日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

鬼や中世に勢力を拡大した天狗といった、常人の目には見えない存在が、人間社会に人知れず災いを振り撒いていると考えられるようになっていったのである。(3)

 

エデンの戦い

・『エッダ』には、エデンの支配をめぐる蛇のカルトとトール(インダラ)軍勢との戦闘が描かれている。ワッデルが指摘するとおり、攻撃をしかけたのは全体に狼の種族、蛇のカルト側で、その「エデンの戦い」では飛行物体から爆撃や灼熱のミサイル、炎を発射する武器や有毒ガスの噴射などを思わせるものが使われている。「現代の戦争における凶悪な破壊手段」をありありと連想させる描写は、アヌンナキが関わった戦闘についてのシュメールの記録とも一致すると、ワッデルは言っている。

 

不死鳥の興亡/ノルディック王族の体に取り憑く

・敗戦後、レプティリアンと蛇のカルトは地下に潜った。むしろ地下に戻ったと言えるかもしれない。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

【ムー世界の神秘】なぜ中国にこれほどのピラミッド群が? 建造は異星人? ただし当局は見て見ぬふり…

 

4000年以上の歴史を誇る中国には、謎めいた古代遺跡も数多く発掘されているが、そのほとんどは公開されない。そうした遺物のひとつに、ホワイト・ピラミッドと呼ばれる建造物がある。

 

その存在が知られるようになったのは1912年のこと。ふたりの旅行者が、白色の巨大四角錘を同国内で目撃したと証言した。さらに1945年には、アメリカ空軍パイロットが、西安南西部の山岳地帯で眼下にそびえる白亜の巨大ピラミッドを目撃。1947年3月28日付の「ニューヨーク・タイムズ」紙上で詳しい報告と彼が撮影した写真が掲載された。

 

そして1994年、ついにそれは宇宙空間から確認される。NASAの宇宙飛行士が地球軌道上を周回中に9つの奇妙な点を確認、写真におさめたのだ。画像解析の結果、高さが100メートル以上ある中南米形のピラミッドが複数稜、等間隔で並んでいることが判明した。

 

さらに2005年10月、商業衛星イコノスが、山西省太原宇宙センター近郊に存在するピラミッド群を撮影。そこにはなんとギザの3大ピラミッドと配置が同じ、オリオンを形作る3基のピラミッドが見てとれたのだ。これらの事実は、ピラミッドが宇宙空間から見られることを前提としたランドマークであった可能性を示唆する。

 

現在判明しているだけでも、西安周辺には100基以上ものピラミッドがあるという。いったい、これほどの規模のピラミッド群を造りあげたのはだれなのか?

 

現地調査を行った宇宙考古学者ハウトウィグ・ハウスドルフによると、「火を吹く籠(かご)に乗って地球にやってきた天子たちが、この地にピラミッドを建造した」という伝説が報告されている。

 

この天子とは、異星人なのか? 残念ながら中国側はこれらの情報をいっさい公表せず、調査も行わないようだ。

(「ムー的古代遺跡」より掲載)

 文=並木伸一郎

 

 

(2018/6/30)

 

 

津軽 いのちの唄』

坂口昌明    ぷねうま舎     2014/8/20    

 

 

 

<説話の中の弥三郎>

ここで局面はがらりと変わる。これから私どもが分け入ってゆくのは、まさに集団的想像力の産物、つまり説話の領域に他ならない。人はみな、先人たちの心性表現としての伝承の流れの中に生まれてくる。だからこそ、唄を成立させた文化的環境の背景にも目を配る必要があるのだ。

「弥三郎」の名は、かつての集団的記憶の底では、近江の伊吹童子弥三郎や柏原弥三郎伝説のイメージと、まず重なって響いた。それは「恐るべきもの」の記号性を帯びていた、というところから弥三郎の説話空間における残像捜しの旅ははじまる。「弥三郎ばさま」にしても事情は同じで、越後地方の民譚では鬼婆の代名詞としてつとに知られた存在である。となればいやでも遠回りは避けられまい。

 

<二人の弥三郎>

説話の世界で荒ぶる異形の者の代表格「弥三郎」の伝承は近江に発し、大まかにいって伊吹山の賊魁弥三郎と、柏原弥三郎の二つに分かれる。前者は東西の人畜を啖(くら)う「変化(へんげ)の者」とされ、源頼綱に討たれたが大蛇となり、水の守護神に祀られた。ここからお伽草子系の話型群が派生する。伊吹大明神の申し子弥三郎が豪族の娘に通い、針と糸で、正体を山の蛇と見破られるというように、『古事記三輪山伝説で知られた蛇婿入り譚との混淆を生じながら、唯一の秘密の身体的弱点を突かれて死に、伊吹童子を遺す。この異形児は伊吹山に捨てられ、凶賊となり、やがて大江山に棲む酒呑童子にまで変身してゆく。

 

伊吹山中には弥三郎の蹴鞠場・弥三郎の庭、弥三郎の泉水・弥三郎の百聞廊下などと称する場所がある。そして山人と金屋に関する伝承は、きわめて類似しているのが常だと考えられる。山の神格を背景に、おそらく冬の猛烈な伊吹おろしの気候特性と、古代の金属精錬職能団との観念連合から生まれた弥三郎は、記紀神話ヤマトタケル致死譚と習合することで、「恐るべきもの」の呼称を得るに至ったのだろう。

 

・それには第二の弥三郎の姿も見え隠れしている。近江国柏荘の地頭弥三郎が押領、非法、荘園侵略など暴挙を咎められ、蓄電したが結局成敗されたという『吾妻鏡』の記事は、13世紀初頭に起きた史実と承認されている。だが民譚レヴェルでは伊吹弥三郎と混戦して語られることがままある。柏原弥三郎は4尺3寸の大長刀の使い手だったらしいが、伊吹山中にたてこもる凶賊を経て、滅んでも悪霊となって跳梁した。

 いずれにしてもマイナスの印を帯びた伊吹弥三郎の梟雄像は、15世紀初頭にはほぼ完成を見たと考えられている。

 

<弥三郎婆・妙多羅天・夜叉>

・この「恐るべきもの」のしるしが、弥三郎から弥三郎の母に転嫁された瞬間を見るような、1634年の写本が越後にある。15世紀末に弥彦神社で社殿造営の棟上げが行われた際、大工と鍛冶のどちらが先に勤めるか、匠の間で争いが生じ、大工が先と裁決がおりた。鍛冶弥三郎の母がこれに深く遺恨を含み、沢の奥に入って絶命した。死体は髪が逆立ち、握った手の爪が肉に食いこみ、顔は怒りを浮かべ、目を見開いたままだったという。弥三郎婆は以後、鬼に化けて悪事を重ね、弥三郎の獲物を奪おうと腕を斬られ、弥彦の高僧に教化されて、幼児の保護者「妙多羅天女」になった。そんな説話がいまも伝わる。

 

<ハハの闇>

・最も典型的な越後民譚は、文野白駒が1932年に採集したものであろう。

 弥彦山麓の網使い弥三郎は狼どもが追ってきたので松の木の上に逃げた。するとオウイン(大犬またはお犬)繋ぎをしてのぼってくる。あわやのところで届かず、「弥三郎婆さんに頼もう」といって去った。西からふいに大荒れが到来し、黒い雲が弥三郎を包み、太い手がぬっと出て首筋をつかんだので、鉈でぶった斬った。狼どもは逃げ嵐も止んだ。弥三郎がその腕を拾い家に帰ると、婆がうなって寝ていた。腕を目にするなり鬼婆に変身し、それをもぎ取ると自分の腕の切り口につけて、やにわに逃走した。婆の床の下をめくって見たら、人骨が積んであった。鬼婆が弥三郎の婆を食って、それに化けていたのだ。

 

・類話は大分県から岩手県まで、全国的に豊富に報告されている。鬼婆は狼の棟梁であるほか狼そのものの場合もあり、佐々木喜善の『聴耳草紙』(三元社、1931年)では大猫だったりする。老婆変身が日本の文献に登場するのは、12世紀前半の『今昔物語』本朝世俗部三、第二十二からで、猟師の息子兄弟を襲い失敗する。各地の息子兄弟を襲い失敗する。各地の変身譚がこの基本モデルに発することはまず間違いない。

 中国では十世紀後半、北宋の『太平広記』が、老人の鬼畜化に関する同趣の記述を、三種ほど載せている。後世、江戸文学の粉本として重宝されたこの奇談百科からの、日本説話への投影の可能性はあり得よう。

 

和漢を問わず、これらの民譚の鍵は刃物の威力にある。そして日本では「スサノオが出雲に下り、天のハハキリという剣で八岐大蛇を斬った。古語で大蛇をハハという」といった伝承が、農民のレベルで「母斬り」に転化していったものと解することができる。母はなぜ変身し、斬られるのか。ハハの原義は祖霊、山の神、大蛇であった。生産民の世界観が、山中他界と人間社会との分離を拡大するにつれて、斬られるハハは母だと解釈されるようになった。

 しかし母殺しは悪逆であるので、理由の正当化が図られる。変身し、鬼婆になったから斬られる、というふうに、母がそうなったわけは二種類あって、本人の性格の邪険が齢とともに高じ、鬼と化したか、獣や妖怪に食われ、刀自の座を乗っ取られたかの、どちらかで説明されている。

 

鍛冶の神

新潟県弥彦を中心に、どうして魔女的な弥三郎婆の説話が、とりわけ濃密に分布することになったのか。そこは弥三郎の職掌の原点、鍛冶のありようから解きほぐしてゆくほかあるまい。弥彦の神は鋳屋、鋳物師の神ではなかったか、とする考え方がある。

 

・精錬と鍛冶における巫女あるいは助産者の役割は本来大きかったが、古代的心性の変容につれて禁忌の対象とされ、周縁に排除されずにいなかった。母は零落する。越後では彼らが定住の方向に転換し、里に吸収される現象が、近世初期において顕著に起こったのでは、という仮定が当たっているとすれば、説話とのつながりにもいくらか明かりがさいこうもう。とにかく西蒲原郡分水町中島や、新津市古津字椀田など数ヵ所に、弥三郎の屋敷跡と伝えられる土地があったのは確かである。

 

津軽と越後>

ここに奇妙なのは、これと並行するように、新潟県燕市(旧、分水町)の中島と同じ町内の砂子塚の田の中に、酒呑童子誕生の屋敷跡なるものがあるのをはじめ、岩室村和納にも童子屋敷、童子田という地名が残されていることである酒呑童子が越後で生まれたとの説は、17世紀後半に『甲陽軍鑑』『渋川板・御伽草子』『金平浄瑠璃いぶき山』『前太平記』などを通じ、次第に流布、近松浄瑠璃酒呑童子枕言葉』で決定的に広まったように思われる。

 

<むごき母の民俗学

・平尾魯僊と交流があった越後塩沢の人、鈴木牧之の「嫁をいびる女を狼老婆という。巧みに狼心をかくしても、識者の心眼には明らかなのだ。まったく狼めは恐れずにいられない、人として恥かしいことではないか」という所感は、1842(天保十三)年当時の地方知識人が、近代的人間観のまなざしを獲得していた事実を、期せずして示す。

 

<創られた伝統>

・弥三郎節の形成を追う長旅も終わりに近づいたいま、輪郭の細部を若干補筆しておこう。かつて弘前で「よされ節」の曲調にのせた出戻り唄が採譜された。器用な替え唄だが、嫁が自分の離縁を天災めかして歌うのんきさ加減に驚かされるのは、私どもが、弥三郎節のみが例外的にもつリアリズムに慣れ親しんだせいなのだ。他方、木村弦三が大秋で採譜した「嫁いびり唄」は、じつは「守っ子口説き」の代表的な型で、アダコの心境を嫁のそれととりちがえたことになる。いわゆる「子守」の怨み唄は、もっぱら自分を守るためのはけ口なので、子守唄全体では特殊なジャンルに属することを知らなければならない。

 

・近世以来、日本の嫁たちはたとえモノローグにもせよ、切実な真情を唄で吐露したことがはたしてあったろうか。替え唄の作者集団は、そんな体験を一度も持てなかった彼女たちに、初めて償いを提供したのである。彼女たちはそれを子守歌に転用することで、完全に自分たちのものにした。それは作者集団にとっても、思いがけない成りゆきだった。嫁いびりと離縁の唄に、女性たちが他のどの唄よりも親しみを感じたのは、不条理でも何でもなく、自分にも通底するような現実味がそこにあっかからであろう。

 こうして「むごき母」をあてこする唄が、1日の労働を終えた乏しい個人のひとときの次元で、子や孫を眠らせながら半ば語りかける、女性たちの独白になるという逆説が生じた。旋律は鄙び、愛惜にたえた。歌詞はおぞましいままに、反面教育的意味と、数え方を教える機能とを帯び、寝る子は母の味方となった。

 

<お山参詣の宇宙>

<サイギサイギ>

<壮大な「ドラマ」の序曲>

虚空蔵信仰と初参り民俗の関係をめぐる他郷との比較は、私たちに岩木山文化のきわだった生命力の強さ、スケールの大きさを改めてさとらせてくれた。それでは近代の山カケと初山の残像をたよりに、在りし日の空間へと近づいてみよう。

 旧7月23日の夜あたりから、あちこちに太鼓、笛の音、サイギサイギと祈祷する声が上がりはじめる。これは岩木山のお山参詣にそなえるため、各集落で参加者たちが心身を清める禊の行に入った合図である。彼らは産土様の拝殿・神楽殿か、さまなければ近くの川のほとりの空地に建てた臨時の行屋で、斎壇を設け、〆縄をはり、1週間のお籠もりをする。食事は精進料理にかぎられ、朝・昼・晩・夜と水垢離をとるあいだ、サイギサイギを唱え囃子を奏する。この音鳴りによって参加希望者がまた増える。これが佐藤末吉『昔の農村』に描かれた、明治中期の田舎館村の準備に入るやり方だった。

 

サイギサイギの意味

石坂洋次郎の「お山」の友一少年一行の場合は、「4人は車の板囲いの四隅に赤と白との切紙で作った初詣の幣束をしばりつけ、荷物の谷間に寿司詰に坐って町の潮風に別れを告げた」と描かれている。「さいぎさいぎを合唱したり、握飯を食ったり、次第に緑の塊の中に埋もれていく町の目星い建物をあれこれと指摘したり、また行手に当ってすこしずつ腹をせり出してくる岩木山の、着物の縞目よりも鮮やかな山襞に、ピラピラ白く光る幣束を眺めては吾達も!吾達も!と心が躍った」。

 

・「サイギサイギ」という唱文を皮きりに、列の先頭部と後続部との応誦のかたちで唱和される対句の意味を考えてみよう。音頭とりがまず発する「サイギサイギ」は「懺悔懺悔」の訓読で、山の神格に人間として許しを乞い、至らなかった悔やみをさらけだして自分を清め、再生したい、との意思表示の叫びである。

 

<お山の音楽>

登山囃子の魔術的効果

・つぎに囃子について考えてみたい。白装束の楽隊の列は、80年前頃はチャガラキ(手平鉦)隊、太鼓隊、笛隊の順で組まれたらしい。この形は原則的には現在もおおむね踏襲されているように見受けられるし、また十分に合理的であるとも思える。

 

<奥浄瑠璃

岩木山と「湯殿山本地」

・かつては陸中南部の金ヶ崎・江刺・水沢までを含む旧仙台藩領の全域を中心に、独特の東北フレイバーを持つ語り物「奥浄瑠璃」は、ボサマ(座頭)やワカ(仙台方言で口寄せ巫女の意)によって伝えられていた。その伝搬は北に向かって広がり、盛岡あたりまで浸透した事実が確認されるものの、津軽に達した記録は残っていない。

 

<奥浄瑠璃が語る胡蝶の恋>

かんじんの「湯殿山大権現御本地記」の内容は、全六段の前半が金剛童子と金躰女(こんていじょ)の恋物語のかたちをとった本地譚、後半が弘法大師と弟子空参による本道寺開山縁起の体裁になっている

 後半部は説経節「かるかや」に挿入された空海伝「高野の巻」と同工異曲で、この際私たちの関心をひくのはもっぱら前半、『今昔物語』天竺部を思わせる仏教説話風の語りの部分である。天竺の清浄国を統べる帝釈天王は太子がおらず、梵天王に頼んで金剛童子と金躰女を迎え入れ世継ぎとする。童子は侵略してきた摩醯首羅(まけいしゅら)をとり抑える(初段)。帝釈天から譲位の意を伝えられた童子は、自分の存在意義が衆生済度にあることを思い、最上天の金躰女にそれとなく別れを告げ、金色の獅子に乗って雲の彼方に消える。姫は感づいたが時すでに遅く、号泣し気を失う(二段目)。届いた文で童子の下界行きを知った帝釈天夫妻は驚き悲しみ、せめて金躰女を慰めようとするものの、姫は嘆きのあまりついに死んでしまう。すると姫の胸から金色の蝶が飛びだして東方に去る。童子は写生してきた梵天帝釈天の像を虚空に投げると湯殿山に落ち、前者は山頂の三宝荒神に、後者は御沢下りの大黒天になって現れた。遍歴ののち、自分も湯殿山に着いた童子は、美しい蝶が獅子に寄ってくるのを見て戯れる。やがて蝶はありし日の金躰女となって語りかけ、二人は手をとりあって千丈の峯に入り、岩屋を封じた(三段目)。

 

<金剛童子は獅子踊に照応>

・金剛童子と金躰女はそれぞれ金剛界胎蔵界両部の大日大両権現と現れ給うた―—「湯殿山大権現御本地記」は前半三段をそう結ぶ。二人は山に入ることで両界を体現する神に化身したというのである。

 

<巡礼とカーニバル>

<お山参詣の人類学的考察>

お山参詣の行事全体を視野におさめた場合、それは広い意味での巡礼行と捉えることができる。田園の日常的な生活に対し、野を超え山を越え聖山への一時的な放浪として行われる巡礼は、一方の極にあるといえる。

 

<山カケ百態>

高い場所が聖地とされ、人々がそこに登拝する祭の例は世界の各地に見られる。中国には唐代から重陽の登高行事があった。その影響は韓国ソウルの南山や北岳におよんでいる。

 

イタリア山カケ異聞

数ある世界の参詣登山の中でも、岩木山のお山参詣に一番近いのはどうやらこれらしいと目星がついたのは、20年ほど前弘前大学付属図書館の探珠山房文庫で齋藤吉彦の旧蔵書を調査していたときのことだった。

 

・29歳でイタリア・アルプスを旅行中、サン・ベス(イタリア名、サン・ベッソ)山の参詣行事と出合い、これに心酔して1912年夏に3週間かけ、周到な現地調査を実行した。その成果が、いまあげた論文というわけである。彼はその3年後には第1次大戦で戦死してしまったので、自著は見ていない。なお同書は、1970年にも再刊されているほど名著の誉れが高いのである。

 その祭礼は、いまも行われているのだろうか。エルツの論文を読むにつれ、私はそれが存続しているならば、ぜひこの目で見たいものだと思うようになった。そこには在地のエネルギーの沸騰が魅力的に描かれていて、熱狂の度合いはかつてのお山参詣に劣らないかもしれなかったから。しかしなにしろ80年も前の話であり、イタリアでもとびきりの僻地のことである。雲をつかむ状況でいたところへ、幸いボローニャ大学客員教授として赴任した親友が、有益な情報を集め、提供してくれたおかげで、どうやらサン・ベッソの山カケはまだやっているらしいと分かった。

 

・さていざコーニュに来てみると、かつての遊牧経済、女たちの重労働、劣悪な衛生状態といった趣はどこにもないし、別に中世に迷い込んだ錯覚を覚えることもない。要するに平坦な大地を扼する要衝にあって、いまでは人口1500人を超えるその地は、完全に現代の人気避暑地に様変わりしていた。

 

サン・ベッソの、年に一度の山カケ祭礼は午前9時、岩木山山頂の御室に当る小礼拝堂でのミサが始まる。その15分程前、見学しようと中に入りかけた私は突然耳を聾するヘリコプターの轟音に、なにごとかと驚かされた。横手の牧草地に着陸して開いた扉からは、何人かの神父たちが現れた。下界から司祭のお出ましなのだ。まるでフェリーニの映画さながらの奇態な感じだった。堂内にかぎってはどこか素朴な山の頑固者風の人々が多く、大半はソアーナ渓谷深部4ヵ村の住民かと思われる。コーニュの人がいるのかどうかはまるで分からない。2階の狭いバルコナータは立錐の余地もないほどで、おまけに薄暗いのに閉口したが、斉唱の力強い迫力には圧倒された。

 

<東北の詩・東北のエネルギー 坂口昌明、村上善男>

弥三郎節は子守歌だ

・(坂口)弥三郎節っていうのがありますね。もとより全国的に知られた民謡、まあ嫁いびりの唄っていうことになっています。

(村上)そうですね。

(坂口)私には、長い間その意味がよく分からなかったんですね。嫁のうらみつらみが晴れ晴れしく、畳み掛けるようなテンポでお座敷唄として三味線伴奏で歌われるのは、私には論理的に理解できない。

 成田雲竹がそれを全国区にしたってことは承知していますが、納得がいかない。それで、なぜ森田村かというと、ご存じのように、弥三郎屋敷なるものがあそこにあるとか、唄の起源に一種の実在性、信憑性があるかのような言説が、この民謡の発生について広く行われている。これはどうしても現地へでかけて、なるべく昔からの口承のままのかたちで歌えるご老人に、直接歌っていただいて、私の疑問を解決したいと思ったのです。

 

・(坂口)行く前にまず雲竹さんの唄をですね、私自身テープで聞きながら、テンポをどんどん落として、自分で歌ってみたわけです。そしてフッと気がついた。何だ、これは子守歌だぞという心象でしたね

(村上)ああ、弥三郎節が子守歌……。

(坂口)嫁いびりどころか、もとは子守歌であるぞ、と。同じような見解がすでに過去に行われているなら、私も従えばよろしいのですが。ところが私の調べた範囲では、それは見つからなかった。ぜひこれは行かなければ、行って確認しないことには!大変申し訳ないが、津軽の人が自分自身について行っている言説には非常に怪しいのが多いということを、私は言いたいわけです。

(村上)うんうん、なるほど。先週、私はちょっと遠野に行ってきたんです。『遠野物語』を読み返してみる話がありましてね。柳田國男が書いた遠野と佐々木喜善の遠野とでは大分様子が違う。以前から言われているんだけれども、柳田國男のいわば文学としての遠野と、喜善のように土着の人間が伝承として見、聞きし、メモをとった物語とでは微妙にズレている。今、その弥三郎節にしても雲竹のようなテンポでパーッと歌ったのが、そうじゃなくて、それをゆっくり歌えば、こういうふうになる、というようなことですね。どうなんでしょうね。その辺りの落差は。

 

方言詩は「日本」を超える

・(坂口)朗読の手前に記述がまずありますね。明日、弘前で詩碑が除幕される詩人、一戸謙三さん(1899―—1979年。弘前市出身の詩人)が、昭和10年頃に『弘前新聞』でおっしゃっていることですが、津軽で日常暮らしている者が津軽弁で書いて、悪いということはどこにもない―—という非常に率直な方言詩擁護論をなさった。それには動機がありまして、当時プロレタリア文壇の論客の雄である淡谷悠蔵さん(1897―—1995年。青森市出身の政治家。社会党代議士・文学者)が、方言詩イクォール封建時代の残滓であると、しかも高木恭造(1903―—87年。青森市の方言詩人・医師)のごときインテリが方言を駆使して歌うということは辻褄があわないと攻撃していた。

 

<柳田民俗学の改訂>

・(坂口)柳田翁の、全集と名のつくものが初めて出はじめました。期待していますけど、編集委員の一人は自身の本の中で、岩木山のお山参詣行事では、「サイギサイギ」の声はもう聞かれないと言っているんです。よく読んでみると日が暮れてからクルマで駆けつけて、ちょっと見て帰っただけらしいんです。夜にサイギサイギをやっているわけがない。そういう軽率なことがどうして起きるのか。もっと高名な宗教民俗学者が、津軽でイタコの拠点として誰でも知っている「小栗山」のことを、そういう山はないと書いている例もある。学術書の怪説の中で、です。低い山だから地図にはないので、そうしちゃったんでしょうね。本に頼るのは危ない。

 

<哄笑芸術>

<夭折しなかった純粋詩人>

・(村上)ところでぜひお訊きしたかったことで、南部・八戸の詩人、村次郎さんのことに、少し触れてくださいますか。

(坂口)はい、細かいことは省きますが、自然抒情派、これが現代において成立するかどうか、このことに賭けちゃった方ですね。

(村上)同じ青森県の中で、南部・八戸、その地で彼が詩人として果たした役割というのは、青森県の詩の世界にあってかなり大きいと思うんです。そこのところの坂口さんのご意見を……。

(坂口)私なりに整理すれば、南部の詩人は格調ということをまずは主眼に考えているようですね。ですから社会主義的な主体をもった大塚甲山とか、時代に対して反逆的なスタイルをとった和泉幸一郎とか、村さんとか。この3人は青森県どころか、日本の第一級の詩人ですよ。いずれも誇り高き単独抵抗者であると同時に、日本語の格調に非常にこだわる詩人でした。そういうことが、津軽との対比として浮かんでくるんじゃないかと思います

 

岩木山と赤倉山>

・(村上)坂口さん、こちらにおいでになって、今青森県の、弘前でもどこでもいいですが、一番お好きな風景をいってください。

(坂口)岩木山神社の鳥居前ですね。角度によるんですが、だいたい正面から岩木山の、ちょっと頂が見え、そこに陽がカッと当たって、岩木山がパッと現れる、そういう瞬間の……。

 

・(村上)それはもう赤倉です。勝手ながら赤倉圏と名づけています。なにか気配が伝わってくる、とでもいえばいいか。大石神社に、何ということもない巨石がある。どうということもない石なんだけれど、民俗学的考察では、その石が聖地と俗界との境界ですね。その象徴としての石がごろっとあるわけで、それがご神体。その石を見ると、ほんとにむきだしになっているから、私には物凄い感動が湧きますね。さっきの遠野もそうなんですよ。柳田の『遠野物語』の第八話の寒戸の婆さんの話。女の子がいたんだけれど、梨の樹のところに草履をぬいで、村から姿を消してしまった。30年ぐらいして、風の激しいある日、一人の老女がたどりきたる。柳田の物語では、それが不明の少女の果ての姿で、それ以後、寒風の日には、寒戸の婆が帰ってくるような日だな、ということになります。ところが、佐々木喜善によると元話は、その婆が来るとろくなことがないから、来ないように村の入り口を石で塞ぐということになる。両者にみられる、この違いです、問題は。

 

 

 

『鬼の風土記

 服部邦夫  青弓社   2006/8

 

 

 

酒呑童子

・この鬼の面から受ける印象は、“落魄した鬼”のイメージだ。現に国分寺の鬼夫婦は、人間夫婦に姿をやつして、下男下女の存在にまで身を落さざるをえない状況に置かれていたのである。大江山を根城として、一大王国を誇っていた頃の、あの華々しい鬼どもの存在ぶりから見ると、まるで嘘のようである。

 

よろいかぶとに身を固めた頼光たちは、首尾よく酒呑童子をはじめ茨木童子、いくしま童子、とらくま童子、かね童子や門を固めていた十人余りの鬼どもをことごとく討ち果たした。

 何々童子と呼ばれているこの鬼どもは、いったい何者であったか・・・。

 

・越後の柏崎地方に弥三郎婆の伝説があることは、高木敏雄の『日本伝説集』によって広く知られているが、良寛ゆかりのこの山にも、稚児をさらう弥三郎婆の伝説と酒呑童子の伝説が残っている。

 

・伊吹の弥三郎伝説が、15世紀初めに成った説話集『三国伝記』に収められていることを、佐竹昭広氏の著書によって知ったが、その『三国伝』によるとー伊富貴山に弥三郎という変化の者が栖んでいた。遠く関東や鎮西まで往還し、人家の財宝を奪ったり、さまざまの害をおよぼしたので、当国の守護である佐々木備中守源頼綱が勅命によって弥三郎退治に出かけた。頼綱は、摩利支天の秘宝や陰形の術を修得して、高時川で弥三郎を退治した。その後、弥三郎の怨霊が毒蛇に変じて水害をもたらしたので、悪霊をまつって井明神と号したという。

 

お伽草子の「伊吹童子」の中では、弥三郎は近江国の大野木殿という有徳人の娘と通じたことになっており、いわゆる蛇聟入苧環(おだまき)型の求婚譚が展開されている。そして、弥三郎は大野木殿から好物の酒の接待にあずかって酒を飲みすぎたあげく命を落とすハメとなっている。その後、三十三カ月も胎内に宿って生まれた異形の子が伊吹童子である。運命の子は、大野木殿によって伊吹の山中に捨てられる、という“山中異常出生譚”として話が進行している。

 

・佐竹氏は、右の著書の中で伊吹童子が山中の“捨て童子”だったことから「伊吹山中の捨て童子は、後の酒呑童子である。シュテン童子の前身を捨て童子だったとする“伊吹童子”は、シュテン童子なる者の原像をはからずも露呈しているかのようだ」と指摘されている。