日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

発見され、裁判にかけられるナチ戦犯がどんどん減っているのも驚くに値しない。上級将校はおそらく全員が死んだだろう。(1)

 

『隠れナチを探し出せ』 

忘却に抗ったナチ・ハンターたちの戦い

 アンドリュー・ナゴルスキ      亜紀書房   2017/12/21

 

 

 

<亡霊を追って>

有名なナチ戦犯が人知れず殺されていたというエピソードはこれだけに留まらないヒトラーの個人秘書として権力を握り、官房長にもなったマルティン・ボルマンはヒトラーが自殺を遂げたあと、ベルリンの地下壕から姿を消した。ニュルンベルクの国際軍事裁判所は12名のナチ幹部に死刑を宣告したが、被告不在で有罪になったのはボルマンだけだった。行方が知れなかったために、彼の生存に関しては相反する報告があった。地下壕を出てすぐシアン化合物のカプセルで自殺した、もしくは殺されたと主張する者がいた。ハイムの場合と同じく、北イタリアやチリ、アルゼンチン、ブラジルなどから目撃情報も多数入った。

 

・しかし1970年、煽情的な記事で知られるイギリスの大衆紙ニュース・オブ・ザ・ワールド」が元英国空軍諜報員ロナルド・グレイの手記を連載し、その連載はのちに『わたしはマルティン・ボルマンを殺した』という本にまとめられた。

「ボルマンは死んだ。ステン軽機関銃で蜂の巣にされて」「引き金を引いたのはわたしだった」。グレイは戦後、デンマークとの国境に近いドイツ北部駐屯になったという。1946年3月、謎めいたドイツ人がある人物を密出国させてくれたら5万クローネ(当時の8400ドルに相当)を払うと持ちかけてきた。ナチ戦犯の逃亡を助けている一味を暴いてやろうと考え、グレイは依頼を引き受けた。軍用のヴァンに乗りこむと、ある人物とはボルマンであることがわかった。夜の遅い時間だったが、月明かりで人物確認ははっきりできたという。目的地である国境のデンマーク側に着くと、彼らを待っていた男2人の前で車を止めた。突然ボルマンが迎えの2人に向かって走り出した。グレイは即座に自分がはめられたことに気づいて発砲し、ボルマンが倒れるのを見た。待っていた2人がグレイの方向に銃弾を浴びせた。

 グレイは地面に倒れ、死んだふりをした。その位置から、男たちがボルマンの死体を引きずっていくのが見えた。尾行すると、彼らは小さな手こぎボートでフィヨルドからこぎ出し、死体を海に投げこんだ。「水しぶきの量からして、ボルマンの仲間は重しとして死体に何か、たぶん鎖を巻いていた――本来はわたしに使うつもりもものだったかもしれない

 

グレイの手記が発表されても、ボルマンをめぐっては新説が登場した。1974年には軍事史研究家でベストセラー作家のラディスラス・ファラーゴが『余波――マルティン・ボルマンと第4帝国』を出版した。ファラーゴはペルーとボリビアの国境で警備兵やさまざまなつてに多額の賄賂を使い、ボリビア南西部の病院にボルマンがいることを突きとめたという。そうした努力のおかげで、彼は短時間ボルマンに会うことができた。「5分の面会という約束で、彼の病室に入っていくと――大きなベッドに小柄な男が寝ていた。ベッドには洗濯したてのシーツがかけられ、男は大きく柔らかそうな枕3つに頭を支えられて、ぶつぶつ独り言を言いながらうつろな目でわたしを見た」とファラーゴは書いている。ボルマンは訪問者に「ふざけるな、わたしがもう年よりなのがわからないのか? 静かに死なせてくれ」とだけ言ったという。

 こうした逸話は大衆紙や、ときには堅い一般紙にもネタを提供したが、一つだけ問題があった。どれも惹句にあるような「実話」ではなく、著者の大胆な空想の産物だったという点だ

 

ボルマンに関しては、彼を撃ち殺したというグレイの説も、ボリビアに彼を尋ねたというファラーゴの主張も事実ではないことが明らかになっている。ボルマンとされる遺骸が1972年にベルリンの建設現場で発見されていたのだが、このかつて権力者だったナチ党員の親戚とDNAの一致が確認されたのは1998年になってからだった。結論として、ボルマンはベルリンに赤軍が侵攻してきたあと、ヒトラーの地下壕を出てまもなく1945年5月2日に死んでいたのである。それが判明するまでのあいだ、彼を目撃したという情報がたいていは南米から寄せられつづけた。

 

<旅の終わり>

・1994年4月、アメリカのテレビ局ABCのカメラマンが標的の男を慎重に見張っていた。彼らがエーリヒ・プリーブケを見つけたのはアルゼンチンのサン・カルロス・デ・バリローチェ、19世紀からドイツ系の人々がアルプスの山小屋風の家を建て、移り住んでいたアンデス山脈ふもとのリゾート地である大量殺人に関わったナチの多くがそうしたように、元SS大尉のプリーブケも戦後にヨーロッパを脱出し、それ以降うわべはごく普通の生活を送っていたデリカテッセンを営み、名前を変えずにたびたびヨーロッパへ戻りもした。過去ははるか遠くに消え去ったかに見えた――ABCの喧嘩好きな記者サム・ドナルドソンにカメラの回る前で詰め寄られるまでは。

 

プリーブケの罪状は1944年3月24日にローマ郊外のアルディアティーネ洞窟でユダヤ人75人を含む335人の男性と少年の処刑を段取りしたことだった。それに先だってドイツ兵33人がイタリア人パルチザンに殺されており、ローマ・ゲシュタポ責任者ヘルベルト・カプラーから、ドイツ兵死者1人につきイタリア人10名を殺せという大量殺人の命令が出ていた。プリーブケと異なり、カプラーはイタリアから脱出するのが遅れ、終身刑を言い渡された。しかし1977年に軍病院から釈放され、翌年亡くなるまで自由の身で暮らした。プリーブケに関してはイタリア系ユダヤ人のアウシュヴィッツ強制移送に関わったとの報告もあった。

 

・プロデューサーのハリー・フィリップスがプリーブケの居所を突きとめ、突撃取材の段取りをする前に2週間の監視期間を設けた時点では、ドナルドソンは元ナチや彼らの犯した罪に対する世間の関心が薄れていると確信していた。しかし彼らの報道が世界中で反響を巻き起こし、その結果プリーブケに裁きを受けさせようという初めての本格的な動きが見られた。1995年アルゼンチンは彼をイタリアに引き渡し、注目の法廷闘争が始まった。最初、手続き上の問題を理由にプリーブケは軍事裁判所から釈放を言い渡されたが、再び逮捕され、裁判にかけられ、1998年に終身刑の宣告を受けた。高齢のためローマで自宅軟禁となり、2013年にそこで亡くなった。享年百だった。

 

(エーリヒ・プリーブケ)

1944年ローマ近郊でユダヤ人75人を含む335人の男性と少年を処刑したにもかかわらず、プリーブケは1994年までアルゼンチンで安楽に暮らしていた。しかし、米テレビ局ABCの前でサム・ドナルドソンがカメラの前で彼を問いつめたあと、アルゼンチンはプリーブケをイタリアへ引き渡した。プリーブケは終身刑を言い渡されたが、高齢を理由に自宅軟禁となった。

 

カトリック教会はローマで彼の公葬を行うことを拒否し、アルゼンチンとドイツも葬儀を営む意思がなかった。最終的にカトリックの分派である聖ピオ十世会が、ローマの南に位置する丘の上の小さな町アルバーノ・ラツィアーレで葬儀を営むことになった。この団体は近年の教会改革に反対し、ホロコーストの真偽にも疑問を表明している。霊柩車が通りを進むなか、興奮した抗議者が車を叩き、機動隊がそれを阻もうとする事態となった。

 

・テレビ業界での長いキャリアを振り返って、ドナルドソンはプリーブケの取材を特に誇りに思っていると語った。「過去に何度も一つだけ心に残る取材をあげるとすればどれかと訊かれた。相手は私がレーガンサダトなどの名前を挙げると予想していたはずだが、私はプリーブケと答えた」。彼は「私が行ったなかで最も重要で興味をそそる取材」という言葉を使った。

 

・ジャーナリストはナチ・ハンターと同じとは言えないが、ナチ・ハンターの信条がドナルドソンに影響を与えたのは明らかであり、同様の取材を行った彼の同業者にもそれは言える。

 

・ほとんどの場合、ジャーナリストが報道したのはナチ・ハンターが突きとめたことや、その後の裁判の行方などだった。しかしプリーブケに関しては、ナチ・ハンターが大発見をしたわけではなく、ジャーナリスト的探偵作業がドナルドソンの劇的な路上インタビューを生んだ。インタビューが放送された時点で元SS大尉の運命は決した。アルゼンチンにおける彼の快適な生活は終わりを告げ、イタリアへの引き渡し、有罪判決がそれに続いた。

 

2015年はアウシュヴィッツをはじめとした強制収容所解放から、そして史上例を見ない天文学的数字の死者が出た戦争の終結から70年という節目の年だった。発見され、裁判にかけられるナチ戦犯がどんどん減っているのも驚くに値しない。上級将校はおそらく全員が死んだだろう。

1945年に20歳だった収容所看守は90歳になる計算だし、最後のナチ狩りは下級職員が対象とならざるをえない。かくしてナチ・ハンターの物語が終わりに近づくなか、残りの案件を追いつづけることにどれだけの価値があるか、当人たちのあいだでも議論が戦わされた。

 皮肉なことに、きわめて下級の看守に関する非常に古い案件の一つが今世紀初頭に驚くべき展開を見せ、存命の戦争犯罪人にとってゲームのルールが変更された。

 

デミャニュクの裁判まで、ドイツの検察にとってナチ犯罪容疑者を特定の殺人や犯罪行為について有罪と証明することは難しく、有罪判決率は非常に低かった。大量殺人の目撃者と補強証拠を見つけるのは難しくない。特定の個人の特定の殺人の責任を負わせる文書や証人を見つけるのが極めて難しかったのだ。ミュンヘン現代史研究所によると、ドイツは1945年から2005年までの間に17万2294人について捜査を行なった結果、6656件で有罪判決が出されたが、そのうち殺人に関するものは1147件だけだった。第3帝国の犠牲となった人の膨大な数を考えると、罪を償わされたのは殺人者のごく一部ということになる。

デミャニュク裁判はどこが違ったのかというと、ミュンヘン裁判所は検察側に特定の殺人行為に関して有罪であることを立証させるのではなく、被告が大量殺人の共犯であったことを系統立てて説明すればそれを認めた点である。言い換えるなら、絶滅収容所で働いていた者は、その職にあったことを理由に有罪となる。ルートヴィヒスブルクのナチ犯罪追求センター所長クルト・シュリムはすぐにこの新たな基準を採用する意向を明らかにした。2013年9月、彼は元アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所看守30人についても、殺人共犯の容疑で捜査が必要であると検事に情報を送ると述べた。「アウシュヴィッツ・ビルケナウで)この仕事に就いていたこと自体が、個人的な容疑に関係なく、殺人共犯の罪に値するとみなされる」。86歳から97歳の元看守30名は事実上、死亡や病気などを理由に刑を免除される。2015年初めの時点で30件全部がまだ捜査中で、起訴まで至っているのは1件だけだった。

 

<ヴィーゼンタール>

人生の終わりにヴィーゼンタールは、自分を含む何百万もの人々を強制収容所送りにしたナチの大半よりも長生きできて何よりも満足だと述べた。最後に取材したとき、彼は「私は過去の出来事を人々が忘れないよう努めてきた」と語った。ヴィーゼンタールが戦後の活動拠点としつつも、ナチの過去への向き合いが甘いと何度もなく強く批判したオーストリアは、2005年の彼の死後、その貢献を徐々に認めはじめている。ウィーン19区に建つヴィーゼンタールが暮らしたセミデタッチドハウスを購入した人物は、彼の娘パウリンカに、父親を記念して銘鈑を張りつけてもいいか、そこに記す言葉を考えてくれないかと尋ねてきたという。銘鈑には次のように記されている。「ジーモン・ヴィーゼンタールが暮らした家。彼は正義と、彼を支えた妻に人生を捧げた」

 ナチ・ハンターの物語はほぼ終わりを迎えたと言っていい。少なくとも存命の戦犯の追跡という意味では。しかし、彼らの遺産が消えることは決してない。

 

<ナチ・ハンター>

・30年以上「ニューズウィーク」誌で記者として活躍し、香港、モスクワ、ローマ、ベルリンなどで支局長も務めたアンドリュー・ナゴルスキの最新作である。

 

今回ナゴルスキが取りあげたのは第2次世界大戦後、隠れナチの追跡に情熱を燃やしたナチ・ハンターたちだ。小説や映画のモデルになり、強制収容所生還者としても有名なジーモン・ヴィーゼンタールや、最近になってスポットライトが当てられ、世界的に知られるようになったドイツの検事長フリッツ・バウアー、そのバウアーと冷戦中に東西の壁を越えて協力しながらいまだに謎の部分が多いポーランドの調査判事ヤン・ゼーンなど――彼らがナチ狩りを始めた動機、功績、人物像に迫っていく。

 

 

 

『ムー  2018年1月   No.446  学研』

 

 

 

<「衝撃の機密文書が公開‼ やはりヒトラーは南米でいきていた!(並木伸一郎)」>

アメリカでは今、情報公開法に基づきさまざまな機密文書が開示されている。なかでも2017年10月に公開されたCIAの文書の中には、驚くべきものがふくまれていた。それは。第2次世界大戦後もヒトラーが“生きていた”と記された極秘文書だった‼

 

2017年10月26日、アメリカのドナルド・トランプ大統領が、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関わる膨大な数の文書の機密解除を認めた。

 それと同時期に開示された機密文書のなかに「アドルフ・ヒトラーが1954年にコロンビアで生きていた」という驚くべき報告書が発見され、メディアの注目を集めている‼

 

・1995年9月29日、ベネズエラのナラカイボで元ナチス・ドイツのSS隊員フィリップ・シトロエンと接触するよう命令。接触に成功したエージェントは、シトロエンから「ここだけの話だがアドルフ・ヒトラーはまだ生きている」と明かされたというのだ。

 

・さらにシトロエンは、ヒトラーは1955年1月ごろ、コロンビアからアルゼンチンへ向かったといい、第2次世界大戦の終結から10年が経過しているため、連合国はもはやヒトラー戦争犯罪人として訴追することはできないだろう、などと話ししたというのだ。

 エージェントは、その証拠を裏づけるスナップ写真を極秘に入手。CIA報告書には、不鮮明ながらその写真が添付されている。

 

・定説では、ヒトラーは1945年4月30日にベルリンで自殺したとされる。だが、その一方で南米逃亡説がいまだに語られることが多い。

 たとえば2014年、FBIが機密解除した極秘文書には、ナチス政権崩壊後もヒトラーが生存しつづけ、南米へ逃亡した可能性があると血眼になって捜索していたことが記されている。

 

・さらに2016年3月、ナチスの残党狩りをしていたシモーニ・レニー・グエレイロ・ディアスは、『ヒットラー その生と死』を著し、その中で、ヒトラーがブラジル人の愛人と95歳にいたるまで生きながらえていたという情報を証拠写真とともに掲載している

 公開された写真は死の2年前、1984年に撮影されたもので、黒人のガールフレンド、クティーニャと一緒に幸せそうにポーズをとっている。シモーニによれば、ヒトラーはアルゼンチンを経てパラグアイに飛び、ブラジルのマト・グロッソ州にある小さな町に落ち着き、そこでは、アドルフ・レイプジクという仮の名を用いていたという。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

Livedoor NEWS   2017/11/6

 

<アメリカが公開したCIA文書に「ヒトラーは生きている」報告>

 

『CIA公式サイトより』

 

 10月26日、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関わる機密文書が公開され、そのなかに驚くべき文書があることがわかった。

 

アドルフ・ヒトラーが1954年にコロンビアで生きていた」という情報がCIAにもたらされたというのだ。報告したのはコードネーム「CIMELODY3号」。彼が信頼する情報源が、元ナチス親衛隊のフィリップ・シトロエン氏から「ヒトラーは生きている」という手紙を受け取ったという。

 報告書にはヒトラーとされる人物の写真まで添えられている。写真には2人の人物が写っており、左側が元ナチス親衛隊のシトロエン氏。

 シトロエン氏は、右側に写る横分けでちょび髭姿の人物こそ紛れもなくヒトラーだと主張したという。写真の裏には「アドルフ・シュリテルメイヤー 1954年 コロンビアのトゥンハにて」とメモされている。

 

 そして、ヒトラーは1955年1月にアルゼンチンに旅立ったという。

 容易には信用できないが、諜報部員によってこのような報告がなされたことは紛れもない事実なのだ。

 ヒトラーは、1945年4月30日にベルリンの防空壕の中で自殺したとされる。遺体はロシア軍が回収しており、ヒトラーを担当していた歯科助手が顎の骨を見て本人と認めたという。だが、ヒトラーの遺骨の信憑性に関しては、よくわからない部分が多い。

 2000年4月、ロシア政府はモスクワで行われた『第二次世界大戦展覧会』にて、初めてヒトラーの遺骨を公開しているが、米コネチカット大学の分析の結果、この骨が女性のものと判明したと2009年にAFP通信が報じている。

 一方、同じ2009年には、CNNが「1970年に『ヒトラーの遺骨を川に捨てろ』という命令が出た」との、元KGB将校ベイズリー・クリトロホフ氏の証言を紹介。展示された遺骨が別人のものだった可能性を示唆している。

 ちなみにクリトロホフ氏は、「ロシアに保管された文書からもヒトラーが自殺した事実は間違いない」と発言している。今回、公開されたアメリカの機密文書が、ヒトラー生存説の裏付けになることはなさそうだ。 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

(産経ニュース   2017/10/27)

 

ケネディ大統領暗殺事件機密文書の全面公開なぜ保留? CIA、FBIが大失態隠蔽の意図も

 

【ワシントン=黒瀬悦成】米国立公文書館が26日、ケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書の大半について公開を保留したことで、世界が注目した事件の「真相」の確定は、またしても先送りとなった。中央情報局(CIA)や連邦捜査局FBI)が、事件から50年以上たった現在もなお機密文書の全面公開を拒むのはなぜなのか。

 

 国立公文書館が今回公開した文書2891件の大半は、過去に一部が公開された文書の墨塗りなどを解除して再公開したものだ。完全非公開だったのは約300件。全部で約3600件あるとされる非公開文書の1割にも満たなかった。

 

 しかも、機密文書のうち研究家たちが注目していた、暗殺犯として逮捕されたリー・ハーベイ・オズワルド容疑者と事件前から接触があったと指摘されている当時のCIAダラス支局長、J・ウォルトン・ムーア氏に関する記録や、同容疑者が事件前にメキシコ市のソ連大使館などを訪れ、ソ連への再亡命を図った事実の詳細を解明する資料などは公開が保留された。

 

 暗殺事件の翌年、「ウォーレン委員会」と呼ばれる事件の調査委員会がオズワルド容疑者による単独犯行と結論づけた報告書に関しては、同容疑者がキューバとのつながりがあったことから、同国のカストロ国家評議会議長の暗殺を何度も試みてきたCIAが、暗殺はキューバによる報復と見なされるのを恐れて同委に対して情報操作を行ったことがCIA自身の内部研究で確認されている。

 

 

 

『ムー  2016年8月号 No.429』

 

 ナチスUFO最高機密 アルデバラン星人の謎

ナチス・オカルティズムの淵源とヒトラー生存説

ヒトラーは死んでいなかった!世界を騙したフェイク心中の真相>

・当時ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリンが、ヒトラーの遺体の検証後、アメリ国務長官ジェームズ・バーンズに対し、「ヒトラーはスペインかアルゼンチンに逃げのびたにちがいない」と語り、ドイツ国外逃亡説が、第2次大戦直後の世界を駆け巡ることとなったのだ。

 ・事実、ヒトラー生存説を裏づける証言がいくつもある。たとえば、4月30日の夕方、つまりヒトラーが自殺を遂げたあと、ベルリン近郊のテンペルホフ空港に姿を見せたヒトラーが兵士たちに目撃されている。そしてまた身内の証言もある。第2次世界大戦中、アンヘル・アルカサル・デ・ベラスコというトップクラスのスパイがいた。ナチス降伏の寸前まで、ヒトラー、そしてエヴァ・ブラウンとともに地下室で過ごしたベラスコが、マルチン・ボルマンから聞いた話を、こう明かしている。「ボルマンは、ヒトラー総統を総統府から連れだして、ひとまずドイツ南部のロタック・アム・エルヘンの要塞に移した。ヒトラー総統とエヴァの死体がガソリンをかけられて焼却されたという話は、彼の創作だ。世界中にニセの事実を信じ込ませることに成功したのだ。実際には、ボルマンが信用する部下数人を使い、要塞からドイツ領内を横断し、船でヒトラー総統をノルウェーに移した

 1945年5月の時点で、ヒトラーはまだ生きていたのである。

 FBIも捜索したヒトラーの行方 ブラジルで95歳まで生きていた!?

・さらに、ヒトラー生存説を裏づける根拠がある。2009年に米コネチカット大学で行われた遺伝子鑑定の結果が、“それ”だ。ヒトラーが自殺したとされるベルリンの地下室で発見された頭蓋骨の破片が、実はヒトラー本人のものではなく、20~40歳の女性のものだったことが判明。つまり、ヒトラーの死体は発見されていないのである。

 ・2014年4月15日、英のニュースサイト「エクスプレス」が機密解除されたFBIの文書の一部を公開した。そこにはヒトラーの死亡が未確認で、Uボートで南米アルゼンチンに逃亡した可能性があり、FBIまでもがヒトラーの行方を追跡していた事実が記されていた。

 ・そして今年、ヒトラー生存説に、また新たな“事実”が加わった。なんと、ヒトラーがブラジルで95歳まで生きていたというのだ!

 2016年3月、驚くべき情報がネット上に公開された。元ナチスの残党を追跡していたシモーニ・レニー・グエレイロ・ディアスによって、ヒトラーがブラジル人の愛人と95歳まで生きていたという証拠写真が公開されたのだ。写真は死の2年前、1984年に撮影されたもので、その男は、黒人のガールフレンドであるクティーニャと一緒に幸せそうにポーズをとっている。

 シモーニの著書「ヒットラー、その生と死」によれば、ヒトラーがベルリンの地下室で死んだというのは真っ赤なウソで、アルゼンチンを経てパラグアイに飛び、ブラジルのマト・グロッソにある小さな町に落ち着いたという。そこで彼はアドルフ・レイプジクという変名を用いて暮らし、地元民には「年老いたドイツ人」として知られていた。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイトの「カラパナア」(不思議と謎の大冒険)から引用

 ヒトラーは生きていた!?ブラジル人の恋人と95歳まで生きていたという証拠の写真が発見される

 ヒトラーは生きていた!?>

現代においても未だその影響力が半端ないドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーヒトラーは1945年4月30日、総統地下壕の一室にて、妻であるエヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げたというのが歴史上の認識であるが、実はブラジルに逃亡し、95歳まで生きていたという噂もあり、最近になってその可能性を示す写真が発見されたそうだ。

 ヒトラーが死んでいなかったという話は諸説あるが、ある本によれば、彼はパラグアイに逃れ、アルゼンチン経由でブラジル、マットグロッソ州にあるノッサ・セニョーラ・ド・リブラメントという人口12,000人ほどの小さな町に移り住んだという。そこではアドルフ・ライプツィヒという偽名を名乗っており、住民からは”ドイツの老人”として知られていたらしい。

   問題の写真は、ヒトラーが亡くなる2年前の1984年に撮影されたと主張されるもので、そこには黒人の恋人クティンガとポーズをとる幸せそうな姿が映し出されている。

 『Hitler in Brazil - His Life and His Death(ブラジルのヒトラー - その生と死)』の著者シモーニ・レネ・ゲレイロ・ディアス氏によれば、ヒトラーバチカンの友人から地図を入手し、そこに記されていた秘密の財宝を探していたらしい。恋人のクティンガは素性を隠すために利用していたようだ。ディアス氏はヒトラーの自殺が信じられず、ライプツィヒと称する人物の遺体を掘り起こし、DNA鑑定するべきだと主張している。

   ディアス氏はヒトラーが隠れ住んでいたという町を2年間調査してきたそうだ。ここはボリビアの国境に近い、18世紀のゴールドラッシュによって作られた町であるその付近の洞窟にはイエズス会の財宝が眠っているとされ、ヒトラーがここに住んだのも偶然ではないと彼女は睨んでいる。

 彼女がこのような考えに至ったのも、古い不鮮明な写真を加工して髭をつけたところ、ヒトラーそっくりな人物が現れたからである。ディアス氏によれば、80年代初頭にクイアバの病院で手術を受けたヒトラーを身元不明のポーランド人修道女が見つけ、そこから立ち去るよう命じたことがあったらしい。しかし、自分はバチカンの命令で来ているのだと逆に叱責されたという。

   陰謀論では、ヒトラーがドイツから南米へ逃れたと主張されることがある。この見解は、イギリスの2名の作家がアルゼンチンで盗作疑惑をかけられたことから、盛んに議論が交わされるようになった。

 2011年に出版された『Grey Wolf: The Escape of Adolf Hitler(灰色の狼:アドルフ・ヒトラーの逃亡)』の著者ジェラード・ウィリアムズ氏とサイモン・ダンスタン氏は、ヒトラーエヴァ・ブラウンパタゴニアに逃れ、62年に73歳で死ぬまでに2人の娘をもうけたと主張している。この本は後に映像化されたが、アルゼンチン人のジャーナリストは著者らが自分の研究内容を許可なく使用していると訴えた。

   こうしたヒトラーがアルゼンチンで生きていたとする説を、歴史家のガイ・ウォルターズ氏は馬鹿げていると一蹴する。「まったく恥知らずで、そんな証拠はどこにもありません。陰謀論者の妄想に訴えかけているだけで、歴史的な研究とは言えませんね」

   マットグロッソ連邦大学の歴史学者カンディード・モレイラ・ロドリゲス氏も「ヒトラーが南米に逃れていたと主張する歴史家と称する人物たちは皆似たようなものですよ」と、同じく否定的だ。

  そうした説によれば、戦後、悪名高いアドルフ・アイヒマンヨーゼフ・メンゲレをはじめ、大勢のナチスが逃亡を果たしたという。ヒトラーの死を証明しようとする研究者にとって頭が痛いことに、その物理的な証拠は一切発見されていない。2009年には、地下壕付近で発見されたヒトラーのものとされる頭蓋骨の破片をDNA鑑定したが、女性のものであることが判明している。

 

 ヒトラーが生きている姿を最後に目撃したとされる元親衛隊曹長のローフス・ミシュは、2013年に96歳で亡くなった。生前彼は、閉じられたドアの向こう側で銃声を聞いた後に、頭からテーブルに倒れているヒトラーを見つけたと発言している。

 

 『2000年5月5日宇宙人大襲来』

(草刈龍平)(第一企画出版)1996/12

映画インディペンデス・デイはなぜ緊急制作されたのか

アメリカ政府が隠し続けた恐るべき事実

  

ヒトラーが宇宙人と密約していた動かぬ証拠

ヒトラー

ナチスが開発したというこのUFOの性能は想像を絶するものだ。いったい今から50年以上も前にヒトラーのエンジニアたちはどこからこうした超高度技術を獲得したのだろうか。その疑問には、ヒトラーが副官のフォン・ラウシュニングに語った以下の言葉がヒントになる。

全ての人々の上に私が語ることのできない新しい高貴な人類が君臨するだろう。しかし、普通の軍人たちはこれらの計画については何も知らない。新人類は今我々の間にいる。彼はここにいるのだ。これで十分だろう。私は、君に秘密を話した。私は、新人類を見た。彼は大胆で冷酷だ。私は、彼を恐れている

 

・いったいヒトラーはこの「新人類」という言葉で何を意味しようとしていたのであろう。ラウシュニングによると、ヒトラーはいつも何かに怯えていたらしい。彼は就寝中、悪夢にうなされて気狂いのように目覚め、目に見えない何かに向かって訳の分らぬ言葉を叫んでいたという。

宇宙人に誘拐されたのではないのだろうか。ヒトラーは宇宙人とひそかに接触したのだと筆者は想像する。

  

 フェローシップ』  知られざる宇宙の隣人たち

ブラッド・スタイガー   たま出版   1996/2

  

ヒトラーの秘密の探索>

1942年4月、ドイツのナチスは、幻想主義的な科学者達の遠征隊をある場所へ向けて派遣した。遠征隊は、「内部が空洞の地球」の空洞内にいるとされる軍から、その見解を聞くという目的で編成されたものであった。先端的知識を持つそうした科学者達が探索へと送り出されたとき、ドイツは第三帝国の建設に向けて連合軍打倒ムード一色であったが、当時ゲーリング元帥、ヒムラー長官そしてヒトラー総統は、この地球の空洞内にいる軍を探すという計画に、非常に熱心であった。ヒトラーは、地球はへこんだ皿のような凹状の形をしており、地球の地面の下には別の人間が住んでいるのだと、永いこと信じて疑わなかったのである。

 

・「地球空洞説」を信じていたナチスは、遠征隊をリューゲン島に派遣したときに、この疑似科学的な見解が正しいものであるという自信を確実なものにした。ヒトラー総統の側近達は、総統の考えに心酔していた。すなわち、リューゲン島で「地球の内側に存在する世界」への入り口を発見したという大成功について、Nazisこそが、空道内に住む「指導者」たちとの間に混血種の子孫を残す資格を持つ、選ばれた人種の集まりであるということを、その「指導者」達にはっきりと理解してもらう絶好のチャンスであるという考え方である。

 ナチス神話の重要な特徴は、地下に隠れている、パワーに満ちた秘密の種族はその代表者を地上に送り出し、人類に紛れて生活しているという考えであった。選ばれたアーリア人のみの国家を創るという、ヒトラーの狂気ともいえる願いは、どの人種よりも高等な種族として選ばれ、地中に住む超人達との間に突然変異的な新種族を生み出し、英雄、半神的存在、さらには神としての人間を創り出したいという強迫的な願望によるものであった。

 ・作家のルイス・パウエルスとジャークバーギャーは、第三帝国時代ダンツィヒの統治者であったヘルマン・ラウシュニングの言葉を次のように引用している。ヘルマン・ラウシュニングはヒトラーとの会話の中で、超人とのミュータントを創り出そうというヒトラーの計画についてこう述べている。

「全く新しい人種が今我々の中にいるのだ!」とヒトラーは叫びました。「彼はここにいるのだ!それだけじゃ十分でないとでもいうのかね?君に秘密を教えようじゃないか。この私自身、超人をこの目で見たのだ。彼は勇敢で容赦なかった。私は彼を恐ろしく感じたよ」

ラウシュニングによると、ヒトラーが超人についてこのように話したとき、ヒトラーはある種の恍惚感を感じているようだったという。

 ヒトラー霊媒師であった可能性を示唆する証拠があるという根強い噂も存在している。事実、彼の生まれたオーストリアの小さな村ブラナウは、昔からヨーロッパの心霊主義の中心地として知られていた。また、アドルフ・ヒトラーはその幼児期、ウィリー・シュナイダーと同じ乳母のもとで育っている。ウィリーは弟のルディーと兄弟二人で、後に世界的に有名な霊媒師として知られるようになった存在である。

 ラウシュニングはさらに「ヒトラーの側近」から、ヒトラーが夜中によく叫び声を上げて目を覚まし、ひきつけを起こしていたと聞いたと主張している。ヒトラーの使用人達の話によると、かつての独裁者は哀れにも小さく縮こまりながらしくしくと泣き声をあげ、「彼」が自分のためにやって来て部屋の隅のそこ(ヒトラーはその場所を指し示した)に立ったのだと大声をあげた。ヒトラーは、「彼」がヒトラーの寝室を侵略するために地下の王国からやって来たのだと、叫び声を上げながら訴えた。

 ・神秘的な存在の訪問を受けたと主張している為政者はアドルフ・ヒトラーだけにとどまらず、他にも存在する。そうした神秘的な訪問者は、ヒトラーが主張したような「新しい種族」というよりも、非常に古くからいる種族を代表する者達だったのではないだろうか。