に手をはさまれて海中に引き込まれたというのだ。
<天狗をまつった修験者たち>
・平安時代末から、修験道が全国的な広まりをみせた。修験道は神仏習合のうえにたつ呪術を用いる宗教で、山中で厳しい修行をした修験者を担い手とした。
修験者たちは、各地の村落で庶民相手に手広く病気治療、呪術、占術をおこない、「神に通じる能力をもつ者」と恐れられ、慕われた。この修験者が、山の神である天狗をまつった。かれらは山中を自由に行き来する天狗にあこがれたのだ。
<川の妖怪、河童>
<川の神と河童>
・河川を治める神をあらわす、「河伯」という漢語がある。この「かはく」が「かっぱ」になったといわれている。
<さまざまな名で呼ばれた河童>
・江戸時代ごろまでの日本人は、水辺で見た怪しい生き物をすべて「川の神」、つまり河童だと考えた。現在ではマスコミの発達によって、「河童」の語が全国的に通用するようになった。しかし近年までは「河童」にあたる川の神は、地域によってさまざまな名前で呼ばれていた。
<“弱い神”として伝承>
・「昔は水の被害を避けるために、河童に馬を捧げていた」
こういった伝説は、各地にみられる。また河童を川の神としてまつる神社もある。福岡県久留米市には、安徳天皇などをまつる水天宮がある。そこの末社に「瀬の下の大神」と「尼御前」の二柱がまつられている。このなかの尼御前は河童の神だといわれる。水天宮の神が筑後川の河童たちを従えたという伝承がある。ゆえに、水天宮の神職をつとめる渋江家は、河童を使役する能力をもつといわれた。
そのほかにも、岐阜県各務原市御井神社の末社に、河童を水神としてまつる河童神社がある。また、東京都浅草近くの河童橋は、調理道具を商う道具街として知られるが、そこは河童にゆかりの深い土地だといわれる。
その地はもとは湿地帯であったが、江戸時代末(1804~17年ごろ)に合羽屋喜八という者が私財を投じて掘割をつくって開発した。このときに多くの河童が夜ごとにあらわれて、喜八の工事を助けたという。合羽橋の近くにある曹源寺の通称を、「かっぱ寺」という。そこには、河童の手のミイラと合羽屋喜八の墓がある。
・悪事をはたらいた河童が人間に捕えられて謝罪したという伝説が、各地に広く分布している。人間に敗れた河童が、許してもらう代わりに毎年、一定の量の魚を贈り物にするようになったとする話もある。
<山奥の怪、山姥>
<山の母神から山姥に>
・山の奥に山姥という恐ろしい妖怪がいると伝えられていた。山姥は、長い白髪の背の高い老女であるとされる。その眼は光を放ち、口は耳まで裂けているという。このような山姥は、かつて山の女神であったものが妖怪に変えられたものであると思われる。
縄文時代(紀元前1万4000年~紀元前1000年ごろ)の人びとは、女性の姿をかたどった土偶をまつっていた。この土偶はさまざまな生命を生み出す、母神であった。
山にも原野にも海にも、母親がいる。その神は、獲物になる動物や魚介類、さらには果実や山菜となる草木を生み出してくれる。
しかし弥生時代に水稲耕作が広まると、山の神は農業に欠かせない水を授ける神へと変わった。山に住む農耕神は、山を水源とする山の麓の広い地域を治める権威の高い神とされた。そして奈良県三輪山の大物主神や、愛媛県大三島神社の大山祇神などの男性の山の神が、各地でまつられるようになった。
朝廷の祭祀の対象も、このような男性の山の神であった。しかしこれとは別に、山には天狗、山の母神などのさまざまな神がいた。
大物主神のような権威の高い山の神があらわれた後に、山の母神が有力な山の神の巫女神とされるようになった例もある。山で自由にふるまっていた山の母神が力のある神に従い、その司祭者になるのだ。しかし山の母神である巫女神も、不老不死で不思議な力をもつ神とされた。
<善なる天狗と人を襲う山姥>
・山姥の話が多くみられるようになるのは、室町時代から江戸時代にかけての時期である。これは修験道が広まるなかで、修験者が信仰する天狗が善なるものに変わっていったことによるものである。「山奥に怖い神々がいる」と語られていたのが、「山奥で山姥が人びとを襲う」という形に変わったのだ。山姥は、山のなかを通る旅人を襲うといわれた。それとともに、山姥は山中に一人で暮らして山の神をまつり、山の生き物を育んでいるともされた。
・室町時代に、妄執に取り憑かれた女性が山姥になることもあるとする俗信も生まれた。自分勝手な主張をとおそうとして、我を張る女性がいる。そのような周囲と衝突したり、恋の対象となる男性を苦しめる女性は、山姥の霊魂に取り憑かれるというのだ。
謡曲の『山姥』は、妄執が積もって悪い霊に憑かれて越中と越後との国境の山に住む山姥になった女性の物語である。
・「山姥が憑く」という発想は、近年までみられた。高知県に物部村(香美市の一部)という。山深い地がある。そこの住民は、「山姥憑き」という病気があると信じているという。
山のなかで山姥に出会った者が、山姥に憑かれて原因不明の病気になる。こうなってしまったら「いざなぎ流」の太夫(祈祷師)を招いて、山姥の霊を祓い堕としてもらうほかないという。「いざなぎ流」は、物部村で独自に発展した陰陽道の流れをひく呪術である。
<退治される山姥>
・民話には、山姥退治の話が多く出てくる。「牛方山姥」などと呼ばれる、よく知られた民話がある。
牛に干し魚を積んで運んでいた牛方(運送業者)が、ある山の峠で山姥に出会った。この山姥は、干し魚も牛も食べてしまい、さらに「牛方が食べたい」といって迫ってくる。
このとき牛方は上手に、山姥の追跡を逃れた。そして山姥の家に忍び込む。このあと牛方は山姥が寝たところをみはからって、唐櫃(からと)(箱のようなもの)の形をした山姥の寝床に熱湯を注ぎ込んで殺してしまうのである。
・山姥は強くて凶暴だが、人間が知恵を出せば力のある山姥に勝つことができる。ここに紹介した民話は、こう語りかけるものである。
室町時代はあるていど発展した文化を得た人間が、神の流れをひく妖怪をむやみに恐れなくなっていく転換期であった。そうであって人びとは、妖怪を尊び山奥や川辺などのかれらの住む領域を侵してはならないと考えた。
日本には、これまで取り上げたもののほかにも神の流れをひく、興味深い妖怪が多くいる。
<雪女と座敷童>
<歳神様から雪女に>
・雪山で人びとを凍死させる雪女の話が、室町時代以後の文献に多く登場する。しかし、南北朝時代より前の雪女は、歳神信仰の一つの形であったらしい。
正月に「歳神様」と呼ばれる祖先の神が訪れてくるとする信仰が、古代の日本に広くみられた。この歳神様を迎えておもてなしをする行事が、現在の正月行事の原形である。門松は歳神様がおりてくる目印で、鏡餅やおせち料理は歳神様へのお供えである。
雪の多い地方には、「歳神様が大雪の降る旧正月に、美しく若い女性の姿で家を訪れる」という伝説が広く分布している。
・元旦に訪れる雪女も小正月に遊ぶ雪女も、雪女を歳神様とした習俗のなごりである。
<幸運をもたらす座敷童子>
・岩手県のあちこちに、座敷童子の伝承がある。座敷童子は、地域によって「座敷ぼっこ」「二階わらし」などのさまざまな名前で呼ばれる。
<座敷童子との共通点がみられる銭神>
・江戸時代には、小さな人間の姿をした銭神、つまりお金の精がいるとする信仰もみられた。それは黄金の精霊であるとも、金銭にまつわる人間の執念が形になったものだともいわれた。
小さな小判で、さまざまな品物を得たり、多くの人間を動かせる。
・浅井了異の『御伽婢子』には、銭の精霊はまったく感情を持たないとする文章がある。また上田秋成の『雨月物語』のなかの「貧富論」では、小さな翁の姿をした黄金の精霊が、「私たちは宗教や道徳とまったく別の考えで動いている」と語ったとされる。
・前にあげた座敷童子は、この銭神に似た性格をもっている。座敷童子に好かれた家は栄えるが、座敷童子は気まぐれで自分の好き嫌いで住みつく家を決める。
江戸や大坂の銭神の話と岩手地方の座敷童子とのあいだに、奇妙な共通点がみられるのである。
本章では、日本でよく知られた「異形の神様」と呼ぶべき妖怪を取り上げた。しかし日本にはこれらのほかにも、人間に近い姿をした多くの妖怪がいる。
<まつられない妖怪たち>
・貧乏神という、神とも妖怪とも呼べる不思議な妖怪がいる。怠け者の家に住みついて、家の主を貧乏にするといわれる妖怪である。
貧乏神は、汚い老人や貧相な男性の姿をしているという。かれらは巧妙に押し入れや天井裏に隠れているので、家の住人に見つからないとされる。
東京都文京区の牛天神の末社に、太田神社・高木神社がある。これは貧乏神をまつる神社から発展したものである。江戸時代に貧乏な旗本が、「貧乏に取り憑かれないようにしてください」と願って建てたという。それから間もなくそこの貧乏神は、福の神として多くの参詣者をあつめるようになった。