『高橋信次のUFOと宇宙』
UFOの実在と人類の起源を語る 1988年3月
大川隆法 土屋書店
<UFOの種類>
・まあ、基本的には母船と、それから分乗した小型船と、両方あるんですね。これは事実です。母船そのものは、かなり大きな母船が来ています。母船は相当大きいんですね。これは何キロもあるような大きさです。それだけの母船が来ています。その中には、その小型のUFOというのが、何百機も搭載されています。その中には、そういうふうになっていますね。
・それで、彼らが、面白いのは、地球のレーダーでは引っ掛からんような、そういう装置をもっとるんですね。
・もうひとつは、UFOなんかの話、みなさん聞いていてわかるのは、姿が見えておったら、いきなり消えるでしょう。スッと空中に消えちゃう。また突然出てくる。こういうことですね。
・惑星の種類、惑星人の種類という面で言えば、決して一種類じゃありません。相当の種類があるんですね。まあ、どうだろうかね。全部合わせると十種類以上の人が来てますよ。
・で、彼らは、宇宙空間での交流はずいぶんあるようですね。
・それで、仲良しクラブ作っとるんですね。その関係で一緒に来たりもしているんですね。そういう交流はあります。
・ただ、これを太陽系基地にしておるものはおるんですね。これはおるんです。はっきり言って。特に、やはり金星というのが、基地になっていますね、今。UFOの基地になっておるんですよ。
・入り込んで来るやり方には、二種類があります。それは、霊として入り込んでくる場合があるんですね。彼らは、霊界の研究も相当、進んでいます。霊体として入り込んでくるのがある。地球霊団の中へ入り込んできて肉体として地球人に宿ってきておるというのね。これは結構多くなってきておるんですね。みなさん、3次元だけが世界だと思ってはいけないんで、そちらの世界から入ってくるんですよ。結構おるんですよ。あなた、身近に何とか星人というのがいっぱいおるんです、本当はね。知らないだけですね。
・これ以外に、じゃあ、肉体を持ってきておるのが、おらんかですね。おるんですね。これもおるんですよ。
・ほかのとこに紛れ込んでますよ。アメリカなんか、だいぶいますよ。結構おるんですね。紛れ込んどるんです。
それ以外には、時々、宇宙人の死体で、小さな小人みたいのが見つかったりすることもありますが、そういうのもおりますね。非常にちっちゃい、1メートルぐらいの身長しかないものもおりますね。こういうのもおりますし、金星から来た女性なんて、ものすごく美人の女性。こういうのもいますけどね。こういうふうに、色々おるんです。
・このへんを本当は明らかにせにゃあいかんのだけれども、まだ霊言集も第4集でございまして、あんまりやると世の中の信用得られないんでね。残念だけれども、まあ、そこそのところで終わらざるを得ない。
『近代日本の宗教家101』
<高橋信次(たかはししんじ)(1927~1976)>
・神理、魂の救いと成長を説くジー・エル・エーの教祖。苦難に富んだ人生体験をもち、会社経営をしながら、霊的世界を説いたカリスマ。最晩年には、自らをブッダ、イエス、モーゼを超える存在と位置づけた。
・信次は、幼少の頃から霊感を持ち、家族の中には気味悪く思う者もあったという。十歳の時、原因不明の病気にかかった。夜、定期的に呼吸が止まり、いく度も死線をさまようというものであった。しかし、その時、信次は「もう一人の自分」となって肉体を抜け出し、自らの様子を見ていたという。そして、「もう一人の自分」は、この世では想像できないような美しい場所をさまよっていたという。このような原因不明の体験が定期的に半年ほど続いた。
・次第に信次の霊感が強くなり、第三者の未来予測ができるようになったという。1964年、コンピュータ端末機器を製造する高電工業株式会社を設立し発明を重ね、数多くの特許を取得し、事業は順調に伸びた。
・1968年には、多くの霊的現象が起こるようになり、信次がてのひらから光を義弟に対して送ると、昔の侍が義弟の口を使って語りだしたという。さらに、指導霊と守護霊が覚醒を促したという。
・そして、義弟の口を使って出てくる霊たちが悪魔であるならば、善意の者にかえてやろうと決意し帰宅したところ、心のなかから「今のような心を忘れるな。謙虚な心、執着を捨てた心、そして自信というものは、中道を心の物差しとした、自らの智慧と勇気と努力の中から生まれるものだ」と守護霊の声がし、悟りを開いたとされる。指導霊はモーゼ、守護霊はイエスであったという。
・信次は、過去、現在、未来を見通すことが出来るようになり、心が調和されていれば肉体から抜け出して思う場所に行けるということが分かったと語っていた。あの世とこの世の仕組み、神々のことなどに関心がある人々が集まり始め、自然発生的に会が形成された。1969年、「大宇宙神光会」が発足し、翌年、GLA(ゴッド・ライト・アソシエーションの頭文字)と改称した。
・信次は、みずから神仏であると名乗る者を信じてはならないと説いた。しかし、多くの会員は、彼を釈迦の再誕とみなしていた。信次自身もそのように思っていたようである。相手が考えていることを言い当てたり、会員たちに手のひらから光を送り異言で語らせたり、自分の死を含め多くのことを予言で的中させたと会員には信じられている。
・晩年、信次は自分が、釈迦、イエス、モーゼ以上の存在であるエル・ランティーで、末法の世に人類救済のために誕生した光の大指導霊の肉化した存在であると説いた。
・この世とあの世のつながり、そして、自己の心を磨き、ユートピアを建設することを説き、ロングセラーの著書を多数残したカリスマは、一方で非常に人間的であったといえよう。
『エルランティ』天使編 高橋信次復活の原点
ノストラダムスの予言を超えて
<ポスト・ノストラダムスの時代、日本に希望の光ヘルメスが甦る>
・それから、東の国にね、ヘルメスが甦ることをノストラダムスは予言しております。ヘルメスが東の国に出るだろうと。そして、ヘルメスのもたらす繁栄が、やがて世界を救うであろう。ノストラダムスは、そういうふうに予言しています。
・このヘルメスが甦るというのは、どこからというと、東の国というのは日本なのです。まあ、ヘルメスの生命体は何かっていうと、みなさん、ご存じでしょうかね。あと、有名な方は、リエント・アール・クラウド、それからブッダ、コーダマ・ブッダ、ラ・ムー、トス、こういう人たちが同一生命体の魂のグループなのですよ。だからそのグループの中の誰か一人が生まれ変わってくるということですよ。そういうふうに理解してくださいね。
・光の天使達が地上に出て、世界を救う。そして、ヘルメスが末法の世を救い、東の国から起きるヘルメスの繁栄が、やがて世界を救うだろうと、予言しました。このときに、西暦二千年ごろにも私の予言も終わるというふうに、彼は言いました。なぜ彼の予言が終わるのか。それは新しいいわゆるヘルメスの時代になって新たな予言が説かれていくからです。新たな教えが説かれていくからですね。それでノストラダムスの使命が終わったということです。そういうことなんです。
<スウェーデンボルグのいう霊太陽の存在>
・霊界探訪記のなかで、スウェーデンボルグという北欧の偉大な霊能者はね、霊界に太陽があるということを言っていますね。霊界の霊太陽というのがあって、それが霊界の人々を照らしてると、こういうふうな話をしとります。
実際に、霊太陽というのがあるのです。地上のみなさんが太陽の光のもとで、生活しておるように、霊界にもちゃんとした霊太陽というものがあります。
そして、その霊太陽がね、4次元の人たち、5次元の人たち、あるいは6次元の人たち、いろんなところを照らしておるのですね。
・それで、霊界物語を読むとよくわかるのですが、たとえば、地上にいる人たちが幽体離脱して、あの世の世界に行ったときも、あるところの世界までは行けるけれど、それから上のほうは行けなくなるのですね。
『地獄界の帝王 ルシ・エル サタンの陰謀』
地球人類を救うのは偉大なるエルランティ「高橋信次先生」なり
土居釈信 出版サービスセンター 平成3年1月
・天上界・高次元のことを簡単に説明しますと、最上段階に神、そして、エルランティ(高橋信次先生)を長として、その下にイエス様、モーゼ様、御釈迦様の三聖人がいらっしゃいます。この次元を九次元(宇宙界)と呼びます。そして、その下の次元を八次元(太陽界とその下に如来界)と呼びます。そして、七次元(菩薩界)、六次元(神界)、五次元(霊界)、四次元(幽界)、三次元(この世)、という段階があるのですが、サタンは上から二段階目の次元、元の如来界の七大天使の一人だったのです。この如来界には、元来は八次元上段階におられるミカエル天使長を長として、その下に七人の天使達がいて、それぞれに役割と力を持っています。
・そして、この七大天使の中の一人にルシ・エルという天使がいました。このルシ・エル天使が後の“サタン”になっていくのです。
・大天使達が地上界に降りられた時の、手助けをするのが彼の役割だったのです。サタンが七大天使であった頃は、このような偉大な力を持っていたのでした。
<地球人類の起源(円盤による降臨)>
・地球人類の歴史の始まりです。私達人類は、猿やアメーバから進化したと言われていますが、この進化論は誤りです。
・“『地球』を開拓し調和させ、魂の修業せよ”との神の命を受けてエルランティとすべての天使達、そして、第一陣に選ばれた約千名の人々が、反重力光子宇宙船(円盤・UFO)に乗り、ベータ星から数億光年も離れた『地球』という、神から与えられた次の修業の場を目指して、希望と使命に燃えて出発したのでした。それから人類は円盤に乗って長い旅を続け、ついに地球上のエジプトの地、ナイル川流域の、エルカンターラという場所に着陸しました。
『UFO五次元東京会議』
中丸薫×竹本良 VOICE 2011/12/8
<大震災前後に地球に現れたUFOたち>
・実は「NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)の元職員にスタンリー・A・フルハムという人がいまして、彼が暴露した中に「カウンシル・エイト(審議会8)」という宇宙連合的な組織についての情報があるんですね。これは、プレアデス、オリオン、シリウス、牛飼い座、アルファ、センタウリ(ケンタウルス座α星)、レティクル座ゼーター星、Comsuli、Pouseti(最後の2惑星の名前は存在が不明)の合計8つの知的文明で構成されている組織のことなのですが、こうした星座のグループが近年、共同して地球に現れてデモンストレーションをしているらしいんです。
<これからの時代に必要なのは“魂感覚”>
・中丸;エルランティというのは神に一番近い人です。世界中のあらゆる宗教において、例えば、モーセのときはヤーウェと名乗り、イエス・キリストのときはエホバと名乗り、イスラム教のときはアラーと名乗り、仏教のお釈迦様のときはブラフマンと名乗って人々を導いた、そういうお方ですね。でも、神ではないんですよ。神に近い存在といったらいいでしょう。
・生前にお付き合いのあった宗教家の高橋信次先生が亡くなられて、もう30年以上経ちますが、あの方は、実は、お釈迦様の生まれ変わりだったんですよ。
・いってみれば、お釈迦様もイエス・キリストもみんなエルランティの分身なんですよ。ですから、よくよく考えてみれば、宗教戦争をすること自体がおかしいんですよ。魂の源は、皆一つなのにね。そして、人間もその分霊を誰もが抱いているわけですから、その心を浄化して輝かせなければいけないんです。
『霊能動物館』
<憑きものの部屋>
1、 どこかから来て、縁もない人に取り憑くもの。
2、 ひとつの家系が血筋によって受け継ぎ、増やすとされるもの。
3、 祈祷師などが使役する、式神的な働きをするもの。
『狼の部屋』にて、私は憑きものを大きく3種類に分類した。
今回、俎上に載せるのは、主にこの中の2と3だ。
・何種類もいる憑きもののうち、オーサキについては『狼の部屋』にて少々取り上げた。このオーサキをはじめ、憑きものと呼ばれる動物達のほとんどは地域や家筋に属している。『憑きものの部屋』を記すに当たって、一番厄介な問題は、これらにまつわる差別の話だ。
如何にのらくら躱そうと、憑きものを持つとされる家系の多くは、その地域において差別を受けた。理由はこれも前に記した。彼らは憑きものを使って人の富を盗み、場合によっては人命を脅かすとされてきたからだ。
・『憑きもの持ち迷信 その歴史的考察』(明石書店)を記した速水保孝氏は、自身が出雲地方にて「狐持ち」といわれる家の出だった。
ゆえに、その著書には、研究書という枠を超えた生々しい差別の実態が描かれている。
・憑きもの筋に対する差別のほとんどが、新興富裕層に対する妬みから生じたという見解は、現在、定説にもなっている。が、これこそ速水氏の研究と分析がもたらした成果でもある。
氏はまた、出身地である出雲地方にて、狐持ちについて記された存在自体にさしたる歴史がないことをも明らかにした。
『人孤物語』には、狐持ちの起源は享保頃にあり、「狐持ちに指定される家は、金持ちの家で、指定する者は、この金持ちによって搾取され」(速水氏)た没落農民であることが記されている。そして、この金持ち達は皆、性格が悪いことにもなっている。
要は、搾取された側にとって邪悪な存在となる成功者が、憑きもの筋とされたわけだ。
・『「3匹のクダ狐を持ちこんだ男がいてね。狐のヤツが、村中の人間に取り憑いてしまったのさ。みんな、気が触れたようになったり、魂が抜けたみたいになって……村にいた祈祷師が21日間お祓いをして、狐を竹の筒に入れ、村の奥に封じたんだよ。
で、なんとか正気に戻ったんだけど、祈祷に来なかったヤツらは到頭、ダメになっちまったっけ。………それから暫くしてのことさ。狐なんか信じないって馬鹿がいて、筒を埋めた塚を掘り返したんだな。そうしたら狐が逃げてしまって、またまた村がおかしくなった。祈祷師はそれも捕まえたけどね。今、氏神様の裏山に、小さな祠が遺っているよ」』
・『黄金結界』(河出書房新社)という著作の中で、私は右のごとく記している。
・しかし、何年経っても、私は憑きものの実在を信じきれない――いや、幽霊に似た不可視のものだという考えから離れられない。
・まず、『日本の憑きもの 俗信は今も生きている』(石塚尊俊著 未来社)を参考に、憑きものの種類を並べてみよう。日本全国、実に多くの憑きもの達が存在している。
狐、イヅナ、オサキ、クダ、オトラ、トウビョウ狐、ニンコ、ヤコ、狸、蛇、トウビョウ(トンベ、トンボカミとも)、犬神(インガメ、イリガミとも)、外道、猫、猿、蛭、カッパ、ゴンボダネ。
「オサキ、クダ、オトラ」は、語末に狐をつけて記される場合が多い。「トウビョウ狐」はもう一種の「トウビョウ」と区別するために「狐」がついているようだ。
・だが、この話の場合、狐を見るのは、ある種の特殊能力だ。見える人と見えない人がいるというのは、ほかの憑きものにも出てくる話だ。この説によると、憑きものは実体を持たない妖怪や精霊の部類に分けられる。
・しかし、本来、憑きものはそんなに単純なものではない。確かに似たものもあるけれど、ちょっと資料を当たってみれば、憑きもの達にはそれぞれ豊かな個性があることが見えてくる。
そのすべてを記すのは難しいので、代表例をいくつか示そう。先述した速水氏は「狐持ち」の家系であった。
出雲地方にいるこの憑きものも、当然、ただの狐ではない。
「ネコよりは小さく、ネズミよりは大きく、脚が短く、尾の長い、胴体が細長く、耳の尖っていない動物で、色は茶色あるいは茶褐色で、黒身がかった班入りのもいるといわれ、イタチとよく似ており、ときどき後脚で立ちあがったり、小手をかざして見るくせがあるといわれる。」
『日本の憑きもの 社会人類学的考察』(吉田禎吾著 中公新書)では、そう記されている。
・「1963年の冬、私は鳥取から遠くない所にある退休寺を訪ねたが、そこは明治以来、狐憑きの患者の憑きものおとしで有名であった。日露戦争にも出征したことのある年老いた僧侶は、疑いもなく高い教育を受けていた。しかし彼は誰が狐持ちの家族かを告げるのは訳ないことです、狐が軒先に座っているのが見えるのだから、と私に語った。夕方散歩に出た時に、彼は狐どもが烙印を押された家の外で遊んでいたり、軒先に並んで座り、前脚で眼を覆っているのを何度も見たそうである。彼らはよく彼の傍らに飛んで来て、うなったり衣の端をひっぱったりしたという。そして、狐どもが見えるのは彼ばかりではない。村の誰にもそのように見ることができるという。
・1963年に出合った鳥取の学校長である生田先生もまた、この地方の多くの村をまわって狐持ちの邪悪な迷信を棄てるようにと説いて歩くのに時間をかけてきたと話してくれた。しかし、彼はほとんど説得できなかった。講義の後で彼はいつも村人の1人から挑戦された。これに関してよそから来た人が一体何を知っているというのだ。村の人は皆、その家の外で狐を見ることができるのだから、誰が狐持ちの家族なのかを知っているのだ。」
つまり、この地方の狐は、村人には見えるけど、「よそから来た人」には見ることができないモノということになる。
記された証言のすべてを信じて、ここにサイキック村がある!と驚いてもいいのだが、もしも前述したごとく、狐持ちの家が元来は余所者であるというのなら、村人は余所者と自分達を二重の構造で区別していることになる。
・それはともかく、ここに出てくる退休寺は、鳥取県大山町に現存している。
・『日本の憑きもの』(石塚尊俊著)に載っている「憑きものの呼称による分布」地図を見ると、彼らにはそれぞれ明確な縄張りがある。
犬神が四国なら、イヅナは東北、オサキの中心は関東で、狐は全国に点在し、クダは愛知県から東北方向に、新潟まで帯状に散らばっている。
また、気になる特徴が3つある。ひとつめは、愛知県より北はオサキ以外、クダとイヅナとゴンボダネしかいないということ(新潟には、例外として佐渡島に狸がいるが、島であることと、流刑地だったという特殊な事情が働いている可能性がある)。
ふたつめは、古代の宮都があった京都、滋賀、大阪、そしてなぜか福島にも、憑きものがいないこと。
そして最後。京都、滋賀、大阪の三府県以西の西日本一帯には、そのほかの憑きもの達のすべてが生息していることだ。興味深い調査だが、私はこの空白地帯が、妙に気になった。
『日本妖怪大事典』
画◎水木しげる 編者◎村上健司 角川書店 2005/7/20
<犬神(いぬがみ)>
・中国、四国、九州の農村地帯でいう憑き物。中国地方では犬外道、九州、沖縄ではインガメというように、名前や性質は地方ごとでさまざまに伝えられている。
犬神には人の身体に突然憑く場合と、代々家系に憑く犬神持ちとがあり、狐憑きとほぼ同じような特徴が語られる。
犬神に憑かれると、さまざまな病気となり、発作を起こして犬の真似をするなどという。これは医者では治らず、呪術者に頼んで犬神を落としてもらう。
・犬神持ち、筋とは、犬神がついた家系のことをいう。愛媛県では、犬神持ちの家には常に家族の人数と同じ数の犬神がいるとし、家族が増えれば犬神の数も増えると思われている。
・愛媛県周桑郡での犬神は鼠のようなもので、犬神筋の家族にはその姿が見えるが、他人にはまったく見えないという。
<オサキ>
・埼玉県、東京都奥多摩、群馬県、栃木県、茨城県、新潟県、長野県などでいう憑き物。漢字ではお先、尾裂きなどと表記され、オーサキ、オサキ狐ともいう。
憑かれた者は、発熱、異常な興奮状態、精神の異常、大食、おかしな行動をとるといった、いわゆる狐憑きと同じような状態になる。
・また、個人ではなく家に憑く場合もあり、この場合はオサキ持ち、オサキ屋、オサキ使いなどとよばれる。オサキが憑いた家は次第に裕福になるが、その反面、周囲の家には迷惑がかかるという。オサキ持ちの者が他家の物を欲しがったり、憎悪の念を抱いたりすると、オサキがそれを感じ取って物を奪ってきたり、憎く思っていた相手を病気にしたりすると信じられていたからである。
オサキの家から嫁をもらうと、迎え入れた家もオサキ持ちになるというので、婚姻関係ではしばしば社会的緊張を生んだ。
<おさん狐>
・主に西日本でいう化け狐。とくに中国地方に多く伝わり、美しい女に化けて男を誑かす。鳥取県では、八上郡小河内(八頭郡河原町)から神馬に行く途中にガラガラという場所があり、そこにおさん狐が棲んでいたという。
与惣平という農民が美女に化けたおさん狐を火で炙って正体を暴き、二度と悪さをせずにここから去ることを条件に逃がしてやった。
数年後、小河内の者がお伊勢参りをしたとき、伊賀山中で出会った一人の娘が、「与惣平はまだ生きているか」と尋ねるので、生きていると答えたところ、その娘は「やれ、恐ろしや」といって逃げていったという。
・広島市中区江波のおさん狐は、皿山公園のあたりに棲んでいて、海路で京参りをしたり、伏見に位をもらいに行ったりと、風格のある狐だったという。おさん狐の子孫といわれる狐が、終戦頃まで町の人たちから食べ物をもらっていたそうで、現在は江波東2丁目の丸子山不動院で小さな祠に祀られている。
大阪府北河内郡門真村(門真市)では、お三狐として、野川の石橋の下に棲んでいるものとしている。「お三門真の昼狐」ともよばれることがある。昼狐とは昼間に化ける狐で、執念深く、人を騙すものだという。
<狐憑き>
・全国各地でいう憑き物。いわゆる一般的な狐の他、オサキ、管狐、人狐、野狐、野千といったものも狐と称され、それらの霊が人間に取り巻くことをいう。
大別すると、1、個人に憑くもの、2、家に憑くもの、3、祈祷師などが宣託を行うために、自分あるいは依代に憑かせるものの3つに分けられる。
1は狐の霊が何の予告もなく、あるいは狐に悪戯した場合に取り憑くもので、原因不明の病気、精神の異常、異常な行動をとるなど、個人や周辺に多大な迷惑をかけるやっかいなものとされた。
2に挙げた、家に憑く狐は、家に代々受け継がれるもので、管狐、オサキ、人狐というのはこれである。繁栄をもたらす反面、粗末に扱うと祟りを及ぼし、家を滅ぼしてしまう。他家から狐が物を盗んできたり、家の者が憎く思う相手に憑いて病気にしたりするので、周辺から敬遠されてしまう。また、嫁ぎ先にも狐がついて行くと信じられたので、婚姻が忌避されるなどの差別を受けた。
3は稲荷下しなどといって、祈祷師たちが狐の霊による宣託を行ったものである。
<座敷わらし>
・岩手県を中心とした東北地方でいわれる妖怪。名前が示す通り、家の中にいる子供の妖怪で、3歳くらいから11歳、12歳くらいの男の子または女の子で、髪形はオカッパとされることが多い。
・座敷わらしにも階級のようなものがあるそうで、上位のチャーピラコは色が白く綺麗だとされ、階級の低いノタバリコや臼搗きわらしといったものは、内土間から這い出て座敷を這いまわったり、臼を搗くような音をたてたりと、なんとなく気味が悪いそうである。
・座敷わらしというよび方は東北地方でのことだが、この仲間というものはほぼ全国的に分布している。北は北海道のアイヌカイセイ、南は沖縄のアカガンターと、多少の性質の違いはあるが、家内での悪戯、例えば枕を返すとか、金縛りにするなどといったことが共通して語られ、家の衰運などにも関わることもある。韓国の済州島に伝わるトチェビなども、座敷わらしに似た性質を有しているという。
<寒戸の婆(さむとのばば)>
・『遠野物語』にある山姥の類。岩手県上閉伊郡松崎村の寒戸にいた娘が、ある日、梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方不明になった。
それから30年後、親戚が集まっているところへ、すっかり年老いた娘が帰ってきた。老婆となった娘は、皆に会いたくて帰ってきたが、また山に帰らねばといって、再び去ってしまった。その日は風が激しい日だったので、それ以来、遠野の人々は、風が強く吹く日には「寒戸の婆が帰ってきた日だな」などといったという。
『遠野物語』は柳田国男が遠野の佐々木喜善より聞いた話をまとめたものだが、遠野には寒戸という土地はなく、これを登戸の間違いではないかとされている。語り部役を務めた佐々木喜善は『東奥異聞』に登戸の茂助婆の話として記している。
<オマク>
・岩手県遠野でいう怪異。生者や死者の思いが凝縮した結果、出て歩く姿が、幻になって人の目に見えることをいうもので、「遠野物語拾遺」には多数の類話が見える。