『うれしうれしで超えよう2012年の銀河パーティ』
イルミナティ代表者との対話・プレアデス・アルシオネ星での1万年の転生体験・竹内文書・シリウスからやってきたスメラミコト・日月神示・神一厘の秘策・宇宙連合・アガルタ・シャンバラ・ネットワーク
<1万年も地下に潜伏―宇宙人グレイの悲しき運命の顛末>
・中山:グレイという宇宙人は、どういう存在だったのか、いろいろな観点から掘り下げていくと、あの人たちはゼータ星に住むゼータレチクル星人で、私達みたいに男と女が存在する人間型生命体でしたが、ゼータ星が核戦争を起こしてしまったんです。ゼータ星の時間軸がどういうものかはわからないけれども、地球上で核戦争を起こせば、1万年は地上に住みません。地下に住まなければいけなくなります。核戦争を起こしたゼータ・レチクル星人たちも地下に住んだわけです。
・ゼータ星では永い地下生活のために普通の受胎で生命を営むことができなくなりました。ただ、生命を継承していかなければいけないので、クローンをつくりました。彼らは、クローンの技術や円盤を飛ばす技術、核の技術を構築したのです。
・ゼータ星人は、この地球を見つけて、いろいろな形で調査していて、調査したあげくの果てに、ルーズベルトのときのアメリカ合衆国に接触して、どうもそれから提携しているようなんです。つまり、自分たちの生殖遺伝子の欠如を回復したいということで、アメリカにクローン技術や核技術を教える代わりに人間を誘拐することや、キャトルミューティレーションという形で動物の臓器をとることを容認してほしいというような密約をしたいきさつがあるようです。
『「印刻 日本版」 神々の指紋(下)』
岩戸開き「地球再生」と星の暗号
藤原定明 ヒカルランド 2011/12/31
<『竹内文書』は秘密結社「ヤタガラス」との関係において正当性が証される>
・実は「太陽の暗号者」の伝説を現在まで受け継ぐ秘密結社「ヤタガラス」の圧力によって、『竹内文書』を公開した竹内巨麿翁によって、『竹内文書』は改竄されたのである。
それは、「古代の神宮の場所」、すなわち「ミステリースポット」を隠すために行われたのである。なぜなら、この場所を隠さなければ、彼らの仕掛けた「太陽の暗号」の目的を果たせないからである。
<秘密結社ヤタガラスの「暗号」は「神の計画」の指針を示していた>
・ようやく「星の暗号」が解読できた。
「星の暗号」によると間もなく地球は「崩壊と再生」の時を迎え、『ミステリースポット』に現人神(あらひとかみ)(天照大神、最高神、メシア)が再臨し、「人の世」が終り「神の世」が始まることになる。
・「伊勢神宮が甦った後、地上に天照大神が降臨する。その時、誰もが天照大神の御姿をその目で見ることになる。そして、伊勢神宮の使命もまた、それをもって終焉となる!!」
・時代や場所が異なっていても不老不死の神々が存在する同じ「神々の世界」(創造世界)と、それぞれチャンネルを合わせることができるからである。
・「ヤタガラス」という名称は彼らの正体を示すためのコードネームなので、正式な結社名ではない。彼らは、古代の「外宮」の担当者で、しかも古代の秘密結社「フリーメーソン」の流れを汲んでいる。
『UFOとアセンション』
直前に迫った2012年の地球激変とホピ族の終末大予言
中丸薫 Gakken 2010/2/10
<『竹内文献』の日本のピラミッド>
・その『竹内文献』によれば、遥か昔、日本は世界の中心だったとされる。現在の天皇家の祖先とされるウガヤフキアエズは、神武天皇の父親だ。これは日本の正史とされる『古事記』『日本書紀』の記述である。だが、『竹内文献』では、このウガヤフキアエズ以降に計72代の王朝があったとする。そのあとが神武天皇だから両書の記述にはまるで天と地ほどの時間の差があるわけだ。その間、日本列島ではどのような国が栄えていたのか?『竹内文献』は驚きの歴史を告げている。
・まず、「天浮船(あめのうきふね)」という空飛ぶ乗物が、自在に宙を舞っていた。これはまさにUFOそのものである。また、日本列島では黄・黒・赤・白・青の5種の肌をもった皇子・皇女が生まれ、五色人(いついろひと)として全世界に散っていった。これが正しければ、ホピ族の故郷もまた日本列島にあるということになるわけだ。しかも日本の天皇は、この皇子・皇女を視察するために「天浮船」に乗って世界中を巡行しているのだ。これなどはまさにUFOによる世界一周だ。と同時にこれはホピ族のソツクナングがパツポタというUFOに乗って現われたというあの神話を思い起こさせる。
『ヨーロッパのUFO』
(イロブラント・フォン・ルトビガー)(星雲社)
真の科学的UFO研究の模索 (2007年12月)
<過去のUFO事例>
<フランス、ドイツ、英国の歴史的な事例(16~18世紀)>
・1554年2月11日、フランスのサロン・ド・プロバンスで大きな「燃える棒かたいまつ」のようなものが飛行経路を変えるのを何百人もの人が目撃した、とノストラダムスが記録している。
・エラスムス・フランシスキは1665年4月8日に、シュトラルズントで目撃された“空に見えるもの”について書いている。何人かの漁師が、14時頃に目撃したものを報告したものである。それによると、ムクドリの大きな群れが海の上を北から飛んできた。それは何隻もの軍艦に変わった。これらの船は別の船と闘っていた。あたりに煙が立ちこめた。その間、新たに小さい船や大きい船が現れた。戦闘は数時間続いた。
・この種の暗喩的な話は中世には多くあり、現代の正体不明の飛行物体の認識と共通なものはない。意味を与える暗喩には当時の時代背景が関係しているからである。
その光景が消えた後、状況は変わった。フランシスキは次のように書いている。
「しばらくすると、平らな丸い形の皿のような、男性用の大きな帽子のようなものが空の向こうからやって来た。その色は昇る月のようで、聖ニコライ教会の真上に滞空した。それは夜までにそこに留まっていた。あまりにも恐ろしかったので漁師たちは、その光景を見たがらず、小屋の中で顔を覆い隠していた。翌日、彼らは、体調を崩し、全身が震え、頭、手足が痛んだ。多くの専門家がこの問題に大いに頭を悩ませた」
<1665年4月8日、シュトラルズントの6人の漁師が船の蜃気楼を目撃した後、聖ニコライ教会上空に滞空する“男性の帽子”のような物体を発見した。>
『宇宙人の魂を持つ人々』
(スコット・マンデルカー)(徳間書店) 2008/6
覚醒したET人格ウォークインとさまよえる魂ワンダラー
<ウォーク・イン、ワンダラー>
<“魂”だけが、いわば“意識体”として地球に移動してきている>
・現在、この地球上にはかれこれ1億人もの“非地球出身者”―平たく言えば、“宇宙人”著者の用語に従えば、“ETソウル(本書では「ET人格」などとしている”が地球をいい方向に導くためにやって来て住んでいる。
・もちろん、博士の言う“ETソウル”は生身の肉体を持った異星人が地球に密かに移住してきているという意味ではない。高次の星や次元の世界から“魂”だけが、いわば“意識体”として地球に移動してきているというのだ。
・同じ分野の研究家によってはこれまで“スターピープル”“スターボーン”“スターシード”などと呼びならわしてきた存在で、ほとんど同義としてよいだろう。
・マンデルカー博士によれば、そのETソウルにも大別して2種類あるという。一方は異星から転生した魂が地球人の肉体に宿って誕生する場合、他方は途中で地球人の肉体に入り込んでいい意味での人格転換が起こる場合で、博士は前者を“ワンダラー”、後者を“ウォークイン”と名づけている。
・地球に来ているETソウル1億人のうち、95%がワンダラー、残り5%がウォークインだという。ただし、自分がETソウルだと自覚している者は、全体のわずか15%にも満たないそうだ。
・Walked-in(ウォークイン) 次元間―惑星間の魂の転移を表す叙述的な用語。人類とこの惑星に奉仕するために、もっと進化したETや天使の文明から(あるいはもっと偉大な霊的進化をした、地球生まれ)の存在か、自発的に明け渡されたある人間の体―人格意識に入っていること。現象的に断片交換や魂の組みひものプロセスに匹敵する。
・ワンダラー(Wanderer) 次元間―惑星間の魂の転移を表す叙述的な用語。もっと進化したET文明からの存在が誕生時に自発的にアイデンティティーや起源の記憶を失って、人の姿になること。目的は通常、人類とその惑星に奉仕するためだが、自分の利益しか追求しないワンダラーもいる。
『超新論 古史古伝』
佐治芳彦 徳間書店 2004/8/3
異端の歴史書群だけが知る「本物日本」史
<『竹内文書』>
<上古25代>
・天孫として天日国(アメヒノクニ)から天浮舟(アメノウキフネ)に乗って地球(天元根国)の天越根国(日本)の飛騨山脈の立山に天降った初代天皇(21世続く)から第25代天皇(8世続く)までの期間を「上古25代」という。代こそ25代だが、各代に複数の「世」がいることから、計437人の天皇(スメラミコト)が在位していたことになる。しかも、それらの天皇はいずれも「即位後の○億年にして神去る」とあるから、この期間は「天神七代」ほどではないにせよ、かなり悠遠なものである。
・初代一世天皇は多くの皇子・皇女を地球の各地に派遣した。彼らは、その地域の人類の始祖となり、その子孫はその地の「民王」となり、その地域を統治した。第2代一世天皇は、文化の普及に熱心であり、後に天神五代神と融合して「エホバ」ともよばれたという。この時代(上古25代の期間)には、地球規模の大異変が幾度となく起こり、人類の肌の色の違いが生じた。すなわち、それまで黄人だけだったのに、青人、赤人、黒人、白人の別が生じた(五色人の発生)。
・皇祖の祖先を祀る皇祖皇太神宮には、アトランティスのオリハルコンを思わせる「年月を知らない貴金属」であるヒヒイロカネでおおわれ、五色人の巡礼がたえず訪れた地球の神都である高天原(たかまがはら)の「万国の政府」では、世界各地の民王が天皇から親しく「万国の政法」を学んだ。
・上古歴代天皇の中でも、第4代天之御中主天皇は偉大な天皇であった。万国の政法の制定、産業の開発振興、文字の制定、度量衡の制定など多くの治績が伝えられている。だが各地で大異変(天変地異)が起こり、内乱や叛徒の処刑などが行われた。そこで、天皇は、12人の息子を世界の12の地域に派遣し、鎮撫工作を担当させた。
『人類の祖先は宇宙人である』
(ミン・スギヤマ)(第一企画出版社)(1993年)
・レティクル座人は通称レティキュラン。約50万年前までは琴座のリラ星に居住。後に、核戦争による汚染をのがれてレティクル座に移住した。本格的な宇宙進出を開始したのは30万年前か。一時衰微したが、2万年に中興の祖テデルが出現。オリオン座に居住する「リゲリアン」や牡牛座人。天秤座人その他の種族を征服、支配下におさめた。
・500年前に惑星連合政府を創設。指導種族として恒星間貿易ルートの50%を支配。のち85%に拡大して現在に至る。
・性格はゼータ1・2の出身者で異なるが、非常に進取の気性に富み知的。官僚組織の運営に抜群の才能を発揮している。
・容貌は平均身長1.2メートル。頭の大きな胎児型の体型で指は4本。うち2本の指の間に水かきを持つ。皮膚の色は灰色、赤や緑をまじえる者も多い。
<天秤座人>出身母星、天秤座のアルファ2星
・先祖の居住地は不明。宇宙史に登場するのは10万年前から活発な商業活動を開始。1万4000年前にレティクル座人の攻撃を受け、敗北。配下に入る。
・少数系種族の最大種族として反レティクル座人の一方の雄。性格は合理的な反面、情にもろいところも。容貌は地球人に近いが発光現象の特徴を持つ。
<牡牛座人>
・出身星座、牡牛座。先祖の居住地は不明。宇宙史に登場する最古の種族の一つで、レティクル座人の台頭では指導種族として権力をふるった。1万2000年前にレティクル座人の侵攻をうけたが撃退。以後最近まで和解と衝突を繰り返す。700年前、最後の衝突で壊滅的な打撃を受け、軍門にくだった。地球への飛来はなく、約2万年前からインド神話やアフリカ神話に登場する「牛の神」として活発な交配実験を繰り返した。容姿は現在地球上に残る牛とほぼ同じ。
『人類の祖先は宇宙人である』
(ミン・スギヤマ)(第一企画出版社)(1993年)
<日本の超古代文明を証明する文書>
・『竹内文書』では、天神七代の宇宙創世紀に続き、上古第一代天皇が「神定」によって天日国という名の星(プレアデス星団)から、太陽系第三惑星である地球(天元根国)に、空飛ぶ円盤を思わせる乗り物(天の浮船)に乗って降臨し、地球に文明をもたらす。日本人の祖先はこの神の後裔であるという。
・『九鬼文書』でも、地球開発委員長格のアメノミナカヌシが地球に降臨し、私たち日本人は800万の神々の子孫ということになっている。『宮下文書』は、やはり天降った神々が地球の四大地域の開発神(文化英雄)となり、日本人の祖先は、そのうちの阿間都国に定住した神々のその子孫と記している。『秀真伝』でも、クニトコタチノカミが8人の御子を地球に天降らせ(八方降神)、地球の八大地域をそれぞれ開発した。人類はそれらの神々の子孫である・・・・と記している。
『人類の祖先は宇宙人である』
(ミン・スギヤマ)(第一企画出版社)(1993年)
<サイ粒子の科学的探究が必要>
<水がめ座人>
・出身星座、水がめ座。琴座にルーツを持つ。容貌はレティクル座人を大型にして太らせた感じ。惑星連合政府設立当初は運輸行政に影響力を持ったが後に失脚。
<白鳥座人>
・出身星座、白鳥座。約1万年前にレティクル座人の影響下に入ったが、後に反乱を起こした。「ラージ・ノーズ・グレイ」のリゲリアン(オリオン座人)とは盟友関係。
<琴座人>
・出身星座、琴座のリラ星。
牡牛座のプレアデス星団にいたが、9000年前に移住。高度文明を築きレティクル座政府から多くの留学生を受け入れた。科学者を多く輩出し、少数種族ながら惑星連合政府の技術部門を握る。容姿は平均身長2メートルほど。金髪で白人に近い。スイスのビルー・マイヤーが出会った宇宙人たちは、この種の宇宙人種と思われる。
・その他かに座人、射て座人、さそり座人の存在も確認されているようである。また、出身母星を竜座のアルファ星とする竜座人(ドラコニアン)、そしてその一派のレプトイドというエイリアンの存在も考えられており、身長2.1~2.4メートル、爬虫類型の宇宙人で体全体が鱗で覆われているという。
とにかく、様々な進化(?)の過程を経てきたと考えられる動物型宇宙人は数多く存在すると言われている。
<「気」の大規模な実用化こそ人類存続の決め手>
・現在、「気」(サイ粒子やプラナと同じだが簡単に「気」と使っていきたい)は、地球上に限らず全宇宙のあらゆる空間を無限に満たして存在するもので、その大きさは原子よりも素粒子よりもさらに小さいもので、簡単に原子間を通り抜けることができ、およそ10のマイナス20乗センチメートル以下と考えられている。そのため、当然、現代の最高の技術を使ってでもそれを摘出することはできない(もちろん、その「気」もさらに小さな粒子により複雑に構成されているのであるが・・・)。
・人体に限らず、我々の身の回りにあるほとんどの物質はやはり隙間だらけであることを考えると「気のような微小な粒子はほとんど邪魔されず簡単に様々なものの中に入り込むことができ、地球の裏側であろうと、瞬時に超能力が伝わることや霊に取り付かれるなどという現象の一部は理解できそうである。例えば、「気という粒子自体が高速に近い速度或いはそれ以上で移動できるのか、波動として伝えることができるのかなどは分からないが」。
『地球外起源のUFOはこうして隠蔽されている!』
(ミン・スギヤマ)(徳間書店) 1995/10
(衝撃!!宇宙人死体解剖フィルム公開がつきつける驚異の現実!!)
<UFO飛来の理由>
・「基本的にヒューマノイド型宇宙人は、個人レベルで人類とコンタクトを行なっているというが、報告件数が少ないため、多くのUFO研究者にとっての関心は大規模な活動を繰り広げているグレイ種に絞られている。
・地球人が直接グレイ種といわれる宇宙人と関係を持つようになったのは、ニューメキシコ州ロズウェルで1947年7月にUFO墜落、生きているグレイ種の宇宙人が回収されたことに始まる。その後1952年のワシントンDC事件などを経て、米空軍は秘密裏にグレイ種の宇宙人と何らかのコミュニケーションをとるにいたったと考えられている。
・UFO研究家の間で取りだたされた『MJ12』文書によると、その数年後に宇宙人との間に初歩的なコミュニケーションが可能となったとされ、米政府とグレイ種との間に次のきわめて重要な密約が交わされたと考えられている。
・エイリアンは米国に関わる問題に一切関知しない。
・米政府はエイリアンたちの行動に干渉しない。
・米国以外のいかなる国とも協定を結ばない。
・米政府はエイリアンの存在を秘密にする。
・エイリアンから技術援助を受ける代わりに牛や人体実験も許可する。こうした情報がもし本当ならグレイと言われるエイリアンが頻繁にアメリカに現れる理由やキャトル・ミューテーションやアブダクション、さらにはUFO情報の隠蔽工作などの謎がすんなりと氷解する。
『越後の民話 第二集』 日本の民話70
水澤謙一 編 未来社 2017/3/21
<昔話を追って>
・「越後の民話」が刊行されたのは、昭和32年。あれから、すでに20年が過ぎて、その第2集(昭和53年8月)がでることになりました。この20年間、越後の昔話に徹して、上中下越地方の村や町に、昔話を追いつづけてきました。
・あったとさ。
ある山に、大きなほら穴があった。そのほら穴の前に、いっつも牛をつれてきて、仕事している男がいた。
ある日、男はまた、ほら穴の前に仕事にきて、一休みしているうちに、眠ってしもた。目をさまして見たら、牛が、何万何千という、たくさんのアリに、ほら穴のなかへひっぱりこまれるところだった。男はたまげて、「おっ、おれの牛、どこへひっぱっていぐ」と、牛のたづなをひっぱるども、とても自分の力では、ひっぱり返すことができん。そして、ひきずられて、ほら穴のなかへはいってしもた。なかは広い野になっていて、畑が、見渡すかぎりつづいていた。一人の男がいて、
「お前の牛だかい。どうか、この畑を打ってもらいたい。ちっとばか、牛をかしてくれ」というので、「ああ、なじょも、使ってくれ」というて、牛をかしてやった。きれいに、畑打ちがすむと、ほら穴の男は喜んで、
「牛をかりたお礼に、このかねをやろう。かねのほしいときは、いつでもきてくれ。ただ、人にはけっしてこのことをいうな」というて、かねをくれた。それから、男は、かねがなくなると、ほら穴へもらいにいった。ある日、ほら穴のことを、つい、友だちに話してしもた。そして、二人で、ほら穴へいって見たれば、口がしっかりととじられて、もう、ほら穴のなかへはいることができなかった。
下条登美(62)昭和42
<かくれ里(2) 【北蒲原郡豊蒲町切梅】>
・あったとさ。
ある村に、たいそう働きものの男がいた。いっつも朝早くから、馬にくわせる朝草を、馬をつれて、山へかりにいった。
ある朝げ、山でサクサク草かっていたれば、ツルクサのところから、白いひげのじいさんが出てきた。
「お前、頼む。その馬をつかって、おらの畑も、田も打ってくったせや」「あ、こっちだてば」というて、戸のようにかぶさっていたツルクサをとると、なかは大きなほら穴だった。穴のなかには、畑と田が、見渡すかぎりつづいていた。田はひろびろとして、畑には、モモやブドウの木が、たくさん植えてあった。おじは、「おらも、こぅけなどこに、住んだらよかろうな」と思っていた。白いひげのじいさんは、
「こやしをいれて、田と畑を、よう打ってくれや。」
「はあ、そうだかねす。」
そして、こやしのあるところへいったら、刈ったほし草が、たくさんあった。男は、穴のなかの田打ちと畑打ちをして、
「じじさ、じじさ、おれば、ここのむこにしてくったせや」
「お前さえ、その気だば、なじょも、そうしてくれや。じつは、おなごももろてあるすかに、それを嫁にして、住んでくれ」
といわれ、おじは、その穴のなかの、かくれ里で、一生あんらくにくらした。村の人たちは、男が行方知らずになって、
「あの男は、あんまり働きもんで、馬といっしょに、神様に召しあげられた」と、うわさしていたそうだ。
波多野ヨスミ(58)、昭和44
<風の神と子ども 【小千谷市朝日】>
・あったとさ。
秋の日、山の村の子どもが3、4人、お宮で遊んでいた。そこへ、よその男が、フラリときて、「お前たち、ねら、食うもんが、いっぺあるどこへいぎたくねえか。ねらに。うまいもんを、いっぱい食わしてやるがな。」
「ほんねかい、おら、いぎたいな。」
「ほうせば、おらが、つれてってやらや。」
その男は、尻から、しっぽのような長いもんを、ズーと出して、
「さあ、ねら、これにまたがれ。それ、いぐど」
というて、ゴーッと、ひと風吹かせて、空へまいあがった。しばらくすると、クリやナシやカキの、いっぱいあるとこへ、おろしてくれた。また、ゴーッと、ひと風吹かせて、クリやナシやカキの実を、バタバタと、おとしてくれた。子どもたちは大喜びで、腹いっぱいたべて、遊んでいた。
夕方になると、その男は、
「ねら、ねら、おれ、忘れていたや。おら、これから、よそへいがんばならないから」
というて、まだ、ゴーッと、風にのって、どこかへいってしまった。子どもたちは、
「あっ、これはたいへんだ。村へかえりたくても、かえらんね」
と、泣いていた。もう、山は暗くなって、むこうに、あかりが、ピカンピカンと見えた。そこへいったれば、一けんのうちがあって、バタバタした、大きいばあさんが、火をたいていたって。
「ねら、どっからきたや。」
「おら、よその男の人から、長いしっぽのようなもんにのせられて、風にのって、ここへきた。クリやナシやカキを、たくさん、ごちそうになったども、その男の人が、どっかへいってしもて、おら、うちへかえらんねえ。」
「そうか、その男は、おらどこの、きかんぼうの弟の南風で、ほんね、気まぐれの子だ。おらは、風の神の親どんだ。兄の北風というのに、ねらを送らせるすけ、しんぱいするな。」
そして、子どもたちに、白いマンマとトウフ汁をしてくれた。こんど、そのばあさんが、「あんにゃ、起きれ、起きれ」
と、北風を起こした。そして、子どもたちは、北風の長いしっぽにのって、ゴーッと、風にのって、村へかえってきた。村では夜になっても、子どもたちが、かえってこないので、大さわぎして、そこらをさがしていたとこだって。
平沢キヨ(76)、昭和50
『若狭・越前の民話 第二集』 日本の民話73
<地底の国 【敦賀市】 >
・敦賀市の横浜に岡崎山という山がある。この山が海に面したところは、高いがけになっていて、その下に岩穴がある。ここにはじゃ(蛇)がいるといって、だれも近寄る者がない。
むかし、八蔵(はちぞう)というさむらいがいたと。ウという鳥を捕らえようと思って、この岩穴の上のがけを、つたい歩きしていると、あやまって、さしている刀を落としてしまった。刀は海の水の中をひらひらとただよいながら、この岩穴の中へ流れこんでしまった。
八蔵は、刀を失うのをおしく思って、海を泳いで、岩穴の中へはいった。穴の口は小船がやっとはいるほどの大きさである。曲がりくねった水路を泳いでゆくと、やがて広い所へ出た。海の深さは人のたけぐらいで、底には玉をしいたように石が一面にならんでいる。
さらに進むと、穴が狭くなり、明かりもない。牛の毛がはえたような岩があり、ふく風も生ぐさい。そこを通りすぎると、水がなくなった。人が身をかがめてくぐれるほどの小さな穴があるので、その中へはいっていった。
このようにして、暗やみの中を三日三晩ばかり歩いたら、向こうの方に少し明かりが見える。その明かりを目あてに行くと、夜が明けたように明かるくなり、広々とした国へ出た。家もあり、人もいる。けれども人の姿は鬼のようにおそろしい。
八蔵は、「さては、地獄へ来たのか」と思うた。
それでも、どんどん進むと、広場があり、宮殿が建っている。「ここは国の役所やろう」と考え、中へはいった。
正面の上座に大将らしい人がすわっており、左右に随身がふたりいて、そのほか多数の役人らしい人が列座している。大将らしい人は浄衣(白い狩衣、神主さんの着ているような着物)を着、立えぼし(かんむり)をかぶっている。
大将は八蔵を見て、「ここは人間の来る所ではない」といってしかり、家来の者に、「この男をすぐとらえて、ろう屋に入れよ」と命じた。
八蔵は、「ちょっと待ってください。わたしがここに来たのは、刀をさがしに来たのです。先祖から持ち伝わったたいせつな刀が海に落ちて、この岩穴にすいとられたから、それを取りもどしに来たのです。刀さえ返していただければ、すぐ出ていきます」と弁明した。
それでも大将はききいれず、八蔵をなわでしばりあげた。八蔵は、
「こうなっては、日ごろ信仰している観音さまにおすがりするよりほかはない」と考え、普門品を声高らかに読み上げた。
すると大将をはじめ、一座の人は、急に姿勢を正し、上座からおりて、八蔵のなわをとき、「観音信者とは知らず、失礼しました」といって八蔵に敬礼をした。失った刀もどこからか持って来て、八蔵の前に置いた。
八蔵は、刀をもらって、宮殿を出たけれど、帰り道がわからない。
「どうしよう」と思いながら、あちこち歩いていると、奥の方からかすかに鐘の声が聞こえる。それをたよりに走って行くと、大きな野原に出た。右左に道があったけれど、ただ鐘のひびきをしるべに、まっすぐ走っていった。あまり走ったせいで息が切れた。ちょうど小さい池があるので、水を手でくみあげて、息をついた。しばらく休んで、あたりを見回すと、山の姿や川の流れが、まぎれもなく、自分の国の杉津浦のお寺のほとりである。
「やれやれ、仏のおかげで助かった」と、むねをなでおろした。八蔵は後に、岡崎山のふもとに神社を建て、その刀を神さまとして祭った。
<百本の五徳 【敦賀市】>
・敦賀市の奥麻生の入り口に、おとめの滝というたきがある。むかし、このたきの淵にじゃが住んでいたと。
そのころ、この村にかじ屋があったかじ屋のむすめは美しいので近所に知られていた。おとめの滝のじゃは、このむすめにほれこんだ。
それでじゃは、若者に化けて、毎晩かじ屋をおとずれ、「むすめさんを、ぜひわたしのよめにくれ」とたのむやと。
かじ屋が、若者を注意して見るに、この若者は、ともし火で照らされても、かげがうつらない。かじ屋は、「さては人間でないな」と気づいたのやと。「相手がじゃでは、へたな断り方もできない」と思って、断る口実を考えたすえ、ある晩、
「そんなにいうなら、むすめをやってもよい。だけでわしの家は代々かじ屋や。かじの腕ききでないと、わしんとこのむすこにはできん。おまえがむこになりたいなら、一夜のうちに百本の五徳(火ばちの中にいれ、鉄びんなどをかけるもの)を打ってみい。一本でも足りなければ、だめや」と、若者にいうたのやと。
若者は、「そんなことなら、わけはない」といって、すぐ仕事場におり、五徳を打ち始めた。トンテンカツ、トンテンカンと打って、九十九本になってしまった。
かじ屋はおどろいて、鶏小屋へ走った。にわとりは、かじ屋が手にしていた明かりを見て、夜が明けたのかと思い、一声高く一番どり鳴いた。
若者は、「あと一本というのに」とくやしがったが、そのまま姿を消して、二度と来なかったと。
<竜宮城の入り口 【大野郡】>
・和泉村に穴馬というほら穴がある。今は白馬洞と称して、観光地になり、人が中へはいって見物しているが、むかしは、おそろしくて、中へはいる人はだれもなかった。穴馬というのは、大むかし、この穴から馬が出て空を飛び、またこの穴にもどって来たので、この名がある。
あるとき、七左衛門という人が、この穴の奥がどれだけ深いか調べようと思って、たいまつや弁当を用意して中へはいった。穴の入り口は、人が腹ばいになって、ようやくはいれるほどの大きさである。入り口の所に、むかし馬がとび出したときの足あとがある。
中へはいると、穴は少し広くなっている。道はしだいに下り坂になっていて、とちゅうにいくつも横穴がある。馬の頭の形をした岩や、つりがね形の岩もある。やがてさいの川原という所へ来る。ここは石ころがゴロゴロ転がっている。次に白堂という所がある。ここは両側のかべも天じょうもまっ白である。
・われ目の向かい側にも、また穴が見える。七左衛門は、容易してきた板をかけて橋にし、向かい側に渡って、穴の奥へ進んでいった。
むかしは時計がないので、暗やみの中では時間がわからない。およそ7日間ぐらい歩いたら、急に広い所へ出た。どこからか光がくるのか、少し明るい。
見ると、大きな川が流れており、川の向こうで女の人が洗たくをしている。女の人は、七左衛門を見つけると、「そこの男の人、この川を渡ってはなりませんぞ」という。七左衛門は、「ここは、どういう所でしょうか」とたずねた。女の人は、
「ここは竜宮城の入り口です。人間の来る所ではありません。もしこの川をこせば、二度と人間界へもどることは、かないません。早くもとの道を引き返しなさい」という。七左衛門は、
「それでは帰りますが、竜宮城の入り口まで来たという証この品を、何かください」とたのんだ。女の人は、川原の石を一つ拾って、
「この穴の出口に小さな谷があることは知っているでしょう。その谷の水にこの石をつけて、飲んでみればわかります」といって、その石を投げてくれた。
七左衛門は、石をもらって、また7日間歩き、穴の外へ出た。穴の出口にある谷川にその石ころをつけ、水を飲んでみると、塩からい。いまでもそこに塩水の谷がある。この谷の水は、味が悪くて、他の水と異なる。