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「橋野川、閉伊川に沿っても、家の娘が淵の主の妻になったという話は二、三に止まらない。有名なのは茂市村腹帯のハラタイ淵の主で、すでに三つの家がこの淵の代々の主と婚姻を結んだと伝えている。(1)

 

 

『河童』

怪異の民俗学  3 

小松和彦  責任編集   河出書房新社 2000/8/1

 

 

 

千葉徳爾 座敷童子

私が主として説明を試みたのは、この信仰の基くところと、何故この地方のみに濃厚な伝承を留めているかである。この点については、最上孝敬氏の論考「家の盛衰」に啓発されるところが多かった

 ザシキワラシの伝承に付随して研究されるべき多くの興味ある話題については、単にその方向のみを注意することにとどめ、更に稿を改めて論じたいと思う。

(注) たとえば隠れ里に行ってもらって来た品物が、富の根源となるという話などがその一つである。

 

・こういっては失礼であるが、この研究を最も熱意をもって進められた佐々木氏などは、事例を追加しようとするあまりに、今から考えるとザシキワラシの本質から遠いものまで、資料として集積報告しておられたところがあるように見受けられる

 ザシキワラシの数多い呼びかた、ザシキボッコ、クラワラシ、クラボッコ、ノタバリコ、ウスツキコなどが、すべて童児を意味することから、それが童形のものと考えられていたことが確かである。また、これが居ると家が豊かで、それが居なくなると家が衰えるということも欠くことのできぬ性格である。憑物とちがって、一定の家系に永久的に附属しないこと、その家屋に居ていたずらなどはしても、決して「たたり」といった種類の行為をしないことなども注意してよい。

 以上の要素をそなえず、単に屋内に住む精霊(ホソテ、ナガテと呼ばれるもの)、そうしたものが示す

 

姿の有無に拘わらず、座敷に寝る者を安眠させず、枕返しをし、床の中に入り、押しつけ、押出すなどは、およそこの地方でザシキワラシの特性のように伝われている。寝ているときに、このような感覚を受ける場合は、他の地方では「もの」に憑かれる時に語られており、それには生理的原因があるらしい。例えば就床前に胃が満ちていたり、調子のよくないときがそれである。しかし、このような理由以外に、既に忘れられた潜在意識も作用しているのではあるまいか。

 

・ザシキワラシが童形にしてその存在が家の富貴繁昌をもたらす精霊とすれば、名は異なっても日本のフォクロアに類例の求められない存在ではない。「紫波郡昔話集」にのせられた福の神ヨゲナイなどが、最も近い場所の一例といえる。

 

 昔、南昌山(岩手県紫波郡煙山村)に門松迎えに行くと、笊淵に鴨が一羽浮いていた。門松を投げつけると鴨も門松も沈んでしまう。すると淵からアネサマが出て来て門松の礼を云い、自分の家にまねく。そして家で門松の礼に何か与えると云うから、ヨゲナイを欲しいといえと教えてくれる。行くと立派な座敷でもてなされ、ヨゲナイというみたくないカブクレワラシをもらう。それを家のでこに隠しておくと、よくかせいでくれるので、キシネビツに米があふれ、財布の銭がいつもあるようになった。夫が朝晩にでこに入って、にかっと笑って出てくるのをみた女房が、でこに入ってさがすと、みたくないワラシが居ったので箒で追出したところ、家は前のように貧しくなってしまった。

 

竜宮もしくは水神のおくりものとしての竜子ならば、天竜川の流域にも数多い話が伝えられている静岡県引佐郡鎮玉村のクルメキ淵から出て来た童児は、竜宮小僧といわれて、村の家々の田植の手伝いをしたり、夏のにわか雨にはすぐ出て来て干しものを片づけてくれた。長野県下伊那郡大下条村川田では、大家という家の後にある一坪ほどの井戸のような池から、カハランベが出て来て、田植の手伝いをしたり、膳椀鋤鍬の類を貸してくれたり、進んでは竈の火をも焚いてくれた。愛知県北設樂郡富山村市原の田辺家でも、屋敷の下の青淵について同じような話が伝えられる。ここから出て来た小僧は来客の時には必ずアメノウオを二尾ずつとってくれた。農業の手伝もしてくれるし、平日は竈の上もしくは釜の蓋の上に居て食事をしたとも伝え、その食事につかった御器は、欠けているが今も尚残っている。欠けた一方はこの家の親類の豊根村下黒川の荒川家にあるが、ここではこれを河童が竜宮から持って来てくれたのだといっている点は注意してよい。同郡振草村小林の大谷池という家もスミドン淵という淵に臨み、ここから出たカハランベが田植の手伝いをし、また膳椀の入用なときは貸してくれた。

 

・しかし、竜宮から来た子供の話が関東にもなかったわけではない。栃木県佐野市には俵藤太秀郷が竜宮からもらって来た童子、竜太、竜次の二人の子孫という家があり、水の神の使者だから水に手足をひたしても冷くないといって紙すきを家業としていた。そして家伝のひび薬を売っていたというのは、後にふれる河童相伝の医薬と考え合せるべきことなのである。

 

一般にザシキワラシが居るとか、家が衰えてワラシが他の家に移ったということはよくいうことであるが、元来これがどこからやって来たかを説くものは少ない岩手県では上閉囲軍大槌町に、猿が山から下りて来て家の守神となった話があるが、これをザシキワラシと呼んでいるか否かは明らかではない。土淵村の阿部家のザシキワラシはフチサルというものだといわれるが、淵猿は河童の一名である。

 

・猿ガ石川に沿う多くの旧家で、家の子供が淵の主のたたりで育たぬとか、河童が娘のところに通って来て河童の子が生まれたとかを伝えるのは、やはり家と水の神との縁を語る神話の零落した姿であろう。橋野川、閉伊川に沿っても、家の娘が淵の主の妻になったという話は二、三に止まらない。有名なのは茂市村腹帯のハラタイ淵の主で、すでに三つの家がこの淵の代々の主と婚姻を結んだと伝えている。例えば釜石の板沢家では、娘がこの淵の主に嫁入りして、毎年一度帰って来るといい、その日玄関に水をたたえたたらいを置き、新しい草履をそろえておくと、翌朝必らず草履が濡れているのを、娘の帰ったしるしとしていた。更に上流の川井村でも、長者の娘が淵の中で機を織っているのを、その家の奉公人が落とした斧をとりに入って発見した話がある。この類話は小本川の流に沿っても岩泉町に語られており、それぞれ昔話のモティーフが、土地の旧家の淵や泉に臨むものと結びついて根をおろしたものである。

 

馬淵川にそっては、河童(メドツ)が旧家の事跡に関して淵ごとといってよいほどに語られている。或は馬を引き込もうとして捕えられ、詫証文や薬を残し、或は角力をとるなど、さまざまのいたずらをする点はザシキワラシとも似ている。やはり淵ごとに特定の家がその神を奉じて住んでいたためではなかろうか。

 

・腹帯淵にはまた、水神の文使いの話も結びついているが、同じ形は遠野郷の物見山の沼についても伝えられている。遠野の町の池ノ端という屋号の孫四郎という人、物見山の沼の主から大阪の姉神のところまで手紙をたのまれて往復し、その礼に使っても尽きぬ銭百文と、米一粒を1日に入れて一回転すれば、金の粒一つを挽出す臼とをもらった。そして長者になったが、その妻が「おれもホマツをすべえ」と思って、沢山の米を入れてがらがらと挽き廻したために、神棚から臼がころび落ちて庭の水溜りに入って消え失せてしまった。この臼が転び入った池は、明治23年の遠野大火の時に埋ってしまったというが、池ノ端の屋号はこのためにできたものであろう。「老媼夜譚」には同じモティーフの話が沼宮内にあったこととして黄金を生む子犬の形で語られており、気仙郡、胆沢郡でも黄金を挽出す臼の同じモティーフで採集され、この地方にひろく分布しているらしい。

 

・竜宮に門松や薪を奉ってその礼に小童をもらって家が栄えたというモティーフと、水の神の手紙をもって往復した礼として黄金の挽臼や尽きぬ銭をもらって富んだという語りかたとの関係をたずねる上に、参考となるのは、吉里吉里浜の善平長者の話である。

 

・ただこの一例ならばあった話が消え失せたとも考えられるが、私がこれまでに知り得た限りでは、北上地方の代表的豪家と考えられる地頭の家には、ザシキワラシが居た、または居るという家が極めて少ない。

 

・土淵村山口の孫左衛門長者はザシキワラシをもっていたが、その没落に先立ってワラシは泣きながら気仙郡日頃市村の稲子沢の長者のところに移った。

 

・このことは、遠野地方でも、九戸郡でも、ザシキワラシは旧家でしかも繁昌する家に出るもので、成上りの家にはどんなに豪家でも出ないのだといっていることが、単なる噂でなく、かなり根拠のある伝承であることを示すのである。

 

・当時、村の物持は村会議員か区長のような職をもつのが普通だったと思われるが、約80のうち17ばかりがそうした公職をもつだけだから、他の約60は財産がそれほどない家とみられる。つまり、ザシキワラシの居る家の富の程度は県内指折りというほど大きくなく、せいぜい近郷の物持として評判される程の家にすぎない。

 近世中期以後に急激に富を増加した豪家は、いろいろの事情から、ザシキワラシを水の神から与えられるような神に愛される性格をそなえているとはみなされぬことが多かった。江刺郡、胆沢郡地方でもモゲンといわれるのは一代分限であるが、呪詛や法術といった正道ならぬもので富を積んだ家のことで、かなり多くきく話である。モゲンは関西で無間筋といい、無間の鐘をついて得たゆえに、来世は地獄におちると評判される。北上地方の富豪の多くが関西出身の商人で、その蓄財法もかなり冷酷な手段のあったことが、このような噂の発生の源になっているのであろう。

 

・前に述べた上閉伊郡土淵村山口の孫左衛門長者は没落の前に狐を飼って富を得ようとした話をもつ。九戸郡山形村の豪家清水家でも盛岡から迎えた嫁が持参したという狐の像をまつり、毎月八日をマメシトギをあげていた。狐が富を与えてくれるという信仰はこの地方では比較的新らしく入ってきた文化らしく、特に小さいイヅナという狐を使って他人の秘密を知り、または貨財をひそかに盗むといった方法で、一代に分限となるという話は北上山地北部、八戸、鹿角などにひろがっている。二、三の昔話集にみられる盗人人形の話も、越中地方のヒンナ神と同じく、イヅナ系統の憑物による富の形成を意味している。従ってザシキワラシは富豪の成立には結びつかず、その衰亡にあたって出現するに止まることが多くなった。

 

・「奥州のザシキワラシの話」で、さまざまの要素の混在する伝承を一括して居られた佐々木氏は、大正十三年の「人類学雑誌」の上告では、主としてザシキワラシが女性であるものに注意されたが、昭和4年の「東北文化研究」には河童との類似に関心を向けて居られた。氏の20年の成果からのこの方向は、私の、ザシキワラシが海神小童信仰の残留であろうという推定を裏づけるものと考える。

 

・このことは、ザシキワラシの伝承が完形のモティーフとしてその出自までを説くものとすれば、北上川平地や気仙地方ではそれが脱落していることを示したものといえる。また北上山地北部で、伝承例数が絶対的に乏しいことは、やはり統計的に意味あることとして注目される。

 

・再びいうなら、ザシキワラシの出自を説く例が、一例を除いてはことごとく水中から来たといい、その分布は最も古い生活様式が残存した猿ガ石川、小本川にそう地域である。

 

収納論文解題  丸山泰明

折口信夫「河童の話」1929年

・折口自身によれば、「河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交えて来たこと」を論じたものである。しかし、本文を見てみるとその内容はそれだけにとどまらず、河童のさまざまな属性に言及している。さらに折口特有の論証抜きの解釈と想像が繰り広げられており、安易な要約を許さない論考である。おそらく、折口の文章を直線的にまとめてしまえば、その魅力は半減してしまうだろう。根拠がないからこそ豊かな想像力が発揮されるのであり、それにより生み出される発想から学ぶことも多いのではないだろうか。

 

柳田國男「河童の話」 1954年

・柳田は妖怪の発生を、かつて神とされていた存在が人々の信仰の衰退により零落したものだと考えていた。河童についても例にもれず、河童の諸特性に着目しながらも、水の神が零落したものが河童であると主張している。現在では、妖怪は信仰の衰退により零落した神であるとする仮説はすでに多くの人々によって批判されているが、柳田の説いた「河童=水神零落説」はその後の民俗学における河童研究を方向づけていくことになった。

 

千葉徳爾「座敷童子」1952年

・本論文では、家に住みついて富をもたらし悪戯をする、いわゆるザシキワラシにとどまらず、河童をはじめとしてウントクやヒョウトク・ヨゲナイ・ハナタレ小僧などの童形の神もしくは妖怪、さらにはイヅナ狐やモゲンなどの、家を富み栄えさせるさまざまな存在について論じられている。

 千葉はザシキワラシを「海神小童信仰の残留」と推定し、社会の生産段階・経済団塊から河童から小童への変化を説明している。すなわち、自給中心の経済社会では、人の労働力が最も重要な資本であり、よく働くことが家を繁昌させる要因であり、交換価値のみで使用価値の乏しい黄金は遠い空想に過ぎなかった。このような社会の農業段階では水利を得ることが重要であり、水の神の恩賜が家の歴史に結びつけられ、富貴の原因として河童が語られる。しかし、交通路が開かれると商品作物や手工業が流入し、ザシキワラシも河童に近い姿から色白く愛らしい小童の姿に美化され、水の神との関係が忘れられていったとしている。

 

・実際に河童からザシキワラシへと変わったかは検討を要するが、富貴譚のモチーフを生産段階・経済段階の変化と関連づけているのは興味深い。なお、千葉には本論文の他に、河童が農作業を手伝う話を分析した「田仕事と河童」(1958年)がある。

 

野村純一「河童が火を乞う昔話」 1968年

・河童が火を乞う昔話を入口にして、水の精霊である河童と火のかかわりを考察した論考である。なぜ水の精霊である河童が人間に火種を貰いに来るのかという問いを野村は立てる。そして対照的に見える水と火の関係を、柳田國男の『山島民譚集』や他の伝説集の記述をひきながら考察し、「水をよく管掌するものにして、はじめて火をも管理する資格がある」とする論理が流れているのではないかと推測する。

 

・ところで、野村が河童が火を乞う昔話として引用しているふたつの話は、両方とも尻を求めてきた河童に火を与えて追い払った話であり、野村がいうように河童が火種を求めて人間に近寄ってきた話ではない。また、河童が火を嫌うことも不知火や出火の原因であることも一緒にして河童と火のかかわりについて論じようとしており、これらの点で野村の議論は錯綜しているといわざるを得ない。しかし、だからといって河童と火のモチーフのかかわり自体を考察する意味がなくなったわけではないだろう。

 

神野善治「建築儀礼と人形――河童起原譚と大工の女人犠牲譚をめぐって――」1983年

・本論文は「大工と人形」にかかわる河童の人形起源譚と大工の女人犠牲譚の二種類の説話を比較することにより、建築儀礼における人形の役割を考察したものである。寺社の建築に際して大工が人形を作り仕事を手伝わせ、仕事が終わったあと川や海に捨てられた人形が河童になったという説話の発生を、かつて大工が人形を作り祀った建築儀礼のなごりではないかと推測し、さらに棟上げのときに祀る人形と、その由来譚としての建築に際して女性が犠牲になった説話の構造の中で同等の位置をしめていることから、両方の説話の背景に大工が建築儀礼として人形を作ったことがあるのではないかと想像している

 本論文は、河童を主題にして考察した論考というわけではなく、建築儀礼における人形についての論文である。しかし、それまでの「河童=水神零落説」とは異なる河童の人形起源譚に注目したという点で画期的な論文であり、その後の河童研究に大きな影響を与えることになる。

 

川田牧人「妖怪の交響楽――奄美加計呂麻島における妖怪譚の構造分析試論――」1987年

河童と似たような外見的・能力的特徴をもつ奄美地方の妖怪「ケンムン」を分析したものである。それまでになされた先行研究が、ケンムンと河童の相同性を見出しケンムンを山の神の系譜だとしているのに対し、川田はケンムン譚を奄美の民俗社会・文化の中に位置づけることにより、その論理構造をとらえることをこころみている。奄美加計呂麻島において、生業や年中行事のサイクルなどの人間の生活・神観念・動物観の三者はそれぞれ、海-山・畏憚-招迎・恩益-害悪という対の構造があり、これらが組み合うことによって3次元の二項対立構造を形成している。そして個々のケンムン譚を集積することにより得られるケンムンの全体像は、この3次元の二項対立構造を一身に体現しているとされる。

 

若尾五雄「河童の荒魂」1972~1975年

・河童の属性のひとつである「尻子玉を抜かれる」ことを水死した状態であるとし、水死するような川の淵は渦を巻いていることから、渦巻きは河童の荒魂であり、河童は渦巻きの和魂であるとしている。そして渦巻きは水流が交叉して回転することから「河童は<交>である」というテーゼを引き出し、河童のあらゆる属性をこのテーゼにしたがって読み解く。のちの河童研究において議論されることになる河童と建築・土木事業との関係や、「河原者」との関係についてふれている部分もあり、この点では先駆的だったといえる。

 

小松和彦「河童――イメージの形成――」1987年

現在のような河童のイメージが近世に形成された歴史的過程について考察している論文である。後の研究にとって重要なのは、農民とは異なる生業を営み、賤視・差別されていた「川の民」「非人」「河原者」の役割に着目したことであろう。大工が仕事を手伝わせるために作った人形を川に捨てたところ河童になったという河童の人形起原譚と、近世の資料である「小林新助芝居公事扣」の記述にある「非人」の起原譚が非常に似ていること、「川の民」「河原者」に対する当時のゆがんだイメージに関連する諸属性が河童にも見られる。これらのことから、賤視された人々のイメージが核となり、カワウソやスッポン・猿などの動物のイメージが付与されて、河童のイメージが形成されたのではないかと推測している。

 

神野善治「木子としての傀儡子」1991年

神野による先の「建築儀礼と人形」と同様、河童を主題として考察した論文ではなく、木の人形である「傀儡」について論じたものである。全体の構成としては全国各地の人形芸能を紹介しながら傀儡について考察し、その一部として河童の人形起原譚についてふれている。

 奈良時代末には、人形は「ひとがた」と呼ばれ一般的に進行儀礼に用いられて、それには木製の人形も含まれていた。それにもかかわらず「木の人形」が「クグツ」と呼ばれて区別されていることに注目し、「クグツ」とは生きた人間のように動く「木の人形」のことであり、やがて人形遣いも「クグツ」と呼ばれるようになったのではないかとしている。さらに「木の人形」を操る人形遣いは特殊な能力をもっており、息を吹き込んで魂を与えることができると考えられていたのではないかと推定している。

 その上で河童について論じられており、河童起原譚と河原者起原譚が同型であることが認められ、これらの説話が源を同じくするものである可能性を認めるにしても、だからといって小松が主張するような「河原者」の実像が河童のイメージの根源になったとする三段論法は誤りではないかと批判している。

 

中村禎里「河童の誕生その他」1991~92年

・古代において信仰され、また畏怖の対象にもなった「わに」の系譜に河童を位置づけて、歴史的な資料にもとづき、その変遷を考察している。論述は多岐にわたるが、大筋において「零落」もしくは「衰退」のあとをたどっている論文だといえるだろう。

 

小馬徹「河童相撲考――『歴史民俗資科学』のエチュード――」1996年

・それまでの河童人形起原譚に批判的検討を加えた上で、小馬は河童が相撲を好む属性を考察する。代において陸墓を増築し埴輪を製作した土師氏が始祖神とするノミノスクネは日本神話において初めて相撲をとった神でもあることそして渋江氏が祖先とする橘島田麻呂(島田丸)が春日神社を造営した際に内匠頭某に人形を使役させ、造営ののちに人形を川に捨てたところ河童になったことから、渋江氏がノミノスクネ神話をもとにして島田麻呂神話をつくり、そのために河童が相撲を好むとされたのではないかと論じている。

 

毛利龍一「河童をヒヤウスベと謂うこと」1914年

・著者は、河童の主である渋江氏を祀る佐賀県の潮見神社の神職であり、神社にまつわる河童の話が報告されている。

 

小池直太郎「河童資料断片」1927年

・その内容は長野県を中心として集めた河童に関する話の聞き書きである。

 

中田千畝「河童の妙薬」1928年

・河童に膏薬や傷薬などの病気の薬・骨接ぎの方法を教えてもらったという話は実に多い。本報告において、中田が埼玉県の熊谷で実際に聞いた河童から傷薬を教えてもらった話を記述し、さらに筑前博多の接骨医の話三篇を紹介している。また、文末には河童に関する江戸時代からの文献があげられている。

 

金久正「ケンモン(奄美大島)」  1943年

・河童に似た妖怪である奄美大島のケンモンの属性と体験談の報告である。

 

丸山学「肥後葦北のヤマワロ」1950年

・本報告は、丸山が昭和24年12月から翌25年1月にかけて、当時の熊本県葦北郡佐敷町湯浦町・津奈木町での調査で得たものである。「一切私見を加えず、聞いたままを整理して記載」したものであり、ヤマワロのさまざまな属性が紹介されている。

 

楳垣実「河童考」1959年

・「川殿」の項にある<河童の異名は元来忌み言葉だった>という仮説にしたが、忌み言葉以前の河童の本名を全国各地の「河童」に該当する妖怪の呼び名から探ろうとしている。

 

・本書では民俗学において「河童」と名づけられていた妖怪が、実際にはさまざまな名称をもっていたことを示す資料として収録した。

 

矢口裕康「日向の河童伝承――伝承存在と意識――」1981年

・宮崎県域の昔話集・伝説集、および宮崎県諸塚村における河童の話を整理し、さらに矢口自身が調査で得た河童の話を報告している。そして収集・整理した資料を分析することによって、河童に対する意識は零落したと述べている。

 

河童     解説   小松和彦

「河童」とはなにか――近世に発見された「河童」

・「河童」は、数ある妖怪のなかでももっともよく知られた妖怪である。最初は恐怖を抱いていた人びとも、それが架空の生き物であったことがわかると、グロテスクでありながらひょうきんさを帯びた顔かたちに親しみを覚え、自分たちのさまざまな思いを託す手段にさえしてしまった、あの「河童」である。しかし、「河童」とは何者だったのか。改めて問い直すと、わたしたちはほとんど何も知らないことに気づくのではなかろうか。

「河童」は、川の淵や沼などの水辺に出没し、人間や家畜にさまざまな怪異をもたらすと信じられてきた「生き物」である。

 

・「河童」という語は現在では全国に知られる語である。だが、以前は地方によって呼称が異なっており、カッパは関東から東北にかけての地方の人びとの間に流布していた語であった。それがやがて共通語になり、さらに民俗学でもそれに従って学術用語として用いるようになったのである。

 民俗学者の報告に従って「河童」伝承を整理した石川純一郎によれば、河童の地域語(方言)は、おおざっぱにいえば、青森地方がミズチ系、関東から東北にかけての広い地域がカッパ系、長野・愛知地方がカワランベ系、佐渡能登半島がカワウソ系、奈良・和歌山地方がガタロー系、四国から広島・山口地方がエンコー系、九州の大分地方でドチ系、宮崎地方ではヒョウスベ系、熊本から鹿児島にかけての地方ではカワワラワ(ガワッパ)系、奄美地方ではケンモン系である。

 

・たしかに民俗学者たちは「河童」という総称の普及には貢献した。しかし、「河童」を発見し「河童」という総称を創り上げ、その研究に本格的に取り組んだのは、近世の江戸を中心とする知識人たちであった。とくに本草学者(博物学者)がとりわけ熱心に「河童」研究をおこなっていた。自分たちが作る事典に入れるべきかどうかが大問題だったからである。

 

・そこで、文献調査と聞き書き調査などをおこなって「河童」に関する情報を収集することになった。そして分析・考察を重ねた結果、たしかなことはまだわからないが、と断わりつつ、本草学者たちは、とりあえず「河童」が実在する動物らしいと考えたようである。そして、それは、中国の「水虎」と呼ばれる動物にほぼ相当するとした。つまり、簡単にいうと、中国名「水虎」、和名「河童」、地方による異名多し、というように分類・記述されたわけである。

 これから百年ほど後の江戸後期、日本の本草集成として記述された、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1802年)には、その後情報がたくさん収集されたことを反映して、きわめて詳細な記述がなされている。

 

・江戸の知識人のあいだでは、「河童」は口頭伝承から文字表象と絵画表象になっていった。このような作業を通じて、わたしたちが思い浮かべることができる河童の性格とその姿かたちが、幕末までにほぼ完成をみたのであった。

 ところが、近代に入ると、「河童」は、画家や小説家などが描く想像世界のなかに活動の舞台を移していくことになるわけである。

 

「河童」の民俗学的研究

・ところで、近代になって、この「河童」を再び学問の対象として見出した人がいた。柳田國男である。柳田國男は『山島民譚集』(1914年)のなかで「河童駒引」と題する一章を設けて「河童」について論じた。もちろん、実在の動物かどうかを吟味するのではなく、伝説上の生き物、つまり幻想動物としてである。柳田は近世の文献を博捜しながらその諸特徴を分析し、その河童伝承の本質を明らかにしようとした。すなわち、柳田がおこなったのは、本草学者が集大成した河童の性格を、逆に「河童家伝の妙薬」「馬を水中に引く河童」「河童の詫び証文」「河童の異名」等々に腑分けしながら、柳田なりの解釈をおこなったことにある。いったい、いかなる理由で、近世に全国各地に、「河童」のような幻想動物が発生したのか。その謎を解こうとしたのだ。

 

・こうして、近代の河童研究が民俗学によって開始された。だが、柳田の弟子たちは、主に河童に関するデータを民俗社会から収集することに力を注いだ。本館にもそうした調査報告のいくつかを収録してみた。かれらが柳田が提出した「河童駒引」の解釈を妥当なものと受け止め、それを疑うことをせずに、むしろそれを補強するようなデータを集めようとした。報告者が解釈を加えることがあった場合でも、河童=水神零落説にそった解釈がほとんどであった。

 

・ところが、民俗学者が民俗社会から「河童」伝承を採集していたとき、

隣接の民族学の側から、柳田國男の「河童駒引」の研究に刺激され、いわば柳田の仮説すなわち水神零落説をユーラシア大陸の文化史に視野を拡げて探るという研究が現れた。

 

・ところで、「河童」信仰(民俗学では「俗信」)の原型としての「水神」信仰を想定し、「水神」信仰から、「河童」伝承を説明しようという、いささか迫力を欠いた民俗学的研究が多いなかでも、いくつか注目すべき研究が存在している。

 

「河童」研究の新しい展開

・1974年に「河童」の民俗誌的データのダイジェスト版集成ともいえる、石川純一郎の『河童の世界』が刊行されて以降、民俗学では、ときおり調査報告はあるものの、研究という言葉に値するような論文はほとんど現れなかった。

 

・こうした、いわば広い意味での河童ファンによる河童論の流行は、昨今の妖怪ブームや「闇」の文化史への関心の高まりと無縁ではない。もっとも、こうした河童論は示唆に富んだ大胆な仮説も随所に見られ、興味をそそるものがあるが、従来の河童研究を実証的な手続きをふんで更新するといったものではない。

 

・次の第二章で、「河童の行動」のパターンが検討される。すなわち、近世初期(17世紀)の第一段階の「河童」の特徴を、文献資料によりながら析出する。

  • 人を手中に引き入れるという特徴をもつが、これは中世のヘビや近世同時代のスッポンなどの行為を反復しているにすぎないが、河童に生息地が川の淵・用水・堀などに特定される傾向があるという特徴をもつ。
  • 河童は人だけでなく馬にも執着する。
  • 人に捕らえられると謝罪するどころか祟るという性格をもつ。
  • 河童が人に相撲を挑む現象、および人に憑く現象は、この時期に始まったらしい。
  • この時期の河童の行動には、人への攻撃と人の反撃、河童の敗北と帰順といった民間伝承にみられる定型パターンはまだ現れていない。
  • 人に捕らえられると謝罪と赦免、その返礼としての魚類の贈与、という特徴が現れる。
  • この時期に、女性とセックスするという特徴も現れる

 

次いで、18世紀前半の第二段階での、以下の特徴が現れる。

  • 河童が手を切られる。
  • 手を返して貰う見返りに、手継ぎの秘伝を人に伝授する。

 

・そして第三章では、18世紀末からの第四段階の、中村が「先祖がえり」と評した新しい特徴が加わることになる。

  • いくつかの地域で、これまではどちらかといえば忌避すべき水の精霊=妖怪であった河童が祭祀の対象になる。
  • 九州地方では、山童との季節的変換つまり山と里の去来伝承がうまれる。
  • さらにまた、この時期に、河童が海に出没するという伝承が現れるようになる。
  • この結果、水神関連の伝承たとえば、「竜宮童子」系の昔話とも連絡するようになる。

 

 このような分析に従うならば、河童伝承は、近世に生まれ、その特徴を次第に増やし、その活動領域を拡張していったということになるだろう。