日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

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神様あるいは「サムシング・グレート」というような存在がつくった、「知恵の蔵(真理の蔵)」ともいうべき場所がどこかにあって、私たちのひらめきや発想は、その蔵から出てくるのではないかと考えたことがあります。(1)

 

 

『哲学への回帰』

人類の新しい文明観を求めて

稲盛和夫  梅原猛  PHP  1995/9/1

 

 

 

哲学をベースとする社会を

手工業が当たり前の陶器を工業と結びつけた発想とは 梅原

・稲盛さんが手掛けられたセラミックとは、陶器のことです。いままでの常識で考えると、陶器は手工業の世界でつくるのがふつうです。そして工業製品というよりは、芸術品に近いものでした。その陶器を工業と結びつけたのは、いってもれば常識を破ったわけです。なぜ、そのような発想が生まれたのか、そのへんのお話からお聞かせいただけますか。

 

発明とは「知恵の蔵」から漏れてきた真理を表現したもの 稲盛

・私の置かれた環境が、セラミックの研究にとって、決して恵まれたものではなかったことがかえって幸いしたのでしょう。

 私は大学を卒業して碍子メーカーに入社しましたが、そこでは旧来のセラミックしか扱っていませんでした。そこで私はいきなり、ニューセラミックと呼ばれる新しいセラミック材料の研究をすることになりました。

 ところがその会社には、ニューセラミックの研究に必要な装置がほとんどありません。

 

・そのうえ、研究に携わる当時の私は、セラミックについて十分な知識を持ち合わせていませんでした。私の大学時代は、ちょうど終戦後、石油化学工業が大発展を遂げようとした時代であり、化学といえば石油化学、つまり有機化学を志す学生が非常に多かったのです。私もご多分にもれず、有機化学を専攻していました。

ところが石油化学系の会社に就職できず、焼き物、つまり無機化学系の会社にしか入れなかったのです。そこで、旧来のセラミックについてさえもあまり勉強していない私が研究部門に配属され、当時まだ確立されていなかった新しいセラミック材料の合成にあたることになったのです。

 ふつう新しい材料の研究をするのは、関連の文献をすべて読んで、知識を十分に蓄えたうえで進めていきます。その知識の延長線上で、「これとこれを組み合せば、こういうものができるのではないか」と、実験をしていくことが多いのではないかと思います。

 ところが私の場合、そんな基礎的な知識すらもなかったのです。ですから手当たりしだいに実験を進めていくことになりました。毎日毎日、手を替え品を替え、実験を繰り返していったのですが、不思議なことに、わずか数カ月で、私が狙っていたフォルステライトという新しいセラミック材料を合成することに成功したのです。

 私の勤めていた会社には、先ほどもいったように測定装置がありませんから、物性を調べるにあたっては、工業試験場へ出向き、同定してもらい、最終的に合成が成功していたことがわかりました。

 この材料を使った部品が、松下電子工業(当時)のブラウン管の絶縁材料に採用されることになったのですが、当時の私の知識や会社の研究設備を考えると、成功したことが不思議でしようがないのです

 

・そのようなことを思うとき、私にとって最初のファインセラミック材料となるフォルステライトの開発は、いってみれば、まるで歩いていたら大きな石に当たったような感じさえ受けるのです。知的な作業を合理的に進めていた結果、そこにたどり着いたというのではなく、知識もないまま手当たりしだいに、いろんなことを試しているうちに、“まぐれ”で当たったものであるかのように思えるのです。

 さらに不思議なことは、「こんなことはもう起こらないだろう」と思っていたら、その“まぐれ”が、後々もずっと続いたことです。私は、人生のいろいろな場面で、このまぐれ当たりに遭遇しましたこのことを私は、神様あるいは「サムシング・グレート」というような存在がつくった、「知恵の蔵(真理の蔵)」ともいうべき場所がどこかにあって、私たちのひらめきや発想は、その蔵から出てくるのではないかと考えたことがあります。

 その「知恵の蔵」に行くには、何も専門的な知識がなくてもいいのです。ある状態のときに、その蔵から漏れてきたものに触れ、新しいイマジネーションなり、ひらめきなりが得られるのではないかと思うのです。

 そう考えないと、私のような知識や経験のない者が、十分な設備のないなかで、世界に先駆けた発明などができるはずがありません。私は若いころに、そんな不思議な経験を何度もして、そのように考えるようになりました。

 

エジソンにしても、決して知識をたくさん持っていたわけではありません。それなのにひらめきにひらめきを重ね、現在の電気工学の基礎を完成させ、蓄音機から電球まで、現代にも通じるさまざまなものを発明していきました。これはまさに、宇宙の「知恵の蔵」から漏れてきたものをエジソンが感じとって、それを表現したということではないでしょうか。そうでも考えなければ、あれほど次から次へと、インスピレーションを重ね、発明を続けてきたエジソンの業績を理解することはできません。

 アインシュタインにしても同様です。こうしたクリエイティブな業績を残した天才たちは、みな選ばれし人々で、彼らは創造主から「知恵の蔵」への道を教えてもらったのかもしれません。

 そんな彼らが、創造性を発揮して、人類や社会をリードしてくれているように私は思うのです。何のことはない、創造とは宇宙の創造主がそういうふうに知恵を分配してくれて、よき方向に人類を導いてくれている、そんな感じがするのです。

 

私が好きな言葉は「真理は手近に隠れている」  梅原

・新しい発見や発明をするには、いろいろな苦労があったはずですから、いまのお話にはずいぶん謙遜の部分もあるでしょう。それでも人間が、何か大きなものに対する謙虚な心を失わないことは、やはり重要だと思います。

 

・私が昔、湯川秀樹先生からよくいわれたのは、「梅原君、学者というのは知識をたくさん蓄えるものだ。しかし創造というのは、その知識を忘れないといけない」ということでした。知識がなかったら創造はできないのですが、創造するには知識を忘れて、それにとらわれないことが重要だというのです。

 いま稲盛さんは、知識がなかったから新しいセラミックがつくれたといわれましたが、同じことは私の法隆寺柿本人麻呂の説についてもいえるでしょう。私は、法隆寺の再建は聖徳太子の怨念を封じ込めるために行われたと考えました。また柿本人麻呂は、流罪となって刑死した人であると考えましたしかし、これらの説は、学界の常識とはかけ離れたものでしたから、発表した当初は学界の権威たちから「こんなバカな説はない」といっせいに悪口をいわれました

 それでも私には、これらの説を発表するとき、「間違いない」という確信がありました。当時の私には何かが乗り移っていたようで、それが私を通じて語ったとしか考えられませんしでした。それだけに自信というより、「向こうから何かが語りかけてきたものだから、この説は間違いない」と思われたのです。

 これらの説を発表してから、もう30年になりますが、最近は正面きって否定する人はいなくなりました。「真理である」と認めるのは癪なので、みんな黙っていますが、いまでは学界でも定説となりつつあります。

 私がこれらの経験からいえるのは、「真理はいつも発信されている」ということです。ただし、受け止める側が常識にとらわれていると、たとえ真理が発信されていても、それをきちんと受け止めることができません。やはり向こうからくるものを謙虚に受け止める裸の心が必要です。それが真理を発見する第一の条件であると、私には思えて仕方ありません。これは稲盛さんがいわれた、「真理の蔵」の話にも通じると思います。

 私が人から何かを書いてくれといわれて書く言葉は、「真理は手近に隠れている」という言葉です。真理はほんとうは近くに隠れているのだけれど、多くの人はそれに気づかないだけなのです。

 

ないないづくしだったからこそ真理に触れることができた 稲盛

・いまのお話で、少しわかったような気がします。やはり真理というのは、宇宙からつねに発信されているものなのです。そして、それを受け止められる人もいるけれど、大半は知識や常識といったもので凝り固まってしまい、受け止められずにいるのです。「空」というような状態に至ったとき、つまり知識や常識で武装するのをやめて、素直な気持ちになったときにはじめて、真理というものが受信できるのです。

真理は手近に隠れている」と梅原先生はいわれましたが、これはまさに仏教でいう「衆生本来仏なり」ではないでしょうか。みんな自分のなかに本性として仏性を持っているのに、それに気づかずに、遠くにあるものと思い込んでいます。

 

・私の場合、先ほど知識や経験がないなかで、一生懸命研究したという話をしましたが、当時は生きていくのに精一杯という時代でした。私は、最初に入った会社で4年務めたあと、支援をしていただいた方に、京セラをつくっていただき、十分な資金もないまま、27名の従業員を抱えて、その経営に携わることになりました。

 その瞬間から、自分1人だけでなく、従業員とし資金を出していただいた方々すべての命運が、私の肩にのしかかってきたのです。当時の私は、ほんとうにたいへんな重圧を感じていましたので、自分の持てる力を振り絞って、必死にやるしか方法がありませんでした。知識もない、設備もない、資金もないという、ないないづくしでしたが、「何とかして、研究を成功させたい」という必死の思いだけはあふれるほどに持っていました。

 そのため私は、寝ても覚めても研究に没頭し、いわゆる“狂”とでもいうべき世界に迷い込んでしまったかのような、ほんとうにすさまじい働きをしました。そのような強烈な思いで、ひたむきに仕事に取り組んでいたために、「知恵の蔵」から創造主が発信する真理に触れることができたのではないかと思います。

 先ほど梅原先生がいわれたような、知識で凝り固まった自分自身を解きほぐし、素直になるということは、いわば真理を受信するためにアンテナをするすると高く上げることなのかもしれません。また、エジソンの次の言葉は、それを的確に表現しているように思うのです。

天才は99パーセントの汗と1パーセントのインスピレーションによる

 

着想したあとに求められる、実証するための努力 梅原

・私の場合、稲盛さんのように養うべき従業員はいませんでしたが、必死で対象に取り組まないかぎり真理の声は聞こえないことは同じです。

 法隆寺の場合は、法隆寺に何度も行きまして、法隆寺に関する本をほとんど読みましたが、よくわからないところがありました。それで仏像研究の大家に聞いたところ、法隆寺は新しいものが発見されれば発見されるほどわからなくなるということでした。

「わからない」「わからない」と十年ぐらい思いつづけていましたが、何気なく法隆寺の資財帳という法隆寺の財産目録を読んでいるとき、パッと新しい着想が出てきたのです。

 それは聖徳太子の死後23年後、大使の子孫を法隆寺で皆殺しにした現地部隊長、巨勢徳太が、法隆寺に年金のようなものを与えている。これはどういうわけか。

 

・真理ではないかと思われる仮説を発見した瞬間がいちばん楽しいけれど、この論証の労力も楽しい。

 

いまの日本は誰かの思いつきをみんなで潰す社会

・多くの学者にとっては、この順序が逆になります。ひらめきが先ではなく、事実を積み上げるところから始まります。だから、小改良にすぎないものを新学説として発表されることになるのでしょう。そのようなやり方は、単なる事実の延長にすぎませんから、独創的な思想が生まれにくいのです。文献をたくさん読んで、博覧強記であることは、立派な学者の条件の一つでしょうが、それで独創的であろうとするのは難しいことです。

 もちろん、思いつきばかりが先行して、地道な勉強をしないような人は問題外で、「あいつは思いつきをいっているにすぎない」と一蹴されてしまうことでしょう。天才的なひらめきを努力の積み重ねで実際に証明してみせなければ、どんな分野でも一流にはなれないのです。

 

着想を現実化させるには勇気も必要 梅原

・実際、私の場合も「思いつき」を認めさせるのに30年かかりました。私がこれらの説を出したときは孤独であり、専門の学者は認めませんでした。けれど他のジャンルの一流の学者がたいへん応援してくれました。

 

・稲盛さんの場合も、ある着想が浮かんでも、それを実際に開発するには、かなりの勇気がいるのではないでしょうか。そこには学問の世界とは、また違った苦労があると思います。

 

先人のいない分野で新しい製品をつくる難しさ 稲盛

・そんな複雑な構造のものをセラミックでつくれないかという要求を受けたのです。それがなければ、超LSIを心臓部とするコンピュータはつくれないといわれました。

 このとき頭に浮かんだのが、シート成形というチューインガムみたいにしてつくるセラミックの基板でした。セラミックの原料を薄い板状にして、その上にタングステンモリブデンといった、高温でも溶けない金属の微粉末をスクリーン印刷して回路をつくり、それを何層にも積み重ねていく。それを超高温で焼くと、なかに電子回路が何層にも積み重ねられた、積層のセラミック基板ができると考えたのです。

 このように説明すると簡単に聞こえるのですが、実際にやってみると、たいへん難しいのです。

 

新しい構想を思いつくまではいい。難しいのは、それを実際に形にし、さらには採算的にも見合うように、開発していくことです。パソコンに組み込める大きさで、かつ市場で売れるような値段でつくる、大量生産するための体制をつくっていく、それはまさに創造です。先人は誰もいないわけですから、自分たちであらゆる問題を解決しながら、歯を食いしばってやっていくしかないのです。

 実際に、これを成し遂げるには、気の遠くなるような努力と創意工夫の積み重ねが必要でした。日本セラミック協会での講演の帰途、身震いを感じたのは、このときの創造のプロセスを思い出していたからです。この画期的な新製品をきっかけに、京セラは企業としても急激に成長発展を遂げていきました。

 

周りの顔色を気にして、せっかくの着想を捨てる日本人 梅原

・私の研究の場合、調べてみると、同じような説を思いついた人は、ほかにもいました。ところがみんな、結論が学界の常識と矛盾するということで、途中で捨てているのです。こんな説を発表したらボスに嫌われる、自分が学界の孤児になると思って、捨ててしまうのです。調べてみるとそういうことがしばしばあったことがわかったのです

 

・日本人というのは、とかく人の顔色ばかり見て、学界の風潮に研究を合わせる人がほとんどです。真理というのは個人に密かに語りかけてくるものだという認識が足りないのです。

 これがヨーロッパ人だと、神様は自分一人に語りかけてくると考えます。その語りかけられたものに対して、絶対の自信を持っています。ところが日本人は、周りの顔色ばかり気にして、せっかくいい着想が浮かんでも、その着想をものにできません。

 つまり、創造性を発揮するためには、努力も必要ですが、勇気も必要なのです。それも理性を伴った勇気です。

                                                                                                                       

社会主義の崩壊と資本主義の危機

・戦後活躍した多くの日本の思想家は、多かれ少なかれ社会主義体制というものを認め、それに加担する方向を向いていました。マルクス主義の立場にない人でも、社会主義国ソビエト連邦や中国には好意的な発言をする人が多かったのです。そういう流れの中では、私はマルクス主義社会主義体制を批判してきました。「社会主義体制は人間に幸福をもたらすものではなく、むしろ人間の自由を抑圧し、人間社会に憎悪をまき散らすものだ。マルクス主義の思想の根底にはルサンチマン――抑圧された人間の憎悪というものが隠れていて、そういう思想では人間は幸福になれない」。こういうことを語ってきたわけです。当然のことながら、「国家主義者」「反動」と厳しく糾弾されました。ところが、そのソビエト連邦をはじめ多くの社会主義体制が崩壊してしまった。批判していた私でさえこれほど早く社会主義体制が崩壊するなどとは、まったく予測することはできませんでした。

 こうした事態に際して、「それみたことか」という感慨はありませんでした。もちろん、社会主義体制の崩壊に痛みを感じることはなかったけれども、積年の敵が敗れ去ったと喜ぶ一部の思想家とは違った思いを抱いたのです一つには、社会主義の崩壊があまりにも早かったことに驚かされたということ、これが正直な感想です。そして、もう一つは資本主義もまた危機に直面しているのではないかという予感です。

 

・実際、バブル景気の中にあった資本主義というものは、どうにもならないくらい危険な代物でした。もちろん、マルクス主義に基づく社会主義体制よりは住みやすいし、自由があるだけましです。しかし、諸手をあげて歓迎できるようなものではない。これは、今や資本主義もたいへん危ない水域に漂っていると考えなければならない、ということです社会主義崩壊の次には資本主義崩壊が起こるのではないか。そういう予感を否定することはできませんでした。

 その思い――資本主義への危機感――は現在もなお続いていて、消えるどころか年を追うごとに強くなっています。資本主義の危機を示す予兆は、バブル景気の崩壊とともにますます顕著になっているように感じています。社会主義の崩壊の次に資本主義の崩壊がくるという予感は、当たってほしくないのですが、日々、真実味を増しているといわざるを得ません。

 

 

 

『リーダーの信念』

稲森和夫  見城徹  岡田武史  

 聞き手:五木寛之  冴木彩乃(アシスタント)

扶桑社  2014/10/31

 

 

 

「風のCafé」へのお誘い

・(五木)私は大学を卒業していない。6年ちかく籍をおいてはいたが、結局、卒業しないまま大学を去った。経歴では中退となっているものの、それは何十年かたってからの事務的な処理である。実際には抹籍届を自分から提出してドロップアウトしたのである。

 

稲盛和夫――現世の荒波の中で、魂を磨く

・(稲盛)もう81歳ですから。五木さんも私も昭和7年生まれで、私は1月生まれで。

 

・(稲盛)うーん、そうかもしれないですね。われわれの世代は、子どものころは本当に貧乏でしたから。

 

・(五木)稲盛さんは、中学生のころに結核をやられたとかうかがいましたけど。

(稲盛)ええ、叔父が二人、叔母がひとり、結核で亡くなっています。近くに住んでいて、そういう親戚の様子を見聞きしていたので、きっと自分も(結核で)死ぬんだろうと思っておりましたが、なんとか治りました。

 

現代の栄養学では割り切れない禅寺の食事

・(稲盛)お寺では、若い雲水の方々と一緒に修行したんですが、朝は3時起きで、読経からはじまって、托鉢もします。いちばん困ったのは、食事です。60を過ぎた病み上がりの身で、何しろ胃を取っていますからゆっくりとしか食べられないわけです。

 

・(五木)僕は、久留米にある梅林寺というお寺にうかがったことがあるんですが、禅寺の食事は1日2回なんですよね。

(稲盛)通常の禅堂での食事は、たくあんが二切れにお粥です。それでもみんな元気にしてますから、本当に理にかなった栄養になる食事なんでしょうね。

(五木)そう考えると、現代の栄養学のカロリー計算というのは間違っているんじゃないかと思えてくるんですが

(稲盛)そう、思いますね。

(五木)僕は、比叡山千日回峰行をなさった方と何人もお会いしていますが、あの方たちは1日2食とかで、それも豆腐とじゃがいもだけというような食事なんですね。それでもあの過酷な行に取り組んでおられる。インプットするカロリーとアウトプットするエネルギーと、計算が全然合わないんです。実に不思議。

(稲盛)宇宙の大気からエネルギーを取っているんだと、千日回峰行をなさる方たちは言われたりしますね。

 

「あなたの宗教はなんですか?」

・(稲盛)ええ、禅では修行中はどんなに寒いときでも素足に草履ですから。

(五木)稲森さんはそういう厳しい修行を経て、得度なさったわけですね。

(稲盛)まあ、私の場合は本当に真似事のようなものでしたけど。そのときに再片擔雪ご老師から、大和という僧名をいただきました。

 

・(五木)書店には仏教の解説書はたくさん並んでいますし、仏教だけでなくキリスト教神道などの本もたくさんあります。若い人たちが関心を寄せている。しかしそれは“知識としての仏教”なんです。というのも、アメリカにしろ、それなりの宗教的なカルチャーっていうものがあって、それによって経済勢力が支えられているということにみんな気づきはじめた。「あなたの宗教はなんですか?」と聞かれたときに、「家のお墓はあるけれど、自分自身の宗教はとくにありません」というようなことを言っていると、ビジネスの世界では対等な扱いをされないんじゃないか、と感じはじめている。

(冴木)海外では必ず聞かれますね。あなたの宗教はなんですか、と。私は「ブッディストです」と答えるんですが、答えられない日本人がすごく多いみたいです。あるいは「ナッシング」とか。

 

・(稲盛)日本のインテリ層というのは、とくに優秀な大学の学者ほど、無宗教であることを誇りにする方がたくさんおられるんですよ。宗教的なことを少しでもしゃべると、学者としての価値が下がると思われる風潮もあるぐらいです。これは間違った考えだと思います。宗教というのは、自分の精神的な拠りどころであって、そういうものを持っているのと持っていないのとでは、人生を生きていくのに大いに差が出ると思いますね。

 

肉体を動かすのは、魂である

・(五木) おそらく、今の若い人たちはある種の後遺症が残っているんじゃないかと思うんです。宗教がらみだったり、オカルト的なことだったり、いろんな事件がありましたでしょう。だから若い人たちは、宗教が何か非常にあぶないものなんじゃないかという先入観があって、自分とは距離を置いたところから、こわごわ見ているようなところがある。

 

・(稲盛)心こそが肉体を動かしている、と私は考えるのです。その心、つまり魂が、純粋で素晴らしいものであるかどうかで、健康状態も変わってきますし、運命も変わってくる、と。

 

魂を磨き上げ、美しいものにしていく

・(稲盛)私は仏教徒なので、輪廻転生を信じておりますから、死というのも怖いとは思わないんです。

 

・(五木)稲森さんは、ポジティブに物事を考えることを大切になさっていますね。いいイメージを描いて、そこへ向かって努力をする。私は、少年期の体験からかもしれませんけど、物事をネガティブに考えていくタイプでしてね。

 

なぜ中国で稲盛ブームなのか

・(冴木)『生き方』という本が、中国で150万部以上売れているとうかがって、びっくりしました。

 

・(稲盛)都会では、仕事で成功する人と一般の人との貧富の格差は広がっていますし、ましてや地方と都会では、その差は圧倒的です。自分の力ではどうすることもできない矛盾に、多くの人が悩み苦しんでいる。そういうところに、私の『生き方』という本が出たんです。

 

人間学からはじめた盛和塾

・(稲盛)学校で経営学を教わっても、実際に中小零細企業を経営していくやり方というのは誰も教わっていないのです。みな、見よう見真似でやっている。とくに日本の場合、中小零細企業が国を支えているわけで、そういう日本経済の根幹となる部分が脆弱であってはならないと思ったのが、きっかけです。経営者というのは、うまく経営ができるという以前に、従業員を幸せにする責任がある。そのためにはやはり、まず人間ができていなくてはいかんと思うのです。ですから最初は経営学ではなく、人間学からはじめたんですよ。

 

徳、勇気、智慧で、民心をつかむ

・(稲盛)立派な人間になるのに、どうやって自分を高めていくか、ということですね。経営を伸ばしたいと思うなら、何よりもまず、あなたの心を高めなさい、と。“心を高める、経営を伸ばす”というのを標語にしまして。それではじめたんです。現在では、日本全国をはじめとして、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、シリコンバレー、ハワイと、ブラジルに3つ、中国にも11、台湾にも支部がありまして、全部で9千5百名(2014年7月現在)ほどの経営者が塾生になっています。

 

お経は本来、わかりやすいもの

・(五木) お経というのも、そもそもはすべて中国経由で日本に入ってきたもので、表記はすべて漢字です。その漢字をわざわざ向こうの音にして読んでいるわけで、現代の一般の方たちには何を言っているのかまったくわからない。実はもともとお経というのは、すごく大事なことをわかりやすく説いたものなんですよね。

 

・(五木)釈尊という方は、日常生活の中の具体的なことをやさしく教えた人です。たとえば呼吸法。関心があって、白隠さんが説いた呼吸法とか、いろいろやったことがあるんですが、インドの呼吸法に「アーナ・パーナ・サティ」というのがあるんです。アーナ、パーナというのは吸う息、吐く息という意味で、サティというのは、大事なことに気づく、気をつけろという意味です。そこにスートラがついて「アーナ・パーナ・サティ・スートラ」というんです。スートラっていうのはお経という意味です。これが中国に行くと大安般守意経というお経になるんですよ。大安般守意経なんて言われると、なんだか非常に難しそうな感じですが、さらっと素直に言えば、「呼吸に関する心得」とか「息をするときに大事なこと」。吸う息、吐く息、その一つひとつに心を込めて呼吸しなきゃいけない、と釈尊は教えているわけですね。

 

「ナンマン、ナンマン、ありがとう」

・(稲盛)戦前の事になりますが、私が小学校に上がる前ですから5つくらいのころのことです。父の実家があった里の隠れ念仏というのに連れていかれたことがあるんです。鹿児島では幕末まで浄土真宗が弾圧を受けまして、信者たちはみな山奥で隠れて信仰を守ったんですね。

 

・その方が私の父に、「この子は今回1回だけで結構ですよ。もう来なくてもいいです」と言われて、私のほうを向いて「坊や、君はもう来なくていいんだけど、ひとつだけ守ってほしい」って言うんですね。「今後、毎日、何があっても、ナンマン、ナンマン、ありがとう、と唱えなさい」と。

 

・(稲盛)それが南無阿弥陀仏なんですね。私は5つくらいだったんですが、それが強烈に残っていましてね。それから80歳を超えた今日まで、今でも「ナンマン、ナンマン、ありがとう」。だからいわゆる臨済宗の禅寺で修行までしましたが、毎朝家の仏壇で拝むときには、最後は必ず念仏なんです(笑)。

 

隠れ念仏の語られなかった歴史

・(五木)幼児期の宗教体験というのは、一生抜けないですからね。隠れ念仏というのは、九州の南部において、薩摩藩主である島津家が一向一揆などを恐れて、とくに真宗系の念仏を3百年の長きにわたって弾圧したんです。

 

・日本の歴史の中で、庶民とか農民とか、ごく普通の人々が自分の信仰を3百年、弾圧の中で守り続けたという歴史は、まったく世間の人は知らないし、教えてもいないのです。鹿児島に行きますと、「隠れ念仏洞前」なんていうパスの停留所がありますよ。通りからずっと分け入っていきますと、山奥に洞窟があって、そこで深夜、信者たちがこっそり集まってきては、念仏を唱えていたんですね。若い人が見張りに立っていて、役人が来ると、「馬が逃げたぞ」というのが合言葉で、ろうそくを消したんだそうです。

(稲盛)よく知ってらっしゃいますね。

(五木)50歳前後のころに、京都の仏教系の大学に聴講生で入りました。そのきっかけは子どものころに、隠れ念仏にもいろいろありますが、稲盛さんが体験された隠れ念仏も、「ナンマン、ナンマン、ありがとう」というものを子どもの記憶に刷り込むという体験だったんじゃないでしょうか。その言葉が体に入り込んで、一生それを心の中で唱えていくという。

 

子どものころの夢は、飛行機乗り

エンディングは「故郷」の合唱

・(稲盛)愛唱歌というのはありませんが、盛和塾で懇親会の最後に、みんなで円陣を組んで「故郷」を合唱します。2百から3百人集まったときでも、必ずするんです。

 

仏教とは歌である

・(稲盛)五木さんは作詞もされるし、歌について、非常にお詳しいんでしょう?

(五木)大好きなんですけれど、そういうわけで浪花節がかってるもんですから、何を歌っても浪花節になってしまう(笑)。しかしですね、歌と言えば、「仏教というのは歌だ」というのが、私の持論なんですよ。釈迦の弟子たちは、わかりやすく人に伝えるために、言葉にリズムをつけてゴスペル・ソングのように歌い、皆がそれを暗記した。つまりお釈迦様の教えというのは、文字ではなく記憶によって伝わっていったんです。口から耳へ、耳からまた口へ。弟子たちは一生懸命にそれを口ずさんで覚え、歌いながら托鉢をして歩く。この歌が「偈(げ)」で、それが百年くらいたって文字になるわけです。

 

・「偈(げ)」:経典の中で、詩句の形式を取り、教理や仏を褒め讃える言葉。

 

キリストが聖書を書いていないのと同じように、釈迦も、お経は一行も書かれてはいない。歌なんです。日本でも親鸞が、その晩年に和讃(わさん)をたくさん書いています。和讃というのは、おばあちゃんも子どもも、誰もがみんな口ずさめるようにつくられた七五調の歌で、親鸞が子どものころ、平安末期から鎌倉期にかけて大流行した今様(いまよう)という流行歌のリズムが取り入れられている。“遊ぶ子どもの声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ”とか、ね。

 

・そういう親鸞の時代から、ご詠歌になり、声明とかいろいろ交わっていって、端唄、小唄になり、やがて昭和の流行歌、歌謡曲になっていく。今でも日本の歌の基本は“あなた変わりはないですか”とか“ひとり酒場で飲む酒は”って、全部、七五調でしょう(笑)。親鸞から阿久悠まで、脈々とつながっている日本人のリズムというのがあるんですよ。

 

「世のため人のため」で商売は成り立つか?

・ところがですね、税金を払わなければ、内部留保、つまり余裕資金の蓄積ができないんです。税金を払わないことには、経理上、表にお金が出ませんから、利益が内部留保として残らない。そういう仕組みになっているんです。ですから中国の方々にも日本の方々にも、税金は払わないといけませんよ、それが社会に貢献することですよと、声を大にして言っています。

 

サムシング・グレートという気づき

・(五木)それでいながら、「サムシング・グレート」という、科学も及ばないような未知なる大きな存在に対しての“気づき”というものがおありになったことが、本の最後のほうで書かれていますね。