日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

アシモフ自身が語る通りアシモフは小説家としては決して一流ではなく、また時代遅れの存在です。文学的にも基本的には乗り遅れた作家と言えますが、やはり彼はまごうことなき天才です。(1)

 

(2022/3/7)

 

 

銀河帝国は必要か?』

ロボットと人類の未来

稲葉振一郎  ちくまプリマー新書 2019/9/6

 

 

 

なぜロボットが問題になるのか?

応用倫理学とロボット

・みなさんは、「応用倫理学」という言葉をきいたことがあるでしょうか?経済学をはじめとするこれまでの政策科学がうまく判断基準を与えてくれない新しい社会問題に対する価値判断の指針を導き出すために、哲学的倫理学や神学の知見を動員するなかから確立してきました。すでによく知られており、現場の政策や実務にも深く組み込まれている領域としては、まずは生命・医療倫理学環境倫理学が挙げられます。それに対して近年そうした応用倫理学の必要が強く意識され始めているのは人工知能、ロボットの開発と利活用です。

 もともとロボット、人工知能は20世紀後半の哲学にとってお気に入りのテーマのひとつでした。そもそも20世紀哲学の有力な一潮流としての分析哲学の中心は、言語哲学です。

 

・しかしまずは、そのような時事的にホットな論争からいったん距離を置き、歴史を振り返りつつ、すこし抽象的になりますが、人工知能・ロボットの問題を考える際に基準となるべき根本問題について考察することから始めましょう。その際まず参照すべきは、意外なことにSF、サイエンス・フィクションの歴史なのです。

 

変容を遂げるロボットのイメージ

・私の考えるところでは、「ロボット」についての唯一正しい定義というものはありません。現実の問題としてもフィクションのテーマとしても、それぞれの問題関心に応じてさまざまなアプローチがありえます。とりあえずここでは、すでにわれわれの世界で具体的に作られ用いられているさまざまな自動機械、「現実存在としてのロボット」と、われわれの抱く「概念としてのロボット」との間には、小さくないズレがあることを注意しておきましょう。

 

ネットワーク時代の新しいロボット

飛躍的に発展する遠隔操作のテクノロジー

ネットワーク技術で変貌した人間社会

・このような、グローバルなネットワークの端末としてのロボットとどのようにつきあっていくのか?今日のロボット・人工知能倫理学の主要課題のひとつは、このようなものです。今日のインタ―ネットは、かつてのような人間が操作するコンピューター同士の連結、というより道具としてのコンピューターを用いた人間同士のコミュニケーション・ネットワークを主体とするものから、ロボット、自動機械同士の連結――いわゆるIoTを軸とするものへと変貌しつつあります。そのようなネットワーク技術の発展が、人間社会にどのように影響を与えていくのか、またそうしたネットワークをどのようにコントロールしていくのか?これが非常に深刻な課題なのです。

 

自ら動かないものには「心」はいらない?

・このように、現代のロボット・人工知能技術の展開は、古典的なロボットイメージ――人造人間か、超高度な道具か、の両極の間のスペクトル――を裏切り、そのどちらでもないものを生み出し、それによって社会を大きく変えつつあります。かといって、古典的なロボット、「人造人間」のイメージそれ自体もまた、じつはなお問題含みで、見かけほどわかりやすいものではないことは確認しておかねばなりません。

 

仲間のいないものには「心」はいらない?

・もちろん、すでに述べたような問題意識から、純粋に学術的な探求、あるいはむしろ芸術的創造として、人造人間の開発を目指す人は当然出てくるでしょう。しかし、「人造人間」が社会的にありふれたもの、普通のものとして大量に作られ、受け入れられるかどうか、はそれとは別問題です。大量の「人造人間」が社会的にごく当たり前の存在として定着するには、それらがわかりやすい形で「何かの役に立つ」ことが必要でしょう。

 

ロボットに自由と責任を認めるのか?>

・それなら、ネットワークに常時接続されている場合、そのロボットの自立性、他の区別がつく、個性あるものとしての一個のまとまった心というものは、どうやって確保されるのでしょうか。ネットワークから断絶させ、スタンドアローンの機械にしてしまうという手もありますが、そんなことをしたらロボットとしてのメリットがほとんど失われ、人間のほうがずっとコストパフォーマンスがよい、ということになりかねません。

 

<なぜ『ガンダム』のスペースコロニーは地球の近くに置かれたのか>

・月軌道圏内にスペース・コロニーを建造するということは、じつは大変なコストを要する事業です。重力に逆らって大量の物資を月から打ち上げるのはもっと大変です。

 

なぜ、宇宙進出にはロボットが必要なのか?

さらに問題となるのは宇宙線被爆です。私たちは地球の大気や磁場によって宇宙線や隕石から守られていますが、宇宙空間ではそれらの恩恵を受けられません。しかし宇宙線や隕石を避けるための人工の仕組みを用意するには、大変なコストがかかります。

 

地球こそが人類の安住の地、しかしロボットは………?

・問題は太陽系内だけではありません。何千年、何万年単位の未来において――もしそこまで人類が生き延びていればの話ですが――太陽系外進出、太陽系外宇宙の探査が行われる可能性もあります。しかし太陽系外の恒星系となると、一番近いところでも4光年ぐらいの距離があるので、現在知られている最先端の技術を駆使しても、そこに行くまでには100年単位の時間がかかります。当然、生身の人間が生きてたどり着くことはできないでしょう。かろうじて到達できたとしても、その旅行中、ずっと膨大な量の放射線を浴び続けざるを得ません。

 

SF作家アイザック・アシモフ

20世紀の作家たるアシモフのロボットイメージは、一見、いまにしてみればいかにも古典的、古色蒼然としています。しかしながらこれから見ていくように、彼のアイディアとイメージは、現代のロボット・人工知能倫理学にとって、叩き台としての地位をいまだに失ってはいません。その一方で彼の銀河帝国物語は、自律型ロボットに比べてもはるかにその実現可能性の目途が立たない超光速航行に支えられた星間文明であり、現実世界に生きるわれわれにとっては『スター・ウォーズ』と同様、おとぎ話、寓話、虚構の世界を舞台としたたとえ話として以上の意味を持たないように見えます。寓話、アレゴリーとしての意義しか持たないのであれば、それはファンタジーと本質的には変わりません。

 

アシモフのロボット物語――機械倫理学のさきがけ

・そもそも、ファウンデーション前期三部作を中心とする銀河帝国物語とは切断されていたはずのアシモフの初期のロボット物語においても、宇宙開発、人類の宇宙進出は重要なテーマでした。

 

アシモフのロボット物語は乱暴に言えば、USロボット社なる会社とその周辺を舞台に、ロボット心理学者スーザン・キャルヴィンを狂言回しとして展開される短編群と、人間の刑事イライジャ・ベイリと相棒のロボット刑事R・ダニール・オリヴォーのコンビが活躍するミステリ連作とに大別されます。前者は21世紀前後の近未来の、地球とせいぜい太陽系内を舞台としていますが、後者はさらに1000年以上未来、超空間航法によって可能となった恒星間文明をその背景としています。

 前者、USロボット社の物語群においては、人間に忌避され、太陽系内の惑星開発に従事する時代のロボットも描かれる一方、人間社会に、ビジネスや家庭に入り込むロボットも登場します。果てはグローバルな統治機構を、絶対的な力と巧みな心理操作で支配する、ソフトな全体主義的管理コンピュータさえ登場し、近づいたり離れたり、依存したり拒絶したり、とロボットを前にした人間社会の逡巡、大きな振れ幅が主題となっています。

 

・それに対して後者は、そうした大きな振れ幅を体現する二つの極に、人類社会が分裂してしまった様を描いています。ロボットを伴って人類は宇宙進出を果たし、たくさんの系外惑星国家を作り上げますが、そこではたくさんのロボットにかしずかれて人間たちは意欲を失い、衰弱していきます。他方、ロボットを拒絶し、地球に残ったほうの人類社会も、管理社会の中で停滞しています。そんなどん詰まりからのルネサンス、人間復権の物語が、ベイリとダニールのコンビが活躍するミステリ連作『鋼鉄都市』『はだかの太陽』です。

 

自問するロボットたち

ユダヤ系移民の子であり、アメリカSF界ではリベラル派として知られたアシモフのSF作品の中には、作者の倫理的な選択のあとがいくつか残されています当時の宇宙SF、とりわけスペース・オペラの主流とは異なり、彼の銀河系に異星人が登場しないのは、異星人と人類との交渉を描くことが、避けがたく人種主義的な色彩を作品に帯びさせてしまうことを回避するためでした。

 

アシモフ銀河帝国に異星人、人類以外の知的生命が登場してこない理由は、先述の通り20世紀中葉、青年期の作家自身によって自覚的に選ばれたものでしたが、それではロボットが登場しないのはなぜでしょうか? 先に挙げたその答えに作家が到達したのは、ようやくその晩年、1980年代になってからでした。ですがこの結論にアシモフが到達したとき、じつは彼は当初自身が設定していたロボットについての基本的前提のいくつかを踏み越えていたのです。その踏み越えが初めて、彼のロボットと宇宙進出についての物語を、寓話以上のものへと昇格させたのです。

 

忠実なロボットから思考するロボットへ

・初期、40年代から50年代、小説家としての最初の全盛期においてアシモフは、しばしばロボットをあくまでも完成品の機械として「小数点の最後の一桁まで」あらかじめ計算されて決められた存在として描こうとしていました。

 

・そして70年代、SFに本格的に復帰したアシモフは、このロボットのポテンシャルについてより突っ込んだ探求を進めていきます。

 

・かくして、ときに「第零法則」のゆえに人間を管理し支配し、他方でその反省に立って、人間を自立させるべく表舞台から身を引くロボットたち――心ある苦悩する存在、それ自体もまた別種の「人間」たるロボットたちが、アシモフの物語世界の主人公となったのです。

 

自己消去するロボット

・そして物語において、ロボット概念の意義が他ならぬロボット自身による自己探求として追及される中で、ロボットは二重の意味で消滅していきます。第一に、ロボットは自律的な存在として人間と対等、同格な存在となるわけですから、ロボットと人間の境界は消滅していきます。その一方で第二に、あくまで人間の他者として人間を守りそれに奉仕する存在としてのロボットは、そのことと人間の尊厳を守ることとの両立の困難を前に、歴史の表舞台からの消滅を目指します。しかしこの後者はとりわけ厄介です。ロボットによる奉仕に人間をゆだねることは、人間の衰退につながり、長期的には人間を害するがゆえに、ロボットはその使命を貫徹するためには、じつは存在しないほうがよいかもしれない。かくして、人間の自尊と克己を促すべく、ロボットは人類の前から消えるわけです。

 

アシモフ銀河帝国は宇宙倫理学にとって有意義か?

・少なくともその初期においては、アシモフ銀河帝国は、自身がギボンの『ローマ帝国衰亡史』に着想を得たと語っているように、既存の歴史物語のメタファー以上のものではありませんでした。

 

ロボット物語――アシモフの世界から(1)

アシモフ再訪

すでに見たように、アスモフのロボットSFの中には、今日のロボット・人工知能倫理学を先取りするようなモチーフをいくつも発見できます。では宇宙倫理学にとってはどうでしょうか?

 晩年においてもロボット物語、ベイリとダニールのサーガに統合された銀河帝国の物語のライトモチーフは、あくまでも人間とロボットとの関係であり、そこでは宇宙という舞台は、相変わらず書割以上のものではないようにも見えます。そもそもそこで描かれる銀河は、20世紀半ばまでは当たり前でしたが、21世紀現代ともなれば、本格派のSFにおいてはむしろ時代遅れと感じられさえする、「超光速」という設定によって、生身の人間にとって横断可能な範囲に縮められた宇宙です。

 

それに比べてアシモフの宇宙は、晩年に至ってもなお古き良きSFの色彩を色濃くとどめた、人間サイズの宇宙です。

 しかしながらよく読んでみるならば、アシモフ銀河帝国にも十分な不穏さが隠されています。そのような不穏さが伏線としてリサイクルできたからこそ、晩年における統合が可能となったと言えます。それを初期にまでさかのぼって、今一度細かく確認していかねばなりません。

 

ベイリとダニール――前期二部作

・ベイリとダニールの物語の時代は、ロボットの開発と、超空間航法による人類の宇宙進出からすでに数百年程度の時間がたち、数十に上る系外惑星国家群、宇宙国家連合が形成されています。それらはいずれも地球型惑星で、わずかな環境改造ですぐさま人類が移住できるようなところで、先住知的生命もいません。さらにこれらの宇宙国家は、いずれも高度にロボット化された社会であり、その多くでは人間の人口を上回る数の数の人間型ロボットが活動しています。この傾向がもっとも極端なのは惑星ソラリアであり、そこには惑星全体で2万人の人間に対しロボットが2億人おり、人間は普段は一人ひとり孤立して、ロボットにかしずかれて生活しており、人間同士で直接対面することもありません性生活はごく限定的であり、子どもも人工子宮から生まれ、ロボットによって養育されます。

 

・それに対し地球では、ロボットはごく限定的にしか働いていません。その運用のほとんどは農場や工場等の生産拠点においてであり、人びとの日常生活からは排除されています。人びとの間には、自分たちの雇用を奪うものとしてのロボットに対する確固たる反感が、根強く定着しています。しかも地球上の80億の人びとは全員「鋼鉄都市」、全域が地下化した都市に暮らしており、地上に出ることはありません。市民生活は、地球の収容能力ギリギリの人口を支えるため、非常に強力な統制経済配給制の下にあり、生存の不安はありませんが、経済的自由は強く制約されています。

 そして地球と宇宙国家群との力関係は、大きく後者に傾いています。人口は前者の80億に対して後者は総計しても55億とややアンバランスですが、科学技術の水準と経済的生産力、軍事力では地球を圧倒しています。そして物語の時代には、地球は宇宙国家連合による事実上の占領下にあるとさえ言ってよい状況です。

 

・ではベイリの相棒となるロボット、ダニールのほうはどうでしょうか?主導的宇宙国家オーロラの産で、宇宙植民復興のために地球の協力を求める改革派によって派遣され、ベイリにパートナーとして押し付けられたダニールは、この二部作ではいかにも受動的で控えめであり、ひらめきのかけらも見せません。

 

ベイリとダニール――後期二部作

・これに対して四半世紀を隔てて書かれた、ロボット物語と銀河帝国史をブリッジする後期二部作『夜明けのロボット』『ロボットと帝国』においては、様相はやや変わってきます。『夜明け』においてベイリは本格的に地球人による宇宙再進出のリーダーとなっていますが、オーロラ内部での改革派と守旧派の派閥抗争に巻き込まれます。改革派は地球人とスペーサーとの平等を主張し、ロボットなしでの、人間主体での宇宙進出を支持する派閥ですが、他方守旧派は従来のスペーサーのライフスタイルを崩さず、ロボットを前面に押し立てての宇宙開発を主張します。さらに守旧派の中には、根深い地球人への差別意識が残っています付言しますと、宇宙国家の植民惑星には、先住知的生命がまったくいなかったのみならず、地球ほどの複雑で豊かな生態系も存在しなかったうえに、植民者たちが徹底的に検疫を行った結果、スペーサーたちは地球産の病原菌やウィルスに対してほとんど無防備になっています)。

 今回ベイリは派閥抗争の途上で起こったロボット「殺害」事件の捜査を委任される羽目になりますが、事件の解決をうやむやにしつつ、政治的な演技を駆使して事態を収拾し、改革派の勝利に貢献します。しかしながらベイリは抗争の外部で事件の真相に到達します。そこでベイリが出会ったのは、かつてスーザン・キャルヴィンが出会ったハービーと同様の、いやもっと強力な読心能力と精神操作能力を備えたロボット、ジスカルドでした。ジスカルドは独自の判断で改革派の宇宙進出プランを支持し、その実現のために人びとの心を操っていたのです。

 

そして続編『ロボットと帝国』ではこのジスカルドとダニールが実質的な主人公となります。『夜明け』の時代から100年以上が過ぎ、短命の地球人であるベイリはすでに世を去っています。ベイリの提唱した地球人による宇宙進出は確固たる流れとして定着し、この短命の宇宙開拓者たちは「セツラー」と呼ばれてスペーサーと対峙する新興勢力となっています。しかしながらベイリによって打ち負かされた守旧派のスペーサーも長命ゆえ生き残っており、亡きベイリへの復讐、地球人とセツラーの打倒を虎視眈々と狙っていました。そしてジスカルドとダニールは独自に、守旧派の野望を打ち砕くべく探索を開始する――というのが大まかなプロットです。

 

・今更ですが、「ロボット工学の三原則」を確認しておきましょう。

  • ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  • ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第1条に反する場合は、この限りではない。
  • ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

・それゆえに当然、複数の人びとの生命、安全が危機にさらされるような状況下では、人の命の間に優先順位をつける選択を強いられたりするわけで、これはロボットに非常に強いストレスを強います。しかしジスカルドとダニールが問題としているのは、先にも述べたようにもう少し踏み込んだ課題です。すなわち、ジスカルドのように人類社会全体の命運をその課題としたロボットにとっては、個人間での生命の優先順位のみならず、人類社会全体の利益、安全と、個人の利益、安全、生命との優先順位についても、独自の判断を下す必要が生じるのです。

 

「第零法則」

・しかし問題は、そもそも人類とは何か? です。かなり長くなりますが、『ロボットと帝国』から引用しましょう。

 ダニールは言った。「第1条より偉大な原則があるのです。ロボットは人類に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって人類に危害を及ぼしてはならない。わたしはこれをロボット工学第零法則と考えます。したがって第1条はこうなります。“ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。ただしロボット工学第零法則に反する場合はこの限りではない”」

 

個人としての人間と集合体としての人類

・しかしこのような考え方もまた、われわれの常識とは相いれないでしょう。私たちはたとえば「物理法則が存在している」と普通に考えています。しかしそれは物理法則に従う、具体的なものが指示できるのと同じような形では、指示することはできません。あるいはたくさんの具体的な個人の集合が、ひとつの集合である理由は、ただたんに「観察者・命名者が好き勝手にある個体たちを集めたうえで、勝手にラベルを張ったからに過ぎない」と言ってよいのでしょうか?それらの人びとをまとめ上げる性質の共有だとか、あるいはそれらの人びとの間の関係というものが、観察者・命名者がどう思うのかとは関係なしに、そこに客観的に実在している、ということはないのでしょうか?

 

・そして結局のところジスカルドは、ダニールへの友情によって狂わされて(ダニールの生存を人類の生存と少なくとも同程度に優先するように判断するようになって)守旧派の抵抗を排除していきますが、その際にヴァジリアをはじめ守旧派の人間に加えた精神操作のストレスは、彼を確実にむしばんでいきます。そして最後に、守旧派の首魁アマディロが、亡きベイリへの復讐のために地球を放射能まみれにして地球人を全滅させようとするのを、強引な精神操作で食い止めたストレスに耐えることができず、最期の力で自分の読心・精神操作能力をダニールに伝授したのち、システムダウンを起こして機能停止――死亡します。彼は「第零法則」を、それに裏付ける「人間の行動を支配する法則」の実在を、たんに願望するにとどまらず信じていたと思われますが、同時に現時点での自分の知識は不完全であることを自認し、その「人間の行動を支配する法則」を――少なくとも、自分の行動を正当化できると言えるほどまで――知っていると言い切ることまではできませんでした。そのストレスが彼を死に追い込んだのです。

 のちに見るように「心理歴史学」など、ロボット物語と銀河帝国をつなげるための伏線が多々あるのは当然として、前期二部作と比べたときに後期二部作を際立たせる特徴は、主人公が人間からロボットに移行していることです。

 

人間としてのロボット

・こうした展開を準備したものとして、われわれは70年代、SF創作に復帰した時代のアシモフがものにしたいくつかの短編に注目せねばなりません。

 

銀河帝国史の二つの謎

アシモフ自身の言によれば、彼の銀河帝国にロボットが登場しなかったのは、当初は、銀河帝国物語シリーズと、ロボット物語のシリーズとを区別しておくための便法に過ぎませんでした。

 

ダニールの決断――自己消去するロボット再論

アシモフが先の銀河帝国史二つの謎に対して、どのような回答を出したのかと言えば、結局それは一種の陰謀論であり、ジスカルドの意志を継承して2万年を生き続けたダニールの選択の帰結、ということになります。つまり、ロボットの歴史の表舞台からの退場と、地球の記憶の抹消は、二つながらダニール(とその指揮下にあるロボットたち)の仕事だ、ということになります。

 

銀河帝国――アシモフの世界から(2)

ファウンデーション

・すでに述べたように、ファウンデーション前期三部作は超空間航行で結ばれた恒星間文明、銀河帝国を舞台としています。そこには人類以外の知的生命も、また自由意志を持つ自律機械、人造人間たるロボットも登場してきません。そのような設定がなされた理由についてはすでに述べた通りですが、それゆえ結果的にこの前期三部作は宇宙SFとしてみたとき、われわれにとって既知の歴史のアレゴリーとして以上の意味を、あまり持たないようなものとなっています。くりかえしますがそこに描かれる銀河帝国は、人間サイズに切り縮められた宇宙、われわれの知る地球社会のアレゴリー以上のものではありません。

 

・以下簡単におさらいしてみましょう。統一から数千年、惑星トランターに首都を置く銀河帝国は繁栄の絶頂にあるかに見えましたが、数学者ハリ・セルダンは自ら開発した「心理歴史学」、人間行動の統計力学的分析に基づいて、その衰退を予測します。その予測によれば銀河帝国はほどなく解体し、その後は次なる銀河文明の再興まで、3万年にわたる暗黒時代が訪れます。しかしながら適切な対策をとれば、帝国の崩壊は防げなくとも、暗黒時代を1000年にまで短縮することができる、と。帝国中枢の不興を買ったセルダンは、銀河辺境の惑星ターミナスに、研究室もろとも追放されますが、それは自身の「心理歴史学」に基づいて誘導された結果でした。セルダンはそこで表向きは銀河文明の知識を保存する『銀河百科事典』の編纂に従事することを目的とした、しかし実際には第二銀河帝国再建の拠点となるべき「ファウンデーション」を設立します。

 

・セルダン没後、帝国による銀河支配はほどなく瓦解し、銀河系は割拠する軍閥によって分断されますが、ファウンデーションはそこに蓄えられた過去の銀河帝国の知識、さらには新たに開発された独自の技術を持って周辺の軍閥を籠絡し、時には科学技術を神秘のヴェールで覆う宗教支配によって、時には通商を利用した金権支配によって、新たな宇宙勢力として着々とその勢力を広げていきます。そしてこのプロセスは基本的に、セルダンが「心理歴史学」によってあらかじめ予想し、計画したとおりに進行しました。ここで注意すべきことは、ファウンデーションには一人の心理歴史学者もおらず、心理歴史学研究はセルダン没後は一切行われていない、ということです。その理由は、心理歴史学による予測が正確であるためには、その予測の内容自体が予測の対象となる人びとに知られていてはならない、というものでした。予測の内容を知ってしまえば、そのことによって人びとの行動が変わってしまうからです。

 

しかしながらファウンデーション設立後300年の頃、精神操作能力を持つミュータント、ミュールの軍閥が急に勢力を伸ばし、一時はターミナス、ファウンデーションをも占領します。そしてミュールによる征服の途中で浮上したのが、「第二ファウンデーション」の問題でした。じつはセルダンはターミナスの(第一)ファウンデーションとは別に、もう一つ「第二ファウンデーション」をターミナスの対極の「星界の果て」に建設し、そこを心理歴史学の拠点とした、というのです。つまり第二ファウンデーションは(第一)ファウンデーションとは異なり、ただセルダンの予定に一方的に従わされるのではなく、自ら心理歴史学的予測を行い、そしてミュールほど強力ではないが精神操作を用いて歴史に介入し、予測不能の逸脱が生じた場合にはファインチューニング、微調整を行う存在なのです。

 

セルダン・プランの裏

・――このように見るとファウンデーション前期三部作は、宇宙SFとしてよりも陰謀論ファンタジーとして読まれるべきものであり、またSFとして考えるならば管理社会を描くアンチ・ユートピアディストピア小説に近いとさえいえるかもしれません。

 

・この臆面のなさには、情状酌量の余地があるでしょうか? その場合、この前期三部作が書かれた時期を考えるてみる必要があります。これらの作品は、その原型の連作中編として雑誌に掲載されたのは1940年代、第2次世界大戦中から戦後にかけてです。その時代アシモフはまだ20代の青年であり、アシモフ家はロシア移民とは言え、スターリン時代の惨状については庶民レベルでは当時ほとんど知る由もなかったでしょうし、何よりソ連は連合国の一員で、冷戦はまだ本格的に始まってはいなかったのです。

 

ロボット物語の統合

・ミュールの故郷でもあったガイアは、第二ファウンデーション心理歴史学者たち以上の精神操作能力をもって、そこに居住する人類を含めた全生態系がひとつの統合知性を形成する異様な世界でした。そこでトレヴィズは人類の前に開かれた三つの選択肢――(第一)ファウンデーションによる、物理的テクノロジー・軍事力主導の第二銀河帝国か、第二ファウンデーション心理歴史学・精神支配による第二銀河帝国か、それとも、ガイアの銀河大への拡大=ガラクシアか――を前に選択を迫られます。

 

・とろあえずガイアを選択したトレヴィズでしたが、それは拮抗する諸勢力間の正面衝突、戦争を回避するための苦肉の選択であり、一時しのぎでした。続編の『ファウンデーションと地球』ではトレヴィズとペロラットはガイアの一員プリスを伴い、ガイア自身も知らないガイア出自の真相を探るべく、人類とロボット双方の故郷である地球の探索行を続行します。その途中で彼らは『ロボット帝国』の時代に無人惑星と化していたソラリアに出会い、じつはソラリア人は消滅したのではなく、自らを雌雄同体に改造し、地下に引きこもって全宇宙との交渉を断ち、孤立することを選んだのだ、という事実を知ります。そしてさらなる探索の果て、ついにたどり着いた地球は放射能まみれの死の惑星でした。しかしその周囲を回る巨大衛星(月)に精神活動の反応を探知した一行は、ついにそこでダニールと出会い、ジスカルドからセルダンまで延々と連なる因縁、ロボットと銀河帝国、そして両ファウンデーションとガイアの真実を知ることになります。

 

誰が(何が)人類の未来を選ぶのか?

・「待って」ペロラットはいった。「人類を単一の有機体に変えることができるだろうに。ガイアだよ

「私はそれをやろうとしたのです。わたしはガイアの基礎を作りました。もし人類を単一の有機体にすることができれば、それは具体的な一個のものになり、処理することができるようになるでしょう

 

そこに「自由」は存在するのか?

・これが何を意味するかと言えば、結局アニールも、ジスカルドを死に追いやった呪いから自由ではない、ということです。心理歴史学が確立されていれば、抽象概念としての「人類」も、たんに人間が恣意的に張り付けたラベルではなく、実在する「人間の行動を支配する法則」に裏付けられた現実の性質成り関連性として実在することになります。ジスカルドも、それにのっとることさえできれば、人類の繁栄のために人間を選別し、あるいは人類の理念を実現するにふさわしい人間を「創る」ことさえできると夢見ていました。にもかかわらずそうした「人類」理念を裏付ける心理歴史学が不在だったために、ジスカルドはあくまでも具体的な個人、自然人を守るという第一原則の枠から外れることができず、それゆえアマディロとマンダマスの精神を破壊するストレスに耐え切れずに機能停止したのです。

 

第零法則再訪

・つまり『ファウンデーションと地球』終幕においては、じつは人類の未来に対する四つの選択肢が提示されていることになります。(a)(第一)ファウンデーションによる第二銀河帝国。そこでは表向きセルダン・プランは尊重されますが、この局面では実際にはそこからの脱却を目指すことになります、(b)第二ファウンデーションによる第二銀河帝国。これは本来のセルダン・プランを継承し、精神操作によるファインチューニングをともなったパターナリスティックな体制です。(c)がガイア=ガラクシアによる統合知性、そして隠された第四の選択肢(d)が、スペーサーたちの中の過激派であるソラリア人たちによる、完璧にコントロールされた楽園たる自惑星への引きこもり。

 

アシモフと人類の未来

・「人類は宇宙に出てどんどん広がっていくべきか、それとも一惑星などの狭い限定された領域に引きこもるべきか」という問題設定を陽表的に出さずに(もし出してしまうと「宇宙に行くべきかどうか」という問いに対する結論を先取りすることになります)設定するにはどうしたらよいでしょうか? あらためて、規範倫理学のやり方で問うならば、功利主義倫理学の枠組みに落とし込むことが、おそらくもっとも手っ取り早いでしょう。

 

功利主義と人類の未来

ジュレミー・ベンサムを始祖とする功利主義倫理学は、イマニュエル・カントの倫理学と並んで近代的な規範倫理学、実践的な道徳哲学の原点とされます。それは人間のみならずあらゆる感覚能力を持つ存在、とりわけ快楽と苦痛を感じる存在に、道徳的な地位を認め、そのような存在に対しては道徳的な配慮が必要である、とします。よりストレートに言えば、快苦を感じる存在の苦痛を減らし、快楽を増やすことはよいことであり、そのような意味でのよいことを行おうと努めることが道徳的配慮である、とします。

 

・さてその際の尺度、達成しようとする目標が、功利主義的な快楽の最大化と苦痛の最小化、であるかどうかは必ずしも自明ではありません。そこにはじつのところいろいろな解釈の余地があります。ただ、先の配慮の一方向性を含めて、ジスカルドとダニールの立場、彼らが心理歴史学やガイア=ガラクシアをもって人類の宇宙植民、銀河帝国樹立を支援した振る舞いと、功利主義的政策思想は、決して矛盾するものではありません。それゆえしばらくこれ――ジスカルドとダニールの立場を一種の功利主義と解釈する、というやり方――を作業仮説として使っていきましょう。

 

抑圧されたポストヒューマンSFとしての後期アシモフ作品

くりかえしますが物語の中では、ソラリア的選択肢は、物語の当事者たち、主人公たちによってそもそも選択として意識されるまでもなく拒絶されます。しかしその理由は必ずしも明らかではありません。かろうじてうかがえるのは、サオラリアの選択が望ましからざる副産物、たとえば極度の排他性と不寛容、ソラリア人以外の人類を「三原則」における「人間」から外すという暴挙のゆえに、ソラリアは否定されるべきである、という程度の理屈であり、人口を一定に保った小規模コミュニティの永続、という目標自体、あるいは人口規模それ自体の道徳的目標としての意義は結局問われないままです。

 

やはり宇宙は「最後のフロンティア」か?

・すでに見たように、人類を見守る2万年の歳月に疲弊したダニールの最後の選択は、人類全体を一つの統合知性へと変容させることでした。これは「第零法則」にはらまれる困難、特定の個人ではなく全体としての「人間」とは何か、を定義することの困難を克服しようというものです。「人類全体」をたんなる抽象概念ではなく、具体的な実在にしようというわけです。そしてテストケースとしてのガイア、惑星単位での統合知性を備えた人間社会を実現したダニールは、最後に自分のもとを訪れたファウンデーショントレヴィズに、そこから進んで銀河単位の統合知性ガラクシアを実現するか、あるいはこのまま、バラバラの個人たちからなる人類社会を維持するか、の決断を求めます。そしてガイアに対して反発し続け、個人であることの尊さにこだわっていたはずのトレヴィズ、ガイアを構成する人びとのことを、じつは人間ではなくロボットではないかとさえ疑っていたトレヴィズは、ダニールの求めに応じて、ガラクシアの実現を選択します。

 

・作中でトレヴィズ自身の口から語られるその理由は「人類は銀河を超えた大宇宙スケールでの生存競争に備えねばならない」というものです。天の川銀河系内において進化し、銀河を征服した知的生命はただ一種、地球出自の人類だけでしたが、ほかの銀河までが空虚であるということはあるそうにもないことです。おそらく他の多くの銀河において、人類同様に知性を得て文明を築き、銀河を植民地化する存在が出現していることでしょう。天の川銀河を征服した人類は、順調にいけばやがて外宇宙に進出し、いずれは他の知性、ほかの宇宙文明と出会わざるを得ません。そうした文明間の接触、競争の中で人類が生き延びていくには、ガラクシアになるしかない――トレヴィズはこのように推論します。人類が多数の個人たちからなることによる多様性、そして個人の尊厳という価値を犠牲にしてでも、人類の生存、存続という価値を追求しなければならない――これがトレヴィズの判断です。

 

むしろ宇宙は「最後の安全弁」では?

・しかしながら、アシモフの架空世界の中においてであればともかく、現実存在としてのわれわれ読者が、これを真に受ける必要がはたしてどこまであるでしょうか。

 

「袋小路」か?

・われわれは先にジスカルドとダニールの命運を「袋小路」と呼びました。なぜでしょうか? 彼らがセツラーを選んだのは、短命な個人たちのヴァイタリティによる自由な試行錯誤の力を信じたからです。そしてそれを実現するために、自分たちを含めたロボットを歴史の表舞台から退場させることを選んだわけです。

 

<私はアイザック・アシモフの愛読者では決してありません。

私はアイザック・アシモフの愛読者では決してありません。ネオリ・ダニールの物語も、とくに後半については今回初めて通読した程度です。アシモフ自身が語る通り、アシモフは小説家としては決して一流ではなく、また時代遅れの存在です。文学的にもエンターテイメントとしても、60年代以降の大きな革新に基本的には乗り遅れた作家と言えます。

 それでもそのような「時代遅れ」の作家として、アシモフはその時代の精神の体現者と言えますし、アイディアマンとして見たとき、やはり彼はまごうことなき天才です。たんなる予言者、未来幻視者ではなく、我々自身の欲望を水路づけし未来を作ったのです。