日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

世界の情勢を大いに左右した謎の人々の組織は確かにインドに存在していたと主張した。(1)

 

 

(2023/12/19)

 

 

『ダーク・ミューズ』

オカルトスター列伝

ゲイリー・ラックマン  国書刊行会  2023/9/22

 

 

 

闇の詩神

隠された、秘密の、秘教的な、未知の。これらは「オカルト」という言葉の辞書における定義の例である。「オカルト」の語源はラテン語の「オクロ(occulo)」、つまり「隠す」で、天文学用語「オカルテーション(掩蔽)」――ある天体がもうひとつの天体の前を通過することによってそれをかすませる、つまり「塞ぐ(オクルード)」こと――ともつながっている。しかし、一般的な見方では、「オカルト」とは、サタニズムや魔術、新聞の星占い欄から、インタ―ネット霊能者、UFOまで、多様なものに使われる言葉だ。すべてが間違っているとはいえないが、色々なものを指すこの単語には、時間の経過とともに言語がこうむる一種の劣化が表れている。

 

・本書は作家や詩人に偏っているが、作曲家や美術家を扱った他の研究でも似通った結論を出すことができるだろう。しかし、魔術と執筆活動のあいだには根本的なつながりがある。

 

啓蒙時代のオカルティズム

・「オカルト的啓蒙思想」というと矛盾しているように聞こえるかもしれない。啓蒙時代とは、理性と科学が、迷信と宗教的偏見に打ち勝った時代だからだ。しかし、人間の文化の中心にあった実践や信仰が、ある日突然きれいに消え失せることなんてめったにない。魔術については特にそうだ。魔術は数千年にたわり人類のそばにあり続け、現在もまだ我々とともにある。魔術的な視点は科学的説明の陰に隠れてしまったが、一般大衆にとっては確かに存在していたのである。

 例をあげると、1784年のパリでは、錬金術師、カバラ主義者、占星術師をはじめとする、神秘を為す者たちをいたるところで見つけることができた。屋台では謎めいたサンジェルマン伯爵の肖像版画が売られていた。書店は秘められたオカルトの業についての大著を売りさばいた。

 

・レチフ・ド・ラ・プルトンヌやミラボーのように権威ある著名人も、フリードリヒ2世が男色の実験を通じてサチュロスケンタウロスを生み出したという報道を受け入れていた。魔術がフランスの大衆の意識にあまりにもがっちりとくいこんでいるので、歴史学者ロバート・ダーントンによると、当局は通常の情報源である司祭よりも、錬金術師、魔術師や占い師のほうが、スパイや情報提供者としてずっと適任だと気づいたという。オカルティズムにこれほど熱中したのはフランス人だけではない。大陸の他の都市や、これほど露骨ではなかったにせよ同じ強い関心は、海峡を隔てたイギリスにもあった。

 啓蒙時代のフランスにおける大衆向けの新聞は、現代のタブロイド紙とそう異なってはいないと感じられるかもしれない。しかし、オカルティズムに対する一層真剣な関心は、もっと見えにくい場所でひそかに隆盛を見せていた。ひとつは本書のテーマでもある文学だ。もうひとつは政治である。

 

スウェーデンボルグ

・オカルト史において18世紀のもっとも偉大な人物はエマヌエル・スウェーデンボルグかもしれない。隠された神秘についての彼の真摯で方法論的な追究は、確かな基準を打ち立てた――後世の信奉者はこの基準をしばしば無視してしまったが。

 

・しかし、1745年、57歳のとき、転機が訪れた。奇妙な予知夢やキリストの顕現を含む強烈な入眠時幻覚が彼に深刻な精神的危機をもたらし、きわめて科学的だった意識を揺さぶり、風変わりな内的風景やオカルト世界の地図の作り手としての道に踏み出させたのである。彼は死者と会話し、他の惑星に旅をし、さらに驚くべきことに天国と地獄を訪ね、戻ってからそこで見聞きしたことについて大作を執筆した。他にも学者らしい冷静な筆致で聖書の真の意味をつづった一連の書籍などの大作を書いている。

 

・月の民は腹でしゃべる、火星人の顔は二色などという非常に信じがたいことを述べているときでさえ、スウェーデンボルグが常に漂わせている理性的で等式的な空気に魅惑されたのだ。

 

スウェーデンボルグはロンドンと関わりが深く、1710年に訪問したときにはジャコバン派フリーメイソンのロッジに入会したかもしれない。その後、1744年に訪ねたときは、風変わりなツィンツェンドルフ伯爵によって率いられた秘密結社モラヴィア兄弟団の一員になったと考えられる。

 

・文学に関心があれば、スウェーデンボルグの莫大な遺産のなかでも、「照応」という概念が他を圧していると感じられるだろう。この概念は、魔術的思考の中心概念として、また、象徴主義の詩の核となるテーマとして、彼の死後も数世紀にわたって様々な形で現れる。スウェーデンボルグは、肉体の世界はより高次の精神の世界に根ざしており、そのふたつの世界は照応していると主張した。肉体の世界と精神の世界のあいだのつながりを理解することで、我々は神の意図の理解へと近づける。スウェーデンボルグの「照応」は、錬金術における基礎概念「上であるものは下でも同様」の完璧な表現といえるかもしれない。

 

・また、人間は内部に全宇宙を内包した小宇宙であるという考えの、文字どおり力強い具現化でもあった。ダーウィン的思考の「ズボンをはいた猿」に避けがたく進んでいく時代に、スウェーデンボルグは、逆に人間はまさに神的存在の似姿として作られたのだと、究極の現実はカバラやヘルメス思想の中心テーマであるユニバーサル・マン、つまりアンスロポスだと述べた。

 

カリオストロ

カリオストロシチリアでジュゼッペ・バルサモとして生まれた。ただ、カリオストロバルサモが本当に同一人物であったかどうかについては、いまだ議論がなされている。

 

カリオストロが名を馳せた理由はいくつもあるが、そのひとつに、宗教裁判により死を迎えた最後の人間であること、ローマのサン・レオ城でおそらく看守に絞殺されたということがある。

 

・だが、カリオストロのこうした評価は理解できるとしても、すべて正しいというわけではない。多くのオカルトの師と同じく、カリオストロは目的を達成するためなら虚偽も受け入れた。しかし、その目的は多くの場合高貴なもので、彼にはある種の威厳と力強さがあった。

 

・そして1776年、34歳のときにロンドンを訪れた際、バルサモが名をカリオストロと変え、文字どおり違う人間になった。この変化をもたらしたのは主にフリーメイソンだ。

 

バルサモはずっとオカルトに惹かれていた。それは旅する錬金術師としての日々から明らかだ。1772年に初めてロンドンを訪れたとき、スウェーデンボルグに会っていた可能性もある。

 

・1777年4月12日にソーホーのジェラード・ストリートのキングズ・ヘッドにて、フリーメイソンエスペランス・ロッジに加入を認められた後、カリオストロフリーメイソン主義を生涯の使命とした。じきにカリオストロは、フリーメイソンの加入式において新奇な形態を導入した。「エジプト式儀礼」と呼ばれるものだ。

 

カリオストロのエジプト式儀礼に対する信念は揺るぎないもので、彼は人並み外れて雄弁でもあった。カリオストロは天職を、また、面白い生計の立て方を見つけたのである。エジプトにおけるフリーメイソンの開祖といわれる予言者エノクにちなんで、カリオストロは「大コフト」と自称し、旅を重ねてオカルト団体を巡り、ほとんどの会員にとって月並みな社交クラブとなってしまっていた場に、より高次で創意に富んだ加入儀礼を導入した。

 

・どこに起源があるかはともかく、エジプト式儀礼を広めようとするカリオストロの動機は利他的で、オカルト的だったにせよ啓義時代の理想である平等主義と同胞意識に沿うものだった。キリスト教徒と自由に交流したツィンツェンドルフやフォークと同様に、分裂している小さい団体を、メイソンとしての共通目標、つまり人間の新生に向けて統合することをめざしていたのだ。この目標を見据えて、エジプト式儀礼ユダヤ人を受け入れ、また、フリーメイソンの伝統を急進的に打ち破り女性も受け入れた。

 フリーメイソンであると同時に、カリオストロは一種の治療師であり、うさんくさい放浪者から大コフトへの変身は、その力をいちじるしく増大させたようだった。

 

・ロアン枢機卿の名が出たので、「首飾り事件」に触れておきたい。この詐欺にカリオストロは大して関わっていなかったが、破滅することになった。スキャンダルが発覚するとカリオストロの評判は地に落ち、彼は強い自信を二度と取り戻すことはなかったのだ。

 

カリオストロはふたたび放浪者となったが、悪評が常に先回りし、助けを求めて赴いた場所からはことごとく追い出された。不思議なことに、エジプト式儀礼がたいして入会希望者を呼ばなかったロンドンに滞在し、カリオストロは「フランス人への手紙」を書いた。

 

カリオストロバスティーユ監獄が打ち倒されるまでパリには戻らないと述べ、統治体制に根本的な変化が訪れるとほのめかしているのだ教皇庁カリオストロを危険な革命家だと見なしたのはこれらの予言のせいかもしれない。ローマでフリーメイソン主義を広めようと試みたカリオストロは逮捕され、教会を転覆させようとした罪に問われた――それを実際に構想していたのはイルミナティだったのだが。

 

サンジェルマン伯爵

・18世紀には、機知や会話の巧さ、愛想のいいふるまい、そして常に魅惑的と思われ続ける能力が、カバラの知識や錬金術の技術と同じぐらい求められていた。サンジェルマン伯爵、時に「奇跡の男」と呼ばれた男はそれらの特質をあわせ持ち、後世の多数のオカルティストたちと同じく、意図的に自身の過去を秘密めかした。

 

もしかしたら今も健在で、ヒマラヤの聖域で帰還すべき時を待っているのかもしれない。19世紀以後、サンジェルマン伯爵は「さまよえるユダヤ人」と同じような神話的存在になり、種々のオカルトの殿堂に位置を占めるべく多様な形で保存され、改変されてきたといえる。

 

オカルト分野においてサンジェルマン伯爵が主張した功績とは、すべての病を癒し、不死をもたらすという「エリクシール」を完成させたというものだったマダム・ブラヴァツキーはサンジェルマン伯爵チベット人の導師(マスター)たちと同列に扱い、近年ではアメリカの右派スピリチュアル・リーダーであるエリザベス・クレア・プロフェットが伯爵に降り積もっていた埃を払い、つまらない予言をする際のスポークスマンとして用いた。

 

・サンジェルマンと呼ばれた男は生来の魅力と教養を持っており、化学と歴史に詳しく、それゆえに錬金術や過去の事物について、その目で過去の出来事を見てきたのだと思わせる威信ある口調で話すことができた。いつも黒と白に身を包み、ヴァイオリンを弾きこなし、歌声は美しく、ヨーロッパの複数の言語を流暢に話し、絹と革を見事に染色するコツを知っていた。もっと疑わしい評判としては、卑金属を黄金に変えられる、ダイアモンドの瑕疵を消し去ることができる、2千年前にフリーメイソンを創設した張本人であるから見かけよりもずっと齢を取っているのだ、というようなものがある。彼の若々しい外見は、機知や機転を発揮してパーティや宴を賑わわせても、料理はまったく口にしないという習慣によるものかもしれない。サンジェルマンはおそらく菜食主義者であり、18世紀の富裕層の食卓にあがった豪勢な料理を喜ばなかったのだ。彼は自分で用意した特別なエリクシールだけを口にするのだと言っていたが、パーティの前にこっそり普通の食事をとっていたのかもしれない。

 

・初めてサンジェルマン伯爵に言及したのはホレス・ウォルポールで、1743年に書かれた手紙でロンドンに伯爵が現れたと述べている。その少し後、サンジェルマンはステュアート王家のスパイだと疑われてイングランドから追放された。それからフランスに赴き、おそらくポンパドゥール夫人の影響もあってルイ15世のお気に入りとなった。

 

・サンジェルマンはヨーロッパ全土を飛び回り、魔術師として、才人として、またスパイとして活動した。ウィーンではザボル伯爵やロプコヴィッツ伯爵の相談役として知られ、ふたりのつながりでフランスのベル=イル元帥と知り合い、交友を深めた。元帥は後にサンジェルマンをフランスへち連れて行くことになる。ルイ15世に会う前、サンジェルマンはオランダに居を移し、シュルモン伯爵と名乗った。

 

・サンジェルマンについての描写は「最上級のいかさま師、道化、いかれたおしゃべりなペテン師」から、「最も偉大な賢人のひとりかもしれない」、「機敏な精神を持つ非常に才能ある男」だが「判断というものがまったくできず」、「人間に可能ななかで、最も卑俗である最低の類のお世辞」を通じて悪名を高めたというものまで様々ある。サンジェルマン伯爵は、かなりの教養と機知をあわせ持っていた人物で、化学に真摯な関心を持ち、オカルトの幻惑をそうでなければ閉ざされたままだった扉を開けるために使ったのだと思われる。しかし、錬金術に対して実際にどのような貢献を果たしたかは、いまだ謎である。

 

イルミナティ

フリーメイソンという木から伸びた多くの枝のうち、アダム・ヴァイスハオプトがバイエルンで創設したイルミナティほど悪名高いものはない。

 

・実際の功績がたいしてなかったとしても、神話としてのイルミナティが、テンプル騎士団、薔薇十字団、フリーメイソンなどとたびたび関連づけられ、また、それらの組織と同じぐらいの影響を現代のオカルト思想に与えたこともまた事実だ。これは歴史の皮肉とでもいうべきで、なぜかというと、創立当時のイルミナティ神秘主義やオカルティズムのすべてを敵視し、そこに戦うべき蒙昧が潜んでいると見なしてしたからだ。

 

・ヴァイスハオプトの元々の目標は、啓蒙が進むヨーロッパの中で依然として知的レベルが中世のままだったバイエルン地方において、イエズス会の支配の枷を砕くことだった。しかし、しばらくするうちに計画は広がり、関係者にとっては明らかに危険と見える、簡潔な方法にまとまった。イルミナティが目指す未来とはこのようなものだった。

 

 君主や国家は暴力を伴うことなくこの地上から消え去り、人類はひとつの家族になり、世界は理性のある人々の住まいとなる。倫理性だけでも、気づかないうちにこの変化をもたらすだろう。[中略]人類がその最も高度な完成形、つまり己自身を審査する能力に到達することは、なぜ不可能とされるのだろうか。[中略]この革命は、秘密結社によって実現する。

 

イルミナティ創設から1年後、ヴァイスハオプトは再びフリーメイソン入会を試みた。今度は認められ、<厳格な監視会>ロッジに加わった。こうして彼はこのもっと古い結社への出入りを始めたのである。

 

イルミナティの崩壊は、クニッゲ男爵とヴァイスハオプトの対立からはじまった。クニッゲは総じてヴァイスハオプトよりも神秘家で、フリーメイソンおよびその他の複数の秘密結社に参加していたところをイルミナティに勧誘された。ヴァイスハオプトの組織に興味を持ったのも、ある薔薇十字団系のセクトへの加入に失敗したからだ。

 

・他にも問題が生じた。ヴァイスハオプトの革命的な計画に魅力を感じなかったフリーメイソンたちは、イルミナティへの反対意見を声高に口にするようになった。暗い噂がかけめぐった。イルミナティの会員のうちであまり用心深くなかった人々は、君主や貴族の不公平さについて話すようになった。

 

その後、ヨーロッパ文明を暴力やその他の様々な手段により転覆させようとする多くの陰謀に、フリーメイソン全般、その中でも特にイルミナティが関わっていると主張するたくさんの証拠が出てきた。信憑性があるものもあったが、大半はヒステリックな屑だ。

 

フランス革命についての陰謀論者のなかで最も影響力があったのは、イギリスの避難して恐怖政治を免れた司祭で元フリーメイソンの、気難しいアベ・バリュエルだった。大著の4巻本『ジャコバン派の歴史としての回想』では、大陸全体のフリーメイソンのロッジではぐくまれていた、君主制と教会に対する恐ろしい秘密の陰謀が明かされている。

 

シェリーがバリュエルに魅了されたのは、元々秘密結社に惹かれていた――暗殺教団についての小説の一部が残っている――ためだ。きっと次のような文章に心を動かされたのだろう。

 

 この結社が[中略]選んだ光明派(イルミネ)という名は、古来の破壊的な詭弁の系譜にある。マニとその信徒たちが最初に名乗った名前、「天の光に照らされたマニ」でもある。ドイツに現れた薔薇十字団の初期の団員たちも、己を光明派(イルミネ)と呼んだ。

 

・後にジェラール・ド・ネルヴァルフェルナンド・ペソアのようなロマン主義者もこのオカルト家系図をたどることになる。神秘主義的な系譜学は、このジャンルで人気の本においてよく見るものになっている。

バリュエルの大作には熱がある。

 フランス革命の初期には自らをジャコバン派と呼ぶ一派が現れ、「すべての人間は平等で自由だ」などと説いたのだ。平等と無秩序な自由という名のもとに、彼らは祭壇と王座を踏みにじった。国民を刺激して反抗へと向かわせ、無政府状態という恐怖に陥れようとした。

 

フリーメイソンの最奥から、というのが答えだ。これまで見てきたように、フリーメイソンはある程度急進的な政治思想の苗床となっていた。いやむしろフリーメイソンの会員もまた、社会的、政治的な意味で啓蒙された側だったともいえる。また、革命前の年月、ヴォルテールやグランベール、ディドロ、エルヴェシウスのような啓蒙された知識人は、フリーメイソンのロッジを真似た一種の秘密のアカデミーで会合を重ねていたフリーメイソンのロッジは、異なる社会的階層に属する人間たち――貴族と中産階級など――が、対等な立場で出会える場所を提供していたのだ。これはウィーンで無一文だったモーツァルトが高く評価した点だ。そして18世紀末のフリーメイソンは、知的優越、思想の自由さ、新しいアイデアへの好奇心を持っていた。フランスの<大東洋(グラントリアン)>ロッジの会員には、ヴォルテール、バイイ、エルヴェシウス、ダントンなどがいた。しかし、総体としてのフリーメイソンは革命の担い手ではなかった。

 

フリーメイソンの一員となってからしばらくして、バリュエルは最終的な儀式を受け、フリーメイソンの核心にある秘密を知ることもできるようになった。彼はこの経験を三人称で以下のように書いている。徒弟が誓いを立てた後、「親方は彼にこういった。『親愛なる兄弟よ、フリーメイソンの秘密は平等と自由という言葉にある。すべての人間は平等で自由である。すべての人間は同胞である』」。バリュエルいわく、この原理は後に拡大されて次のような意味を持った――「自由と平等についての原則が明白に何であるかというと、キリストとその祭壇に対する闘い、君主とその王座に対する闘いだ!」。

 

ロマン主義とオカルティズム

・「ロマン主義の」と、「ロマン主義」はどちらもきわめて曖昧な言葉で、定義や用法は戸惑うほど複雑に重なり合っている。

 

・芸術・文化活動としてのロマン主義が衰退して以降の用法は、ほとんどが軽蔑的な意味を含んでいる。現代の人々の大半にとって、魔術やオカルトという概念はとても「ロマンティック」なものだろう。つまり、非現実的で、単なる幻想、夢、想像の産物であるという意味だ。

 

・啓蒙時代のオカルティストが、たとえ不首尾だったとしても、宗教的に寛容で同胞主義が広まった世界を夢見て社会の変革を企画したといえるなら、恐怖政治とナポレオンの台頭を見たロマン主義者は闘いの場を変えた。

 

ゲーテを例外として、ロマン主義は西欧の意識の歴史における、失敗はしたが偉大な実験として見ることができる。ロマン主義とその後世への影響において、芸術家と魔術師の融合は最も鮮やかな姿をとる。

 

ゲーテ

・ドイツの最も偉大な詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがオカルトに興味を抱いていたのは『ファウスト』から明らかだ。歴史上の人物をもとにした本来のファウスト伝説は中世までさかのぼり、そこから題材をとった作品にはゲーテ以前にもクリストファー・マーロウの『フォースタス博士の悲劇』などがある。

 

歴史上のファウスト博士は、1480年にヴュルテンベルクのクニットリンゲンで生まれ、1539年にフライブルグ近くのシュタウフェンで悪魔の手によって亡くなった――少なくとも博士の終焉の地とされるシュタウフェンの獅子亭の壁を飾る銘板にはそう書かれている。マルティン・ルターの友人メランヒトンによると、ファウストポーランドクラクフ大学で魔術とオカルトを学んだという。同様の分野はサラマンカとトレドの大学でも教えられた。クラクフで、ファウストはイエスの奇跡を馬鹿にし、いつだって同じことをできると声高に言ったとされる。大勢がその言葉に憤慨したが、感銘を受けた者もいた。後年、エルフルト大学でホメロスについて講義していた際、ファウストは学生たちを楽しませるためにアキレウスオデュッセウスヘクトルの霊を呼び出してみせたという修道院ヨハネス・トリテミウスいわく、ファウストには「歴史上、最も成功した錬金術」であると自慢げに名乗るだけの理由はあったという。しかし、あるフランシスコ会士は黒魔術から手を引いて教会に戻ってくるようにファウストに迫った。ファウストは無理だと答えた。もう悪魔に魂を売ってしまったし、悪魔が約束を守っている以上、自分もそうするつもりだ、と。ファウストの予知やその他の奇跡的な力――伝えられるところによると、ファウストはアントン・フォン・シュタウフェン男爵に雇われ、人造金を作らされていた――や、悪魔が「使い魔」として犬の姿で付き従っていたことについて記録が残っている。

 ファウストを題材にした初めての本は1587年に登場した。ファウストと悪魔の契約や奇想天外な冒険を描くドイツ語の本だ。これはちょっとしたベストセラーになり、数ヶ月のうちに様々な海賊版が出回った。

 

エリファス・レヴィ

さらに、1875年はアルフォンス・ルイ・コンスタンという人物が死んだ年でもあった――議論が不充分なところがあるが情熱的な社会主義作家で、晩年はオカルトを学ぶ人々に「高等魔術の教授」として知られるようになったエリファス・レヴィである。

 コンスタンは1810年にパリに生まれた。魔術師としての人生が始まったのは比較的遅く、『高等魔術の教理』を1854年に発表してからだ。それ以前は、様々なことで生計を立て、パリの文学界の周縁にかろうじて存在し続けてきた。彼が最初にとった姿は聖職者だった。

 

・神秘の道に惹きつけられた多くの人間と同様に、若いころの彼は夢見がちで孤独で、その頭の回転の速さと生来の知性に感心した教会区司祭に助けられてサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会の神学校に行き、その後サン・シュルピス教会の神学校に進んだ。そこで彼は聖職を得るため勉学に励んだが、そのうちに「教会に敵対する教義を説いた」ために追放された。

 この「教会に敵対する教義」がどういうものだったかはわからないが、おそらくはセックスにまつわることだったのだろう。アルフォンスは、初聖体を控えた少女を教えていて、聖職に対する疑問を持つようになった。少女の母親は、こんなにやさしいのだから引き受けてくださるはずだと言い、娘を指導してほしいと懇願したのだった。少女の美しい青い目をのぞくうちに、彼は人間的な愛への欲求に気づいた。突然、冷たい克己の人生に嫌悪感が湧き、誓願を立てるまえに職を辞したのだ。とはいえ、カトリック教会とその教義は彼に強い影響を与え続け、後の著作で彼はキリスト教の教義と魔術のあいだに根源的な差異はないと苦心して論じている。

 

・しかし、コンスタンの、最も社会で知られていた人格は、革命についての言辞に満ちた、少々説得力には欠けるものの激烈な社会主義作家としてのものだった。議論で足りないところは信念で補った。著作のひとつ、『自由の聖書』のために8ヶ月牢獄に入っていたこともある。オカルト政治の奇妙な歴史のなかで、コンスタンは左寄りだった数少ないオカルティストのひとりである。

 コンスタンが初めてオカルト政治に関わることになったのは、一時期はジェラール・ド・ネルヴァルの文学仲間でもあったアルフォンス・エスキロスとの友情を通じてであった。エスキロスは現代では忘れられた作家だが、異色作「魔術師」はいずれ再評価されるだろう。

 

・コンスタンの私生活は不満と失望に満ちており、エリファス・レヴィに変身するきっかけとなったのは結婚の破綻だった。

 

カバラの研究に没頭していたコンスタンは、ノエミが侯爵の愛人になったことに気づいていなかった。気づいたときには手遅れだった。打ちのめされたコンスタンは、この過酷な通過儀礼に耐えた。そして試練が終わったときに生まれ変わっていた。『高等魔術の教理と祭儀』がパリの書店に並んだとき、アルフォンス・ルイ・コンスタンは消えていた。代わりに、神秘主義思想の大家エリファス・レヴィが現れていた。

 

・1801年、神秘主義の学徒フランシス・バレットは儀式魔術について『マグス』という本をまとめた。バレットは、ブルワ=リットンの『ザノーニ』に登場するコベントガーデンの書店の主だったジョン・デンリーの友人であり、デンリーから借りた様々な魔術的書物を書き写して『マグス』を作ったとされる。少なくとも同書の4分の3が剽窃でできているのは疑いない。書かれている情報は引用とはいえ正確なものだが、バレットの本はオカルト復興のきっかけにはならなかった。研究書ではあるものの、読んでいて退屈だからである。

 

・レヴィの著作は正反対だ。馬鹿げた間違いで不可解になっている箇所があっても、ページをめくりたいという気持ちを起させる。金を払う価値が何かしらあるのだ。魔法の教義、「どこであっても同じで、どこであっても慎重に隠されている教義」があるというレヴィのヴィジョンに導かれて、例えばマダム・ブラヴァツキーは人里離れたヒマラヤの寺院から人類の運命を統括している東洋の超人の存在について語り、ブルワ=リットンは「来るべき種族」という発想を得た。

 

・1875年5月31日の午後2時、高等魔術の教授はこの世界を出て次の世界に移った。彼は知らなかったかもしれないが、その著作は予想もできない数の読者に届くことになった。正統派の宗教や物質主義的科学に不満を持ち、過去の時代の失われた秘密を取り戻そうとする熱意を持った世代にレヴィは影響を及ぼしたのである。

 

エドワード・ブルワ=リットン

しかし、人気小説家であると同時に、ブルワ=リットンは19世紀の最も重要なオカルティストだったと言えるかもしれない。

 彼が数作の娯楽作品において取り上げた、秘教的で魔術めいた様々なモチーフは非常に影響力があった。短篇「幽霊屋敷と幽霊」、別名「屋敷と脳髄」はヴィクトリア朝時代のすぐれた幽霊譚のひとつであり、ポーやM・R・ジェイムズと並んで古典的名作のアンソロジーによく収録されている。幽霊に対する驚くほど現代的な科学的調査――彼は心霊現象研究協会に1世紀ほども先んじて心霊現象の調査にあたった初期のひとりだった――が描かれた、不穏で薄気味悪い雰囲気の、とても印象に残る短篇だ。トールキンガンダルフに匹敵する魔術師も登場する。なぜか見過ごさせることの多い作品『不思議な物語』は転生と不老不死の霊薬(エリクシール)を求める錬金術的な旅路を軸にしている。しかし、薔薇十字団や秘教的知識に対する関心や、優越者についての考えを明白に表した長編2作もある。薔薇十字団についての長篇『ザノーニ』と神秘主義的SF長篇『来るべき種族』である。2作とも近代における神秘主義の再興において重要な役割を果たすことになった

 

・ブルワ=リットンは、驚くほど多才なヴィクトリア時代人のひとりであり、政治家としての華々しい経歴と特筆すべき文学的業績に加え、今日だったらタブロイド紙の一面を飾るような社交生活を送っていた。個性ある洒落男でもあり、男性が黒いイブニングを着る習慣も彼から始まった。

 

アウトサイダーのような人間は、規則正しく凡庸な社会に守られている普通の市民より、精神的に経験を積み成長を遂げる可能性が高いと気づいたのだ。もちろん、この考えは19世紀の後半になってから社会に衝撃を与えることになる。ニーチェが提唱する数十年前に、ブルワ=リットンはより高次の存在が出現した暁には自身が「善も悪も超越している」と気づくだろうと述べていたのだ。いまは「オカルト・ナチス」というサブジャンルの重要な要素となっている「ヴリル」という神秘的な力が登場する『来るべき種族』で、ブルワ=リットンはそのような超人のみが構成する文明を描いている。超人と初めて会ったときに主人公はこう言う。「人に似たこの存在には、人類に牙を剥く力が備わっていると感じた」。ヴリル・ヤは「人間に似た種族だが、肉体ははるかに強く、精神ははるかに広く、口にできないような絶望感を引き起こす」。ヴリル・ヤは数百年生きるとされる。バーナード・ショーは、独特の進化主義者的戯曲『思想の達し得る限り』で「年寄り」という存在を描いたとき、『来るべき種族』を念頭に置いていたかもしれない。少なくとも、ブルワ=リットンの愛読者であり、人類の進化について同じような疑問を持っていたある人物は、神秘主義の歴史において比類ない影響力を発揮した。マダム・ヘレナ・ペトリーヴナ・ブラヴァツキーである。

 

どちらにしても、『ザノーニ』が19世紀の神秘主義において重要な作品のひとつである――もしいちばん重要でないとしたら――のは間違いない。フランス革命と恐怖政治の始まりを背景とした『ザノーニ』は、オカルト科学の百科事典といえるプラトン主義、ピタゴラス、新プラトン主義者。迦波羅、本草学、照応という概念、次元の階梯についてのグノーシス主義思想、アストラル界、元素、秘密結社。オカルト観相学、メスメル、カリオストロ、ジャック・カゾット。ブルワ=リットンはこれからの事柄についての論考に頁を割いている。マチューリンの『放浪者メルモス』と似た筋を持つメロドラマだが、複雑なプロットと登場人物を備えた『ザノーニ』は加入儀礼の寓話であり、スピリチュアルな道程における試練に対する主人公たちの反応を描いている。常に若く謎めいたザノーニは紅はこべとサン=ジェルマン伯爵が合体したような存在で、奇妙な力を持ち、必要とされるときには現れ、まばたきのあいだに消え失せる。

 

・陰鬱でどことなく気味の悪い人物である師メイナー――『来るべき種族』に登場する超人の初期のプロトタイプ――と並んで、ザノーニは、歴史ある薔薇十字団よりもさらに数千年早く誕生した達人(アデプト)たちの結社、古い神秘主義団体の生き残りのひとりであるザノーニは少なくとも5千歳は超えていると語られる。永遠の生に倦んだザノーニは、美しいヴィオーラに対する愛のために己の不死性を犠牲にしたいと願う。

 

・ブルワ=リットン流に描かれた冷酷なジャコバン派である。『ザノーニ』は、語り手がいまや老人になったグリンドンとオカルト専門書店で出会うところからはじまる。この書店はジョン・デンリー所有の店で、コペンハーゲンに実在し、19世紀初頭のオカルト団体にはよく知られていた。薔薇十字団についてグリンドンと話した語り手は、彼の死後、未知の暗号で書かれた謎の原稿を受け取る。そこに書かれていたのが、たぐいまれなザノーニについての物語だった。後にディケンズはブルワ=リットンのプロットとクライマックスのシーンを、革命の物語『二都物語』で用いている。

 

彼自身が薔薇十字団やその他の神秘主義結社と関係があったかどうかはわからない。より有名な黄金の夜明け団の先駆的存在ともいえる英国薔薇十字教会の会員だったとはよく言われるが、ジョスリン・ゴドウィンも、黄金の夜明け団の研究者ロバート・ギルバートも、その可能性を強く否定している。

 

ブルワ=リットンがフリーメイソンのロッジに入会した記録はない。ただ、フランクフルトに滞在中、<アジア同胞会>に加わった可能性はある。これは秘密結社最盛期である18世紀に創設され、イルミナティが悲惨な末路を遂げた後に解体されたと言われるフリーメイソンの一派である。『ザノーニ』やブルワ=リットンの他のオカルト的著作に登場する要素は、熱心に探せば現存する史料に見出すことができるものだけだし、これまで見てきたとおり、ブルワ=リットンは猛烈な読書家だった。そうは言っても、ブルワ=リットンが真の卓越者ではなかったと決めつけてはいけない。真の魔術師は霊感を得た芸術家であるという、啓蒙的神秘主義の衣に包まれた『ザノーニ』の秘教的なメッセージは、他の様々な知識に比肩する深慮な叡智なのである。

 

世紀末のオカルティズム

マダム・ブラヴァツキー

・既に述べたように、1875年はオカルティズムにとって重要な年だ。その年、エリファス・レヴィが死に、アレイスター・クロウリーが生まれた。いずれも特筆すべき事件だ。しかしもっと特筆すべき事柄としては、3人の変わった人物が、近代のオカルティズムのみならず近代の文化全般に深い影響を与えた組織を設立したことがあげられる。

 

・1875年9月13日、ニューヨーク市でマダム・ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキー、ヘンリー・スティール・オルコット大佐、ウィリアム・クァン・ジャッジの三人は、前に属していたオカルト団体――ある会員は皮肉で「ミラクル・クラブ」と呼んだ――の後継となる組織を結成しようと集まった。神智学協会だ。

 

・ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキー(信奉者たちは「HPB」とも呼んだ)は、1831年ウクライナのエカテリノスラーフでヘレナ・フォン・ハーンとして生まれた。

 

・初期の神智学協会の特色だった潜在能力とオカルト現象への漠然とした関心は、創設されて間もなく、オルコットとブラヴァツキーが導入した東洋の形而上学的思想によって複雑になった。

 

・神智学協会は今の20世紀的意識から明らかに読み取れるような影響力を振るうことはなかっただろう。転生、過去生、アストラル界、高次意識や精神の進化などについての多数の教義の中心には、マダム・ブラヴァツキーがいた。畏敬の念を呼び覚ます、刺激的で悪党めいた存在だ。

 

ブラヴァツキーは夫から離れてンスタンティノープルに赴き、サーカスで裸馬を乗りこなしてみせる仕事に就いた。ここで彼女は性行為を不可能にする怪我をしたとされる。禁欲の美徳はやむをえない事情によるのではないかと言われる理由だ。それからしばらく霊媒ダニエル・ダングラス・ヒュームの助手をし、その後にはセルビア王立合唱団を指導した。

 

もしくは隠れた師たち――ブラヴァツキーは彼らと常に連絡を取っていると述べていた――が気分を一新したがったのかもしれない

 

隠れた師たち、ヒマラヤの秘密の寺院から人類の進化を導く達人たちである。彼らは教えを大衆に伝える人間として彼女を選び、魂のない物質主義的原理の中へ近代世界が深く沈み込んでいくのを防ごうとした。ブラヴァツキーが虚空から取り出してオルコット大佐を驚かせた。有名なマハトマからの手紙が証拠である。師たちのメッセージの中には、オルコットは妻子を放棄して大義に全身全霊を捧げるべきだというものもあり、オルコットは即座に従った。

 

・オルコットはHPBの能力に感服していたが、大衆はさらに多くを期待した。ブラヴァツキーは、魔術や超能力から古代の人類、秘密の教え、ヒンドゥー哲学までのすべてを網羅した大作『ベールをとったイシス』で応えた。オカルトはいんちきではなく真の科学であり、現代の人類には失われたものの、古代人とごく少数の進化した存在――つまり達人たち――には知られている自然の秘密についての深い知識に基づいている、という主張が同書の基礎となる前提だ。同書は近代科学が提示しているものとは大幅に異なった宇宙の進化と人間の進化の概略をも示した。初版千部は発売後十日で売り切れ、ニューヨーク・ヘラルド紙では「今世紀の最も特筆すべき著作のひとつ」と評された。その十年後、ブラヴァツキーはさらに厚い『シークレット・ドクトリン』を発表する。事実上、近代オカルティズムの旧約聖書と言える書籍だ。執筆中のブラヴァツキーは、ハシンを吸いながら自身のオカルト蔵書をあさり、さらに、多く引用したメッセージの真実を確かめるため、アカシック・レコードを丹念に調べた。オルコットは、文章の途中で彼女が手を止めて束の間少し離れたところを見つめ、それから急いでペンを紙に下ろして書き付ける様子を描写している。オルコットは、文章の途中で彼女が手を止めて束の間少し離れたところを見つめ、それから急いでペンを紙に下ろして書き付ける様子を描写している。オルコットによると、アストラル・ライトを参照して正しい参考文献を見つけ出していたのだという。

 

・アストラル・ライトはエリファス・レヴィが提唱した概念のひとつで、魔術師の意志と想像力の媒体である。メスメルの思想とロマン主義の思想が統合されたわけだ。レヴィ由来の思想としてはもうひとつ、暗い秘密と禁忌の知識が達人から見習いへと受け継がれて、脈々とつながったオカルト的継承の流れをなしているという考えがあった。ふたつの考えはブラヴァツキーに深い影響を与えた。また、フランス人ルイ・ジャコリオの影響もある。ジャコリオは『インドのオカルト学』で、世界の情勢を大いに左右した謎の人々の組織は確かにインドに存在していたと主張した1920年代には、キャサリン・ティングリー率いるポイント・ロマの神智学協会に属していた小説家タルボット・マンディによる秘教的な小説に「知られざる九人」の伝説が登場する。

 

・しかしブラヴァツキーに最も強い影響を与えたオカルト作家は、ブルワ=リットンである。『ザノーニ』からブラヴァツキーは、数々のオカルト概念と並び、人類のほとんどから離れたところに立つ不老のオカルト達人たちの集団がいるという考えを取り入れた。また、古い秘密の言語があるという考えも借用し、それをセンザール語と呼んだ。『シークレット・ドクトリン』の基盤をなす教えが書かれている『ジャーンの書』の原語とされる言葉である。

そしてブルワ=リットンの初期のSF作品『来るべき種族』からは、いずれも人類の代わりとなる超人という新人種の概念を取り入れた人類が新しい種類の存在へと進化しているという思想は、新世紀において様々な形で流行した――ニーチェベルクソンH・G・ウェルズバーナード・ショーの全員がそれぞれの方法で新人類を描いた

しかしブルワ=リットンが一番早く、その次がブラヴァツキーである。想像できないほどの時間をかけて宇宙的進化が行われるというブラヴァツキーの考えは、H・P・ラヴクラフトの奇怪な幻想小説オラフ・ステープルドンの壮大なSFにもつながっていったが、残念なことに、多くの人にとってはスピリチュアリズム的に正当化された人種差別の基盤となった。最も悪用された例は、ナチスの原型となるアーリア人至上主義者によるものだ。

 

・ニューヨークの後、ブラヴァツキーとオルコットはインドに移住し、アダイヤーに居を構えた。ふたりはそこから、心霊現象と東洋の教えを混ぜ合わせた魅力ある教義によってオカルト世界の征服を進めた。

 

・しかし、その少し後に災難が起きた。元従業員によってHPBがいかに超常現象を偽装していたか、特にマハトマとモリヤというふたりの師の出現とされた現象について暴露する記事が発表されたのだ。心霊現象研究協会による調査が続き、神智学の組織は揺らいだ。しかしこの二件は結局のところ活動範囲に大きな影響を及ぼすことなく、神智学はヨーロッパとアメリカで信奉者を集め続けた。

 

H・G・ウェルズ

H・G・ウェルズはオカルティストではなかった。科学の支持者としてウェルズは仲間のフェビアン協会会員だったバーナード・ショーを非難したことがある。ベルクソンの「エラン・ヴィタール」をショーが信じていたからだった。ウェルズはその概念を「まじない」と呼び、近代の人間が理性的な世界秩序を作るために廃棄せねばならない迷信の山の上へと放り投げた。しかしウェルズ自身も彼なりに超人についての考えを持っており、ニーチェの突然の進化的飛躍というヴィジョンを、科学を通じた進化というヴィクトリア朝の信念としばしば結びつけた。

 

・ウェルズをオカルティストとは呼べないが、ポー、ブルワ=リットン、ジュール・ヴェルヌに続いて近代的なSFを創造しようとしていた駆け出しのころ、彼はオカルト思想に取り囲まれた場で書いていた。彼が特に惹かれたのは「4次元」だ。『タイム・マシン』をはじめ、ウェルズはこの世界と並行した別の空間があるというアイデアをたびたび利用した

 

・『手術を受けて』では、語り手は手術中に投与された麻酔薬によって幽体離脱し、宇宙の圧倒的な空虚を抜ける旅をして、ついには創造主の変容するヴィジョンを目にする。『白壁の緑の扉』では、政治家が子供のころに魔法の扉を通り抜けて魔法の庭に行ったことを回想する。彼はその記憶に囚われ、生涯扉を探し続ける。

 

・『ダヴィドソンの眼の異様な体験』も4次元の話で、他のオカルト現象や超常現象も登場する。予知能力、バイロケーション、遠隔透視などだ。

不運なダヴィドソンは嵐に遭遇し、電磁石の極のあいだに囚われて圧倒的な衝撃を受ける。目覚めたとき、彼の意識ははるか彼方のポリネシアに移動しているのだが、身体はロンドンの研究室にある。

 

ウェルズ自身が4次元についてどう考えていたかという点も意見が分かれるところだ。彼は元飛行家で時間理論家となったJ・W・ダンの良い友人だった。ダンには予知夢についての経験をつづって一時話題になった『時間の実験』という著作がある。ウェルズの作品の多くに登場する飛行士はダンをモデルとしており、『世界はこうなる』では、語り手に150年後の未来に書かれた歴史教科書を読ませるにあたり、ダンの夢や予知についての考えが使われている。しかし、ウェルズはあるとき友人の理論についての意見を変えたらしく、推薦しているという印象を防ぐためダンの著作についての好意的な書評を撤回している。

 

ロード・ダンセイニ

・1905年、風変わりな薄い書籍がロンドンの書店に並んだ。それは作家自身が出資してエルキン・マシューズ社が出版した『ペガーナの神々』という本であり、画家シドニー・H・シームによる美麗な挿画がついた物語は、読者をそれまで全く知られていなかった神殿へと導いた。

 

・しかしそこにはまた別のもの、厭世的で、悲観的とさえいえるメランコリーの感覚もあった。これらは、もう既に存在しない神々についての物語だった。この官能的で壮麗な、珠玉の散文詩は、超人よりもさらに美と偉大さを兼ね備えていたにもかかわらず、同じようについには終焉を迎えた存在の消滅について語っていた。

 

なんらかの寓意があるとすれば、それはこの影の国では不死者さえも衰えなくてはいけないということだろう。人生、存在、宇宙そのものが単なる暇つぶしの遊び、退屈した無関心な神々の虚ろな心を埋めるために用意されたゲームであり、その神々もときたま駒をしまい、再び深い憂鬱で取り出す気になるまで放っておく。ショーペンハウエルワーグナーも同じことを以前述べている。それは世紀末の終わりの洗練されたデカダンスには似合いのテーマであり、それが美しい薄い書物となって現れたのである。

 著者は、神秘主義の夢想家でも、凍てつく屋根裏部屋で執筆にいそしむ麻薬中毒のオカルティストでもなかった1878年アイルランドのミーズ州にある一族の領地で生まれたエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット――ロード・ダンセイニという名のほうが知られている――は第18代ダンセイニ男爵、イギリス諸島で最も古い男爵号のひとつの誇り高い継承者だった。彼は選挙で保守党の候補にもなり、1400エーカーもの土地を所有し、狩猟愛好家、スポーツマンで、旅行家でありボーア戦争の退役軍人でもあった。イートン校とサンドハースト王立陸軍士官学校で教育を受け、様々な意味でヴィリエ・ド・リラダンが夢見ることしかできなかった類の貴族的な生活を送った。

 

・『ペガーナの神々』を刊行した後、ダンセイニは政治活動をやめ、専業作家になった。もともと何かしなくてはいけないという気持ちから政治に関わっていただけだったのだ。しかし、物語や詩、戯曲、長篇、随筆、自伝を1950年代まで発表していた――あるときはブロードウェイでダンセイニの戯曲が5本も同時上演されていたほどだ――にもかかわらず、ダンセイニにとって創作は常にアマチュア活動だったようだ。

 

・しかし、評論家E・F・ブレイラーが言ったように、どういう題材でもだいたい売れる物語にできる怪しい才能があった。あるときテムズ川の泥についての物語を作れると言い、実際に書いたぐらいだ。しかしこの「書き飛ばす」――彼はあまり推敲せずにさっと書いた――コツを持っていることは、ジャーナリストにはよいだろうが、本気の作家にとっては致命的だ。 

 

・もちろん、彼の作品に美点がないわけではない。『ペガーナの神々』、『時と神々』、『夢見る人の物語』などの作品には、七宝細工のような美しさがある。菓子やキャヴィアのように少量で満足できるもので、さらに食べたいと思うともっと肉のあるものが欲しくなるのだが、ダンセイニの莫大な数の作品のうち今も読まれ続けているのはそれらの初期の幻想小説であり、そこに流れる空気は真似しがたく、後世の幻想文学作家に与えた影響は言い尽くせない。ラヴクラフトトールキン、E・R・エディスンをはじめとする大人向け幻想小説の名作を生み出した作家たちは、ダンセイニがそもそもその分野を作らなければ、活躍する場がなかっただろう。

 

・ウェルズ同様、ダンセイニはオカルティストではなかった。短篇「ハシッシュの男」は、「アストラル・トラベル」のためにハシッシュ(ハシン)を摂取するという友人イェイツの行為をからかったものではないかと思える。ダンセイニの作品を評価する魔術師にはアレイスター・クロウリーがいる。

 

P・D・ウスペンスキー

・ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキーは、ほとんどの読者にとっては、もし知っているとしても単にゲオルギィ・グルジェフの最も忠実な弟子としてだろうが、ウスペンスキー自身も優れた思索家だった。グルジェフという破格の人物と出会ったことは彼の人生における最たる不運だったかもしれない

 

しかし、1947年、過度の飲酒がもたらした死の数ヶ月前、ウスペンスキーは「ワーク」の歴史では伝説となった一連の講義を行った。「ワーク」とはグルジェフの「調和的発展」の独特のシステムに与えられた名前である。アメリカに疎開してロンドン空襲を避けた後、戦後のロンドンに戻ったウスペンスキーは、それまで25年以上献身的に広めてきたシステムを否定して聴衆に衝撃を与えた。「自己想起」、「眠り」、沢山の異なった「私」、人間はみな「機械」であるなどといった「ワーク」に付随する考えのすべてを、年老い病んだウスペンスキーは否定したのである。彼は生涯を捧げた教えを放棄して、聴衆に自分で考えるように促した。

 

ウスペンスキーが根底から意見を覆すのは珍しいことではなかった。彼は秘教の著述家の中では間違いなく最も自己批判的で、悲痛なほど率直で、かつ読みやすい著者のひとりだった。

 

永遠に同じ過ちを犯し続ける無限の自分自身という陰鬱なヴィジョンと、正反対の非常に楽観的な超人というヴィジョン――さらにいえばその超人はバックの宇宙意識を多く与えられてもいる――とのあいだを、ニーチェと同じく、ウスペンスキーの思考は揺れ動いた。彼が多少なりとも実際に宇宙意識を体感したことがあったのは、注目すべきエッセイ「実験的神秘主義」から明らかだ。

 

ウスペンスキーグルジェフに会ったとき、この「ずるい人間」の陰気な教義――人間は自由を得る可能性を少ししか持っていない機械である――が、世界に対する彼自身のロマン主義らしい拒否と結びつき、ストア派的な諦念の姿勢へと後押ししたと考えられる。いずれにせよ、彼はグルジェフと共に活動した後、執筆をあまりしていない。在命中に刊行された最後の著作『新しい宇宙像』は、グルジェフに会う以前に書いたエッセイを集め、古くなった箇所などを改稿したものだ。同書の章の多くは「タ―シャム・オルガヌム」と似たテーマを扱っている――4次元、超人、永劫回帰、そして新しい物理学に関する独自の論。しかし、そのすべての根底には秘教思想が流れている。

 

・若いころのウスペンスキーは詩人肌で、ロマン主義的で傷つきやすい側面を持っていた。それは初期の著作、たとえば短篇集『悪魔との対話』から読み取れる、また、最初期の一作、ロシアで1911年に刊行された『タロットの象徴主義』からも明らかだ。時間、意識、秘密の叡智についての思考を融合したこれらの誌的な散文は、後に改稿されて『新しい宇宙像』の章のひとつになった。

 

1920年にンスタンティノープルに着いたウスペンスキーは、ロシアに二度と帰ることはなかった。外国で過ごした長い年月のあいだ、彼はボルシェビズムに対して苛烈で根強い憎悪を抱え続け、それが「罪の歴史」の中でも最も恥ずべき例であり、かろうじて残っている西欧文化さえも打ち捨てようとする非常に有害な野蛮さを有しているととらえていた。といっても、帝政を好んでいたわけでもない。1905年、彼の愛する妹は反体制派として逮捕されてモスクワのブティルスキー監獄に収監され、獄死した。モスクワの新聞社でジャーナリストとして働くウスペンスキーにオカルトの本を読ませ、ついには奇跡を求める長い旅に導いたのは、そういう陰鬱な現実だったのだ。

 

アレイスター・クロウリー

・20世紀で最も悪名高い魔術師は、1875年10月12日にウォリックシャーのレミントン・スパで、エドワード・アレクサンダー・クロウリーとして生まれた、彼は後に父と同じ名前を避けるため名前をアレイスターに変えた。波瀾に満ちた長い生涯における数多くの変身のひとつである。成人してから1947年に死を迎えるまで、クロウリーはたくさんの分身を持った。例えばペルデュラボー。「ボールスキンの領主」、チオ・カン王子、スヴァーレフ伯爵、アンク・アフ・ナ・コンス、そしてサイモン・イフもそうだ。「より高次な分身」を含めるなら、セックスや麻薬、魔術的儀式を通じて近づける別次元の超自然的存在、エイワスもいる。クロウリーが過去生だと主張した人物――例えばカリオストロ伯爵やエリファス・レヴィ――を加えるとさらに増える。

 

クロウリーの生涯は何度も本になっている。1960年代後期にリバイバルが起きて、ヘヴィメタルのファンに取り上げられるようになり、彼は生前の汚名をはるかに上回る死後の悪名を得た。セレマ教のキャッチフレーズだった「汝の意志するすることを行え」はいまやティーンエイジャー御用達となっている。

 

クロウリーは多種多様な経験をした。ヒマラヤに登り、中国を徒歩で横断し、数ヶ国語を学び、一財産を浪費し、複数のオカルト結社に所属した。驚くほどの量の麻薬を摂取し、男女両方といろんな場所とやり方で性的関係を持ち、チェスのチャンピオンとなり、第1次世界大戦中はドイツのプロパガンダを書き、設立した魔法の僧院をムッソリーニによって閉鎖されるという稀有な特別扱いを受けた。1920年代や30年代にはときどきタブロイド紙の紙面を飾り、「世界最悪の変人」というラベルを貼られた。

 

その後の生涯をクロウリーは魔術の評判を回復させることに捧げた。まず、カバラや儀式魔術を中心とする様々なオカルトの技を学び習得することによって、次に、彼自身の宗教を宣伝することによって、当初は「クロウリー教」――明らかにキリスト教への当てこすりだ――と呼ばれていた「セレマ」は、1904年にクロウリーがカイロで『法の書』の啓示によって得た教えである。1900年に黄金の夜明け団を離れたクロウリーは、しばらく魔術を避け、仏教や瞑想に注意を向けた。かなりの額の遺産を相続した彼は、他の関心事である旅行と登山に没頭した。

 

・1904年、前に触れたように、クロウリーは、ブラヴァツキーにとっての隠れた師のクロウリー版ともいえる「秘密の首領」に接触された。一番目の妻ローズ――後にアルコール依存症により死去した――を霊媒として、クロウリーは『法の書』という聖典を受け取ったのだ。4月8日、カイロのホテルの彼の部屋で、虚空から声が聞こえ、新しいアイオンの言葉を啓示した。クロウリーは猛烈な勢いで書きつけ、残りの生涯喧伝して回ることになる教理を手中にとらえた。

 

近代のオカルティスト

フェルナンド・ペソア

・比較的最近までポルトガル人の詩人フェルナンド・ペソアの作品はあまり知られていなかったが、この数年で彼は複数の評論家によって再評価されている。

 

ベンヤミンと同じく、ペソアの死後の名声は、作品ももちろんだが、彼自身がたどった生涯から生まれている。ベンヤミンの場合、その生涯はナチから逃げるユダヤ系知識人という神話を体現している

 

・いくつかの文芸誌に文章や詩が掲載されたものの、英語詩集を除けば、ペソアの存命中に出版された著作はもう一冊だけ、死の前年の1934年に世に出た『啓示』だ。ポルトガルアーサー王といえるセバスティアン1世王の帰還と、来る心霊の第五帝国におけるポルトガルの卓越を主張する長い秘教詩である。ペソアの独特な神秘愛国主義を示す同書は、全国コンクールで残念賞を受賞した。

 

・これから検討するペソアのオカルトへの関心がなかったとしても、彼がアルベルト・カエイロの登場について書いた文章には超常的なものを感じざるをえない。「忘我」、「出現」、「師」という言葉は全て、憑依、霊媒、マダム・ブラヴァツキーのスピリチュアルな導き手といったものを彷彿とさせる。ただ、ペソア自身は神智学に批判的で、あるとき自動筆記を行っていた際は「神智学の本を読むのはもうやめろ」とアドバイスされたという。

 

・自動書記に続き、ペソアは別のオカルト術も身に着けた。1916年6月、叔母のアニカに宛てた手紙で、霊媒になって、他の超常的能力も伸ばしたと書いている。そのうちのひとつはある種のテレパシーだった。

 

・「エーテル的ヴィジョン」が急に浮かぶことがあって、一部の人と特に自分の「磁気的オーラ」が、鏡に映ったり、暗いときに両手から輝きだしていたりするのを見ることができるんです。

 

ジェラール・ド・ネルヴァルと同じく、ペソアはオカルト史に関心を持っており、秘密結社や秘密組織に魅了されていた。そして当時のサラザール政権がフリーメイソン禁止の提案をしたときは反論している。

 

ペソアのオカルト的世界史において、フリーメイソンは古代グノーシス主義から始まった神秘主義的異端を現代で体現しているものだった生涯にわたってキリスト教を敵視したペソアは、「グノーシス主義的異端」が歴史の様々な局面で現れると考えていた。12世紀スぺインのカバラ主義者、マルタ騎士団テンプル騎士団、薔薇十字団、錬金術師たち、そして最近ではフリーメイソン。この秘教の大樹においてペソアが最も好んだ枝は、薔薇十字団だったようだ。

 

グノーシス主義と薔薇十字団のあいだに明確なつながりはないが――時期も数世紀離れており――ペソアデミウルゴスによって世界の堕落がもたらされたというグノーシス主義的思想と、17世紀のクリスチャン・ローゼンクロイツの信奉者たちを結びつけている。

 

ペソアが実のところ何を信じていたのか、というのは難しい問いだ。異名の誕生を語る手紙で、彼は自分のオカルト思想についても詳しく述べている。「私たちの世界よりも高次にある世界の存在を、それらの世界に住む者たちの存在を信じています」と彼は書いている。そして、「私たちは、心霊的な同調の段階によっては、高次の存在と交流することができる」と信じている、と。

 

 

 

『宇宙からの大予言』

 迫り来る今世紀最大の恐怖にそなえよ

松原照子   現代書林  1987年1/10

 

 

 

<予言者誕生の物語>

・私は、いつもいろいろなことを見ようとして暮らしているわけではありません。ただ人に質問されると、テレビのスイッチを入れたように、目の前に画像が映し出されます。テレビや映画のように映るのですから、私にとっては別段大変なことではありません。

 

・私自身、信じきれないところがありますが、私の不思議はまだまだ続きます。私が触ると病気が治るという人が増え、また不思議と良くなる方々が増え始めています。

 

・それに、眠る前にいろんな方が私を訪ねて来て、この世の不思議を教えて帰ります。そして、その人々が私に「今回のことは発表しなさい」と、ささやくのです。

 

 <ささやく人々の訪問>

 <ブルーグレーのおばあちゃん>

・「あなたはだれ?」

1982年春のことです。いつものように本を読み、眠ろうとした朝の4時ごろです。ベッドの横に、ロシア系の老婆が立っていました。「おばけ」とよく出会う私は、また「おばけ」かと気にもとめず、眠ろうとしたのですが、老婆はいつまでも私を凝視し続けています。ほほはたるみ老婆の顔ですが、グレーの中にブルーが光るその目は、若々しく燃え、けっして老いた人の目ではありません。

 

 <黒い法衣の僧侶>

・ブルーグレーのおばあちゃんと黒い法衣の僧侶は、たびたび現れますが、いつも決まって5時の鐘音の前に姿を消します。私の5時消灯の習慣も、この二人の時間割に準じてのものなのです。

 

・いつもはやさしいブルーグレーのおばあちゃんが、怒り顔です。後ろの方々の中に、私は、初めて見る口ひげと顎ひげのある50歳ぐらいのやせた西洋人を見出し、その方に救いを求めました。

 

 <出会い、不思議な世界>

・私は、ブルーグレーのおばあちゃんが率いる皆様に見せられたこと、聞かされたことを『恐怖の大予言』と称する小冊子にまとめ、自費出版しました。1985年10月のことです。

 

・私の会う“おばけ“の方々は、我々と同じように足もあり、ごく普通に歩きます。その姿は、50年ぐらい前までのファッションで江戸時代や戦国時代のいでたちではありません。

 

・夜、帰宅途中に"おばけ"に会うと、私は、つい、「こんばんは」と、話しかけてしまいます。

  すると、その方々は、私と一緒に歩き出し、我が家へ一緒に入ろうとするのですが、「南無阿弥陀仏」と合掌すると、私のことを気にしていないという素振りで帰っていきます。

 

 <ささやく人々の正体>

その方の話によると、ブルーグレーのおばあちゃんは、ブラヴァツキー夫人といって近世に神智学を復興した初代会長、ひげの西洋人はクート・フーミ大師だそうです。彼らは、数千年も古くから密かに伝えられてきた神智学に関係のある人たちでした。

 

・そして、“地球コントロールセンター”とは、彼らのいるシャンバラであって、ここに地球のそれこそすべてを支配している超人(アデプト)の方々がおられ、ブッダもキリストも、そこから来られたのだというのです。正体を知ったあとも、私は、あの方々に会い続けています。

 

 

 

『薔薇十字団』

クリストファー・マッキントッシュ 筑摩書房 2003/3

 

 

 

文学に登場する薔薇十字団のアデプトたち

・薔薇十字伝説の幻想にはさまざまな可能性が開かれているために、それは作家たちに豊かな素材を提供することになった。小説や詩で薔薇十字伝説を扱うことは、民衆が薔薇十字友愛団をどのように見ているかを示すとともに、彼らの見方そのものを形成することになる。同時にそれは、薔薇十字団の活動を持続させておこうとするさまざまな試みを補うものとなった。活動的な薔薇十字団の最近の様相に入る前に、文学においてアデプトと薔薇十字伝説の他の局面がどのように扱われてきたかを見ておこう。

 薔薇十字団のアデプトは華やかな印象を与え、ある時は悪人またある時は善人というように、幅広い役割をもって登場する。薔薇十字団のアデプトは最初『ガバリス伯爵』という不思議な作品に現れる。

 

ゲーテは、黄金薔薇十字団との対立においてヴァイスハウプトに共感をもっていたが、薔薇十字思想それ自体を非難することはなく、その主題に興味を持ち続けた。1786年6月28日に、彼は親しい友人であったフォン・シュタイン夫人宛の手紙で次のように書いている。「私は『クリスティアンローゼンクロイツの【化学の】結婚』を通読しました。書き改めさえすれば、折をみてお話しするよい妖精物語があります。それは古い革袋に入れたままで正しく評価できないものです」

「書き改め」られたのは、9年後のことであり、ゲーテは『ドイツの移民たちの会話』という物語集の一部として自分の妖精物語を出版した。『「緑の蛇と美しい百合」』。それはきわめて空想的な物語であり、象徴的な人物も多く登場する。その中には、川辺に住む渡し守、黄金を食べる蛇、二つの鬼火、アデプト的な人物として中心的な役割を果たすランプを持つ男がいる。物語において際立った4つの王の像が立っている。

 その主題と内容は『化学の結婚』とはほとんど関係ないが、2つの作品は明らかに同じジャンルに属している。錬金術や男性と女性の結合というような主題だけではなく、ある特殊な雰囲気を共有しているのである。ともに来るべき人類の変容に関する楽観的な展望を持っている。ゲーテの場合には、この変容は、神殿が大地から出現する場面や壮麗な橋が突然川にかかる場面によって象徴される。

 

薔薇十字団のアデプトが邪悪な人間とされるもう一つの物語は、1852年に出版されたエドゥアルト・ブライアーの『ヴィーンの薔薇十字団員』

である。それは、ヴィーンにある薔薇十字団の支部の会員がいかに破壊的な活動に携わっているかを描いている。その一人であるゲオルク・フィリップ・ヴーヒェラーは、ヴィーンには淫売窟が必要であるというような主題について、彼の甥が書いた小冊子を印刷する。彼らは黒い眼帯をした人物の訪問を受けるが、その男はカリオストロと判明する。彼は、「いかにヴィーンが大きくても、私に分からないような秘密はありません。私は、知りたいと思うことのすべてを経験する、この地上では数少ない特権を持つ人間なのです」と告げる。ベルリンからはリーベンシュタイン男爵という老人が訪れる。彼は錬金術の器具を一杯詰めた箱を持ってヴィーンに着くが、後に薔薇十字団の支部のマスターであることが分かる。

 

・「薔薇十字団です!」と老紳士は繰り返し、今度はじっくりと書いた様子で私を見た。「薔薇十字団の神秘については薔薇十字団員以外に誰も語ることはできませんぞ!そしてじゃ、あらゆる秘密結社の中でも最も油断のないあの宗派の誰かが、世人から彼らの智恵の神イシスを隠すヴェールを自分で引き挙げるとでもお思いか」。

 しかし、彼らはしばらく会話を続けた後、老人は、もう一度会う機会があれば、「その知識に関する適切な資料にあなたの研究をお導きできるかも知れない」と言う。それから、4日後、外出中に青年はハイゲイト・ヒルの麓であの不思議な人物と出会う。彼は黒い仔馬に乗り、黒い犬を連れていた。青年は近くの老人の家に招かれる。それからというもの、彼は老人をしばしば訪問し、その偉大な学識に感化される。老人は自分が一冊の本を書きあげていると告げ、青年は暗号で書かれた原稿とともに暗号の鍵を受け取る。翻訳は困難をきわめ、数年の歳月を要した。その結果完成したのが『ザノーニ』の本文というわけである。

 物語において、ザノーニとその霊的な師匠メイナーは古代の薔薇十字団の最期の生き残りであり、ともに生命の錬金霊液を利用して生き続けてきた。ザノーニは恋に落ちて自分の不死性を失うが、最後には愛する人のために英雄的に自らを犠牲にする。

 

・ブルワー・リットンは明らかに薔薇十字団の文献に通じていた。彼は、『ザノーニ』で引用しているように、『ガバリス伯爵』を読んでいたし、後には、1870年にその初版が出た『薔薇十字団 その儀礼と神秘』の著者であるハーグレイヴ・ジェニングズと書簡で交流している。

 

・この手紙からリットンが、薔薇十字団は別の名称のもとではあるがその時もなお存在していたと肯定していることが理解され、興味をそそる。彼は薔薇十字団に関して沈黙を守る「幾つかの理由」があると述べているが、最初のパラグラフの調子は彼が個人的にそれに関与していたことを示唆している。おそらく、『ザノーニ』の序における説明の背景には、彼を参入させたかあるいはある知識を明らかにして、彼に沈黙を約束させた秘密の薔薇十字グループの一員との出会いが実際にあったのであろう

 

・スーリャは、自分がいかなる秘密結社あるいは友愛団にも属していないことを強調する。彼は真理を探究するすべての人々に、秘密結社特に「知られざる導師」を持つものを避けるよう忠告している。彼は真の薔薇十字団がいまなお存在していると信じている。「しかし、どこで彼らを見つけることができるであろうか」と彼は問いかける。「もちろん名前だけの薔薇十字結社においてでないことだけは確かである。それは会員から毎年高い寄付を要求しておきながら、その代わりに新参入者に用意する知識といえば、どこの本屋でも安く手に入るものにすぎないのである」。従って、失望を味わいたくなければ、そうした結社を避けなくてはならない

 

・スーリャの小説に登場するニコルソン博士は、良き薔薇十字団のアデプトの類型に従っている。悪しきアデプトの類型は、1930年に初版が出たテンプル・サーストンの物語集『薔薇十字団』に含まれる同名の物語「薔薇十字団」にふたたび現れる。物語は、サン・ジェルマン伯爵の有名な挿話に基づく事件で始まる。あるパーティで伯爵夫人に、50年前ヴィーンで夫人が知っていた男性の息子ではないかと尋ねられ、サン・ジェルマンは自分がまさにその男性であると答える。テンプル・サーストンの物語では、ヘイマーケットの時計屋の外で老人と青年が出会うところを語り手が目撃する。若い方の男性、あるいは単に若く見えるだけかもしれない男性は、長く黒い肩マントと、スペインあるいはメキシコ風の帽子をつけている。老人が次のように尋ねる。

「私の勘違いとしたらお許しいただきたいのですが、あなたはゴランツさんですか」

その男は振り向かなかった。このように突然話しかけられても、店の窓のところで自分の夢想から醒めることはなかった。それが彼の名前であったとしても、往来であまりにもなにげなく呼ばれたものだから、別に驚きもしなかったのである。

「私はゴランツですが」と彼は答えた。

「私は、オクスフォード大学であなたの父上と一緒だったんですよ。ともにコーパス・クオリティ学寮でね」若い男は微笑んだ……。

「それでは、あなたはクロウシェイ=マーティン」と彼は、この不意の出会いにもまったく混乱した様子も見せず、言った。

「いかにも。でも、どうしてお分かりですか」

君のことは覚えているよ。私の父ではなかったんだ。コーパス・クオリティ学寮で君と一緒だったのはこの私なのだ

 

<現代の薔薇十字運動>

ハインデルは1907年にヨーロッパにいた頃、驚くべき人物の指導を受けたと主張しているが、彼によると、この人物は後に秘密の薔薇十字団の上級会員と判明する数回の訪問のあいだにハインデルに試問を行い、このアデプトは彼をドイツとボヘミアの国境に近いところにある薔薇十字団の神殿に導く。ここに彼は一箇月滞在し、長老会員から個人教育を受ける。その内容をまとめたものが、1909年に薔薇十字教団によってその初版が出たハインデルの『薔薇十字団の宇宙論』である。ハインデルは占星術師でもあり、その著作は彼の占星術への強い関心を反映している。

 

・ハインデルの「薔薇十字教団」の本部は、ロサンジェルスとサンディエゴの中間に位置するオーシャンサイドにある。そこには迎賓館や、周囲の風景を一望できる立派な12面の白い神殿がある。黄道12宮に対応して12面の構成となっているが、それは「薔薇十字教団」が占星術に力点を置いていることを示している。出版部門も設置されており、マックス・ハインデルの占星術や薔薇十字思想に関する多くの本を刊行している。「古代神秘=薔薇十字教団」とは違って、このグループには宗教的な色彩が強い。

 

・薔薇十字団という名称を実際に使用したり、薔薇十字団の直系であると主張するさまざまな組織のほかに、漠然とその神話体系に影響を受けたという人々がいる。

 そうした人物の中にルドルフ・シュタイナー【1861―—1925年】がいる。人智学の創始者である彼は、人智学が薔薇十字団という土壌から生まれたものと理解していた。シュタイナーの著作と講義には薔薇十字団とクリスティアンローゼンクロイツへの言及が随所に見られる。彼は、クリスティアンローゼンクロイツがサン・ジェルマン伯爵として現れ、マリ・アントワネットの侍女に差し迫る革命について警告したと信じていた。

 

 


『奇人怪人物語』 

 (黒沼健) (河出書房社)1987/12/1




<年をとらぬ男>
サンジェルマン伯爵は、イギリスで有名な作家のバルワー・リットンと親友になり、彼に薔薇十字団の主義の真髄を教え、彼と合作で、有名な小説「ザノニ」を書いた。この小説の主人公は、いうまでもなく薔薇十字団のサンジェルマン伯爵であった。彼は木草学者で、不老不死の秘術を心得ていると描かれていた。

サンジェルマン伯爵は、定期的にヒマラヤへ身を隠す?
サンジェルマン伯爵が、新しい逃避の場所を考える前に彼の来訪を待っている一団の人々が既にいる。それはインドの地下にある地下王国アガルタである。
 私が、この一文を書いている間にも謎の人、サンジェルマン伯爵は、すでに地下王国の賓客に迎えられているかもしれないのである。
 サンジェルマン伯爵は、宇宙を自由に動けるサタンの使者の代表かもしれない?



『ピカトリックスの秘密』 

(ピーター・コロージモ) (角川春樹事務所)1997/6/1




・彼の頭の中に謎の人物サンジェルマンの姿が現れた。その人物は、彼に「グノーシス教会」の創始者であるJ・S・ダニエルという奇妙な人物の言葉を思い出させたのである。
 「伯爵が、サタンの使者の代表の一人に違いないことを証明する証拠がいくつかある。彼は神出鬼没な人であった。姿を消すことができたし、いろいろな場所に一度に出現することもあった。八方に手を尽くしても、彼の歳も出生地も死に場所も明らかにならなった」



「ザノーニ」(1)

 ゴシック叢書 (E・ブルワ=リットン)  (国書刊行会)1985

 

 


・ ザノーニは、一日も歳をとっていないように見えるということです。


・ ザノーニが、一人だけの時間をすごすための部屋に入ろうとすると、祖国の衣服をまとった二人のインド人が、入口で、東洋風の深い礼をして、彼を迎えた。噂によれば、ザノーニが、長らく暮らした遠い国からついてきたのだという!

 

 

 

『想起する帝国』

ナチス・ドイツ「記憶」の文化史

溝井裕一、細川裕史、齋藤公輔 勉誠出版   2016/12/31

 

 

 

ナチスは、ふたたび「帰ってくる」。第2次世界大戦後も、ヒトラー一党は映画や大衆文学などで執拗に「想起」され、残酷で滑稽ながらも魅力的な存在として活躍しつづけている。

 

<人間・ヒトラーの登場—―『ヒトラー ―—最後の12日間』>

<「最後の12日間」の衝撃>

・ドイツ映画の中で、近年もっとも注目を浴びた映画のひとつに『ヒトラー最期の12日間』(2004)がある。戦後ドイツでは数多くヒトラー映画が作られてきたが、この映画はそれらとは一線を画すというだけでなく、戦後ドイツのありかたそのものにも関わるとして、映画界を超えて大論争を起こした問題作である。というのも、『最期の12日間』に描かれたヒトラーユダヤ人絶滅を主導した極悪非道な独裁者という従来のヒトラーイメージではなく、ひとりの人間として描かれたからである。たとえば、子供や女性秘書に優しく接するヒトラーや信頼する部下に裏切られ涙を流すヒトラー、ベルリン陥落を目前に精神崩壊を起こしかけているようなヒトラー、多くの部下や秘書たちの眼前で妻に口づけするヒトラーなど、もはやそこに悪魔的な姿を見つけることはできない。「脱悪魔化」したヒトラー像がドイツから誕生したことに世界が驚き、そしてそれ以上に、ドイツ国内でも人間・ヒトラーに強い衝撃が走ったのである。

 たしかに、戦後ドイツにおける戦争責任へのとり組みは一貫して評価されてきた。たとえば、ウィリー・ブラント首相(当時)が、ユダヤ人ゲットー石碑の前で跪いて謝罪の意を表し、リヒャルト・ヴァイツゼッカー大統領(当時)が演説『過ぎ去ろうとしない過去』のなかで、過去を直視しつづける必要があることを訴えたことなど、戦後ドイツ史の重要な1コマは、ナチスの罪への謝罪であったといっても過言でない。

 

<「最期の12日間」の受容と論争>

・『最期の12日間』は、ドイツ人歴史家ヨアヒム・フェストの同名の著書『ヒトラー —―最期の12日間』と、元ヒトラー秘書トラウデル・ユングの自伝『私はヒトラーの秘書だった』を原作とするものである。

 

・本映画は、2004年9月16日にドイツで封切られる前からドイツ全土で話題になり、公開から3日後には、およそ45万人の観客が押し寄せ、約3か月後の2004年12月31日までには、およそ450万人がヒトラーの最期の「目撃者」になった。ドイツの人口が約8000万人であることを考えると、たった3か月のあいだに、のべ数ながらじつに20人に1人以上のドイツ人が、映画館に足を運んだことになる

 

月面に蟠踞するドイツ第四帝国のリアリティ  —―反ナチス映画としての『アイアン・スカイ

フィンランドのインディーズSF映画

<『アイアン・スカイ』とは>

・2006年から連載が開始された、大和田秀樹による麻雀マンガ『ムダヅモ無き改革』(竹書房、2006~)は、日本の首相小泉ジョンイチローが世界各国の要人と麻雀で戦うことで国際外交をおこない。北朝鮮の「金将軍」とも干戈をまじえて世界を救うという、荒唐無稽な国際政治パロディの人気麻雀マンガであるが、「勃発!“神々の黄昏”大戦」シリーズ(単行本2~6巻、2009~11)では、地球の首脳たちが月面で第四帝国を築いていたアドルフ・ヒトラーおよびその配下と麻雀で激闘を演じる物語となっている。

 おそらく、このシリーズの物語の枠組みに借用されているのが、2012年に日本でも公開されたティモ・ヴオレンソラ監督の『アイアン・スカイ』というフィンランドのインディーズSF映画であるのはまちがいないだろう。

 

・ときに2018年、黒人モデルが操縦するアメリカの有人探査船が46年ぶりに月面着陸に成功する。これはアメリカの女性大統領による再選のための一大選挙キャンペーンであったが、宇宙飛行士が月の裏側で発見したのは、ハーケンクロイツの形状を模したナチス・ドイツの巨大秘密基地であった。大戦末期に宇宙船を秘密裡に開発していたナチスは月面へ逃れ、第四帝国を建設し、地球侵略の軍備を整えていたのだ。今度こそ世界を手中におさめるために、ナチス宇宙艦隊が侵攻を開始し、地球に飛来する。

 

<パロディとアイロニーのあいだ>

・『アイアン・スカイ』が上映された2012年に、ドイツでベストセラーとなったティムール・ヴェルメシュの『帰ってきたヒトラー』は、2011年に突如、ベルリンに出現したヒトラーが従来のナチズムを主張しつづけるうちにコメディアンとなって、現代ドイツ社会の批判者として支持されていくというブラックユーモア満載の長編小説であるが。ヒトラーナチスをダークな笑いの素材にする点で『アイアン・スカイ』と軌を一にしている。

 

・反ファシズム映画の古典であるチャップリンの『独裁者』のシーンをさらなるカリカチュアに転用し、物語の重要な展開の契機とする一方で、人間ヒトラーを描くことで賛否を呼んだ『最後の12日間』のMADをパロディとして挿入する『アイアン・スカイ』は反ナチズム映画としての側面を維持しながら、最先端のメディアで拡散されたナチスサブカルチャーというべき要素も包括した結果、SFコメディとしてのみならず、00年代に誕生したナチス映画としての新味を獲得することに成功している。

 すなわち、ナチスヒトラーをめぐるサブカルチャー全般を硬軟かまわず貪欲に併呑する『アイアン・スカイ』は、ネットワークやMAD動画という21世紀のメディアによって創造されたサブカルチャーコンテンツをも受容して、ひとつのエンターテイメントとして成立させている映画なのである。

  

ナチスという話題性>

・また、この映画の話題性のひとつはインターネットによって製作資金を募集したことにある。製作者スタッフたちは2008年に公式サイトを設立し、ティーザー映像を公開することで世界中の映画ファンに寄付を呼びかけた。おそらくこのサイトで公開されたプロットが冒頭で紹介した麻雀マンガのソースになったと思われるのだが、総製作費750万ユーロ(約10億5000万円)のうち、100万ユーロ(約1億4000万円)を個人の出資によって集めることで、4年がかりで完成を見たのだった。

 

<ザ・ダークサイド・オブ・ザ・ムーン>

<SFとオカルト>

・月面にナチスの残党がUFOや宇宙船を建造しているという物語設定があまりにセンセーショナルに映る『アイアン・スカイ』であるが、このストーリーの枠組みはじつは完全なオリジナルだとはいえない。たとえば、『夏への扉』や『宇宙の戦士』で知られるアメリカSF小説界の巨匠ロバート・A・ハインラインの『宇宙船ガリレオ号』(創元SF文庫、1992)は戦後まもない1947年に出版された最初の長編だが、高校の物理クラブに所属する3人の高校生が原子物理学者とロケットを建造して月へ向かうというジュブナイルである。この物語後半では、到着した月面で秘密基地を建設していたナチスの残党と高校生たちが戦うという驚愕の物語が展開する。第2次世界大戦から2年後にすでにこのような物語がアメリカSFの大家によって書かれていたのである。月面のナチスというテーマでは、『アイアン・スカイ』を先取りしている

 そしてUFOとナチスの関連とともに、そのカルト性に興味をいだく人びとにとっては、『アイアン・スカイ』の世界設定に取りこまれた「都市伝説」やオカルティックな部分も見逃せないはずである。

 

・というのも、オカルトに強い関心をもつヒトラーナチスが古代理想郷シャンバラ、聖杯、イエスの血を吸ったロンギヌスの槍などを探求していたという「伝説」や、ドイツ軍が大戦中にジェット戦闘機を実用化していた事実があるからである。現在でもコンビニエンスストアの本棚には、その種のことがらをまことしやかに書き立てた本がワンコインで購入可能なシリーズとして並んでいる。武田知弘の『ナチスの発明—―特別編集版』(彩図社、2008)には、マルティン・ボルマン生存説、ナチスのUFO開発説、ナチス残党の国「エスタンシア」などについて紹介されている。

 

ナチスをめぐるスキャンダル>

・とりわけ本章にとって、ナチス関連の事件で興味深いのは、カナダ在住のドイツ人エルンスト・ズンデルがインターネットによってホロコースト否定説を展開した事件である。1995年に開設された『ズンデルサイト』(運営はカリフォルニア在住のイングリッド・リムランドによる)に対して、ドイツ・テレコムは子会社を用いることでこのサイトへのアクセスを禁止したところ、言論の自由を主張し規制に反対する人びとがそのミラーサイトを作成して抵抗するという騒動が発生した。その後、ドイツ政府の要請によって、EUはネオナチ・サイトの検閲強化を通達した。90年代のインターネットの普及とこれによる表現規制の新たな問題の生起を象徴する事件でもあったといえよう。

 ネオナチ指定を受けたエルンスト・ズンデルであるが、それ以前からすでに思想的行動をおこなっていた。1939年ドイツ生まれの彼は1951年にカナダに移住、1977年にネオナチ思想普及のための自費出版社を設立した。ヒトラー礼賛やホロコースト否定説をパンフレットの配布によって1984年にカナダ当局に逮捕されたズンデルは、さらに多くの事件によって2005年にドイツへ強制送還されたあと、有罪判決を受けて収監されたが、2014年に出所している。

 

・このズンデルには、もうひとつの顔があった。UFOはナチスが開発したという説をウェブ上に立ちあげていた人物としてかつて知られていたのである。第2次大戦末期にドイツ軍はUFO開発に成功し、ヒトラーはこれに搭乗して、南極に逃れた(!)と、ズンデルは主張している。ズンデルはナチスによるUFO開発説を巷間に拡散させるのに大きく寄与していたが、それはUFOやヒトラー生存説というセンセーショナルな話題でネオナチ思想を普及させるための寄せ餌でしかなかったようだ。

 

・ちなみに、このエルンスト・ズンデルの影響が1980年には日本へ波及していたことにも触れておきたい。集英社の『週刊プレイボーイ』1980年8月19日号から11月4日号までの12週にわたる連載終了後まもなく単行本化されたのが、落合信彦の『20世紀最後の真実』(1980)である。南米にある「エスタンシア」というナチス残党が住む町、ナチス残党の逃亡を援助する組織オデッサの暗躍、アウシュヴィッツ虐殺の虚構性、ヒトラーの影武者、ナチスのUFO開発、UFOによるヒトラーの南米逃亡説、ナチス残党の潜伏など、ズンデルがこの書物で語るナチス伝説の数々はすさまじい。

 

・本書の冒頭、南米の奥深く位置する「エスタンシア」というナチス残党が住む町を捜索するさいに、生粋のナチス党員の生き残りに同行を頼もうとすると、彼の組織の責任者に了解が必要とされて、落合はその責任者「ウィルヘルム・フリードリッヒ」に会うのだが、その影武者として登場したのが「エルンスト・ジーグラー」、すなわちエルンスト・ズンデルなのである。これだけでも、この著作がいかなる内容なのかが看取されるだろう。

一方で、「ノンフィクション」とはひとことも明言してはいない。また、彼は前述の1983年に逮捕されたクラウス・バルビーの評伝の翻訳も出版している。

 

・ズンデルによって踊らされたマスコミ関係者としては、ほかに日本テレビのディレクター矢追純一がいる。『ナチスがUFOを造っていた』(KAWADE夢文庫、1994)という著作や、日本テレビ系で《矢追純一UFOスぺシャル》などのUFO番組を手がけている。落合信彦とおなじく、ソースはやはりエルンスト・ズンデルである。

 いずれにせよ、前世紀の80年代からヨーロッパを騒がせつづけたエルンスト・ズンデルによる「ナチスがUFOを開発、実用化した」という説を、『アイアン・スカイ』は物語設定の要素として流用している。本章冒頭で言及した音楽担当のライバッハも含めて、いかがわしい都市伝説、ナチス報道のセンセーショナリズム、これによる誤情報の拡散などのナチカルチャーともいうべき広範さをもった現象そのものを物語の核として胚胎していることがこのSF映画の特質なのである。

 

 

 

アメリカ大陸のナチ文学』

ロベルト・ボラーニョ  白水社  2015/6/4

 

 

 

<エデルミラ・トンプソン・デ・メンディルセ  1894年ブエノスアイレス生まれー1993年ブエノスアイレス没>

・15歳のときに処女詩集『パパへ』を出版、これによりブエノスアイレスの上流社会の並み居る女流詩人のなかでささやかな地位を得た。以後、20世紀初頭のラプラタ河両岸において抒情詩と趣味の良さで他の追従を許さなかったヒメナ・サンディエゴとスサナ・レスカノ=ラフィヌールがそれぞれ率いるサロンの常連となった。最初の詩集は、当然予想されるように、親への思い、宗教的省察、庭について詠ったものである。修道女になろうという考えを抱く。乗馬を習う。

 

・1917年、20歳年上の農場主で実業家のセバスティアン・メンディルセと知り合う。数か月後に結婚したときは誰もが驚いた。当時の証言によれば、メンディルセは文学一般、ことに詩を蔑み、(ときおりオペラに行くことはあったものの)芸術的感性に欠け、会話の内容と言えば自分の雇う農夫や労働者並みだった。長身で精力的だったが、美男というには程遠かった。唯一の取り柄として知られていたのは、無尽蔵の資産である。エデルミラ・トンプソンの友人たちは打算的な結婚だと口々に言ったが、実際は恋愛結婚だった。

 

1921年、最初の散文作品『わが生涯のすべて』を出版する。これは起伏がないというのでなければ牧歌的な自伝で、ゴシップは語られず、風景描写や詩的省察に富んではいるが、作者の期待に反し、特に反響を呼ぶでもなく、ブエノスアイレスの書店のウィンドウから姿を消した。落胆したエデルミラは二人の幼い子供と二人の女中とともに、20以上のスーツケースを携え、ヨーロッパに旅立つ。

 

・1926年は多くの取り巻きを従え、イタリアを旅行して過ごす。1927年、メンディルセが合流。1928年、ベルリンで長女ルス・メンディルセが生まれる。体重4千5百グラムの健康な子供だった。ドイツの哲学者ハウスホーファーが代父となり、洗礼式にはアルゼンチンおよびドイツの名だたる知識人が参列した。パーティーは3日3晩続き、ラーテノーに近い小さな森で終わったが、その折、メンディルセ夫妻はハウスホーファーのために作曲家でティンパニの名手ティト・バスケスが自作の曲を独奏するコンサートを催し、当時大評判となった。

 

・1929年、世界大恐慌によってセバスティアン・メンディルセはアルゼンチンへの帰国を余儀なくされる一方、エデルミラと子供たちはアドルフ・ヒトラーに紹介され、ヒトラーは幼いルスを抱き上げて、「確かに素晴らしい子である」と述べる。全員で写真に納まる。未来の第三帝国総統はアルゼンチンの女流詩人に強い印象を残す。別れ際、エデルミラが自分の詩集を何冊かと『マルティンフィエロ』の豪華本を贈ると、ヒトラーは熱烈な謝辞を述べ、その場で詩の一節をドイツ語に翻訳するよう求めたが、エデルミラとカロッツォーネはなんとかその場を切り抜ける。ヒトラーは満足した様子を見せる。きっぱりとした、未来志向の詩だ。エデルミラは喜び、上の二人の子供に最もふさわしい学校はどこかと助言を求める。ヒトラーはスイスの寄宿学校を勧めるが、最良の学校は人生であると付け加える。会見の終わりには、エデルミラもカロッツォーネも心底ヒトラー崇拝者になっている。

 

・1940年、セバスティアン・メンディルセが亡くなる。エデルミラはヨーロッパ行きを望むが、戦争によって阻まれる。

 

・1945年~46年にかけては、彼女の敵対者たちによれば、誰もいない海岸や人目につかない入江を頻繁に訪れ、デーニッツ提督の艦隊の残存した潜水艦に乗って到着する密航者をアルゼンチンにようこそと歓迎したという。また、雑誌「アルゼンチン第四帝国」、その後は同名の出版社にエデルミラが出資していたとも言われている。

 

 

<雑誌『ムー』(14 9月号)によると>

 

・「アルゼンチンは戦中・戦後の軍事独裁政権がいずれも親ナチス派だったため、第2次世界大戦にナチスの残党を大量に受け入れて匿った国だ。一説にはアルゼンチンだけで5000人、南米全体では9000人のナチス残党の戦争犯罪者が亡命した」とされている。じつはヒトラーもそのひとりだったという新味はあまりなさそうな新説が、今年1月、証拠写真数枚とともに発表されたばかりだ。

 発表者はブラジルの女流ノンフィクション作家シモーニ・ゲレイロ・ディアスで、当人もユダヤ系ブラジル人という。

 ほかのヒトラー生存説と同様、自殺したのはやはり替え玉で、ヒトラー本人は南米を転々として最後はブラジル奥地のマットグロッソに落ち着き、アドルフ・ライプツィッヒと名乗って肌の黒い愛人と暮らしていたが、1984年に95歳でひっそりと世を去った。

 シモーニはこの調査結果を『ブラジルのヒトラー:その生と死』と題する本にまとめて発表し、「墓を掘り返して、ぜひDNA鑑定にかけてほしい」と自信満々に主張している」

 

 

 

NASAアポロ疑惑の超真相』

 人類史上最大の詐欺に挑む

山口敏太郎アトランティア編集部  徳間書店 2009/9/9

 

 

 

 グレイの発進母星は「レチクル座ゼータ2」

・筆者が最近知った事実によると次のようになる。

私たち銀河系には無数の超文明が存在するが、大別すると哺乳類系と爬虫類系文明とに分けられ、地球に飛来するUFO(ET)の多くは爬虫類系である。

 

・哺乳類系生命と爬虫類系生命は文明的に交流できず、常に対峙した状況にある。

 

爬虫類系生命の感覚器は哺乳類型(人間)とは根本から異質(たとえば聴覚が存在しない)で、善悪の基準さえ逆転しているようだ

 

・爬虫類系より哺乳類系(人類)のほうが生物学的に優れており、彼ら(爬虫類系ET)は劣等感を抱いている。

 

・私たちの銀河系には1000億の恒星(太陽)が存在するが、ある学者の試算では最小限に見積もっても100万の知的文明が存在するという。こうした渦状銀河が宇宙に1500億(ハッブル宇宙望遠鏡で観測される範囲)も存在するというから、宇宙の広大さは想像を絶している。

 

問題は、異星人グレイはバイオロボットで、背後の真の生命体は爬虫類系だということだ。

 

 <トールホワイトと呼ばれる異星人>

・編集;今の話をまとめるとアメリカは戦前からグレイと接触をし、今またトールホワイトの力を借りて敵対するグレイ対策に利用して宇宙計画を進めている。つまり宇宙人は完全に実在するものということですね。

 

 竹本;実はアメリカの研究グループにはトールホワイト(Tall White)と呼ばれる者たちがいるんです。文字通り背の高い白人ですが、実はこれが宇宙人なんです。この連中はアメリカ軍部とつきあっています。米軍の大将クラスの者だけですが、自分たちの月面基地まで連れて行くんです。明け方5時、6時ごろに、さあ集まってくださいとみんなを呼んで彼らの宇宙船で月へ行くんです。ひゅーっとね。そして午前中にはもう帰ってくる。そういうことをしているんです。

 

トールホワイトは基本的に地球人を馬鹿にしているんです。なので、月に連れて行ったりと協力はするけれど態度はとても冷たいそうです。それでもアメリカは彼らをうまく活用して月面基地を造りたい。グレイに邪魔されるわけですから。かって火星探査のロケットが全部事故に遭ったでしょう。月に基地を持っているし、仲が悪いんです。そこで、基本的に嫌なやつでもトールホワイトにバックアップしてもらえばいい、それで月面基地ができるのなら、というのが今度の計画なんです。

ところで、月に来て地球人と接触している宇宙人は57種類あるんです。人類と接触している宇宙人は57種類いて、アメリカ政府も認知していると暴露しています。57種類というのは、地球人みたいに同じ星でも人種が違う場合もあるし、同じ種類で違う星にいる場合も含めてのようです。いずれにしろ、相当な数の宇宙人がすでに来て、月にいるというわけです。

 

・グレイとかリトルグレイとか呼んでいる宇宙人は地球を監視したり調査したりしている。そのための基地として一番簡単なのは月なんです。

 

 

 

 

(2015/1/3)

 

パラドックスの科学論』 

 科学的推論と発見はいかになされるか
井山弘幸  新曜社   2013/3/15




<ミクロメガスのパラドックス――サイズの問題>
・「ミクロメガスのパラドックス」とは聞き慣れない名だと思われるだろう。これまでに編まれたパラドックス集成に一度として収録されたことがないので、少々気が引けるのだが、科学の歴史に手を変え品を変え、たびたび顔をだす難問である。ミクロメガスは18世紀のヴォルテールが書いた哲学的小説の主人公の名前である。第一にこのギリシア風の名前からして矛盾を含んでいる。「小さくて大きい奴(ミクロメガス)」という面倒な名前だ。

・長寿という点ではミクロメガスと共通するが、それでも桁外れに違っている。ミクロメガスはそもそも人間ではなく、シリウス系の惑星人である。身長は約40キロメートルで約1千万年近くも生きるという。M78星雲からやってきたウルトラマンの数百倍の大きさで、しかも想像を絶するほど長生きである。この点からすればマクロ(メガス)ではあっても、ミクロではない。何故にヴォルテールは「ミクロ」メガスとしたのか?ミクロメガスは罪を犯し、やむなく宇宙を遍歴することになる。旅の途次、身の丈2000メートル程度の「矮人」である土星の賢者と話し込む。ミクロメガスから見ると小人にすぎないその賢者と、寿命、感覚の数(シリウス星人の1000感以上に対して土星人は72感、片や人間は五感をもつだけだ)、色彩などの固有性(物質の特質)をめぐって異星間の比較論議をする。その折に身長も寿命も程度の問題であって、大きいとか小さいとか語ることに絶対的な意味などないことが分かる。登場人物中もっとも長寿のミクロメガスでさえ「シリウス星の1000倍も長生きする人々」がいると嘆き、そして1000倍の長寿をもってしても当人たちは短いと不平を鳴らしている。

・ミクロメガスと土星人の賢者のコンビはさらに宇宙旅行を続け、ふとしたことから地球にやってくる。すくい上げた海水を即製の顕微鏡で観察すると、そこにモーペルテュイ率いる観測船団がいることに気づく。ミクロメガスは、肉眼では確認できない極微小物である人間との対話を楽しむ。ミクロメガスによる人間の発見は「レーウェンフックとハルトスケルが初めて人間の素となる種を見つけた時」の驚きをはるかに上回っていた、とヴォルテールは書く。レーウェンフックが微生物を発見したときの報告は『王立協会哲学紀要』に掲載されていて、神の祝福を受けずに分裂によって子孫をもうける「気の毒な生物」は小動物と呼ばれていた。ミクロメガスは観測船団の科学者に対して、レーウェンフックと同じことをしているのだ。微生物を極微のものとして眺める人間、そして掌の上でその人間をレンズで観察するミクロメガス。彼とてさらに極大な存在にとっては卑小な存在にしかすぎない。この物語を一読するとわれわれのサイズの感覚は麻痺してしまう。

<万物の尺度をもとめて>
・してみると「ほどよい加減」とか「中庸の徳」とか、適度の量について語ることさえ意味を失うだろうし、われわれ人間が棲息する地球の天文学的特性にもとづく「地球的基準」は数ある基準の一つにすぎなくなるだろう。ミクロメガスによれば土星人は寿命を土星の公転周期によって算定する。土星人の1歳は換算すると地球人の30歳に相当する。だとしても土星人にとってこの換算は意味をなさない。地球のことは知らないのだから。

・地球を中心として秩序づけられた万古不易の世界空間、最高天に神が住まう唯一無二であるはずの宇宙がブルーノによって相対化され、「諸世界」の一つに降格されたわけだ。地球の他にも似たような生物が棲息する惑星が無数にあって、そこにはおそらく「その生物にとっての神がいる」とまでは言わなかったにしても、そう感じさせる過激な主張であった。地球を中心とする旧体系が二千年の長きにわたって君臨できたのも、キリスト教神学が被造物である人間と人間の居住する地球に対して特権的地位を与えたからである。ブルーノのように世界の複数性をミクロメガスの観点から訴えることは、無神論につながる不敬虔な行ないであり、それゆえ彼は1600年に火刑に処せられた。

・だが世界の複数化への思想的趨勢はとどまるところを知らず、フォントネルを経て、やがてヴォルテールの時代になると天文学は世俗化し、神や天使が住まう永久世界の殿堂はいつしか天体図に書き込まれぬようになってゆく。そのような時代にヴォルテールは海峡を隔てた隣国のスウィフトの書いた『ガリヴァー旅行記』を知り、「小人の国」と「巨人の国」へ相次いで渡航した旅行物語から着想を得て、地球基準、人間的基準を無化するシリウス系惑星人の宇宙旅行譚を書いたのである。さて、ミクロメガスの言うように宇宙の大きさについて厳然たる基準は存在しないのだろうか。



『私はアセンションした惑星から来た』
(金星人オムネク・オネクのメッセージ)
(オムネク・オネク) (徳間書店)  2008/3



金星人、火星人、土星人、木星人の特徴
・現在、アーリア人という呼び名で多くの人々が知っている白色人種は、金星から来ました。私たちはしばしば背の高い“天使のような存在”として、あなた方の世界のUFOコンタクティたちに語られています。私たちの身長は通常2メートル15センチから2メートル40センチほどで、長いブロンドの髪と、青また緑色の瞳をしていることでよく知られています。

黄色人種は火星から来ました。彼らは、細身で背が低く、髪は金色または濃い茶色をしていて、肌はオリーブ色から黄色がかった感じの人たちです。目は大きく、つりあがっていて、瞳の色は灰色から濃い茶色の間で人それぞれです。火星人は秘密主義の傾向があり、SFのイラストに描かれるような、幾重にも重なった精巧な未来都市を築いていることで知られています(火星人の生命波動も地球人の物理的な密度のものではありません)。火星人は東洋や太古のスペイン民族の歴史と関係しています。

・地球を訪れた赤色人種は土星系の人たちでした。彼らは、最初は水星で進化を遂げていました。ところが水星の軌道が変わり、太陽により近くなってしまったために生存環境が厳しいものになり、彼らは、土星へ移住したのです。土星人の髪は赤色から茶色で、肌は赤らんでいて、瞳は黄色から緑色をしていることで知られています。体格は背が高く、がっしりとしていて、太陽系内では、筋骨たくましい人たちとして知られています。アトランティス人やネイティブアメリカンはそれぞれ土星人を祖先にもつ民族のひとつです。中でもエジプト人とアステカ族は、とりわけ土星人の影響を強く受けています。

・黒色人種は木星系で進化を遂げた人たちです。彼らは、背が高く、堂々たる風貌をしていて、顔のサイズは大きく、角張った顎をしています。髪の色はつややかな深い黒で、瞳は茶色から青紫です。木星人はその声の美しさと、隠し事をしない開放的な性格でも知られています。彼らの子孫はアフリカやその他の地域に分布しています。



『ガンディード』(他5編) 
 (ボルテール)(岩波文庫)2005/2/16
“ミクロメガス”(哲学的物語) ボルテール(1694-1778)の代表作




シリウス星団の一住民、土星と言う名の惑星を旅する
シリウス星の住人と土星の住人との間に交わされた会話
・ミクロメガスは、この種の質問をいくつもした後、土星には本質的に異なる実体がいくつあるのかを尋ね、その数はおよそ30しかないことを知った。それは、たとえば、神、空間、物質、感覚で感じる広がりのある存在感、感じかつ思考する広がりのある存在、広がりを持たない思考する存在などなどだった。シリウス星の天体には300の実体があり、しかも彼は旅行中に他の3000もの実体を発見していたのだ。これには、土星の哲学者も肝をつぶした。

シリウス星人と土星人が二人で試みた旅行。地球と言う天体で彼らに持ち上がったこと>


 

 (2020/4/5)

 

 

『日本のオカルト150年史』

日本人はどんな超常世界を目撃してきたのか

秋山眞人  布施泰和  河出書房新社  2020/2/22

 

  

 

空飛ぶ円盤 アメリカで報告され、米軍が研究機関を設立

・そのようなときに、海外から飛び込んできたのが、UFOの目撃ニュースである。これを契機にして、オカルトは宇宙を舞台に発展していく。

 

・この飛行物体は、アーノルドの試算で時速約2700キロの高速で移動していた。当時のジェット機ではあり得ないスピ―ドであった。しかもその9個の物体は、鎖のようにつながって飛び、その編隊を崩すことなく、数秒の間隔を置いて急降下と急上昇を繰り返し、ジグザグに飛行したのだ。

 

・こうしたUFO目撃事件が相次いだため、この不思議な現象の正体を突き止めようとする動きも強まった。1947年には米空軍技術情報本部に、UFO問題を専門に研究するグループ「プロジェクト・サイン」を発足させた。有名な米雑誌『トゥルー』も、海兵隊空軍の退役将校ドナルド・E・キーホー少佐に調査を依頼、半年間の調査の結果、「空飛ぶ円盤は実在する」という記事を掲載した。キーホー少佐はそのなかで、空飛ぶ円盤が地球外の天体から飛来している他の知的生物が乗った宇宙艇に間違いないと主張した。

 

UFO アメリカの目撃談は多くの日本人に衝撃を与えた

・実は、こうした空飛ぶ光体の目撃例は、アメリカでUFOが目撃される以前からあった。有名なのは、太平洋戦争中にしばしば日本やドイツの上空で目撃され「フーファイター」と呼ばれた謎の戦闘機だ。

 それ以前にも、「空飛ぶ謎の物体」などは日本では当たり前のように目撃されていた。「人魂」とか「火の玉」などと呼んで、みんなで空に向かって呼び掛けたら、不思議なものが飛んできたというような話は無数にあった。今日のUFOを思わせる物体が着陸したというケースもあった。徳川家康は、宇宙人を連想させるような「河童」と出会ったという話も伝わっている。

 つまり、日本では「UFO」が飛んでいるのは当たり前であったのだ。

 

日本のUFO報告  三島由紀夫石原慎太郎も研究会に参加

・国内におけるUFO目撃例を記録した本も出ている。1958年に朝日新聞が発刊した『バンビ・ブック 空飛ぶ円盤なんでも号』だ。そのなかで「日本空飛ぶ円盤研究会」の荒井欣一代表は、信頼できる目撃例を報告しているので、主なものを列挙しておこう。この内容は、いま見ると改めて驚異的である。

 

<1947年7月9日>鹿児島県で警察官がT字型飛行物体を目撃。日本で最初に新聞で取り上げられたケース。

 

<1948年2月1日>新潟管区気象台長土佐林忠夫氏が月の半分くらいの大きさの物体が飛んでいるのを目撃。

 

<1948年8月2日午前5時すぎ>函館で国鉄機関区助役の鈴木満次氏ほか4名が、円盤状の飛行物体を目撃。

 

<1952年3月29日午前11時20分ごろ>在日アメリカ空軍パイロットのデヴィド・C・ブリンガム中尉がジェット機に乗って北日本の上空を飛行中、円盤状の光る物体が突進してきて衝突直前にほぼ直角に曲がり、ジェット機の前を横切り、垂直に上昇して視界から消えるのを目撃した。

 

<1952年12月29日午後8時ごろ>米軍の戦闘機隊指揮官ドナルド・J・ブレークスリー大佐がF-84で飛行中、青森県淋代の東方海上約8キロの上空で、赤、白、緑の光を放って飛ぶ物体を発見。

 

<1953年1月9日>F-84戦闘機に乗っていた米軍パイロットのメルヴィン・E・コナイン中尉が、変光して飛行する物体を目撃。

 

<1956年5月18日夜>東京・高尾山の見晴らし台でキャンプ中の店員2人が、オレンジ色に光る、お椀を伏せたような物体1機と、その後ろにその半分の大きさの球状の物体2機が編隊を組んで、自分たちの方に向かってくるのを目撃。

 

<1956年7月27日午後3時ごろ>福島県会津農林高等学校の物理学の教師・佐藤健壮氏が天文班の学生数名と太陽黒点の観測をしていたところ、太陽の周りを扁平楕円形の白く光る物体が飛び回っているのを目撃。

 

<1956年8月11日午後11時ごろ>広島県福山市の親子が自宅の庭から異様な光体群がV字型やU字型の編隊で空を飛び交っているのを30分以上にわたり目撃した。

 

<1957年11月7日夜> 岡山市の就実高考の屋上で、同校の地学教師・畑野房子氏が生徒10数名と月食の観測をしていたところ、ボーッと光る白い球状の物体が数度にわたって飛び交うのを目撃した。岡山市ではその後も同様の目撃が相次ぎ、目撃記録は翌58年8月までの9か月間で100件を超えた。

 

・これらの大きな流れのなかで、1955年7月1日には、前出の荒井欣一氏が「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足させた。同会には、作家の三島由紀夫北村小松石原慎太郎といった名士も多く参加しており、本格的なUFOブームが到来したのである。

 

海外流出した日本のオカルト 戦勝国の米ソは何に注目し、本国に持ち帰ったか?

・そうした目に見える流行とは別に、戦後の10年間は日本のオカルト文化や技術が、静かにそして密かに海外に流出した時期でもあった。

 

その研究対象のなかには、旧日本軍が研究していた電磁波兵器もあったことは想像に難くない。そして電磁波と超能力を結びつけ、ロシアは電磁波兵器の研究を推進させてゆく。おそらく、旧日本軍の初期の電磁波兵器の研究内容を参考にしたのではないかといわれている。

 

電磁波兵器 日本軍のオカルト的秘密研究は海外に流出した‼ 

・たとえば、旧日本軍の特殊な鉄をつくる現場で働いていたとされる楢崎皐月は戦後、「イヤシロ地」と「穢れ地」という概念を提唱して、製鉄所の立地によって同じ原料の鉄でも、より硬い金属ができる場所とできない場所があることを発見したという。楢崎はまた、兵庫県の山中で「カタカムナ文字」という成立期不明の謎の文字を宮司から伝授されたと主張していることでも知られている。そうした啓示を受けて、それを農業に応用したのが電子農法であった。

 

・その楢崎が軍で研究していたということは、軍も電磁場のことに少なからぬ興味をもち、研究していたということになる。実際に戦時中は、「勢号作戦」という電磁力兵器を使った作戦が水面下で進行していた。その兵器は勢号兵器、Z兵器とも呼ばれた。戦争中、国威発揚のために子供の科学雑誌の付録として付けられていた絵葉書には、「三点交差」と思しき光線が、コイル状の装置から発射される写真が印刷されているものもあった。

 

・1990年に私が初めてロシアにいったとき、そういった装置を開発する研究は依然として続けられており、実際に装置も見せてもらった。スイッチをオンにすると、「ビーン」という音が聞こえ、周りの人たちが一斉に気持ち悪くなった。頭蓋骨の平均的な横幅に共鳴する特殊な電磁波であると話していた。その研究の被験者になった人たちを専門に収容する精神病院をつくっているという話も聞いている

 ところが、ソ連崩壊後の1993年に再びロシアを訪れたときには、実験室はすでに蛻の殻で、アメリカの軍事産業企業が、それらのシステムから人間まで全部買いとった後であった。その後、いきなりアメリカの「HARP(ハープ)計画」が明らかになった。表向きはオーロラを研究するため高周波を照射して電離層に熱を発生させるなどして電離層の現象をコントロールする実験とされているが、電磁パルス攻撃、気象兵器、マインド・コントロールなどにも応用できると考えられている

 電磁波研究の現場で光線兵器の研究にかかわっていたといわれているが、「日本超科学学会」を設立した橋本健であった。彼が戦後はオカルト研究に深くかかわっていくのは偶然ではない。

 旧日本軍が超能力と電磁場の研究を進めていたのはまず間違いなく、当時の日本はオカルト研究の先進国であったように思われる

 

竹内文書  『記紀』とは異なる超古代文明の痕跡をGHQが調査した ⁉

・戦前、旧日本軍が、当時の国体における正史を守るため、正史以外の歴史にかかわるような、全国の謎の巨石建造物や古い神社を多数、爆破したり破壊したりして歩いたという話を聞いたことがあるからだ。

 

・旧日本軍はなぜそのような行動に出たのか。その答えはおそらく、電磁場の研究からイヤシロ地のような場所があることに気づき、そこへいくと謎の神が祀られた神社があることに気づいたからではないだろうか。つまり、どうも自分たちよりも古い民がいて、しかも彼らが渡来系であったことがわかってしまった可能性が高い。

 それは、万世一系天皇を掲げる軍部からすると、消し去りたい事実であったに相違あるまい。

 旧日本軍が破壊した遺跡のなかでもっとも有名なのは、現地の人たちが語りたがらないが、富士山の南側にある愛鷹山山中の神社と巨石群だ愛鷹山には、五色人を祀っている神社があったらしいが、いまは跡形もなくなっている。

 巨石文化の名残りはあるが、旧日本軍が村人を銃殺したとの話も残っており、巨石文化の調査はほとんどおこなわれていない。

 静岡周辺には、そのような話がいくつかあり、巨石を使った「謎の文明」の痕跡が多い。おそらく、戦前において、そうした歴史が隠されてオカルト化されたのだと思われる。

 

科学とオカルト

・奥行きのいちばん奥にいる神と、いちばん手前にある好奇心との間に「科学」や「物質主義」という番長が立ちはだかって、通行料を取るようになったという感じがしなくもない。そのようなイメージを私はもっている。

 

聖母マリアの出現問題

中世から近世にかけての欧米で破竹の勢いで急伸したキリスト教世界においても、困ったオカルト問題が出てきた。

 19世紀半ばごろから始まった、「ファティマの予言」に代表される一連の「聖母出現」である。のちにカトリック世界で「マリアの時代」と称されるきっかけとなった聖母出現問題をめぐって、キリスト教の権威者は、大いに頭を抱え込んだに違いない。

 

・最初期の現象は、1830年11月27日 に発生した。フランスのパリ7区バック街の「愛徳姉妹会」のカトリーヌ・ラブレという修道女の前に聖母が現れ、お守りとしてのメダル鋳造のメッセージを託し、メダルの表と裏に彫るべき図柄のメッセージを視覚化して伝えたというのである。2年後に、パリ大司教が許可したそのメダルが頒布されると、あちらこちらで奇跡や回心が起きたと大評判になったのである。

 その後、聖母出現はヨーロッパで、1846年のラ・サレット、1858年のルルド、1865~67年のイラカ、1866年のフィリップスドルフ、1871年のポンマン、1879年のノック(以上、フランス)、1917年のファティマ(ポルトガル)、1932~33年のボーレン(ベルギー)、1933年のバヌー(ベルギー)と20世紀にかけて相次いで発生した。1830年から1967年までの137年間に各地司教区調査委員会の検討に委ねられた件数だけでも187件に達し、うち11件が教会の許可を得て、マリア巡礼地の資格を獲得しているという。

 そのなかでもとくに有名なのは、ルルドの聖母出現事件だ。

 

四次元と超能力

・霊を信じる人たちからすると、私が交信している人は、4次元どころか6次元だとか8次元だとかを主張する人すら出てきた。次元が上にいけばすごいのではなくて、「次元」はあくまでも物理学の用語にすぎない。精神世界の人たちはサービス精神旺盛で、科学にすり寄ったり、科学の用語を使おうとしたりすることが多くなり、より混乱が生じたように思われる。現象をエネルギーで説明しようとするいまの科学で、オカルト的現象を測定できると考えたことも、混乱に拍車をかけた。

 

高度成長期  オカルトが物質文明に反旗を翻す

「リンゴ送れ、C事件」 広い支持を集めながらオカルト化したUFO団体の悲願

・オカルト運動が顕著になるにつれ、社会問題化する事件も発生するようになった。

 

事の発端は、CBAの松村雄亮らが、1962年ごろまでに地軸が傾くことによって地球規模の大災害が発生すると信じ込んだことから始まった。その「来るべき日」がきたら会員には事前に知らせるので、宇宙船に救出されるために集まる合流地点Cに、いざとなったら集合する取り決めをしたのだ。

 その事前に知らせる合図の電報の文言が「リンゴ送れ、C」であったので、後日、事件名として有名になったが、問題となったのは、この取り決めがメディアにリークされ、産経新聞などの媒体に「終末論を語るカルト」の団体のように書き立てられたからである。周知の通り、「来るべき日」が1962年までにくることはなかった。

 

「宇宙友好協会」の功績 のちのUFO研究の発展と普及に大きく貢献

・そうした負の面もあったが、同時に、UFOをテレパシーで呼ぶという、当時多くのコンタクティーが主張した現象や宇宙語を紹介したのも彼らである。たとえば、宇宙語の「ベントラ」は宇宙人の宇宙機を表す言葉で、地球のことを「サラス」と呼ぶと主張した

 これらの言葉は、私が知っている宇宙語とも矛盾しない。サンスクリット語にも「デベントラ」という、宇宙を表す、似たような言葉があることがわかっているし、古代インド語では「サラス」は水と音の女神であった。いわゆる芸能の神様で、日本の弁財天は「サラスバティ」と呼ばれている。非常に共通点があって面白い。その「サラス」から「ベントラ」と繰り返し唱えて呼び掛けるとUFOが現れるという現象を、CBAを通じて、多くの人が体験したといわれている。

 

オカルト批判とカルト  「リンゴ送れ、C事件」が残した教訓は

・なにかネガティブな事件があると、はじめは肯定的な人も、みるみる立場を変えて“批判派”に転じていくことは多い。「リンゴ送れ、C事件」は、確かに批判されても仕方ない要素はあったが、だからといって宇宙友好協会のそれまでの活動や功績のすべてを否定してよいかといえば、それはまったく違う。

 

・「国際銀行家」とウィリアムソンが呼ぶ人たちが世界的にUFO情報を隠しているのだということをずっと以前から指摘していたのも、彼であった。彼はそのことを『UFO・コンフィデンシャル』という本のなかで書いている。

 

秋山眞人のコンタクティー体験

 

 

▼(別の惑星への訪問と帰郷)

その惑星は本当にすばらしい桃源郷のようなところであった。だが、滞在3日目になると、急に地球が恋しくなったのだ。それを彼らに告げると、私の使命は地球にあることを気づかせるために彼らの惑星に呼んだのだというような趣旨のことを話して、私を再び地球に戻してくれた。現地での滞在は丸2日間(約48時間)であったが、地球に帰ると2、3時間しか経過していなかった。

 その後も彼らとの交流は続き、現在に至っているのである。

 

1970年代  超能力・UFO・大予言……1億総オカルト化

ネッシーツチノコ 学者や文化人もこぞってロマンを追いかけた

・1970年7月20日には、戦前のオカルティスト・酒井勝軍が「太古日本のピラミッドである」と称した「葦嶽山」に近い広島県比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)で、獣人型UMA(未確認動物)「ヒバゴン」の最初の目撃報告があった。その後4年間、目撃情報が相次ぎ、メディアを巻き込んだ騒動となった。

 

1980年代  精神世界と自己啓発が密接に結びつく

精神世界とビジネス 自己向上を目指す人々がセミナーに通う現代

・そういった人たちの欲求にうまくはまったのが、アメリカからやってきたダリル・アンカ氏のチャネリングと、そのチャネリング相手の宇宙存在バシャールであった。なにしろ宇宙が相手になるのだから、段階も無限にある。

 では、バシャールが何者かというと、三角形のUFOに乗り、物理的には不可視の惑星エササニからきた宇宙存在ということである。

 

・バシャールとのチャネリングで説かれるメッセージは、基本的にはアメリカで当時流行っていた自己啓発セミナーの延長線上にあり、キャッチフレーズは「宇宙はワクワクすることを望んでいる」であった。ワクワクすることをやれば、宇宙的な拡大を感じることができる、と説いた。

 

超能力者とUFO、幽霊の関係

ユリ・ゲラー氏はスプーン曲げなどの超能力では有名だが、コンタクティーであることはあまり知られていない。ユリ自身が催眠状態で語ったところによると、ユリは幼いころ、「ゆっくりと音もなく流れ落ちる、巨大な球形の物体」を見ている。その球体の前に、長いマント姿の大きな「人間の影のような物体」が現れ、その頭の部分から目が眩むような光線が発射されて、ユリに当たった。それ以来、超能力が開花したという。

 またユリは、地球から5306兆9000億光年離れた「スペクトラ」という宇宙船にいる「ザ・ナイン」という宇宙人グループとテレパシー交信を続けているとも話している。

 

オカルト真贋論争 目撃者・証言者に振りかかる厳しいバッシング

・オカルト事件が起きると、非常に厳しいプレッシャーが当事者に加わることが常であった。

 たとえば、1986年11月17日に発生した日航機機長によるアラスカ上空での巨大UFO遭遇事件である。この事件は、パリ発ケプラヴィーク、アンカレッジ経由成田行の日航機の貨物便が、アラスカ上空で、自機の3~4倍もある巨大なUFOに1時間近くにわたってつきまとわれたという。 それを報告したがために地上勤務への配置転換を余儀なくされた、当時47歳だった寺内謙寿機長には相当の圧力が加えられたことが知られている。

 

1990年代 カルト教団の凶行がオカルトの転機に

奇跡のリンゴと超常体験

木村秋則氏は1949年11月8日、青森県岩木町(現・弘前市)のリンゴ農家に生まれた。機械いじりが好きな青年に育ち、ごく普通の生活をしていたが、高校生のとき不思議な体験をした。

 自転車にのって家に帰る途中、向かい側を歩く男性が突如動作の途中で動かなくなるという体験をした。そのとき、松の木の下に巨大なワニのような動物を見た。自転車を停めてよく見ると、それはヒゲだけでも自分の太ももくらいの大きさがある巨大な龍であった。龍は松の木の上に出て尻尾一本だけで立ち上がると、しばらくしてからそのまま飛び去ったという。

 龍が飛び去ると、不思議なことに、それまで停止していた男性が動き出し、すべてが元に戻ったのだという。私も経験したことがあるが、3日間別の世界で過ごしたのに戻ってきたら3時間しか経っていなかったということは、オカルトの世界ではよく起こるのだ。私はそれを「逆浦島現象」と呼んでいる。

 

・その3年後の1988年、木村氏はついに無農薬・無肥料のリンゴの自然栽培に成功した。その成功物語は2013年には『奇跡のリンゴ』として映画化され、大きな反響を呼んだ。実験田は、国連食糧農業機関(FAO)の世界重要農業資産システムに認定されている。

 

・実はこの成功ストーリーの背景には、数々の不思議な事件が起こっていた。

 

・バイクで帰宅途中、道をふさぐように二つの人影を見たことがあった。バイクを停めて目を凝らすと、130センチくらいの黒っぽい二つの人影と、猫の目のような形をした四つの目が見えた。とても人間とは思えず、足は宙に浮いていた。そのとき「危害を加える気はないから安心しなさい」という言葉のようなものが伝わってきたという。おそらく宇宙人がテレパシーで木村氏に伝えたのだろう。そのときはそれで終わった。

 リンゴの自然栽培に成功した数年後には、もっと強烈な体験をする。自宅2階の寝室で寝ていた木村氏がフッと目が覚めて窓の外を見ると、以前帰宅途中に見た「宇宙人に違いない二人」が宙に浮きながら、目をギョロッと光らせてこちらを見ていたのだ。木村氏は金縛りにあっても動けず、声も出せなかった。

 二人の宇宙人は、カギのかかっていたサッシをいとも簡単に外側から開けて、窓からなかに入ってきた。そして動けずにいる木村氏の両脇を二人で抱えて、拉致した。木村氏の記憶はここで一旦途切れる。

 

宇宙人によるアブダクト  夢や幻ではなかった確実な証拠とは

・次に目覚めたとき、木村氏は大きな建造物のような空間にあるベンチに座っていた。静かで音はまったくしていなかった。そのベンチには他に二人の人が座っていた。

 

・一人になった木村氏はベンチの上に上がり窓から外を見た。そこには「竪穴式住居がいっぱい並んでいるように、光がずらっと見えた」という。そのとき、例の二人がやってきて、今度は木村氏を両側から抱えて、建物の奥へと連れていった。

 途中、いくつかの部屋があって、最初の部屋には先ほど連れていかれた「海兵隊員」が、次の部屋には金髪の女性が、どちらも裸にされたうえに、ベルトのようなものでベッドに固定され寝かされていた。その周りにはたくさんの宇宙人がいて、二人を観察していた。

 自分も裸にされて調べられるのかと思ったが、連れていかれたのは操縦室と思われるスペースだった。真ん中には丸いレバーがあって、ピカピカ光っていたという。

 

・そのとき、テレパシーのように言葉が頭のなかに飛び込んできたと木村氏はいう。その内容は「われわれは、256のすべての物質を知っている。地球人が知っているのは120くらいで、そのうち使っているのは20とか30くらいだ」「われわれはケーという物質を使って時間を移動している」というものだった。

 宇宙人は、その「ケー」という物質を見せてくれた。それはB4サイズくらいの大きさの三角形で非常に重かったが、彼らは軽々ともっていたという。

 

・その後、木村氏は宇宙人から透明な丸い玉をもらった。海兵隊員と金髪女性もそれぞれ円錐形のものと四角いサイコロ状のものをもらったのを木村氏は見ている。

 そこから記憶が希薄になり、気がつくと両脇を二人の宇宙人に抱えられて自宅の窓の外にいた。そして彼らと一緒に部屋に入ったかと思うと、彼らの姿は忽然と消え、木村氏もそのまま眠ってしまったという。

 翌朝目覚めても、拉致された記憶は鮮明に残っていた。だが、もらったはずの丸い玉はどこを探しても見つからなかった。あれは夢だったのだろうか、と木村氏は一瞬訝ったが、夢にしてはあまりにもリアルだった。

 

宇宙人からの啓蒙

・木村氏の場合は、宇宙人がリンゴの自然栽培の方法を直接教えたわけではなかったが、いろいろ示唆を与えながら、なんらかの影響を及ぼしたと考えられる。

 木村氏のように宇宙人から示唆を受けたり情報を得たりして農業で活躍した人は、他にもいる。メキシコでも、宇宙人から導かれた地底人に教えられた巨大野菜の栽培に成功したオスカー・アレドンドカルメン・ガルシアである。それは宇宙にある未知の力を味方につけ、種子に宿らせる方法なのだという。

 

・そのようななか、私はUFOとのコンタクトの記録を公表するような宇宙人側から促されたこともあり、1997年に『私は宇宙人と出会った』という本を出版した。

 

オウム事件に端を発したオカルト批判が渦巻くなか、新たに宇宙人とのコンタクトを始めても声を大にできない「第二世代の子供たち」にとって、私の本が勇気づけるきっかけとなった可能性はあるのではないかと思っている。

 その証拠に、『私は宇宙人と出会った』という本は口コミだけでよく売れたと記憶している。それだけ宇宙人とのコンタクト情報に興味をもった人たちがいたということだ

 

大企業による超能力研究

・80~90年代に企業が超能力を積極的に活用しようとした流れについても、もう少し詳しく説明しておこう。

 本田技研工業の創設者・本田宗一郎は1989年、人づてに私を本田技研の朝霞研究所に呼び、私に講演をする機会をくれたことがある。そのさい私は、超能力の特別チームを研究所内につくるように依頼を受けた。

 

21世紀 猛烈な批判を浴びたオカルトの復権が始まった

相次いだカルト事件

・そして21世紀に入った2000年5月9日、「法の華三法行」の教祖・福永法源が詐欺容疑で逮捕される事件も起きた。

 自己啓発セミナーから出発し、宗教法人となったあと、霊感商法をおこなっていた。これもオカルトの事件に挙げられるが、われわれからすれば、法の華三法行は、オウム真理教同様、当初から問題があるカルトであった。オカルティストのほうが、カルトに対する問題意識が強く、オカルトに詳しくない一般の人ほどカルトにだまされるという現象が起きているように思う。

 

X-ファイル

・90年代当時、精神世界に影響を与えた米国ドラマシリーズが二本生まれた。一つはクリス・カーターが監督したサイコ・サスペンス『ミレニアム』、もう一つはSFドラマ『X-ファイル』だ。

 この二つのドラマには、当時ささやかれていた陰謀論からあらゆるオカルト現象までが全部、盛り込まれていた。

 

アメリカ発オカルト・ブーム

・かつて一部の“研究家”によって誤認説のレッテルを張られた日本のUFO目撃情報に、米政府関係者が「本物であった」という太鼓判を押す出来事もあった。

 9・11テロがあったその約4か月前の2001年5月9日。アメリカの首都ワシントンDCのプレスクラブでは、アメリカの政府や軍関係者ら約20人が集まって、UFO情報が一部の権力者によって隠蔽されていると暴露会見をおこなった。

 その会見では、日航貨物機を操縦していた寺内機長がアラスカ上空で目撃した事件について、当時の米航空局幹部が、寺内機長が見たUFOはレーダーにも捕捉されていたと証言。当時の航空評論家や一部メディアが主張した「機長の惑星誤認説」など陳腐な見誤り説を一蹴した。

 

陰謀論に興味を持つ女性たち  男性と女性の対立が超えるべき課題

・『ムー』の女性購読者数が上がってきたのも、そのころだと聞いている。聞くところによると、いま『ムー』購読者数の4割が女性であるという。以前は、ほぼ9割が男性購読者だった『ムー』が、この変わり様である。

 2011年に開設されたオカルト情報発信サイト『TOCANA(トカナ)』も女性が編集長を務めているのは、女性がオカルトに興味をもつようになったことを象徴する現象といえる。

 

情報の渦に惑わされないオカルト的生き方のススメ

・智の地平線を広げるためにも、まだまだ、われわれは勉強しなければならない。精神世界はそのためにある。モノの見方を狭めるのではなく、広げるために精神世界やオカルトはある。愛と智を広げる原動力そのものが、精神世界でありオカルトなのだ。オカルトの歴史は、人類が無限の地平線に向かって歩を進める限り、永遠に続くのである。

 

精神世界は社会の鎖

・その結果としてわかったのは、精神世界、オカルト、スピリチュアルと呼ばれる世界は、社会の不安や、一般大衆が無意識のなかで引っかかっていることが、現実の社会現象や物質世界より先んじて現れているということである。つまり、オカルト的な世界には、ある種の予言性があるのである。

 ノストラダムスの予言がどうだとか、これから出てくる予言者の予言がどうだとかいった話とは別に、オカルト界そのものが予言性や予知性をもっている。そのため、オカルト界で起きる現象をつぶさに見ていけば、意外にも未来の傾向がわかるのである。

 社会の裏面史や抑圧されたもの、大衆の不安、悲しみ、恐れといったものが、やはり抑えきれなくなると、最初にそれが現象として噴出してくるのが、オカルトの世界なのだと私は思う。オカルトは未来を読み解くバロメーターといえるのではないか。

 

 

 

『日本UFO研究史

UFO問題の検証と究明、情報公開

天宮清    ナチュラルスピリット  2019/1/20

 

 

 

  • 日本最古参のUFO研究家で、元CBA(宇宙友好協会)会員が、

60年以上に及ぶ空飛ぶ円盤・宇宙人研究の成果を集大成!

生涯をかけて追ったUFOや宇宙人の正体を明かす!

 

松村雄亮(まつむら・ゆうすけ)自らがコンタクトし、「緊急事態」を告げられる

・1959年7月10日、松村雄亮は東京における打ち合わせを済ませ、午後11時半頃、横浜桜木町に着いた。車を拾おうと思ったが、なかなか来ないので、人通りの少ない道を野毛の方へ歩いて行った。

「日の出町の交差点を左折し、しばらく行くと行く手の交差点から1台の車が曲って来て、その前照灯で3人の女性がこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違う時に見るともなく見ると一番左にいた女性が微笑みかけたように思われた、10メートルほど行き過ぎてから何となく気になってふり返ってみると、すでに3人の姿はかき消すごとくにそこにはいなかった。そして上空には、フットボール大の大きな円盤が横浜松竹の屋根をすれすれにかすめるごとく右から、左へゆっくりと街路を横切ったではないか。全身が凍りつく思いであった。では今の女性は宇宙人だったのだろうか。まさか!すぐ後を追った。そこはビル街で横へそれる道はない。1分とたたぬ間の出来事である。しかし彼女らの姿はない」

 

・まず最初は1959年1月16日午前10時ごろ、松村宅上空でゆっくり旋回する「スカウト・シップとおぼしき円盤」を撮影した事件である。当時まだ松村は、アダムスキーなどのコンタクト・ストーリーを信用していなかった。したがって、当然この円盤写真は幸運な偶然によって撮影されたものと考えていたという。しかしそのあと、同誌(『宇宙友好協会の歩み』)では「今から考えれば宇宙人が意識的に文字通りスカウトに来ていたものと思われる」という記述が続く。

 

・その後、家族と共に目撃すること数10回、1958年7月28日には再び自宅の庭で「スカウト・シップ」をカメラで撮影したという。そして最初のテレパシーらしきものを受信して以後は、相次いで不思議な出来事が起ったという。

 

宇宙人の女性・男性と会見する

・1959年7月17日、松村雄亮は東京における打ち合わせの後、夕方7時頃に横浜桜木町駅に着いた。駅前から市電に乗ろうとして、雨の中を停留所に向かう途中、7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた女性と再会する。茫然と立ちつくす松村に対し、彼女は誘導するごとく先に歩き出した。2人は野毛の喫茶店で相対して座った。

 年の頃は21、2才であろうか、ワンピースの上に首から下げた直径5センチメートルほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいること等を打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうと言った。この時2人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかった

 

・何か証拠が欲しいと思った松村は、目の前の美しい「宇宙人」に「今日の記念にあなたの胸にある装飾品をいただきたい」と申し入れたという。すると彼女はにっこり笑って「いずれ差し上げることもあるかもしれません」と答えた。

 

・1959年7月20日、夕方6時から東京・渋谷でCBAの理事会が開かれることになっていたので、4時頃、松村雄亮は渋谷・道玄坂を歩いていた。すると何者かに左肩をたたかれた。振り返ると品のよい外国人紳士が立っている。「一目見ただけでそれが宇宙人であることが諒解できた」。

 このときも「宇宙人」は松村を喫茶店へ連れて行く。この男性は「日本における宇宙人達のキャップであった」。このとき「宇宙人」から一つの約束が与えられた。それは、「来る25日高尾山頂に円盤が飛んだら、松村を円盤に同乗させる。もしその日に飛ばなかったら都合が悪いのだから後日を待って欲しい」というものであった。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ)ついに円盤に乗る

・翌26日の午前5時頃、山頂で解散。松村雄亮と丹下芳之は横浜まで同道し、午前8時頃そこで別れた。横浜線の車内ですでにテレパシーによって行くべき場所を指定されていた松村雄亮は、横浜駅から直ちに現場に向かったという。

 指定された場所では渋谷で会ったキャップを含めて3人の「宇宙人」が出迎えてくれた。街並みを外れて歩いていると、真っ黒な前方に薄く光る円盤が、浮かび出るように着陸していたという。

 近づいてみると、円盤の直径は30メートルぐらいで、上部のドームに窓はなく、下部は全体に丸みを帯びてギアは見当らなかった。側面の一部が開くとスルスルと梯子が伸びてきて、内部に入る。内部はいくつかの部屋に分かれているらしく、5坪ほどの部屋に招き入れられた。乗員は12名で、うち1人だけが日本語を上手に話し、他は皆英語しか話せなかったという。

 円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。しばらくして、ある一室に案内された。

 この部屋はかなり広く百畳はあったようだった。通路もそうだったが、照明が見当たらないが、かなりの明るさであったという。入った部屋の半分ほどを占める半円形にテーブルが並べられ、そこにずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央に長老と思われる宇宙人が座っていた。その正面にテーブルと椅子が一つ置かれていた。

 松村は緊張してその椅子に座った。宇宙人はみな首から裾まで垂れたガウンをまとっていた。右端の宇宙人が英語で話しかけた。問答はすべて英語で行われたという。

 この問答は三つの要点に絞られる。

 

緊急事態を新聞に発表しようとするも、宇宙人に止められる

  1. 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
  2. われわれとしては、将来の地球再建のために1人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
  3. 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい。

 

あらかじめ用意していた質問や円盤の中古品の話を出すどころではなかった。いきなりこのような話が始まり、その話題で終始したという。

 

・話し合いの間に果物と飲み物が出された。果物は刺身に似ており、赤、黄、緑、紫などの色のものが皿の上にきれいに並べられていたという。コップは上に向かって階段状に広がっている珍しい形であった。グレープジュース色の液体が入っていた。

 残念なことに果物には手をつける余裕がなかった。飲み物はいい香りがしたという。出発した地点に送り返されるまで、約7時間地球を離れていた。

 

・1959年8月18日の打ち合わせに参加したのは松村雄亮、久保田八郎、丹下芳之、小川定時、桑田力であった。「嘲笑されようとヤユされようと、新聞を通じなければ多くの人に知らせることはできない。とにかく事実を事実として新聞に発表しよう」と決めた。

 ところがこの日、松村雄亮が新橋駅に到着するや、宇宙人が姿を現し、「新聞を使ってはいけません」と言われてしまう。

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  1. 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  1. 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))

 

「地球の軸が傾く?」のはなぜ「1960年」とされたか

・高梨純一が入手した「短い文書」を読むと、どこまでが「宇宙情報」としてCBA幹部たちが共有していたかが不明である。

 

・まず地球の軸が急激に傾くとされる「1960年」について説明しよう。

 1958年、米国テキサス州の円盤愛好家レイ・スタンフォードは弟と連名による著作『Look Up』を自費出版した。それを入手したCBAは、その『Look Up』を翻訳し、1959年8月に邦題『地軸は傾く?』として発行する。

 

・この『地軸は傾く?』の中の「………最も影響の大きい『地軸傾斜』はここ数年内に発生するでしょう。しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し小規模な変動はそれ以前にも突発するかもしれません」とある。

 この部分が原著『Look Up』では「1960年」となっていたが、CBAはこの箇所を「196X年」として出版したのだ。徳永はこのいきさつを知る立場にいたと推定される。

 

レイ・スタンフォードは「1960年大変動」予言に関わったのか

・「レイ・スタンフォードは霊能者(サイキック)で、意識不明のスタンフォードを通じて、様々なアクセントと抑揚による『語り』があり、それらの存在はエーテル界の『白い兄弟たち』とも呼ばれた。彼らはスタンフォードの声帯を借りて語った

 

・見えない霊的存在からの意志と霊媒による肉声で伝える行為から類推されるのは、霊界人による「大変動予言」の問題である。1954年に「1955年に大変動が起こる」という霊界宇宙人サナンダからの予言を受信したのは、シカゴに住む54歳になるドロシー・マーティンであった。

 それは自動書記と呼ばれる心霊的なメッセージ受信によって筆記された。もちろんその予言が外れたので、今日の世界が存続しているわけだが。

 レイ・スタンフォードの声帯を借りて語る「ソース」が、もし「1960年大変動」という予言にも関係があったとしたら、日本に騒動をもたらした元区はレイ・スタンフォードに語りかけた霊界の「白い兄弟たち」ということになる。しかし、それを確認することはできない。

 

「何年何月何日に世界が終わる」という予言もまた、何度も繰り返されてきた。

・「大変動」「最後の審判」の伝説と、「何年何月何日に世界が終わる」という予言は同じ一つの終着点「大変動」「世の終わり」へと向かっていた。しかし、「大変動」「最後の審判」の伝説の流れは「そのときは誰も知らない。ただ父だけが知っておられる」「宇宙人にも分からない」と言い逃れ、「世界が終わる」という予言の流れは「それは何年何月何日」と予言され、そのつど外れてきた。

 

・「神あるいは主」は「そのときは誰にもわからない」で終わるのが定石で、「それは何年何月何日だ」とするのが「予言的霊能者」の役目であったようだ。信じる人々は予言が外れる度に繰り返し失望させられてきた。20世紀となり、米国予言の「1960年」を受けて、CBAに所属する日本人が緊急文書を作成し、それが新聞社に流れて波乱を巻き起こすことになった。

 

トクナガ・ミツオの弟が明かす「ボード事件」の詳細

相手は「天の神様」「サナンダ」と名乗った。サナンダとは「イエスが金星で生まれた名前」であるという。また通信文に見られる「ワンダラー」「リンゴ」という言葉は、ウィリアムスンが受信した相手の通信文にも見られるし、日本のボード通信にも見られた。

「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂を指し、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「リンゴ」がなぜそうした意味になるのかというと、地球にまかれた種子(魂)が腐らないように(任務を忘却しないように)することを塩漬けにしたリンゴに例えたものである。

 

・「ワンダラー思想」において、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂のことである。しかし、真性宇宙人との接触者である松村雄亮はこのような概念を否定していた。

 

・筆者の隣にいた久保茂が松村に質問した。「惑星から惑星へと生まれ変わる魂というものはあるのか」と。すると「それはありません」と松村は即答した。

 筆者が思うに、肉体の死によって分離した魂というものは、円盤なり宇宙船に回収されて運ばなければ、他の惑星には行けないということではないか。「死んで、他の惑星へ転生する」という概念は、個人的なロマンとしてなら許されるかもしれない。しかし、それを「メッセージ」として、事実として発信するのは問題が大きい。

 それは霊界所属の自称宇宙人によってなされてきた。その目的とは何か。まさか1997年の「ヘブンズ・ゲート」事件(1997年3月、ヘブンズ・ゲ-ト[天国への門]と呼ばれるカルトが、カリフォルニア州サンディエゴ市北部で「ヘール・ボップすい星接近に合わせて」として集団自殺し、死者39人を出した事件)のような結末を招くようなものとは思いたくない。

 

・その世界の住民はUFOのように我々の眼には見えるものではない。眼に見えなくても「宇宙人」を名乗ってコンタクトしてくるのだ。

 「宇宙人」を名乗る眼に見えない意識体は、特定の人物を選び「メッセージ」を伝えたりする。その結果、科学的なUFO研究に種々の分派が生まれるという現実となってくるのである。

 

松村雄亮の「宇宙連合」とのコンタクトとCBAの古代研究

松村雄亮と「宇宙連合」とのコンタクトの方法

・松村雄亮が1959年7月に茨城県の某地から、在日宇宙人と共に搭乗した円盤は「実体図」には見られない。元CBA理事・丹下芳之から1961年頃、筆者が聞いたところによると、その最初に乗った円盤の内部には設備はなく、人を運搬するだけのがらんどうの機内であったという。

 

・松村は宇宙連合から連絡を受けると、旅の仕度をして航空会社に予約を入れる。横浜から羽田空港へと向かい、国内便で九州の某空港へ飛ぶ。そして着陸地点である丘陵地帯へと向かうのである。

 空飛ぶ円盤の飛行や母船への搭乗は常に「九州の某丘陵地帯」で行われた。その往復にかかる費用、そしてタクシーを使って現場近くに行くための苦労があった。母船の中は、地球大気と変わらない気温に保たれていたという」。

 

・宇宙連合の円盤は、高梨純一がその実在を強く主張した「土星型円盤」を基調としていた。その円盤には一切窓はなく、外界は天井の「天体スコープ」によって見ることができる。円盤に搭乗する宇宙人は、松村雄亮もその能力を得た「SMVP」、つまり人間レーダーのような能力を持っている。そ能力があれば、航空機の自動操縦を上回る操縦性を持つのであろう。自動操縦が完璧になれば、我々の乗り物が窓を必要とする時代は過去のものとなる。

 

松村雄亮がコンタクトした宇宙連合の円盤

・直径が50~60メートルの司令機は、3段に分かれている。3階建ての建物としてみると、1階と2階の吹き抜け空間に、円形のテーブルを囲む大会議室がある。その周辺の部屋、まず、1階には個室と調理室、倉庫がある。2階には個室と資料室、サロン、小さな会議室が2つある。

 動力機関はほとんど見当たらないが、土星の輪に相当する翼を貫く「ダクト」のみがそれに相当するようだ。

 

・「空飛ぶ円盤実体図 中型機」は直径40~45メートル。内部は2段に分かれている。1階にやはり会議室があるが、テーブルは四角い。1階の周囲には資材室、倉庫、調理室、サロン、そして個室が5室ある。制御盤に4人、操縦席に1人が座る。乗員は約12名となっている。

 

・この夜には、長さ3000メートル級と1700メートル級の母船が撮影された。その状況は『空飛ぶ円盤ニュース』と『空飛ぶ円盤ダイジェスト』に掲載されている。

 

著者略歴  天宮清

・1960年春、弟から平野威馬著『それでも円盤は飛ぶ』を見せられて、すぐに三省堂書店へ行き『これが空飛ぶ円盤だ』『空飛ぶ円盤実見記』『我々は円盤に乗った』『地軸は傾く』などを購入。CBA発行の宇宙シリーズで月刊『空飛ぶ円盤ニュース』を知り、CBAに入会した。

 

・1975年より天宮一家は奈良県天理市に移り、杉山繊維工業の宿舎を拠点に子育てとUFO観測、スライド作品制作とそれを見る天理高校2部生を相手にした啓蒙活動を展開する。

 

・2011年2月5日に娘が心肺停止により病院に搬送され、以後植物状態になって長期入院することとなる。その入院先に妻と毎日通う過程で、新たなUFO目撃撮影や印刷通販による冊子の制作を行う。

 

・著書に『天空人伝承~地球年代記~』(たま出版)がある。山岡徹、山岡由来は筆者と妻のペンネーム。

 

 

 

『UFO事件クロニクル』

ASIOS   彩図社   2017/8/29

 

 

 

リンゴ送れシー事件

・1960年、「宇宙友好協会(CBA)」が密かに地球の地軸が傾く大異変に備えるよう会員に指示していたことがマスコミに報道され、社会問題となった事件。

 

<大災害を予言する文書>

「リンゴ送れシー」という呼び名は、1959年末、CBA幹部・徳永光男が作成したとされる通称「トクナガ文書」の内容に由来する。

 その内容を要約すると、1960年あるいは62年に地軸が傾く大変動が起こるが、宇宙の兄弟が我々を助けに来てくれる。円盤に乗る場所は日本では東日本と西日本の2ヶ所であり、具体的な場所は「C(英語のcatastrophe:大災害の頭文字をとったもの)」の少し前に知らされる。Cの10日前に電報又はその他の方法でCが起こることが知らされるが、その電文が{リンゴ送れシー}ということだった。

 

・11月3日には、「重大な任務を遂行する」資金を確保するため、浅川嘉富、平野威馬雄らが発起人となって「維持会員制度」が設置されている。

 

宇宙人の長老と会見

・ではなぜ、CBAは、1960年に地軸が傾くと信じたのだろう。

 事件を遡るとその発端は、CBAが1959年に翻訳出版した(松村雄亮訳)したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に行き着く。

 本書にはスタンフォード兄弟がコンタクトした宇宙人から知らされたとして、1960年に地軸が傾く大変動が起きると記されていた。CBA幹部はこれをこのまま信じていいものかどうか大いに迷い、原著者の1人、レイ・スタンフォードにこの点を確かめたところ、返書には「私の会っている宇宙人はいまだかつて嘘を言ったことはありません」とあった。そこで直接宇宙人に確かめてみようということになり、1958年6月27日、筑波山上空に松村雄亮代表と幹部が何人か集まってUFOを呼び出した。こととき、実際にUFOらしきものが飛来し、その模様は後日ラジオでも放送されたのだが、肝心の年号については、2名の者の頭に「1962」という数字が浮かんだだけで、決定的ではないとされた。

 

CBA代表の松村はこの直後の7月から宇宙人とコンタクトするようになり、26日には円盤で母船に連れて行かれ宇宙人の長老とも会見したのだが、大変動がいつ起こるか、正確な期日は宇宙人にもわからないということだった。しかもこのとき、慎重に事を運ぶようにと念を押された。そこで日本語版では196X年という形にぼやかして出版した。さらにその後宇宙人からは、新聞を使ってはいけないとも警告された。

 

一般社会からの注目

こうしたなか、1960年1月29日付「産経新聞」がCBAの動きや、荒井、高梨の反論を報じたのを皮切りに、他の週刊誌も関連記事を何本か掲載する。しかもその内容は、「トクナガ文書」の内容を紹介するだけでなく、地球滅亡が近いとして乱行を繰り広げた京都の女子高生や食料を買い込んだ千葉の事件、試験を放棄した広島県の高校生などの他、CBA代表の松村がMIBに襲われた話など、真偽不明の内容が含まれていた。

 

他方、当時の報道を精査しても、事件そのものがそれほど大きな社会問題となった兆候は見当らない。ただし、事件を契機にCBAと他のUFO研究家との亀裂は決定的なものとなり、松村も一時役員を退く。しかし1年後には対立する幹部を放逐し、独裁的な指導者として復帰、以後CBAは独自の宇宙考古学路線をひた走ることになる。

 

宇宙人紳士との愛の軌跡 エリザベス・クラーラー

・エリザベス・クラーラー(1910~1994)は、1980年に『光速の壁を越えて』を出版して世に知られることになる。

 エリザベスはアダムスキーの本を読んで、自分が幼少の頃よりずっと宇宙人と精神的なコンタクトを続けていたことを思いだした。そしてある日、誘われるように近くの丘に行くと、そこには着陸した円盤とハンサムな紳士が彼女を待っていた。

 彼女がエイコンと名乗るプロキシマ・ケンタウリ星系のメトン星からやってきた白人紳士型宇宙人と濃厚なコンタクトをしたのは、54年から63年までの間で、やがて2人は当然のように恋に落ち、エリザベスはエイコンの子供を身ごもることになる。そしてメトン星に4ヵ月滞在し、エイリングという名の男の子を出産する。メトン星は争い事のない自然豊かな楽園で、彼女は地球帰還後、地球を彼らの星のようにすべく世界中を巡り講演活動を行った。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ、1929~?)

・日本のUFO研究家。「空飛ぶ円盤研究グループ」及び「宇宙友好協会(略称CBA)」代表で、自称コンタクティー

 

・1959年、松村が翻訳したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に記された大異変への対応を巡り、CBA指導部が議論を重ねる中、松村は7月に自ら宇宙人とコンタクトし、さらには円盤に乗って宇宙人の長老とも会見したと主張するようになった。こうしたCBA側の動きはマスコミにも知られることとなり(リンゴ送れシー事件)、CBA以外のUFO研究団体・研究家との関係も決定的に悪化した。

 

・一方、アイヌの文化神オキクルミをはじめ、大和朝廷による統一以前に各地の古代日本人が崇拝した神や文化英雄を宇宙人とする見解が宗教団体「成長の家」との対立を招き(成長の家事件)、熊本のチプサン遺跡に無断でアーチなどの建造物を設置したことが熊本県教育委員会より批判を受ける(チプサン遺跡事件)などで世間の耳目を集めた。

 

・1970年6月24日には、ハヨピラでオキクルミカムイ祭1200年式典が行われたが、この直後松村は消息を絶った。

 松村の行方は他のCBA関係者も詳しく承知していないが、ある証言によれば2000年頃、京都の小さなキリスト教団体に身を寄せて亡くなったという。

 

<クロード・ヴォリロン=ラエル(1946年~)>

・「ラエリアン・ムーブメント」の創始者。コンタクティー。フランス生まれ、車専門誌のジャーナリストをしていた1973年12月13日、フランス中部のクレルモン・フェランに近いビュイ・ド・ラソラの噴火口で、「エロヒム」と名乗る宇宙人に遭遇したとされる。

 その際、ヴォリロンは「一つになる」という意味の「ラエル」という称号を与えられ、人類に「真実のメッセージ」を伝えるための「最後の預言者」としての役割を与えられたと主張する。

 またエロヒムからは、彼らの超技術によって、2万5000年前に人間を含む地球の生物が創造されたことを聞かされたとも主張している。

 

・1975年10月7日には、エロヒムと二度目のコンタクトを果たし、彼らの宇宙船で、母星の一つ「不死の惑星」に行き、数々の驚異的な体験をしたともいう。

 1975年末には、エロヒムを地球に招くために大使館を建てるという名目で、「国際ラエリアン・ムーブメント」をスイスのジュネーブに設立。その後、世界中に支部をつくり、会員を集めている。

 公式サイトからダウンロード可能な入会申込書によれば、会員には大きく分けて「国際会員」と「国内会員」があり、活動を積極的に行う国際会員の場合は、年収の7パーセント、国内会員の場合は年収の3パーセントをそれぞれ会費として納めなければならないとされている。

 

・ちなみにラエルは、ヘアスタイルをちょんまげにするほどの日本好きで知られ、現在は沖縄に移住しているという。またラエリアン・ムーブメントの日本支部は比較的会員が多く、日本での活動も積極的に行われている。

 

バック・ネルソン さみしい農夫と恥ずかしがりやの宇宙犬

・ネルソンが最初に空飛ぶ円盤を目撃したのは54年。家畜たちが突然騒ぎだしたので外に出てみると空に3機の空飛ぶ円盤が浮かんでいたという。この時彼は3枚の写真を撮影し、その1枚にだけ2機の円盤が映っていた。最初のコンタクトはその約1年後、その時は簡単な挨拶のみで、その1ヶ月後には本格的なコンタクトを果たしている。農場に着陸した円盤からは3人の男と犬が降りてきて、ネルソンは自宅に彼らを招き入れた。3人の男のうち2人はバッキ―と名乗る若者と、名乗らない年寄りの地球人で、もうひとりがボブ・ソロモンと名乗る金星人だった。55年の6回目のコンタクト時、とうとう彼らの円盤に乗せてもらい、月と火星と金星のクルージングに出かけている。

 

オルフェオ・アンジェルッチ   虚弱体質なニューエイジ・ムーブメントの先駆者>

オルフェオ・アンジェルッチは、55年に『円盤の秘密』を出版し世間に知られることになる。この時、彼は43歳。

 彼を一躍有名にしたのは心理学者のC・G・ユングが興味を示したことで、ユングはこの本について「彼の中では真実」と評した。

 

・それは心に直接語りかけてくるテレパシーだったが、同年ネプチューンと名乗る宇宙人と物理的なコンタクトを果たしている。そして、海王星、オリオン、琴座などの宇宙人と日常的にコンタクトし、世界戦争が差し迫っていると警告した。また彼はイエス・キリストも宇宙人の1人だとしている。

 

彼がコンタクト体験で語ったことは、きわめて宗教的で、宇宙人は自由に現れたり消えたりすることができる実体を持たない存在であるとされた。宇宙人が高次元の精神的な存在であるとする言説は、今ではニューエイジの世界ではありふれたものだが、彼が著書で「ニューエイジ」という言葉を頻繁に使っていることと合わせて、ある意味時代を先行していたと言えるだろう。

 アダムスキーがあくまで既存宗教と距離をとったのに対して、キリストも宇宙人の1人としているところも興味深い。

 

<ウッドロウ・デレンバーガー  UFOに人生を壊されたミシンのセールスマン>

・ウッドロウ・デレンバーガー(1916~1990)は、1966年に宇宙人と遭遇した体験がメディアに報道され世間に知られることになる。

 

・その物体は着陸し、中から長い黒髪を後ろに撫でつけた浅黒い肌の男がニタニタ笑いながら降りてきた。その男は怖がる必要はない、わたしはきみの国よりはるかに力の弱い国からやってきたとテレパシーで語りかけ、男は自分をインドリッド・コールドと名乗った。

 その2日後、デレンバーガーはまたもやコールドからのテレパシーを受ける。彼は自分が戦争も貧困もない「ラヌロス」という地球とよく似た惑星からやってきたと語った。その後、コールドは彼の前に度々現れ、デレンバーガーは彼らの宇宙船への搭乗も果たしている。宇宙船の中はがっかりするほど何の変哲もなく、ベッドや見覚えのある商品がおかれ、ラヌロス星は牧歌的でヌーディストの星だったという。

 

・このことが報道されてからというもの、電話が鳴り止まなくなり、UFOをひと目見ようと集まった人々で彼の農場は連日黒山の人だかりになってしまったのだ。彼は家族と共に何度も引っ越しを繰り返したが、事態はさほど好転せず、耐えられなくなった妻は子供を連れてデレンバーガーのもとを去っていった。

 

エドウィン  やむことのないメッセージ>

・1960年、エドウィンは働いていた南アフリカの農場で無線技師募集の求人でやってきたジョージ・Kと名乗る長身で黒髪の男と意気投合する。そしてその男こそコルダスという惑星からやってきたヴェルダーと名乗る宇宙人だった。彼によれば、地球には宇宙人の組織があり、地球人が精神的霊性向上に気付くように観察しているのだという。

 ヴェルダーはエドウィンとのしばしの親交ののち、円盤に乗ってコルダス星に帰っていった。この話はエドウィンの信奉者であったカール・フォン・ブリーデンによって『惑星コルダスからのUFOコンタクト』としてまとめられている。

 この話にはその後がある。宇宙人ヴェルダーはエドウィンへの置き土産として「無線機」を残していた。エドウィンはあちこちいじってみたが、しばらくはありきたりのホワイトノイズしか聞こえてこなかった。

 しかしその6ヶ月後、ウィオラと名乗るコルダス星人と交信することについに成功する

 コルダス星人は通信の担当者を度々変えながら、宇宙と地球の平和、そして宇宙船の技術的な秘密などを延々と語り続けた。この無線による通信は72年まで続けられ、その後も通信方法を変更して続けられたという。

 

核兵器をなくせとか戦争をやめろとか、UFOコンタクティーたちはそういう直接的なメッセージをあまりしない。彼らが繰り返し訴えるのは、ここではない<他所>があるということ。その<他所>では、ここでは日常的な出来事が、逆にまったく非現実的だったりする――それは例えば、核戦争の恐怖におびえたり、子供が飢えて死んだり、理不尽な争いで人が大勢死んだりすること。そんな、この世界の毎日どこかで起こっている、ごくごく当たり前の出来事が<他所>にはないということだ。

 

並木伸一郎  1947~

・超常現象研究家。1973年に設立された「宇宙現象研究会(JSPS)」では会長を務める。

 介良事件や甲府事件をはじめ、日本で起きた奇妙な事件を現地まで赴いて精力的に調査。JSPSの会誌では、そうした事件の貴重な調査記事が、会員の報告と共に掲載されている。

 

・80年代以降は学研の老舗オカルト雑誌『ムー』のメインライターを務める。オカルト作家としては批判を浴びることもあるが、話を創作したり、プロレスやエンタメだと言い訳するようなことはしない。

 また、表面的なオカルト作家の顔とは別に、海外情報に非常に精通したフォーティアン(奇現象愛好家)としての顔を持ち、UFOについても造詣が深い。おそらく現在、日本で最もUFOについて詳しい人物。

 

・普段、あまり見せない顔を見られるものとしては、『ミステリー・フォトニクル』(デジタル・ウルトラ・プロジェクト)に収録されている「ある円盤少年についてのまじめな話」という記事がある。

 これは、かつてのUFOブームの時代に起きた並木氏とある少年との秘話を記した名文である。未読の方にはぜひ一読をお勧めしたい。

 

韮澤潤一郎  1945年~>

実際は目撃事例のうち、本物は10~15%くらい

新潟県生まれ。たま出版代表取締役社長。UFO研究家。UFOを研究するきっかけは、1954年、小学校3年生の夏休みに初めてUFOを目撃したとき。以来、UFOに興味を持ち、ジョージ・アダムスキーの『空飛ぶ円盤実見記』や『空飛ぶ円盤同乗記』をはじめとするUFO本を読み込み、自宅の屋根に観測台をつくって観測会を開くなどした。

 中学から高校にかけては、自ら『未確認飛行物体実見記録』と題した研究ファイルを作成。写真つきで詳しい観測結果を残している。

 

・大学卒業後は現在のたま出版に入社。当時、社長の瓜谷侑広氏と2人だけという状態からのスタートで経済的には苦しかったため、日本テレビ矢追純一氏が担当していた深夜番組「11PM」などで資料提供するなどして生活を支えた。

 

<南山宏  1936年~>

・超常現象研究家。翻訳家。東京外国語大学ドイツ語学科時代にSFにハマり、早川書房へ入社。当時、SFをやるとつぶれるというジンクスがあったが、それをはねのけ、「SFマガジン」の2代目編集長として、数々のSF作品を世に送りだした。

 超常現象に興味を持ったきっかけはSF同人誌「宇宙塵」。同誌の関係者が日本空飛ぶ円盤研究会に参加していたことから、UFOを入口に興味を持っていったという。

 

・1960年代から70年代にかけては、『少年マガジン』をはじめとした少年誌などで、定期的にオカルト特集記事を執筆。早川書房を退社してフリーに転身後も、精力的に活動を続け、UFO本をはじめとする数多くの著書や翻訳本を出版した。英語が堪能で、翻訳した本では、訳者あとがきが非常に詳しい解説記事になっているのが特徴。

 

・海外の超常現象研究家とも交流が深く、10以上の研究団体に所属。イギリスの老舗オカルト雑誌『フォーティアン・タイムズ』の特別通信員も務める。また日本のオカルト雑誌『ムー』にも創刊当時から関わり、現在も同誌の顧問を務めながら、記事を執筆している。

 日本ですっかり定着した「UMA」(謎の未確認動物)という用語の考案者でもあり、超常現象全般に造詣が深い。

 かつては矢追純一氏のUFO番組などで情報提供を行ったり、自ら出演したりすることもあったが、現在は見世物的になることを嫌い、テレビの出演依頼は断っている。

 

矢追純一  1935年~>

・TV番組ディレクター。1935年、満州新京生まれ。1960年、日本テレビ入社。

 UFOを特集した番組を手がけ、80年代から90年代の日本におけるUFO文化を、事実上牽引した立役者の一人である。

 まだTV黎明期の日本テレビに入社後、様々な番組の現場を転々としたが、なかなか自分に会う番組に出会えず腐っていたところ、深夜の情報番組「11PM」が始まると聞き、プロデューサーに頼んで参加させてもらう。当時の深夜番組はメジャーな存在ではなく、スポンサーもあまりつかなかったが、逆に自由に番組を作っても文句を言われにくい土壌があった。

 もともと矢追氏はUFOに興味があったわけではなかったが、日本人が脇目も振らずに働いて心に余裕も持てない現状を憂い、ふと立ち止まって空を見ることができるような番組を作りたいと考え、当時ブームでもあった「UFO」という、空を見たくなる素材で番組を作り始めたと本人は語っている。

 

・機動性を重視した少人数の取材班で実際に現地取材を行い、目撃者などの当事者にインタビューを敢行する行動力、スピード感のある編集、番組の合間合間に挟まれる特撮のUFO映像となぜか「ピギー ―」と鳴く宇宙人のアップ、何より冒頭の「ちゃらら~ちゃららら~♪」というテーマ曲は当時のUFO大好き少年たちに強烈な印象を残している。

 

<ジョージ・アダムスキー  1891~1965>

アメリカの自称コンタクティー。世界で最初に異星人とのコンタクトを公表した人物。

 ポーランドに生まれ、2歳の時に両親ともにアメリカに移住した。貧困のため高等教育は受けられなかった模様であるが、13年から16年までメキシコ国境で第13騎兵連隊に所属、17年に結婚するとイエローストーン国立公園職員やオレゴンの製粉工場などで働き、26年頃よりカリフォルニアで神秘哲学を教え始めた。30年頃にはカリフォルニア州ラグナビーチで「チベット騎士団」なる団体を設立、神秘哲学の教室を開いていた。40年にはカリフォルニア州パロマー天文台近くに移住し、44年からは弟子のアリス・ウェルズが所有する土地をパロマー・ガーデンと名づけ、そこに建てられたパロマー・ガーデン・カフェで働きながら神秘主義哲学を教えていた。

 

アダムスキーの名が知られるようになったのは、53年にデズモンド・レスリーとの共著という形で出版された『空飛ぶ円盤実見記』が世界的なベストセラーになったことによる。この中でアダムスキーは、51年3月5日に葉巻型母船を撮影し、52年11月20日に、カリフォルニアのモハーベ砂漠で金星人オーソンに会ったと主張している。続く『空飛ぶ円盤同乗記』では、1953年2月18日にロサンゼルスのホテルで火星人ファルコンと土星人ラムーに会い、一緒に円盤に乗った経緯を語っている。

 

・この2書が世界的ベストセラーになると、59年1月から6月にかけて、各国のアダムスキー支持者が集めた資金でニュージーランド、オーストラリア、イギリス、オランダ、スイスなどを旅行し、オランダではユリアナ女王とも会見した。このとき久保田八郎にも訪日の打診が行われたが、十分な資金が集まらず断念したという。

 

その後、アダムスキーの主張はますます肥大し、62年3月には土星に行ったと主張し、ケネディ大統領やローマ法王に会ったと主張するようにもなった。さらに各種の講演会の場や、弟子たちとの非公式の場では8歳からチベットのラサに送られたとか、父親はポーランドの王族で母親はエジプトの王女などとも述べるようになった。

 

 

 

『光速の壁を越えて』

今、地球人に最も伝えた[銀河の重大な真実]

ケンタウルス座メトン星の【宇宙人エイコン】との超DEEPコンタクト

エリザベス・クラーラー      ヒカルランド 2016/4/30

 

 

 

・【宇宙人エイコン】の子供を産み、メトン星で4か月の時を過ごしたエリザベス・クラーラーの衝撃の体験

 

<別世界から現れた一人の男性が運命を変えた>

・大きな宇宙船は、優雅に無音で空中を滑りながら、丘の上に向かって素早く移動し、雲の下で滞空し、姿を消した。それは、再び数百メートル上空に浮上して、丘の頂上の南側に向かった。そして、ゆっくりと高度を落とし、地上約1メートルにとどまった。

 脈動するハム音が空気を満たし、私の鼓膜を打った。巨大な宇宙船によって突然空気が変異したためだった。円形の船体は少なくとも直径18メートルはあり、中央に丸いドームがあった。三つの大きな丸窓が私の方に面してあり、その窓から一人の人物の姿を見ることができた。

 

<彼らの祖先は金星人だった>

つまり、地球の科学者らが理解しているように、地球からケンタウルス座アルファ星まで宇宙飛行士が光速で宇宙旅行できるとすれば、4年を要します。しかし、私たちの宇宙船では、この距離は即座にゼロになります。

 

<太陽という灼熱地獄の脅威>

金星は太陽の膨張サイクルの最後の時に、恒星からの放射線によってすべての植物と動物が死滅して、滅びました。

 

<初めて目にしたメトン星>

ケンタウルス座α星の私たちの恒星系は7つの惑星から構成されています。そのすべての惑星に私たちの文明がおよんでいて、人々が暮らしています。この美しい恒星系の3番目の構成要素はプロキシマ・ケンタウリとして知られており、そのまわりを7つの惑星が軌道を描いて回っています。

 

美しく豊かな自然に満ちた未知の文明

・白と銀色に輝く都市が湾曲した入り江を取り囲んでいた。濃いサファイア色の水は、鮮やかでエキゾチックな色彩で満たされた木と花で生み出された豊かな古典的な美を反射していた。

 

<南極に存在する地下基地とは?>

私たちの領域(次元)は宇宙空間と惑星表面にあって、決して惑星内部ではありません。地下の都市と通路は過去の遺物です。私たちは温かい湖のある南極の地下基地を維持しています。これは私たちの先祖が暮らしていた地下都市のエリアで、当時、氷冠はありませんでした。

 

 

 

『戦慄のUFO&宇宙人ミステリー99』

 衝撃写真493点 エイリアンと人類の恐怖の真実

 悪魔の協定か?ダルシー人体実験、エリア51のエイリアン、ピラミッド型のUFO登場、地球内部の異星人基地、フリーメーソンとNASAの陰謀

 南山宏   双葉社   2010/7/14

 

 

 

 <惑星セルポとの極秘交換留学>

アメリカ政府は、選り抜きの軍人12人を惑星セルポへと交換留学に送り出していた・・・。

 

・このイーブ1号が宇宙船の残骸から見つかった通信装置で故郷と交信し、相互理解を深めるための交換留学生計画が進んだという。その故郷がレティクル座ゼータ連星系の惑星セルポだ。

 

・留学メンバーを乗せ、宇宙船が出発したのは、1965年、彼らは、表向き行方不明者とされ、身元や記録が抹消された。ネバダ実験場にセルポの宇宙船が到着し、地球に残るセルポの留学生と入れ替わりに旅立ったのだ。

 

・ふたつの太陽が輝き、地平線下に沈むことはほとんどない星で、大気や気圧は地球とあまり変わらなかったという。メンバーはあたたかく迎え入れられ、平等で穏やかな社会生活をつぶさに観察、体験することができたらしい。

 

・8人が持ち帰ったデータや資料、高度科学技術を示す品々は、その後の米軍の科学技術の発展に寄与したようだが、彼らの肉体はセルポ滞在中に強い放射能にさらされていたため次々に病死したとされている。

 

 <大統領が異星人と交わした密約>

・1954年のアイゼンハワー政権時代に、連邦政府憲法の抜け道を使ってエイリアンの一種族グレイと「グリーダ協定」と呼ばれる密約を交わしたというのだ。協定の内容は、エイリアンの先進科学テクノロジーを学ぶのと引き換えに、エイリアンが牛馬を捕獲し、人間にインプラント技術を試す実験を許可するという恐ろしいものだ。アメリカが標榜する人道的行為とは正反対の内容である。

 

・反人道的な密約に至った理由は、米政府の力ではエイリアンと戦っても勝てないため、相手の条件をのむ内容になったと告白している。

 

・実際、その後のアメリカ国内では、家畜類が不可解な死を遂げるキャトルミューテーションや人間が誘拐されるアブダクション事件も頻発した。

 

元海軍の情報部員だったクーパーは、MJ12がアイゼンハワーによって創設されたこと、生きたエイリアンの写真が添付された資料に目を通した経験などを赤裸々に告白。

 

密約を交わしたのは、大きな鼻が特徴のラージノーズ・グレイであることまで暴露した。

 

・MJ12絡みで爆弾発言を連発したクーパーだが、2001年納税拒否の逮捕時に撃ち合いになり警察に射殺されてこの世を去ってしまった。政府の巧妙な口封じだったのだろうか?

 

 

 

『カルト・陰謀 秘密結社 大事典』

アーサー・ゴールドワグ  河出書房新社  2010/10/9

 

 

 

エリア21、ステルス飛行物体、マジェスティック12、異星人による誘拐、神の宣託

エリア51はさまざまな名称で知られている。グルーム湖、ドリームランド、居心地の良い空港、ネリス試験訓練場、パラダイス・ランチ、ザ・ファーム、ウォータータウン・ストリップ、レッド・スクエア、「ザ・ボックス」、そしてもっとも味もそっけもない名称は空軍飛行検査センター第3派遣隊である。エリア51ネヴァダラスヴェガスの北約200キロにある極秘の軍事基地で、ここからもっとも近い街は約40キロ離れたところにあるネヴァダ州レイチェルだ。

 

エリア51には、宇宙人の死体を解剖した医療施設や、生きている宇宙人を尋問する取調室がある。UFO研究者のなかには、施設を実際に運営しているのは宇宙人だとほのめかしているものさえいる。グレイ、ノルディック、インセクトイドなどと呼ばれている生命体(異星人)が、実質的に支配しているこの地球を搾取し、人間からDNAを採取していたとしても、私たちの政府はなす術なく、見て見ぬ振りをしている、と彼らは主張しているのだ。

 

・『蒼ざめた馬を見よ』(1991)の著書で、超陰謀理論家のミルトン・ウィリアム・クーパー(1943-2001)は、UFO、外交問題評議会、『シオンの長老の議定書』、エリア51はすべて同じものの一面だと述べている。彼は国防長官ジェームズ・フォレスタル(1892-1949)はベセスダ海軍病院の16階の窓から突き落とされた死亡した、と語っている。彼は、仲間であるマジェスティック12(宇宙人に関する調査、および接触・交渉を秘密裏に行ってきたアメリカ合衆国政府内の委員会)のメンバーが異星人の侵入者と結んだとんでもない取引に反対した後、「退行期うつ病」で病院に監禁されたのだという(クーパー自身、大勢の人が納得できない理由で、アリゾナ州アパッチ郡の警察に殺されてしまう)。

 

・話をクーパーに戻そう。彼によると、ジョン・F・ケネディを暗殺したのはリー・ハーヴェイ・オズワルドではなく、(なんと)大統領のリムジンの運転手だった――なぜなら、運転手が実はゼータ・レティキュラ星からやって来た宇宙人であることをばらすと脅されたからである。宇宙競争がインチキだというのは、すでに月には基地があったからである(それが1970年代以来月に人間が行かなくなった理由だ――テレビで月面を歩く光景を放映すれば、宇宙人の存在が暴かれてしまうだろう)。また数多くの火星探査機がうまく作動しなかったのは、火星がすでに南フロリダくらい発展していて、そこに住んでいる住民たちが自分たちの存在をずっと隠しておきたいと願っているからだ。三極委員会が設立された目的は、アジア、ヨーロッパ、北アメリカの関係を改善することではなく、宇宙人と交流するためだった。

 

では、ゼータ・レティキュラ星人に内通した、地球の反逆者とはいったい誰なのか?今までに陰謀理論家について多少読んだことがおありの方なら、答えを聞いても驚きはしないだろう。それはイリュミナティ、フリーメイソンキリスト教の敵である大富豪(世俗主義者とユダヤ人)などといった、極秘裏にロシアのボルシェヴィキを援助したり、アメリカの憎むべき連邦所得税をごまかしたり、2001年9月にツインタワーを倒壊させ、ペンタゴンを攻撃してひとつの世界を樹立しようとしたりしてきたグループである。晩年のクーパーは、自らが数多くの書物で取り上げ、暴露してきた宇宙人の侵入は実際には起きておらず、それは故意に流されたニセ情報の格好の見本だ、と考えるようになった。イリュミナティが、まず陰謀理論家を利用して、地球外生命に関する嘘の噂をばらまき、宇宙人よりはるかに恐ろしい自分たちの正体を一般人の関心から逸らしていたというのだ。

 

・実際に、空飛ぶ円盤のファンが、エリア51――具体的にいえば、ハイウェイ375の南西に置かれた距離標識29から30の間にある、伝説の黒い郵便箱に群がり始めた。その場所には、グルーム湖に向かって伸びる舗装されていない道路がある。ボブ・ラザーという名の男性がここで目撃できるかもしれない信じられないものについて人々に語り始めたときから、見物客が現れるようになった。1989年11月、ラザーはラスヴェガスのテレビのトーク番組に出演し、極秘施設S-4で自分が携わっていた仕事について話し始めた。その施設は、干上がったパプース湖の近く、エリア51の南約15キロにあり、彼はそこで山腹にある格納庫に収容された7機の空飛ぶ円盤を目撃したのだ。話はそれで終わりではなかった。彼はその空飛ぶ円盤の1機の推進システムの構造を解析する作業を手伝っていたのだ(彼が「スポーツ・モデル」と呼んでいる宇宙船は、反重力エンジンで動いていて、燃料にはかなり不安定なエレメント115と呼ばれる物質が使われていることがわかった。後に、ラザーはこの宇宙船の模型を売り出した)。

 

彼はMIT(マサチューセッツ工科大学)やカリフォルニア工科大学で研究していたと話しているが、どちらの大学の記録にも彼の名前は残っていない。ラスヴェガスに来る前、彼はロスアラモスで働いていたが、上級科学者ではなく技術者で、S-4格納庫やエリア51で働いていたと確証できる記録は何もない。ラザーは、政府が自分の信用を傷つけるため、在職していた痕跡を消したのだ、と反論した。1990年には、悪事に手を貸した罪を認めた(彼は売春宿の経理を手伝っていて、盗撮するためのカメラをそこに取り付けていたのだ)。1993年には、映画界に自分の伝記――まず映画化される見込みのない話――を売り込もうとしたりしたが、現在は、ニューメキシコで隠居生活に近い暮らしをしているが、会社も経営し、車を水素燃料で動かす装置の開発にもいそしんでいるという噂もある。

 

<フィリップ・コーソー>

フィリップ・コーソー(1915――1998)は、勲章も幾度か授与されたことのある元陸軍情報将校だったが、晩年には、ロズウェルに関する体験について驚くべき事実を詳しく語り始めた。彼は1947年にカンザス州フォートライリーで勤務していた、という。そのとき、彼はロズウェルからオハイオ州ライト・パターソン空軍基地に運送する積荷を検査する機会があった。そのなかに、ゼラチン状の液体中に防腐処置を施された異星人の死体が入っていたのだ。「異星人は4つ足で、人間のような姿をしていた……奇妙な顔つきをしていて、指は4本……頭は電球のような形をしていた」と彼は述懐している。後に、ペンタゴンの海外先端技術部勤務を任命されたとき、彼はロズウェルで回収された人工物を検査するよう命じられた。その任務の驚くべき意味に気づいた彼は、人工物の構造を分析するために、防衛関連企業の研究開発部門にその物質を「まいた」と書いている。現在、使われている光ファイバー集積回路、レーザー、暗視ゴーグル、そしてケプラー(芳香族ポリアミド系樹脂)はこの残骸から開発された技術のほんの一部だ―――分子ビーム電送機、(思考を機械に伝える)サイコトロニック装置は相変わらず機密扱いになっている。

 

 

 

NASAアポロ計画の巨大真相』 

月はすでにE.T.の基地である

コンノケンイチ  徳間書店   2002/12

 

 

 

アメリカはUFOテクノロジーをすでに手にしている

・「UFOの推進テクノロジーを、ついに人類―アメリカ合衆国が手に入れることができた」

 

・考えてもみてほしい。この技術こそ世界の歴史のなかで、もっとも懸命に探し求められてきたテクノロジーなのである。こうみれば、この開発のために費やされてきた資金には制限などあろうはずはない。UFO情報が政府によって『超極秘』とされ、固く秘守されてきた最大の理由の一つが、今回の『重力制御テクノロジーの完成』という大成果につながったのである」

 

ペンタゴン上級将校による暴露本!

・驚かされたことは、米国防総省の上級将校フィリップ・J・コーソーが、ロズウェル墜落UFOの国家的な研究を暴露した本を1998年に出版したことだった。 

 本書はロズウェル事件の真偽どころではない、コーソーの職務体験を基にした「墜落UFOの収獲」の方法を述べているからである。

 アメリカではベストセラーの上位を続け、『サンデータイムズ』も「ロズウェルの墜落がUFOであることを証言した、もっとも位の高い人物の本」と絶賛している(邦訳『ペンタゴンの陰謀』中村三千恵訳 二見書房)。

 

・フィリップ・コーソーは21年間にわたり米陸軍の情報将校を務め、アイゼンハワー政権時代には国家安全保障会議スタッフなどの要職を歴任、常日ごろから国防に関わる機密に接し、そのため極秘のUFO情報も握っていた。

 

・つまり、UFOの極秘情報に関わる者でも「54-12」から命じられた範囲だけしか知らず、全体は分からないようになっている。それにコーソーの本の内容も準じているからである。コーソーの本も、アポロ計画NASAには何も触れていない。

 

<暴露本に見る恐るべき真実>

・「軍は二つの戦争に巻き込まれることになった。ソ連と異星人との戦いである。異星人の方がソ連よりも、はるかに大きな脅威だった。そこで相手のテクノロジーを逆手に取り、軍需産業に恩恵を与え、宇宙関連の防衛システムを築き上げることだった」

 

・「これには異星人テクノロジーがふんだんに盛り込まれている。レーザー、加速粒子ビーム兵器、『ステルス』技術を搭載した戦闘機など、そのかげで冷戦終結をもたらすことができた

 

・「二番手に甘んじるのはイヤだとばかりに、どこも密かにロズウェルの兵器開発に明け暮れ、ペンタゴンでは異星人テクノロジーの開発戦争が繰り広げられていた」

 

・「検視報告書に述べられたEBE(墜落UFOから発見された生命体で、通称『グレイ』と呼ばれる)は、生物というよりも、長期の時空飛行専用に設計されたヒューマノイドと考えるべきかもしれない。察するところ、彼らは食料も排泄物処理施設も必要としない。肌を通して科学物質を処理し、排泄物を利用するロボットかアンドロイドにすぎない」(註・1980年代、アメリカで「キャトル・ミューティレーション」といわれる年間2万頭も上る牛の大量虐殺事件が起こった。牛の体内からすべての血が抜き取られ、切り口はレーザーで切り取ったように鮮やかだった。これはグレイの栄養素を得るためだった)

 

・「しかし、宇宙船本体はそのままノートンに残され、ノートン空軍基地はさながら空軍とCIAが管理する異星人テクノロジー博物館のようになった。宇宙船を複製する実験と推進システムの応用実験は今なお続けられている」

 

・コーソーは出版後に心臓麻痺で突然死したが、UFOの真実を暴露することは身の危険さえ生じるのである。

 

実用化されたUFOテクノロジー

・コーソーが手掛けたという、UFOテクノロジーは次のようなものである。

▼映像倍増管・・・・・後の「暗視装置」になる

▼スーパーテナシィ・・・・後の「光ファイバー

▼レーザー切断装置・・異星人たちの2万頭に上る家畜虐殺に使用された

▼分子を圧縮した合金

集積回路および超小型ロジックボード

▼移動式原子力発電機・・・・・アポロ宇宙船に使用された

ガンマ線照射食品・・・・・どんな食品も常温保存できる

▼グレイのヘアバンド・・・・第3の脳・誘導システム

▼加速粒子ビーム兵器・・・電子を刺激する強力光線「SDI迎撃ミサイル」に応用。

▼電磁推進システム・・・・・ステルス機に使用。

劣化ウラン発射体・・・岩窟深くで爆発する弾頭、湾岸戦争で使用。

 

アメリカ(ユダヤ勢力)はロズウェルUFOテクノロジーを利用することによって、現在の世界一極支配を作り上げたのである。

 

 

 

 ペンタゴンの陰謀』

(新兵器開発に隠された驚愕の事実)

(フイリップ・J・コーソー著)  (二見書房)  1998/2

 

 

 

ペンタゴン(米国防総省)とエイリアンとの交渉>

・ロズエル事件のファイルより開発可能なテクノロジーのリスト「暗視装置、光ファイバー、驚異の繊維、スーパーテナシティ・ファイバー、レーザー、分子を圧縮した合金、集積回路および超小型化したロジックボード、イオン小型原子炉、ガンマ線照射食品、第3の脳誘導システム、粒子ビーム兵器、電磁推進システム、ケプラー防弾チョッキとステルス機、劣化ウラン発射体等」である。

 

ロズウェル事件で回収されたシリコンウェーハーは、回路の小型化を可能にし、15年後には、初のマイクロ・コンピューターを生みパソコン革命をもたらした。パソコンもレーザーもUFOの超テクノロジーから生まれたといえる。

 

著者は、1960年代の2年間、中佐としてペンタゴンの陸軍研究開発局の海外技術部に籍を置いた。

 

・「私はそこで、二重生活を送っていた。普段は、兵器研究者として、そしてその裏では、私は情報将校として、トルードー中将の相談役を勤めていた。私に託されたファイルには、陸軍の最高機密がぎっしりと詰まっていた。1947年7月、ニューメキシコ州ロズウェル郊外で空飛ぶ円盤が墜落し、ロズウェル陸軍航空基地第509大隊が残骸の回収に当たった。ファイルにはそのときの残骸や情報が収められていた」。

 

・「大きさは子供と変わらない。といっても子供ではない。こんな大きな風船型の頭をした子供がどこにいる?容貌は人間と似ているがとても人間には見えない。両目は黒くて大きかった。鼻と口はことのほか小さく、切れ込みのようだといってよい。耳は顔の両側がへこんでいるにすぎない。皮膚は灰色がかった茶色で、髪は生えていなかった」。

 

・「異星人が食料や排泄施設を必要としなかったのは、ロボットかアンドロイドのような存在だったからだ。つまり、宇宙飛行や目的地での任務遂行のためにわざわざ作られたのだ!?」、「ロズウェル事件から50周年にも米空軍はあらためて事件を否定する発表を行なっている」。

 

 <政府はさらなる隠蔽を行なう>

・「1962年に国防省補佐官は、報道陣を前にしてこう言った。『未確認飛行物体の情報が国家の安全保障にかかわることであれば政府は、国民はおろか、議会にも通告しない』」。

 

 

 

『たどりついたアイヌのモシㇼでウレシパモシリに生きる』

水谷和弘  はる書房    2018/10/12

 

  

 

<縄文・アイヌ文化を伝える土地に住む>

・10年ほど前に私は8年間借りていた荷負の家を買いました。その我が家の土地と家の周りの私が管理している畑から石器をはじめ多彩な物たちが出土します。

 磨石や石皿、削器(スクレーパー)、石斧、ナイフ型石器などの遺物が出てきた場所は山の中腹、周囲は畑と山林で小高い山も奥にあります。細

石器も数多く、石器の加工場があったことが分かります。アオトラ石や黒曜石の石器の完成美品も出てきました。

 この地域に現在3世帯しか暮らしていませんが、かつてはアイヌの世帯が53あったと聞きます。私の畑のあたりは、エカシ(長老のこと、ホピポイ部落長)が住んでいた所だとアイヌの古老の男性が教えてくれたことがあります。

 

・石器以外にも土器も多数破片で出土していて、平取町立歴史博物館に預けてあります。その土器片は沖縄中期から擦文時代のもので、さらに収集した、もしくは収集しきれない陶器と石器のスクレーパーなどを造ったときに生じる細片が畑から出ます。

 近隣には「荷負2遺跡」と「荷負小学校遺跡」と「荷負ストーンサークル跡遺跡」がある平取町全体で100を超す遺跡があるという話です。我が家の周りに盛土が崩れないように設置された石も、元はストーンサークルの石だったと知人は言っています。さらに古老から、平取にストーンサークルは13ヶ所あったと聞かされました。

 

・また、我が家から200メートル離れた所に湧き水がありますが、その水は大切に利用されてきたと思います。元の家の持ち主曰く、家より25キロほど離れた岩志地という所にある鍾乳洞の絵が描いてあった岸壁は戦争中セメントを作るため壊したが、家の入口に置いてある石はそこの鍾乳石だと教えてくれました。絵は見ることができませんが、その鍾乳石はいまだに私の家にあります。

 縄文時代の生活道具――石器だけでなく土器(草創期から晩期)、また擦文土器、そしてかなり古い陶器の破片からビール瓶やガラス片までが出てくる。そんな大地に私たちは住んでいるのです。

 

・かつて、ここはホピポイ部落と呼ばれていました。でも、アイヌ語のホピポイの意味は私には判りません。しかし、アイヌ語地名を漢字にして当てはめるとき、ニオイを荷負(逆から読むと負荷)とするとは、なんて先住民族アイヌに対して失礼な卑劣なことでしょうか。こんなところにも、言葉が奪われ文化が奪われている。土地が盗られ、心が囚われていったことを私なりに知りました。

 

・ちなみに、ニオイとは樹木が多い所、あるいは木片がごちゃごちゃある所という意味があるとか、のようです。ニオイに限らず北海道の地名はアイヌ語由来が多く、市町村名のおよそ8割がアイヌ語から来ているそうです。

 私の畑から出てくる遺物はさまざまな時を刻んでいます。すなわち、この場所は縄文の草創期より近現代までの複合施設だということです。そして、縄文人アイヌであることを間違いなく証明できる遺跡なのです。

 なお、擦文土器というのは、北海道や東北北部で出土する土器のことで、木のヘラで擦った文様が多く見られたので名付けられたといいます。そして、この土器の使われた7~13世紀の文化を特に「擦文文化」というようです。13世紀後半からは「アイヌ文化」という名でくくられて、北海道全体がこの文化を共有することになったといわれています。

 

・17日の北海道新聞朝刊が、日高管内平取町沙流川水系額平川の支流で、縄文時代の石斧材料として重要な「アオトラ石(緑色片岩)」の露頭が確認されたことを報じていた。

 

・なお、このアオトラ石はアイヌ文化期にも丸木舟の製作に用いられていたという。いくらでも鉄器があった時代なのに、にわかに信じがたいが、何か丸木舟製作に特別な信仰との関わりがあったのであろうか。

 

<“民族”として根源に繋がっていればいい>

アラハバキ」を絆につながる民族、東北{蝦夷}も、三内丸山の時代――縄文時代前期にはすでにアイヌと交流があった。このことは北海道アイヌの大地から出た「宝物」=黒曜石・アオトラ石が、津軽海峡を渡り本州各地に旅をしていることで分かる。

 つまり、本州の遺跡から北海道産出と分かる黒曜石・アオトラ石が出土しているのだ。黒曜石・アオトラ石は狩りの道具や武器に加工でき、また穴開けや肉削ぎ等の各種道具になり、鉄器が一般に流通する室町時代以前、貴重な物であった。

 

<伝統儀式か無用の殺生か、生きることは殺すこと>

・2007年4月、北海道は知事名で、1955年に支庁長と市町村長に対して出した通達を撤廃した。アイヌイオマンテを野蛮だと事実上禁止した通達だ。これには北海道アイヌウタル協会の撤回要請があったようだが、道が国に諮って動物愛護管理法に抵触しないという判断も出たことで撤廃したという。

 が、このニュースが流れると、ウタリ協会や知事に抗議の電話やメールが相次いだという。ネット上でも、批判や誹謗が渦巻いていた。もちろん、撤廃を支持する声も上がる。

 

イオマンテは?「カムイ送り」、神の国に<カムイを>返す儀式です。クマ<キムンカムイ>とともに暮らし、ともに遊び、ともに苦しみ、ともに生きる、心と心がつながり一体になる。

 生きるということは、殺すことを内包する。殺さなくっては生きていけない。

 

<季節を知るアイヌの星座>

・印象的なのは北斗七星の話です。北斗七星はチヌヵルクㇽ[我ら人間の見る神]という名の星座ですが、その姿を見せるとき、冬はクットコノカ[仰向けに寝る姿]、夏はウㇷ゚シノカ[うつ伏せに寝る姿]と呼ばれる。星の1年の奇跡が、あたかも神が寝姿を変えて季節を教えてくれるというわけです。

 

<聖なる地、コタンコㇿカムイが来るところに>

・ソコにはシマフクロウがやってくる。ソコには白いカラスがやって来ている、そうです。

 私は、鳥が来る意味を聞きそびれましたが、おそらく八咫烏神話と似たように、カムイの伝言をする聖なる鳥だと思う。

 八咫烏は、熊野本宮大社主祭神素戔嗚尊のお仕えで、太陽の化身(太陽の黒点だという説もある)、導きの神だという。日本サッカー協会のマークに使われたので有名になったが、あの3本足は天・地・人を現すとか。

 シマフクロウは、アイヌ語でコタンコㇿカムイ=集落(部落)を護る神さまだ。カムイチカㇷ゚=神の鳥とも呼ばれる知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』に収められた「銀のしずく降る降るまわりに」も、コタンコㇿカムイが主役で登場する。

 古代の“日本人”は鳥に霊能力があるとしていた。八咫烏が、ほぼ伝説の初代天皇を熊野から大和へ導いたというのだから。ほかにも古神道アイヌの世界観は共通項が多いと思う。

 シンクロが当然のように起きていた。ソコではエカシ(先祖の翁)がいつも祈りを捧げている、エカシがソコに居るようだった。

 聖地はなにげなくソコにある。磨き抜かれた聖地。それらの聖地はすべてつながり、聖地の経路をつくっていることをタモギタケが教えてくれた。

 

<良き隣人ではなかった和人>

北海道に移り住み20年ほどですが、アイヌに対して、いまだ勘違いな歴史観を持っている日本人がいることを時折強く感じます。

 

・まだ茅葺きの家に暮らしている――日本人と違わない暮らしをしています。

 

土人という表現を聞くことがある――非道な同化政策のなかで定められた「北海道旧土人保護法」を引きずった誤った表現です。

・純粋なアイヌはいない――アイヌ民族はいますし、血の濃さで決めることは誤りです。

 伝統的生活空間(イオル)・伝統文化も含んで考えます。多神教アニミズムアイヌの世界観を持つアイヌ文化を大切に暮らす者も含むと私は思っています。

 

アイヌ文化は一つだ――本来は長を中心に置いた家族単位の共同体が育む部族文化です。したがって、共通の基層文化はありますが、部族によって、言葉や儀式、習俗、刺繍や文様、さまざまな異なる面を持っています。

 

アイヌは乱暴者――どこからそんな考えを仕入れてきたのでしょうか。中央政権に服わぬ民という政権側の見方を受け継いで、無自覚のまま敵対しているところから出た表現なのかもしれません。

・搾取と自然破壊を行なう「良きシサムではない」敵対する和人に対して、服わぬ民は戦で臨み、あるいは集団蜂起をしました。よく知られているものでは、東北での東北アイヌ蝦夷阿弖流為の戦いと、蝦夷地でのアイヌによるコシャマインの戦い、シャクシャインの蜂起、クナシリ・メナシの蜂起があります。

 

オキクㇽミカムイは宇宙人なの?

平取町は、現在もアイヌ民族が多く暮らしていることで知られている。

私が住む平取町荷負には、「オキクㇽミカムイのチャシとムイノカ」があります。2014年には国指定文化財「名勝ピㇼカノカ(アイヌ語で美しい形)」に加えられています。

 

チャシとは居城や祭祀の場などを言い、平取町にはその跡がたくさんありますオキクㇽミカムイの居城と伝えられる美しい崖地には、蓑の形をした半月形の岩があります。ムイノカは蓑のことで、ここにオキクㇽミカムイが妻と住んだと言われ、蓑は妻が置いていったものだそうです。とても大事にされ、祀られてきた場所であり、この地域の人びとから敬意が払われていたとのことです。

オキクルミ」は「カムイユーカラ」(神謡)に登場する人間(アイヌ)の始祖となる英雄であり、アイヌに生活文化や神事を教えました。「アイヌラックル」の別名とも言われますが、こちらは「人間くさい神」。また、知里幸恵さんのアイヌ神謡集では、「オキキリムイ」と表記されています。

 

オキクルミはシンタ(ゆりかご)に乗って東の空から降臨したという言い伝えもありますしアイヌラックルは燃え盛る炎の中から生まれたと山本多助さんの記した「アイヌ・ラッ・クル伝」にあります。ネットで検索してみると、次のような面白い紹介がありました。

 

義経神社は、寛政10年頃、近藤重蔵源義経公の像を寄進して創立したとされる古社である。一般に義経は奥州平泉で自刃したとされるが、実は密かに三廐から蝦夷地に渡ったとする義経北行伝説が古来よりまことしやかに伝えられている。

もともと平取にはアイヌ民族の始祖に関する伝説が多く、神社のあるハヨピラ(武装した崖の意)もアイヌの文化神オキクㇽミカムイが降臨した土地と伝えられていた。オキクㇽミカムイは家造りや織物、狩猟法など様々な知恵をアイヌに授け、アイヌ民族の生活の起源を拓いたとされる神であるそこに義経北行伝説が入り込み、知人がアイヌを鎮める政策としてオキクㇽミカムイと義経が意図的に結びつけられ、いつしかアイヌはオキクㇽミカムイと義経を同一視するようになった明治11年に平取を訪ねたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと、当時のアイヌは、義経を自分たちの民族の偉大な英雄としてうやうやしく祀っていたことがわかる。

 

古代遺跡とUFOは何らかの関係があるということは現代においても否定しがたいものがあるが、UFO研究団体CBA(コズミック・ブラザーフット・アソシエーション、宇宙友好協会)は、各地の民族伝承を調査する中で、アイヌの文化神オキクㇽミカムイの伝説に着目、オキクㇽミカムイは宇宙人であると結論づけた。

 

義経が自害せず北へ逃げたという「義経北行伝説」は江戸時代から広められ、北海道から海を渡ってチンギス・ハーンになったというお話もあるほど、蝦夷地でカムイになっても不思議はないかもしれませんが、アイヌの人たちはどう思ったのでしょうか。

 2006年にプレステで発売された「大神」というアドベンチャーゲームには重要なキャラクターとして「オキクルミ」が登場します。炎の中から生まれたり、生活文化を伝授したり、大活躍するオキクㇽミカムイを宇宙人と見るのは、ナスカの地上絵と宇宙人を結びつけるのと近い感性なのでしょう。いずれにしろ、オキクㇽミカムイはアイヌの人たちにとっては身近な存在なのだと思います。オキクㇽミは実は宇宙人だったという話には、私はロマンを感じないのですが。

 

森町の環状列石と私の夢

・北海道一の規模、森町にある環状列石は、過去に拘束道路建設のため破壊の危機がありました。

 ある日、運転手兼同行者としてアイヌの友人に連れられ、森町の役場、教育委員会に赴きました。アイヌの彼は、そこで「俺の先祖の墓であり、貴重な考古学的資料となる環状列石を破壊するな、むしろ観光の資源とせよ」と申しいれたのです。その夜、私は、こんな夢を見ました。

部族に飢饉が襲い、疫病が流行ります。長がシャーマンに懇願すると、シャーマンは精霊を呼びます。そして、部族に住むすべての民が各々大小の石を持ってシャーマンのいる広場に集まってきます。病気の者もおぶわれながら、あるいは足を引きずりながら小石を大切そうに持ってきました。すべての民が揃うと、輪になって祈りを捧げ、シャーマンを通して精霊の声を聴きます。その導きに従って、部落のみなが新しい地へ移動することになり、その列が続きます。

 

 ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用

義経=ジンギスカン説)

義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日[1])と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。

 

(室町から現在までの大まかな流れ)

源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。

 

江戸時代中期の史学界では林羅山新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され徳川光圀蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。

 

沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏の近藤重蔵や、間宮林蔵、吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には『金史別本』の内容が広まり、幕末まで源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。

 

シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。小谷部や末松らは、この説に関連し軍功に寄与したため勲章を授与されてもいる。義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。

 明治以後の東洋史などの研究が西洋などから入り、史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北・北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。

 戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説はとしてアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなっている。現代では、トンデモ説、都市伝説と評されている。

 新井白石

新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いている。しかし義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。

  

 

 

『図解 アイヌ

角田陽一   新紀元社  20187/7

 

 

 

<天地の図>

アイヌモシリ(人間世界)からふと空を見上げてまず目に入るのはウラルカント(霞の天)。春の訪れとともに靄が湧く空だ。続いてランケカント(下の天)、人間世界の山頂近く、黒雲が渦巻き白雲が乱れ飛ぶ空。その上はニシカント(雲の天)、ここは英雄神アイヌラックルの父であるカンナカムイ(雷神)の領分だという。その上がシニシカント(本当の空の天)、チュブ(太陽)とクンネチュブ(月)が東から西へと歩む空。さらにその上はノチウカント(星の天)ここまで上がれば、もう人間は息ができなくなる。さらにその上が最上の天上界であるリクンカントシモリ(高い所にある天界)だ。カントコロカムイ(天を所有する神)の領分で、人間の始祖が住む。金銀の草木は風を受けてサラサラと鳴り、川も文字通り金波銀波を立てて流れ下る。以上、六層の天上界だが、アイヌ語で「六」は「数多い」との意味を併せ持つため、必ずしも六層でなくても良いともいう。

 

一方でアイヌモシリの下、死者の国であるポクナモシリ(あの世)は、人間世界同様に山川に草木があり、死者の魂は生前同様に季節の運行に合わせて暮らす。だがその運行は人間世界とすべて反対で、この世が夜ならばあの世は昼、この世が夏ならあの世は冬になるという。そしてポクナモシリの下はテイネポクナモシリ(じめじめした最低の地獄界)。英雄神に退治された魔神や生前に悪行を重ねた者が落ちるところで、落ちた者は決して再生させてもらえない。

 

カムイモシリ

・野生動物とは、神が人間に肉と毛皮を与えるためにこの世に現れた仮の姿である。神の本体は天界で、人間と同様の姿で日常生活を営んでいる。そんな神の世界こそがカムイモシリ。山中に、海中に、天空に神が遊ぶ。

  • 神は神の国で、人間同様の生活をしている

カムイモシリとは、カムイ(神)が住まう国アイヌ伝承における「天界」だ。それは文字通り天空にある。一方で人間世界に住まう熊の神のカムイモシリは山の奥の水源にあるともされ、そしてレプンカムイ(シャチの神)など海神の住まいはならば海中にあるとされている。

 ここで神々は人間同様の姿で、人間同様に住まい、着物を着て暮らしている、というのが伝統的なアイヌ文化における神の解釈だ。熊の神ならば上等の黒い着物をまとい、天然痘の神ならばあられ模様の着物を着ている。そんな姿で男神なら刀の鞘に入念な彫刻を施し、女神ならば衣装に心を込めた刺繍を縫い描いて日がな一日を過ごしている。そして窓からははるか下方に広がる人間世界を眺める。

 

神は空飛ぶシンタ(ゆりかご)に乗ってカムイモシリと人間界、さらには地下のポクナモシリ(冥界)を自在に行き来するが、人間が生身でカムイモシリに行くことはできない。人間が天界に行くためには肉体と魂を分離、つまり死ななければかなわない。

 

コタンカラカムイ

天地創造の神・コタンカラカムイ。巨大な体躯と寡黙な仕事ぶりを武器にアイヌモシリの山河を築き、人間を生み出した。しかし聖書の神のような絶対的な創造主ではないのが特徴。

 コタンカラカムイという言葉を訳すれば「村を作った神」。しかし彼が作り上げたのは一村落のみならず天地全体。つまりアイヌ神話における創造神である。そのためモシリカラカムイ(国を作った神)の別名を持つ。だが万物の創造主ではなく、天界の神の命を受けて創造業務を請け負ったとされる。巨大な容姿の男神で、海を渡っても膝を濡らすことがなく、大地を指でなぞった跡が石狩川になり、鯨をそのまま串焼きにして食べたという。

 

コタンカラカムイは楊の枝を芯にして土を塗り付け、人間を作った。だから人間が年老いれば、古い楊のように腰が曲がる。そして地上に近い、草の種の混じった土でアイヌ民族を作ったので、アイヌは髭が濃い。和人の髭が薄いのは、地中深い、草の混じらない土で作られているからだ。

 

チュプカムイ

・天空を照らす太陽を司るチュプカムイ。女神であるとされ、アイヌ民族は太陽の昇る方角を神聖なものとした。日の神が魔神に誘拐されれば天地は暗闇に包まれる。それが日食である

  • 天地を黄金色に染める女神

太陽はアイヌ語でチュプと呼ばれる。その太陽を司る神が、チュプカムイ。一般的には女神とされている。

 

ポクナモシリ

死者はポクナモシリへ行く。人間世界と同様に季節があり、人は狩りや山菜取りで永遠の時を過ごす。一方で悪人や正義の神に退治された魔神が落ちるのはテイネポクナモシリ(最低の地獄)、湿気と臭気が覆う世界だ。

  • この世とあの世は、すべてがアベコベ?

明治初期、布教活動の傍らでアイヌ文化を調査した英国人宣教師、ジョン・バチュラーの書籍によれば、アイヌにとっての「あの世」は3種類ある。ひとつは善人の魂が向かうカムイモシリ(神の国)、次に普通の人が行くポクナモシリ、そして悪人や退治された魔神が落ちるのがテイネポクナモシリである。だが、カムイモシリは外来宗教の「極楽」「天国」の影響から生まれたもので、本来はポクナモシリとテイネポクナモシリの2種のようだ。

 ポクナモシリはアイヌモシリ(人間世界)同様に草木が生い茂り魚や獣が遊び、死者はその中で、生前同様の暮らしを永遠に続けるという。

 

・人間世界同様、あの世でもコタンコロクル(村長)が集落をまとめ上げるが、閻魔大王ギリシャ神話のハデスのように、死者の国全体の長はいない。そして面白い事に、現世の事があの世ではすべて反対になる。この世が夜なら、あの世は昼。この世が夏なら、あの世は冬になる。だから死者が来世で不自由しないよう、夏に死んだ者は冬靴を履かせた上で埋葬したという。

 

オキクルミ

・雷神がハルニレの木に落雷して生まれたオキクルミは、アイヌラックルの別名を持つ。陽の神をさらった魔神を退治する英雄であり、ユーモラスなトリックスターでもある。アイヌ神話における文化神、英雄神。

 

落雷の炎から生まれた英雄神

成長した後に、再度天下り、人間たちに火の使用法や家の作り方、狩りの方法、そして天界から密かに盗み出した穀物の種を元に農業を伝え、ともに平和に暮らした。だがある年のこと、豪雪によって鹿が大量に餓死し、アイヌたちは飢餓に苛まれる。そこでオキクルミの妻は椀に飯を盛り、家々の窓から差し入れて施しを始めた。だが不埒な男が椀を持つ手の美しさに見とれ、家に引き込もうとする。その瞬間に大爆発が起き、男は家ごと吹き飛ばされてしまった。オキクルミ夫妻はこの無礼を怒って天界に帰って行ったが、人間を見捨てることなく神聖なヨモギを束ねて人形を作り、自身の身代わりの神として地上に残していったという。

 

・ところでオキクルミにはサマイクルという兄弟、もしくは相棒がいたとされる。北海道胆振日高地方ではオキクルミは正義、サマイクルは乱暴者で間抜けとされるが、逆に北海道東部や石狩川上流ではサマイクルが正義、オキクルミは間抜けとされている石狩川上流、カムイコタンで川を堰き止めて村の滅亡を企んだ魔神を退治したのは、サマイクルである。

 

ミントゥチ

河童は北海道の河にも棲む

河童は日本各地に伝承がある。だが「カッパ」の名称は関東周辺で、九州ではカワタロウがガタロ、中国地方ではカワワラワ、東北地方の北部ではメドチとそれぞれ名前も変わる。北海道のアイヌ伝承にも、「カッパ」に該当する妖怪がいる。それがミントゥチだ。

 

<キムンアイヌ

里には人間が住む。一方で山には人とも人外のものともつかない者が住んでいる。そんな「山人」の伝説は日本各地に残るが、アイヌの伝説にも同様の逸話がある。それが「キムンアイヌ」……山の人だ。

  • 山中に棲む人外の巨人

柳田国男の『遠野物語』には山中に住む人とも妖怪ともつかない存在「山男」が登場するが、同様の逸話は日本各地にある。優れた体格の男性(女性がいるかは不明)で、衣服を着ている場合もあれば半裸の場合もあり、

餅や煙草を差し出せば山仕事を手伝うなど、人間に対しては概して友好的である。そんな山人、山男の逸話はアイヌ伝説にもある。

 

キムンアイヌ、訳すればそのまま「山の人」。里の住人の3倍の体格を誇り、特別に毛深く、口から牙がつき出している。着物は着ているが、何を素材にした布地か毛皮かはわからない。腕力にも優れ、鹿でも熊でも虫のように捕えてしまう。時には人を殺して喰らうこともある。だが煙草が大好物で、煙草を差し出せば決して悪さをしない。

 

刺青や耳輪はしない。時に人間をさらって自分たちの仲間に加えるが、そんな者は刺青や耳輪をしているからすぐに判る。(女性の個体もいる?)

 

樺太のキムンアイヌは訛ってキムナイヌと呼ばれ、さらにロンコロオヤシ(禿げ頭を持つ妖怪)の別名通りに頭頂部が禿げあがっている。彼らは人間に友好的で、重い荷物を代わりに背負ってくれる。

 

ウェンカムイ

アイヌ世界の神は、豊穣の神ばかりではない

・「ウェン」とは、アイヌ語で好ましくない状況全般を意味する言葉である。ウェンカムイとは、精神の良くない神、つまり邪神や魔神の類である。

 

・神は人間に豊穣のみを約束するものではない。人間にあだなす魔の神、悪霊、それこそがウェンカムイである。太陽を誘拐する悪の権化から、水難事故や病魔を運ぶ疫病神まで、自然界は悪魔に充ち溢れている。

 

コロポックル

「かわいらしい」だけではない小さき人

アイヌの伝説には、コロポックルと呼ばれる小さき人が登場する。一般的には「コル・ポ・ウン・クル」(蕗の葉の下の者=蕗の葉よりも背が低い人と紹介され、北海道の観光地では蕗の葉をかぶったキャラクターの木彫などを目にすることも多い。

 

童話作家の作品にも登場するアイヌの小人伝説「コロポックル。その実態は「かわいらしい」ばかりの物ではない。正体は千島列島北部のアイヌか?伝染病を恐れる彼らの風習が物語として伝えられた?

 

パコロカムイ

・中世から近世にかけて北海道に伝来し、アイヌ人口減少の一因ともなった天然痘アイヌはあられ模様の着物を着た疱瘡の神「パコロカムイ」の仕業として恐れ、患者が出れば全村で避難するなど策を講じた。

  • アイヌモシリに災厄をもたらす疫病神

 天然痘が北海道に侵入したのは鎌倉、室町時代と考えられる。江戸時代寛永元年(1624年)の記録に「蝦夷地痘疹流行」の一文が初めて現れる。以降、江戸時代を通じて流行が繰り返され、和人との交流が盛んな日本海沿岸においては特にアイヌ人口が激減する原因ともなった。

 アイヌ民族天然痘を「カムイタシュム」(神の病)と呼んで恐れ、パコロカムイのしわざと信じた。

 

・幕末になって時の函館奉行がアイヌ対象の大規模な種痘を行い、明治以降に種痘が義務化されるに及び、パコロカムイの影は去ることになる。

 

 

  

『図説 日本の妖怪百科』

宮本幸枝  Gakken 2017/6/6

 

 

 

相撲好きでおとなしい ケンムン

ケンムン」は「ケンモン」ともいい、奄美諸島一体で伝えられる妖怪である。

 奄美の民話では、ケンムン月と太陽の間に生まれたが、天に置いておけないため、岩礁に置いてきたと伝えられる。しかし、海辺ではタコがいたずらをしにくるので、ガジュマルやアコウの老木に移り棲むようになったという。

 その姿は小児のようで、足が長く、座るとひざが頭を超す。髪や体毛が赤く、よだれは青く光るという。猫のような姿であるという話も多い。

 ケンムンの中には、頭に皿を持っているというものもあり、人に相撲を挑んだりするなど、「河童」によく似た習性が伝えられている。相撲をとるときは皿を割れば勝てるのだが、負けたケンムンが一声鳴くだけで、何千何万とケンムンの仲間が集まってくるため、手加減する必要があるのだそうだ。

 また、ケンムンと漁に出ると、大漁になるが、とれた魚はすべて片目がとられているという。棲んでいる木を切られた際には、切った人間の目を突くといわれており、目に何か特別なこだわりがあるようだ。

 ケンムンは、もともとおとなしい性格で、人を害することはあまりないといわれる。第2次世界大戦前まではよく目撃されていたらしいが、GHQの命令により奄美のガジュマルの木が大量に伐採されたことを機に姿を消したという。

 

ガジュマルの木に棲む精霊 キジムナー

沖縄県のマジムンの代表格

ガジュマルの木に棲み、長く赤い髪をした子どものような姿をしているという沖縄県の妖怪「キジムナー」は、鹿児島県の「ケンムン」や「河童」と似た姿や習性が伝えられている

 その呼び名は同じ沖縄県内でもさまざまで、「キムジン」「ブナガヤ」「セーマ」「アカガンター」などとも呼ばれる。人をだましたり、いたずらをすることが好きで、仲良くなると山仕事や漁を手伝ってくれるなど、人間ととても親しい存在だったようである。タコを非常に嫌うといい、キジムナーがいたずらをしないように、赤ちゃんにおしゃぶりの代わりにタコの足をしゃべらせることもあったそうである。

旧暦8月10日のヨーカビーには、キジムナーが点す“キムジナー火”が現れるといわれ、その火は触っても熱くなく、海に入っても消えないといわれた。

 

昭和の時代に入ってからも、沖縄の子どもたちのあいだでは“キジムナーの足跡を見る”という遊びがあったという。その方法は、まず、薄暗く、静かな場所で円を描いて小麦粉などの白い粉を撒く。円の中心に、火をつけた線香を立てておき、呪文を唱えて隠れる。20数えてその場所に戻ると、小麦粉にキジムナーの足跡がついているという。

 

また、沖縄県北部の大宜味村では、専用の小屋を建ててブナガヤが出てくるのを夜通し待つ「アラミ」という風習が戦後まで行われていたそうだ。

 

 

 

琉球怪談』 現代実話集  闇と癒しの百物語

小原猛   ボーダーインク  2011/2

 

 

 

<キジムナー>

たとえば沖縄でもっとポピュラーな妖怪であるキジムナーは、戦後という垣根を越えると、急激に目撃例が減少している。取材していく中でも「戦前はキジムナーがいっぱいいたのにねえ」「戦後すぐはいたけど、もういないさ」という、オジイ、オバアの声を聞いた。

 もしかしたら戦争でのウチナーンチュの意識が変わり、キジムナーの存在を受け入れなくなってしまったのかもしれない。沖縄戦、という次元を超えた壁が、怪の世界にも立ちはだかっていることを、身を持って実感した。

 

<戦後の駄菓子 キジムナーのはなし1>

・Nさんはとある離島の出身である。

 Nさんのまわりでは小さな頃から、キジムナーの話は日常的に伝えられてきたのだという。

 その昔、キジムナーは家々を回り、さまざまな人々と物々交換をしていたのだという。

 

・島のキジムナーは、本島のキジムナーのようにガジュマルの樹を住処とせず、洞窟の中で暮らしていたという。

 戦前までは、むらを訪れては食べ物を交換したり、人間に火を借りにきたことさえ、あったのだという。そんなキジムナーも、戦後はぱったりと現れなくなった。

 だがNさんは、幼い頃にキジムナーを一度だけ見たことがあるのだという。

 夕暮れどき、Nさんがまだ子どもの頃、実家の家の近くの浜辺で遊んでいたときのこと。

 一人のキジムナーが、森の中から現れて、Nさんのほうをじっと見ていたのだという。友達数人もその場所にいたが、彼らにはキジムナーを見えるものと、見えないものに分かれたのだという。見えたもの代表として、Nさんはキジムナーに声をかけることになった。

 Nさんは、知っている限りの方言でキジムナーに挨拶をしたが、どれも無視されてしまった。

友達の一人が、駄菓子をくれたので、Nさんはキジムナーのそばまでいって、駄菓子をあげたのだという。

 するとキジムナーはそれを奪ってから、すばやく林の中に逃げていった。それが、おそらく島で見られた最後のキジムナーに声をかけることになった。

 それ以来、キジムナーを「感じた」とか、「らしき影を見た」という話は、何度も耳にしたそうだが、キジムナーに正面で出会ったという話は、あまり聞かれない。

 

小便 キジムナーのはなし2

・Tさんが子どもの頃、Fくんという友達がキジムナーが棲んでいたといわれているガジュマルの木に立小便をしたそうである。

 友達は、えい、キジムナーなんていないさ、怖くない、と大声で叫びながら、木の周囲に小便を輪のようにひっかけた。キジムナーを見たことはなかったが、信じていたTさんは怖くなって一目散に家に帰ったという。

 夕方、気になったTさんは、小便をかけた友達が住んでいる団地へ行ってみた。

 

・すると、部屋の中は見えなかったものの、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についているのが見えた。

 まるでニワトリの足のような、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についていた。

 

・次の日、Fくんは学校を休んだ。そして次の日も、次の日も学校を休んだ。

結局、1週間学校を休んで、帰って来たときにはゲッソリと痩せていた。

学校で久しぶりに会ったFくんは、Tさんにこんな話をしたそうだ。

 小便をかけてしばらくすると、気分が悪くなってきた。

 家に帰ると、立てなくなってそのまま寝込んだ。

 母親がどうしたのかと聞くので、しかたなくガジュマルに小便をかけた、と本当のことを言った。母親はあまり迷信を信じるほうではなかったので、風邪ぐらいにしか考えていなかった。

 ところが、Fくんが寝ていると、ベランダにまっ赤なキジムナーが何人もやってきては、ガラスをぺちゃぺちゃ、たたき出した。母親も一緒になってそれを見たので、すぐさま知り合いのユタを呼んで、その夜にお祓いをしてもらった。

 ユタがいうには、この子がしたことは悪質だったから、お灸をすえる意味でも、1週間は熱を引かさないようにした、とのことだった。

 その言葉通り、Fくんはちょうど1週間後に熱が引き、学校に来ることができたという。

 

赤ら顔  キジムナーのはなし3

・Wさんが子どもの頃、学校に行くと、友人の一人がおかしなことになっていた。

 顔は赤く晴れ上がり、はちきれんばかりにバンバンになって、非常に苦しそうだった。本人も、息ができんし、と喘いでいる。先生が寄ってきて、どうしたね、と聞くと、その生徒はこんな話をしたそうだ。

 朝起きてみると、顔が赤く腫れ上がって、息ができない。オバアに相談すると、「これはキジムナーが悪さをしているから、ユタに見てもらいに行こう。ただし、そのユタは午後からしか見れないから、昼過ぎに学校に迎えに行くまで、学校でおとなしくしている」と言われたそうだ。

 

・次の日には、その子は何事もなかったようにケロッとして、学校に登校してきたそうである。

 

今帰仁の小さなおじさん

・Fさんが早朝、自転車に乗っていたとき、目の前の空き地に、知り合いのオジイが倒れていたという。

 死んでいるのかと思って自転車を降りて近寄ってみると、酒のちおいがプンプン漂ってきた。おい、このオジイ、酔っぱらってるし。Fさんがオジイの肩に手をかけて、起こそうとしたその時。

 倒れているオジイの周囲に、5人くらいの小さなおじさんが、オジイを背もたれにして座っていたのだという。

 オジイを揺らしたものだから、びっくりした5人のおじさんたちは悲鳴を上げながら、一斉に走って逃げたという。

 おじさんたちは空き地の中へ一目散に逃げると、そのままパッと掻き消えるようにしていなくなった。

 

・Fさんが眉をひそめながら自転車に戻ろうとすると、自転車の周囲にも小さなおじさんたちが複数いた。

 Fさんがびっくりして「うわあ!」と叫ぶと、それに逆にびっくりしたのか、クモの子を散らすようにして逃げ去ったという。

 おじさんたちは、それぞれ上半身は裸で、眉毛がつながっていたのが印象に残っているという。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

小さいおじさん(ちいさいおじさん)>は、日本の都市伝説の一つ。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めている。

『概要』 目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度。窓に貼りついていた、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などの話もある。ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されている。

 

キジムナー(キジムン)>は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。 沖縄県を代表する精霊ということで、これをデフォルメしたデザインの民芸品や衣類なども数多く販売されている。

多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴。

『概要』 「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。

 

 

 

『ニッポンの河童の正体』

 飯倉義之  新人物ブックス  2010/10/13

 

 

 

<外国の河童たち>

 ○○は外国の河童?  -河童は日本固有種かー

・では日本以外の土地に河童は存在しないのだろうか?どうやらそうではないようだ。世界各地の妖怪を紹介する本や文章ではしばしば、「妖怪○○は××国の河童である」というような紹介され方がなされるように、海外の妖怪を日本の河童にあてはめて紹介することはままある。たとえば、韓国のトケビがそれである。

 

 「トケビは韓国の河童」か?

・韓国の「トケビ」は山野を徘徊する小鬼で、その正体は多く血がついたことにより化けるようになった、箒(ほうき)やヒョウタンなどの日常の器物である。トケビは人間を化かしたり、道に迷わせたり、野山に火を灯したり、快音を出して驚かせたり、夜に人家に忍び込んだり、格闘を挑んで負けたりと、ほとんどの怪しいことを一人でまかなう「万能妖怪」として大活躍を見せる。そのユーモラスな風貌と多彩な行動は、よく河童と比較される。

  

・前項でも河童の親類として紹介した奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のキジムナーもまた、そうした「万能妖怪」という点でトケビとよく似た存在である。小柄でザンバラ髪の童形、好物や嫌いな物がはっきりとしており、ユーモラス。人間に関わり、からかう。トケビとケンムン・ブナガヤ・キムジナーと河童とは、性格や行動が共通していることは一目瞭然である。

  

・しかし重大な相違点もある。トケビは器物の化け物、ケンムン・ブナガヤ・キジムナーは樹木や森林のムン(化け物)としての性格が強く、河童の存在の根幹である水の化け物という性格を持ち合わせない。性格の一致と属性の不一致が、河童とトケビの間にはある。

 

 「ヴォジャノイはロシアの河童」か?

・他に多く「外国の河童」として挙げられる存在に、中国の河水鬼や水虎、ロシアのヴォジャノイやルサールカ、チェコのヴォドニーク、ポーランドのハストルマン、ドイツのニクス。フィンランドのネッキ、スコットランドのニッカールやケルピーなどが挙げられる。

これらの存在はいずれも水界に棲む存在で、人間や牛馬を水の中に引き込むとされ、彼らに挙げる季節の祭りなどが催されることなどが、河童と同一視される点である。

  

・しかしこうした水精の属性や行動以外の点では、河童と彼らの隔たりは大きい。河水鬼やヴォジャノイ、ヴォドニーク、ハストルマンは髭を蓄えた老人とされ、湖底で自分の財産である牛馬の群れや財宝を守って暮らし、機嫌が悪いと川を荒れさせるという固陋な存在である。ニクスやネッキ、ニッカールは成人男性の姿で現れて、荒々しく牛馬や子どもや婦女子を奪い去る肉体派である。ネッキやその同類が、半人半馬や馬に化けた姿を取るというのは、馬の姿をしていて人を水の中に誘い込むケルピーとも共通する。

  

・ケルピーに代表される「ウォーター・ホーズ」伝承は、ヨーロッパ各地にあまねく広がっており、龍の妖怪伝承といえば、ロッホ・ネス・モンスター、すなわち「ネッシー」である。ケルピーは河童と同じくらい、ネッシーにも近しい存在なのだ。

 

・ルサールカには溺死者の浮かばれぬ霊というイメージが色濃くついており、この点で幽霊や産女、雪女に近い属性を持つといえる。

  どうやら「××の河童だ!」と言われてきた妖怪たちは、河童と重ね合わせて理解できる部分とそうでない部分とを、同じくらいの分量で持ち合わせているようである。

 

 やはり「河童は日本の河童」か?

・水はわれわれの生存に欠かせないと同時に、恐るべき存在であるがゆえに、水の神と水の妖怪を持たない文化はない。そのような意味で、「河童は世界中に存在する」。

  

・しかし今見てきたように、そうした河童的な存在がどのような姿で現れ、いかなる言動をとるかは、文化によって全く違う。ロシアの冷たい湖水に棲むヴォジャノイは老人の姿で重々しく、スコットランドの湖沼地帯に棲むケルピーは活動的で攻撃的だ。そして里近くに多くの川や小川、沼や溜め池をもつ日本の河童たちは、人に近しく愛嬌があり、どこか深刻でない表情を持つ。一方で、日本の河童に近い韓国のトケビ、奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のクジムナーは、水の精という性格をほとんど持っていない。

  

・こうした水の神・水の妖怪の多様なありようは、各々の文化において人と水とがどう関わっているかに規定されている。その意味では、「河童は日本にしかいない」。

  妖怪を比較することはすなわち文化を比較することなどである。「妖怪○○は××国の河童である」という言い切りは、あまりにも大胆すぎるもの言いであるだろう。

 

 

 

『絵でみる江戸の妖怪図巻』

 善養寺ススム、江戸人文研究会     廣済堂出版 2015/9/3

 

 

 

<キジムナー 琉球伝承>

・ガジュマル、赤榕、福木、栴檀の古木に棲むと言われる精霊。

 姿は様々で、髪は肩まであり、全身が赤い子供、または小人で、手は木の枝のようだとも言われる。地域によっては真っ黒な大人サイズだったり、睾丸が大きいとされることもある。

 木に棲んでいるが、主食は魚介類でグルクンの頭や、魚の左目が好物だと言われる。魚好きなので仲の良い漁師の手伝いをするというが、蛸や屁が嫌いなので、魚を捕っている時に屁をひると、消えてしまうらしい。

 悪戯もよくする。人を誑かし、土を飯だと騙して食べさせたり、木の洞に閉じ込めたり、寝ている人に乗ったりもするし、夜道を行く人の灯を消すのも十八番だ。

 さらに、木を伐ったり、虐めたりすると、家畜を殺したり、船を沈めたりもする。昼間は人間には見えないので、キジムナーの悪口を言うと、意外に側にいて聞いていて、夜になって仕返しされるという。

 

くへた  伝承 越中国富山県)、神、招福

越中国立山の予言神で、5年以内に疫病の流行すると予言しに現れた。自分の姿を写し、それを見れば病を避けられると告げた。

 

ケンムン 伝承、奄美大島、妖怪

・【キジムナー】と【河童】を合わせたような妖怪。姿は様々だが、ほとんどが、5~6歳の子供のようで、全身赤みがかった肌に毛が生えているそう。頭には皿があり、油や水が入っているという。ガジュマルの木に棲み、木の精霊ともされ、勝手に木を伐ると、眼を突かれて腫れてしまうとされる。蝸牛や蛞蝓が好物で、ケンムンの棲む木の下には蝸牛の殻が多く落ちていると言われる。

 河童のように相撲を取ったり、片方の手を引っ張ると、もう片方と繋がって抜けるともいう、性格は友好的だが、中には悪いのもいて、子供を攫って魂を抜くとも言われる。

 

コロポックル アイヌ伝承/小人

・《蕗の下に住む人》の意。アイヌ以前に北海道に住んでいたとされる小人で、アイヌ伝承に登場する。

 住んでいたのは、北海道から樺太南千島列島におよび、各地に伝承が残されている。蕗の下というのは、蕗を傘にしている他、蕗で屋根を葺いた家に住んでいたからとされる。身長は1尺(30センチ)くらい。それよりも小さい、1~2寸(3~6センチ)の小人は【ニングル】と呼ばれる。

 

・十勝地方の伝説では、コロポックルは、昼は隠れて暮らし、夜になると5人から10人くらいで、川に数艘の丸木舟を浮かべ、魚を捕っていた。捕った魚の一部はアイヌの村に持って行き、チセ(家)の戸の隙間から手だけを出して差し入れていた。これは土地の恵みを分かち合う、当然の行為だったのだろう。しかし、決して姿は見せなかった。

 

座敷童  伝承 全国 妖怪、招福

・座敷童は陸奥国岩手県)を中心に全国で信じられている家の妖怪。座敷や蔵に棲み、その家の繁栄を守っていると言われる。

 おかっぱ頭の幼児が最も多く、家によっては15歳くらいの子供もいる。また、老婆の場合もあり、性別も一定していないし、複数が現れる家もあるという。

 座敷や土間で、幼い子供と遊ぶが、糸車や紙、板戸を鳴らす悪戯もする。座敷童が消えた家は、衰退したり火事や災害に見舞われるという。その場合、逃げて行く座敷童に道で出会うことがある。「何処へ行くのか?」と声をかけると、「あの家はもう終わりだ」と答えるという。

 

【蔵ぼっこ】陸奥国花巻、遠野の蔵に現れる座敷童。蔵の中に籾殻などを撒いておくと、朝には小さな子供の足跡が残されているという。

 

覚(さとり)  『今昔画図続百鬼』  全国 妖怪

・【天邪鬼】の類にも同名のものがいるが、こちらは唐(中国)伝承の妖怪。体中黒い毛に覆われた霊獣で飛騨や美濃の山深くなどに棲む。人の言葉を話し、人の心を読む。人に害はおよぼさず。捕まえようとしても、人間の意思を読んで、先回りして逃げてしまうという。

 

天狗 伝承 全国 神、妖怪

・天狗はもともと《隕石》のことをいい、唐(中国)伝承では虎に似た妖獣とされていた。『日本書紀』では《アマツキツネ》とされる。そのため《天狗》の字を用いる。

 

・やがて、仏教を妨害するとされ鳶のような姿で表わされ、次第に人間化して行った。その代表が【外道様】とも呼ばれるように、修行僧が己の知識に奢って悪心を抱いた末に、天狗と化したとされるもの。そのため知識が豊かで【神通力】を用い、弟子や家来を沢山抱える。

 山岳信仰では修験道の寺院や修行僧を守り、修行の地である山の結界を管理する。一方で、天候の怪異や【神隠し】を起こすとされる。

 天狗の代表は《日本八大天狗》と呼ばれる八人の天狗である。筆頭の【愛宕山太郎坊】は、京都・愛宕山に祀られる天狗で、【栄術太郎】とも言われる。

・その他に、江戸時代中期に作られた祈祷秘経の『天狗経』に《四八天狗》があげられていて、それぞれに逸話がある。さらに異名や天狗伝承は数知れない。

 

【尼天狗】『今昔物語集』に載る天狗。仁和寺の円堂に棲むという女の天狗。

 

鞍馬天狗鞍馬山に祀られる大天狗で日本八大天狗のひとり。牛若丸に剣術を教えたとされる。【僧正坊】や京の一条堀川の陰陽師・鬼一法眼と同じとされる。

 

【木の葉天狗】地位の低い天狗で【烏天狗】に似る。【白狼】とも呼ばれる。小僧の姿に化け、山を行く人や物を背負って小銭を稼ぎ、天狗の仲間達を支えているそう。

 

【守護神様】三河地方の天狗で、山の神とされる。毎月七日は山の忌み日とされ、入ることを避ける。

 

【僧正坊】鞍馬山の僧侶だったが、修行中に悟りを開いたと、自分の知識に驕り、年老いてなお死に欲を増し天狗となる。死後も僧侶の高い位に執着し続けた。

 

【空神】紀州の天狗。空を自由に飛ぶため、こう呼ばれる。

 

【天狗隠し】【神隠し】に同じ。天狗によって攫われたとする。行方不明事件のこと。

 

<鬼 伝承 全国>

・鬼は様々な妖怪や怪異に使われる名称。古代(平安中期以前)の王朝と闘う異部族や怪異など、外敵の他、人の心の中が変化する鬼もある。実態のあるものもあれば、実態のないものもあり、また、悪の象徴でもありながら、地獄では番人をする仏教を守る側にもいるという、様々な面で両極に存在する怪である。

 牛の頭に、虎の腰巻き(パンツと呼ばれるのは明治以降)として描かれる姿は、江戸時代に固定化された。

 

・また、流行病も鬼の仕業とされた。他の病気は《罹る》と呼ばれるが、風邪は鬼が悪い病気を引き込むので《引く》と呼ぶ。

 

【青鬼・赤鬼】

・物語には、赤・青の鬼が登場する。色の他にも目がひとつや複数あるもの、口がないものなど、様々な姿が語られ、描かれ《異形》を象徴する。

 

【悪路王】陸奥国岩手県)・常陸国茨城県)の鬼。坂上田村麻呂に討たれ、鹿島神宮に納められたとされる。

 

【悪鬼】世に悪をバラ撒く鬼達のこと。かつて流行病は鬼の仕業とされていたので、蔓延すると、人々は鬼の退散をひたすら神仏に願った。

 

【一条桟敷屋の鬼】『宇宙人時拾遺物語』に登場する鬼。ある男が都の一条桟敷屋(床の高い建物)で遊女と臥していると、夜中に嵐となった、すると「諸行無常」と言いながら通りを歩く者がいるので、蔀(上げ戸)を少し開けて覗くと、背丈は建物の軒ほどあり、馬の頭をした鬼だった。

 

茨木童子】【酒呑童子】の家来。

 

【牛鬼】石見国島根県)で語られる。水辺で赤子を抱いた女が声をかけてきて、赤子を抱いてくれと言ったり、食べ物を求めたりする。赤子受け取ると急に石のごとくに重くなり、動けなくなったところで牛鬼が現れ襲われるという。

  また、牛鬼が女に化けて出て騙す。四国や近畿地方には《牛鬼淵》や《牛鬼滝》など、牛鬼の棲む場所が多くある。

 

【温羅】かつて吉備国岡山県広島県)に渡って来た鬼の集団で、鬼ノ城を築き周辺を支配した。天王に対峙したため、吉備津彦に討ち取られた。斬られた首は死なず、犬に喰わせて骨にしても静まらず、地中に埋めても13年間もうなりを発していたと言われる。

 

【鬼の手形】陸奥国岩手県)伝承。盛岡の町では【羅刹】に荒らされて困っていた。そこで、人々は町の神である《三ツ岩様》に祈願すると、羅刹はこの岩の霊力で、岩に貼りつけられてしまう。堪忍した鬼は、二度と現れないという誓いを立てて放免してもらい、その証しに三ツ岩に手形を残して行ったという。これが県名《岩手》の由来とされる。

 

【鬼女紅葉】信濃国(長野県)戸隠や鬼無里に伝わる鬼。平安中期のこと、公家・源経基の子を宿した紅葉は、嫉妬のために御台所(正妻)に呪いをかけ、その罪で都を追われる。鬼無里に流された紅葉はやがて怨念で鬼となり、戸隠山を根城にして、付近の村を襲った。そこで都から平維茂が討伐に出陣し、観音の御使いから授かった《降魔剣》で退治される。しかし、鬼無里伝承では、都の文化を伝えた貴女とされて、尊ばれている。

 

【牛頭馬頭】地獄の鬼のこと。定番の牛の頭の他に、地獄には馬の頭をした鬼もいる。

 

【猿鬼】能登国(石川県)柳田村を襲った、一本角の猿のような鬼。村の岩穴に棲みついたため、氏神によって弓で射殺されたという。

 

【瀬田の鬼】『今昔物語集』東国の国司(地方官)が都に上り、瀬田の橋近くの荒ら家に泊まった夜に出た鬼。逃げて瀬田の橋の下に隠れると、追いかけて来た鬼が、侍を見失ってしまう。しかし、何処かから声がして、「下におります」とばらしてしまう。声の主は何者か知れず、その後、国司がどうなったかも、知る者はいない。

 

【火の車】地獄の鬼が燃え盛る車を引いて、生前の行ないのよくない死者を迎えに来る。『因果物語』では、強欲で行ないのよくない庄屋の妻を八尺(2.4メートル)もある大きな男が連れて行ったとある。連れて行かれる先は地獄。

 

<河童 全国 妖怪、水神>

・河童伝承は、

1.姿の目撃談。

 

2.相撲を挑み、人や馬を水中に引き込む。

 

3.泳いで遊ぶ子供を襲い、尻の穴から手を入れて【尻児玉】を抜く。

 

4.女性に悪戯をして腕を斬られ、その腕を取り返すために《腕繋ぎ》の治療法を伝授する。

 

5.冬の間は山に住む。と多彩。

 

 豊前国(福岡県)の北野天満宮には河童のミイラが伝わる。江戸時代には河童のミイラは猿の赤子とエイなどを組み合わせて作られた。

 

【伊草の袈裟坊】武蔵国(埼玉県)の河童の親分。

【かーすっぱ】【がーすっぱ】駿河国静岡県)、九州で使われる。《すっぱ》は忍者のこと。

 

【があたろう】五島列島で呼ぶ河童。河童というと、川の妖怪の印象が強いが、【海御前】が河童の女親分と言われるように、海にも多くいる。

 

【かしゃんぼ】紀伊国和歌山県)、伊勢国三重県)の河童、【山童】。芥子坊主頭の6~7歳の子供で、青い着物を着ている。

 

【がめ】越中国富山県)、能登国(石川県)、筑後国(福岡県)の河童。筑後国久留米では女性に取り憑き病気にする。能登国ではよく子供に化け、越中国では鱗形の模様のある甲羅に、腹には赤いふさふさの尾があるとされ、千年生きて【かーらぼーず】になると言われる。

 

【川天狗】武蔵国多摩川では悪さはしない河童。村人に熱病に効くみみずの煎じ薬を伝えた、津久井では夜の川漁に現れ、大きな火の玉を出したり、網打ち音の真似をする。