日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。(1)

 

『日本UFO研究史

UFO問題の検証と究明、情報公開

天宮清    ナチュラルスピリット  2019/1/20

 

 

 

  • 日本最古参のUFO研究家で、元CBA(宇宙友好協会)会員が、

60年以上に及ぶ空飛ぶ円盤・宇宙人研究の成果を集大成!

生涯をかけて追ったUFOや宇宙人の正体を明かす!

 

松村雄亮(まつむら・ゆうすけ)自らがコンタクトし、「緊急事態」を告げられる

・1959年7月10日、松村雄亮は東京における打ち合わせを済ませ、午後11時半頃、横浜桜木町に着いた。車を拾おうと思ったが、なかなか来ないので、人通りの少ない道を野毛の方へ歩いて行った。

「日の出町の交差点を左折し、しばらく行くと行く手の交差点から1台の車が曲って来て、その前照灯で3人の女性がこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違う時に見るともなく見ると一番左にいた女性が微笑みかけたように思われた、10メートルほど行き過ぎてから何となく気になってふり返ってみると、すでに3人の姿はかき消すごとくにそこにはいなかった。そして上空には、フットボール大の大きな円盤が横浜松竹の屋根をすれすれにかすめるごとく右から、左へゆっくりと街路を横切ったではないか。全身が凍りつく思いであった。では今の女性は宇宙人だったのだろうか。まさか!すぐ後を追った。そこはビル街で横へそれる道はない。1分とたたぬ間の出来事である。しかし彼女らの姿はない」

 

・まず最初は1959年1月16日午前10時ごろ、松村宅上空でゆっくり旋回する「スカウト・シップとおぼしき円盤」を撮影した事件である。当時まだ松村は、アダムスキーなどのコンタクト・ストーリーを信用していなかった。したがって、当然この円盤写真は幸運な偶然によって撮影されたものと考えていたという。しかしそのあと、同誌(『宇宙友好協会の歩み』)では「今から考えれば宇宙人が意識的に文字通りスカウトに来ていたものと思われる」という記述が続く。

 

・その後、家族と共に目撃すること数10回、1958年7月28日には再び自宅の庭で「スカウト・シップ」をカメラで撮影したという。そして最初のテレパシーらしきものを受信して以後は、相次いで不思議な出来事が起ったという。

 

宇宙人の女性・男性と会見する

・1959年7月17日、松村雄亮は東京における打ち合わせの後、夕方7時頃に横浜桜木町駅に着いた。駅前から市電に乗ろうとして、雨の中を停留所に向かう途中、7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた女性と再会する。茫然と立ちつくす松村に対し、彼女は誘導するごとく先に歩き出した。2人は野毛の喫茶店で相対して座った。

 年の頃は21、2才であろうか、ワンピースの上に首から下げた直径5センチメートルほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいること等を打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうと言った。この時2人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかった

 

・何か証拠が欲しいと思った松村は、目の前の美しい「宇宙人」に「今日の記念にあなたの胸にある装飾品をいただきたい」と申し入れたという。すると彼女はにっこり笑って「いずれ差し上げることもあるかもしれません」と答えた。

 

・1959年7月20日、夕方6時から東京・渋谷でCBAの理事会が開かれることになっていたので、4時頃、松村雄亮は渋谷・道玄坂を歩いていた。すると何者かに左肩をたたかれた。振り返ると品のよい外国人紳士が立っている。「一目見ただけでそれが宇宙人であることが諒解できた」。

 このときも「宇宙人」は松村を喫茶店へ連れて行く。この男性は「日本における宇宙人達のキャップであった」。このとき「宇宙人」から一つの約束が与えられた。それは、「来る25日高尾山頂に円盤が飛んだら、松村を円盤に同乗させる。もしその日に飛ばなかったら都合が悪いのだから後日を待って欲しい」というものであった。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ)ついに円盤に乗る

・翌26日の午前5時頃、山頂で解散。松村雄亮と丹下芳之は横浜まで同道し、午前8時頃そこで別れた。横浜線の車内ですでにテレパシーによって行くべき場所を指定されていた松村雄亮は、横浜駅から直ちに現場に向かったという。

 指定された場所では渋谷で会ったキャップを含めて3人の「宇宙人」が出迎えてくれた。街並みを外れて歩いていると、真っ黒な前方に薄く光る円盤が、浮かび出るように着陸していたという。

 近づいてみると、円盤の直径は30メートルぐらいで、上部のドームに窓はなく、下部は全体に丸みを帯びてギアは見当らなかった。側面の一部が開くとスルスルと梯子が伸びてきて、内部に入る。内部はいくつかの部屋に分かれているらしく、5坪ほどの部屋に招き入れられた。乗員は12名で、うち1人だけが日本語を上手に話し、他は皆英語しか話せなかったという。

 円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。しばらくして、ある一室に案内された。

 この部屋はかなり広く百畳はあったようだった。通路もそうだったが、照明が見当たらないが、かなりの明るさであったという。入った部屋の半分ほどを占める半円形にテーブルが並べられ、そこにずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央に長老と思われる宇宙人が座っていた。その正面にテーブルと椅子が一つ置かれていた。

 松村は緊張してその椅子に座った。宇宙人はみな首から裾まで垂れたガウンをまとっていた。右端の宇宙人が英語で話しかけた。問答はすべて英語で行われたという。

 この問答は三つの要点に絞られる。

 

緊急事態を新聞に発表しようとするも、宇宙人に止められる

  • 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
  • われわれとしては、将来の地球再建のために1人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
  • 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい。

 

 

あらかじめ用意していた質問や円盤の中古品の話を出すどころではなかった。いきなりこのような話が始まり、その話題で終始したという。

 

・話し合いの間に果物と飲み物が出された。果物は刺身に似ており、赤、黄、緑、紫などの色のものが皿の上にきれいに並べられていたという。コップは上に向かって階段状に広がっている珍しい形であった。グレープジュース色の液体が入っていた。

 残念なことに果物には手をつける余裕がなかった。飲み物はいい香りがしたという。出発した地点に送り返されるまで、約7時間地球を離れていた。

 

・1959年8月18日の打ち合わせに参加したのは松村雄亮、久保田八郎、丹下芳之、小川定時、桑田力であった。「嘲笑されようとヤユされようと、新聞を通じなければ多くの人に知らせることはできない。とにかく事実を事実として新聞に発表しよう」と決めた。

 ところがこの日、松村雄亮が新橋駅に到着するや、宇宙人が姿を現し、「新聞を使ってはいけません」と言われてしまう。

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  • 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

 

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  • 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

 

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))

 

「地球の軸が傾く?」のはなぜ「1960年」とされたか

・高梨純一が入手した「短い文書」を読むと、どこまでが「宇宙情報」としてCBA幹部たちが共有していたかが不明である。

 

・まず地球の軸が急激に傾くとされる「1960年」について説明しよう。

 1958年、米国テキサス州の円盤愛好家レイ・スタンフォードは弟と連名による著作『Look Up』を自費出版した。それを入手したCBAは、その『Look Up』を翻訳し、1959年8月に邦題『地軸は傾く?』として発行する。

 

・この『地軸は傾く?』の中の「………最も影響の大きい『地軸傾斜』はここ数年内に発生するでしょう。しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し小規模な変動はそれ以前にも突発するかもしれません」とある。

 この部分が原著『Look Up』では「1960年」となっていたが、CBAはこの箇所を「196X年」として出版したのだ。徳永はこのいきさつを知る立場にいたと推定される。

 

レイ・スタンフォードは「1960年大変動」予言に関わったのか

・「レイ・スタンフォードは霊能者(サイキック)で、意識不明のスタンフォードを通じて、様々なアクセントと抑揚による『語り』があり、それらの存在はエーテル界の『白い兄弟たち』とも呼ばれた。彼らはスタンフォードの声帯を借りて語った

 

・見えない霊的存在からの意志と霊媒による肉声で伝える行為から類推されるのは、霊界人による「大変動予言」の問題である。1954年に「1955年に大変動が起こる」という霊界宇宙人サナンダからの予言を受信したのは、シカゴに住む54歳になるドロシー・マーティンであった。

 それは自動書記と呼ばれる心霊的なメッセージ受信によって筆記された。もちろんその予言が外れたので、今日の世界が存続しているわけだが。

 レイ・スタンフォードの声帯を借りて語る「ソース」が、もし「1960年大変動」という予言にも関係があったとしたら、日本に騒動をもたらした元区はレイ・スタンフォードに語りかけた霊界の「白い兄弟たち」ということになる。しかし、それを確認することはできない。

 

「何年何月何日に世界が終わる」という予言もまた、何度も繰り返されてきた。

・「大変動」「最後の審判」の伝説と、「何年何月何日に世界が終わる」という予言は同じ一つの終着点「大変動」「世の終わり」へと向かっていた。しかし、「大変動」「最後の審判」の伝説の流れは「そのときは誰も知らない。ただ父だけが知っておられる」「宇宙人にも分からない」と言い逃れ、「世界が終わる」という予言の流れは「それは何年何月何日」と予言され、そのつど外れてきた。

 

・「神あるいは主」は「そのときは誰にもわからない」で終わるのが定石で、「それは何年何月何日だ」とするのが「予言的霊能者」の役目であったようだ。信じる人々は予言が外れる度に繰り返し失望させられてきた。20世紀となり、米国予言の「1960年」を受けて、CBAに所属する日本人が緊急文書を作成し、それが新聞社に流れて波乱を巻き起こすことになった。

 

トクナガ・ミツオの弟が明かす「ボード事件」の詳細

相手は「天の神様」「サナンダ」と名乗った。サナンダとは「イエスが金星で生まれた名前」であるという。また通信文に見られる「ワンダラー」「リンゴ」という言葉は、ウィリアムスンが受信した相手の通信文にも見られるし、日本のボード通信にも見られた。

「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂を指し、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「リンゴ」がなぜそうした意味になるのかというと、地球にまかれた種子(魂)が腐らないように(任務を忘却しないように)することを塩漬けにしたリンゴに例えたものである。

 

・「ワンダラー思想」において、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂のことである。しかし、真性宇宙人との接触者である松村雄亮はこのような概念を否定していた。

 

・筆者の隣にいた久保茂が松村に質問した。「惑星から惑星へと生まれ変わる魂というものはあるのか」と。すると「それはありません」と松村は即答した。

 筆者が思うに、肉体の死によって分離した魂というものは、円盤なり宇宙船に回収されて運ばなければ、他の惑星には行けないということではないか。「死んで、他の惑星へ転生する」という概念は、個人的なロマンとしてなら許されるかもしれない。しかし、それを「メッセージ」として、事実として発信するのは問題が大きい。

 それは霊界所属の自称宇宙人によってなされてきた。その目的とは何か。まさか1997年の「ヘブンズ・ゲート」事件(1997年3月、ヘブンズ・ゲ-ト[天国への門]と呼ばれるカルトが、カリフォルニア州サンディエゴ市北部で「ヘール・ボップすい星接近に合わせて」として集団自殺し、死者39人を出した事件)のような結末を招くようなものとは思いたくない。

 

・その世界の住民はUFOのように我々の眼には見えるものではない。眼に見えなくても「宇宙人」を名乗ってコンタクトしてくるのだ。

 「宇宙人」を名乗る眼に見えない意識体は、特定の人物を選び「メッセージ」を伝えたりする。その結果、科学的なUFO研究に種々の分派が生まれるという現実となってくるのである。

 

松村雄亮の「宇宙連合」とのコンタクトとCBAの古代研究

松村雄亮と「宇宙連合」とのコンタクトの方法

・松村雄亮が1959年7月に茨城県の某地から、在日宇宙人と共に搭乗した円盤は「実体図」には見られない。元CBA理事・丹下芳之から1961年頃、筆者が聞いたところによると、その最初に乗った円盤の内部には設備はなく、人を運搬するだけのがらんどうの機内であったという。

 

・松村は宇宙連合から連絡を受けると、旅の仕度をして航空会社に予約を入れる。横浜から羽田空港へと向かい、国内便で九州の某空港へ飛ぶ。そして着陸地点である丘陵地帯へと向かうのである。

 空飛ぶ円盤の飛行や母船への搭乗は常に「九州の某丘陵地帯」で行われた。その往復にかかる費用、そしてタクシーを使って現場近くに行くための苦労があった。母船の中は、地球大気と変わらない気温に保たれていたという」。

 

・宇宙連合の円盤は、高梨純一がその実在を強く主張した「土星型円盤」を基調としていた。その円盤には一切窓はなく、外界は天井の「天体スコープ」によって見ることができる。円盤に搭乗する宇宙人は、松村雄亮もその能力を得た「SMVP」、つまり人間レーダーのような能力を持っている。そ能力があれば、航空機の自動操縦を上回る操縦性を持つのであろう。自動操縦が完璧になれば、我々の乗り物が窓を必要とする時代は過去のものとなる。

 

松村雄亮がコンタクトした宇宙連合の円盤

・直径が50~60メートルの司令機は、3段に分かれている。3階建ての建物としてみると、1階と2階の吹き抜け空間に、円形のテーブルを囲む大会議室がある。その周辺の部屋、まず、1階には個室と調理室、倉庫がある。2階には個室と資料室、サロン、小さな会議室が2つある。

 動力機関はほとんど見当たらないが、土星の輪に相当する翼を貫く「ダクト」のみがそれに相当するようだ。

 

・「空飛ぶ円盤実体図 中型機」は直径40~45メートル。内部は2段に分かれている。1階にやはり会議室があるが、テーブルは四角い。1階の周囲には資材室、倉庫、調理室、サロン、そして個室が5室ある。制御盤に4人、操縦席に1人が座る。乗員は約12名となっている。

 

・この夜には、長さ3000メートル級と1700メートル級の母船が撮影された。その状況は『空飛ぶ円盤ニュース』と『空飛ぶ円盤ダイジェスト』に掲載されている。

 

著者略歴  天宮清

・1960年春、弟から平野威馬著『それでも円盤は飛ぶ』を見せられて、すぐに三省堂書店へ行き『これが空飛ぶ円盤だ』『空飛ぶ円盤実見記』『我々は円盤に乗った』『地軸は傾く』などを購入。CBA発行の宇宙シリーズで月刊『空飛ぶ円盤ニュース』を知り、CBAに入会した。

 

・1975年より天宮一家は奈良県天理市に移り、杉山繊維工業の宿舎を拠点に子育てとUFO観測、スライド作品制作とそれを見る天理高校2部生を相手にした啓蒙活動を展開する。

 

・2011年2月5日に娘が心肺停止により病院に搬送され、以後植物状態になって長期入院することとなる。その入院先に妻と毎日通う過程で、新たなUFO目撃撮影や印刷通販による冊子の制作を行う。

 

・著書に『天空人伝承~地球年代記~』(たま出版)がある。山岡徹、山岡由来は筆者と妻のペンネーム。

 

 

 

『UFO事件クロニクル』

ASIOS   彩図社   2017/8/29

 

 

 

リンゴ送れシー事件

・1960年、「宇宙友好協会(CBA)」が密かに地球の地軸が傾く大異変に備えるよう会員に指示していたことがマスコミに報道され、社会問題となった事件。

 

<大災害を予言する文書>

「リンゴ送れシー」という呼び名は、1959年末、CBA幹部・徳永光男が作成したとされる通称「トクナガ文書」の内容に由来する。

 その内容を要約すると、1960年あるいは62年に地軸が傾く大変動が起こるが、宇宙の兄弟が我々を助けに来てくれる。円盤に乗る場所は日本では東日本と西日本の2ヶ所であり、具体的な場所は「C(英語のcatastrophe:大災害の頭文字をとったもの)」の少し前に知らされる。Cの10日前に電報又はその他の方法でCが起こることが知らされるが、その電文が{リンゴ送れシー}ということだった。

 

・11月3日には、「重大な任務を遂行する」資金を確保するため、浅川嘉富、平野威馬雄らが発起人となって「維持会員制度」が設置されている。

 

宇宙人の長老と会見

・ではなぜ、CBAは、1960年に地軸が傾くと信じたのだろう。

 事件を遡るとその発端は、CBAが1959年に翻訳出版した(松村雄亮訳)したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に行き着く。

 本書にはスタンフォード兄弟がコンタクトした宇宙人から知らされたとして、1960年に地軸が傾く大変動が起きると記されていた。CBA幹部はこれをこのまま信じていいものかどうか大いに迷い、原著者の1人、レイ・スタンフォードにこの点を確かめたところ、返書には「私の会っている宇宙人はいまだかつて嘘を言ったことはありません」とあった。そこで直接宇宙人に確かめてみようということになり、1958年6月27日、筑波山上空に松村雄亮代表と幹部が何人か集まってUFOを呼び出した。こととき、実際にUFOらしきものが飛来し、その模様は後日ラジオでも放送されたのだが、肝心の年号については、2名の者の頭に「1962」という数字が浮かんだだけで、決定的ではないとされた。

 

CBA代表の松村はこの直後の7月から宇宙人とコンタクトするようになり、26日には円盤で母船に連れて行かれ宇宙人の長老とも会見したのだが、大変動がいつ起こるか、正確な期日は宇宙人にもわからないということだった。しかもこのとき、慎重に事を運ぶようにと念を押された。そこで日本語版では196X年という形にぼやかして出版した。さらにその後宇宙人からは、新聞を使ってはいけないとも警告された。

 

一般社会からの注目

こうしたなか、1960年1月29日付「産経新聞」がCBAの動きや、荒井、高梨の反論を報じたのを皮切りに、他の週刊誌も関連記事を何本か掲載する。しかもその内容は、「トクナガ文書」の内容を紹介するだけでなく、地球滅亡が近いとして乱行を繰り広げた京都の女子高生や食料を買い込んだ千葉の事件、試験を放棄した広島県の高校生などの他、CBA代表の松村がMIBに襲われた話など、真偽不明の内容が含まれていた。

 

他方、当時の報道を精査しても、事件そのものがそれほど大きな社会問題となった兆候は見当らない。ただし、事件を契機にCBAと他のUFO研究家との亀裂は決定的なものとなり、松村も一時役員を退く。しかし1年後には対立する幹部を放逐し、独裁的な指導者として復帰、以後CBAは独自の宇宙考古学路線をひた走ることになる。

 

宇宙人紳士との愛の軌跡 エリザベス・クラーラー

・エリザベス・クラーラー(1910~1994)は、1980年に『光速の壁を越えて』を出版して世に知られることになる。

 エリザベスはアダムスキーの本を読んで、自分が幼少の頃よりずっと宇宙人と精神的なコンタクトを続けていたことを思いだした。そしてある日、誘われるように近くの丘に行くと、そこには着陸した円盤とハンサムな紳士が彼女を待っていた。

 彼女がエイコンと名乗るプロキシマ・ケンタウリ星系のメトン星からやってきた白人紳士型宇宙人と濃厚なコンタクトをしたのは、54年から63年までの間で、やがて2人は当然のように恋に落ち、エリザベスはエイコンの子供を身ごもることになる。そしてメトン星に4ヵ月滞在し、エイリングという名の男の子を出産する。メトン星は争い事のない自然豊かな楽園で、彼女は地球帰還後、地球を彼らの星のようにすべく世界中を巡り講演活動を行った。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ、1929~?)

・日本のUFO研究家。「空飛ぶ円盤研究グループ」及び「宇宙友好協会(略称CBA)」代表で、自称コンタクティー

 

・1959年、松村が翻訳したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に記された大異変への対応を巡り、CBA指導部が議論を重ねる中、松村は7月に自ら宇宙人とコンタクトし、さらには円盤に乗って宇宙人の長老とも会見したと主張するようになった。こうしたCBA側の動きはマスコミにも知られることとなり(リンゴ送れシー事件)、CBA以外のUFO研究団体・研究家との関係も決定的に悪化した。

 

・一方、アイヌの文化神オキクルミをはじめ、大和朝廷による統一以前に各地の古代日本人が崇拝した神や文化英雄を宇宙人とする見解が宗教団体「成長の家」との対立を招き(成長の家事件)、熊本のチプサン遺跡に無断でアーチなどの建造物を設置したことが熊本県教育委員会より批判を受ける(チプサン遺跡事件)などで世間の耳目を集めた。

 

・1970年6月24日には、ハヨピラでオキクルミカムイ祭1200年式典が行われたが、この直後松村は消息を絶った。

 松村の行方は他のCBA関係者も詳しく承知していないが、ある証言によれば2000年頃、京都の小さなキリスト教団体に身を寄せて亡くなったという。

 

<クロード・ヴォリロン=ラエル(1946年~)>

・「ラエリアン・ムーブメント」の創始者。コンタクティー。フランス生まれ、車専門誌のジャーナリストをしていた1973年12月13日、フランス中部のクレルモン・フェランに近いビュイ・ド・ラソラの噴火口で、「エロヒム」と名乗る宇宙人に遭遇したとされる。

 その際、ヴォリロンは「一つになる」という意味の「ラエル」という称号を与えられ、人類に「真実のメッセージ」を伝えるための「最後の預言者」としての役割を与えられたと主張する。

 またエロヒムからは、彼らの超技術によって、2万5000年前に人間を含む地球の生物が創造されたことを聞かされたとも主張している。

 

・1975年10月7日には、エロヒムと二度目のコンタクトを果たし、彼らの宇宙船で、母星の一つ「不死の惑星」に行き、数々の驚異的な体験をしたともいう。

 1975年末には、エロヒムを地球に招くために大使館を建てるという名目で、「国際ラエリアン・ムーブメント」をスイスのジュネーブに設立。その後、世界中に支部をつくり、会員を集めている。

 公式サイトからダウンロード可能な入会申込書によれば、会員には大きく分けて「国際会員」と「国内会員」があり、活動を積極的に行う国際会員の場合は、年収の7パーセント、国内会員の場合は年収の3パーセントをそれぞれ会費として納めなければならないとされている

 

・ちなみにラエルは、ヘアスタイルをちょんまげにするほどの日本好きで知られ、現在は沖縄に移住しているという。またラエリアン・ムーブメントの日本支部は比較的会員が多く、日本での活動も積極的に行われている。

 

バック・ネルソン さみしい農夫と恥ずかしがりやの宇宙犬

・ネルソンが最初に空飛ぶ円盤を目撃したのは54年。家畜たちが突然騒ぎだしたので外に出てみると空に3機の空飛ぶ円盤が浮かんでいたという。この時彼は3枚の写真を撮影し、その1枚にだけ2機の円盤が映っていた。最初のコンタクトはその約1年後、その時は簡単な挨拶のみで、その1ヶ月後には本格的なコンタクトを果たしている。農場に着陸した円盤からは3人の男と犬が降りてきて、ネルソンは自宅に彼らを招き入れた。3人の男のうち2人はバッキ―と名乗る若者と、名乗らない年寄りの地球人で、もうひとりがボブ・ソロモンと名乗る金星人だった。55年の6回目のコンタクト時、とうとう彼らの円盤に乗せてもらい、月と火星と金星のクルージングに出かけている。

 

オルフェオ・アンジェルッチ   虚弱体質なニューエイジ・ムーブメントの先駆者>

オルフェオ・アンジェルッチは、55年に『円盤の秘密』を出版し世間に知られることになる。この時、彼は43歳。

 彼を一躍有名にしたのは心理学者のC・G・ユングが興味を示したことで、ユングはこの本について「彼の中では真実」と評した。

 

・それは心に直接語りかけてくるテレパシーだったが、同年ネプチューンと名乗る宇宙人と物理的なコンタクトを果たしている。そして、海王星、オリオン、琴座などの宇宙人と日常的にコンタクトし、世界戦争が差し迫っていると警告した。また彼はイエス・キリストも宇宙人の1人だとしている。

 

彼がコンタクト体験で語ったことは、きわめて宗教的で、宇宙人は自由に現れたり消えたりすることができる実体を持たない存在であるとされた。宇宙人が高次元の精神的な存在であるとする言説は、今ではニューエイジの世界ではありふれたものだが、彼が著書で「ニューエイジ」という言葉を頻繁に使っていることと合わせて、ある意味時代を先行していたと言えるだろう。

 アダムスキーがあくまで既存宗教と距離をとったのに対して、キリストも宇宙人の1人としているところも興味深い。

 

<ウッドロウ・デレンバーガー  UFOに人生を壊されたミシンのセールスマン>

・ウッドロウ・デレンバーガー(1916~1990)は、1966年に宇宙人と遭遇した体験がメディアに報道され世間に知られることになる。

 

・その物体は着陸し、中から長い黒髪を後ろに撫でつけた浅黒い肌の男がニタニタ笑いながら降りてきた。その男は怖がる必要はない、わたしはきみの国よりはるかに力の弱い国からやってきたとテレパシーで語りかけ、男は自分をインドリッド・コールドと名乗った。

 その2日後、デレンバーガーはまたもやコールドからのテレパシーを受ける。彼は自分が戦争も貧困もない「ラヌロス」という地球とよく似た惑星からやってきたと語った。その後、コールドは彼の前に度々現れ、デレンバーガーは彼らの宇宙船への搭乗も果たしている。宇宙船の中はがっかりするほど何の変哲もなく、ベッドや見覚えのある商品がおかれ、ラヌロス星は牧歌的でヌーディストの星だったという。

 

・このことが報道されてからというもの、電話が鳴り止まなくなり、UFOをひと目見ようと集まった人々で彼の農場は連日黒山の人だかりになってしまったのだ。彼は家族と共に何度も引っ越しを繰り返したが、事態はさほど好転せず、耐えられなくなった妻は子供を連れてデレンバーガーのもとを去っていった。

 

エドウィン  やむことのないメッセージ>

・1960年、エドウィンは働いていた南アフリカの農場で無線技師募集の求人でやってきたジョージ・Kと名乗る長身で黒髪の男と意気投合する。そしてその男こそコルダスという惑星からやってきたヴェルダーと名乗る宇宙人だった。彼によれば、地球には宇宙人の組織があり、地球人が精神的霊性向上に気付くように観察しているのだという。

 ヴェルダーはエドウィンとのしばしの親交ののち、円盤に乗ってコルダス星に帰っていった。この話はエドウィンの信奉者であったカール・フォン・ブリーデンによって『惑星コルダスからのUFOコンタクト』としてまとめられている。

 この話にはその後がある。宇宙人ヴェルダーはエドウィンへの置き土産として「無線機」を残していた。エドウィンはあちこちいじってみたが、しばらくはありきたりのホワイトノイズしか聞こえてこなかった。

 しかしその6ヶ月後、ウィオラと名乗るコルダス星人と交信することについに成功する

 コルダス星人は通信の担当者を度々変えながら、宇宙と地球の平和、そして宇宙船の技術的な秘密などを延々と語り続けた。この無線による通信は72年まで続けられ、その後も通信方法を変更して続けられたという。

 

核兵器をなくせとか戦争をやめろとか、UFOコンタクティーたちはそういう直接的なメッセージをあまりしない。彼らが繰り返し訴えるのは、ここではない<他所>があるということ。その<他所>では、ここでは日常的な出来事が、逆にまったく非現実的だったりする――それは例えば、核戦争の恐怖におびえたり、子供が飢えて死んだり、理不尽な争いで人が大勢死んだりすること。そんな、この世界の毎日どこかで起こっている、ごくごく当たり前の出来事が<他所>にはないということだ。

 

並木伸一郎  1947~

・超常現象研究家。1973年に設立された「宇宙現象研究会(JSPS)」では会長を務める。

 介良事件や甲府事件をはじめ、日本で起きた奇妙な事件を現地まで赴いて精力的に調査。JSPSの会誌では、そうした事件の貴重な調査記事が、会員の報告と共に掲載されている。

 

・80年代以降は学研の老舗オカルト雑誌『ムー』のメインライターを務める。オカルト作家としては批判を浴びることもあるが、話を創作したり、プロレスやエンタメだと言い訳するようなことはしない。

 また、表面的なオカルト作家の顔とは別に、海外情報に非常に精通したフォーティアン(奇現象愛好家)としての顔を持ち、UFOについても造詣が深い。おそらく現在、日本で最もUFOについて詳しい人物。

 

・普段、あまり見せない顔を見られるものとしては、『ミステリー・フォトニクル』(デジタル・ウルトラ・プロジェクト)に収録されている「ある円盤少年についてのまじめな話」という記事がある。

 これは、かつてのUFOブームの時代に起きた並木氏とある少年との秘話を記した名文である。未読の方にはぜひ一読をお勧めしたい。