日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

神様あるいは「サムシング・グレート」というような存在がつくった、「知恵の蔵(真理の蔵)」ともいうべき場所がどこかにあって、私たちのひらめきや発想は、その蔵から出てくるのではないかと考えたことがあります。(5)

 

異常の原因はヤニ

・B727の乗務時代にもうひとつ思い出されるのがタバコである。現在、日本をはじめ世界各国のエアラインのほとんどが全席禁煙。それはコックピットも同じなのだが、昔は乗客もパイロットもスモーカーだらけだった。

 

アメリカ人パイロットの中にはずんぐりとした葉巻を愛用するのがいて、それがまたものすごい臭いと煙だったが、そんなものだと気にもしなかった。着陸してから、キャビン・アテンダントにおしぼりをもらって計器や座席を拭くと、ヤニで真っ黄色になったものだ。東京~大阪間のごく短い水平飛行の時間中に一服したうえ、飯を食ってログブック(搭載用航空日誌)をつけてこそ一人前、そんな風に言われていた時代だ。

 

・JALは国内線が少なかったが、やはり新鮮な魚介類が食べられる福岡、札幌のステイは格別だった。特に福岡が大好きで、ホテルに荷物を放り込むなりクルー仲間と中洲に繰り出し、これでもかというくらい飲み、食べ歩いたものだ。まだ20代半ばで食欲旺盛だったから、焼肉屋で10皿をまたたく間に平らげたこともある。

 ホテルで風呂に入れるのもありがたい。風呂なしアパートに住んでいた私は、入浴はステイ先と決めていたくらいだ。当時、私たちの給料はお雇いアメリカ人パイロットの5分の1、アメリカに牧場を買ったなどという話を羨望の思いで聞きながら、銭湯代も節約するような暮らしだったから、ホテルでひと風呂浴びるのもステイの大きな楽しみだった。

 

よくこんな国と戦争したものだ

アメリカでの訓練は「パイパー・チェロキー」から双発機の「パイパー・アズテック」に移っていった。

 

・この頃になると、アメリカでの生活もなかなか板についたものになり、教官など現地スタッフとの英語での会話に困ることはなくなっていた。

英語に関しては、日本できちんと基礎を学んでいたこともあって、訓練生の英語はアメリカ人からも評判が良かった。

 住んでいたのは空港に隣接する寮だったが、その食堂はビュッフェ形式で食べ放題。バターをパンと同じくらいの厚さに塗って食べている彼らの真似をしていたらどんどん体重が増加し、日本を出たときより7キロも太ってしまった。

 牛肉のステーキも毎日のように出た。ビーフステーキを「ビフテキ」と呼び、庶民の口には入らない時代を過ごしてきた世代にとって、ステーキは文字通り垂涎の的。ここで食べなければ一生後悔すると言わんばかりに胃に詰め込んだ。商船大学の寮食堂で出される肉といえば鯨肉しかなく、草履のように固い筋を食いちぎる毎日、それを思うと、アメリカの食生活には圧倒されるしかなかった。

 週末には町までの無料バスが用意されていて、買い物などで利用させてもらったが、ここでも商品があふれるアメリカの経済力に圧倒された。よくこんな国と戦争したものだ、と正直そう思った。

 

・戦争は終わっていたとはいえ、おやつといえば芋、肉といえば鯨、というのがあたり前だった私の目に映るアメリカ人のライフスタイルは、リーダーズ・ダイジェストのグラビアよりも数倍衝撃的だった。

 

今後もまず破られない「連続出場記録」

・酒やタバコをたしなむか否かは個人個人で異なるが、誰にでも加齢現象はやって来る。ただし年齢による身体機能の低下は個人差が大きい。本人の気持ち、取り組む姿勢、努力次第で視覚や聴覚などを一定水準以上に保つことは不可能ではない。

 2010年現在、63歳の私が老眼鏡のお世話になったことがないのは、日常生活の中で目のトレーニングを欠かしたことがないからだ。

 

足は「第2の心臓」と呼ばれるくらい重要な器官である。コックピットの座席はエルゴノミクス(人間工学)に基づいてデザインされ、座り心地はかなり良いものだが、その足元はペダル類が占領し、窮屈きわまりない。椅子はファーストクラス級でも、足元はエコノミークラス以下なのだ。長時間の操縦は足をうっ血させていくから、そのケアはパイロットにとって非常に重要になる。

 

・そこで私は、フライト中トイレに立ったとき、血行を促すために必ずスクワットをしていた。いわゆる「エコノミークラス症候群」にならぬよう、座席の横には常にペットボトルを置いて、頻繁に給水を行う。そのため2時間に1回くらいトイレに立つのだが、パイロットは2名いるので、どちらかが操縦席に座って、飛行全般を把握していればもう1名はトイレに行ってよいことになっている。

 

一方、外で足を鍛えるには、やはりウォーキングがいい、それまでの生活習慣がたたって、37歳のときの航空身体検査で検査数値が危険水域近くになったのをきっかけに始めたウォーキングは、いまでも続けている。1時間に6キロ歩くペースで1日平均1時間30分、これでちょうど1万歩になる。

 ウォーキングの効用としては、体重が減り血圧が下がる、姿勢がよくなり腰痛がなくなる、夜熟眠できるようになる、気分が爽快になる、自然への感性・五感が磨かれる、免疫力が向上して風邪もひかなくなる、歩きながら目の訓練ができる、ストレスが解消される、いろいろなアイディアが浮かんでくる、そして歩くこと自体が楽しくなるなど、さまざまなものがある。

 ウォーキングをする時間もないときは、電車や地下鉄に乗りながら足を鍛える。ひと駅ごとに、つま先立ちとかかと立ちを2~3回繰り返す。駅では、エスカレーターではなく、できるだけ階段を使う。こういった日常生活の中でのちょっとした心がけ、工夫によって、誰でも自分の健康を維持増進できるはずだ。

 そんな日々の健康管理もあって、私は42年間のパイロット人生の中で、個人的な理由では一度もスケジュール変更をしたことがない。

 

・もちろん、風邪をひいて寝込んだことくらいは私にもあるのだが、そういったときは必ずオフの日だった。

 

機長の健康管理5つの秘訣

退職する前後から、63歳まで現役でいられた秘訣について聞かせてください、という質問を受けることが多くなってきた基本的には「食べる」「動く」「寝る」「ストレス・コントロール」「健康診断の活用」の5つが私の回答だ。

 最初の「食べる」については、カロリー・コントロールに気を配りながら何でもバランスよく食べることが大切、パイロットのように外食が多くなる職業の人は、レストランや飲み屋でも野菜メニューを極力摂るよう心がけたい。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より、

 

日航ジャンボ機UFO遭遇事件

日航ジャンボ機UFO遭遇事件は、1986年11月17日に日本航空の貨物機が、アメリカのアラスカ州上空で未確認飛行物体(UFO)に遭遇し追跡された事件。

 

事件概要

事件当日のJAL1628便

使用機材:ボーイング747-246F

コールサイン:Japan Air 1628

フライトプラン:パリ発アンカレジ経由東京行

コックピットクルー(年齢は全て事件当時) 機長:寺内 謙寿(47歳)

副操縦士:為藤 隆憲(39歳)

航空機関士:佃 善雄(33歳)

 

 

母船型UFOとの遭遇

 1986年11月17日、パリ発アンカレジ経由東京行JL1628便、日本航空ボーイング747-246F貨物機が、アメリアラスカ州のフェアバンクス上空の高度約10,000メートルを飛行中に、両端にライトを点灯させた巨大な母船型UFOに遭遇した(ただし、「母船型」と言っているのは機長だけで、副操縦士は「光は見たが、機長の言うような形には見えなかった」と証言している)。

 

同機機長によると、UFOは自機の大きさの3~4倍にも匹敵する巨大な球形で、1時間弱の間、旋回して逃れようとした同機と併走するように移動し、機内の気象レーダーにもはっきりと写ったが、なぜか雲のような透明状のものとしてレーダー上では写っていたとのことである(金属製の物体なら赤く映るがUFOの像は緑の中であった)。

 

このUFOについては、アメリカ連邦航空局(FAA)のアンカレッジ空港の地上レーダーとアメリカ軍のエレメンドルフ空軍基地レーダー局でも該当する物体は補足されなかった。後述のキャラハン氏のみが地上レーダーで捕捉されていたと証言している。地上レーダーで確認できなかったことから、管制局から「調査のため空軍機の飛行を依頼するか」との提案があったが、機長は当該提案を断った(なお、通信記録にこのような会話は無いと言われているし、外国の民間人にそのような判断をゆだねるのは極めて不自然である)。この提案を断ったことについては、後に機長自身による「非常に高度に発達した飛行機に対して、あるいは宇宙船に対して行動を取った場合に、彼らはものすごい技術を持っていますんでね。"なんか変なことでもされたんでは申し訳ない"という気持ちがありますもんで、即座に断りました」という発言があった。

 

その後、JL1628便がアラスカ行きのユナイテッド航空機と行き違ったところ、UFOは反転して今度はユナイテッド機の追尾を始め、同機がアラスカに着陸すると何処かに消失した。なお、ユナイテッド航空機はUFOらしきものは見ていない。

 

なお、このUFO目撃事件については、「航空機の安全運航に影響がある」とされたことから、アンカレッジ着陸後、FAAによって機長の事情聴取が行われ、機長については酩酊などの可能性がないことが報告されている。

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイト「Business Journal」から引用

 

杉江弘「機長の目」

アラスカ上空でパイロットが「UFOに追いかけられた」との報告…国が乗務停止処分に

文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長

 

私は講演会などで「パイロットは世界中を飛んでいるので、UFOを見かけるのでは?」という質問を受けることがある。そういうときは、「大半のパイロットは見たことはないが、なかには見たというパイロットもいる」と答えている。

 

 かつて私の知り合いでもある先輩機長がヨーロッパからアラスカのアンカレッジ空港に進入着陸しようとしていたときに、UFOに追いかけられたと報告した事例があった機長の証言によると、最終進入中にUFOと思われるいくつもの光の集団が自機につきまとって離れなかったというのである。

 

 しかし、この報告を受けた国土交通省の対応は予想を超えるものであった。早速、同省が管轄するパイロットの身体検査証を発行する航空医学研究センターの精神科の医師に診断させ、結果、精神異常として乗務を停止する処分としたのである。

 

 この判断の元には、UFOなんてこの世には存在しないもので、それを見たというのは頭がおかしいとする考え方があったと思われるが、当時はUFOの存在に関する政府の考え方は存在しなかった。ちなみに政府はこの一件からかなり年を経た2007年12月18日、UFOについて「その存在を検討しない」のが日本政府の立場であると表明した。

 

 しかし、当時の町村信孝官房長官が「こういうものは絶対にいると思っている」と発言したかと思えば、石破茂防衛大臣もUFOが襲来したときに自衛隊の出動が法律上可能かどうかを個人的に検討する考えを示した。そして、「UFOは外国の航空機でもなく、領空侵犯への対応は厳しい」と自衛隊法では対応が難しいとの認識を披露。さらに「ゴジラが来たら天変地異だから自衛隊災害派遣は可能で、モスラでも同様」との持論を展開したのである。

 

 政府首脳が個人的に発言するのであれば何を言っても構わないと思うが、日本政府はUFOはいると考えているのか、それともいないと考えているのかは現在でも明らかにしていない。であれば、アラスカでUFOを見たといった機長を処分できる根拠はない。

 

本来は報告すべき

 

 私は今からでも、当該機長に政府は謝罪して当時の処分を撤回すべきであると考えている。そもそもUFOとは「未確認飛行物体」の略で、宇宙人が乗り物に乗って地球にやってくることだけを意味するものではない。なにか不思議な形をしたものなら、どんなものでもUFOなのである。パイロットはそのような物体を見たとき、たとえば演習中の戦闘機が太陽やほかの光との反射などの影響によって変わった形の物体に見えても、本来は報告すべきであろう。それは、場合によってはニアミス事故にもなりかねないからだ

 

 しかし、現在の航空法にはそのような規定もないどころか、報告すると精神異常とみなされかねない。これでは今後、誰も実際に見ても報告するわけがない。実際、この一件以来、少なくとも日本航空JAL)のパイロットの間では、「仮にUFOらしきものを見ても絶対に口に出してはならない」とのコンセンサス(合意)がある。言ったら最後、乗務停止になるかもしれないからだ。

 

 ちなみにアラスカでの一件は、のちにある民放のテレビ特番として放映され、科学の専門家たちによる検証も行われた。その結果、当時の気象状態、太陽の位置、それに飛行経路やほかの飛行機の運行状況などを併せて分析すれば、当該JAL機の影が乱反射して、あたかも明るい飛行物体がまとわりついてくるように見えることが判明した。

 

 だが、この特番でテレビ局の出した推定原因も、ひとつの仮説にすぎない。真相は今もって謎のままである。

(文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長)

 

 

<●●インターネット情報から●●>

ウェブサイト「みんなが寝静まった頃に」から引用。

 

日航ジャンボ機UFO遭遇事件、機長が見たものはUFOである可能性が高いことが30年ぶりに証明されてきた!

 

昭和61(1986)年11月17日。羽田空港行きの『日本航空』ジャンボ貨物機が、アラスカ上空で謎の発光体と遭遇した。このニュースは世界中に配信され、日本でも大きく報道されたが、「機長の寺内謙寿氏が木星と勘違いした」とあっさり結論を出されてしまった。寺内機長はその後、地上勤務に配転させられたが、数年後、アメリカのレーガン大統領がこの件を“極秘”扱いにし、日本に“圧力”をかけていたことが判明したのだ――。 (取材・文/フリーライター 石橋春海

 

昭和61(1986)年12月末、新聞等が「パリ発羽田行きの日本航空ジャンボ貨物機が、アラスカ上空で巨大UFOに遭遇」と大きく報道した。事件が発生したのは、報道の1ヵ月以上前である11月17日、現地時間の17時10分。ボジョレーヌーヴォーを満載して、アラスカのアンカレッジ北東部を航行していた日航機の前方に、2つの光が現れた。搭乗員は、寺内謙寿機長(右写真・当時47)・為藤隆憲副機長(当時39)・佃善雄航空機関士(当時33)の3名。副機長が航空管制センターに問い合わせるも、「レーダーに反応無し」との回答。数分後、光は日航機の前方上空に瞬間移動するや、コックピット内が昼間のように明るくなり、熱も感じた。軈て、UFOの全体像が浮かび上がる。ジャンボ機の何倍もあり、まるで航空母艦のようだったという。航空管制センターが確認の為にアメリカ空軍の『F-15』戦闘機を出そうとしたが、「高度な技術を持った相手に対し、何か変なことをされたのでは申し訳ない」という寺内機長の判断により、要請を断った。その後、アンカレッジ空港到着直前、UFOは忽然と姿を消した。この間、約50分の出来事だった。このUFO遭遇事件は、多くのマスコミが取り上げて大騒動になったが、結局、「寺内機長が火星や木星と誤認した」と結論付けられ、事件は収束した。今年、その事件から30年。日本航空を定年退社後、77歳になった寺内氏に話を聞いた。

 

事件後の寺内氏は、見間違いを喧伝した責任を取らされて日航を辞職し北海道に移住した説や、『11PM』(日本テレビ系)出演後に急死した説等が噂されたが、全てデマだった。ただ、事件後に地上勤務に左遷されたのは事実である。「悔しかった」(寺内氏)が、操縦能力が衰えないように訓練を続け、3年後にパイロットに復帰した。寺内氏は、それら誤報も含めて今は「面白かった」という心境に至っている。自分が釧路湿原に移住したというデマを垂れ流すテレビ番組を観ながら、「失言で湿原へ移住し、悔恨(開墾)するってか」と駄洒落で笑い飛ばしたという。「勝手な人が勝手なことを言っていて凄かった」と、寺内氏は当時の狂騒ぶりを振り返る。ある高名な精神科医は、寺内氏を「幻覚を見た狂人」と診断した。「でも、今頃は人生最大の誤診と思っていますよ」(寺内氏)。その根拠として寺内氏は、UFO関連の機密情報を公開している『UFOディスクロージャープロジェクト』を挙げる。同プロジェクトの2001年発表分に、この日航機事件が含まれていたのだ。アメリカ政府の元関係者等が暴露した文書によると、日航機が遭遇したUFOはアメリカ軍のレーダーで捉えられ、そのデータはレーガン大統領(当時)がトップシークレットにした。そして、日本政府に発表を控えるよう圧力をかけたという生々しいものだったという。それでも、筆者は敢えて質問した。「UFOを目撃したというのは本当ですか? 記憶は薄れましたか?」と。すると寺内氏は、「若しピストルを頭に突き付けられたら、一生忘れないでしょう? UFOの目撃は、それより強烈だった」と答えた。更に筆者は、「では、あの飛行物体は某国の秘密兵器なのでは?」と訊いた。寺内氏は即座に、「レベルが違う」と話す。目撃したUFOから“人類の叡智を超えたもの”を寺内氏は感じたのだ2014年10月、『アメリカ航空宇宙局NASA)』が初めてUFOの存在を認め、映像を公開した。更に今年、アメリカ政府がUFOの存在を公式に発表することが噂されている。寺内氏が再び脚光を浴びる時が訪れるのかもしれない。

 

 

 

『写真で見る日本に来た?!UFOと宇宙人』 

矢追純一)(平安)(昭和51年)

 

 

 

 全日空パイロットもUFO目撃>

・同じく千葉上空で、全日空パイロットが、UFOを目撃した事件がある。昭和50年1月15日、夜のことである。広島発・羽田空港行きの全日空680便の副機長、樋口俊樹さんは、着陸待機のため、千葉県上空を旋回中、UFOに遭遇した。時刻は午後6時8分。当時の飛行日誌に記入されているので、間違いはない。当時、樋口副機長の乗っていたYS―11機は、羽田空港に向かって、海側から内陸部に目指す方向に飛行中だった。その時、樋口副機長は副操縦席の窓から機よりやや上空を通過する青い光点の列を見たのである。

 

・そのものの本体は暗くて見えなかったのだが、前部に10数ヶ所の青い光の窓のようなものが整然と並んでいて、そのすぐ後方に、やはり同じ色の光点が5ヶ、これまた整然と光っていた。

 

・それらは、ちょうど薄い雲のようなものに覆われていて、巨大な飛行体についている窓の灯りのように、きちんと並んで美しく光ったまま樋口副機長の前をゆっくりと通り過ぎて行った。

 

・それが幻覚などではない証拠には、その物体のさらに向こう側を自分の機とは反対方向に、やはり着陸待ちで旋回中の日航機が通り過ぎていくのが見え、その日航機が一瞬、その物体にさえぎられて見えなくなったという。ちょうど副操縦席の窓を通して、それが視野から消え去るまでの数10秒間、樋口副機長は、そのUFOらしいものを見続けた。

 

  

 

金正日は日本人だった』

 佐藤守(元自衛隊空将)   講談社  2009/10/28   

 

 

 

<日本を愛す将軍様

 ・そして<かちかちのサンマをほおばりながら、「百年の宿敵」であるはずの日本の庶民料理が、とにもかくにも平壌のど真ん中で食べられるのは、なんとも不思議な感じがしたものだった。いま思えば、金正日が無頼の和食通だったのである>との感想を持った。

  これまた、金正日の和食好きを表しているエピソードである。

  

<人民軍の大将たちの愛唱歌は「ラバウル小唄」>

 ・将軍が愛する日本のものは食べ物だけではない。

  金正日の愛車はトヨタのセンチュリーだという。当然ながら安全性には細心の注意が払われており、防弾ガラス、鉄板も普通の市販車に比べると分厚い改造車で、藤本氏によると、ドアはことのほか重かったらしい。

  

・藤本氏は、宴会場には必ず「カラオケセット」があり、日本の歌もよくうたわれたという。

  

・演歌だけではなく、宴会で軍の大将が酔っ払うと、どういうわけか日本の軍歌を歌っていた。

  

・藤本氏の証言では、金正日が執務室で使っていたのも、NECのパソコンだったらしい。金正日には毎日500~1000件の報告が届く。報告はFAXとメールが主で、金正日はその処理のために、早くからNECのパソコンを導入していたという。

  これらの物資のほとんどは、日本から万景峰号で運ばれたものだろうが、日朝間がいかに「太いパイプ」で密接に繋がっているかという証明でもあろう。

  

・なぜ、日本のアーティストを将軍がご存じなのか。私は北朝鮮内部にも情報網をめぐらせている知人から、「実は、金正日は日本の衛星放送を好んで見ている」という話を聞いたことがある。そのとき非常に印象深かったのは、彼が「一番好きな番組は皇室関係の番組らしい」と語っていたことである。

  天皇制と金王朝の関係を示唆する重要な証言だが、それはさておき、藤本氏の著書が伝える金正日の姿は、まるで親日家である。元在日の妻を寵愛し、日本人の料理人を傍に置き、和食に舌鼓を打つ。日本のテレビ番組を好んで観るし、移動はトヨタのセンチュリー。ときには日本の芸能人のショーを楽しむ。親日家を超えて「愛日家」という印象さえ受けるのだ。

  

30年近く前に来日していた金正日

 いや、それどころか、金正日は何度も来日しているという説を唱える専門家もいる。あまりにも突拍子もないので、大半の人が信じられないだろうが、そう主張しているのが、あの北朝鮮の専門家、早稲田大学国際教養学部教授の重村智計氏だと知れば、私でなくとも興味が湧くはずである。

  重村氏は元毎日新聞記者で、30年以上、北朝鮮に関して取材を続けてきた。その取材のなかで、それまで書かなかった事実を、金正日の正体』(講談社現代新書と題して2008年に出版した。

  その書には、金正日の影武者の存在など、驚くべき事実が、確かな裏づけに基づいて明らかにされているのだが、私が最も興味を持ったのは、<将軍様は82年から東京に遊びに来ていた>というくだりである。

 

 重村氏はあるとき、衝撃的な内容の本に出合った。タイトルは『人生は、ショータイム』(ブックマン社)著者は日本有数のダンスの振付師、小井戸秀宅氏で、2004年5月に上梓された本だった。題名だけを見れば、小井戸氏の振付師としての半生を綴っただけの本のように思えて、一般の人はほとんど関心を持たないだろうが、この書には度肝を抜かれるような事実が書かれていた。

  

・若い方はご存じないだろうが、かつて東京・赤坂に伝説のレストランシアターがあった。「コルドンブルー」である。コルドンブルーが開店したのは1971年。約40年近くも前に、一人5万円の料金で、フランス料理のフルコースとレビューを楽しませる超のつく高級レストランシアター。フランスのル・モンド紙が「レストランシアターではフランスのクレイジーホースとジャポンのコルドンブルーが世界の雄」と絶賛するほど、その豪華なショーは評判が高かった。

 

・この伝説のコルドンブルーで、ショーの振り付けを担当していたのが、小井戸氏だった。小井戸氏は『人生は、ショータイム』のなかで、北朝鮮の「喜び組」の踊りの振り付けは、コルドンブルーで彼がつけていた振り付けのパクリで、北朝鮮にはコルドンブルーのスタッフが呼ばれてつくった、まったく同じ舞台まであると明かしている。

  これだけなら驚くに値しないが、続く記述に重村氏の目は釘付けになった。

  

喜び組”は、コルドンブルーを見た金正日が、『コルドンブルーと同じような女性ダンサーを育てたい』といって結成したものです。コルドンブルーは北朝鮮に文化輸出されました

 

<彼は芸能界、映画界に興味がありショービジネスも大好きで、お忍びで来て、コルドンブルーのショーを楽しんだのでしょう。日本のタレントのなかでもプリンセス天功にとくに興味があり、彼女のショーを見たのでしょう>

 

金正日は来日し、コルドンブルーのショーを見て、すっかり気に入り、北朝鮮にコルドンブルーの舞台を再現し、「喜び組」にそっくり同じショーをやらせている。プリンセス天功のイリュージョンを見たのもコルドンブルーで、その後、彼女をたびたび招くようになったというのである。

  しかも、小井戸氏は、1982年5月に金正日がコルドンブルーを訪れたときの写真まであるという。

 

・それにしても、金正日のような有名人が来日すれば、すぐにばれて大騒ぎになってしまうのではないかと疑問を持つ方が数多くおられるかもしれない。だが、それは愚問だ。なぜなら、1982年当時、金正日の名は聞こえてきていても、顔は誰も知らなかったからだ2009年の後継者騒ぎを思い出していただければわかりやすいだろう。

 

・北の後継者として金正雲の名が取りざたされたとき、報道各社はその姿を写した写真を入手しようと奔走したが、テレビに映し出されたのは、先述の藤本健二氏が北朝鮮から持ち帰った、子供のころの写真でしかなかった。日本人は誰も現在の金正雲の顔がわからない。街で来日した金正雲とすれ違っても、誰一人気づかないはずだ。

 

・1982年当時は、日本人はもちろん北朝鮮の人々も、金正日の顔など見たことはない。飛行機嫌いの金正日万景峰号に乗船し、日本へやってきたといわれている。だが、将軍様万景峰号に乗船して来日しても、北朝鮮の一般の乗客は、まさか偉大なる首領の後継ぎが自分たちと同じ船に乗っているとは思いもしない。

 

<北の指導者が赤坂に通い続けたわけ>

 ・なぜ、それほど熱心に金正日はコルドンブルーに通ったのか。プリンセス天功のショーが目当てだったのはたしかだが、重村氏は他にも重要な理由があったと分析している。

  

金正男はなぜ密入国を企てたか>

 金正日が1970年代からたびたび訪日していたとすると、2001年5月1日の金正男事件も理解できる。

  この日、「金正男氏と見られる男性」が、成田空港で入国管理局に拘束された。男は妻子を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して入国をはかったところ、入国管理官に見抜かれ、拘束・収容された。

  その際に、背中に虎の刺青が施されていることが判明し、金正男であることが、ほぼ確認された。ロイヤルファミリーの一員の身柄拘束は、北朝鮮から重要な人質を取ったに等しく、日本人拉致問題の解決の糸口になるのではという声も多くあがった。

  ところが、外交問題に発展することを恐れた日本政府は、強制退去処分にし、金正男は5月4日、全日空機で中国に向け出国した。

 

 

 

『実録 自衛隊パイロットたちが目撃したUFO』

 地球外生命は原発を見張っている

 佐藤守   講談社  2014/11/20

 

 

 

UFOなどという非科学的なものを見たというような人物は精神的にどこかおかしい

・ただ単に、「UFOなどという非科学的なものを見たというような人物は精神的にどこかおかしい」とする観念に国や自衛隊のトップが囚われていて、UFOの目撃は非現実的な錯覚だと決め付けているのです。私が危惧しているのは、こうした指導層のUFOに対する無関心です。

 

 ・ところが今もって、自衛隊内部では、UFOを目撃したなどと報告しようものなら、「貴様、頭でもおかしくなったのか」と一蹴され、過去には正直に報告したがため、辛い目に遭った後輩もいます。

 UFO問題は、かように日本の安全保障にもつながる重大問題であるにもかかわらず、民間でも「サイエンスフィクション」として興味本位に扱われるだけ。真正面から科学的に調査・分析するという姿勢がまったくといっていいほど見受けられません。

  

・ただ、これだけはまちがいありません。彼らの話を総合し、かつ私自身の経験に照らし合わせてみると、「UFOは確実に実在する」と、自信を持って断言できます。

  

<UFOがたびたび目撃される基地>

 ・私が自衛官のUFO目撃談を集めてみると、ある傾向に気づきました。それは、不思議とUFO目撃談は、ある特定の基地に偏っているという事実、UFOの名所があるようなのです。

  たとえば取材したなかで最も多かったのは、松島基地に関するレポートでした。

  

アメリカからの強烈なコンタクト>

 ・UFOに関してはずぶの素人の私の問いかけに、これだけの目撃談が集まったのには驚きました。

 「正体不明の飛行物体」に対処すべき任務を持つ防衛省航空自衛隊が、今まで領空に侵入してくる対象は「他国の航空機」だけであるかのような感覚ではなく、レーダーに映った、またはパイロットが目撃した「正体不明物体」のデータも、いかがわしいと思うことなく素直に収集していれば、この五十余年の間に貴重な資料が集積でき、科学的根拠も整っていたに違いありません。

  すでに北朝鮮のミサイルに備えなければならない事態が迫っているのですから、今までのような航空警戒レーダー網が「低速度目標」ばかりを意識していては、日本の空は守れません。

 

・しかし、未だにUFOといえば、オカルトかSFのような感覚でしか捉えられていないようですし、わが政府の扱いも、麻生太郎氏の答弁からうかがえるように、サイエンスフィクション的発想に留まっています。これでは、第一線の部隊に「UFO関連情報」収集を義務付けるように求める日は、永遠にやって来ないのかもしれません。

  しかし、私のUFOに対する調査に、信頼する部下たちから素直な体験談が寄せられたうえ、その後、私も家族とともにUFOを目撃することになったのですから、彼らの証言を簡単には否定することはできません。

  

・ところが、資料を分析して一つ強く感じたことがあります。それは、現代日本人のUFOに対する姿勢に、排除または封じ込めようという風潮が蔓延している点です。

 

・ところで、2010年に上梓した『実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』を読んだ読者からは、本書に収録した以外にも多くのメッセージを賜りましたし、テレビや雑誌などからも取材を受けました。そのなかに、グレゴリー・サリバン氏という「ETコンタクト活動家」がいました。

 

・名刺には「JCETI」、肩書は「ETコンタクト・コーディネーター」とあり、活動内容と経歴を聞くと、実に興味ある答えが返ってきました。「2003年ニューヨークを旅立ち、ニュージーランドに半年滞在、その後来日、日本が非常に気に入ったので現在は福岡を拠点に活動中」だというのです。

  現在は、「地球外知的生命体(ETI)とコンタクトしながら、コンタクトのためのテクニックをナビゲートするセミナーなども交え、特別なスカイウォッチング『第5種接近遭遇』のイベントを全国で展開中」なのだそうです。

 

・私の本を読んで、多くの自衛官たちがUFOを目撃したのはその第一歩であり、それは「第1種接近遭遇」段階だといいます。「第2種接近遭遇」段階は。「UFOをレーダーで記録すること」であり、「第3種接近遭遇」段階は「宇宙人を目撃すること」、「第4種接近遭遇」段階は「UFO船内で宇宙人とコミュニケーションを行うこと」であり、そして最後の「第5種接近遭遇」段階は、「人間から発信し、宇宙人と双方向のコミュニケーションを行うこと」――彼はそのナビゲートをしているというのですから、いつか私もコンタクトさせてくれるに違いありません。

  

・3時間ほど楽しい会話が続き、時が経つのを忘れるほどでしたが、実に清潔感あふれる好青年で、彼こそ「地球外生命そのものではないか?」と想像を豊かにしたくらいです。

 

 このときの彼との「遭遇」で得られた成果は、私に寄せられた多くの体験談の信憑性が確かめられたこと、「宇宙人=地球侵略者」という悪しきイメージは、「アメリカのメディアによって植えつけられた誤ったイメージ」であること、「宇宙人は常に地球、特に核エネルギーの未熟な扱い方について見守ってくれているのだ」ということ………。

  

結論は、UFOは物質ではなく、「光体やエネルギー体」であり、いろいろな「利権」に絡んでいる各国政府は、自己保存のためにその存在を隠蔽し続けてきたのだということでした。

  

・本書は、2010年7月に講談社から発刊した『実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』に新しく寄せられた情報を大幅に加筆、改題のうえ再編集したものです。