日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!

夢幻能におけるシテは、神や鬼、精霊など異界の者を演じる。そして我々と同じこの世の住人であるワキが、異界の住人と出会って異界に足を踏み入れ、やがて戻ってくるというのがストーリーの基本。(10)

 

『図解雑学 日本の妖怪』

小松和彦    ナツメ社   2009/7/17

 

  

 

<山奥に潜む異世界 隠れ里と神隠し>

・隠れ里、神隠しは、この世ではない「異界」にまつわる概念である。

 

<山奥や風穴の向こう側にある異界>

・隠れ里は、山奥や塚穴の奥深くなどにあるという理想郷であり、迷い家とも呼ばれる。隠れ里に迷い込んだ者は、美しい景色や美味しい食物を堪能できるが、一度そこを去ると二度と戻れない。しかし、隠れ里で得た椀を持ち帰ると、穀物が湧き出て尽きることがなく、豊かな生活を送れるという。

 風穴や竜宮淵といった場所を通して椀を借りる伝承(椀貸伝説)も、直接隠れ里には迷い込まないものの、風穴等の向こう側に異界の存在を想定していることは明らかである。

 

<隠れ里と神隠しの共通点>

・突然の失踪者があって理由もわからない場合、それはときに「神隠し」と呼ばれた。神隠しには、本人が戻ってくる場合と戻ってこない場合がある。本人が戻ってきた場合にも、失踪中のことを忘却していたり、一部しか覚えていなかったりすることがほとんどである。神隠しに遭う者の多くが子どもである点も、注目すべき点である。神隠しによる失踪期間中は山中の異界を彷徨っていたと考えられており、その原因として最も多く語られたのが、天狗による誘拐であった。心神喪失状態での発見や、場合によっては死体での発見もあることから、神隠しは人々に恐れられる現象であった。

 

・隠れ里と神隠しには、異郷訪問譚という共通点がある。隠れ里における異界がプラスのイメージをもっているのに対し、神隠しにおける異界は、死に関わるマイナスのイメージを負っているといえよう。しかし一方で、神隠しを通しての異界への訪問は、子どもたちにとって多少のあこがれを伴うものであった。

 

山男・山姥(やまんば) 「山人」と柳田國男

・山男や山姥を「山人」と称した柳田國男。その実在を強調する論を手放したとき、その関心は「山そのもの」へと向かっていった。

 

<山男・山姥とは?>

・「山人」と書いてまず思いだされるのは柳田國男の『遠野物語』である。遠野出身の佐々木喜善という青年の話をもとにして、1910(明治43)年に成ったこの著作は、「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という印象的な序文から始まる。事実、『遠野物語』には「山人」と「平地人」とが交流する話が数多く収められている。

 

・柳田にとって「山」とは中世、さらには古代の習俗がいまだに息づく空間であった。そして彼は「山人」と「平地人」に「山民」を加え、平地人は日本人の祖先とされる渡来人で、平地に定住し稲作を生業とする人々、山人は渡来人に敗れ山へ逐われた先住異民族の子孫であり、山中を漂泊している者、山民は山人を逐って山に入ったのち定住し、狩猟や焼畑を生業として生活する子孫であるとする。

 

・さらに、柳田は明治後期から大正期の山に関する論考の中で、山男・山女・山童・山姫・山丈・山姥の総称として「山人」の語を用いているが、自らの生きる現在にも山人は実在しているという考えのもとで論を展開している。しかし、この実在証明への熱気は、積極的に資料を提供してくれていた南方熊楠からの批判によって収束していく。南方は山への信仰や伝承に関心をもってはいたが、山人の実在は信じていなかった。

 

<山姥の正体とは?>

・数々の昔話に登場する山姥。その正体は人を食べる鬼女なのか、それとも豊穣の山神なのか。

 

<山に住む女性、山姥の正体>

・山姥は山母、山姫、山女郎などと呼ばれる山に住む女性である。私たちが想像する姿は、大きな口に目を爛々と輝かせ、長い髪を振り乱した老婆ではないだろうか。実際に各地で伝承された目撃談として語られたりする姿は老婆であったり美しい女性であったりする。

 

 昔話には山姥が登場するものが多いが、そこでは、自分のところに迷い込んできた者をとって食べようとする鬼女の姿をみせる反面、自分を手助けした者には財産を与えるといった、豊穣をもたらす山の神の姿もみせている。

 

・山姥について柳田國男は、山の神への信仰と自ら山に入った女性たちが実際にいたことにその実在性を見出した。折口信夫は、自身の「まれびと」論につなげて、決まった時季に神の祝福をもって里を訪れる山の神の巫女の姿を見出した。そして、それらを受けて従来の民俗学では、山の神が零落して妖怪化したものが山姥であるとみなしてきた。しかし、たとえば新潟県糸魚川市上路では、山姥は都から旅をしてきた高貴な女性で自分たちの祖先に幸いをもたらした実在の人物であるとして、親しみを込めて「山姥さん」と呼び祀っているなど、山姥には多様な伝承があり、その伝承を伝える人々にもさまざまな認識や意味づけがある。

 

<山姥と金太郎>

・金太郎の母親としての山姥。山中で生活する山姥だが、まったくの独り身だったわけではない。山姥の息子として有名なのが金太郎、つまり坂田金時である。

 

・中世後期から山姥は文芸作品に登場するが、たとえば世阿弥作の謡曲『山姥』では、越中越後境の山中で旅人を待ち受ける嫗として描かれている。そしてその後、近世初期に「金時は山姥の子である」という文言が登場し、『前太平記』には嫗姿の山姥が、自分が夢中で赤竜と通じて生まれたのが金太郎であると説明する件が入る。そもそも坂田金時源頼光の四天王の一人として大江山の鬼・酒呑童子を退治するなど、武勇で名を馳せた伝説の人物である。英雄と異常出生と特殊な生い立ちを語る際に、母に選ばれたのが山姥だったのである。

 

 

 

『UFOと月のミステリー』

月面に存在する異星人の基地と女神からのメッセージ

中丸薫  Gakken 2011/6/8

 

 

 

<地底世界とは?>

・私が京都の鞍馬寺を訪れたときには、「サナート・クマラ」と名乗るシャンバラの王がテレパシーで交信してきた。このシャンバラもまた地球内部の空洞世界にある聖なる都市とされているから、サナート・クマラも地底世界の住人ということになる。

 

・ちなみに、地球の北極と南極にはそれぞれ真直ぐな穴があって、そこは地底世界から地球にやってくるUFOの出入口になっている。

 

・私にメッセージを送ってきた高僧アダマさんが住むテロスも、そんな地底世界の都市のひとつなのだ。彼によれば、そこには現在でも150万人以上の人々が、永遠の平和と繁栄のもとに暮らしているという。

 

・彼らは、12人のアセンディッド・マスターからなるカウンシル(評議会)で、そのひとりである高僧アダマによって平和に統治されている。

 

・驚いたことに、彼らのルーツを辿ると、あの失われたレムリア大陸のコロニーのひとつにつながっているらしい。

 

・ちなみに、テロスのような光の地底都市は地球各地の地下に2500以上もあり、それぞれが「アガルタ・ネットワーク」と呼ばれる光のネットワークで統合されている。

 

・ただし、テロスの位置は地表からおよそ1.6キロの地中だから地底都市といっても比較的浅い(もちろん、それでも十分に深いが)。その意味では地底都市ではあるが、厳密には空洞世界ではない。

 では地球には空洞都市はあるのか。

もちろんある。それが、サナート・クマラが住むシャンバラである。

 

・シャンバラは地球のまさに中央に位置するだけに地底都市のなかでも最大の勢力を持っている。この空洞地球シャンバラで彼らの霊的レベルは、私たち地上の人間よりも格段に進化しているという。なぜなら、彼らは、テロスのようなもともと地表から地底へ逃れた人々と違って、別の惑星系から地球へやってきた人々だからである。しかも移住の初期段階からすでに地下に入ってしまったので、これまで一度も地表で暮らしたことはないのだという。

 

・地底都市間で物理的に移動を行う際には、電磁力を利用した列車が利用される。そして、空洞地球のシャンバラと主要な地底都市との間も、同じ移動システムでつなげられている。

 これは「チューブ」と呼ばれるもので、その交通網はほぼ地球全体におよんで地下に張りめぐらされているという。

 

・チューブはあくまで地球内部の移動交通システムにすぎず、空間を移動するときにはまた別の道具を利用する。それがUFOなのである。当然、それは地球製のUFOということになるわけだ。

 

 この地球製UFOは「シルバー・フリート(銀艦隊)」と呼ばれ、空洞地球世界の都市アガルタで製造されている。

 

<空洞地球と地中世界>

・地底世界といっても、実際には地中世界と空洞地球のふたつが存在するということだ。

 

 

 

『神仙道の本』 秘教玄学と幽冥界への参入

 学研マーケティング   2007/3

 

 

 

<『図説・仙境異聞』 仙道寅吉の物語>

神仙界を探訪した少年の実録

・幽冥界探求にただならぬ情熱を抱く平田篤胤が、神隠しに遭って江戸に舞い戻ってきた少年・寅吉と、ついに運命的な出逢いを果たす――。

 

 篤胤は、寅吉の口から語られる異界見聞譚を巧みに聞き出し、克明に記し、精緻に図像化した。かくして、幽世の民俗誌ともいうべき前代未聞の遺産が残されたのである。

 

 <天狗小僧、異界より現る> 

・『仙境異聞』全7巻には寅吉という異能者の言行が詳細に記録されている。”異界もの”という、いわば眉唾物のジャンルでありながら、この記録にはただごとではない圧倒的なリアリティがある。篤胤の方法論は、頑固までの実証主義だった。曖昧で情緒的な記述は、配され。徹底した聞き取りによって事実として納得できた事柄だけが記されていったのである。

 

・文政3年(1820)晩秋、江戸に神仙界と人間界とを往還するという少年が現れた。名を高山嘉津間、通称を仙童寅吉という。

 

 <寅吉、神仙の世界を語る>

・寅吉は、神仙界についてこう語った。7歳のころ、上野池の端の五条天神前で遊んでいると、薬売りの翁が目にとまった。その翁は毎日そこで丸薬を売っていたが、店じまいときは決まって、敷物、薬、葛籠などをわずか3、4寸の壺にしまいこんでいる。そして最後は自分も片足からスッとその壺に吸い込まれると、壺ごとどこかに飛び去っていくのだ。寅吉は、この謎の翁といっしょに来ないかと誘われた。卜筮を教えてやるというのだ。そして、この翁について自身も壺中に消える。これがすべてのはじまりだった。

 

・寅吉が訪れたのは、常陸国加波山と吾国山に挟まれた難台丈という行場である。翁は、岩間山の神仙で杉山僧正といい、13の眷属をたばねる天狗の首領だった。この眷属は、人の形をした者はただ一人で、ほかは獣のような姿だ。翁も人間界での仮の姿で、本来は40歳くらいの壮健な山人だった。山人とは仙人のことで、もとは人間だったが修行により天狗に昇華した者をいうらしい。

 

・寅吉はそれから修練を重ね、現界と往還しながら8年の間、仙境の異界に遊んだ。その間、師である杉山僧正とともに、神仙界はもとより世界中、月世界までも遊覧したという。普通に聞けば荒唐無稽というほかない。が、篤胤はこれを信じた。ときに寅吉は神仙界へ戻ることがあったが、このとき篤胤は、竈情僧正にあてた書簡を寅吉にことづけてさえいる。

 

 <寅吉の消息、ふっつり途切れる>

・問うて云わく――『仙境異聞』はほぼ全編、篤胤らの問いに対する寅吉の回答を採録したものだ。

  ときに寅吉は篤胤所持の石笛を見て、神仙界でも見たことのないりっぱな霊物だと判じたりしているが、多くは、神仙界のありよう、山人の服装や料理、遊興などの日常生活、神祀りの方法や祭儀などについて語っている。山人であっても尊い神の姿をはっきりと見ることができない等々。神霊や妖魔の実相を漏らしているところも興味深い。

 

・住人がごく限られた人数の霊的な求道者たちであることや、細部の若干の差異をのぞけば、神仙界はどこにでもある山間の村落のような趣である。だが、ひとつ大きな違いがある。この異界には女性がいないのだ。詳細を伝えることはできないが、寅吉によればそれには深淵な意味が隠されているという。

 

・だが、寅吉に関する膨大な記述は、文政11年8月9日の「気吹舎日記」を最後にふっつりと途切れる。この消息を追ったのが近代の心霊研究家・浅野和三郎で、さらに門下の河目妻蔵によって追跡調査がなされ、大正14年の「心霊と人生」誌になんと寅吉の晩年の姿が報告されたのだ。それによると――。

 

 <秘薬の処方を遺し仙去す―――>

・寅吉はその後、千葉県笹河村の諏訪神社神職となり、俗名石井嘉津間として天狗直伝の病気治しを行っていたという。これが大評判で、遠方からの訪問者がひきもきらなかったらしい。そして53歳のとき、奉公の女中“しほ”との間に男児が誕生。河目は、その実子・嘉津平(当時70歳)と孫の二世嘉津間(当時46歳)に取材したのである。

 

・晩年、寅吉は「僧正からの急のお召だ」と言い、惜別の宴を催した。そして日光山を伏し拝みつつ、安政6年(1859)12月12日、眠るように仙去したという。その際、神授秘伝の薬の処方箋とともに薬湯をはじめよとの遺言があり、子孫は銚子で二神湯(通称天狗湯)をはじめた。皮膚病や火傷、冷え性に薬効があり、湯は大いに流行って昭和30年ころまで存続していたとのことである。

 

 

 

『座敷わらしを見た人びと』

高橋貞子     岩田書院      2003/6

 

  

 

<愛らしいザシキワラシ>

・おじいいさんが、真夜中にふと目を覚ますと、なんと、愛らしいザシキワラシが立っていて、寝ていたおじいさんの顔を、くるりと撫でました。おじいさんは、「現れたザシキワラシは、追い払うものではない」と知っていましたから、ザシキワラシのなすに任せて、じっとしていました。

 おじいさんは目を開けて、ザシキワラシの着物の模様や、身丈などを観察しました。ザシキワラシは男の子で、3、4歳に見え、縞模様の着物を膝あたりまで短く着ていました。脛はやせていました。髪は、てっぺんで束ねて、あとは垂らしていました。ザシキワラシは、そのあとも、くるり、おじいさんの頭を撫でると消えました。

 

・ところが、おじいさんがとろとろと眠ろうとすると、また、ザシキワラシが現れて枕もとに立ち、おじいさんの頭をくるりと撫でるのでした。これを何度もくり返すので、おじいさんは、とうとう朝をむかえるまで熟睡することができません。

 

・朝になると、おじいさんは、「昨夜は、ザシキワラシに攻めまくられた。ザシキワラシは男の子で、髪はカッパコ頭(カッパの頭)のようだった。縞模様の着物を短く着ていて、膝の下のやせた脛がはっきり見えた」と、御舞家の人びとに告げました。

 

<旧安家役場のザシキワラシ>

・役場の職員が宿泊したとき、奥座敷からザシキワラシは現れませんでした。ところが、たまたま奥座敷に泊まったお役人たちの間から、ザシキワラシを見たとの騒ぎがあって、次第に噂が広がりました。

 

・不思議に思った孫吉おじいさんは、泊まるのをためらっていたお役人を見て、「ようごわす。おれがいっしょに泊まりぁんすべぇ」と申し出て、二人は奥座敷に枕を並べて寝ました。

 夜がしんしんと更けても、なかなか寝つかれなかった二人は、やがて外厠を使いに戸外に出ました。地面には、乾き切った大きな枯葉が、空っ風に吹き寄せられていて、歩くと、足もとでがさがさと鳴りました。晩秋のころだったろうといいます。

 

・そのうちに、二人はぐっすり眠りこんでいました。ところが、丑の刻(午前1時~3時)に、二人は突然に金縛りに遭って目が覚めました。体が硬直して、苦しくてたまりません。

 

 目を開けてみると、なんと、5、6歳に見えるザシキワラシが、自分たちの掛け布団に上がって、体を押し付けていたのです。しかも、二人の掛け布団の上を交互に飛び跳ねながら、二人を金縛りにしていました。

 

<花いちもんめとザシキワラシ>

・むかし、舘家の座敷に集まった女の子たちが、「花いちもんめ」を遊んでいました。はじめ、4人ずつに別れて向かい合い、8人だったのが、おわりになると9人でした。偶数で遊びはじめたのに、おわりは奇数になっている。ときどきそんなことがありました。それがとても不思議だったのです。

 

 勝った組は、勝ってうれしい花いちもんめ

 負けた組は、負けてくやしい花いちもんめ

 

と歌いながら、どう数えても一人多いので、「やっぱりザシキワラシがいる」と思うのでした。

 だが、見回してみても、だれも知らない顔はなく、みんな覚えた顔ばかりで、それでも一人多いのがザシキワラシだったということです。

 

<姿を見せないザシキワラシ>

・下有芸大屋家は、裏に馬屋が別棟に建っていて、昔は馬をたくさん飼っていました。屋敷は曲がり家で、ふだんは使わない奥座敷がありました。奥座敷には、ザシキワラシが棲みついているということでした。下有芸大屋家のザシキワラシは、真夜中に出てきて、だれもいない奥座敷を、トチトチ、トチトチと、小さな足音をたてて歩き廻っていたそうです。

 

<四つ身裁ちの着物を着たザシキワラシ>

・むかし、小北川屋敷の奥座敷では、日中のだれもいない静かな部屋に、男の子のザシキワラシが現れて、一人遊びをしていることがありました。いつも一人で現れて、とび跳ねるようにして遊んでいました。

 

 ザシキワラシが、二人以上連れ立って現れたことは、まったくありませんでした。小北川家の人びとは、ザシキワラシに気付いても、いつもそっとしておきました。すると、いつとはなしにいなくなるのでした。

 

<水車小屋のザシキワラシ>

・50年ほど前まで、尼額大沢集落の春吉さんの家の傍に、水車小屋がありました。水車は、ヒエやアワを脱穀するときや、ムギやキミ(キビ)を粉にするときに、村人たちが共同で昔から使用していました。

 

 おばあさんから聞いた話ですが、昔、水車の仕事にいくと、ザシキワラシが現れ、一人遊びをしていることがありました。顔の赤い3、4歳ぐらいの女の子で、いつも赤い半被を着ていたといいます。そのうえ、手の指の一本と、足の指の一本を赤い布端で結わえていたので、村人たちは、足の指も6本あるらしいと噂をしたといいます。

 

<女の子のザシキワラシ>

・平成9年6月5日に、岩泉街袰綿のある方(昭和3年生)に伺った話です。

 むかし、村木家の門前を通る人は、大人も子どもも頭を下げて通りました。一時は、学校の先生も、頭を下げて通るよう生徒指導をした時代がありました。

 村木家は武家屋敷づくりで、隠れ座敷もあり、ぴかぴかに拭きあげた回り廊下、どっしりと風格のある中庭、使用人も大勢おりました。

 

 ある人が、村木家に泊めてもらいました。真夜中に、ふと目を覚ますと、女の子のザシキワラシがごちゃごちゃと出て、大勢で遊んでいました。

 ザシキワラシは、しばらく遊ぶと、ふっといなくなりました。

 

ちゃんちゃんこを着たザシキワラシ>

・岩泉村木の佐藤レン子さん(大正13年生)に、村木家から嫁いだ丸石家の婆つぁんから聞いたという話を伺いました。平成9年1月16日のことです。

 むかし、村木家の回り廊下を、ときどき女の子のザシキワラシが通りました。足音は聞こえないのですが、ザシキワラシの影が障子に映りました。

 

 ザシキワラシは、髪をオカッパ頭にして、ちゃんちゃんこを着ていました。障子に映るザシキワラシは、一人だったり、二人連れだったりしました。たまに、ごちゃごちゃと大勢が連れだって通ることもありました。

 

<岩泉尼額大沢の屋敷>

<カプケェ髪の子ども>

・あれは、たしか私が数え年7歳のときでした。大正5年ごろだったと思います。その日は朝から雪が降っていました。昼下がりだったと思います。私が何気なく次の間に入っていきますと、外に向いた障子が開いていました。

 私は、あっとおどろきました。なんと、障子の敷居の内側にザシキワラシが立っていて、外を見ているではありませんか。背丈からみて人間ならば3、4歳の子でした。

 

・黒っぽい着物を短く着て、足の脛が見えていました。帯を締めないカプケェの男の子でした。そのころ、カプケェ髪といえば、頭髪が伸びたまま、ぱさっと肩に下がっている子どもの髪をこう呼んだものですよ。

 

 あのときはほんとうにたまげました。

「ザシキワラシが出たがあ!」

私は震えながらおばあさんを呼びに引き返しました。

 

・おばあさんもたまげて、すぐさま私の手を引いて二人で、次の間を覗きました。しかし、ザシキワラシは消えていました。さらにおどろいたことに、たしかに開いていた障子が、何事もなかったようにぴたっと閉まっていたことでした。

 

 

 

『座敷わらしを見た人びと』

高橋貞子     岩田書院      2003/6

 

  

 

・今回の仕事に関し彼女は「はじまりは、昭和20年代半ばでしたが、おわりは平成14年5月を迎えていました」とし、その間「黒髪の若妻は、今や白髪の姥となって」と記している通り、これは生半の事ではなかった。

 

・それというのも、そもそも“河童”や“座敷わらし”は、通常私共にはこの世における「未確認動物」たちである。しかるに高橋さんにとってのそれは、ともども常日頃共生しているごく身近な存在であって、決してミステリー・アニマルではない。

 

・たとえば、ここに収められている「隅こワラシ」には、中舘家のニヤは、とくべつ広かったので、いつも子どもたちのよい遊び場になっていました。子どもたちが大勢集まって、遊びに夢中になっているとき、大人たちは、ふと、気付くのでした。いつの間にか、顔の色がやや赤い女の子が一人、混じっています。ニヤの隅から、「隅こわらし」が出て、今日も遊んでいるのです。

 

・今回のこの一冊は、ひょっとすると、“『遠野物語』以前の話”といった位置を示すかも知れない。

 

宮古の港町・鍬ヶ崎>

入り船を知らせたザシキワラシ

・「高島屋は、客の対応が早い。女たちがにこやかにむかえてくれて、お膳が素早く運ばれる」と、評判は評判を呼んで、高島屋は大繁盛でしたが、そのわけは、高島屋の二階に棲みついていた男の子のザシキワラシにありました。ザシキワラシは、入り船を知らせる合図を、前もって送ってくれていたのです。その合図は足音でした。

 ザシキワラシが、突然、二階の客間のタタミを、ドシドシドシ、ドシドシドシと、踏み鳴らして烈しく飛び跳ねると、階下の帳場に座っていた高島屋の主人は、

 

・「ほら、ほら、ザシキワラシが入り船を知らせているぞ。まもなく港に船が入るぞォー。みんな、大急ぎで二階の客間にお膳を並べろ」と、大声で指図をしました。

 さあ、女たちも浮き浮きとなって、お膳を運びます。すると、ザシキワラシが現れて、お膳のご馳走をつまんで食べてまわりました。少しの間、ザシキワラシは、食べるのに夢中になっていました。お膳とお膳の間を跳びはねながら、少しずつ、ご馳走をつまみました。

 

 そんなザシキワラシを、高島屋ではだれ一人として、とがめたり、叱ったり、追い払ったりせず、いつも、好きなようにさせていました。

・まもなく、船びとたちが、ぞろぞろと高島屋にやってきます。女たちは、揃って出むかえ、客を二階の客間に通しましたが、そのとき、ザシキワラシは、もう消えていました。

 

 二階に、ご馳走を並べたお膳が、早ばやと運ばれているのを見て、船びとたちは、口ぐちに、「高島屋のこの対応の早さ。女たちの愛敬のよさと接待振りが気に入った」と、大満足でした。

 

・入り船を知らせたザシキワラシの合図は、一度もはずれたことはありませんでした。高島屋の繁盛は、まさにザシキワラシのおかげでした。みんなは、「不思議だ。不思議だ。ザシキワラシには、なんの能力が備わっているのだろう」と、言い合ったといいます。

 

<カッパ頭のザシキワラシ>

・舘家のザシキワラシは、髪を下げたオカッパ頭の、長い袂袖の赤い着物を着た愛らしい女の子で、日中のだれもいない奥座敷に現れて、一人遊びをしていました。

 舘家の人びとは、ザシキワラシを見ても、そっとしておきましたので、ザシキワラシはひとしきり遊ぶと、いつとはなしに、ひっそりといなくなっていきました。

 

奥座敷には、よその人を泊めることがありましが、そんなとき、真夜中にザシキワラシが現れて、布団の周りをぐるぐる廻って遊んでいることもあったようです。でも、そっとしておくと、ザシキワラシは、いつとはなしにいなくなっていました。

 

 また、舘家にお客用の紅絹で仕立てた組み布団があり、この赤い布団に寝せてもらった人がザシキワラシを見たとも伝えています。

 

 ザシキワラシという物は、見ても追い払ったりせず、そっとして遊ばせておくものです。ザシキワラシは、その家に福を運んでくる縁起のよい物で、ザシキワラシのいる家は栄えるといいます。

 

<男の子のザシキワラシ>

・ユキさんは、名目利の千葉万太郎さんのところに嫁いでくるまで、五日市の村木家(当主・村木栄彦氏)で育ちました。村木家は、大きなりっぱな屋敷で、見事な中庭があり、中庭をかこむようにたくさんの部屋があったそうです。 

 

・昭和20年ごろのことです。ある日、ユキさんは、床の間の付いている部屋に寝せてもらいました。奥座敷ではありません。やがて、ぐっすり眠っていたのですが、真夜中にふと目が覚めました。

 

はっきり覚めたので、あたりを見回しました。

 なんと、ユキさんの枕のあたりに、男の子がきちんと座っているではありませんか。ザシキワラシだっ、とユキさんはおどろきました。絣模様の着物を着た3、4歳の愛らしい子だったといいます。

 

ザシキワラシが座っていた場所は、床の間の前でしたが、中央ではありません。横のほうでした。

 

・五日市の村木家には、ザシキワラシばなしがたくさん伝わっていましたから、ユキさんは、このときも、「話に聞いていたザシキワラシが、ここに今、出たんだ」と思ったそうです。

 ユキさんは、かねがね「ザシキワラシは福を運んでくる物」と、聞いていましたから、騒がずじっとしていると、やがて、ザシキワラシは消えて、いなくなりました。

 

ユキさんは、その夜からずーっと今まで、「あの夜、たしかにザシキワラシを見た」と、思いつづけているそうです。

 

<―不思議の国「いわいずみ」からー>

・この本は、岩手県下閉伊郡岩泉町の人びとが、ひそかに語り継いでいた「座敷わらしばなし」を聞き書きして、一冊にまとめたものです。

 

 もともと私自身の、「座敷わらしってなあに?」という素朴な探求心からはじまりました。上梓に当たっては、次の点に留意しました。

 

(1) 聞き書きの軸は、岩泉町とする。岩泉町民の伝承していた話を蒐集しました。したがって、この本の舞台は、岩泉町のほか、近隣の田野畑村普代村新里村宮古市葛巻町にわたりました。

 

(2) 座敷わらしの年齢は、当時のままですから、数え年になります。

 

(3) 座敷わらしの性別と、服装について、ことのほかていねいに、くわしく聴き取るよう努めました。

 

(4) 座敷わらしの歩く音の表現は、たとえば、トチトチ、トチトチとか、ミチカチ、ミチカチや、ポトポト、ポトポトなど、話者の伝えた通りを大切に扱いました。

 

(5) 座敷わらしは、その家に付随した話がほとんどです。したがって、一話ずつについて、それぞれご了解をいただいてあります。

 

(6) 岩泉地方の“座敷わらし”ばなしは、この本に収録した以外にもあります。

 

・岩泉地方には、座敷わらしのいた家は、旧屋敷がほとんどですが、50戸を越しましょう。座敷わらしを見た人は、現在3名(女性2名、男性1名)。座敷わらしの騒ぎを聞いた人は数名おられます。

 座敷わらしにはことばがなくて、人間との会話がありません。したがって、ドラマの展開がありません。灯りの少なかった昔、人びとは、何かを見たにちがいありません。いったい何を見たのでしょう。

 

・それは、きっと、きびしかった暮らしの哀歓をないまぜにして、人びとの心が豊穣であればこそ、世にもたらされた物ではなかったでしょうか。

 と、今は勝手な、ささやかな持論に支えられています。思えば、座敷わらしばなしの蒐集には、長い歳月がかかりました。はじまりは、昭和20年代半ばでしたが、おわりは平成14年5月を迎えていました。

 

 黒髪の若妻は、今や白髪の姥となって、ようやく上梓にこぎつけようとしていました。そして、見回せば、岩泉町の過疎化、少子化、人口減は、急激にすすんでいました。「これらを本にして後世の人びとに残さなければ」と、私の心ははやりました。