<アーミテージと芸者遊び>
・加藤さんが留任したんで、アインバーガーとアーミテージが日本に来たんだ。
残念ながらワインバーガーとは会えなかったんだけど、アーミテージとは日程を連絡し合ったから、赤坂の「みうら」(料亭)に陣をとって、「明日の晩、来い」と。
そしたら来たよ、アーミテージが来た。私も「男の約束じゃ」と赤坂の芸者を総揚げしたから、本当に芸者が全部来てたよ。
そこで飯を食っているときに、アーミテージにワサビを食わせてやったら、彼はいたく気に入ったみたいでね。パンにワサビをつけるし、飯にワサビをつけるし、何にでもつけて食べてた。
・アーミテージは知日派のトップになっていくんだけど、やっぱり、原点にあるのは人と人なんだ。国と国と言ったって、やっぱり人と人。ロンヤス関係と言われたレーガンと中曽根とか、ブッシュと小泉とかね。
・肩書とかも関係ない。私は政務次官という立場でもこんな無鉄砲に、ワインバーガーの前で、芸者総揚げしてやるよとか言っているんだから。
・安倍さんはそこが逆なんだ。内弁慶なんだよ。安倍さんは。国内向けには威勢のいいこと言うけど、外交となるととたんに及び腰で、オバマとの間にも何の信頼関係も築けていない。韓国や中国に対しても、国内向けに強いポーズを取っているだけで、内弁慶なんだ、あの人は。
・人と人とのつながりや情というものが政治家にとっても大事だということは、やっぱり痛感するわけです。それは外交においても同じで、やっぱり人と人なんだ。
だから、逃げちゃダメ。批判されそうなこととか、面倒なこととかから逃げて、楽なほうへ、易きに流されていくんじゃなくて、自分から飛び込んでいかないと、それが政治家の仕事なんじゃないの。外交では「アヒルの水かき」を常に必要とするのではないかな。
<中曽根康弘の「寝ない伝説」>
・そのときに、私は中曽根さんが偉いなと思ったことが二つある。
一つは、どんなに疲れておろうと、どんなにハードスケジュールであろうと、飛行機の中、新幹線の中で、居眠りをしなかった。
寝ないんだよ。普通だったら、疲れているんだからすぐ居眠りするよ。
・中曽根さんが偉いなと思ったもう一つの点はね、遊説でどんなに雨に打たれようが……、どんなに夜遅くなろうが、まっすぐ家には帰らないんだ。谷中に行くんだよ、谷中。
谷中には全生庵というお寺さんがある。そこへ行く。そこで禅をお組みになる、1時間。お寺さんに着くと、ご住職が待ってるんだ。
・とにかく中曽根さんのすごさっていうのは、やっぱり、こういうところにあるね。一国の総理として、日本を背負っていくんだという覚悟、気迫っていうのかな。易に流れない強さというか。昔の政治家は信念があるから、自分に厳しくできたんだ。
<私が見た竹下登>
<竹下登の裏切りが政治を変えた>
・そのことを考えると、思い出すのは、中曽根さん自身が、「正義というか、大義というか、正論というか、そういうものは派閥の中から生まれてこない」とおっしゃっていたことなんだ。派閥からは決して、正論は出てこないという、一つの哲学を持っておられた。
<私が見た小泉純一郎>
<小泉純一郎と一触即発>
・小泉さんっていうのは思想の人じゃないから、私はそう見てる。信念の人でもなければ、哲学の人でもない。よくあんなのが総理になったものだ。七不思議の一つですよ。
だから、典型的な“角栄後”の政治家なんだ。あの人から“情”だとか、“老婆心”なんて感じないでしょう。「変人」という言葉で包み隠されているけどさ。
・そう提案したら、安倍さんは「いやあ、彼は引き受けないでしょう」って言うんだ。私は「そんなことない、小泉さんは最近、原発即ゼロ発言でマスコミを騒がせたけど、あれが愛国心から出てきたものなら、拉致担当も引き受けるよ」と答えたんだけど、「小泉さんは議員を辞めてから、人生が楽しくて楽しくて仕方がないようなので、頼んでもダメですよ」って。そう言っていたね。
<いつから「政治屋」という稼業になったのか>
・ただ、世襲の政治家のなかには、その覚悟に欠けているようにしか見えない人が少なくない。なんで覚悟がないのかというと、彼らには守るものがあるからだ。「親や祖父の顔に泥を塗ってはいけない」「自分の子どもに財産と地盤と看板を残さないといけない」。だから、政治生命をかけなければならないような大事な問題から逃げ回り、やりやすいことばかりに手を出して、得点稼ぎをしているわけだ。
国会を見渡せば、政治が一家の“稼業”になった“政治屋”さんばかりじゃないか。
<政治家が小粒になったのは、選挙や政治のシステムにも原因があるんだ>
・細川政権時代の小沢改革で導入された小選挙区制と政党助成金の制度のせいで、政治家は政党が数合わせをするための単なるコマに成り果てた。
<制度が政治家をダメにする>
<小選挙区制が政治劣化の元凶だ>
・いまの政治家が劣化してきているということは、ホントにつくづく感じるんだけど、根本の原因は、選挙制度にある。細川内閣のときに、衆院選に「小選挙区制」と「比例区」が導入されたでしょう。これが最大の原因なんだ。
<はぐれガラス5羽集まれば政党か>
・政党助成金というのも、政治を劣化させる原因となっている酷い制度だ。これは廃止すべきだ。大切なのは政党法をつくって、政党とは何かを明確にさせることだ。
<野党の劣化はもっと酷い>
・最近の政治家は、ちょっと気に入らないことがあると、すぐに既存政党から逃げ出して新党をつくるでしょう。それも問題なんだ。
<いまの自公連立はヤラセだ、ヤラセ>
・衆院でも参院でも自公が圧勝し、野党が壊滅して、まさにいまはマスコミも含めて大政翼賛会のような体制になっているわけだ。
<ヤング村上正邦伝説>
<ボタ山は私の青春>
・親父も鉱夫として働いていた。戦後、間もなく親父が急逝したからおふくろは細腕ひとつで、苦労の尽きない日々を送りながら私たち兄姉4人を育ててくれた。今日の私が在るのはおふくろのお陰です。
・だから当時、少しでもおふくろに楽をさせてやりたいという気持ちもありましたよ。それで私は山本文男さんがいる田川の九州鉱山株式会社に入れてもらった。昼間は炭鉱で働き、夜は定時制高校に通いました。
<共産党細胞と戦う>
・拓大では、新入生歓迎会でさっそく騒動を起こした。忘れもしない、池袋にビックリガードという場所があって、当時は有名だったんだ。あそこで進駐軍が日本の女性をかどわかして行く。私はそれを知って腹が立って、新入生歓迎会で「進駐軍、やっつけよう!」ってビックリガードに行くわけだ。そしたらMP(憲兵)がすぐに来て私らは即逮捕されてね。それで脅かされた、「おまえら強制労働で沖縄に連れて行く」と、それでも私は大塚警察署に拘留されながら、盛んにMPに向かって「おまえら(進駐軍と日本人女性の)混血児はどうするんだ! 捨てられた日本の女性はどうするんだ!」って朝まで演説をぶったんだ。そしたら学校から学生部の先生が迎えに来て、頭下げろって言われた。それで学校に帰ってくるわけだけど、考えてみたらもともと私にはそういう理屈っぽいところがあったんだなあって。
拓大に入ってすぐにやったのは校名復活運動だ。当時、拓殖大学は一時的に紅陵大学と言っていた。女子大みたいな名前だよね、名は体を表わす、だから反対したんだ。私は、紅陵大学なんかに来たんじゃないんだと、先輩から聞いて拓殖大学に来たんだと、どうしてこんな名前なのか聞いたら、拓殖という名はGHQに追放され、改名したんだと。
・それで思い出したけど、学生会館に、東京農大の学生で野村という共産党のリーダーがいたんだ。私が最初の参議院選挙に出たときに、この人は埼玉県の共済連の専務理事をやってたんだね。これがもともと共産党なのに応援に来てくれた。「あなた、参議院に出るそうだね、俺は応援する」って言って、浦和駅前で応援演説をぶってくれた。お互い殴り合っていた相手なんだけどね。
・拓大は学生会館には30人ぐらいいたかな。そこでも私はリーダーになったんだ。復名運動とかいろいろやっていた。応援団でもあったし、目立ってたんだな。
<成長の家との出会い>
・拓大の同級生で仲の良かった馬頭哲弥というのがいて、彼はレスリングと相撲をやっていた。当時、早川宗さん(自民党)という代議士の秘書をしていた。早川さんは和歌山から選挙に出て代議士になり、労働大臣や自治大臣もやって、もう少し長生きしていれば総理になっていたと思う。中曽根さんとは東大と内務省で同期だった。それで、私はこの頃、仕事の合間にしょっちゅう、馬頭がいる議員会館の部屋に遊びに行っていたんです。馬頭がいないときには、代わりに留守番までしていた。
この事務所に出入りしていたのが、私より9歳上の玉置和郎だった。
・だけど、票欲しさで来たってのは信徒に見透かされる。成長の家の組織票は、70万とも80万ともいわれていたが、青年部の票を足しても玉置は30万票しか取れず、最初の参院選で落選した。そして借金を抱え、夜逃げまで考えたが、玉置は反省してね。
・でも、成長の家に入ったことが、自分にとっては本当に大きな財産になった。実際に、日本人としての魂に目覚めさせてくださり、それを教えてくださったのは谷口雅春先生だ。
・そこで、私は谷口先生から参議院選挙に出ろと言われるわけだ。玉置も、村上君だったら推薦しますと。
・あの講堂を聴衆が埋め、鳩山一郎の火を吐くような演説、三木武吉の飄々とした勇姿、あの「八人の侍」と呼ばれた憂国のほとばしる民主党結党の熱気がいまも焼き付いてる。それから鶴見祐輔さんという有名な雄弁家が参議院選挙に出たとき、私はまた坂田さんに連れられて、応援弁士として全国遊説にトラックで回った。枕詞に必ず「熱烈に私が議席を求める所以は」で始まる名演説を、やっぱりいまでも覚えている。
・中曽根さんは「結縁、尊縁、随縁」(縁を結び、縁を尊び、縁に随う)とおっしゃっておられるが、つくづくそう思う。
<優生保護法改正をあきらめない>
<「女性の敵」というステッカーを貼られた>
・だから谷口先生は、「村上君、300万の胎児の命を救うのが君の使命だ」とおっしゃられたんだ。それで昭和55年に当選して、手がけたのが優生保護法の改正だった。
・当時の日本医師会って言ったら、自民党の非常に大きな圧力団体だったんだ。武見太郎さんが来るとなれば、みんな平伏してお迎えしたようなもんだ。
そんななかで1年生議員が楯突いたらどうなるか。干されたよ。干されるってのは、何の役職にもつけてもらえないということ。そりゃ自民党は抑え込んでくるよ。
社会的にも糾弾されました。「女性の敵はこんな人」って言って、NHKにいた畑恵(元参議院議員)。彼女がNHKにいた当時だから。そのNHKで、「女の敵はこういう人」って、30分番組をつくって私を叩くんだ。
女性の権利団体も私の部屋に押しかけて来てね。彼女たちは「産む、生まないは女の権利」という立場なんだ。
うちの家内なんか、産婦人科へ行くと、「あなたのご主人に言ってくれ」と、「中絶反対はやめてくれ」と言われたと。女房は帰ってきて、泣いてましたよ。うちの家の前の電柱にはずらーっとステッカーを貼られました。「女性の敵、村上正邦」というステッカーを。
『永田町、あのときの話』 ハマコーの直情と涙の政界史
<謀略の勝者と敗者>
・青嵐会(せいらんかい)の事務局長までして中川さんを担ぎ上げてきたというのに、結局、私は、昭和54年(1979年)5月に旗揚げされた中川派「自由革新同友会」には加われじまい。
このあたりから、昭和58年(1983年)1月9日の中川さんの自殺、それ以後の経過については、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)に詳述しているので、そちらを読んでいただきたいが、あとで考えれば考えるほど、中川さんと中川派をめぐる一連の出来事は、福田赳夫・三塚博一派の謀略であったとしか思えない。
<池に戻れず干上がった鯉>
・小なりといえ派閥の領袖、閣僚経験(農林大臣、科学技術庁長官)もあり、次代を担うニューリーダーの一角に名を連ねていた政治家・中川一郎の急死は、それだけでも重大なニュースだったが、それがやがて自殺と判明して、国民の間にさらなる衝撃が走った。
なんの遺書も残さなかったとされるため、死後、その原因をめぐっていろいろと取り沙汰されたが、自民党史の流れの中でとらえるなら、ややきつい言い方だが、結局のところ、派閥抗争の敗者としての死を選んだと言えるのではないか。
・そとのとき、私はなにをやっていたか――。恥ずかしながら、ラスベガスでのトバク問題によって、謹慎中の身だったのですよ。かえすがえすも、情けない!
<田中角栄の“お盆手当・餅代”リスト>
・当時、私はまだ駆け出しの1年生議員。
「いいか、お前な、天下とりになるためには、こういうことが必要なんだよ。よく見ておけ」
そう言って、田中さんが2、3枚の紙片を見せてくれた。そこには、国会議員の名前がずらっと書いてあり、その1つの名前の横に、「5百・3」とか、「5百・5」とか記してある。
聞けば、たとえば「5百・3」というのは、その議員に対し、田中さんがこれまでに5百万円を3回、計1千5百万円渡したという意味だという。盆暮れに渡す“お盆手当”や“餅代”、選挙のときの陣中見舞などだ。
5百万円といえば、当時のサラリーマンの平均年収は約120万円くらいだから、約4倍以上の大金だ。最後の部分までは見せてくれなかったからわからないが、私が見せられた一覧表には、1回から5回までの記載があった。
・派閥の領袖が配下の議員たちに年末に“餅代”と称する金を渡すのは、永田町では常識だが(ただし、2、3百万円が相場)、その田中さんのリストには、田中派以外の自民党議員から、当時の野党議員たちの名前まで、ズラリと並んでいた。
とくに野党議員の場合、各党の党首、幹部クラスだ。国会議員なりたての私、これにはぶったまげたね。
・いまではすっかり様変わりしてしまったが、派閥の領袖たる者、次の4つの条件が不可欠だった。
第1に金。盆暮の手当はどこの派閥も同じ。田中さんが金脈の指弾を受け、三木武夫さんや福田赳夫さんらは「クリーン」とか「清貧」とかを売り物にしていたが、田中さんに比べて、金の集め方が下手だっただけの話。
第2の条件は、面倒見がいいこと。
第3にポストをとってくる力があること。
第4が人間的魅力。
田中さんは、これらすべての条件に秀でていた。まさに派閥政治の権化のような人だった。
<競争心なき政治家は去るべし>
・昭和63年(1988年)12月、リクルートコスモスの未公開株の譲渡問題で蔵相の宮沢さんが辞任したのは、私が前々から言っていた「宮沢派(宏池会)は闘争心に欠ける」という弱点が、もろに出た結果だ。
・自民党の中にも、根まわしの好きな派閥と嫌いな派閥があり、言うなれば、根まわしと喧嘩が不得意の宮沢派が、野党側から狙われたということだろう。
宮沢さんは、戦後、日本がまだ4等国と言われていた時代に、日本の国益を背に今日の日米関係を築いた人だ。経済政策にも明るく、通訳なしで、世界の首脳クラスと一人でどんな議論でもできる英才。
・しかし、あまりにも遅すぎた春、宮沢さんの切れ味もすっかり鈍っていた。それまでの経緯から、周囲に対する不信感もあったのだろうが、とにかく人の話に耳を貸さない。そのくせ、結論をどんどん先送りする優柔不断さ。
外交と並んで、経済にも精通しているはずなのに、積極財政への転換の機を失って、不況をますます助長してしまった。
・宮沢さんはあまりに頭がよすぎたため、他人がバカに見えた。しかし、われわれから見たら、単なる人望のなさにしか映りませんよ。
<天才的な衆参ダブル選挙の発案>
・田中角栄という人は、日本の政治史上でも傑出した人物の一人に数えられると思う。
政治家の能力は、人材の使い方にある。たとえ98パーセントの欠陥があっても、残り2パーセントの才能をうまく使う能力である。
その点、田中さんの能力は抜群だった。とくに、役人の使い方、若い政治家の使い方が実にうまかった。
そして、派閥内の人事、派閥統制の妙も見事だった。要するに、分断するようで分断しない。ライバル同士を競わせて希望を持たせるなど、のちの竹下さんや金丸さんの人事は、ことごとく田中さんから自然に学びとったものといえる。
それから、田中さんは選挙の神様だった。
<すべてはウラで決まっている>
・ポスト中曽根は竹下――しかし、これがかなり危ういところだった。例の皇民党による“褒め殺し”のせいだ。これには、金丸さんもあわてたようだね。そこで、解決策を東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会の石井進会長に依頼したということらしいのだが、やはり、政治家としては、そういうやり方はよくない。
そうした解決方法がどうこうよりも、その問題が起こってきた背景のほうが重要である。
竹下さんを称して、よく「まめな、つき合いを欠かさない人」と言われるが、マメでそだつのはハトだけ。その実態は「カネのつき合い」にほかならない。
<ラスベガス・トバク事件の真実>
・昭和55年(1980年)3月6日、東京地裁でのロッキード事件に関する公判の中で、聞いたこともないような話が飛び出してきて、私は一躍“時の人”ですよ。検察側の冒頭陳述補充に曰く――。
「小佐野被告がロッキード社から受け取った20万ドルは、昭和48年(1973年)11月3日、ラスベガスのホテルに対し、カジノで負けた借金の支払い保証をしていた分の返済に使われた。カジノで負けたのは、K・ハマダという人で、47年(1972年)の10月のゲームで、150万ドルの借金を負った。小佐野被告は借金の保証人としてホテルと交渉し、120万ドルに値引きしてもらうとともに、支払いを肩代わりした」
“寝耳に水”とは、このことだ。これを聞いて、自分でも「ええっ」とびっくりしたほどである。
・私はラスベガスへ行ってギャンブルをし、負けた。これは否定のしようもない。
当時のレートは1ドル3百6、7円だから、150万ドルといえば4億6千万円ぐらいに相当する。一緒に行った人たちの分も入っているのかもしれないが、まあ、この際、そういうことはどうでもいい。
私がびっくりしたのは、私の借金を小佐野賢治さんが肩代わりしてくれたという点だ。本当にそうなら、どれだけ助かったか知れない。己の不徳のいたすところとはいえ、支払いには大変に苦労したんだから。
・小佐野さんが「支払いを肩代わりした」なんて、とんでもない。前にも述べたが、小佐野さんという人は、そんなに気前のいい人ではない。根っからのビジネスマンなのだ。
私は、そのときの借金の埋め合わせのために、自分が保有していた株や不動産を売却して、やっと金をつくったのである。
そして、このこともはっきり言っておこう。そのときの不動産の売り先も、小佐野さんの国際興業グループの会社ではない。
<金丸事件>
・平成4年(1992年)8月、東京佐川急便からの5億円受領を認めて、自民党副総裁を辞任、同9月、5億円問題で東京地検から出頭要請、同10月、議員辞職、経世会会長解任、そして平成5年(1993年)3月6日、所得税法違反(脱税)容疑で逮捕。家宅捜索の結果、隠し財産が60億円とも70億円とも。金庫の中からは金塊も出てきた。
この金丸信さんをめぐる一連の出来事には、私は実に複雑な思いでした。なにしろ、国会議員2期目以来、押しかけ弟子入りのようなものだが、私が一貫して師事してきた人だったのだから。
・実は、私が引退を決意した理由の一つは、この金丸事件なのです。
なにもかも金丸さん一人に罪を押しつけて、頬っかぶりしているヤツが何人もいるわけでしょう。
・私は、実際はムジナでいながら、自分だけ清潔そうなツラをして、偉そうな口をきいているヤツが大嫌いなんだ。そんなヤツは、許すわけにはいかない。
しかし、私だって、金丸さんから“餅代”をいただき、選挙のときには陣中見舞いをもらってきた一人だ。その私が、テメエだけ頬っかぶり、知らんぷりをしている連中を批判しようと思ったら、議員としてとどまっているわけにはいかないでしょう。
私も国民のみなさんにお詫びをし、公職を辞した上でなければ、目クソが鼻クソを笑うのと同じになってしまう。
そこで、私は次の総選挙には立候補をしないと明言した上で、在職中から竹下さんや中曽根さんに議員辞職をお願いしたり、小沢くんや三塚博くん、梶山くんを批判したりしてきた。しかし、彼らにいっこうに反省の色が見えないため、引退後、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)を刊行した。
・金丸さんの逮捕だけで終わってしまったのでは、日本の政治は少しも変わらない。逮捕されるべき人は、まだまだいる。手が汚れている人がいくら制度を変えたって、よくなるはずがない。そんなことをしている間に日本はどんどん国際的信用を失い、地球上における日本国民の長期的生存は、どんどん危うくなっていく。つまり、自分たちの子や孫の代に禍根を残すことになるんです。
<権力亡者による三つ巴の抗争>
・ことの真相は知らないが、田中退陣の引き金となった「文藝春秋」掲載の「田中角栄研究」について、当時、三木・福田の謀略だとの説があった。少なくとも、田中さんはそう思い込んでいた。
<毎朝8時半から勉強している国会議員もいる>
・通常、自民党議員の1日の仕事は、午前8時半、東京・永田町にある自民党本部での朝食会からはじまる。議員はすべて自分の専門分野をもち、党内のそれぞれの専門部会に所属している。
<選挙に勝つ家>
・余談になるが、政治家の家の建て方というものがあるんですよ。この建て方が選挙の結果にも大きく影響してくるから、無視できない。
政治家にとって、自分の家は、生活の場であるとともに、政治活動の場でもある。そこで、政治家の家にまず不可欠なものは、50人から百人が集まれる大広間だ。だから、政治家が家を建てるとなれば、まず子供部屋は犠牲にしても、50人以上入れる大広間を中心に考える。
次に気をつかうのが、台所だ。50人、百人の人間にお茶を出したり、夜食をつくったりするためには、それなりの広さがなければならない。
次が書生部屋。将来有望な青年を育てていくのも、政治家の義務である。書生の3人や4人、常時手もとに置いていないようでは、政治家とはいえない。
<権力欲への度が過ぎて>
・確かに、あれだけの才能をもった政治家が、一挙に総理大臣の座に駆け登りながら、「文藝春秋」という1冊の月刊誌に載ったたった1本の記事(立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」)をきっかけに退陣を余儀なくされた。当人とすれば、さぞや不完全燃焼の感が強かっただろう。
それだけに、政権の座から下りたあとも、田中さんはなお権力に執着した。いや、ますます権力に妄執した。
<大学に入って芋づくり>
・しかし、母も一緒になってすすめることでもあり、まあ、東京に出るのも悪くはないと思い、日本大学農獣医学部拓殖科へ入学した。
入学してはみたものの、「いずくんぞ勉学ありや」とスネていたところだから、もちろん満足に大学なんかには行かない。第一、大学で教えていたのは、毎日、水道橋の校舎から大学の農園に行って、芋づくりばかり。
芋をつくるぐらいなら、なにも学校へ行かなくたっていい、家でもやれると思って、早々に中退してしまった。
<賭場通いの日々>
・人生の目標なんてものは、微塵もない。10代の終わりごろから、20代の半ばごろまでは、不良少年、チンピラの時代だった。
とにかく、一時はものすごくグレてグレて、本格的な不良というか、いっぱしの遊び人で、ほとんどヤケッパチで生きていたようなものだった。
ヤミ市で本物のヤクザと大立ちまわりをしたり、それが縁で、そのスジの連中とも仲良くなったり、はたまた賭場に出入りしたり……。
<3畳の畳の上で>
・結局、グレていたころの前歴がわざわいして、料理屋荒らしまで私の仕業であるかのように報道されてしまったが、実際は以上のような経緯なのである。
ただ、いまでも忘れられないのは、私が逮捕されたとき、町の青年団の仲間たちが、そんなどうしようもない私のために、釈放の嘆願までしてくれたことだ。
また、私が起訴されたとき、母は少しでも私の刑が軽くなるようにと、あちこち金策に駆けまわって、高い弁護料を工面し、木更津でもっとも有名な弁護士を頼んでくれた。
獄中にあって、懲役でやらされたのは、味噌や醤油をつくることだった。毎朝早くから、1日に96本のタライを洗い、桶を洗う。麹と塩を混ぜるのは、みな手作業であった。
<稲川会長の紹介で児玉誉士夫のもとへ>
・私は稲川会の稲川角二会長と、私より4歳年上で、のちに稲川会2代目会長になる石井進さんにも、いろいろご面倒をかけ、お世話になっていた。
若気のいたりで、私が世をスネて、ヤクザの世界でしか生きていいく道はないなどと思っていたときに、「お前のような意気地なしには、任侠はつとまらない。お前は政治の道に進め」と諭してくれたのが、稲川会長である。石井さんはそのころから、「これからは愚連隊ではダメだ」と口癖のように言っていた。
・それはともかくとして、昭和35年当時、稲川会長は児玉さんに心酔しているところがあった。そこで、私が国会議員選初挑戦に敗れたとき、国会議員を目ざすのなら、少し児玉さんのもとで勉強でもしてみたらどうかと、すすめられたのである。
<児玉邸に出入りしていた実力者たち>
・児玉さんのところに行って、まずやらされたのは、下足番と電話番。だから、当時、政治家の誰と誰が児玉さんのところに出入りしていたか。みな知っている。
たとえば、自民党総裁の河野洋平さんのお父さんである河野一郎さんや、当時、河野派のホープだった中曽根康弘さんからの電話を取り次いだこともありますよ。
とにかく、当時の政財界に対して、児玉さんは睨みをきかせていた。政財界の実力者たちは、児玉さんに対して驚くほど腰が低かった。文字どおり、「三顧の礼」を尽くしていた。
<●●インターネット情報から●●>
ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用。
「中川一郎」
自殺説と他殺説
その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。
遺書もなく、また急ぐように2日後には火葬したことや、死因の変更などでにわかに「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった鈴木宗男と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。
内藤國夫 1985, p. 251によると、
「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連のKGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“肝臓ガン”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」
という。
なお、2010年10月に鈴木宗男は、中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを、月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している。
中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている。
自殺の原因としては、「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である。