『怪異の表象空間』
メディア・オカルト・サブカルチャー
<怪異とは何か。>
・怪異とは何か。辞書的に言えば、読んで字の如く「怪しいこと、普通とは異なること」となる。つまり、常識では計り知れない出来事や現象のことであり、このなかには化物、変化(へんげ)、妖怪、幽霊の類も含まれる。ここで問題にすべきは、私たちが「怪しい」「普通とは違う」と判断する基準である。怪異を認識したり否定するために採用した、私たちの「理屈」のありようと言ってもいい。私たちは、なぜそれを怪異と見なしたのか。または、そのような思考回路を経て、その現象を「ない」と判断したのか。この思考の中身、プロセスにこそ、時代や地域特有の文化的感性が潜んでいる。怪異とは、私たちがこの日常、この現実を把握するために使用している認識の枠組みの、陰画なのである。
<幽霊はタクシーに乗る>
<青山墓地の怪談を中心に>
<幽霊がタクシーに乗る不思議>
・幽霊がタクシーニ乗り込むという怪談は、今もしばしば耳にする。例えば『学校の怪談大事典』には、こんな話が紹介されている。「タクシーが道で若い女の人を乗せる。しばらくしてうしろをみると、乗せたはずの女の人が消えている。そして、シートがぐっしょりぬれていた」「映画館で、少女を乗せる。家の前までくると、「お金を持ってきますから、まっていてください」といって家にはいっていく。しばらくまってももどってこないので、運転手がたずねていくと、玄関には「喪中」のふだがあった。わけをはなすと、きょう、むすめが亡くなったとつげられる。奥の祭壇をみると、さっき乗せた少女の写真がかざってあった」。
・これらの話の原点とされている、池田弥三郎が紹介したエピソードは次のようなものである。昭和5、6年ごろの話。青山墓地から横浜まで、黄八丈の着物を着た娘を乗せる。しばらく走ってからバックミラーを見ると、女がいない。横目で客席を確認すると、座っている。臆するものの、指定された家に到着する。女は礼を言って、運賃を取ってくると家に入るが、出てこない。運転手が玄関から声をかけると、中年の女性が出てくる。事情を説明したら、座敷に通された。女は言う。娘は数日前に亡くなって、その日の昼、青山墓地に埋葬してきたのだと。
・だが私たちは、幽霊の特性からいって不自然極まりないこの話に、それほど違和感を抱かないようだ。例えば、午後10時以降に深泥池周辺で女性を乗せてはいけないというタブーが京都の運転手の間には不文律として存在する、といった話が、今もまことしやかに囁かれているように、タクシー幽霊の話は全国各地に分布している。その理由を考えるうえでヒントになりそうなのは、青山墓地のタクシー幽霊の話に言及した、松谷みよ子の指摘である。松谷はこの話を「民話として、まことによく形がととのっている」と評価するのである。「よけいな因縁話も、興ざめの落ちもなく、ただ不思議な体験を過不足なく記録してある」という、池田の話に対する広坂朋信の指摘も、恐らくこの点に関わる。
<幽霊が乗るもの――馬から自動車へ>
・馬や駕籠など、幽霊が交通手段を利用する話は江戸時代にもある。池田によれば、『今昔物語集』にもある。明治になると、幽霊は人力車に乗り込んでくる。まずはこうした「乗り物で移動する幽霊の話」の現代ヴァージョンとして、タクシー幽霊の話を位置付けてみよう。
・近代になって馬や駕籠が廃れ人力車が主流になると、怪異は人力車を標的にしはじめる。しかし、人力車に乗るが幽霊とは限らない。「車のお客は狸?」(明治13・7・23、西京新聞)は、京都の竹田街道銭取橋近辺で黄昏時に女を乗せた、人力車夫の話である。女は東京風の島田髷、絹上布単物に身を包んだ美人だった。彼女は白川橋三条へ行けと言う。しかし、白川橋筋古門前あたりで急に車が軽くなったと思ったら、女が大坊主に変身した。思わず見返すと、車に乗っていたのは一本の竹箒だったという。車夫はこの出来事を、狐狸の類にたぶらかされたのだと解釈している。
同様の話は、大正期の新聞記事にもある。夜遅く、人力車が参謀本部下(三宅坂一帯)を通ると、若い美人がぼんやり立っていて、江戸川とか新宿まで行けと言う。ようやく指定の場所について梶棒を下ろし、車上を見ると誰もいない。車夫は古狐の仕業と激怒する、という話である(大正2・12・4、やまと新聞)。これらの話は、江戸時代の百物語にしばしば見られる、狐狸に化かされる話のヴァリエーションである。大正期にまで、こうした話は生き残っていたのだ。
・一方、人力車を舞台にしつつ、ほぼタクシー幽霊の話の定型に重なるのは、大阪を舞台にした次の話だろう。夜の10時ごろ安治川まで客を送った帰路、車夫が年の頃18、9の娘を老松町3丁目の某家まで乗せた。娘が家の門戸を開けてほしいと言うので、家人を起こして振り返ると、娘がいない。車夫が事情を説明すると家人は驚き「吾家の娘は先々月栴檀木橋より投身して安治川へ漂着せしことは其頃の新聞に出て人の知る所今ごろ家に帰る筈はない」と述べたという(「鬼を一車に載すとは」、明治16・9・5、大阪朝日新聞)。
・大正期の東京にも、類似の話がある。回向院の前で車夫が女性を乗せる。「本郷の加賀様の前まで」と指示される。赤門前の米屋の門口に停めると、女性は代金を取ってくると言って家に入った。しばらくして、亭主らしい男が出てきたので代金を請求すると、男は驚いて車夫に言う。先日、妻が赤ん坊を残して死んだが、たった今、枕元で「表に車夫がいるので、代金を払ってください」という声がした。気がついて傍らを見ると、赤ん坊が蚊帳の外へ出て泣いていた。念のために門口を開けてみたら、本当に車夫がいた。奇妙なこともあるものだ、と(大正4・7・11~12、山形日報)。
・このように見てくると、江戸から明治にかけて乗り物を利用していた怪異は「道の怪」とでも称すべき曖昧な存在であり、必ずしも明確な像を結んでいた訳ではない。人力車に乗り込んだモノの真意は車夫を驚かすことで、移動が目的ではない話も多い。この場合のモノは、しばしば狐狸と見なされている。しかしそのなかで、死者の霊が実家を目指す例が現われはじめる。この世に未練を残した霊が、その未練を解消するために自宅を目指すのである。したがって、彼らが人力車を拾うのは、自らが命を絶った現場や、埋葬された墓地の周辺となる。やがてこれらの類話が、昭和初期には「青山墓地のタクシー幽霊の話」に集約されていったと思われる。
では、なぜ青山墓地なのか。幽霊が乗り込む起点として、この場所が選ばれたのはなぜか。先にその理由として、急激な都市空間の拡張にともなって、唯一残された都心の異界が青山墓地だったから、と述べた。しかしどうも、ことはそれほど単純ではなさそうだ。
<青山墓地という場所>
・「青山墓地というと、ここから女の幽霊をタクシーに乗せたという話が怪談の古典のようになっている。実際にそのような体験をしたという運転手の話をかつて私も本人から直接聞いたことがある。その運転手の体験というのは、和服美人を恵比寿まで乗せ、「金を取ってくる」といって家に入ったまま出てこないというパターンだったそうだ。家を訪ねると美人は遺影になっているわけだが、「これは本当に本当の話だよ」と運転手はいっていた。別に疑う気はないが、この手の話は怪談というより今日では通用しなくなったタダ乗りの手口でもあったようだ」と小池壮彦が語っているように、青山墓地のタクシー幽霊の話は、すでに「怪談の古典」としての地位を獲得しているらしい。
この話の起点とされるのは、冒頭で紹介した池田弥三郎の話だが、昭和初期の新聞や雑誌メディアには、類似の話がしばしば掲載されていた。例えば伊集院斎「円タクの洪水」(昭和9・10、「中央公論」)には、次のエピソードが紹介されている。青山墓地で客を乗せたが、しばらく走ってから振り返ると、誰も乗っていない。それでも芝まで車を走らせる。目指す家では「実は唯今、宅の娘が嫁入り先で亡くなりまして」と告げられ「運転手は幽霊と一緒に、狭い自動車の中に乗っていた事を感じて、暫らくは、歯の根が合わなかったそうである」
<幽霊はタクシーに乗る>
・ただし、この時期の青山霊園を舞台とするタクシー幽霊の話は、昭和初期の話の完全なリフレインという訳ではない。客が消えた後に座敷が濡れているという要素は、どうやらこの頃に付け加えられたようなのだ。では、なぜ座席が濡れるのか。ここで注目したいのは、座席が濡れるという要素が加わることで移動する、怪異のポイントである。昭和初期の話では「どこからどこへ向かうのか」という場所の問題が強調されていたとすれば、先の話では、行き先は告げるものの、移動の途中で客が消えてしまう。では、運転手の幻覚だったのかというと、そうではない。座席が濡れているのだから。濡れている座席とは、確かにそこに何かがいたことの証拠なのだ。
・現代にあっても、タクシー幽霊の話は数多い。また、タクシーによる心霊スポットツアーの企画が話題になったりもしている。今やタクシーは、自ら率先して現場に赴いているのだ。タクシー幽霊という話のリアリティは、当事者たるタクシー運転手によって保証される。その意味で、この世に未練を残した幽霊は、積極的にタクシーを利用すべきである。そこには、必ず彼らの発言を促してくれる対話者がいるのだから。そして対話者は、何らかの形で、彼らの訴えを代弁してくれるのだから。
<カリフォルニアから吹く風>
<オカルトから「精神世界」へ>
・1970年代に顕在化したオカルトブームは、その後もさまざまな文脈と結びつきながら現在に至っている。70年代のブームがそうだったように、80年代にあってオカルトブームに新たな息吹を吹き込んだのも、海外からもたらされたさまざまなパーツだった。
・中島渉は1980年代を宗教バブルの時代、90年代をその残滓と世紀末化の加速の時代とし、80年代を席巻したムーブメントとして三つのN、すなわちニューサイエンス、ニューエイジ、ニューアカデミズムを挙げている。
このなかでまず注目すべきは、ニューエイジである。なぜならニューエイジが、いわゆる「精神世界」の中核を成しているからである。ニューエイジとは、全面的な自己責任のもとに真の潜在力を開拓し、神のような存在に到達することを目指す思想をいう。別名アクエリアン・エイジと呼ばれるこの思想の特徴は、地球における我々のあり方を見直そうとするホリスティックな考え方にある。
またニューエイジは、アメリカ西海岸と深く結びついている。西海岸の中心地であるカリフォルニアは、20世紀初頭にはオカルトの地・神秘の国として認知され、世界中のオカルティストがカリフォルニア文化を経て、70年代に始まるニューエイジ・ムーブメントによって、カリフォルニアは新たな精神文化を世界に発信する象徴的な場となる。その起源には、かつてこの地に本部を置いた、神秘性を基盤とする神智学、実理性を重視するニューソートがある。この二つを母体として、カリフォルニアでは多種多様な精神文化が生み出されていった。日本では、ニューエイジの多様な展開が「精神世界」というカテゴリーの下で集約され、さらに広範なスピリチュアリティ運動となって現在に至っている。
<オカルトブームと「科学」の揺らぎ>
・また、この時期のオカルトブームをイレギュラーな精神文化の流れから解説する言説もある。秋山達子「オカルト・ブームを斬る」(74・10『月刊ペン』)は、「現代のオカルトへの傾斜は、複雑化した社会的文脈の中で、方向を見失い、生き甲斐を求めて流動しだしたヒッピーたち、禅、麻薬、ヨーガ、そして無意識のサイケデリックな色彩の溢れる幻想的な世界への、無謀な旅立ちを試みる若ものたちにはじまった」と述べ、1960年代以降のアンダーカルチャーの流れに注目していた。
大衆的な文化現象としての70年代オカルトブームは、ある意味で表層的な断片、パーツの集積として顕在化していた。UFOから超能力、心霊現象、予言、ホラー映画などの流行は、必ずしも相互に関係しているという訳ではない。しかしそれらのパーツに内在していた水脈は、やがて明確な思想運動の形を取りはじめる。ニューサイエンスの登場である。
<ニューサイエンスという「思想」>
・1960年代、人類の未来を開く希望の星だった科学は、70年代に入り一転して公害をもたらす悪玉に。そして今、振り子は再び戻りつつあるのか。空前の科学雑誌創刊ブームである。どれもカラー写真や絵をふんだんに使い、宇宙から原子の世界までをやさしく面白く、という作り方。「科学がやっと大衆のものになってきた」ことを喜ぶべきなのか、「糖衣でくるんでマイナス面を隠す」効果の方を心配すべきなのか……。
・また、80年代を通してメディアを賑わせた新宗教系の事件、例えば「イエスの方舟」事件(80年)、「エホバの証人」輸血拒否事件(85年)、「真理の友教会」集団焼身自殺事件(86年)、世界基督教統一神霊協会による信者誘拐問題などは、日本の新宗教に対する特殊なイメージを確実に刻んでいった。こうしたなか、81年代後半になって、各種メディアはオカルトブームの復活を告げるのである。
・ここでも強調されるのは、カリフォルニアという「場」の特異性である。「カリフォルニアには、無数のcultがあり、cultiforniaといわれるほど、アメリカのカルトの中心となっている」「推定によると、現在300万人のアメリカ人が3000種類のカルトにかかわっている」と述べる吉田は、カルトの拡大が必然的に権力の追及へ向かうこと、また教祖が金銭と政治権力を求めるといった問題点を指摘しつつ、その流行も、1974年がピークだったとする。
<カリフォルニアから風が吹く>
・このあと特集の記事は、70年代超能力ブームの立役者、ユリ・ゲラーと清田益章の対談、ドラッグによる内宇宙への探査に旅立ったロックスターたちを紹介する「ロックとオカルト」、電脳ネットワークが集合的無意識モデルのシミュレーターとなる可能性を指摘した「テクノ・スピリチュアリズム」、神や予言や霊界と科学がクロスする学問としてニューサイエンスを位置付ける「科学と神秘思想」、UFOとのコンタクトに関する横尾忠則へのインタビュー、チャネリングについて解説した「霊・宇宙意識・超越自己とのコミュニケート」、アメリカ先住民のホピ族に伝わる予言などを紹介する「世紀末予言と地球破壊」と続く。
・1970年代に流行したオカルトの数々が、15年後にいかなるフレームのもとで再編されたのか、その内実が浮かび上がってくる構成ではないだろうか。ここで各パーツをつなぐ接着剤の役割を果たしているのは、ニューサイエンスである。
また、横文字の外来「オカルト」を日本語に翻訳するありようとしては、「宇宙からのテレパシー カリフォルニアの「イタコ」 宇宙を語る」(90・5・1、「週刊プレイボーイ」)が興味深い。同記事は、カリフォルニア州サンタモニカに住むチャネラー、エドワード・メイブへのインタビューだが、実際は、彼がコンタクトしているという宇宙集合意識、ジャゼアが質問に答えている。
この記事では、チャネラーを説明するのに日本の土俗的イメージとしての「イタコ」を取り上げ、両者の相違は死者を呼ぶのか宇宙意識を呼ぶのかという、アクセスする対象に過ぎないとする。かくしてチャネラーは、日本の文脈のなかに取り込まれる。一方、この記事では「宇宙人」の実在は自明化しており、そのうえで肉体を消失した宇宙人=「宇宙意識」が問題にされている。宇宙人の存在の有無をめぐる問題設定自体が、すでに無効化しているのだ。
このような状況からは、70年代のオカルトが「精神世界」に接続することで息を吹き返し、従来の情報を更新、再生しつつ特異な場を作り上げていくプロセスを見いだすことができるだろう。
<オカルト・エンターテインメントの登場>
<ウィングを広げる――心霊からオカルトへ>
・つのだじろうが「恐怖新聞」(73~75、週刊少年チャンピオン)と「うしろの百太郎」(73~76、週刊少年マガジン)を執筆するにあたって、当時のオカルトブームを戦略的に利用しようと考えていたことについては、彼自身が「恐怖新聞」のなかで明らかにしていた。
<「新聞」というフレーム>
・「恐怖新聞」において、新聞という機能は多様な働きを見せている。物語は基本的に、恐怖新聞を契機に鬼形が遭遇する怪事件について、新聞自体が解説し、さらに悪霊が補足するという形をとる。この新聞記事は、今後生じる事態を先取りして伝えることもある。また不可思議な事件を描く際、どうしても複雑な説明が必要とされる場合には、紙面の記事が説明を代行することもある。
・こうした読者への情報発信は、やがて恐怖新聞の紙面を利用した双方向的なコミュニケーションへと発展した。43・10・8号掲載の予告編からはじまる、UFOに関する一連の報道である。この予告編では「『恐怖新聞』次週は空飛ぶ円盤(UFO)の巻頭カラー特集だ! それにさきがけて いま! “空飛ぶ円盤”の重大予言をしたい‼ 」と述べ、9月14日の午前10時57分と同月19日の午前8時57分の2回、関東地方に円盤が飛来すると告知した。なお、この記事の責任者とされているのは「“円盤”についての本作品協力者」で「UFO研究グループHELP CLUBの代表者」中嶋祐午である。
・つづく10・15号には「恐怖新聞」の折り込みジャンボ・インテリアポスターが付録についてしまう。この裏面に、恐怖新聞がある。見出しは「空飛ぶ円盤は実在する!」。記事として、つのだじろう「ぼくは“円盤”をはっきり見ている」、さらに中嶋撮影のUFO写真二枚と、ウ・タント前国連事務総長のUFOに関する発言が掲載されている。一方本編(「空に光る謎」)でも、読売新聞(72・9・17付)、毎日新聞(73・8・27付)などのUFO関連記事を紹介し、日本でもUFOの目撃例が増えていることを強調している。さらに同号の「こちら編集部」で「きっと読者の中にもUFOを見た人がいると思う。この機会に研究するのはおもしろいと思うよ」と呼びかけるにいたって、同号の「少年チャンピオン」は、あたかもUFOイベントの一大宣伝号と化した。おそらく関東地方の多くの読者が、9月14日と19日には、所定の時間に空を見上げたことだろう。
・この効果は、すぐさま現われる。10月22日号の本篇終了後「UFO目撃談続出‼ 」「9月14日午前10時45分 王冠型の黒いUFO」という見出しとともに恐怖新聞が一頁掲載され、11・5号の本篇終了後の恐怖新聞にも「14日につづいて19日にもUFO飛来‼ 」というタイトルのもと、複数の目撃証言が紹介されている。
10・22号の「こちら編集部」には「いま、つのだ先生はうれしい悲鳴をあげています。42号で予言したとおり、空飛ぶ円盤を見たという電話が各地からかかってきたのだ。読者のみなさんが非常に興味を持っている事実を知って、先生はさらにファイトをかきたてています」とある。
<躍動するオカルト>
・またUFO関連の物語では、多様な実在の人物が関わっている。先に紹介した中嶋をはじめ、UFOサークル講師の高坂勝巳、UFO関連の物語に登場するエリナ松岡のモデルとなった実在のコンタクトマン、さらに当時日本テレビディレクターとしてUFO関連の番組を次々に企画していた矢追純一などである。「円盤着陸」(75・1・6号)では、資料協力者として矢追の名前と、彼の著書『空飛ぶ円盤を追って』(74、平安書房)が明記されている。
<心霊データベースとしての『遠野物語』>
<同時代のなかの『遠野物語』>
・明治末年を彩る怪談ブームのなか、ひときわ異彩を放つテクストとして柳田国男『遠野物語』がある。
・とはいえ、彼の関心がもっぱらその「事実」性にあるとしても、その「事実」を支えるデータとして彼が「怪談」を収集していたことは興味深い。そしてそれは、おそらく『遠野物語』が、当初はきわめて限定された読者に向かって書かれたことと関係しているはずだ。当初の『遠野物語』の読者とは、大塚英志が指摘するように「明治40年前後の柳田周辺の文学サークル」のメンバーであり、より厳密に言えば、水野葉舟と佐々木喜善ということになるだろう。
<水野葉舟と心霊学>
・言うまでもなく『遠野物語』は、水野が柳田に佐々木を紹介することでテクストとなり得た訳だが、この三者が共有し得たフレームは、体験の「事実」性への眼差しだった。横山は言う。「佐々木の物語が具体的な日時や固有名詞が固定可能な実話、体験談、「現在の事実」のかたちをとっているがゆえに、柳田、そして水野は心を魅かれたのだ。動機こそ異にすれ、怪異譚をみずからの研究の核心を成す目撃記録、体験記録とみなす点において、両者は共通していた」。
<心霊データベースとしての『遠野物語』>
・心霊学的なデータになり得る話は、『遠野物語』全119話中、14話ある。以下、簡単に紹介する。
10、菊池弥之助が深夜、奥山で女の叫び声を聞いた。里へ戻ったら、同日同時刻に、妹が息子に殺されていた。
22、佐々木の曾祖母が亡くなった晩、裏口の方から足音が聞こえ、亡くなった老女が座敷の方へ歩いていったのを、祖母と母が見た。
23、同じ人の27日の逮夜、門口の石に老女が腰掛けて、あちらを向いていた。その後ろ姿は、正しく亡くなった人だった。
77、田尻長三郎が葬式に出かけた帰路、男が軒の雨落の石を枕にして仰臥していた。見も知らぬ男で、死んでいるようだった。膝を立て口を開いていた、跨いで家に帰った。明くる朝行ってみたが、跡形もなかった。
78、山口の長蔵が夜遊びの帰り、主人の家の門の前で、浜の方から来た人と会った。畠地の方へ男はそれたが、そこには垣根があって移動できない。後で聞けば、同じ時間に新張村の某が、浜からの帰り道に馬から落ちて死んだという。
79、この長蔵の父が若い頃夜遊びに出て宵のうちに帰り、門口から家に入ったら、人影があった。近寄ると懐手のまま玄関から中に入った。上を見たら、その男が玄関の雲壁にくっついて、自分を見下ろしていた。
80、前川万吉が死ぬ2、3年前、夜遊びから帰って緑の門まで来たとき、何となく雲壁を見たら、これに付いて寝ている男があった。青ざめた顔色の男だった。
81、田尻丸吉が少年の頃、ある夜、便所に行こうと茶の間に入ったら、座敷との境に人が立っていた。そこへ手を伸ばして探ったら、板戸に突き当たった。そして手の上に重なるように、人の形があった。
86、豆腐屋の政の父は、大病で死のうとする頃、普請に出かけ地固めの堂突に参加し、暗くならない頃に皆と帰ったというが、その時刻が、ちょうど病人が息を引き取ったときだった。
87、ある豪家の主人が命の境に臨んだ頃、菩提寺を訪ねて和尚と世間話をして帰った。その晩、主人は亡くなった。もちろん、外出できる状態ではなかった。和尚が出したお茶は、畳の敷合わせに皆こぼしてあった。
88、何某が本宿から来る道で、かねて大病をしていた老人と出会った。老人は、寺へ話を聞きに行くと言う。常堅寺の和尚は、茶を進めてしばらく話した。門の外で老人は消えた。お茶は畳の間にこぼしてあった。老人はその日、亡くなった。
97、菊池松之丞は傷寒で、たびたび息がとまった。気がついたら田圃に出て、菩提寺に急いでいた。足に少し力を入れたら空中に浮かんで、心地よく進んだ。寺の門に近づいたら群集があった。何事かと門のなかに入ったら、見渡す限り、紅の芥子の花が咲き誇っていた。花の間に、亡父が立っていた。「お前も来たのか」と言う。さらに進んだら、亡くした息子がいた。「とっちゃ、お前も来たか」と言う。「お前はここに居たのか」と近よろうとしたら「今来てはいけない」と言う。この時、門の辺りで自分の名前を呼ぶ者があった。うるさくてしょうがないのでいやいや引き返した。と思ったら、正気づいた。
98、北川福二は先年の大津波で妻子を失い、生き残った二人の子と屋敷跡に作った小屋で一年ほど過ごした。夏の初めの月夜、便所に起きたら、霧の中から二人の男女が現われた。女は亡き妻だった。後を追い、声をかけた。今は大津波で亡くなった男と夫婦になっていると言う。足下を見ているうちに、二人は足早に立ち去った。
100、漁夫の某が仲間と夜更けに小川のある所で妻に会った。しかし夜中にこんな所にいるはずがないと思い、魚切包丁で刺し殺した。後のことを仲間に頼んで家に帰ってみると、妻がいた。山道で何者かに脅され、殺される夢を見たという。さてはと思い元の場所に引き返してみたら、殺した女は狐になっていた。
・一方、これらの話を心霊学的な問題系にしたがってカテゴライズすると、次のようになる。
A 死に瀕した親族との感応(10)
B 死の直後における死者の顕現(22、23、78)
C 霊と思われるモノとの遭遇(77、79,80、81)
D 死の直前に生者が離れた場所に顕現(86、87、88)
E 臨死体験(97)
F 死者との対話(98)
G 遊離魂(100)
・『遠野物語』を民俗学というフレームから解き放ったときに見えてくるのは、同時代の錯綜した文脈との接触、連合、切り離しの諸相である。また『遠野物語』のふるまいは、一方で同時代の文脈に影響を与え、相互干渉的な場を形成している。民俗的な霊魂観と結びつく「魂の行方」などの一連の話群は、心霊学的な文脈にあってはその補強剤として機能し、また受容されてもいたのである。
『死者の民主主義』
人ならざるものたちの声を聴け。私たちは「見えない世界」とどのようにつながってきたのか。
畑中章宏 トランスビュー 2019/7/20
<人ならざるものたちの声を聴け>
<われわれの行為は、ことごとく、われわれの内部にある死者の行為なのではあるまいか。>
<いまこの国には「死者のための民主主義」が必要である>
<「死者を会議に招かねばならない」>
・そこで筆者が思い浮かべるのは、20世紀の初めのほぼ同じ時期に、イギリスの作家と日本の民俗学者が主張した、「死者のための民主主義」というべき思想である。イギリスの作家とは、探偵小説『ブラウン神父』シリーズで知られ、批評家、詩人、随筆家としても名声を博したギルバート・キース・チェスタトン(1874~1936)である。日本の民俗学者とは、農商務省の官僚から民間伝承研究者に転じ、『遠野物語』『一目小僧その他』『先祖の話』などの著作をものにした柳田国男(1875~1962)である。
・チェスタトンはその主著とされる『正統とは何か』(1908年)で、民主主義が伝統と対立するという考えがどうしても理解できないと述べる。その伝統とは、「民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかなら」ず、孤立した記録や偶然に選ばれた記録よりも、過去の平凡な人間共通の輿論を信用するもののはずであるという。伝統とは、言ってみれば「あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ」。
・チェスタトンがいう「死者の民主主義」が、かなり過激な思想であることは、次のような主張からもみてとれる。「今の人間」が投票権を独占することは、たまたまいま生きて動いているというだけのことで、生者の傲慢な寡頭政治以外のなにものでもないというのだ。「いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならない」とチェスタトンは訴える。
「われわれは死者を会議に招かねばならない」というこのイギリス人の考えは、愚にもつかない妄想や、神秘主義の類だとして、現在の私たちが一蹴してもよいものだろうか。
<祖霊の政治参加を促す>
・柳田国男は、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農商務省農務局農政課に勤務し、官僚として全国の農山村を歩きまわるとともに、いくつかの大学で農政にかんする講義を受けもった。1902年から翌年にかけて、中央大学では「農業政策学」講義をおこない、そこでは次のような国家観を語っている。
国家の政策をある側の注文に合わせ、一方の注文に背く場合が少なからずある。こうした場合に、多数者の利益になることが国の利益だと考えてよいというものがいるけれど、それがはたして、国民の多数の希望に合うかどうかを知ることは難しい。また、少数者の利益を無視するいわれもない。
・「国家は、現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし。死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生まれ出ずべき、我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」。
・柳田国男は民俗学者になる以前に、「今の人間」だけが社会を構成し、社会の参加者として意見するだけではなく、死者の希望や、これから生まれてくる人間の利益を考慮すべきだと語っていたのである。
この講義から8年後、チェスタトンの『正統とは何か』刊行から2年後の1910年に刊行された『時代ト農政』にも、死者の政治参加にかんする記述がある。
国民の2分の1プラス1人の説は多数の説だけれども、私たちは他の2分の1マイナス1人の利益を顧みないわけにはいかない。しかも、万人が同じ希望をもってはいても、国家の生命は永遠であるから、まだ生まれてきていないものたちの利益も考慮しなければならない。
・「いわんや我々はすでに、土に帰したる数千億万の同胞を持っておりまして、その精霊もまた、国運発展の事業の上に、無限の利害の感を抱いているのであります」。
ここで柳田がいう「精霊」は、「祖霊」と言いかえてもよいだろう。それにしても、死者たちの霊が国の行く末にたいして利害の感覚を抱いているという柳田の考えは、チェスタトンに劣らず過激なものである。
<妖怪や精霊にも選挙権を>
・『21世紀の民俗学』(2017年)で私は、日本列島に棲息してきた「妖怪」たちは、災害や戦争などにより不慮の死を遂げた人びとの集合霊であり、彼らにも選挙権を与えるべきだと主張した。現実的には、河童やザシキワラシに投票所に足を運んでもらうことはもちろん困難である。ただし、集合霊たる妖怪が、どのような公約を掲げる候補者なら納得するかを想像してみることは、決して現実離れしたことではないだろう。さらに言えば、精霊や妖怪、小さな神々を素朴に信じる人びと、信じてきた人びとこそが民主主義の担い手であると私は考えるのだ。
<「死者の立憲主義」>
・たとえば「立憲主義」は、過去のさまざまな失敗を繰り返さないよう、そこで得られた経験知や教訓をルール化し、憲法によって国家権力を制約するものである。この立憲主義が対象とする「国民」は現在の国民だけではなく、死者たちも含まれる。過去に蓄積してきた苦難の歴史の産物が憲法であり、死者の経験の総体が、現在の権力を縛っていると中島は言うのだった。
<南方熊楠の戦い>
・ここで改めて強調しておきたいことがある。それは日本の民俗学が、近代化のなかで蔑ろにされようとしているものたちに目を向けさせるための、戦いでもあったということだ。柳田国男の民俗学はなによりも、山人や妖怪、あるいは神社神道から漏れおちた小さな神々に光をあてようとするものだった。こうした観点からは、南方熊楠の神社合祀反対運動も強調すべき民俗学の戦いだったのである。
・熊楠は地元の『牟婁(むろ)新報』をはじめ、大阪や東京の新聞社にも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求めた。また植物学者で東京大学教授の松村仁三に、神社合祀を批判する手紙を送った。この手紙を、当時内閣法制局参事官だった柳田が印刷し、『南方二書』と題して関係者に配布し、熊楠の運動を助けたのである。
<「平凡人は人生を内側から見ている」>
・チェスタトンによると、民主主義の信条は「結婚」「子どもの養育」「国家の法律」といった最も重要な物事を、平凡人自身に任せることだという。そのうえでこのイギリス人は、「伝説」のほうが「歴史書」より尊敬されねばならないと述べる。なぜならそれは、「伝説」は村の正気の大衆によって作られるのにたいし、「書物」は村のたった一人の狂人が書くものだからというのである。自身の信条としても、「日々の仕事に精を出す大衆を信じることであり、たまたま末席を汚している文書という特殊社会の、気むずかしい先生がたを信じる気にはどうもなれない」というのだ。
非凡人の明晰明快な論証より、平凡人の空想や偏見のほうがより好ましく、「平凡人は人生を内側から見ているからだ」というチェスタトンの辛辣な言葉から、現在の知識人が政治に果たしている役割のおぼつかなさを、私は想起するのだった。
<「私は死んだのですか?」>
<大震災をめぐる「幽霊」と「妖怪」>
<私たちは数多くの「死霊」と出会ってきた>
・これから私は「幽霊」の話をするつもりである。震災後に出会ってきたおびただしい数の死者の霊についてだ。残念ながらしかし、私が「幽霊」をこの目で見たり、会話を交わしたという話ではない。
亡くなった近親者や仲間の霊に被災者が出会った、あるいは身も知らぬものの霊と被災地を訪ねた人がコミュニケーションしたなどという「霊体験」を記録した出版物が刊行されつづけている。そうした読書をとおして、私も数多くの霊と出会ってきたというのである。被災地における霊体験の記録者は、宗教家、宗教学者、社会学者、ノンフィクション作家、フリージャーナリスト、新聞・通信社の記者と幅広い。にもかかわらず、出版が相次ぐのは読者の需要があるからだろう。
<さまざまな霊魂譚>
・宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが幽霊に遭遇したという事例は、調査者が社会学を学ぶ大学生だということでも話題になった。
石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏にもかかわらず、ファーのついたコートを着ていた。目的地をたずねると、大津波で更地になった集落だった。「コートは暑くないか?」と聞くと「私は死んだのですか」と答えるので、ミラーを見ると後部座席にはだれも坐っていなかった。
<あの世からの伝言>
・『龍の子太郎』や『ふたりのイーダ』などの童話を書いたことでも知られる民話採集者の松谷みよ子は、『あの世からのことづて――私の遠野物語』に、現代の幽霊譚や怪異譚を数多く収録している。
・こうした霊体験は決して珍しいことではない。親しい人が突然この世からいなくなったとき、人びとは霊と再会し、死んだものもまたこの世に現れるのだ。霊との遭遇は身近な人にだけ起こるともかぎらない。大震災の被災地を離れても、交通事故現場に立つ幽霊を見ることは不自然なことではないし、死んだはずのものがタクシーに手を上げ、ドライバーが乗せてしまうこともあるだろう。個別的な霊体験はこの瞬間にも各地で起こっている。不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、東日本大震災では、その数が圧倒的に多かったという違いだけなのだ。