日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

他の多くの蒐集された民間説話に現れた幽霊には足もあり全く普通の人間のようであるのを見ると、琉球で幽霊の足の無くなったのは、極最近の事ではないかと思われる。(3)

 

「翁狩衣」と蜀江錦、バチカン

謎に満ちた聖徳太子と、太子を支えた秦氏

源次郎 三国時代が終わると蜀=蜀漢という国はなくなりましたが、蜀という呼び名は残りました。蜀江錦も作り続けられ、貴重品として日本にも西洋にも売られていきました。蜀とローマ・バチカンがつながっていた、ということは蜀江錦という証拠によってはっきりしています。ではそれが日本に入ったのは?翁藝能の原型になるものを日本に伝えたのは、渡来人の一族、秦氏だといわれています。

 秦氏は3世紀の応神天皇の頃に百済から日本に帰化した、あるいは5世紀雄略天皇の御代に新羅から渡来した、いや中国本土から渡来した漢民族系だ、などと謎に包まれた一族です。

 はっきりしているのは、先進的な知識や技術で飛鳥時代以降、大和朝廷を支える大きな力になったこと。人口が多く、戸籍記録に載っているだけでも数万人もいたこと。きわめて有力な豪族でした。

 秦氏は大陸から、感慨や陸墓造営などの土木技術者、寺院や神社の建築技術、養蚕・機織り・酒造の技術、そして紙や楽器を携えてきました。秦=機織り、の語源とも考えられます。

 飛鳥時代秦氏で著名な人物は秦河勝です。

 

・――太子が建てた法隆寺の伽藍はなぜ現存しているのか。なぜ山背大兄王はじめ一族が突然滅びたのか。『日本書紀』や『聖徳太子伝歴』、『上宮聖徳法王定説』にある数々の奇跡の記述は事実なのか。あまりに謎に満ちているので、聖徳太子=実在しなかった説まで唱えられています。

 奇跡の多さに、イエス・キリストを連想する人もいるでしょう。馬小屋で生まれた、という伝説一つだけでも似ている! と思ってしまいます。

 たとえば『日本書紀』に、聖徳太子が片岡山を通ると飢えて寝ている人がおり、太子は憐れんで食物と服を与えたが亡くなったとの報せがあり墓に葬った。数日後、太子が命じて墓を開けると遺骸はなく、畳んだ服が棺に置かれていた、という記事があります。

 これなど、『新約聖書』にある“ラザロの復活”とそこかしこが似ているのです。

 

源次郎 最近では、渡来人・秦氏ユダヤ民族には関係がある、といったこともイスラエルでは常識的に、日本でもオープンに語られるようになりました。とすると、聖徳太子の伝説にはなぜかキリスト教の影がつきまとっている、という謎も自由に考えてみてもいいのではないでしょうか。

 がんばって考え続けてみましょう。

 史書によると、聖徳太子は歴とした皇族ですから、キリスト教と関係のある渡来人などではありません。では、太子という存在にキリスト教の影を投影したのは誰か。

 太子ともっとも関係が深かった豪族は蘇我氏です。蘇我馬子は太子とともに『国記』『天皇記』を著していますし、太子自身、蘇我系の皇妃の血を引いています。

 

・しかし聖徳太子蘇我氏は一心同体というより緊張をはらんだ協力関係だったようです。互いに利用し合い、牽制し合う関係です。太子は天皇家の権威を、蘇我氏は豪族の権力を追究したので、本来的には対立したのだと思います。

 太子の側近として重要な枠割りを果たしたのは秦氏秦河勝でしょう。

 上宮王家とまで呼ばれた聖徳太子の一族は、山背大兄王蘇我入鹿と対立したため、一族すべて滅んでしまいましたその後我が世の春を謳歌した蘇我氏も、乙巳の変大化の改新)で入鹿は殺され、蝦夷は自害し、蘇我宗家は滅びます。

 蘇我氏の中には中大兄皇子中臣鎌足側に協力した石川麻呂という傍系有力者もいたのですが、のちに謀反を疑われて自害しています。蘇我氏も滅びてしまったのです。多くの氏族が聖徳太子と深くかかわっていますが、そのひとつが秦氏なのです。

 

秦氏が残した謎のメッセージは、今も能の中に生きている

――とすると、聖徳太子の生涯に見え隠れする数々の奇跡の意味もわかってくるかもしれません。すでに滅びてしまった聖徳太子とその一族を顕彰し、遺徳を語り伝えたのは、秦河勝以降の秦氏にほかならないわけですよね。

 秦氏にとっては、聖徳太子が偉大な聖人であればあるほど、それを支えた河勝も偉かったということになるからです。

 

源次郎 ここでもう一度『翁』に注目してみましょう。『翁』は三人の人物によって舞われる曲です。まず「千歳」という、直面(素顔)の若い男。次にシテの翁ですが、白い面をつけるので「白色尉(はくしきじょう)」と呼ばれます。最後に狂言方が舞う「三番叟(さんばそう)」です狂言方は前半は若い男の姿で「揉之段」を踏み、後半は鈴を持って「鈴之段」を踊ります。これは黒い面をつけるので「黒色尉(こくしきじょう)」。白いお爺さんと黒いお爺さんと若い男、の三人なのです

 この組み合わせで何かを連想しませんか?

 そう、キリスト誕生を祝福しに訪れた東方の三賢人です

 

日本史の影に存在した渡来人・秦氏能楽

――ここで秦河勝一族について、簡単にまとめておきましょう。ごく定説的なまとめです。

 秦氏は一説に3世紀から6世紀頃、朝鮮半島を経由して日本にやってきた大陸系渡来人です。秦氏という氏族の名は始皇帝の秦に由来するとの伝承があるので、本人たちは秦の末裔を自任していたということでしょう。

 

源次郎 当時の渡来人は先進的な技術や知識をもってやってきました。秦氏はその一方の代表で、もう一方の代表は漢氏(あやうじ)でしょう。これは漢の劉邦一族の末裔を称し、奈良に本拠を置いた東漢氏(あずまのあやうじ)と大阪湾方面の西漢氏(かわちのあやうじ)とがあります。

 秦氏の特徴は人数が多いことで、欽明天皇在位頃の戸籍には七千戸以上の秦姓が記録されています。古代律令国家では家族と郎党合わせて25人ほどで一戸を構成したといいますから、その計算でいくと17万人以上の動員力をもつ大勢力ということになります

 

――その頃から秦氏は「大蔵」や「内蔵」をもって朝廷に仕えたとされていますね。「蔵」とは財政のことですから、財力で朝廷の権力を支えたのですね。

 

源次郎 古代の秦氏でもっとも有名なのは先に触れた秦河勝で、欽明・敏達(びだつ)・用明・崇峻・推古の五代の天皇に仕えたともいわれ、推古朝では聖徳太子のもっともそば近くに仕えました。河勝は山城、今日の京都府に領地をもっていました。山城とは山背とも表記されます。聖徳太子の長子である山背大兄王は、山城の秦氏を後ろ盾にして育ったとも考えられます。皇族の名前にはしばしば地名が使われますが、それはパトロンの所在地であったり育った場所だったりするのです。

 一説には山背大兄王子とその一族は聖徳太子歿後、蘇我入鹿に皆、一度に滅ぼされます。

 

『翁』の祈り、神さまのお辞儀

源次郎 『翁』はすべての曲の中でもっとも古く、神聖とされる曲です。特別な曲であるため、能の「五番立」(神・男・女・狂・鬼)のどれにも分類されません。能楽師だけで演じるのではなく、三番叟は必ず狂言師が演じます。果たしてこれは能に分類できるのか、ともいわれます。「能にして能にあらず」といわれる所以です。

 能でも狂言でもないかもしれない。それゆえ『翁』だけ特別に『翁藝能』として語られることがあります。

『翁』は祝福の曲です。おめでたいことがあったときに特別に舞われます。

 

この『翁』の舞いの最初と最後には翁がお辞儀します。この礼が誰に対してのお辞儀なのか、謎といえば謎なのです。

 

 

 

『能を考える』

山折哲雄    中公選書   2014/3/14

 

 

 

<「翁」とは誰か>

 ・最初の問題であるが、私はかねて仏像の顔はその多くがみんな若々しいのに、古い神像の方にはむしろ森厳な老いの表情が漂っているということに不思議な思いを抱いていた。「ホトケは若く、カミは老いたり」とつぶやいていたのである。

 

 ・そういえば記紀神話八幡神の縁起などをみると、神々がしばしば老人の姿をとってこの世にあらわれるシーンがでてくることに気づく、天つ神が地上に降り立つとき、年たけた老人が出現して「われは国つ神」と名乗り、案内の役をかって出る。八幡神や稲荷明神は、地上の神主の懇請によってこの世に姿をみせるが、そのときは容貌魁偉な老翁に変身するのである。

  そのようなこの国における古くからの伝承が、神像をつくるときに蘇ったのではないだろうか。翁(老人)は目に見えない神の存在にもっとも近い存在として尊ばれ、信仰の対象とされていったのである。

 

 要するに、一口にオキナとはいっても、わが国には優しい「翁」と怖い「翁」という二種類のオキナの系統があったといっていいのではないだろうか。換言すれば、神に近いオキナと人間に近いオキナがどうも存在していたらしい。そして、おそらくそこからは、オキナの両義性といった問題までが生ずる。

 

 ・佐成謙太郎氏の『謡曲大観』には、235番の曲が収められているが、そのなかに、いわゆる翁の姿でシテとして登場するのが50数番ある。そのほとんどは夢幻能で、そこにあらわれるシテは神霊であるか、または歴史上の人物の亡霊が姿を変えたものだ。「翁」は神霊や亡霊の化身として、舞台の上にしずしずあらわれる。それが歴史上の人物である場合は、はじめは翁の姿(前シテ)であらわれ、やがてその正体(後シテ)をあらわす。

 後シテは胸のうちにつもり積もった怨念や心残りを掻き口説き、やがて生きている者(多くは僧)の回向と慰めの言葉をうけ、舞を舞って退場していく。翁変じて亡霊(または神霊)の正体が現れ、舞台は急速に終息に向かう。

 

・ここでとくに注目したいのは、右の夢幻能に登場する翁の仮面がすべて尉面(注;老翁の相を表す能面の総称)であるということだ。さきの分類でいえば、怖い翁に属する。 ・このように考えてくると、この尉の仮面表情がいつしか時空のへだたりを飛びこえて、何とも不思議なことにあの松尾大社男神像の表情にしだいに似てくることに気づく。

 

「翁」はどこから来るか

・翁のことを考えるには、やはり折口信夫の仕事に注目しないわけにはいかない。かれは昭和3年(1928)に「翁の発生」という論文を書いているが、そこに展開されている仮説が導きの糸になる。その要点は二つである。 第一は、能の<翁>や<高砂>にみられる翁の舞は、猿楽の伝承にもとづいてつくられたもので、それに先行する反閇芸や鎮魂・祝禱の儀礼から発展したものだという。

 

  折口のいう第二の論点が、翁舞の翁の姿は山神のイメージと結びつく、ということだった

。その山神の源流をたどっていくと、「まれびと」(稀なヒト)の信仰にまでいきつくという仮説である。「まれびと」というのは折口の独自の概念で、農村のような定住社会に外界から尋ねきて祝福を与えるもののことをいい、新しい技術や知識を伝える一種の人神(ヒューマン・ゴッド)のようなものだ。定住民にたいして遊行・漂泊の民といってもいいし、異人といってもいい。

 

 ・ところが、この二人組と一人稚児による翁舞は、古くは三人の翁によって演じられていたところが、この二人翁と一人稚児による翁舞は、古くは三人の翁によって演じられていたらしい。というのも当の能楽を大成した世阿弥は、主著の『風姿花伝』のなかで、翁舞は稲積の翁、代継(経)の翁、父の助(尉)の三人の老翁によって勤められるといっているからだ。 ・私は前に、日本文化における老人=翁の信仰が、歴史的に優しい翁と怖い翁という二つの表情を生み出したということを考えてみた。

 

 ・そのことについて、最後につけ加えておきたいことがある。私は怖い翁とは「神に近い」老人のことだといったが、そのことについてである。いったいどうしてそうなのか。これについでは、柳田國男『先祖の話』のなかでいっていることが参考になると私は思っている。かれはそこで、日本人は古く、人間は死ねば家や周辺にある山や森や丘にのぼって祖霊になると信じてきたといっている。死霊が祖霊になり、さらに供養をうけて一定期間をへると、最後にそれがカミになる。このカミはやがて正月や盆などの季節になると里に下りてきて、村人を祝福するのが常だった。それらのカミはさまざまな形をとるようになるが、そのなかから鎮守の神や産土の神となるものが現れ、氏神として祀られるようになった。つまり日本人の深層意識に、人間は死後カミになり、この世の生者たちと交流する、という基層的な信仰ができ上がったというのである。

 

 

 

 『大いなる秘密』(爬虫類人レプティリアン

 (デービッド・アイク)(三交社)   2000/8

 

 

 

いわゆるメン・イン・ブラック(黒服の男たち) 、MIBと略されたり、「ブラックメン」などとも呼ばれる。>

・UFO研究所の周辺によく現れ、ときにCIAやFBIと偽称し、研究の妨害等を行う。黒い帽子に黒い服を着ていることが多いため、この名がある。近年では、研究所ばかりではなく、異星人やUFOに関する情報に深入りした人々に脅しをかけることで知られているが、彼らメン・イン・ブラック(黒服の男たち)が実体化したり非実体化するのを見たという情報が数多く上がっている。

 

 ・それもそのはず、彼らは、次元と次元との間を自在に行き来する能力を持ち、あらゆる形態をとることができるのだから、エリート一族に見られる強迫的観念的同系交配は、このような変身能力を与えてくれる遺伝子構造を維持するためのものだ。彼らが、次元の間を行き来し人間の姿とレプティリアンの姿のあいだを自由にシェイプ・シフトできるのは、彼らが受け継ぐ特異な遺伝子構造のおかげなのだ。遺伝子構造がレプティリアンのオリジナルから離れてしまうと彼らはシェイプ・シフト能力を失ってしまうのである。

 

 

 

『宇宙人遭遇への扉』 

 (リサ・ロイヤル&キース・ブリースト)(ネオ・デルフィ社) 2006/2

 

 

 

 琴座は地球が存在する銀河系宇宙の領域における、人間型生命体の発祥地である

<銀河系宇宙共同体>

・エネルギーのレベル、あるいは物質のレベルで、地球の発展とかかわりを持つ、物質的および非物質的な宇宙人の各種族を指す。琴座の各種族、シリウス人、プレアデス人、ゼータ・レチクル人、オリオン人を始めとして、本書で述べられていない多数の宇宙人種が、銀河系宇宙の一族を構成している。

 

 ヒューマノイド

・肉体的な特徴が地球人と似ている宇宙人を指す。ヒューマノイド(人間型宇宙人―地球人もこれに含まれる)の血統上の起源は琴座に求められる。

 

<琴座>

・地球上には事座に関する神話が古くから残されてきた。なかには琴座とプレアデス星団との関係について述べたものもある。琴座は地球が存在する銀河系宇宙の領域における、人間型生命体の発祥地である。シリウス人、オリオン人、地球人、プレアデス人、ベガ人、ゼータ・レチクル人、ケンタウルス人、アルタイル人を含むさまざまな宇宙人は、すべて琴座で発生した種族の子孫である。

 

 <ベガ>

 ・琴座の一等星で、琴座にありながらその中のどの星系よりも距離的には地球に近い。琴座の中で、統一性がある独自の文明を形成した最初の星の一つである。アルタイル、ケンタウルスシリウス、オリオンなどを始めとして、ベガ人が人種の創成や入植を行った星系は多数ある。

 

 アストラル・プロジェクション

・「星気体の投射」の意。西洋神秘学によれば、「星気体」(アストラル体)とは、肉体よりも精妙な周波数からなり、通常は肉体と重なり合って存在する「身体」のことである。ある種の人々は意志の力によって、この「身体」を外部に投射でき、通常の感覚を保ったままで、これを通して旅をすることができる。

 

 

 

『怪異を魅せる』    怪異の時空2

飯倉義之、一柳廣孝  青弓社  2016/12/1

 

 

 

<『子どもと怪異』>

<――松谷みよ子『死の国からのバトン』を考える

三浦正雄 / 馬見塚昭久

 ・『死の国からのバトン』(偕成社)、は、『ふたりのイーダ』(講談社)などとともに、松谷みよ子が20年以上の歳月をかけて完成させた「直樹とゆう子の物語」5部作のなかの1冊である。5部作それぞれに直樹とゆう子が登場するものの、1作1作は完結した物語になっている。

 この5部作は、社会問題を扱った「告発の児童文学」として知られるが、実はもう一つの大きな特色がある。いずれも題材として怪異が取り入れられているのである。特に『死の国からのバトン』は、タイトルのとおり、主人公の直樹が死の国へ赴き、バトンを託されて帰還するという物語で、いわば現代の冥界訪問記である。

 

・向日性や理想主義から脱却し、多様性に富んだテーマを扱うようになった日本児童文学であるが、今日でもなお、本作品は特異な存在である。タイトルに「死」という言葉を使うこと自体がまれであるうえ、その内容も死んだはずの祖先と子孫が交流するという特異な題材を描いたもので、ひときわ異彩を放っている。特異な作品でありながら、従来、その点はあまり注目されてこなかったようである。

 

・また、西田良子の「松谷みよ子論」は、本作品に通じる<根>として、<幼児的心性>と、<古代人的感覚>を探り当てた点で卓越している。だが、「松谷文学の特質である<幼児的心性>は、ややもすると、過度の幼児語使用となったり、<古代人的感覚>が時には呪術的迷信をも伝えてしまう危険性をもっている」とも語っていて、必ずしも肯定的に受け止めてはいない。筆者は「古代人的感覚」こそ、現代児童文学に最も必要な要素の一つであると考えるのであるが、西田はこれを「迷信」のひと事で切り捨ててしまっている。

 

・では、なぜ松谷はこの作品を書いたのだろうか。公害の告発が主目的ならば、わざわざ「死の国」をその舞台に設定する必要はなかったはずである。実社会の被害状況をリアルに描いたほうが、はるかに訴求力のある作品になっただろう。作者の強い思いが込められているのではないだろうか。ここでは本作品の時代背景を探り、怪異の仕組みをひもときながら、作品に秘められた松谷の思いに耳を傾けてみたい。

 

<ムーブメントの交差点>

<公害告発の文学>

・まず、「公害」という視点から、物語の時代背景を探ってみよう。本作品には、各地に伝わる伝説や民間信仰が複合的に組み込まれており、作中に描かれた公害は、阿陀野川に有害物質が流されて発生したという設定である。阿陀野川は松谷による架空の名称だが、昭和電工メチル水銀を流し続けた阿賀野川を連想させる響きである。本文中には、「やがての、それがおさまると、ねこらは、目をうつろにみひらき、よだれを流し、足を引きつらせ、苦しげな息をはいて死んでいった」など、第二水俣病として知られる水銀汚染による中毒症状らしき記述も見られる。第二水俣病は、いわゆる四大公害病の一つだが、その他にも、高度成長の弊害ともいうべき公害が各地で報告され、1970年代初期には、「公害列島」なる言葉が新聞をにぎわした。

 それに対し、公害問題に対する包括的な法律となる公害対策基本法が制定されたのは1967年、公害防止など、環境の保全に関する行政機関として環境庁が設置されたのが71年のことだった。

 

・このような経過のなかで、公害問題を取り上げた文学も登場した。その先駆的な役割を果たしたのが石牟礼道子の『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年)だろう。この作品は、作者が患者たちの声にならない声を受け止め、自身のなかで純化させてつづったことで、比類のない訴求力を持つ作品になった。1974年には、有吉佐和子の『複合汚染』(新潮社、1975年)の新聞連載が始まり、大反響を呼んだ。

 

民話ブームとニューエイジブーム

・本作品巻末の解説で、安藤美紀夫は、「「ご先祖」が、けっして遠い存在ではなく、よく見れば、すぐ近くに生きているという実感も、それ[民話採集の旅:引用者注]をとおして得られたものに相違ない」と述べている。確かに、本作品は随所に民話的な要素がちりばめられていて、民話の強い影響を受けていることがうかがえる。

 

・民話運動は1952年、木下順二を中心とする文学者や歴史学者が集まって「民話の会」を設立したのが、その始まりといわれる。松谷はごく初期の段階からこの会に関わり、民話の探訪と普及、啓発に努めてきた。彼らの活動は、民主的な歴史観の確立を目指した運動や、高度成長に対して伝統的な価値を再発見しようとした運動などと接点を持ちながら、日本固有の文化を再評価する機運を高めていった。やがてこの運動の影響によって、民話絵本や創作民話の流行などの「民話ブーム」が起きることになる。

 

<公害と民話の出合い>

福井県大野郡和泉村に「公害を知らせに来た河童」として知られる民話がある。この村人たちは古くから河童と親しく交流してきたのだが、ある夜、村人たちは河童が悲しい声で「川の水をかえてくれ、川の水をかえてくれ、水がおとろしい、水がおとろしい」「もう住んでおれん」「あの川の水はお前さんらにもようないはずじゃ」と訴えるのを聞いた。だが九頭竜川は何の変わりもなく澄んで流れている。村人たちは相手にしなかったが、ある夜、河童たちは激しい雨のなかをよろよろと山へ立ち去ってしまった。その2年後、村人たちは行政からの知らせで、九頭竜川カドミウムに汚染されていたことを知る。河童に対して申し訳なく、村人たちが山へ行って呼びかけると、「百年したらもどっていくさかい、それまでに川を綺麗にしておいてくれえ」と返事があったという。

 

怪異の仕組み

・本作品のなかで、主人公の直樹は、怪異に3回遭遇する。1回目は、五百羅漢でコドモセンゾの直七たちに出会ったこと、2回目は、崖から落ちて気を失い、直七に死の国へ連れていってもらったこと、3回目は、百万遍の数珠を回して直七を呼び出したことである。

 

<五百羅漢での邂逅>

・1回目の怪異は、1月14日の夕方、祖父母の家についてすぐのことだった。五百羅漢へ行こうとして裏山の雪道を歩いていた直樹は、大勢の子どもたちの歓声を聞く。ところが、声は聞こえても姿が見えない。「だれだい、でてこいよ!」と呼びかけると、五百羅漢の岩々が子どもたちの姿に変わり、直樹は直七と言葉を交わす。だが、そこに妹のゆう子がやってきて気を取られ、もう一度振り向いたときには、子どもたちの姿は消えていた。直樹はなぜここでコドモセンゾに会うことがきたのだろうか。

 

小正月

・直樹が直七に出会ったのは、1月14日の夕方ということになっている。14日の日没から15日までを小正月と呼ぶが、五百羅漢での邂逅はまさしく小正月を迎えようとしているときだった。小正月は元旦の大正月に対する言葉で、いまでも各地で粟穂、稗穂、成木責め、鳥追い、もぐら打ち、ドンド焼きなど、主として農耕に関わる予祝儀礼がおこなわれている。この小正月には、異界から何者かが村を訪れるという信仰があったのである。

 

・来訪神接待の「来訪神」とは、小正月の訪問者と総称されている神霊に扮装した訪れ人のことで、各地各様の呼び方がなされており、名称上、ナマハゲ系、チャセゴ系、カセドリ系、トタタキ系、カユツリ系、トロヘイ系、オイワイソ系、その他(福の神・春駒等)に分けることのできる行事の主人公である。(略)これら来訪神の性格は必ずしも明確にされてはいないが、小正月の代表的な神であることに間違いはない。

 

・直七たちもコドモセンゾも、まれにしか会えない異界からの来訪者という意味では、来訪神と呼んでいいだろう。五百羅漢での怪異は、小正月という特殊な時間の作用があって起きたのである。

 

<夢幻能>

・能には現在能と夢幻能があるが、夢幻能では生者と死者との交流が演じられる。例えば、『平家物語』を題材とした作品の多くは、死後も修験道で苦しむ武将が亡霊となって現れ、生前の栄華や死の苦しみを語っていく。

 五百羅漢での邂逅は、こうした夢幻能における生者と死者との交流に通じるものがある。能ではしばしば、亡霊が出現する前触れとして不可解な自然現象が現れ、時空にひずみが生じ、ワキ(死者を弔うべき存在)が死者ゆかりの場所を通りかかることによって、シテ(死者)との交流が引き起こされる。シテは異界からの来訪者なので、時空間を支配する霊力を持っているのである。そこでは、現在から過去へと遡行する時間と、過去から現在へ順行する時間とが融合し、特殊な場が出現する。シテは遺恨を語り、ワキは新たな生を生き直すことができる。

 

<他界の巡歴>

・二回目の怪異は、直樹が直七と会話した直後、ゆう子を助けようとして岸から落ちたことがきっかけだった。直樹は、気を失って夢と現実の間をさまよう。やがて、鳥追いの列に直七を見つけた直樹は、ルウを捜すために、川向こうの「死の国」へ連れていってもらうことにする。「死の国」では、村に水路を引いた農民、直右衛門夫妻を訪ね、次に猫好きの喜平じい夫妻を訪ねる。直樹は、そこで白い猫に導かれ、思いがけず山のばばさに出会う。山のばばさは、死霊となって登ってきた猫たちに乳を飲ませていた。山のばばさは、死んだものの苦しみを和らげる不思議な力を持った存在である。

 

<三途の川>

・崖下へ転がり落ちた後、直樹は花が咲き乱れている野原をひとりで歩き、川の向こう岸に、亡くなったはずの父を見つける。直樹が川を渡ろうとすると、父は、渡ってはいけないと叫ぶ、しかし、どうしても行きたくて、流れに一歩踏み込んだその途端、冷たさと痛さで、直樹は正気づく。

 松谷の手になる『現代民話考』(第5巻、立風書房、1986年)の第1章「あの世へ行った話」には、あの世を垣間見た人々の体験談が約260件紹介されている。その多くは、生死の境をさまよった際、三途の川が出現したというもので、向こう岸に知り合いの姿が見えたので渡ろうとすると「渡ってはいけない」と言われ、気がついたら病院のベッドに寝ていた、というような話である。特徴的なのは、川を渡ろうとしたけれども結局渡らなかったということであり、川を渡って向こうの世界へ行って戻ってきたという話は一件もない。

 直樹が見た川も、まさしくこの川だろう。渡ったら最後、二度と戻ってくることはできないはずの川だったのである。

 

<他界巡り>

・ところが、再び意識が遠のいた直樹は、鳥追いの列に直七を見つけ、川までついていってしまう。そこで直七に頼んで向こう岸へ連れていってもらい、直樹は他界巡りを始める。

 

・三途の川は、六文銭を支払い、船で渡るものというイメージが一般的だが、かつては生前のおこないに応じて、横、浅瀬、深瀬のいずれかを歩いて渡るものと考えられていた。

 善人は橋を渡るので川の水には濡れないが、やはり死ぬことに変わりはない。すると、川の水に濡れる濡れないは、生死には直接関係ないということになる。直樹の場合は、直七に負ぶってもらうことによって自分の足で渡らなかった。だから、死なないですんだ、ということになるだろう。

 直七という先祖の協力によって、直樹は生きたまま、この世とあの世の境界を超えることができたのである。これによって直樹は、他界巡りが可能になった。

 

<直七との交霊と空間移動>

・3回目の怪異は、足のけががあらかた治った1月16日の夜更けのことだった。直樹は床に就いたものの寝つかれず、どうしても直七に会いたくなる。彼に言われたとおり百万遍念仏の数珠を回してみると、そこに直七が現れ、雪靴を履かせてくれる。その途端、二人は目もくらむような眩しい雪の上に空間移動するのである。そこは五百羅漢で、直樹はコドモセンゾたちと羽子つきや掛けっこして遊ぶ。帰り道、直樹は亡くなったはずの父にも会い、理不尽なことと戦う覚悟を持つようにと、バトンを託される。この時空を超えた怪異の仕組みは、どのようになっているのだろうか。

 

百万遍念仏

・直樹が感じたのはおそらく、長い年月にわたって数珠に込められた、人々の鎮魂への思いなのだろう。直樹は、いまは亡き村の先祖たちと一緒に数珠を回した。蓄積された祈りが直七に届いたからこそ、直七が迎えにきたと考えるのが妥当ではないだろうか。民族行事、仏教行事としての百万遍には、先祖に呼びかける力が込められていて、直樹はその力によって、直七に会うことができたのである。

 

<先祖たちの力>

百万遍の念仏に応じて現れた直七は、直樹に雪靴を履かせてくれた。その途端、二人は五百羅漢に瞬間移動する。これはどう解釈すればいいのだろうか。

 五百羅漢での邂逅が可能だったように、霊は時空を超える力を持っていて、生きた人間の霊体をも連れ出しうるよう設定されているのである。

 なかでも霊的な力が傑出した存在として、山のばばさがいる。

 

・直七が、「生んで、そだてて、なにもかも土にもどして、またそこから、あたらしいいのちを生みだす」と語っていたとおり、山のばばさに遭遇したとき、ばばさは、公害病で苦しみ喘ぎながら登ってきた猫たちに、乳を飲ませて介抱していた。これは、松谷自身が民話の探訪によって得た胸乳豊かな山姥のイメージとも重なる。

 

<「祖霊信仰による魂の再生」

・ここまで考察を進めてくると、「告発の児童文学」という世評とは別に、この作品のもう一つの重要な問題を見て取ることができる。松谷は、「祖霊信仰による魂の再生」というバトンを読者に手渡そうとしていたのではないだろうか。

 現代っ子の直樹は、七谷を訪れるまで「先祖」について真剣に考えたことはなかった。ところが、直樹が先祖の地を訪れたことで、祖霊信仰のスイッチが入ったのである。天真爛漫な彼は、土地のお婆さんの話を真に受けて、阿陀野の山でルウを捜そうとした。そこに出現した直七を兄のように慕い、彼を信じて阿陀野の山を遍歴した。そこで、彼は、先祖たちとの交流を通して、脈々と続く命のつながりを知った。先祖たちの郷土への思いや無念を知り、その苦しみに思いを馳せた。一方、コドモセンゾや山のばばさは、村のために鳥追いをしたり、直樹を助けたりして、子孫でもある村の人々に何らかの浄福をもたらそうとしてきたのである。

 

・こう考えると、直樹の他界訪問は、あたかも作品舞台のモデルとなった出羽三山を駆け巡る修験者の修行にも似ている。修験者が、なぜ他界に見立てた山を巡るのか、宮家準は次のように述べている。

 このように修験道の峰入修行は基本的にはこの世から一度山中の他界に赴いて修行をして、再度俗なる里の世界に帰るという形式をとっていると捉えることができるのである。そして全体として見た場合は、修験道の他界観におけるこの世と他界の関係の特色は、このようにこの世の人間が他界に赴いて他界の神格の力を得て、この世に帰るということにあるといえよう。

 

・父から託されたバトンが象徴するように、直樹にとっての「他界の神格の力」は、「現世を生きる勇気」である。阿陀野の公害について知らされなければ、直樹はこれまでどおり、平穏無事な生活を送っていたことだろう。知らなくてもよかった公害の実態と人間のおぞましさを知らされたことで、彼は生きることに疑問を感じてしまった。だが、現世に生き、命のバトンを受け継いでいくべき子孫として、それはどうしても乗り越えなければならない。成長のための試練だったのである。出発の朝から始まった一連の怪異を勘案すれば、この試練は、先祖たちが意図的に用意したものだったのだろう。

 母親が迎えにきて、直樹たちがいよいよ祖父の家を出ようとしたとき、シロが子猫を生んだ。母親は、東京湾が水銀で汚染されていたことを告げ、直樹は、阿陀野で見聞きしたことが夢ではなく真実だったことを知る。この一連の結末は、先祖たちもまた、自己の苦しみを語り、バトンを託したことで、魂の安息を得たことを物語っているといえるだろう。直樹の他界巡りは、生者、死者ともに救われる「魂再生の旅」として提示されたのである。