日本は津波による大きな被害をうけるだろう UFOアガルタのシャンバラ 

コンタクティやチャネラーの情報を集めています。森羅万象も!UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。

「その理屈で言うなら神隠しはエイリアンによる誘拐と見做すのが妥当であろう。神隠しは決して迷信などではなく、実際の事件を報告しているものかも知れないのだ」(1)

 

 

 

神隠しと日本人』

小松和彦  角川ソフィア文庫    2002/7/24

 

 

 

神隠

・ある日、突然、人が日常世界から消え失せてしまう「神隠し」とは、何なのか。「神隠し」にあった人はどこへ行き、何を体験していたのか。どのような神霊が人を異界へいざなうのか。

 

不思議な出来事

・かつての日本人は、自分たちが住む世界の「向こう側」に「異界」と呼ぶことができるもう一つの世界を信じており、そこから自分たちの世界に忍び込んできた「もの」(広い意味での神)に、ふと取り隠されて、異界に連れ去られてしまうことがあると信じていた。「もの」に取り隠されたのだ、としか言いようのないような不思議な失踪事件。それに対して人びとが張りつけたのが、「神隠し」というラベルであった。

 

異界の消失

・それが現代人の眼からすれば、たんなる「迷い子」や「誘拐」「家出」等々として判断される事件であったとしても。「神隠し」とは、かつての人びとにとっては失踪事件を説明づけるための幻想のヴェールであったのだ。

 

神隠し願望

・「神隠し」とは、ある日、突然、子供などが日常生活から消え失せてしまうことである。残された人びとは、共同体の外部へと誘い出された失踪者の“その後”にいろいろな思いを巡らせ、多くは暗い気持ちになる。

 

文学作品のなかの「神隠し」

・「神隠し」体験に着目してそれを作品のなかになんらかの形で描き込んだ文学作品は多い。

 

泉鏡花の「神隠し」の描き方と大江健三郎の「神隠し」の描き方はまったく対極にあるといっていいほどの違いをみせている。

 

大江健三郎の思い描く「神隠し」は、泉鏡花よりもはるかに知的に洗練された体験になっている。彼にとっての「神隠し」とは、「われわれの土地の神話と歴史のすべて」を教えてくれる時空であり、「始源の時」「永遠の夢の時」なのである。したがって、「神隠し」から帰還した彼は、「村」の神話と歴史の語り部となり、未来の出来事についての予言者となるのであった。

 

異界に遊ぶ

・ある時、ふと私はそんな思いに取り憑かれて少しずつ民俗社会における「神隠し」について考えるようになったのである。民俗社会の「神隠し」の実態については、すでに柳田国男の『山の人生』という著作がある。また資料集としては、私たちは松谷みよ子が編集した『河童・天狗・神かくし』をもっている。

 

<事件としての神隠

村の失踪事件

・かつての民俗社会(ムラ社会)では、たとえ一晩でも理由もなく日常生活から人が姿を消してしまうことは、家族はもとより民俗社会の人びとにとっても「大事件」であった。

 

・しかし、山から姿を現わした失踪者が「山で異人に出会い、誘われるままに山のなかを歩き回っているうちに異人の姿が見えなくなった。ふとあたりを見回すと夜が明けていて、山のふもとに立っていた」と語れば、人びとは「ほら、やっぱり神隠しにあったのだ」と判断することになるだろう。

 

・長野県下伊那郡上村が昭和52年に刊行した『遠山谷の民俗』に、次のような神隠し事件が記録されている。

 上村と木沢部落との境に、中根っちゅう部落があるだに。ある時、中根部落の息子がどっかへ行っちまっておらんくなったことがあってなあ、近所の衆は心配して村中探したんだに。けえど、二日たっても、三日たっても一週間たっても見つからなんだんな。そうして、とうとうその息子は、それっきり姿をあらわさなんだもんで、みんなは天狗様に連れていかれちまったんだっちゅって噂したんだに。

 以後、悪い事をすると天狗様に連れて行かれちまうっちゅって、子供たちに言い聞かせたもんだに。こりゃあ、今から40年くらい前の話だに。

 

・実際、何年も経ってから、ふいに失踪者が戻ってくることがあった。

 

帰ってきた失踪者

柳田国男の『遠野物語』に、そんな例が記されている。

 

黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、30年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。さらば遠野郷の人は、今でも風の騒がしい日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。

 

 若い娘が神隠しにあい、その後まったく消息がなく過ぎて、30年あまり経って突然この娘が戻ってきた。しかし、戻ってきたわが家の人びとの反応は必ずしもよくはなかった。人びとはもう娘のことを忘れかけており、30年もの歳月はこの娘の占めるべき場を奪い去ってしまっていたからである。彼女はもはや遠野の里人ではなく、異界の住人とされていたのだ。

 

・柳田も佐々木もまったく言及していないが、私はふとこんな疑惑をいだく。数十年も経って現れたサムトの婆は本当に数十年前に失踪した娘だったのだろうか。数十年という歳月は失踪者の社会的位置を奪い取るのみでなく、存在それ自体さえ確認しえないものにしてしまうのである。サムトの婆とはサムトの婆を騙った偽物であったかもしれない。

 

家出・自殺・神隠

神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の「モノ」の属性を帯びることになる。どうやら、サムトの婆の場合にもそうした思考が働いていたらしい。

 

束の間の失踪

神隠しには、右でみたような、失踪したままついに戻ってこなかった神隠しや数十年間も姿を消したままふいに戻ってくるといった神隠しがある一方、その対極に位置するような、ほんの束の間の、たとえば数時間とか一昼夜とか数日、長くても数週間という短期間の神隠しもあった神隠し事件の多くは、こちらの場合であった。

 

・3歳位の女の子が急にいなくなり、翌日の昼に死体となって発見された。大人でも容易には登れない高い山の中で発見されたため、「天狗」に隠されて殺されたのだと思ったという話である。この子供にいったい何があったのだろうか。

 

神隠しの幻想

・遊びに夢中になっているうちに日が暮れ、ついつい家に帰りそびれてしまうことは今も昔もよくあることであろう。きっとこの子供もなんらかの理由で家に戻りたくなかったので、ふらふらと山をさまよっているうちに沢で寝込んでしまうような事態になってしまったのではなかろうか。だから客がはっきりしなかったのだろう。

 そんな事件を、人びとは神隠しと呼んだらしい。

 

狐に化かされる

神隠しの原因とされる「神」、地方によっては「隠し神」とも呼ばれる「神」の正体を、「天狗」に求めるところが多い。この理由については後に検討するが、この天狗と並んで多いのが「狐」であった。それは「化かされた」と表現されるために、神隠しからはずされることも多い。だが、よく検討してみると、右の事例がそうだったように、神隠し事件として考察すべき事象なのである。

 

体験者の証言

・ところで、もう読者は気づかれたかと思うが、私はこれまで意図的に、神隠し事件の事例のなかから、失踪者が神隠し信仰の土俵の外に置かれているような、いいかえれば失踪者を周囲の人びとが勝手に神隠しにあったのだ、と一方的に解釈してしまうような事例を選んで紹介してきた。

 

・右の事例の失踪者は若者であった。彼は戻ってきて、「夜は天狗につれられて山中を歩きまわり、昼は木の上に寝ていて食事は天狗がどこからか草や木の実をもってきてくれた」と天狗に取り隠されていたのだということを自分からはっきり語る。

 

「神」に選びだされた者

神隠しにあった者は異界でどのような体験をしたのだろうか。

 

・つまり、こうした神隠し体験談を、信じがたい妄想として人びとが一笑に付してしまうようになった、ということであったのだ。

 

神隠し」へのアプローチ

・まず、「神隠し」とみなされている事件は、あくまで「神隠し」なのだと理解すべきである。これが私の基本姿勢である。

 

・まず第一に、人を取り隠す神つまり「隠し神」とはどのような神かを考えてみたい。神隠しとは多くは人を隠す神によって引き起こされた事件のことである。

 

・では、そうしたユートピアとはどのような世界であったのか。これが、ここで考えて考えてみようとしている第二の課題である。

 

神隠しにみる約束ごと

神隠し譚の類型

民俗学者などの努力によって、全国各地から多数の神隠し事件についての伝承が報告されている。

 

夕暮れどき

・まず、神隠しが発生しやすい時刻についてみてみよう。神隠しが発生するのは夕暮れどきと考えるところが多かった。

 

隠れ遊び=隠れん坊

神隠しの発生は夕暮れどきが多い。そして、この夕暮れどきに発生する神隠しの事例をみると、さらに神隠しにあうための「約束ごと」があったらしいことに気づく。それは、夕暮れどきに「隠れ遊び」(隠れん坊)をしてはならないというタブーの存在によって示される。逆にいえば、夕暮れどきに隠れ遊びをすると、神隠しが発生しやすい、ということになる。

 

隠れ遊びの約束ごと

・藤田は隠れ遊びに、社会からの離脱・隔離、あるいは迷い子や孤独、流刑に通じる心象風景を見出した。

 

神と人が融け合うとき

・さて、かなり長々と隠れ遊びとは何かをみてきたわけであるが、こうした隠れ遊び論に、なぜ夕暮れどきに隠れ遊びをすると、神隠しにあいやすいのかという答えが見出されるのだろうか。

 ただちに思いつく答えはこうした説の中にはない。

 

・すなわち、柳田は、神隠しにおける鉦や太鼓の使用の意味は、広く民俗社会における鉦や太鼓の利用のなかで理解すべきことがらであると述べつつも、「それは本来捜索ではなくして、奪還であった」と指摘している。

 

音による異界との交信

・楽器とりわけ鉦や太鼓のような打楽器が、人間界と神界・異界との間のコミュニケーション、あるいはこの二つの世界の往還を象徴的に意味するものであるということを、シャーマンの用いる打楽器を分析することから明らかにしたのは、イギリスの社会人類学者ロドニー・ニーダムであった。

 

・したがって、理想の形の神隠し譚では、神隠しにあった者を鉦や太鼓で探すのが好ましいということになるだろう。

 

神隠し事件の4つのタイプ

・これまでの考察から、村びとたちが神隠しにあったのだと判断する事件の結末の相違によって、神隠し事件には四つのタイプがあることが明らかになっている。

 一つは、無事な姿で失踪者が発見されるというものである。これを「神隠しA型」と呼ぶことにしよう。これはさらに、発見された失踪者が失踪中に体験したことを覚えている場合と、そうでない場合とに区別でき、そこでここでは、この二つのタイプのうち前者を「神隠しA1型」、後者を「神隠しA2型」と呼ぶことにする。

 もう一つのタイプは行方不明のままついに発見されないというもので、これを「神隠しB型」と呼ぼう。

 残る一つは、死体で発見されるというタイプであって、これを「神隠しC型」と呼ぶことにする。

 

やさしい社会のコスモロジー

・こうした失踪者の発見場所の一致は、隠し神が空中を飛行する能力をもち、それゆえに失踪者も空中に運び上げられ、さらに隠し神によって天界を飛行して隠し神の世界へと案内され、山々を巡り遊んだりすると語られることと深い関係をもっている。すなわち、発見場所によって、失踪者の体験談のなかに天狗のような存在が現われなくとも、隠し神が天狗もしくはそれに類した“神”であることが、それとなく人びとにはわかるような仕掛けになっていたのだ。

 

失踪者の異界報告

神隠しにあった者の体験談――これは大いに興味のそそられるテーマである。しかしながら、残念なことに、神隠しにあった者の体験談の内容は、総じて貧弱である。正直いって、私たちの知的欲求を充分に満たしてくれるとはいえそうにないような話ばかりである。これはおそらく、神隠しにあった者の多くが幼い子供や頭脳の弱い青年だったことと関係しているかにみえる。

 

天狗信仰

・こうして、失踪者は、異界へと連れ去られて行く。

 私たち日本人は、古代から現代に至る長い時間をかけて天上界、山中界、水中(海中)界(水界ということが多い)、地下界といったさまざまな異界観=他界観を創出してきた。

 そうした異界観=他界観と、神隠し体験者にみられる異界観とはどのように交錯しているのだろうか。

 

つまり、民俗社会の人びとの多くは、人を異界へ連れ去る隠し神は天狗であるとする共通の観念をいだいていたということになるはずである。天狗信仰はそれほど深く民俗社会に浸透していたのだ。いや、こういうべきかもしれない。天狗信仰は民俗社会にあっては、神隠し信仰と結びついて浸透していた、と。

 そういうわけで、神隠しの「神」は「天狗」、つまり「神隠し」とは「天狗隠し」といっていいほどの「法則」(約束)が、民俗社会では出来上がっていたのであった。

 もちろん、章を改めて検討するように、「天狗」のほかにも、人を取り隠す“神”がいた。すでに述べたように、「鬼」や「狐」も多いし、「隠し婆」(山婆のたぐい)や、ときには「河童」や「山の神」なども人を異界へと連れ去っていった。しかし、隠し神のなかで「天狗」は圧倒的比率でその首位を占めていたのである。

 

天狗と異界イメージ

・天狗の棲み家は山奥だと考えられていた。とりわけ山岳修行者が入り込んで修行を積んだりする霊山に天狗が棲んでいるとされた。また、天狗は翼をもっていて、鳥のように空を飛べると考えられていた。また、天狗は赤ら顔の鼻の高い大男で、山伏のような法衣を着て、手には団扇をもち、高足駄をはき、木の葉や木の実を食べ物としているとも考えられていた。

 こうした天狗の属性をふまえて、失踪者が連れて行かれた異界のイメージや、さらに異界での体験は語られているのである。空中を飛行し、城下や近隣の村々やさらには東京まで行ったというのも、山のなかを歩き回ったり、天狗たちの集会(酒盛り)に参加したりするのも、そうした天狗の属性と照らし合わせるとよく理解できる。

 

・もしそうだとすると、私たちが知りたいのは、神隠しされた者が死んでしまったあと、その魂がどこへ行き、どんな体験をしているのか、あるいは行方不明者がどこでどのような体験をしているのか、ということになるだろう。しかし、この点になると、現実の神隠し体験者からは期待する情報をえることはできない。

 

人間界と異界の媒介者としての少年

柳田国男が強調しているように、神隠しにあったと判断されるような事件の中心人物つまり失踪者は、幼い子供、痴鈍な大人、あるいは一時的に精神障害を生じているような人物、そして若い女性が多かった。

 

・さらに、神隠しにあう子供の圧倒的多数を男の子が占めていることも気にかかる。つまり、天狗は男の子供を好むと民俗社会の人びとには考えられていたのだ。なぜだろう、それは天狗の主要な目的が、天狗の性愛の相手にするためであるという観念が流布していたことによっている。神隠しにあった少年を「天狗の陰間(かげま)」というのは、それに由来しているのである。つまり、神隠しにあうのが男の子である場合は、その隠し神は天狗であるのが好ましい。そういう「法則」(約束)があったのだ。

 

行方不明の娘たち

若い女性も神隠しにあいやすいと信じられていた。これはなぜだろうか。

 

興味深いのは、若い女性が神隠しにあったときには、この話のようにほとんど戻ってくることがない、ということである

 

若い女性の神隠し事件伝承には、もう一つの「法則」(約束)があるかにみえる。それは、男の子供の神隠しとは違って、彼女を異界へと連れ去った隠し神が、柳田も気づいていたように、「天狗」ではなく、「山男」や「鬼」であったらしいことである。しかも、そうした神隠しの目的は、彼女を自分の嫁にするためであったと考えられていた。そして、その多くは連れ去った女性を妻にし、また女性の方も逃げ出せないので仕方なく妻になっていると、たまたま出会った村びとに告げたりするものの(これも村びとの幻想であることが多いと思われるのだが)、女の方も隠し神の嫁になりきっていたのである。

 

神隠しの理想型と諦めの儀式

・たしかに、神隠しには、神の声を聞くという積極的な面がないではない。しかし、多くは事実を隠蔽するためのヴェールであった。「神隠し」とは、恐ろしい響きと甘美な響きの双方を合わせもっているが、本当のところは「失踪者はもう戻ってこないと諦めよ」という諦めの響きこそもっとも強いのである。そう考えると、神隠しにあった者に対するまことに形式化された捜索の仕方は、まさしく諦めのための儀式ともいえるかもしれない。

 

さまざまな隠し神伝説

民俗社会の異界イメージ

・私たちはすでに、神隠し事件の検討を通じて、人を隠す神を「天狗」と考える傾向が強いということをみてきた。

 

隠し神としての天狗イメージ

・この昔話の主人公は夢のなかで天狗に連れられて異界――といってもここでは金毘羅さんや箸蔵(はせくら)さんなどの遠方の聖地で、時間と金銭さえあれば行けるところなのであるが――へ、空中飛行によって訪問する。したがって、この昔話の異界体験は夢のなかでの神隠し体験ということができるだろう。

 

天狗信仰の歴史

・さて、ここで天狗信仰史をふりかえってみよう。私たちがイメージする天狗の諸属性の多くの部分を兼ね備えた天狗が登場してくるのは、平安時代からである。天狗には大別して鼻高天狗と鳥類天狗の二種あると考えられているが、平安時代から中世までの天狗の主流は、鳥類天狗で鳶の姿をしているとされていた。

 

・こうした説話をみてみると、すでに平安時代の頃に、突然人が行方不明になると、「天狗」にさらわれたのかもしれないという観念が京の町の人びとの間に広まっていたらしいということがわかる。

 

妖怪から怨霊へ

・雲景がその末席にいた長老の山伏からいろいろと説明を受けていると、突然、集会場に猛火が上がり、大騒ぎとなった。雲景があわてて門の外に逃げ出したかと思ったとき、ふと夢から覚めたような心地になって、あたりを見回すと、内裏が昔あったところの柿の木の下に立ちつくしている自分を発見したのであった。

 

江戸時代の天狗隠し

・さて、平安、鎌倉、南北朝と時代を下りながら天狗と神隠しの関係を垣間見てきたわけだが、江戸時代はどうだろうか。『天狗の研究』の著者知切光蔵によれば、「徳川時代の天狗横行の記録は、ほとんどが天狗攫いである」という。

 

・さて、こうした天狗隠しの歴史をざっと知ったうえで、再び民俗社会の「天狗隠し」事件――天狗隠し事件の大多数は「天狗隠し」とされている――を眺め直すと、おおむねその内容が理解できるのではなかろうか。

 

狐隠し

・「天狗」は人をからかったり、ただ異界を見せるために、しばしの間、人を異界へといざなった。この天狗に似たような神隠しをするのが、すでに本書でもたびたび指摘してきた「狐」であった。

 昔から狐とくに老狐は人に乗り移って病気にしたり、人やその他の事物に化けて人をだます、といわれていた。人びとは狐にひどい目にあわされてきたのである。狐は考えようによっては、天狗よりも意地悪く残酷であった。

 

幻想の人間社会

・もっとも、人びとがこの狐社会を人間社会の向う側に確固として存在しているものと信じていたかということになるとはっきりしない。むしろ、狐が人をだますために作り出した束の間の幻想世界であったかにもみえる。

 

狐はなぜ人をだましたがるのか

・人間の世界と狐の世界(幻想世界)とで時間の流れ方が違うということも注目される。人間世界の1日が狐の世界での1年にあたる

 

・それにしても、なぜ狐は人をだましたがるのだろうか。その答えは一様ではないが、狐は人間の男と結婚したがっている、人間の子をもうけたがっているからだという言い伝えが古くからあり、それと関係しているのはたしかである。

 

鬼のイメージ

・天狗・狐と並ぶ隠し神は「鬼」である。しかし、鬼は天狗や狐と違って、もっと凶悪な存在である。鬼は異界をちょっと覗かせるために人間を誘拐などしない。まして遊び相手にするために異界に人間をいざなうということはほとんどない。鬼ははっきりとした目的をもって人間を異界に連れ去った。一つはそれを餌(食物)とするために、いま一つは自分の妻にするために。このため、鬼に連れ去られた者には悲惨な運命が待ち構えていた。よほどのことがなければ鬼にさらわれた者は、二度と人間界に戻れなかったのである。鬼はマイナスの隠し神の典型的な形象である。

 

・鬼は天狗のように、「面白いものを見せるからついてこい」などと悠長な誘い方はしない。有無をいわせず強引に人間をかっさらっていく。鬼の棲み家も山のなかの岩窟で、そのなかに立派な座敷を構えている。天狗が信仰集団的な社会を形成しているのに対し、右の昔話の鬼は山中に仲間がいるものの、一般的には一人者か家族を形成している。つまり、人間の社会に似た生活をしているのである。鬼はそうした家族の食料として、人間をさらったり、また自分の妻にするために人間の女をさらってゆくのである。

 

鬼と天狗

鬼と天狗は昔話のなかではしばしば置換しうる存在とみなされている。しかし、両者を比較したとき気づくのは、どちらかというと、天狗は男とりわけ子供を好む傾向があるのに対し、鬼の方は若い女を好んでさらってゆくことである。これは人びとが天狗に対しては性的不能者もしくは同性愛者というイメージをいだいているのに対し、鬼に対しては精力絶倫というイメージをいだいていることと関係しているといっていいだろう。

 

酒吞童子伝説

・鬼は古くからの存在で、たとえば『出雲国風土記』にも出てくる。その鬼もやはり人間を食べる恐ろしい一つ目の異形の者として描かれている。鬼は人間生活を脅かす天変地異や疫病を引き起こす存在ともみなされ、とくに京の都の人びとにとっては国家を破壊する意図さえもっているとみなされたこともあった。すなわち、鬼は王土を侵略しもう一つの王国を建設しようとする、都人の敵、国家の敵であった。

 

・さて、占い通り、大江山の山奥に酒吞童子の王国があった。そこは、山奥の岩穴を潜り抜けた向う側にあった。岩穴のこちら側が王土であり、向う側は鬼土というわけである。そこを「鬼隠しの里」という

 

・鬼が城の城内は、四方四季つまり四方に春夏秋冬が配された、時間がほとんど停止したかのような不老不死のユートピアというべきところであった。

 

対抗世界としての鬼の王国

・ここで注意したいのは、この鬼が城は鬼の王国=鬼隠しの里の鬼王の王宮だということである。そこは京の都の帝の内裏に対応するような空間なのである。

 

山姥から口裂け女

・ところで、鬼というと男のイメージがする。しかし、女の鬼がいることも忘れてはならない。それを「鬼女」とか「鬼婆」ということもあるが、民俗社会では「山姥」ということが多い。

 

野村純一は、女子学生たちの記憶する「口裂け女」の伝承を1200例も採集してその変異と変化を検討している

 

「油取り」と纐纈(こうけつ)城

・しかしながら、そうではなく、生血を絞り取って、その血で布を染めたのだ。いわゆる「纐纈染め」の染料にしたのである。そのための生血を製造する人里離れた山中の“異界”を昔の人は「纐纈城」といった。

 

・さて、私たちは隠し神の主要なものを検討しつつ、行方不明者が、どのような神にそしてどのような異界へ連れ去られたのかという疑問に答えてきた。一人の若い女が突然失踪した。神隠しにあったのではないかと、定石通りの捜索をしたが、姿を現わさない。人びとの脳裏をよぎったのは、隠し神の名前やその姿かたち、あるいは隠し神がさらった者をどのように扱っているかといった情景であろう。

 

神隠しとしての異界訪問

浄土=ユートピアとしての異界

・このような場合の異界訪問は、好ましい訪問であって、それゆえに異界の神も好ましい善意にみちた神々ということになるだろう。

 

夢と異界訪問譚

・民俗社会には、好ましい異界に行って帰ってきた人を主人公にした昔話や伝説がたくさん伝承されている。こうした説話群は一般的に「異界訪問譚」と称されている。ふとしたことから好ましい異界の住人と接触をもち、人間世界から異界へ去る。昔話では、そこで話の舞台がそうした異界の方へ移っていくことになるわけである。

 

異界体験談から昔話への変換

・たとえば、岩手県から採集された話では、天上界=雲の上に立派な御殿があって、その御殿の立派な座敷に、一人の白鬚の翁がおり、訪れてきた人間界の若者をもてなす。翁には美しい二人の娘(天女)がいて、この二人の娘は大いにこの若者に関心を示し、密かに聟になって欲しいと思っていると描かれる。そして、この白鬚の翁は、仕事をするときには虎の皮の褌を腰に当て、頭には日本の角が生え、口は耳まで引き裂けた、世にいう鬼に変身する。このときの仕事とは、下界に夕立を降らせることで、この鬼は雷神であった。若者もその仕事を手伝うのだが、やはり雲の上から足を踏みはずして地上へ転落、桑の木に引っ掛かって助けられることになったという。

 

異界の時間・人間界の時間

もう一つ注目したいのは、時間である。人間界と異界(竜宮界)では時間の質が異なっているものとしてこの昔話は描いている。竜宮世界の一日は、人間世界の一年とか百年といった、異なった流れ方をしているのである。たとえば、竜宮の一日が、かりに人間世界の一年とすると、竜宮に一年いれば、三百六十五年も人間界では時間が流れていることになる。

 

人間と神との交換

壱岐は周囲を海に囲まれている。したがって、「源五郎の天昇り」型の昔話に、竜宮訪問のエピソードが加わったとしても納得がゆく。こうした海辺の民俗社会では、竜宮つまり海中異界の存在が強く信じられていたからである。

 

「いばら姫」と「浦島太郎」の時間比較

・ここで私たちは『遠野物語』のサムトの婆の話を思い出す。娘の頃に行方不明になった女性が、30年ほどして「きわめて老いさらばいて」帰ってくる。この女は異界において人間界と同様の年齢を重ねていた。しかし、人びとはその帰還を驚きなつがしがるが、心から喜んでその女を迎え入れることはしなかった。彼女もまた30年後の自分の家や村に安らぎを見出しえなかったようである。30年の歳月は家や村や人びとの心を変えてしまっていたのである。30年前の家や村や人びとが、その老婆を迎えてくれるわけではないのである。

 

超時間装置装置「四方四季の庭」

・この神仙窟としての家は、竜宮城のイメージとも一致する。山師が見せてもらう「四方四季の庭」は、お伽草子浦島太郎」にはっきり語られているように、竜宮にも存在しているからである。たとえば鳥取県日野郡で採集されたヴァリアントによると、竜宮城に案内された太郎は、城内の「花の咲いた間」「牡丹の間」「田植えの間」「盆踊りの間」「祭りの間」「正月の間」を見て回る。

 

社会復帰する「竜宮童子

・このような昔話をいくつも読んでいると、私たちがみた「神隠し事件」のうち、B型に属する行方不明者たちの何人かが、失踪から二百年も三百年も経って、ふと故郷のことを思い出してすっかり変わり果てた村に戻ってくるのではないか、そういう事件がすでに現実にいくつもあったのではないかとさえ思われてくる。

 

異界イメージの多義性

・私たちは、この章で後者の方の異界のイメージを可能な限り明瞭にする努力をしてきた。しかし残念ながら、昔話が描く、民俗社会の“極楽浄土”のイメージもそれほど豊かなものではなく、「四方四季の庭」「竜宮城」「酒とご馳走」「美しい若い女」「富を生む贈り物」といったキーワードで言い尽くせそうな、類型化された異界であったといっていいだろう。

 

神隠しとは何か

現代の失踪事件

・もちろん、失踪事件のなかには、真相はわからないままになってしまうものもある。行方不明者が捜索・捜査の努力のかいなくついに発見されない場合も多い。しかし、そうした未解決の失踪事件についても、人びとの口から神隠しという言葉はもう出てこない。誘拐されたのではないか、家出したのではないか、殺されてどこかに捨てられているのではないか、と行方不明者の“その後”をあれこれと想像する程度である。

 

神隠し」のヴェールを剥ぐ

子供であれ、成人の男女であれ、失踪したまま戻ってこないような事件の真相の多くは、家出か誘拐であったと推測される。

 

人さらいと大袋

・では、それに「神隠し」のラベルが貼られるかどうかは別として、本当に人に誘拐されていった者たちの“その後”はどんなであったのだろうか。いったいいかなる理由で誘拐されたのだろうか。

 

人身売買のネットワーク

・牧英正『人身売買』によると、「人さらい」の背後には全国各地にネットワークをもった「人買い――人売り」集団が存在していた。そうした人売り――人買い商人の生態をよく描き出しているのが、中世の説教節「さんせう太夫」の物語である。

 

・すなわち、この市では、幼い者や働き盛りの者はもちろん、余命いくばくもない老人さえ売られていたという。

 こうした人身売買を職業とする人たちのネットワークや市が設けられることによって、身内の者に売られた子供や娘、誘拐されて遠方から連れてこられた人たちなどが、強制労働や売春などのために買われていったのである。

 

児肝取り伝承「阿弥陀の胸割」>

・誘拐事件=人さらいの横行で留意しておきたいのは、子供の生肝が不治の難病に効くと信じられていたために、それを調達するための誘拐事件が洛中洛外で頻発していることを、14世紀中頃の『園太暦(えんたいりゃく)』や15世紀中頃の『万里小路(までのこうじ)家日記』などが繰り返し記していることである。

 第3章で紹介した『今昔物語』の纐纈(こうけつ)城伝説や昔話の「脂取り」に共通するもので、「子取り」のすべてが生肝を使用するためであったわけではなかろうが、京の人びとの間ではそうした「児肝取り」の噂が流布していたのであった。

 

神隠しの現実隠し

・山本光によると、江戸時代では、家出人が出ると肉親や親類の者たちが家出人を探すことが義務づけられており、文化九年(1812)に改められた幕末の村民欠落に関する規定によると、三十日限六切、つまり合計百八十日間尋ね歩くことが義務づけられ、それを過ぎても見つからないときは、役所に家出人の除帳願いを出した。人別帳から抹殺されるのである。

 

・「神隠し」とは、要するに、失踪時には、人隠しであると同時に、“こちら側”の現実隠しであり、帰村時には、失踪期間中の体験隠しであったということになるのだ。

 いずれにしても、失踪者の失踪期間のことは、“向う側”=異界へ送り出されて隠されてしまう。「神隠し」とはそういうことであった。

 

夢が異界へいざなう

・たとえば、異界に赴くためには夢が通路であったことは、昔話の「源五郎の天昇り」や「脂取り」「髪剃狐」などからもわかる。これらの話の結末は、ほとんどがすべては「夢だった」と語っているからである。

 

神隠しなき時代

・近代とは、{神隠し}というヴェールの上に映っていたこうした共同の夢=異界の夢を撲滅させ、そのヴェールの下にある現実を白日のもとにさらそうとする時代であった。そして、現代ではそれがすっかり現実化しているのである。

 もう失踪事件を真剣に「神隠しだ」という者は一人もいないのである

 

・この事件に対して、当時の人びとはそっと「神隠し」のヴェールをかけた。そうすることで、この「遅鈍」な青年の失踪の理由を“こちら側”に求めず、“向う側”に求めることになった。“こちら側”に求めるのと、“向こう側”に求めるのとでは、この青年の扱いは大きく異なってくるであろう。彼は神に隠されて異界に遊んだのである。さらには、人びととはこうした事件を介して、神の存在を考えたり、異界の存在を信じたのである。

 

社会的な死と再生の物語

・夫が行方不明になって探し回ったが見つからないので、ついに失踪した日を命日と定め、婿を迎えて、商家を継いだが、20年ほど経ったある日、20年前の衣服とまったく同じものを着た夫が出現したというものである。「浦島太郎」の昔話と重なり合う話である。

 

神隠しとは、“社会的死”の宣告であり、それから戻ってくることは“社会的再生”であった。

 

驚嘆すべき解答 高橋克彦

・私はそのように考えてそれらを小説の中に取り込んできた。鬼や天狗、河童といったモノたちは今もたぶん存在する。ただし名称を変えられてしまっている。すなわちエイリアンだ。それこそ科学が発達した今だってエイリアンの存在を信じている人間は多い。アメリカでは大学卒の人間の7割以上がエイリアンの存在する可能性を認めているというその理屈で言うなら神隠しはエイリアンによる誘拐と見做すのが妥当であろう。神隠しは決して迷信などではなく、実際の事件を報告しているものかも知れないのだ。

 

さすがに小松さんはエイリアンまで繋げることは避けているようだけれど、根底は似ている。間違いなく私と同様に神隠しを肯定し、その犯人である天狗の正体や目的に迫る本であろうと睨んでいたのだが…………見事に外れたばかりか、実に恐るべき本であった。読み終えた今、小松さんの鋭い視点に唖然としている。

 

・しかも、この神隠しの解明では天狗や鬼の介在を否定しつつ、天狗や鬼の存在まで否定はしていない。あくまでも神隠しに関する限り天狗や鬼は無実であると力説しているだけだ。このスタンスも見事だ。エイリアンの存在を信じている人間は、なんでもかんでもをエイリアンに結び付ける。小松さんはもちろんそういう人ではない。だからこそ、この解答に読者は納得させられてしまうのだ。

 神隠しのイメージはこの本から変わる

 

 

 

(2020/4/5)

 

 

『日本のオカルト150年史』

日本人はどんな超常世界を目撃してきたか

秋山眞人   (協力)布施泰和  河出書房新社  2020/2/15

 

 

 

 

大本教 開祖が次々と予言を的中させ、勢力を拡大

オカルトと軍国主義が互いに影響を与え合いながら、それぞれが民衆の心をつかんでいったのが、大正時代の後にきた昭和の戦前期の特徴である。それを如実に、かつ、ひな型的に象徴しているのが、大本教の台頭とその弾圧の歴史であった。それは、大本、軍部、政府が入り乱れた、日本の将来の姿を決めるための主導権争いの歴史にも見える。

 

・1904年から05年には日露戦争が起こり、さらに1914年からは第1次世界大戦が始まった。

 そのほかにも、1921年原敬の首相暗殺、1931年9月18日の柳条湖事件を的中させ、王仁三郎自身もアメリカとの総力戦が始まることや、世界大戦で日本が占領されることなどを予言、見事に的中させたという。そして大本教の予言が当たるたびに、大本は勢力を伸ばし、あるいは盛り返すことができたのだ。

 そして、大本ひいては王仁三郎の熱狂的な支持者のなかには、軍関係者も多数存在していたのである。その背景については後述するとして、まずはオカルト界の巨人・出口王仁三郎とは、いかなる人物であったかについて簡単に論じていこう。

 

出口王仁三郎(1)  放蕩息子から一転して第一級の霊能者へ

出口王仁三郎(上田喜三郎)は1871年丹波国(現京都府桑田郡穴太村の農民、上田吉松の長男として生まれた。上田家は、かつては名家で、先祖には天才画師の丸山応挙がいた。ところが、どういうわけか上田家には道楽者や極道者が相次ぎ、家は次第に没落、喜三郎が生まれたときには、赤貧あえぐ小作農にまで落ちぶれていたという。

 

・転機が訪れたのは、父・吉松が亡くなった翌年の1898年、喜三郎27歳の年であった。侠客とのけんかで重傷を負った喜三郎が、気がつくと家から2キロ離れた高熊山の岩窟にいたというのだ。喜三郎はそこで、「芙蓉仙人」らに導かれ1週間の修行に明け暮れた。これによって神界や霊界について学ぶとともに、霊能力を開花させたとされている。

 生まれ変わった喜三郎は下山後、家業の牧畜業から身を引いて、幽斎の修行と布教に専念した。その霊能力はたちまち、広く知られるようになり、静岡県の稲荷講社から誘いを受ける。講社を訪れた喜三郎は、本田親徳から言霊学・鎮魂帰神学、太占学の日本三大霊学を継承した稲荷講社の総理長・長沢雄楯と面会。長沢から指導を受け、本田式鎮魂帰神法を学び、本田親徳儒学書や鎮魂石、石笛を授かった。

 

出口王仁三郎(2) 予言者・出口なおと霊能者・出口の出会い

・長沢のもとを離れて故郷の穴太に戻った喜三郎(出口王仁三郎)は、休む間もなく、守護神である素戔嗚の分霊であるという「小松林命」から「一日も早く西北の方をさしていけ。神界の仕組みがしてある。待っている人あり」という神命が下る。喜三郎が直ちに、穴太から西北の方向にある園部に向かったところ、途中の茶店でその女主人から次のように告げられる。

「実は母に艮(うしとら)の金神がお移りになって、多くの人が神徳をいただいております。その金神様がおっしゃるには、『私の身上を分けて(審神者して)くれる者は東から出てくる。そのお方さえ見えたなら、出口なおの身上もわかってくる』とおっしゃるのです。それで私たち夫婦は、ここで茶店を開いて東から出てくる人を探しておりましたが、あなたがその人だと思われてなりません。母はいま綾部におります。どうかぜひ一度、母の身上をお調べください」

 

・ここまで御筆先が続くと、なおも折れざるを得なくなった。なおは他の信者の反対を押し切って喜三郎を大本に迎え入れた。これにより大本は、開祖出口なお、聖師上田喜三郎という体制ができあがった。御筆先はさらに、なおの末子の澄を世継ぎとして喜三郎と結婚させるに至り、喜三郎は出口王仁三郎と改名した。

 それは同時に、出口王仁三郎大本教団幹部らとの強烈な確執の始まりであった。なお自身も、自分が受けた御筆先の内容に必ずしも納得しておらず、王仁三郎に不信感を抱いていたことが、教団内の混乱に拍車をかけた。

 

浅野和三郎 終末論的な予言を強調して、大本を拡大

・なおに神格を認められた王仁三郎は教団内の権威を確立、なおの御筆先を加筆・編集して、出口なおが亡くなると前後して、のちに発禁処分となる『大本神論』を仕上げていく。

 

・もっとも、大本が軍の一部に熱狂的に支持された背景には、出口王仁三郎という、強烈なカリスマ性をもったオーガナイザーがいたこともさることながら、海軍機関学校の教官でインテリであった英文学者の浅野和三郎王仁三郎に心酔、大本の霊界論を信じてオーガナイザーとなったことが大きかった。

 

・浅野は一面、大本を過激な思想へと傾斜させていった。というのも、王仁三郎が世に出した『大本神論』には、日米戦争や都市の焦土化といった終末論的な予言が盛り込まれていたからだ。急進的な浅野らは、これらの終末論的な予言を使って、明治維新以降、人々が漠然として抱いてきた不安や鬱屈した感情を煽ることによって、世の中の「立て替え立て直し」熱へと向かわせた。すると、第一次世界大戦ロシア革命米騒動などで騒然としていた人々は大本に殺到、あれよあれよという間に、信者数は30万人に達した。

 

第一次大本事件 政府による大規模なオカルト弾圧はなぜ起きたか

・時の政府は、大本が買収した新聞や機関誌などを通じて信者を拡大し軍部や上流階級まで影響力をもつようになった大本に、危機感を募らせる。

 浅野たちが「東京が焦土と化す」などと終末論的な予言を喧伝して民衆を騒然とさせるようになると、政府は大本を一掃することを決意。1921年2月12日、不敬罪・新聞法違反の容疑で弾圧を加えた。これが第一次大本事件である。

 

・そして保釈中の身でありながら、1924年2月に、王仁三郎は突然、「ミロク菩薩」「ミロクの神」と名乗って満州(モンゴル)に現れる。

 

世界宗教を目指した大本 王仁三郎の東奔西走で弾圧から復活

・この、一見突拍子もない行動の背景にはなにがあったのか。一つには国内で活動が制限されるようになったからには、国外に布教活動の道を求めたのだという見方ができる。実際、その後も王仁三郎は、アジアでの活動を重視して、1929年には中国の軍閥や日本の右翼・頭山満内田良平らと関係を結び、北京に「世界宗教連合」を設立している。同時にアジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体や心霊主義団体と連携しようとした。

 こうしたことから、王仁三郎が目指したのは、世界的な宗教連合をつくることであったといわれている。

 実際に王仁三郎は、バハイ教や紅卍教団といった、ある程度中国で発達したいくつかの宗教団体の取りまとめをしようとした形跡がある。いまでも馴染みの薄いバハイ教だが、UFO問題で注目されたアメリカのスティーヴン・グリアもバハイ教の信者であるといわれている。

 

第二次大本事件  苛烈を極めた、取り調べという名の迫害

・こうした王仁三郎の大胆な試みは、時の政府にとって危険極まりない革命的な運動に他ならなかった。これ以上の教宣拡大とその悪影響を恐れた政府は、大本教を徹底的に排除する方針を決定。1935年12月8日、治安維持法違反と不敬罪の容疑で王仁三郎ら大本関係者を次々逮捕した。これが第二次大本事件である。

 

・1940年の第一審では、幹部全員が有罪とされ、王仁三郎は無期懲役の判決を受けた。1942年の第二審判決では、治安維持法では全員無罪、不敬罪王仁三郎は有罪で懲役5年であった。

 すでに6年と8か月間投獄されていた王仁三郎は保釈出所を許され、大審院まで待ち込まれた不敬罪の裁判も、終戦後の1945年10月、敗戦による大赦令で赦免となった。

 京都・亀岡に戻った王仁三郎は、晩年は陶芸など芸術活動に情熱を注いだ。

 

奇跡のリンゴと超常体験

木村秋則氏は1949年11月8日、青森県岩木町(現・弘前市)のリンゴ農家に生まれた。機械いじりが好きな青年に育ち、ごく普通の生活をしていたが、高校生のとき不思議な体験をした。

 自転車にのって家に帰る途中、向かい側を歩く男性が突如動作の途中で動かなくなるという体験をした。

 そのとき、松の木の下に巨大なワニのような動物を見た。自転車を停めてよく見ると、それはヒゲだけでも自分の太ももくらいの大きさがある巨大な龍であった。龍は松の木の上に出て尻尾一本だけで立ち上がると、しばらくしてからそのまま飛び去ったという。

 龍が飛び去ると、不思議なことに、それまで停止していた男性が動き出し、すべてが元に戻ったのだという。私も経験したことがあるが、3日間別の世界で過ごしたのに戻ってきたら3時間しか経っていなかったということは、オカルトの世界ではよく起こるのだ。私はそれを「逆浦島現象」と呼んでいる。

 

・妻・美千子さんが農薬に弱い体質だったこともあり、木村氏は1978年に農薬を使わずにリンゴを栽培しようと決意。ところが、7年経っても8年経っても一向に成功しない。借金はかさみ、家族や親せきに迷惑をかけるばかりであった。

 そしてとうとう1985年、ねぶた祭りの前日の7月31日、前途を悲観して岩木山山中で自殺をしようとする。ところが、木にロープを掛けようとしたとき、月明かりのなかで、すくすく育っている自然のドングリの木を見て、「ハッ」として、まるで啓示を受けたように土の重要性に気づく。長年、気づかなかった謎が解けて、彼は自殺をやめ、土の改良に精を出すことにした。

 

1988年、木村氏はついに無農薬・無肥料のリンゴの自然栽培に成功した。その成功物語は2013年には『奇跡のリンゴ』として映画化され、大きな反響を呼んだ。実験田は、国連食糧農業機関(FAO)の世界重要農業資産システムに認定されている。

 実はこの成功ストーリーの背後には、数々の不思議な事件が起こっていた。まだ試行錯誤している最中に、畑で時速40キロほどのスピードで動き回る二つの不思議な光を目撃自殺しようとした直前にも、UFOをひんぱんに目撃するようになったのだ。

 バイクで帰宅途中、道をふさぐように二つの人影を見たこともあった。バイクを停めて目を凝らすと、130センチくらいの黒っぽい二つの人影と、猫の目のような形をした四つの目が見えた。とても人間とは思えず、足は宙に浮いていた。

 

・リンゴの自然栽培に成功した数年後には、もっと強烈な体験をする。自宅二階の寝室で寝ていた木村氏がフッと目が覚めて窓の外を見ると、以前帰宅途中に見た「宇宙人に違いない二人」が宙に浮きながら、目をギョロッと光らせてこちらを見ていたのだ。木村氏は金縛りにあって動けず、声も出せなかった。

 二人の宇宙人は、カギのかかっていたサッシをいとも簡単に外側から開けて、窓からなかに入ってきた。そして動けずにいる木村氏の両脇を二人で抱えて、拉致した。木村氏の記憶はここで一旦途切れる。

 

宇宙人によるアブダクト

・次に目覚めたとき、木村氏は大きな建造物のような空間にあるベンチに座っていた。

 

・一人になった木村氏はベンチの上に上がり窓から外を見た。そこには「竪穴式住居がいっぱい並んでいるように、光がずらっと見えた」という。そのとき、例の二人がやってきて、今度は木村氏を両側から抱えて、建物の奥へと連れていった。

 

・そのとき、テレパシーのように言葉が頭のなかに飛び込んできたと木村氏はいう。内容は「われわれは、256のすべての物質を知っている。地球人が知っているのは120くらいで、そのうち使っているのは20とか30くらいだ」「われわれはケーという物質を使って時間を移動している」というものだった。

 

・そこから記憶が希薄になり、気がつくと両脇を二人の宇宙人に抱えられて自宅の窓の外にいた。そして彼らと一緒に部屋に入ったかと思うと、彼らの姿は忽然と消え、木村氏もそのまま眠ってしまったという。

 翌朝目覚めても、拉致された記憶は鮮明に残っていた。だが、もらったはずの丸い玉はどこを探しても見つからなかった。あれは夢だったのだろうか、と木村氏は一瞬訝ったが、夢にしてはあまりにもリアルだった。

 それが夢ではなかったと確信できたのは、拉致から数年後、テレビでUFO番組を見ていたときだった。その番組では、自分が宇宙船のなかで見た女性と同じ金髪の女性が、宇宙人に誘拐され、ベンチに座らされ、右には海兵隊員、左には眼鏡を掛けた小柄な東洋人がいたと証言していたからだ。

 後日、番組関係者と偶然出会って、金髪女性の居場所がわかった。話を聞いた商社の人がその女性に木村氏が描いた宇宙船内部の絵を見せたところ、「眼鏡を掛けた小柄な東洋人」が木村氏に間違いないと証言したのだという。

 

宇宙人からの啓蒙  才能に目覚めるコンタクティーたち

・木村氏の場合は、宇宙人がリンゴの自然栽培の方法を直接教えたわけではなかったが、いろいろ示唆を与えながら、なんらかの影響を及ぼしたと考えられる。

 木村氏のように宇宙人から示唆を受けたり情報を得たりして農業で活躍した人は、他にもいる。メキシコでも、宇宙人から導かれた地球人に教えられた巨大野菜の栽培に成功したオスカー・アレドンドカルメン・ガルシアである。それは宇宙にある未知の力を味方につけ、種子に宿らせる方法なのだという。

 

「UFO目撃」動かぬ証拠の数々

どんなとき宇宙人は現れるのか

このように彼らスぺ―ス・ピープル(宇宙人)は、UFOを具現化させることも、見えなくさせることも自由自在にできる。また、彼らはテレポーテーションで瞬時に場所を移動させることもできる。気が遠くなるような長大な距離の宇宙空間をわざわざ物理的に移動しなくても、「次元調整」とか「波長調整」とでもいうような方法で、時空間を飛び越してやってくる「未来人」が、スぺ―ス・ピープルだと考えてもらってもいい。

 UFOを見たことがない人や、スぺ―ス・ピープルと出会ったことがない人たちには、理解するのは難しいかもしれない。

 

丹波哲郎江原啓之  沈滞したオカルト界の“復興”に貢献

・20世紀末から21世紀初頭にかけて、オカルト界に貢献した人として、丹波哲郎江原啓之両氏の活躍に触れないわけにはいかない。

 丹波哲郎は、超常現象を体験した人たちと一般人との交差点となっていた人だ。本人が有名人ということもあるが、丹波氏が動いてくれたので助かったという人や、丹波氏のおかげで有名になれたという人は多い。彼は、江原氏や私のこともよく取り上げてくれた。

 本当にオカルトに理解のある方で、1987年には『大霊界 死んだらどうなる』を学習研究社から出版。89年には映画化され、大きな流れをつくった。

 

・いまは大人気のスピリチュアル・カウンセラーとして活躍中の江原啓之氏は、脚光を浴びる前の時代は苦労も多かったようだ。しかし、2000年ごろから恋愛や子育てといった、主に女性の身近な話題に絞って、わかりやすい言葉でスピリチュアルなアドバイスをするスタイルに変更した。すると、次第に評判が評判を呼び、2001年に出版した『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』(三笠書房)は100万部を超えるベストセラーとなった。

 

陰謀論に興味を持つ女性たち 男性と女性の対立が超えるべき課題

・そして、これまで主に男性が中心となって築いてきた「男性社会」に女性が進出する。すると、女性たちが、男性たちがつくった社会の矛盾に気がつき始める。コネクションで出世する人がいると思えば、裏取引で業績を上げる人もいる。そうした男社会の本音と建て前が見えてきたときに、女性たちはその矛盾を陰謀論に投影するようになった。

 社会に矛盾や不正がはびこる現実から想像を飛躍させて、フリーメイソンイルミナティなどに代表される陰謀論に興味をもつようになっていく。男性社会がどうもたくさんの陰謀をまき散らしているように思うようになったのだ。その傾向は、この10年で非常に強くなってきた。

 『ムー』の女性購読者数が上がってきたのも、そのころだと聞いている。聞くところによると、いま、『ムー』購読者数の4割が女性であるという。以前は、ほぼ9割が男性購読者だった『ムー』が、この変わり様である。

 

・男女の別なく、人は自分が超えるべき課題に行き詰まると、社会や政治といった大枠のせいにする傾向がある。自分にとって都合の悪い人たちや権威者に責任のすべてを押しつけるという陰謀論の本質は、まさにそこにある。

 しかし、陰謀論のほとんどは架空の産物であり、もし秘密結社が裏から世界を動かしているなら、世界はとっくに彼らに支配されているだろうし、そうなれば、このような生ぬるい支配ではすまないだろう。

 

陰陽対立から和合へ 男女の役割を、それぞれの性が併せ持つ時代へ

・実際、新時代の富豪たちのなかには、反権力の意識をもっている人が増えているとのデータもある。ただし、彼らも反権力だと思ってやったことが、実は権力者と同じことをやっていたというケースもあるようだ。そういうことか起こるのも、「反フリーメーソン」や「反陰謀」を標榜している人たちが、潜在的にはフリーメーソン団体に入りたいという意識を持っているからなのかもしれない。

 自分にとって愛の手を差し伸べてくれる権力はいい人であり、自分を拒絶する権力は敵である。と人間は考える傾向が強いのである。

 

オカルトと人生の意味  自分で体験し、感じ、考えるということ

オカルトは知れば知るほど、体験すればするほど、言葉では表せなくなるものなのだ。知りもせず、みずから体験しようとせず。ネット情報や表層的な話だけを見聞きして、これ見よがしに、浅薄なオカルト評論をネットに書き込む人がいるのは、とても残念である。

 先日、若い人と話をしていたら、「秋山さんのその話はどこに書いてありますか」といって、目の前でネット検索を始めていた。ネットが真実を語ると信じ切っているのだ。ネット情報を盲信するようになったら、それはもう「ネット・カルト」である。

 ネット情報に頼って本を読まないというのも、最近はトレンドになってきた。

 

ITと人類の未来 精神世界の大切さが再認識される時代に突入した

・未来が動き始めた、と感じる。あれだけ期待されたITやネットは、通過点にすぎないことがわかってきた。手段や方法であって、目的ではない。では、人類はどこに向かっているのか。

 人類の集合無意識は、意外とお告げ的で、なにかに導かれるように流れていく、それが単に欲望の集積だとは思えない。やはり、大衆はどこかに導かれていっている。決まった先が明確にあると思う。

 

スマホに膨大な時間を取られ、十把一絡げにした乱暴なネット情報に振り回される。本当に悩むべき情報と悩むべきでない情報を区別しないと、エネルギーを消耗し疲れ果ててしまう。情報の奥の奥、未来はどうなのか、過去はどうなったのか、を深く、冷静に見ていくことが不可欠な時代なのだ。 

 立体的で多角的な目的をもつことが、情報を生かすことであり、自分の人生を豊かにするコツであるといっていい。

 

  

 

『日本UFO研究史

UFO問題の検証と究明、情報公開

天宮清    ナチュラルスピリット  2019/1/20

 

 

 

  • 日本最古参のUFO研究家で、元CBA(宇宙友好協会)会員が、

60年以上に及ぶ空飛ぶ円盤・宇宙人研究の成果を集大成!

生涯をかけて追ったUFOや宇宙人の正体を明かす!

 

松村雄亮(まつむら・ゆうすけ)自らがコンタクトし、「緊急事態」を告げられる

・1959年7月10日、松村雄亮は東京における打ち合わせを済ませ、午後11時半頃、横浜桜木町に着いた。車を拾おうと思ったが、なかなか来ないので、人通りの少ない道を野毛の方へ歩いて行った。

「日の出町の交差点を左折し、しばらく行くと行く手の交差点から1台の車が曲って来て、その前照灯で3人の女性がこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違う時に見るともなく見ると一番左にいた女性が微笑みかけたように思われた、10メートルほど行き過ぎてから何となく気になってふり返ってみると、すでに3人の姿はかき消すごとくにそこにはいなかった。そして上空には、フットボール大の大きな円盤が横浜松竹の屋根をすれすれにかすめるごとく右から、左へゆっくりと街路を横切ったではないか。全身が凍りつく思いであった。では今の女性は宇宙人だったのだろうか。まさか!すぐ後を追った。そこはビル街で横へそれる道はない。1分とたたぬ間の出来事である。しかし彼女らの姿はない」

 

・まず最初は1959年1月16日午前10時ごろ、松村宅上空でゆっくり旋回する「スカウト・シップとおぼしき円盤」を撮影した事件である。当時まだ松村は、アダムスキーなどのコンタクト・ストーリーを信用していなかった。したがって、当然この円盤写真は幸運な偶然によって撮影されたものと考えていたという。しかしそのあと、同誌(『宇宙友好協会の歩み』)では「今から考えれば宇宙人が意識的に文字通りスカウトに来ていたものと思われる」という記述が続く。

 

・その後、家族と共に目撃すること数10回、1958年7月28日には再び自宅の庭で「スカウト・シップ」をカメラで撮影したという。そして最初のテレパシーらしきものを受信して以後は、相次いで不思議な出来事が起ったという。

 

宇宙人の女性・男性と会見する

・1959年7月17日、松村雄亮は東京における打ち合わせの後、夕方7時頃に横浜桜木町駅に着いた。駅前から市電に乗ろうとして、雨の中を停留所に向かう途中、7月10日の夜、謎の微笑を残して消えた女性と再会する。茫然と立ちつくす松村に対し、彼女は誘導するごとく先に歩き出した。2人は野毛の喫茶店で相対して座った。

 年の頃は21、2才であろうか、ワンピースの上に首から下げた直径5センチメートルほどの装飾品が絶えず七色に光り輝いていた。

 ここで彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいること等を打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうと言った。この時2人はコーヒーを注文したが、彼女はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかった

 

・何か証拠が欲しいと思った松村は、目の前の美しい「宇宙人」に「今日の記念にあなたの胸にある装飾品をいただきたい」と申し入れたという。すると彼女はにっこり笑って「いずれ差し上げることもあるかもしれません」と答えた。

 

・1959年7月20日、夕方6時から東京・渋谷でCBAの理事会が開かれることになっていたので、4時頃、松村雄亮は渋谷・道玄坂を歩いていた。すると何者かに左肩をたたかれた。振り返ると品のよい外国人紳士が立っている。「一目見ただけでそれが宇宙人であることが諒解できた」。

 このときも「宇宙人」は松村を喫茶店へ連れて行く。この男性は「日本における宇宙人達のキャップであった」。このとき「宇宙人」から一つの約束が与えられた。それは、「来る25日高尾山頂に円盤が飛んだら、松村を円盤に同乗させる。もしその日に飛ばなかったら都合が悪いのだから後日を待って欲しい」というものであった。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ)ついに円盤に乗る

・翌26日の午前5時頃、山頂で解散。松村雄亮と丹下芳之は横浜まで同道し、午前8時頃そこで別れた。横浜線の車内ですでにテレパシーによって行くべき場所を指定されていた松村雄亮は、横浜駅から直ちに現場に向かったという。

 指定された場所では渋谷で会ったキャップを含めて3人の「宇宙人」が出迎えてくれた。街並みを外れて歩いていると、真っ黒な前方に薄く光る円盤が、浮かび出るように着陸していたという。

 近づいてみると、円盤の直径は30メートルぐらいで、上部のドームに窓はなく、下部は全体に丸みを帯びてギアは見当らなかった。側面の一部が開くとスルスルと梯子が伸びてきて、内部に入る。内部はいくつかの部屋に分かれているらしく、5坪ほどの部屋に招き入れられた。乗員は12名で、うち1人だけが日本語を上手に話し、他は皆英語しか話せなかったという。

 円盤が着陸してから15、6分たった頃、母船に到着した。母船内部の円盤発着場から降り、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。渋谷か新宿の大通りのようであったという。しばらくして、ある一室に案内された。

 この部屋はかなり広く百畳はあったようだった。通路もそうだったが、照明が見当たらないが、かなりの明るさであったという。入った部屋の半分ほどを占める半円形にテーブルが並べられ、そこにずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央に長老と思われる宇宙人が座っていた。その正面にテーブルと椅子が一つ置かれていた。

 松村は緊張してその椅子に座った。宇宙人はみな首から裾まで垂れたガウンをまとっていた。右端の宇宙人が英語で話しかけた。問答はすべて英語で行われたという。

 この問答は三つの要点に絞られる。

 

緊急事態を新聞に発表しようとするも、宇宙人に止められる

  1. 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
  2. われわれとしては、将来の地球再建のために1人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
  3. 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい。

 

あらかじめ用意していた質問や円盤の中古品の話を出すどころではなかった。いきなりこのような話が始まり、その話題で終始したという。

 

・話し合いの間に果物と飲み物が出された。果物は刺身に似ており、赤、黄、緑、紫などの色のものが皿の上にきれいに並べられていたという。コップは上に向かって階段状に広がっている珍しい形であった。グレープジュース色の液体が入っていた。

 残念なことに果物には手をつける余裕がなかった。飲み物はいい香りがしたという。出発した地点に送り返されるまで、約7時間地球を離れていた。

 

・1959年8月18日の打ち合わせに参加したのは松村雄亮、久保田八郎、丹下芳之、小川定時、桑田力であった。「嘲笑されようとヤユされようと、新聞を通じなければ多くの人に知らせることはできない。とにかく事実を事実として新聞に発表しよう」と決めた。

 ところがこの日、松村雄亮が新橋駅に到着するや、宇宙人が姿を現し、「新聞を使ってはいけません」と言われてしまう。

 

「トクナガ文書」と「1960年大変動」騒動

<1960年大変動」騒動>

1960年1月、産経新聞の記事から始まった

・まず、1960年1月29日、産経新聞「話題パトロール」欄が、「CBAの情報」の記事を掲載した。前掲の『宇宙友好協会(CBA)の歩み』によると、

『196X年、地軸が132度傾く。このため海と陸とが相互に入り乱れて、地球上の生物は93%が死滅する。ノアの洪水より数十倍もの大規模な“地球最後の日”がやってくる』という情報をCBAが流したというのである。しかもこれは松村雄亮が直接宇宙人から聞いた情報であると書かれていた」という。この記事は、当時福島県でCBA地方連絡員であった徳永光男がCBAから伝えられた情報と、レイ・スタンフォード、アダム・バーバーという学者の見解などを総合的に取りまとめ、徳永個人の見解を交えて作成されたと見られる。

 松村が宇宙人から受けた通告の第一項は前述のとおり、「地球の大変動がきわめて近い将来に迫っている。宇宙連合はそのため常時地球の観測を行っているが、その正確な時期は今のところ宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである」であった。

 

1959年の「トクナガ文書」を公開!

・CBAの特別情報をお知らせします。(CBAのある人が数カ月前から宇宙の兄弟たちとコンタクトを持つようになりました。以下述べるのは、宇宙の兄弟たちが知らせてくれた情報です。)

  1. 地球の軸が急激に傾くのは、1960年~62年です(ゼロの可能性がかなり大きいと見られています。)

【注】3百機の宇宙船円盤が地球をめぐり、地軸の変動を常に測定しています。

  1. 宇宙の兄弟がわれわれを救いに来てくれます。円盤に乗る場所は、日本では2カ所になる予定です。東日本と西日本の2つのグループに分けられます。この場所はCの少し前(時期を知らせる通知のわずか前)に知らされます。

【注】C――Catastrophe(大災害)の頭文字で、地軸大変動の略記号または暗号として使われます。

 

(以下省略(当ブログ))

 

「地球の軸が傾く?」のはなぜ「1960年」とされたか

・高梨純一が入手した「短い文書」を読むと、どこまでが「宇宙情報」としてCBA幹部たちが共有していたかが不明である。

 

・まず地球の軸が急激に傾くとされる「1960年」について説明しよう。

 1958年、米国テキサス州の円盤愛好家レイ・スタンフォードは弟と連名による著作『Look Up』を自費出版した。それを入手したCBAは、その『Look Up』を翻訳し、1959年8月に邦題『地軸は傾く?』として発行する。

 

・この『地軸は傾く?』の中の「………最も影響の大きい『地軸傾斜』はここ数年内に発生するでしょう。しかし大規模な変動は恐らく196X年に発生し小規模な変動はそれ以前にも突発するかもしれません」とある。

 この部分が原著『Look Up』では「1960年」となっていたが、CBAはこの箇所を「196X年」として出版したのだ。徳永はこのいきさつを知る立場にいたと推定される。

 

レイ・スタンフォードは「1960年大変動」予言に関わったのか

・「レイ・スタンフォードは霊能者(サイキック)で、意識不明のスタンフォードを通じて、様々なアクセントと抑揚による『語り』があり、それらの存在はエーテル界の『白い兄弟たち』とも呼ばれた。彼らはスタンフォードの声帯を借りて語った

 

・見えない霊的存在からの意志と霊媒による肉声で伝える行為から類推されるのは、霊界人による「大変動予言」の問題である。1954年に「1955年に大変動が起こる」という霊界宇宙人サナンダからの予言を受信したのは、シカゴに住む54歳になるドロシー・マーティンであった。

 それは自動書記と呼ばれる心霊的なメッセージ受信によって筆記された。もちろんその予言が外れたので、今日の世界が存続しているわけだが。

 レイ・スタンフォードの声帯を借りて語る「ソース」が、もし「1960年大変動」という予言にも関係があったとしたら、日本に騒動をもたらした元区はレイ・スタンフォードに語りかけた霊界の「白い兄弟たち」ということになる。しかし、それを確認することはできない。

 

「何年何月何日に世界が終わる」という予言もまた、何度も繰り返されてきた。

・「大変動」「最後の審判」の伝説と、「何年何月何日に世界が終わる」という予言は同じ一つの終着点「大変動」「世の終わり」へと向かっていた。しかし、「大変動」「最後の審判」の伝説の流れは「そのときは誰も知らない。ただ父だけが知っておられる」「宇宙人にも分からない」と言い逃れ、「世界が終わる」という予言の流れは「それは何年何月何日」と予言され、そのつど外れてきた。

 

・「神あるいは主」は「そのときは誰にもわからない」で終わるのが定石で、「それは何年何月何日だ」とするのが「予言的霊能者」の役目であったようだ。信じる人々は予言が外れる度に繰り返し失望させられてきた。20世紀となり、米国予言の「1960年」を受けて、CBAに所属する日本人が緊急文書を作成し、それが新聞社に流れて波乱を巻き起こすことになった。

 

トクナガ・ミツオの弟が明かす「ボード事件」の詳細

相手は「天の神様」「サナンダ」と名乗った。サナンダとは「イエスが金星で生まれた名前」であるという。また通信文に見られる「ワンダラー」「リンゴ」という言葉は、ウィリアムスンが受信した相手の通信文にも見られるし、日本のボード通信にも見られた。

「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂を指し、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「リンゴ」がなぜそうした意味になるのかというと、地球にまかれた種子(魂)が腐らないように(任務を忘却しないように)することを塩漬けにしたリンゴに例えたものである。

 

・「ワンダラー思想」において、「リンゴ」とは「外の遊星から地球に生まれ変わってきている人」を指す。「ワンダラー」とは、惑星から惑星へと生まれ変わりつつ移動する放浪者の魂のことである。しかし、真性宇宙人との接触者である松村雄亮はこのような概念を否定していた。

 

・筆者の隣にいた久保茂が松村に質問した。「惑星から惑星へと生まれ変わる魂というものはあるのか」と。すると「それはありません」と松村は即答した。

 筆者が思うに、肉体の死によって分離した魂というものは、円盤なり宇宙船に回収されて運ばなければ、他の惑星には行けないということではないか。「死んで、他の惑星へ転生する」という概念は、個人的なロマンとしてなら許されるかもしれない。しかし、それを「メッセージ」として、事実として発信するのは問題が大きい。

 それは霊界所属の自称宇宙人によってなされてきた。その目的とは何か。まさか1997年の「ヘブンズ・ゲート」事件(1997年3月、ヘブンズ・ゲ-ト[天国への門]と呼ばれるカルトが、カリフォルニア州サンディエゴ市北部で「ヘール・ボップすい星接近に合わせて」として集団自殺し、死者39人を出した事件)のような結末を招くようなものとは思いたくない。

 

・その世界の住民はUFOのように我々の眼には見えるものではない。眼に見えなくても「宇宙人」を名乗ってコンタクトしてくるのだ。

 「宇宙人」を名乗る眼に見えない意識体は、特定の人物を選び「メッセージ」を伝えたりする。その結果、科学的なUFO研究に種々の分派が生まれるという現実となってくるのである。

 

松村雄亮の「宇宙連合」とのコンタクトとCBAの古代研究

松村雄亮と「宇宙連合」とのコンタクトの方法

・松村雄亮が1959年7月に茨城県の某地から、在日宇宙人と共に搭乗した円盤は「実体図」には見られない。元CBA理事・丹下芳之から1961年頃、筆者が聞いたところによると、その最初に乗った円盤の内部には設備はなく、人を運搬するだけのがらんどうの機内であったという。

 

・松村は宇宙連合から連絡を受けると、旅の仕度をして航空会社に予約を入れる。横浜から羽田空港へと向かい、国内便で九州の某空港へ飛ぶ。そして着陸地点である丘陵地帯へと向かうのである。

 空飛ぶ円盤の飛行や母船への搭乗は常に「九州の某丘陵地帯」で行われた。その往復にかかる費用、そしてタクシーを使って現場近くに行くための苦労があった。母船の中は、地球大気と変わらない気温に保たれていたという」。

 

・宇宙連合の円盤は、高梨純一がその実在を強く主張した「土星型円盤」を基調としていた。その円盤には一切窓はなく、外界は天井の「天体スコープ」によって見ることができる。円盤に搭乗する宇宙人は、松村雄亮もその能力を得た「SMVP」、つまり人間レーダーのような能力を持っている。そ能力があれば、航空機の自動操縦を上回る操縦性を持つのであろう。自動操縦が完璧になれば、我々の乗り物が窓を必要とする時代は過去のものとなる。

 

松村雄亮がコンタクトした宇宙連合の円盤

・直径が50~60メートルの司令機は、3段に分かれている。3階建ての建物としてみると、1階と2階の吹き抜け空間に、円形のテーブルを囲む大会議室がある。その周辺の部屋、まず、1階には個室と調理室、倉庫がある。2階には個室と資料室、サロン、小さな会議室が2つある。

 動力機関はほとんど見当たらないが、土星の輪に相当する翼を貫く「ダクト」のみがそれに相当するようだ。

 

・「空飛ぶ円盤実体図 中型機」は直径40~45メートル。内部は2段に分かれている。1階にやはり会議室があるが、テーブルは四角い。1階の周囲には資材室、倉庫、調理室、サロン、そして個室が5室ある。制御盤に4人、操縦席に1人が座る。乗員は約12名となっている。

 

・この夜には、長さ3000メートル級と1700メートル級の母船が撮影された。その状況は『空飛ぶ円盤ニュース』と『空飛ぶ円盤ダイジェスト』に掲載されている。

 

著者略歴  天宮清

・1960年春、弟から平野威馬著『それでも円盤は飛ぶ』を見せられて、すぐに三省堂書店へ行き『これが空飛ぶ円盤だ』『空飛ぶ円盤実見記』『我々は円盤に乗った』『地軸は傾く』などを購入。CBA発行の宇宙シリーズで月刊『空飛ぶ円盤ニュース』を知り、CBAに入会した。

 

・1975年より天宮一家は奈良県天理市に移り、杉山繊維工業の宿舎を拠点に子育てとUFO観測、スライド作品制作とそれを見る天理高校2部生を相手にした啓蒙活動を展開する。

 

・2011年2月5日に娘が心肺停止により病院に搬送され、以後植物状態になって長期入院することとなる。その入院先に妻と毎日通う過程で、新たなUFO目撃撮影や印刷通販による冊子の制作を行う。

 

・著書に『天空人伝承~地球年代記~』(たま出版)がある。山岡徹、山岡由来は筆者と妻のペンネーム。

 

 

 

『UFO事件クロニクル』

ASIOS   彩図社   2017/8/29

 

 

 

リンゴ送れシー事件

・1960年、「宇宙友好協会(CBA)」が密かに地球の地軸が傾く大異変に備えるよう会員に指示していたことがマスコミに報道され、社会問題となった事件。

 

<大災害を予言する文書>

「リンゴ送れシー」という呼び名は、1959年末、CBA幹部・徳永光男が作成したとされる通称「トクナガ文書」の内容に由来する。

 その内容を要約すると、1960年あるいは62年に地軸が傾く大変動が起こるが、宇宙の兄弟が我々を助けに来てくれる。円盤に乗る場所は日本では東日本と西日本の2ヶ所であり、具体的な場所は「C(英語のcatastrophe:大災害の頭文字をとったもの)」の少し前に知らされる。Cの10日前に電報又はその他の方法でCが起こることが知らされるが、その電文が{リンゴ送れシー}ということだった。

 

・11月3日には、「重大な任務を遂行する」資金を確保するため、浅川嘉富、平野威馬雄らが発起人となって「維持会員制度」が設置されている。

 

宇宙人の長老と会見

・ではなぜ、CBAは、1960年に地軸が傾くと信じたのだろう。

 事件を遡るとその発端は、CBAが1959年に翻訳出版した(松村雄亮訳)したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に行き着く。

 本書にはスタンフォード兄弟がコンタクトした宇宙人から知らされたとして、1960年に地軸が傾く大変動が起きると記されていた。CBA幹部はこれをこのまま信じていいものかどうか大いに迷い、原著者の1人、レイ・スタンフォードにこの点を確かめたところ、返書には「私の会っている宇宙人はいまだかつて嘘を言ったことはありません」とあった。そこで直接宇宙人に確かめてみようということになり、1958年6月27日、筑波山上空に松村雄亮代表と幹部が何人か集まってUFOを呼び出した。こととき、実際にUFOらしきものが飛来し、その模様は後日ラジオでも放送されたのだが、肝心の年号については、2名の者の頭に「1962」という数字が浮かんだだけで、決定的ではないとされた。

 

CBA代表の松村はこの直後の7月から宇宙人とコンタクトするようになり、26日には円盤で母船に連れて行かれ宇宙人の長老とも会見したのだが、大変動がいつ起こるか、正確な期日は宇宙人にもわからないということだった。しかもこのとき、慎重に事を運ぶようにと念を押された。そこで日本語版では196X年という形にぼやかして出版した。さらにその後宇宙人からは、新聞を使ってはいけないとも警告された。

 

一般社会からの注目

こうしたなか、1960年1月29日付「産経新聞」がCBAの動きや、荒井、高梨の反論を報じたのを皮切りに、他の週刊誌も関連記事を何本か掲載する。しかもその内容は、「トクナガ文書」の内容を紹介するだけでなく、地球滅亡が近いとして乱行を繰り広げた京都の女子高生や食料を買い込んだ千葉の事件、試験を放棄した広島県の高校生などの他、CBA代表の松村がMIBに襲われた話など、真偽不明の内容が含まれていた。

 

他方、当時の報道を精査しても、事件そのものがそれほど大きな社会問題となった兆候は見当らない。ただし、事件を契機にCBAと他のUFO研究家との亀裂は決定的なものとなり、松村も一時役員を退く。しかし1年後には対立する幹部を放逐し、独裁的な指導者として復帰、以後CBAは独自の宇宙考古学路線をひた走ることになる。

 

宇宙人紳士との愛の軌跡 エリザベス・クラーラー

・エリザベス・クラーラー(1910~1994)は、1980年に『光速の壁を越えて』を出版して世に知られることになる。

 エリザベスはアダムスキーの本を読んで、自分が幼少の頃よりずっと宇宙人と精神的なコンタクトを続けていたことを思いだした。そしてある日、誘われるように近くの丘に行くと、そこには着陸した円盤とハンサムな紳士が彼女を待っていた。

 彼女がエイコンと名乗るプロキシマ・ケンタウリ星系のメトン星からやってきた白人紳士型宇宙人と濃厚なコンタクトをしたのは、54年から63年までの間で、やがて2人は当然のように恋に落ち、エリザベスはエイコンの子供を身ごもることになる。そしてメトン星に4ヵ月滞在し、エイリングという名の男の子を出産する。メトン星は争い事のない自然豊かな楽園で、彼女は地球帰還後、地球を彼らの星のようにすべく世界中を巡り講演活動を行った。

 

松村雄亮(まつむらゆうすけ、1929~?)

・日本のUFO研究家。「空飛ぶ円盤研究グループ」及び「宇宙友好協会(略称CBA)」代表で、自称コンタクティー

 

・1959年、松村が翻訳したスタンフォード兄弟の『地軸は傾く』に記された大異変への対応を巡り、CBA指導部が議論を重ねる中、松村は7月に自ら宇宙人とコンタクトし、さらには円盤に乗って宇宙人の長老とも会見したと主張するようになった。こうしたCBA側の動きはマスコミにも知られることとなり(リンゴ送れシー事件)、CBA以外のUFO研究団体・研究家との関係も決定的に悪化した。

 

・一方、アイヌの文化神オキクルミをはじめ、大和朝廷による統一以前に各地の古代日本人が崇拝した神や文化英雄を宇宙人とする見解が宗教団体「成長の家」との対立を招き(成長の家事件)、熊本のチプサン遺跡に無断でアーチなどの建造物を設置したことが熊本県教育委員会より批判を受ける(チプサン遺跡事件)などで世間の耳目を集めた。

 

・1970年6月24日には、ハヨピラでオキクルミカムイ祭1200年式典が行われたが、この直後松村は消息を絶った。

 松村の行方は他のCBA関係者も詳しく承知していないが、ある証言によれば2000年頃、京都の小さなキリスト教団体に身を寄せて亡くなったという。

 

<クロード・ヴォリロン=ラエル(1946年~)>

・「ラエリアン・ムーブメント」の創始者。コンタクティー。フランス生まれ、車専門誌のジャーナリストをしていた1973年12月13日、フランス中部のクレルモン・フェランに近いビュイ・ド・ラソラの噴火口で、「エロヒム」と名乗る宇宙人に遭遇したとされる。

 その際、ヴォリロンは「一つになる」という意味の「ラエル」という称号を与えられ、人類に「真実のメッセージ」を伝えるための「最後の預言者」としての役割を与えられたと主張する。

 またエロヒムからは、彼らの超技術によって、2万5000年前に人間を含む地球の生物が創造されたことを聞かされたとも主張している。

 

・1975年10月7日には、エロヒムと二度目のコンタクトを果たし、彼らの宇宙船で、母星の一つ「不死の惑星」に行き、数々の驚異的な体験をしたともいう。

 1975年末には、エロヒムを地球に招くために大使館を建てるという名目で、「国際ラエリアン・ムーブメント」をスイスのジュネーブに設立。その後、世界中に支部をつくり、会員を集めている。

 公式サイトからダウンロード可能な入会申込書によれば、会員には大きく分けて「国際会員」と「国内会員」があり、活動を積極的に行う国際会員の場合は、年収の7パーセント、国内会員の場合は年収の3パーセントをそれぞれ会費として納めなければならないとされている。

 

・ちなみにラエルは、ヘアスタイルをちょんまげにするほどの日本好きで知られ、現在は沖縄に移住しているという。またラエリアン・ムーブメントの日本支部は比較的会員が多く、日本での活動も積極的に行われている。

 

バック・ネルソン さみしい農夫と恥ずかしがりやの宇宙犬

・ネルソンが最初に空飛ぶ円盤を目撃したのは54年。家畜たちが突然騒ぎだしたので外に出てみると空に3機の空飛ぶ円盤が浮かんでいたという。この時彼は3枚の写真を撮影し、その1枚にだけ2機の円盤が映っていた。最初のコンタクトはその約1年後、その時は簡単な挨拶のみで、その1ヶ月後には本格的なコンタクトを果たしている。農場に着陸した円盤からは3人の男と犬が降りてきて、ネルソンは自宅に彼らを招き入れた。3人の男のうち2人はバッキ―と名乗る若者と、名乗らない年寄りの地球人で、もうひとりがボブ・ソロモンと名乗る金星人だった。55年の6回目のコンタクト時、とうとう彼らの円盤に乗せてもらい、月と火星と金星のクルージングに出かけている。

 

オルフェオ・アンジェルッチ   虚弱体質なニューエイジ・ムーブメントの先駆者>

オルフェオ・アンジェルッチは、55年に『円盤の秘密』を出版し世間に知られることになる。この時、彼は43歳。

 彼を一躍有名にしたのは心理学者のC・G・ユングが興味を示したことで、ユングはこの本について「彼の中では真実」と評した。

 

・それは心に直接語りかけてくるテレパシーだったが、同年ネプチューンと名乗る宇宙人と物理的なコンタクトを果たしている。そして、海王星、オリオン、琴座などの宇宙人と日常的にコンタクトし、世界戦争が差し迫っていると警告した。また彼はイエス・キリストも宇宙人の1人だとしている。

 

彼がコンタクト体験で語ったことは、きわめて宗教的で、宇宙人は自由に現れたり消えたりすることができる実体を持たない存在であるとされた。宇宙人が高次元の精神的な存在であるとする言説は、今ではニューエイジの世界ではありふれたものだが、彼が著書で「ニューエイジ」という言葉を頻繁に使っていることと合わせて、ある意味時代を先行していたと言えるだろう。

 アダムスキーがあくまで既存宗教と距離をとったのに対して、キリストも宇宙人の1人としているところも興味深い。

 

<ウッドロウ・デレンバーガー  UFOに人生を壊されたミシンのセールスマン>

・ウッドロウ・デレンバーガー(1916~1990)は、1966年に宇宙人と遭遇した体験がメディアに報道され世間に知られることになる。

 

・その物体は着陸し、中から長い黒髪を後ろに撫でつけた浅黒い肌の男がニタニタ笑いながら降りてきた。その男は怖がる必要はない、わたしはきみの国よりはるかに力の弱い国からやってきたとテレパシーで語りかけ、男は自分をインドリッド・コールドと名乗った。

 その2日後、デレンバーガーはまたもやコールドからのテレパシーを受ける。彼は自分が戦争も貧困もない「ラヌロス」という地球とよく似た惑星からやってきたと語った。その後、コールドは彼の前に度々現れ、デレンバーガーは彼らの宇宙船への搭乗も果たしている。宇宙船の中はがっかりするほど何の変哲もなく、ベッドや見覚えのある商品がおかれ、ラヌロス星は牧歌的でヌーディストの星だったという。

 

・このことが報道されてからというもの、電話が鳴り止まなくなり、UFOをひと目見ようと集まった人々で彼の農場は連日黒山の人だかりになってしまったのだ。彼は家族と共に何度も引っ越しを繰り返したが、事態はさほど好転せず、耐えられなくなった妻は子供を連れてデレンバーガーのもとを去っていった。

 

エドウィン  やむことのないメッセージ>

・1960年、エドウィンは働いていた南アフリカの農場で無線技師募集の求人でやってきたジョージ・Kと名乗る長身で黒髪の男と意気投合する。そしてその男こそコルダスという惑星からやってきたヴェルダーと名乗る宇宙人だった。彼によれば、地球には宇宙人の組織があり、地球人が精神的霊性向上に気付くように観察しているのだという。

 ヴェルダーはエドウィンとのしばしの親交ののち、円盤に乗ってコルダス星に帰っていった。この話はエドウィンの信奉者であったカール・フォン・ブリーデンによって『惑星コルダスからのUFOコンタクト』としてまとめられている。

 この話にはその後がある。宇宙人ヴェルダーはエドウィンへの置き土産として「無線機」を残していた。エドウィンはあちこちいじってみたが、しばらくはありきたりのホワイトノイズしか聞こえてこなかった。

 しかしその6ヶ月後、ウィオラと名乗るコルダス星人と交信することについに成功する

 コルダス星人は通信の担当者を度々変えながら、宇宙と地球の平和、そして宇宙船の技術的な秘密などを延々と語り続けた。この無線による通信は72年まで続けられ、その後も通信方法を変更して続けられたという。

 

核兵器をなくせとか戦争をやめろとか、UFOコンタクティーたちはそういう直接的なメッセージをあまりしない。彼らが繰り返し訴えるのは、ここではない<他所>があるということ。その<他所>では、ここでは日常的な出来事が、逆にまったく非現実的だったりする――それは例えば、核戦争の恐怖におびえたり、子供が飢えて死んだり、理不尽な争いで人が大勢死んだりすること。そんな、この世界の毎日どこかで起こっている、ごくごく当たり前の出来事が<他所>にはないということだ。

 

並木伸一郎  1947~

・超常現象研究家。1973年に設立された「宇宙現象研究会(JSPS)」では会長を務める。

 介良事件や甲府事件をはじめ、日本で起きた奇妙な事件を現地まで赴いて精力的に調査。JSPSの会誌では、そうした事件の貴重な調査記事が、会員の報告と共に掲載されている。

 

・80年代以降は学研の老舗オカルト雑誌『ムー』のメインライターを務める。オカルト作家としては批判を浴びることもあるが、話を創作したり、プロレスやエンタメだと言い訳するようなことはしない。

 また、表面的なオカルト作家の顔とは別に、海外情報に非常に精通したフォーティアン(奇現象愛好家)としての顔を持ち、UFOについても造詣が深い。おそらく現在、日本で最もUFOについて詳しい人物。

 

・普段、あまり見せない顔を見られるものとしては、『ミステリー・フォトニクル』(デジタル・ウルトラ・プロジェクト)に収録されている「ある円盤少年についてのまじめな話」という記事がある。

 これは、かつてのUFOブームの時代に起きた並木氏とある少年との秘話を記した名文である。未読の方にはぜひ一読をお勧めしたい。

 

韮澤潤一郎  1945年~>

実際は目撃事例のうち、本物は10~15%くらい

新潟県生まれ。たま出版代表取締役社長。UFO研究家。UFOを研究するきっかけは、1954年、小学校3年生の夏休みに初めてUFOを目撃したとき。以来、UFOに興味を持ち、ジョージ・アダムスキーの『空飛ぶ円盤実見記』や『空飛ぶ円盤同乗記』をはじめとするUFO本を読み込み、自宅の屋根に観測台をつくって観測会を開くなどした。

 中学から高校にかけては、自ら『未確認飛行物体実見記録』と題した研究ファイルを作成。写真つきで詳しい観測結果を残している。

 

・大学卒業後は現在のたま出版に入社。当時、社長の瓜谷侑広氏と2人だけという状態からのスタートで経済的には苦しかったため、日本テレビ矢追純一氏が担当していた深夜番組「11PM」などで資料提供するなどして生活を支えた。

 

<南山宏  1936年~>

・超常現象研究家。翻訳家。東京外国語大学ドイツ語学科時代にSFにハマり、早川書房へ入社。当時、SFをやるとつぶれるというジンクスがあったが、それをはねのけ、「SFマガジン」の2代目編集長として、数々のSF作品を世に送りだした。

 超常現象に興味を持ったきっかけはSF同人誌「宇宙塵」。同誌の関係者が日本空飛ぶ円盤研究会に参加していたことから、UFOを入口に興味を持っていったという。

 

・1960年代から70年代にかけては、『少年マガジン』をはじめとした少年誌などで、定期的にオカルト特集記事を執筆。早川書房を退社してフリーに転身後も、精力的に活動を続け、UFO本をはじめとする数多くの著書や翻訳本を出版した。英語が堪能で、翻訳した本では、訳者あとがきが非常に詳しい解説記事になっているのが特徴。

 

・海外の超常現象研究家とも交流が深く、10以上の研究団体に所属。イギリスの老舗オカルト雑誌『フォーティアン・タイムズ』の特別通信員も務める。また日本のオカルト雑誌『ムー』にも創刊当時から関わり、現在も同誌の顧問を務めながら、記事を執筆している。

 日本ですっかり定着した「UMA」(謎の未確認動物)という用語の考案者でもあり、超常現象全般に造詣が深い。

 かつては矢追純一氏のUFO番組などで情報提供を行ったり、自ら出演したりすることもあったが、現在は見世物的になることを嫌い、テレビの出演依頼は断っている。

 

矢追純一  1935年~>

・TV番組ディレクター。1935年、満州新京生まれ。1960年、日本テレビ入社。

 UFOを特集した番組を手がけ、80年代から90年代の日本におけるUFO文化を、事実上牽引した立役者の一人である。

 まだTV黎明期の日本テレビに入社後、様々な番組の現場を転々としたが、なかなか自分に会う番組に出会えず腐っていたところ、深夜の情報番組「11PM」が始まると聞き、プロデューサーに頼んで参加させてもらう。当時の深夜番組はメジャーな存在ではなく、スポンサーもあまりつかなかったが、逆に自由に番組を作っても文句を言われにくい土壌があった。

 もともと矢追氏はUFOに興味があったわけではなかったが、日本人が脇目も振らずに働いて心に余裕も持てない現状を憂い、ふと立ち止まって空を見ることができるような番組を作りたいと考え、当時ブームでもあった「UFO」という、空を見たくなる素材で番組を作り始めたと本人は語っている。

 

・機動性を重視した少人数の取材班で実際に現地取材を行い、目撃者などの当事者にインタビューを敢行する行動力、スピード感のある編集、番組の合間合間に挟まれる特撮のUFO映像となぜか「ピギー ―」と鳴く宇宙人のアップ、何より冒頭の「ちゃらら~ちゃららら~♪」というテーマ曲は当時のUFO大好き少年たちに強烈な印象を残している。

 

<ジョージ・アダムスキー  1891~1965>

アメリカの自称コンタクティー。世界で最初に異星人とのコンタクトを公表した人物。

 ポーランドに生まれ、2歳の時に両親ともにアメリカに移住した。貧困のため高等教育は受けられなかった模様であるが、13年から16年までメキシコ国境で第13騎兵連隊に所属、17年に結婚するとイエローストーン国立公園職員やオレゴンの製粉工場などで働き、26年頃よりカリフォルニアで神秘哲学を教え始めた。30年頃にはカリフォルニア州ラグナビーチで「チベット騎士団」なる団体を設立、神秘哲学の教室を開いていた。40年にはカリフォルニア州パロマー天文台近くに移住し、44年からは弟子のアリス・ウェルズが所有する土地をパロマー・ガーデンと名づけ、そこに建てられたパロマー・ガーデン・カフェで働きながら神秘主義哲学を教えていた。

 

アダムスキーの名が知られるようになったのは、53年にデズモンド・レスリーとの共著という形で出版された『空飛ぶ円盤実見記』が世界的なベストセラーになったことによる。この中でアダムスキーは、51年3月5日に葉巻型母船を撮影し、52年11月20日に、カリフォルニアのモハーベ砂漠で金星人オーソンに会ったと主張している。続く『空飛ぶ円盤同乗記』では、1953年2月18日にロサンゼルスのホテルで火星人ファルコンと土星人ラムーに会い、一緒に円盤に乗った経緯を語っている。

 

・この2書が世界的ベストセラーになると、59年1月から6月にかけて、各国のアダムスキー支持者が集めた資金でニュージーランド、オーストラリア、イギリス、オランダ、スイスなどを旅行し、オランダではユリアナ女王とも会見した。このとき久保田八郎にも訪日の打診が行われたが、十分な資金が集まらず断念したという。

 

その後、アダムスキーの主張はますます肥大し、62年3月には土星に行ったと主張し、ケネディ大統領やローマ法王に会ったと主張するようにもなった。さらに各種の講演会の場や、弟子たちとの非公式の場では8歳からチベットのラサに送られたとか、父親はポーランドの王族で母親はエジプトの王女などとも述べるようになった。

 

 

 

『光速の壁を越えて』

今、地球人に最も伝えた[銀河の重大な真実]

ケンタウルス座メトン星の【宇宙人エイコン】との超DEEPコンタクト

エリザベス・クラーラー      ヒカルランド 2016/4/30

 

 

 

・【宇宙人エイコン】の子供を産み、メトン星で4か月の時を過ごしたエリザベス・クラーラーの衝撃の体験

 

<別世界から現れた一人の男性が運命を変えた>

・大きな宇宙船は、優雅に無音で空中を滑りながら、丘の上に向かって素早く移動し、雲の下で滞空し、姿を消した。それは、再び数百メートル上空に浮上して、丘の頂上の南側に向かった。そして、ゆっくりと高度を落とし、地上約1メートルにとどまった。

 脈動するハム音が空気を満たし、私の鼓膜を打った。巨大な宇宙船によって突然空気が変異したためだった。円形の船体は少なくとも直径18メートルはあり、中央に丸いドームがあった。三つの大きな丸窓が私の方に面してあり、その窓から一人の人物の姿を見ることができた。

 

<彼らの祖先は金星人だった>

つまり、地球の科学者らが理解しているように、地球からケンタウルス座アルファ星まで宇宙飛行士が光速で宇宙旅行できるとすれば、4年を要します。しかし、私たちの宇宙船では、この距離は即座にゼロになります。

 

<太陽という灼熱地獄の脅威>

金星は太陽の膨張サイクルの最後の時に、恒星からの放射線によってすべての植物と動物が死滅して、滅びました。

 

<初めて目にしたメトン星>

ケンタウルス座α星の私たちの恒星系は7つの惑星から構成されています。そのすべての惑星に私たちの文明がおよんでいて、人々が暮らしています。この美しい恒星系の3番目の構成要素はプロキシマ・ケンタウリとして知られており、そのまわりを7つの惑星が軌道を描いて回っています。

 

美しく豊かな自然に満ちた未知の文明

・白と銀色に輝く都市が湾曲した入り江を取り囲んでいた。濃いサファイア色の水は、鮮やかでエキゾチックな色彩で満たされた木と花で生み出された豊かな古典的な美を反射していた。

 

<南極に存在する地下基地とは?>

私たちの領域(次元)は宇宙空間と惑星表面にあって、決して惑星内部ではありません。地下の都市と通路は過去の遺物です。私たちは温かい湖のある南極の地下基地を維持しています。これは私たちの先祖が暮らしていた地下都市のエリアで、当時、氷冠はありませんでした。

 

 

 

『戦慄のUFO&宇宙人ミステリー99』

 衝撃写真493点 エイリアンと人類の恐怖の真実

 悪魔の協定か?ダルシー人体実験、エリア51のエイリアン、ピラミッド型のUFO登場、地球内部の異星人基地、フリーメーソンとNASAの陰謀

 南山宏   双葉社   2010/7/14

 

 

 

 <惑星セルポとの極秘交換留学>

アメリカ政府は、選り抜きの軍人12人を惑星セルポへと交換留学に送り出していた・・・。

 

・このイーブ1号が宇宙船の残骸から見つかった通信装置で故郷と交信し、相互理解を深めるための交換留学生計画が進んだという。その故郷がレティクル座ゼータ連星系の惑星セルポだ。

 

・留学メンバーを乗せ、宇宙船が出発したのは、1965年、彼らは、表向き行方不明者とされ、身元や記録が抹消された。ネバダ実験場にセルポの宇宙船が到着し、地球に残るセルポの留学生と入れ替わりに旅立ったのだ。

 

・ふたつの太陽が輝き、地平線下に沈むことはほとんどない星で、大気や気圧は地球とあまり変わらなかったという。メンバーはあたたかく迎え入れられ、平等で穏やかな社会生活をつぶさに観察、体験することができたらしい。

 

・8人が持ち帰ったデータや資料、高度科学技術を示す品々は、その後の米軍の科学技術の発展に寄与したようだが、彼らの肉体はセルポ滞在中に強い放射能にさらされていたため次々に病死したとされている。

 

 <大統領が異星人と交わした密約>

・1954年のアイゼンハワー政権時代に、連邦政府憲法の抜け道を使ってエイリアンの一種族グレイと「グリーダ協定」と呼ばれる密約を交わしたというのだ。協定の内容は、エイリアンの先進科学テクノロジーを学ぶのと引き換えに、エイリアンが牛馬を捕獲し、人間にインプラント技術を試す実験を許可するという恐ろしいものだ。アメリカが標榜する人道的行為とは正反対の内容である。

 

・反人道的な密約に至った理由は、米政府の力ではエイリアンと戦っても勝てないため、相手の条件をのむ内容になったと告白している。

 

・実際、その後のアメリカ国内では、家畜類が不可解な死を遂げるキャトルミューテーションや人間が誘拐されるアブダクション事件も頻発した。

 

元海軍の情報部員だったクーパーは、MJ12がアイゼンハワーによって創設されたこと、生きたエイリアンの写真が添付された資料に目を通した経験などを赤裸々に告白。

 

密約を交わしたのは、大きな鼻が特徴のラージノーズ・グレイであることまで暴露した。

 

・MJ12絡みで爆弾発言を連発したクーパーだが、2001年納税拒否の逮捕時に撃ち合いになり警察に射殺されてこの世を去ってしまった。政府の巧妙な口封じだったのだろうか?

 

 

 

『カルト・陰謀 秘密結社 大事典』

アーサー・ゴールドワグ  河出書房新社  2010/10/9

 

 

 

エリア21、ステルス飛行物体、マジェスティック12、異星人による誘拐、神の宣託

エリア51はさまざまな名称で知られている。グルーム湖、ドリームランド、居心地の良い空港、ネリス試験訓練場、パラダイス・ランチ、ザ・ファーム、ウォータータウン・ストリップ、レッド・スクエア、「ザ・ボックス」、そしてもっとも味もそっけもない名称は空軍飛行検査センター第3派遣隊である。エリア51ネヴァダラスヴェガスの北約200キロにある極秘の軍事基地で、ここからもっとも近い街は約40キロ離れたところにあるネヴァダ州レイチェルだ。

 

エリア51には、宇宙人の死体を解剖した医療施設や、生きている宇宙人を尋問する取調室がある。UFO研究者のなかには、施設を実際に運営しているのは宇宙人だとほのめかしているものさえいる。グレイ、ノルディック、インセクトイドなどと呼ばれている生命体(異星人)が、実質的に支配しているこの地球を搾取し、人間からDNAを採取していたとしても、私たちの政府はなす術なく、見て見ぬ振りをしている、と彼らは主張しているのだ。

 

・『蒼ざめた馬を見よ』(1991)の著書で、超陰謀理論家のミルトン・ウィリアム・クーパー(1943-2001)は、UFO、外交問題評議会、『シオンの長老の議定書』、エリア51はすべて同じものの一面だと述べている。彼は国防長官ジェームズ・フォレスタル(1892-1949)はベセスダ海軍病院の16階の窓から突き落とされた死亡した、と語っている。彼は、仲間であるマジェスティック12(宇宙人に関する調査、および接触・交渉を秘密裏に行ってきたアメリカ合衆国政府内の委員会)のメンバーが異星人の侵入者と結んだとんでもない取引に反対した後、「退行期うつ病」で病院に監禁されたのだという(クーパー自身、大勢の人が納得できない理由で、アリゾナ州アパッチ郡の警察に殺されてしまう)。

 

・話をクーパーに戻そう。彼によると、ジョン・F・ケネディを暗殺したのはリー・ハーヴェイ・オズワルドではなく、(なんと)大統領のリムジンの運転手だった――なぜなら、運転手が実はゼータ・レティキュラ星からやって来た宇宙人であることをばらすと脅されたからである。宇宙競争がインチキだというのは、すでに月には基地があったからである(それが1970年代以来月に人間が行かなくなった理由だ――テレビで月面を歩く光景を放映すれば、宇宙人の存在が暴かれてしまうだろう)。また数多くの火星探査機がうまく作動しなかったのは、火星がすでに南フロリダくらい発展していて、そこに住んでいる住民たちが自分たちの存在をずっと隠しておきたいと願っているからだ。三極委員会が設立された目的は、アジア、ヨーロッパ、北アメリカの関係を改善することではなく、宇宙人と交流するためだった。

 

では、ゼータ・レティキュラ星人に内通した、地球の反逆者とはいったい誰なのか?今までに陰謀理論家について多少読んだことがおありの方なら、答えを聞いても驚きはしないだろう。それはイリュミナティ、フリーメイソンキリスト教の敵である大富豪(世俗主義者とユダヤ人)などといった、極秘裏にロシアのボルシェヴィキを援助したり、アメリカの憎むべき連邦所得税をごまかしたり、2001年9月にツインタワーを倒壊させ、ペンタゴンを攻撃してひとつの世界を樹立しようとしたりしてきたグループである。晩年のクーパーは、自らが数多くの書物で取り上げ、暴露してきた宇宙人の侵入は実際には起きておらず、それは故意に流されたニセ情報の格好の見本だ、と考えるようになった。イリュミナティが、まず陰謀理論家を利用して、地球外生命に関する嘘の噂をばらまき、宇宙人よりはるかに恐ろしい自分たちの正体を一般人の関心から逸らしていたというのだ。

 

・実際に、空飛ぶ円盤のファンが、エリア51――具体的にいえば、ハイウェイ375の南西に置かれた距離標識29から30の間にある、伝説の黒い郵便箱に群がり始めた。その場所には、グルーム湖に向かって伸びる舗装されていない道路がある。ボブ・ラザーという名の男性がここで目撃できるかもしれない信じられないものについて人々に語り始めたときから、見物客が現れるようになった。1989年11月、ラザーはラスヴェガスのテレビのトーク番組に出演し、極秘施設S-4で自分が携わっていた仕事について話し始めた。その施設は、干上がったパプース湖の近く、エリア51の南約15キロにあり、彼はそこで山腹にある格納庫に収容された7機の空飛ぶ円盤を目撃したのだ。話はそれで終わりではなかった。彼はその空飛ぶ円盤の1機の推進システムの構造を解析する作業を手伝っていたのだ(彼が「スポーツ・モデル」と呼んでいる宇宙船は、反重力エンジンで動いていて、燃料にはかなり不安定なエレメント115と呼ばれる物質が使われていることがわかった。後に、ラザーはこの宇宙船の模型を売り出した)。

 

彼はMIT(マサチューセッツ工科大学)やカリフォルニア工科大学で研究していたと話しているが、どちらの大学の記録にも彼の名前は残っていない。ラスヴェガスに来る前、彼はロスアラモスで働いていたが、上級科学者ではなく技術者で、S-4格納庫やエリア51で働いていたと確証できる記録は何もない。ラザーは、政府が自分の信用を傷つけるため、在職していた痕跡を消したのだ、と反論した。1990年には、悪事に手を貸した罪を認めた(彼は売春宿の経理を手伝っていて、盗撮するためのカメラをそこに取り付けていたのだ)。1993年には、映画界に自分の伝記――まず映画化される見込みのない話――を売り込もうとしたりしたが、現在は、ニューメキシコで隠居生活に近い暮らしをしているが、会社も経営し、車を水素燃料で動かす装置の開発にもいそしんでいるという噂もある。

 

<フィリップ・コーソー>

フィリップ・コーソー(1915――1998)は、勲章も幾度か授与されたことのある元陸軍情報将校だったが、晩年には、ロズウェルに関する体験について驚くべき事実を詳しく語り始めた。彼は1947年にカンザス州フォートライリーで勤務していた、という。そのとき、彼はロズウェルからオハイオ州ライト・パターソン空軍基地に運送する積荷を検査する機会があった。そのなかに、ゼラチン状の液体中に防腐処置を施された異星人の死体が入っていたのだ。「異星人は4つ足で、人間のような姿をしていた……奇妙な顔つきをしていて、指は4本……頭は電球のような形をしていた」と彼は述懐している。後に、ペンタゴンの海外先端技術部勤務を任命されたとき、彼はロズウェルで回収された人工物を検査するよう命じられた。その任務の驚くべき意味に気づいた彼は、人工物の構造を分析するために、防衛関連企業の研究開発部門にその物質を「まいた」と書いている。現在、使われている光ファイバー集積回路、レーザー、暗視ゴーグル、そしてケプラー(芳香族ポリアミド系樹脂)はこの残骸から開発された技術のほんの一部だ―――分子ビーム電送機、(思考を機械に伝える)サイコトロニック装置は相変わらず機密扱いになっている。

 

 

 

NASAアポロ計画の巨大真相』 

月はすでにE.T.の基地である

コンノケンイチ  徳間書店   2002/12

 

 

 

アメリカはUFOテクノロジーをすでに手にしている

・「UFOの推進テクノロジーを、ついに人類―アメリカ合衆国が手に入れることができた」

 

・考えてもみてほしい。この技術こそ世界の歴史のなかで、もっとも懸命に探し求められてきたテクノロジーなのである。こうみれば、この開発のために費やされてきた資金には制限などあろうはずはない。UFO情報が政府によって『超極秘』とされ、固く秘守されてきた最大の理由の一つが、今回の『重力制御テクノロジーの完成』という大成果につながったのである」

 

ペンタゴン上級将校による暴露本!

・驚かされたことは、米国防総省の上級将校フィリップ・J・コーソーが、ロズウェル墜落UFOの国家的な研究を暴露した本を1998年に出版したことだった。 

 本書はロズウェル事件の真偽どころではない、コーソーの職務体験を基にした「墜落UFOの収獲」の方法を述べているからである。

 アメリカではベストセラーの上位を続け、『サンデータイムズ』も「ロズウェルの墜落がUFOであることを証言した、もっとも位の高い人物の本」と絶賛している(邦訳『ペンタゴンの陰謀』中村三千恵訳 二見書房)。

 

・フィリップ・コーソーは21年間にわたり米陸軍の情報将校を務め、アイゼンハワー政権時代には国家安全保障会議スタッフなどの要職を歴任、常日ごろから国防に関わる機密に接し、そのため極秘のUFO情報も握っていた。

 

・つまり、UFOの極秘情報に関わる者でも「54-12」から命じられた範囲だけしか知らず、全体は分からないようになっている。それにコーソーの本の内容も準じているからである。コーソーの本も、アポロ計画NASAには何も触れていない。

 

<暴露本に見る恐るべき真実>

・「軍は二つの戦争に巻き込まれることになった。ソ連と異星人との戦いである。異星人の方がソ連よりも、はるかに大きな脅威だった。そこで相手のテクノロジーを逆手に取り、軍需産業に恩恵を与え、宇宙関連の防衛システムを築き上げることだった」

 

・「これには異星人テクノロジーがふんだんに盛り込まれている。レーザー、加速粒子ビーム兵器、『ステルス』技術を搭載した戦闘機など、そのかげで冷戦終結をもたらすことができた

 

・「二番手に甘んじるのはイヤだとばかりに、どこも密かにロズウェルの兵器開発に明け暮れ、ペンタゴンでは異星人テクノロジーの開発戦争が繰り広げられていた」

 

・「検視報告書に述べられたEBE(墜落UFOから発見された生命体で、通称『グレイ』と呼ばれる)は、生物というよりも、長期の時空飛行専用に設計されたヒューマノイドと考えるべきかもしれない。察するところ、彼らは食料も排泄物処理施設も必要としない。肌を通して科学物質を処理し、排泄物を利用するロボットかアンドロイドにすぎない」(註・1980年代、アメリカで「キャトル・ミューティレーション」といわれる年間2万頭も上る牛の大量虐殺事件が起こった。牛の体内からすべての血が抜き取られ、切り口はレーザーで切り取ったように鮮やかだった。これはグレイの栄養素を得るためだった)

 

・「しかし、宇宙船本体はそのままノートンに残され、ノートン空軍基地はさながら空軍とCIAが管理する異星人テクノロジー博物館のようになった。宇宙船を複製する実験と推進システムの応用実験は今なお続けられている」

 

・コーソーは出版後に心臓麻痺で突然死したが、UFOの真実を暴露することは身の危険さえ生じるのである。

 

実用化されたUFOテクノロジー

・コーソーが手掛けたという、UFOテクノロジーは次のようなものである。

▼映像倍増管・・・・・後の「暗視装置」になる

▼スーパーテナシィ・・・・後の「光ファイバー

▼レーザー切断装置・・異星人たちの2万頭に上る家畜虐殺に使用された

▼分子を圧縮した合金

集積回路および超小型ロジックボード

▼移動式原子力発電機・・・・・アポロ宇宙船に使用された

ガンマ線照射食品・・・・・どんな食品も常温保存できる

▼グレイのヘアバンド・・・・第3の脳・誘導システム

▼加速粒子ビーム兵器・・・電子を刺激する強力光線「SDI迎撃ミサイル」に応用。

▼電磁推進システム・・・・・ステルス機に使用。

劣化ウラン発射体・・・岩窟深くで爆発する弾頭、湾岸戦争で使用。

 

アメリカ(ユダヤ勢力)はロズウェルUFOテクノロジーを利用することによって、現在の世界一極支配を作り上げたのである。

 

 

 

 ペンタゴンの陰謀』

(新兵器開発に隠された驚愕の事実)

(フイリップ・J・コーソー著)  (二見書房)  1998/2

 

 

 

ペンタゴン(米国防総省)とエイリアンとの交渉>

・ロズエル事件のファイルより開発可能なテクノロジーのリスト「暗視装置、光ファイバー、驚異の繊維、スーパーテナシティ・ファイバー、レーザー、分子を圧縮した合金、集積回路および超小型化したロジックボード、イオン小型原子炉、ガンマ線照射食品、第3の脳誘導システム、粒子ビーム兵器、電磁推進システム、ケプラー防弾チョッキとステルス機、劣化ウラン発射体等」である。

 

ロズウェル事件で回収されたシリコンウェーハーは、回路の小型化を可能にし、15年後には、初のマイクロ・コンピューターを生みパソコン革命をもたらした。パソコンもレーザーもUFOの超テクノロジーから生まれたといえる。

 

著者は、1960年代の2年間、中佐としてペンタゴンの陸軍研究開発局の海外技術部に籍を置いた。

 

・「私はそこで、二重生活を送っていた。普段は、兵器研究者として、そしてその裏では、私は情報将校として、トルードー中将の相談役を勤めていた。私に託されたファイルには、陸軍の最高機密がぎっしりと詰まっていた。1947年7月、ニューメキシコ州ロズウェル郊外で空飛ぶ円盤が墜落し、ロズウェル陸軍航空基地第509大隊が残骸の回収に当たった。ファイルにはそのときの残骸や情報が収められていた」。

 

・「大きさは子供と変わらない。といっても子供ではない。こんな大きな風船型の頭をした子供がどこにいる?容貌は人間と似ているがとても人間には見えない。両目は黒くて大きかった。鼻と口はことのほか小さく、切れ込みのようだといってよい。耳は顔の両側がへこんでいるにすぎない。皮膚は灰色がかった茶色で、髪は生えていなかった」。

 

・「異星人が食料や排泄施設を必要としなかったのは、ロボットかアンドロイドのような存在だったからだ。つまり、宇宙飛行や目的地での任務遂行のためにわざわざ作られたのだ!?」、「ロズウェル事件から50周年にも米空軍はあらためて事件を否定する発表を行なっている」。

 

 <政府はさらなる隠蔽を行なう>

・「1962年に国防省補佐官は、報道陣を前にしてこう言った。『未確認飛行物体の情報が国家の安全保障にかかわることであれば政府は、国民はおろか、議会にも通告しない』」。

 

 

 

『たどりついたアイヌのモシㇼでウレシパモシリに生きる』

水谷和弘  はる書房    2018/10/12

 

  

 

<縄文・アイヌ文化を伝える土地に住む>

・10年ほど前に私は8年間借りていた荷負の家を買いました。その我が家の土地と家の周りの私が管理している畑から石器をはじめ多彩な物たちが出土します。

 磨石や石皿、削器(スクレーパー)、石斧、ナイフ型石器などの遺物が出てきた場所は山の中腹、周囲は畑と山林で小高い山も奥にあります。細

石器も数多く、石器の加工場があったことが分かります。アオトラ石や黒曜石の石器の完成美品も出てきました。

 この地域に現在3世帯しか暮らしていませんが、かつてはアイヌの世帯が53あったと聞きます。私の畑のあたりは、エカシ(長老のこと、ホピポイ部落長)が住んでいた所だとアイヌの古老の男性が教えてくれたことがあります。

 

・石器以外にも土器も多数破片で出土していて、平取町立歴史博物館に預けてあります。その土器片は沖縄中期から擦文時代のもので、さらに収集した、もしくは収集しきれない陶器と石器のスクレーパーなどを造ったときに生じる細片が畑から出ます。

 近隣には「荷負2遺跡」と「荷負小学校遺跡」と「荷負ストーンサークル跡遺跡」がある平取町全体で100を超す遺跡があるという話です。我が家の周りに盛土が崩れないように設置された石も、元はストーンサークルの石だったと知人は言っています。さらに古老から、平取にストーンサークルは13ヶ所あったと聞かされました。

 

・また、我が家から200メートル離れた所に湧き水がありますが、その水は大切に利用されてきたと思います。元の家の持ち主曰く、家より25キロほど離れた岩志地という所にある鍾乳洞の絵が描いてあった岸壁は戦争中セメントを作るため壊したが、家の入口に置いてある石はそこの鍾乳石だと教えてくれました。絵は見ることができませんが、その鍾乳石はいまだに私の家にあります。

 縄文時代の生活道具――石器だけでなく土器(草創期から晩期)、また擦文土器、そしてかなり古い陶器の破片からビール瓶やガラス片までが出てくる。そんな大地に私たちは住んでいるのです。

 

・かつて、ここはホピポイ部落と呼ばれていました。でも、アイヌ語のホピポイの意味は私には判りません。しかし、アイヌ語地名を漢字にして当てはめるとき、ニオイを荷負(逆から読むと負荷)とするとは、なんて先住民族アイヌに対して失礼な卑劣なことでしょうか。こんなところにも、言葉が奪われ文化が奪われている。土地が盗られ、心が囚われていったことを私なりに知りました。

 

・ちなみに、ニオイとは樹木が多い所、あるいは木片がごちゃごちゃある所という意味があるとか、のようです。ニオイに限らず北海道の地名はアイヌ語由来が多く、市町村名のおよそ8割がアイヌ語から来ているそうです。

 私の畑から出てくる遺物はさまざまな時を刻んでいます。すなわち、この場所は縄文の草創期より近現代までの複合施設だということです。そして、縄文人アイヌであることを間違いなく証明できる遺跡なのです。

 なお、擦文土器というのは、北海道や東北北部で出土する土器のことで、木のヘラで擦った文様が多く見られたので名付けられたといいます。そして、この土器の使われた7~13世紀の文化を特に「擦文文化」というようです。13世紀後半からは「アイヌ文化」という名でくくられて、北海道全体がこの文化を共有することになったといわれています。

 

・17日の北海道新聞朝刊が、日高管内平取町沙流川水系額平川の支流で、縄文時代の石斧材料として重要な「アオトラ石(緑色片岩)」の露頭が確認されたことを報じていた。

 

・なお、このアオトラ石はアイヌ文化期にも丸木舟の製作に用いられていたという。いくらでも鉄器があった時代なのに、にわかに信じがたいが、何か丸木舟製作に特別な信仰との関わりがあったのであろうか。

 

<“民族”として根源に繋がっていればいい>

アラハバキ」を絆につながる民族、東北{蝦夷}も、三内丸山の時代――縄文時代前期にはすでにアイヌと交流があった。このことは北海道アイヌの大地から出た「宝物」=黒曜石・アオトラ石が、津軽海峡を渡り本州各地に旅をしていることで分かる。

 つまり、本州の遺跡から北海道産出と分かる黒曜石・アオトラ石が出土しているのだ。黒曜石・アオトラ石は狩りの道具や武器に加工でき、また穴開けや肉削ぎ等の各種道具になり、鉄器が一般に流通する室町時代以前、貴重な物であった。

 

<伝統儀式か無用の殺生か、生きることは殺すこと>

・2007年4月、北海道は知事名で、1955年に支庁長と市町村長に対して出した通達を撤廃した。アイヌイオマンテを野蛮だと事実上禁止した通達だ。これには北海道アイヌウタル協会の撤回要請があったようだが、道が国に諮って動物愛護管理法に抵触しないという判断も出たことで撤廃したという。

 が、このニュースが流れると、ウタリ協会や知事に抗議の電話やメールが相次いだという。ネット上でも、批判や誹謗が渦巻いていた。もちろん、撤廃を支持する声も上がる。

 

イオマンテは?「カムイ送り」、神の国に<カムイを>返す儀式です。クマ<キムンカムイ>とともに暮らし、ともに遊び、ともに苦しみ、ともに生きる、心と心がつながり一体になる。

 生きるということは、殺すことを内包する。殺さなくっては生きていけない。

 

<季節を知るアイヌの星座>

・印象的なのは北斗七星の話です。北斗七星はチヌヵルクㇽ[我ら人間の見る神]という名の星座ですが、その姿を見せるとき、冬はクットコノカ[仰向けに寝る姿]、夏はウㇷ゚シノカ[うつ伏せに寝る姿]と呼ばれる。星の1年の奇跡が、あたかも神が寝姿を変えて季節を教えてくれるというわけです。

 

<聖なる地、コタンコㇿカムイが来るところに>

・ソコにはシマフクロウがやってくる。ソコには白いカラスがやって来ている、そうです。

 私は、鳥が来る意味を聞きそびれましたが、おそらく八咫烏神話と似たように、カムイの伝言をする聖なる鳥だと思う。

 八咫烏は、熊野本宮大社主祭神素戔嗚尊のお仕えで、太陽の化身(太陽の黒点だという説もある)、導きの神だという。日本サッカー協会のマークに使われたので有名になったが、あの3本足は天・地・人を現すとか。

 シマフクロウは、アイヌ語でコタンコㇿカムイ=集落(部落)を護る神さまだ。カムイチカㇷ゚=神の鳥とも呼ばれる知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』に収められた「銀のしずく降る降るまわりに」も、コタンコㇿカムイが主役で登場する。

 古代の“日本人”は鳥に霊能力があるとしていた。八咫烏が、ほぼ伝説の初代天皇を熊野から大和へ導いたというのだから。ほかにも古神道アイヌの世界観は共通項が多いと思う。

 シンクロが当然のように起きていた。ソコではエカシ(先祖の翁)がいつも祈りを捧げている、エカシがソコに居るようだった。

 聖地はなにげなくソコにある。磨き抜かれた聖地。それらの聖地はすべてつながり、聖地の経路をつくっていることをタモギタケが教えてくれた。

 

<良き隣人ではなかった和人>

北海道に移り住み20年ほどですが、アイヌに対して、いまだ勘違いな歴史観を持っている日本人がいることを時折強く感じます。

 

・まだ茅葺きの家に暮らしている――日本人と違わない暮らしをしています。

 

土人という表現を聞くことがある――非道な同化政策のなかで定められた「北海道旧土人保護法」を引きずった誤った表現です。

・純粋なアイヌはいない――アイヌ民族はいますし、血の濃さで決めることは誤りです。

 伝統的生活空間(イオル)・伝統文化も含んで考えます。多神教アニミズムアイヌの世界観を持つアイヌ文化を大切に暮らす者も含むと私は思っています。

 

アイヌ文化は一つだ――本来は長を中心に置いた家族単位の共同体が育む部族文化です。したがって、共通の基層文化はありますが、部族によって、言葉や儀式、習俗、刺繍や文様、さまざまな異なる面を持っています。

 

アイヌは乱暴者――どこからそんな考えを仕入れてきたのでしょうか。中央政権に服わぬ民という政権側の見方を受け継いで、無自覚のまま敵対しているところから出た表現なのかもしれません。

・搾取と自然破壊を行なう「良きシサムではない」敵対する和人に対して、服わぬ民は戦で臨み、あるいは集団蜂起をしました。よく知られているものでは、東北での東北アイヌ蝦夷阿弖流為の戦いと、蝦夷地でのアイヌによるコシャマインの戦い、シャクシャインの蜂起、クナシリ・メナシの蜂起があります。

 

オキクㇽミカムイは宇宙人なの?

平取町は、現在もアイヌ民族が多く暮らしていることで知られている。

私が住む平取町荷負には、「オキクㇽミカムイのチャシとムイノカ」があります。2014年には国指定文化財「名勝ピㇼカノカ(アイヌ語で美しい形)」に加えられています。

 

チャシとは居城や祭祀の場などを言い、平取町にはその跡がたくさんありますオキクㇽミカムイの居城と伝えられる美しい崖地には、蓑の形をした半月形の岩があります。ムイノカは蓑のことで、ここにオキクㇽミカムイが妻と住んだと言われ、蓑は妻が置いていったものだそうです。とても大事にされ、祀られてきた場所であり、この地域の人びとから敬意が払われていたとのことです。

オキクルミ」は「カムイユーカラ」(神謡)に登場する人間(アイヌ)の始祖となる英雄であり、アイヌに生活文化や神事を教えました。「アイヌラックル」の別名とも言われますが、こちらは「人間くさい神」。また、知里幸恵さんのアイヌ神謡集では、「オキキリムイ」と表記されています。

 

オキクルミはシンタ(ゆりかご)に乗って東の空から降臨したという言い伝えもありますしアイヌラックルは燃え盛る炎の中から生まれたと山本多助さんの記した「アイヌ・ラッ・クル伝」にあります。ネットで検索してみると、次のような面白い紹介がありました。

 

義経神社は、寛政10年頃、近藤重蔵源義経公の像を寄進して創立したとされる古社である。一般に義経は奥州平泉で自刃したとされるが、実は密かに三廐から蝦夷地に渡ったとする義経北行伝説が古来よりまことしやかに伝えられている。

もともと平取にはアイヌ民族の始祖に関する伝説が多く、神社のあるハヨピラ(武装した崖の意)もアイヌの文化神オキクㇽミカムイが降臨した土地と伝えられていた。オキクㇽミカムイは家造りや織物、狩猟法など様々な知恵をアイヌに授け、アイヌ民族の生活の起源を拓いたとされる神であるそこに義経北行伝説が入り込み、知人がアイヌを鎮める政策としてオキクㇽミカムイと義経が意図的に結びつけられ、いつしかアイヌはオキクㇽミカムイと義経を同一視するようになった明治11年に平取を訪ねたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと、当時のアイヌは、義経を自分たちの民族の偉大な英雄としてうやうやしく祀っていたことがわかる。

 

古代遺跡とUFOは何らかの関係があるということは現代においても否定しがたいものがあるが、UFO研究団体CBA(コズミック・ブラザーフット・アソシエーション、宇宙友好協会)は、各地の民族伝承を調査する中で、アイヌの文化神オキクㇽミカムイの伝説に着目、オキクㇽミカムイは宇宙人であると結論づけた。

 

義経が自害せず北へ逃げたという「義経北行伝説」は江戸時代から広められ、北海道から海を渡ってチンギス・ハーンになったというお話もあるほど、蝦夷地でカムイになっても不思議はないかもしれませんが、アイヌの人たちはどう思ったのでしょうか。

 2006年にプレステで発売された「大神」というアドベンチャーゲームには重要なキャラクターとして「オキクルミ」が登場します。炎の中から生まれたり、生活文化を伝授したり、大活躍するオキクㇽミカムイを宇宙人と見るのは、ナスカの地上絵と宇宙人を結びつけるのと近い感性なのでしょう。いずれにしろ、オキクㇽミカムイはアイヌの人たちにとっては身近な存在なのだと思います。オキクㇽミは実は宇宙人だったという話には、私はロマンを感じないのですが。

 

森町の環状列石と私の夢

・北海道一の規模、森町にある環状列石は、過去に拘束道路建設のため破壊の危機がありました。

 ある日、運転手兼同行者としてアイヌの友人に連れられ、森町の役場、教育委員会に赴きました。アイヌの彼は、そこで「俺の先祖の墓であり、貴重な考古学的資料となる環状列石を破壊するな、むしろ観光の資源とせよ」と申しいれたのです。その夜、私は、こんな夢を見ました。

部族に飢饉が襲い、疫病が流行ります。長がシャーマンに懇願すると、シャーマンは精霊を呼びます。そして、部族に住むすべての民が各々大小の石を持ってシャーマンのいる広場に集まってきます。病気の者もおぶわれながら、あるいは足を引きずりながら小石を大切そうに持ってきました。すべての民が揃うと、輪になって祈りを捧げ、シャーマンを通して精霊の声を聴きます。その導きに従って、部落のみなが新しい地へ移動することになり、その列が続きます。

 

 ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用

義経=ジンギスカン説)

義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日[1])と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。

 

(室町から現在までの大まかな流れ)

源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。

 

江戸時代中期の史学界では林羅山新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され徳川光圀蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。

 

沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏の近藤重蔵や、間宮林蔵、吉雄忠次郎など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には『金史別本』の内容が広まり、幕末まで源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。

 

シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。小谷部や末松らは、この説に関連し軍功に寄与したため勲章を授与されてもいる。義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。

 明治以後の東洋史などの研究が西洋などから入り、史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北・北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している。

 戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説はとしてアカデミックな世界からは取り扱われることはなくなっている。現代では、トンデモ説、都市伝説と評されている。

 新井白石

新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いている。しかし義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。

  

 

 

『図解 アイヌ

角田陽一   新紀元社  20187/7

 

 

 

<天地の図>

アイヌモシリ(人間世界)からふと空を見上げてまず目に入るのはウラルカント(霞の天)。春の訪れとともに靄が湧く空だ。続いてランケカント(下の天)、人間世界の山頂近く、黒雲が渦巻き白雲が乱れ飛ぶ空。その上はニシカント(雲の天)、ここは英雄神アイヌラックルの父であるカンナカムイ(雷神)の領分だという。その上がシニシカント(本当の空の天)、チュブ(太陽)とクンネチュブ(月)が東から西へと歩む空。さらにその上はノチウカント(星の天)ここまで上がれば、もう人間は息ができなくなる。さらにその上が最上の天上界であるリクンカントシモリ(高い所にある天界)だ。カントコロカムイ(天を所有する神)の領分で、人間の始祖が住む。金銀の草木は風を受けてサラサラと鳴り、川も文字通り金波銀波を立てて流れ下る。以上、六層の天上界だが、アイヌ語で「六」は「数多い」との意味を併せ持つため、必ずしも六層でなくても良いともいう。

 

一方でアイヌモシリの下、死者の国であるポクナモシリ(あの世)は、人間世界同様に山川に草木があり、死者の魂は生前同様に季節の運行に合わせて暮らす。だがその運行は人間世界とすべて反対で、この世が夜ならばあの世は昼、この世が夏ならあの世は冬になるという。そしてポクナモシリの下はテイネポクナモシリ(じめじめした最低の地獄界)。英雄神に退治された魔神や生前に悪行を重ねた者が落ちるところで、落ちた者は決して再生させてもらえない。

 

カムイモシリ

・野生動物とは、神が人間に肉と毛皮を与えるためにこの世に現れた仮の姿である。神の本体は天界で、人間と同様の姿で日常生活を営んでいる。そんな神の世界こそがカムイモシリ。山中に、海中に、天空に神が遊ぶ。

  • 神は神の国で、人間同様の生活をしている

カムイモシリとは、カムイ(神)が住まう国アイヌ伝承における「天界」だ。それは文字通り天空にある。一方で人間世界に住まう熊の神のカムイモシリは山の奥の水源にあるともされ、そしてレプンカムイ(シャチの神)など海神の住まいはならば海中にあるとされている。

 ここで神々は人間同様の姿で、人間同様に住まい、着物を着て暮らしている、というのが伝統的なアイヌ文化における神の解釈だ。熊の神ならば上等の黒い着物をまとい、天然痘の神ならばあられ模様の着物を着ている。そんな姿で男神なら刀の鞘に入念な彫刻を施し、女神ならば衣装に心を込めた刺繍を縫い描いて日がな一日を過ごしている。そして窓からははるか下方に広がる人間世界を眺める。

 

神は空飛ぶシンタ(ゆりかご)に乗ってカムイモシリと人間界、さらには地下のポクナモシリ(冥界)を自在に行き来するが、人間が生身でカムイモシリに行くことはできない。人間が天界に行くためには肉体と魂を分離、つまり死ななければかなわない。

 

コタンカラカムイ

天地創造の神・コタンカラカムイ。巨大な体躯と寡黙な仕事ぶりを武器にアイヌモシリの山河を築き、人間を生み出した。しかし聖書の神のような絶対的な創造主ではないのが特徴。

 コタンカラカムイという言葉を訳すれば「村を作った神」。しかし彼が作り上げたのは一村落のみならず天地全体。つまりアイヌ神話における創造神である。そのためモシリカラカムイ(国を作った神)の別名を持つ。だが万物の創造主ではなく、天界の神の命を受けて創造業務を請け負ったとされる。巨大な容姿の男神で、海を渡っても膝を濡らすことがなく、大地を指でなぞった跡が石狩川になり、鯨をそのまま串焼きにして食べたという。

 

コタンカラカムイは楊の枝を芯にして土を塗り付け、人間を作った。だから人間が年老いれば、古い楊のように腰が曲がる。そして地上に近い、草の種の混じった土でアイヌ民族を作ったので、アイヌは髭が濃い。和人の髭が薄いのは、地中深い、草の混じらない土で作られているからだ。

 

チュプカムイ

・天空を照らす太陽を司るチュプカムイ。女神であるとされ、アイヌ民族は太陽の昇る方角を神聖なものとした。日の神が魔神に誘拐されれば天地は暗闇に包まれる。それが日食である

  • 天地を黄金色に染める女神

太陽はアイヌ語でチュプと呼ばれる。その太陽を司る神が、チュプカムイ。一般的には女神とされている。

 

ポクナモシリ

死者はポクナモシリへ行く。人間世界と同様に季節があり、人は狩りや山菜取りで永遠の時を過ごす。一方で悪人や正義の神に退治された魔神が落ちるのはテイネポクナモシリ(最低の地獄)、湿気と臭気が覆う世界だ。

  • この世とあの世は、すべてがアベコベ?

明治初期、布教活動の傍らでアイヌ文化を調査した英国人宣教師、ジョン・バチュラーの書籍によれば、アイヌにとっての「あの世」は3種類ある。ひとつは善人の魂が向かうカムイモシリ(神の国)、次に普通の人が行くポクナモシリ、そして悪人や退治された魔神が落ちるのがテイネポクナモシリである。だが、カムイモシリは外来宗教の「極楽」「天国」の影響から生まれたもので、本来はポクナモシリとテイネポクナモシリの2種のようだ。

 ポクナモシリはアイヌモシリ(人間世界)同様に草木が生い茂り魚や獣が遊び、死者はその中で、生前同様の暮らしを永遠に続けるという。

 

・人間世界同様、あの世でもコタンコロクル(村長)が集落をまとめ上げるが、閻魔大王ギリシャ神話のハデスのように、死者の国全体の長はいない。そして面白い事に、現世の事があの世ではすべて反対になる。この世が夜なら、あの世は昼。この世が夏なら、あの世は冬になる。だから死者が来世で不自由しないよう、夏に死んだ者は冬靴を履かせた上で埋葬したという。

 

オキクルミ

・雷神がハルニレの木に落雷して生まれたオキクルミは、アイヌラックルの別名を持つ。陽の神をさらった魔神を退治する英雄であり、ユーモラスなトリックスターでもある。アイヌ神話における文化神、英雄神。

 

落雷の炎から生まれた英雄神

成長した後に、再度天下り、人間たちに火の使用法や家の作り方、狩りの方法、そして天界から密かに盗み出した穀物の種を元に農業を伝え、ともに平和に暮らした。だがある年のこと、豪雪によって鹿が大量に餓死し、アイヌたちは飢餓に苛まれる。そこでオキクルミの妻は椀に飯を盛り、家々の窓から差し入れて施しを始めた。だが不埒な男が椀を持つ手の美しさに見とれ、家に引き込もうとする。その瞬間に大爆発が起き、男は家ごと吹き飛ばされてしまった。オキクルミ夫妻はこの無礼を怒って天界に帰って行ったが、人間を見捨てることなく神聖なヨモギを束ねて人形を作り、自身の身代わりの神として地上に残していったという。

 

・ところでオキクルミにはサマイクルという兄弟、もしくは相棒がいたとされる。北海道胆振日高地方ではオキクルミは正義、サマイクルは乱暴者で間抜けとされるが、逆に北海道東部や石狩川上流ではサマイクルが正義、オキクルミは間抜けとされている石狩川上流、カムイコタンで川を堰き止めて村の滅亡を企んだ魔神を退治したのは、サマイクルである。

 

ミントゥチ

河童は北海道の河にも棲む

河童は日本各地に伝承がある。だが「カッパ」の名称は関東周辺で、九州ではカワタロウがガタロ、中国地方ではカワワラワ、東北地方の北部ではメドチとそれぞれ名前も変わる。北海道のアイヌ伝承にも、「カッパ」に該当する妖怪がいる。それがミントゥチだ。

 

<キムンアイヌ

里には人間が住む。一方で山には人とも人外のものともつかない者が住んでいる。そんな「山人」の伝説は日本各地に残るが、アイヌの伝説にも同様の逸話がある。それが「キムンアイヌ」……山の人だ。

  • 山中に棲む人外の巨人

柳田国男の『遠野物語』には山中に住む人とも妖怪ともつかない存在「山男」が登場するが、同様の逸話は日本各地にある。優れた体格の男性(女性がいるかは不明)で、衣服を着ている場合もあれば半裸の場合もあり、

餅や煙草を差し出せば山仕事を手伝うなど、人間に対しては概して友好的である。そんな山人、山男の逸話はアイヌ伝説にもある。

 

キムンアイヌ、訳すればそのまま「山の人」。里の住人の3倍の体格を誇り、特別に毛深く、口から牙がつき出している。着物は着ているが、何を素材にした布地か毛皮かはわからない。腕力にも優れ、鹿でも熊でも虫のように捕えてしまう。時には人を殺して喰らうこともある。だが煙草が大好物で、煙草を差し出せば決して悪さをしない。

 

刺青や耳輪はしない。時に人間をさらって自分たちの仲間に加えるが、そんな者は刺青や耳輪をしているからすぐに判る。(女性の個体もいる?)

 

樺太のキムンアイヌは訛ってキムナイヌと呼ばれ、さらにロンコロオヤシ(禿げ頭を持つ妖怪)の別名通りに頭頂部が禿げあがっている。彼らは人間に友好的で、重い荷物を代わりに背負ってくれる。

 

ウェンカムイ

アイヌ世界の神は、豊穣の神ばかりではない

・「ウェン」とは、アイヌ語で好ましくない状況全般を意味する言葉である。ウェンカムイとは、精神の良くない神、つまり邪神や魔神の類である。

 

・神は人間に豊穣のみを約束するものではない。人間にあだなす魔の神、悪霊、それこそがウェンカムイである。太陽を誘拐する悪の権化から、水難事故や病魔を運ぶ疫病神まで、自然界は悪魔に充ち溢れている。

 

コロポックル

「かわいらしい」だけではない小さき人

アイヌの伝説には、コロポックルと呼ばれる小さき人が登場する。一般的には「コル・ポ・ウン・クル」(蕗の葉の下の者=蕗の葉よりも背が低い人と紹介され、北海道の観光地では蕗の葉をかぶったキャラクターの木彫などを目にすることも多い。

 

童話作家の作品にも登場するアイヌの小人伝説「コロポックル。その実態は「かわいらしい」ばかりの物ではない。正体は千島列島北部のアイヌか?伝染病を恐れる彼らの風習が物語として伝えられた?

 

パコロカムイ

・中世から近世にかけて北海道に伝来し、アイヌ人口減少の一因ともなった天然痘アイヌはあられ模様の着物を着た疱瘡の神「パコロカムイ」の仕業として恐れ、患者が出れば全村で避難するなど策を講じた。

  • アイヌモシリに災厄をもたらす疫病神

 天然痘が北海道に侵入したのは鎌倉、室町時代と考えられる。江戸時代寛永元年(1624年)の記録に「蝦夷地痘疹流行」の一文が初めて現れる。以降、江戸時代を通じて流行が繰り返され、和人との交流が盛んな日本海沿岸においては特にアイヌ人口が激減する原因ともなった。

 アイヌ民族天然痘を「カムイタシュム」(神の病)と呼んで恐れ、パコロカムイのしわざと信じた。

 

・幕末になって時の函館奉行がアイヌ対象の大規模な種痘を行い、明治以降に種痘が義務化されるに及び、パコロカムイの影は去ることになる。

 

 

 

『図説 日本の妖怪百科』

宮本幸枝  Gakken 2017/6/6

 

 

 

相撲好きでおとなしい ケンムン

ケンムン」は「ケンモン」ともいい、奄美諸島一体で伝えられる妖怪である。

 奄美の民話では、ケンムン月と太陽の間に生まれたが、天に置いておけないため、岩礁に置いてきたと伝えられる。しかし、海辺ではタコがいたずらをしにくるので、ガジュマルやアコウの老木に移り棲むようになったという。

 その姿は小児のようで、足が長く、座るとひざが頭を超す。髪や体毛が赤く、よだれは青く光るという。猫のような姿であるという話も多い。

 ケンムンの中には、頭に皿を持っているというものもあり、人に相撲を挑んだりするなど、「河童」によく似た習性が伝えられている。相撲をとるときは皿を割れば勝てるのだが、負けたケンムンが一声鳴くだけで、何千何万とケンムンの仲間が集まってくるため、手加減する必要があるのだそうだ。

 また、ケンムンと漁に出ると、大漁になるが、とれた魚はすべて片目がとられているという。棲んでいる木を切られた際には、切った人間の目を突くといわれており、目に何か特別なこだわりがあるようだ。

 ケンムンは、もともとおとなしい性格で、人を害することはあまりないといわれる。第2次世界大戦前まではよく目撃されていたらしいが、GHQの命令により奄美のガジュマルの木が大量に伐採されたことを機に姿を消したという。

 

ガジュマルの木に棲む精霊 キジムナー

沖縄県のマジムンの代表格

ガジュマルの木に棲み、長く赤い髪をした子どものような姿をしているという沖縄県の妖怪「キジムナー」は、鹿児島県の「ケンムン」や「河童」と似た姿や習性が伝えられている

 その呼び名は同じ沖縄県内でもさまざまで、「キムジン」「ブナガヤ」「セーマ」「アカガンター」などとも呼ばれる。人をだましたり、いたずらをすることが好きで、仲良くなると山仕事や漁を手伝ってくれるなど、人間ととても親しい存在だったようである。タコを非常に嫌うといい、キジムナーがいたずらをしないように、赤ちゃんにおしゃぶりの代わりにタコの足をしゃべらせることもあったそうである。

旧暦8月10日のヨーカビーには、キジムナーが点す“キムジナー火”が現れるといわれ、その火は触っても熱くなく、海に入っても消えないといわれた。

 

昭和の時代に入ってからも、沖縄の子どもたちのあいだでは“キジムナーの足跡を見る”という遊びがあったという。その方法は、まず、薄暗く、静かな場所で円を描いて小麦粉などの白い粉を撒く。円の中心に、火をつけた線香を立てておき、呪文を唱えて隠れる。20数えてその場所に戻ると、小麦粉にキジムナーの足跡がついているという。

 

また、沖縄県北部の大宜味村では、専用の小屋を建ててブナガヤが出てくるのを夜通し待つ「アラミ」という風習が戦後まで行われていたそうだ。

  

 

 

琉球怪談』 現代実話集  闇と癒しの百物語

小原猛   ボーダーインク  2011/2

 

 

 

<キジムナー>

たとえば沖縄でもっとポピュラーな妖怪であるキジムナーは、戦後という垣根を越えると、急激に目撃例が減少している。取材していく中でも「戦前はキジムナーがいっぱいいたのにねえ」「戦後すぐはいたけど、もういないさ」という、オジイ、オバアの声を聞いた。

 もしかしたら戦争でのウチナーンチュの意識が変わり、キジムナーの存在を受け入れなくなってしまったのかもしれない。沖縄戦、という次元を超えた壁が、怪の世界にも立ちはだかっていることを、身を持って実感した。

 

<戦後の駄菓子 キジムナーのはなし1>

・Nさんはとある離島の出身である。

 Nさんのまわりでは小さな頃から、キジムナーの話は日常的に伝えられてきたのだという。

 その昔、キジムナーは家々を回り、さまざまな人々と物々交換をしていたのだという。

 

・島のキジムナーは、本島のキジムナーのようにガジュマルの樹を住処とせず、洞窟の中で暮らしていたという。

 戦前までは、むらを訪れては食べ物を交換したり、人間に火を借りにきたことさえ、あったのだという。そんなキジムナーも、戦後はぱったりと現れなくなった。

 だがNさんは、幼い頃にキジムナーを一度だけ見たことがあるのだという。

 夕暮れどき、Nさんがまだ子どもの頃、実家の家の近くの浜辺で遊んでいたときのこと。

 一人のキジムナーが、森の中から現れて、Nさんのほうをじっと見ていたのだという。友達数人もその場所にいたが、彼らにはキジムナーを見えるものと、見えないものに分かれたのだという。見えたもの代表として、Nさんはキジムナーに声をかけることになった。

 Nさんは、知っている限りの方言でキジムナーに挨拶をしたが、どれも無視されてしまった。

友達の一人が、駄菓子をくれたので、Nさんはキジムナーのそばまでいって、駄菓子をあげたのだという。

 するとキジムナーはそれを奪ってから、すばやく林の中に逃げていった。それが、おそらく島で見られた最後のキジムナーに声をかけることになった。

 それ以来、キジムナーを「感じた」とか、「らしき影を見た」という話は、何度も耳にしたそうだが、キジムナーに正面で出会ったという話は、あまり聞かれない。

 

小便 キジムナーのはなし2

・Tさんが子どもの頃、Fくんという友達がキジムナーが棲んでいたといわれているガジュマルの木に立小便をしたそうである。

 友達は、えい、キジムナーなんていないさ、怖くない、と大声で叫びながら、木の周囲に小便を輪のようにひっかけた。キジムナーを見たことはなかったが、信じていたTさんは怖くなって一目散に家に帰ったという。

 夕方、気になったTさんは、小便をかけた友達が住んでいる団地へ行ってみた。

 

・すると、部屋の中は見えなかったものの、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についているのが見えた。

 まるでニワトリの足のような、3本指の奇妙な跡が、いくつもガラス表面についていた。

 

・次の日、Fくんは学校を休んだ。そして次の日も、次の日も学校を休んだ。

結局、1週間学校を休んで、帰って来たときにはゲッソリと痩せていた。

学校で久しぶりに会ったFくんは、Tさんにこんな話をしたそうだ。

 小便をかけてしばらくすると、気分が悪くなってきた。

 家に帰ると、立てなくなってそのまま寝込んだ。

 母親がどうしたのかと聞くので、しかたなくガジュマルに小便をかけた、と本当のことを言った。母親はあまり迷信を信じるほうではなかったので、風邪ぐらいにしか考えていなかった。

 ところが、Fくんが寝ていると、ベランダにまっ赤なキジムナーが何人もやってきては、ガラスをぺちゃぺちゃたたき出した。母親も一緒になってそれを見たので、すぐさま知り合いのユタを呼んで、その夜にお祓いをしてもらった。

 ユタがいうには、この子がしたことは悪質だったから、お灸をすえる意味でも、1週間は熱を引かさないようにした、とのことだった。

 その言葉通り、Fくんはちょうど1週間後に熱が引き、学校に来ることができたという。

 

赤ら顔  キジムナーのはなし3

・Wさんが子どもの頃、学校に行くと、友人の一人がおかしなことになっていた。

 顔は赤く晴れ上がり、はちきれんばかりにバンバンになって、非常に苦しそうだった。本人も、息ができんし、と喘いでいる。先生が寄ってきて、どうしたね、と聞くと、その生徒はこんな話をしたそうだ。

 朝起きてみると、顔が赤く腫れ上がって、息ができない。オバアに相談すると、「これはキジムナーが悪さをしているから、ユタに見てもらいに行こう。ただし、そのユタは午後からしか見れないから、昼過ぎに学校に迎えに行くまで、学校でおとなしくしている」と言われたそうだ。

 

・次の日には、その子は何事もなかったようにケロッとして、学校に登校してきたそうである。

 

今帰仁の小さなおじさん

・Fさんが早朝、自転車に乗っていたとき、目の前の空き地に、知り合いのオジイが倒れていたという。

 死んでいるのかと思って自転車を降りて近寄ってみると、酒のちおいがプンプン漂ってきた。おい、このオジイ、酔っぱらってるし。Fさんがオジイの肩に手をかけて、起こそうとしたその時。

 倒れているオジイの周囲に、5人くらいの小さなおじさんが、オジイを背もたれにして座っていたのだという。

 オジイを揺らしたものだから、びっくりした5人のおじさんたちは悲鳴を上げながら、一斉に走って逃げたという。

 おじさんたちは空き地の中へ一目散に逃げると、そのままパッと掻き消えるようにしていなくなった。

 

・Fさんが眉をひそめながら自転車に戻ろうとすると、自転車の周囲にも小さなおじさんたちが複数いた。

 Fさんがびっくりして「うわあ!」と叫ぶと、それに逆にびっくりしたのか、クモの子を散らすようにして逃げ去ったという。

 おじさんたちは、それぞれ上半身は裸で、眉毛がつながっていたのが印象に残っているという。

 

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

小さいおじさん(ちいさいおじさん)>は、日本の都市伝説の一つ。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めている。

『概要』 目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度。窓に貼りついていた、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などの話もある。ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されている。

 

キジムナー(キジムン)>は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物、妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊。 沖縄県を代表する精霊ということで、これをデフォルメしたデザインの民芸品や衣類なども数多く販売されている。

多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴。

『概要』 「体中が真っ赤な子ども」あるいは「赤髪の子ども」「赤い顔の子ども」の姿で現れると言われることが多いが、また、手は木の枝のように伸びている、一見老人のようだがよく見ると木そのものである、などともいう。土地によっては、大きくて真っ黒いもの、大きな睾丸の持ち主などともいう。

 

 

 

『ニッポンの河童の正体』

 飯倉義之  新人物ブックス  2010/10/13

 

 

 

<外国の河童たち>

 ○○は外国の河童?  -河童は日本固有種かー

・では日本以外の土地に河童は存在しないのだろうか?どうやらそうではないようだ。世界各地の妖怪を紹介する本や文章ではしばしば、「妖怪○○は××国の河童である」というような紹介され方がなされるように、海外の妖怪を日本の河童にあてはめて紹介することはままある。たとえば、韓国のトケビがそれである。

 

 「トケビは韓国の河童」か?

・韓国の「トケビ」は山野を徘徊する小鬼で、その正体は多く血がついたことにより化けるようになった、箒(ほうき)やヒョウタンなどの日常の器物である。トケビは人間を化かしたり、道に迷わせたり、野山に火を灯したり、快音を出して驚かせたり、夜に人家に忍び込んだり、格闘を挑んで負けたりと、ほとんどの怪しいことを一人でまかなう「万能妖怪」として大活躍を見せる。そのユーモラスな風貌と多彩な行動は、よく河童と比較される。

  

・前項でも河童の親類として紹介した奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のキジムナーもまた、そうした「万能妖怪」という点でトケビとよく似た存在である。小柄でザンバラ髪の童形、好物や嫌いな物がはっきりとしており、ユーモラス。人間に関わり、からかう。トケビとケンムン・ブナガヤ・キムジナーと河童とは、性格や行動が共通していることは一目瞭然である。

  

・しかし重大な相違点もある。トケビは器物の化け物、ケンムン・ブナガヤ・キジムナーは樹木や森林のムン(化け物)としての性格が強く、河童の存在の根幹である水の化け物という性格を持ち合わせない。性格の一致と属性の不一致が、河童とトケビの間にはある。

 

 「ヴォジャノイはロシアの河童」か?

・他に多く「外国の河童」として挙げられる存在に、中国の河水鬼や水虎、ロシアのヴォジャノイやルサールカ、チェコのヴォドニーク、ポーランドのハストルマン、ドイツのニクス。フィンランドのネッキ、スコットランドのニッカールやケルピーなどが挙げられる。

これらの存在はいずれも水界に棲む存在で、人間や牛馬を水の中に引き込むとされ、彼らに挙げる季節の祭りなどが催されることなどが、河童と同一視される点である。

  

・しかしこうした水精の属性や行動以外の点では、河童と彼らの隔たりは大きい。河水鬼やヴォジャノイ、ヴォドニーク、ハストルマンは髭を蓄えた老人とされ、湖底で自分の財産である牛馬の群れや財宝を守って暮らし、機嫌が悪いと川を荒れさせるという固陋な存在である。ニクスやネッキ、ニッカールは成人男性の姿で現れて、荒々しく牛馬や子どもや婦女子を奪い去る肉体派である。ネッキやその同類が、半人半馬や馬に化けた姿を取るというのは、馬の姿をしていて人を水の中に誘い込むケルピーとも共通する。

  

・ケルピーに代表される「ウォーター・ホーズ」伝承は、ヨーロッパ各地にあまねく広がっており、龍の妖怪伝承といえば、ロッホ・ネス・モンスター、すなわち「ネッシー」である。ケルピーは河童と同じくらい、ネッシーにも近しい存在なのだ。

 

・ルサールカには溺死者の浮かばれぬ霊というイメージが色濃くついており、この点で幽霊や産女、雪女に近い属性を持つといえる。

  どうやら「××の河童だ!」と言われてきた妖怪たちは、河童と重ね合わせて理解できる部分とそうでない部分とを、同じくらいの分量で持ち合わせているようである。

 

 やはり「河童は日本の河童」か?

・水はわれわれの生存に欠かせないと同時に、恐るべき存在であるがゆえに、水の神と水の妖怪を持たない文化はない。そのような意味で、「河童は世界中に存在する」。

  

・しかし今見てきたように、そうした河童的な存在がどのような姿で現れ、いかなる言動をとるかは、文化によって全く違う。ロシアの冷たい湖水に棲むヴォジャノイは老人の姿で重々しく、スコットランドの湖沼地帯に棲むケルピーは活動的で攻撃的だ。そして里近くに多くの川や小川、沼や溜め池をもつ日本の河童たちは、人に近しく愛嬌があり、どこか深刻でない表情を持つ。一方で、日本の河童に近い韓国のトケビ、奄美ケンムンやブナガヤ、琉球のクジムナーは、水の精という性格をほとんど持っていない。

  

・こうした水の神・水の妖怪の多様なありようは、各々の文化において人と水とがどう関わっているかに規定されている。その意味では、「河童は日本にしかいない」。

  妖怪を比較することはすなわち文化を比較することなどである。「妖怪○○は××国の河童である」という言い切りは、あまりにも大胆すぎるもの言いであるだろう。

 

 

 

『絵でみる江戸の妖怪図巻』

 善養寺ススム、江戸人文研究会     廣済堂出版 2015/9/3

 

 

 

<キジムナー 琉球伝承>

・ガジュマル、赤榕、福木、栴檀の古木に棲むと言われる精霊。

 姿は様々で、髪は肩まであり、全身が赤い子供、または小人で、手は木の枝のようだとも言われる。地域によっては真っ黒な大人サイズだったり、睾丸が大きいとされることもある。

 木に棲んでいるが、主食は魚介類でグルクンの頭や、魚の左目が好物だと言われる。魚好きなので仲の良い漁師の手伝いをするというが、蛸や屁が嫌いなので、魚を捕っている時に屁をひると、消えてしまうらしい。

 悪戯もよくする。人を誑かし、土を飯だと騙して食べさせたり、木の洞に閉じ込めたり、寝ている人に乗ったりもするし、夜道を行く人の灯を消すのも十八番だ。

 さらに、木を伐ったり、虐めたりすると、家畜を殺したり、船を沈めたりもする。昼間は人間には見えないので、キジムナーの悪口を言うと、意外に側にいて聞いていて、夜になって仕返しされるという。

 

くへた  伝承 越中国富山県)、神、招福

越中国立山の予言神で、5年以内に疫病の流行すると予言しに現れた。自分の姿を写し、それを見れば病を避けられると告げた。

 

ケンムン 伝承、奄美大島、妖怪

・【キジムナー】と【河童】を合わせたような妖怪。姿は様々だが、ほとんどが、5~6歳の子供のようで、全身赤みがかった肌に毛が生えているそう。頭には皿があり、油や水が入っているという。ガジュマルの木に棲み、木の精霊ともされ、勝手に木を伐ると、眼を突かれて腫れてしまうとされる。蝸牛や蛞蝓が好物で、ケンムンの棲む木の下には蝸牛の殻が多く落ちていると言われる。

 河童のように相撲を取ったり、片方の手を引っ張ると、もう片方と繋がって抜けるともいう、性格は友好的だが、中には悪いのもいて、子供を攫って魂を抜くとも言われる。

 

コロポックル アイヌ伝承/小人

・《蕗の下に住む人》の意。アイヌ以前に北海道に住んでいたとされる小人で、アイヌ伝承に登場する。

 住んでいたのは、北海道から樺太南千島列島におよび、各地に伝承が残されている。蕗の下というのは、蕗を傘にしている他、蕗で屋根を葺いた家に住んでいたからとされる。身長は1尺(30センチ)くらい。それよりも小さい、1~2寸(3~6センチ)の小人は【ニングル】と呼ばれる。

 

・十勝地方の伝説では、コロポックルは、昼は隠れて暮らし、夜になると5人から10人くらいで、川に数艘の丸木舟を浮かべ、魚を捕っていた。捕った魚の一部はアイヌの村に持って行き、チセ(家)の戸の隙間から手だけを出して差し入れていた。これは土地の恵みを分かち合う、当然の行為だったのだろう。しかし、決して姿は見せなかった。

 

座敷童  伝承 全国 妖怪、招福

・座敷童は陸奥国岩手県)を中心に全国で信じられている家の妖怪。座敷や蔵に棲み、その家の繁栄を守っていると言われる。

 おかっぱ頭の幼児が最も多く、家によっては15歳くらいの子供もいる。また、老婆の場合もあり、性別も一定していないし、複数が現れる家もあるという。

 座敷や土間で、幼い子供と遊ぶが、糸車や紙、板戸を鳴らす悪戯もする。座敷童が消えた家は、衰退したり火事や災害に見舞われるという。その場合、逃げて行く座敷童に道で出会うことがある。「何処へ行くのか?」と声をかけると、「あの家はもう終わりだ」と答えるという。

 

【蔵ぼっこ】陸奥国花巻、遠野の蔵に現れる座敷童。蔵の中に籾殻などを撒いておくと、朝には小さな子供の足跡が残されているという。

 

覚(さとり)  『今昔画図続百鬼』  全国 妖怪

・【天邪鬼】の類にも同名のものがいるが、こちらは唐(中国)伝承の妖怪。体中黒い毛に覆われた霊獣で飛騨や美濃の山深くなどに棲む。人の言葉を話し、人の心を読む。人に害はおよぼさず。捕まえようとしても、人間の意思を読んで、先回りして逃げてしまうという。

 

天狗 伝承 全国 神、妖怪

・天狗はもともと《隕石》のことをいい、唐(中国)伝承では虎に似た妖獣とされていた。『日本書紀』では《アマツキツネ》とされる。そのため《天狗》の字を用いる。

 

・やがて、仏教を妨害するとされ鳶のような姿で表わされ、次第に人間化して行った。その代表が【外道様】とも呼ばれるように、修行僧が己の知識に奢って悪心を抱いた末に、天狗と化したとされるもの。そのため知識が豊かで【神通力】を用い、弟子や家来を沢山抱える。

 山岳信仰では修験道の寺院や修行僧を守り、修行の地である山の結界を管理する。一方で、天候の怪異や【神隠し】を起こすとされる。

 天狗の代表は《日本八大天狗》と呼ばれる八人の天狗である。筆頭の【愛宕山太郎坊】は、京都・愛宕山に祀られる天狗で、【栄術太郎】とも言われる。

・その他に、江戸時代中期に作られた祈祷秘経の『天狗経』に《四八天狗》があげられていて、それぞれに逸話がある。さらに異名や天狗伝承は数知れない。

 

【尼天狗】『今昔物語集』に載る天狗。仁和寺の円堂に棲むという女の天狗。

 

鞍馬天狗鞍馬山に祀られる大天狗で日本八大天狗のひとり。牛若丸に剣術を教えたとされる。【僧正坊】や京の一条堀川の陰陽師・鬼一法眼と同じとされる。

 

【木の葉天狗】地位の低い天狗で【烏天狗】に似る。【白狼】とも呼ばれる。小僧の姿に化け、山を行く人や物を背負って小銭を稼ぎ、天狗の仲間達を支えているそう。

 

【守護神様】三河地方の天狗で、山の神とされる。毎月七日は山の忌み日とされ、入ることを避ける。

 

【僧正坊】鞍馬山の僧侶だったが、修行中に悟りを開いたと、自分の知識に驕り、年老いてなお死に欲を増し天狗となる。死後も僧侶の高い位に執着し続けた。

 

【空神】紀州の天狗。空を自由に飛ぶため、こう呼ばれる。

 

【天狗隠し】【神隠し】に同じ。天狗によって攫われたとする。行方不明事件のこと。

 

<鬼 伝承 全国>

・鬼は様々な妖怪や怪異に使われる名称。古代(平安中期以前)の王朝と闘う異部族や怪異など、外敵の他、人の心の中が変化する鬼もある。実態のあるものもあれば、実態のないものもあり、また、悪の象徴でもありながら、地獄では番人をする仏教を守る側にもいるという、様々な面で両極に存在する怪である。

 牛の頭に、虎の腰巻き(パンツと呼ばれるのは明治以降)として描かれる姿は、江戸時代に固定化された。

 

・また、流行病も鬼の仕業とされた。他の病気は《罹る》と呼ばれるが、風邪は鬼が悪い病気を引き込むので《引く》と呼ぶ。

 

【青鬼・赤鬼】

・物語には、赤・青の鬼が登場する。色の他にも目がひとつや複数あるもの、口がないものなど、様々な姿が語られ、描かれ《異形》を象徴する。

 

【悪路王】陸奥国岩手県)・常陸国茨城県)の鬼。坂上田村麻呂に討たれ、鹿島神宮に納められたとされる。

 

【悪鬼】世に悪をバラ撒く鬼達のこと。かつて流行病は鬼の仕業とされていたので、蔓延すると、人々は鬼の退散をひたすら神仏に願った。

 

【一条桟敷屋の鬼】『宇宙人時拾遺物語』に登場する鬼。ある男が都の一条桟敷屋(床の高い建物)で遊女と臥していると、夜中に嵐となった、すると「諸行無常」と言いながら通りを歩く者がいるので、蔀(上げ戸)を少し開けて覗くと、背丈は建物の軒ほどあり、馬の頭をした鬼だった。

 

茨木童子】【酒呑童子】の家来。

 

【牛鬼】石見国島根県)で語られる。水辺で赤子を抱いた女が声をかけてきて、赤子を抱いてくれと言ったり、食べ物を求めたりする。赤子受け取ると急に石のごとくに重くなり、動けなくなったところで牛鬼が現れ襲われるという。

  また、牛鬼が女に化けて出て騙す。四国や近畿地方には《牛鬼淵》や《牛鬼滝》など、牛鬼の棲む場所が多くある。

 

【温羅】かつて吉備国岡山県広島県)に渡って来た鬼の集団で、鬼ノ城を築き周辺を支配した。天王に対峙したため、吉備津彦に討ち取られた。斬られた首は死なず、犬に喰わせて骨にしても静まらず、地中に埋めても13年間もうなりを発していたと言われる。

 

【鬼の手形】陸奥国岩手県)伝承。盛岡の町では【羅刹】に荒らされて困っていた。そこで、人々は町の神である《三ツ岩様》に祈願すると、羅刹はこの岩の霊力で、岩に貼りつけられてしまう。堪忍した鬼は、二度と現れないという誓いを立てて放免してもらい、その証しに三ツ岩に手形を残して行ったという。これが県名《岩手》の由来とされる。

 

【鬼女紅葉】信濃国(長野県)戸隠や鬼無里に伝わる鬼。平安中期のこと、公家・源経基の子を宿した紅葉は、嫉妬のために御台所(正妻)に呪いをかけ、その罪で都を追われる。鬼無里に流された紅葉はやがて怨念で鬼となり、戸隠山を根城にして、付近の村を襲った。そこで都から平維茂が討伐に出陣し、観音の御使いから授かった《降魔剣》で退治される。しかし、鬼無里伝承では、都の文化を伝えた貴女とされて、尊ばれている。

 

【牛頭馬頭】地獄の鬼のこと。定番の牛の頭の他に、地獄には馬の頭をした鬼もいる。

 

【猿鬼】能登国(石川県)柳田村を襲った、一本角の猿のような鬼。村の岩穴に棲みついたため、氏神によって弓で射殺されたという。

 

【瀬田の鬼】『今昔物語集』東国の国司(地方官)が都に上り、瀬田の橋近くの荒ら家に泊まった夜に出た鬼。逃げて瀬田の橋の下に隠れると、追いかけて来た鬼が、侍を見失ってしまう。しかし、何処かから声がして、「下におります」とばらしてしまう。声の主は何者か知れず、その後、国司がどうなったかも、知る者はいない。

 

【火の車】地獄の鬼が燃え盛る車を引いて、生前の行ないのよくない死者を迎えに来る。『因果物語』では、強欲で行ないのよくない庄屋の妻を八尺(2.4メートル)もある大きな男が連れて行ったとある。連れて行かれる先は地獄。

 

<河童 全国 妖怪、水神>

・河童伝承は、

1.姿の目撃談。

 

2.相撲を挑み、人や馬を水中に引き込む。

 

3.泳いで遊ぶ子供を襲い、尻の穴から手を入れて【尻児玉】を抜く。

 

4.女性に悪戯をして腕を斬られ、その腕を取り返すために《腕繋ぎ》の治療法を伝授する。

 

5.冬の間は山に住む。と多彩。

 

 豊前国(福岡県)の北野天満宮には河童のミイラが伝わる。江戸時代には河童のミイラは猿の赤子とエイなどを組み合わせて作られた。

 

【伊草の袈裟坊】武蔵国(埼玉県)の河童の親分。

【かーすっぱ】【がーすっぱ】駿河国静岡県)、九州で使われる。《すっぱ》は忍者のこと。

 

【があたろう】五島列島で呼ぶ河童。河童というと、川の妖怪の印象が強いが、【海御前】が河童の女親分と言われるように、海にも多くいる。

 

【かしゃんぼ】紀伊国和歌山県)、伊勢国三重県)の河童、【山童】。芥子坊主頭の6~7歳の子供で、青い着物を着ている。

 

【がめ】越中国富山県)、能登国(石川県)、筑後国(福岡県)の河童。筑後国久留米では女性に取り憑き病気にする。能登国ではよく子供に化け、越中国では鱗形の模様のある甲羅に、腹には赤いふさふさの尾があるとされ、千年生きて【かーらぼーず】になると言われる。

 

【川天狗】武蔵国多摩川では悪さはしない河童。村人に熱病に効くみみずの煎じ薬を伝えた、津久井では夜の川漁に現れ、大きな火の玉を出したり、網打ち音の真似をする。

 

 

 

コロポックルとはだれか』

―中世の千島列島とアイヌ伝説

瀬川拓郎  新典社新書   2012/4/24

 

 

 

封印されたアイヌ伝説

<小人伝説はおとぎ話か>

昔は十勝川に沿ってアイヌのほかにコロポクウンクル(ふきの下に住む者)という、ふきの下に5、6人が集まって住むぐらい小さい者たちがいた。コロポクウンクルは何でも人に与えるのが好きで、ごちそうを椀に入れてアイヌの戸口のござの下から差し出し、それをアイヌが受け取って押しいただくと喜んでいた。あるときアイヌのウエンクル(悪い奴)が、ごちそうをもってきたコロポクウンクルを家の中に引っ張り入れると裸の女であった。女は泣きながら帰ったが、あとでコロポクウンクルの親方が怒ってやってくる。激怒したコロポクウンクルたちはレプンコタン(海の向こうの国)に引き上げることになり、そのときに親方が「このコタン(村)のものは、ネプチー(何でも焼けろ)、とかプチー(枯れてしまう)という名を付ける」と言う。それまではシアンルルコタンというりっぱな名前だったが、それからはこのコタンを「トカプチコタン」と呼ぶようになった(帯広市採録)。

 

この伝説を読んで、コロポックルを実在の集団であったと考える人はおそらくいないでしょう。もしコロポックルが実在の集団だったと主張すれば、それは童話であり、妖精・妖怪譚のたぐいにすぎない、と一笑に付されてしまうにちがいありません。 

 

封印されたコロポックル

帝国大学東京大学)の人類学教室初代教授であった坪井正五郎らは、アイヌの伝説に登場するコロポックルこそが石器時代人だったのではないか、と主張した。

 

・一世を風靡した小人伝説は、河野常吉が「コロポックルアイヌの小説なり」と坪井を強い調子で批判したように、事実に根差さない昔話であり、童話のたぐいであるとみなされたまま、ふたたび学問的な議論の対象となることはありませんでした。

 

中世千島の開発と小人伝説

・小人伝説は、中世アイヌ社会の一端をうかがう貴重な資料といえそうです。

 

・古代の千島は、アイヌとは系統の異なるサハリンから来た人びと(オホーツク文化人)が住んでいました。しかし近世の千島はアイヌが占めるところとなっており、もはやオホーツク文化人は住んでいませんでした。

 

アイヌの小人伝説

ジョン・セーリス「二度蝦夷に行ったことのある一日本人が江戸の町で伝えた同地に関する情報」『日本渡航記』(1613年)

・(道南の松前の)さらに北方には、同じ陸地上に、一寸法師のような背の低い人間が住んでいる。蝦夷人(アイヌ)は日本人と同じ丈の人間である。

 

松坂七郎兵衛他『勢州船北海漂着記』(1992年)

南千島のエトロフ島に漂着した勢州船の記事です。船員は、エトロフ島からクナシリ島を経て北海道本島に渡り、十勝を経て松前から帰郷しました。この小人伝説は、帰途、クナシリ島から道東太平洋沿岸のあいだで聞きとったものとおもわれます。小人が「小人島」に住んでいること、その島にはワシが多くいること、船路100里もある遠い地から船で本島にやってくること、その目的が土鍋製作用の土(粘土)の採取にあること、脅すと身を隠すことなどについて記しています。

 

松宮観山蝦夷談筆記(上)』(1710年)

・道南の日本海側、現在の上ノ国町小砂子の地名由来にかんする聞きとりです。100人ほどの小人が「小人島」から渡ってきたこと、その目的が土と草(あるいは葦)の採取であったことを記しています。

 

秦檍丸「女夷文手図」『蝦夷島奇観』(1807年)

アイヌの女性の文身(イレズミ)の図に、道東の根室アイヌから聞き取った伝説を解説として付したものです。古くはコッチャカモイという小さな神が北海道の各地にいたこと、アイヌとの直接的な接触を嫌い北海道から去ったこと、この神のイレズミをまねてアイヌのイレズミがはじまったこと、かれらの住んだ竪穴住居の跡が各地に残り、土器や宝が出土することなどを記しています。

 

 最上徳内『渡島筆記』(1808年)

むかしコロブクングル(フキの下にその茎をもつ人の意)と呼ぶ小人がいたこと、道東ではこれをトイチセウンクル(竪穴住居に住む人の意)と呼ぶことアイヌ女性のイレズミがこの小人の習俗に由来すること、声は聞いてもその姿をみた者はいないこと、アイヌの漁に先回りし、あるいはアイヌの魚を盗み、アイヌも家に来て魚を乞うこと、魚を与えないと仕返しすること、小人は魚を乞うたのではなく、反対にアイヌに与えたともいわれること、家の窓から魚を乞う小人の女の手を引き入れたが、3日食事を与えないと死んでしまったこと、小人はアイヌにさまざまな悪さをなし、戦うときには甲冑を帯びてフキの下に隠れたことなどを記しています。

 

小人名称の三種類

・一つ目は、竪穴住居に住む人(神)を意味するとおもわれる名称です。「トイチセコツチャ」「トイコイカモイ」「コッチャカモイ」「トイチセウンクル」がありました。二つ目は、フキの葉の下の(神)を意味する名称です。「コロボルグルカモイ」「コロブクングル」がありました。三つ目は、千島の人を意味する「クルムセ」です。

 

 

 

もののけの正体』  怪談はこうして生まれた

原田実   新潮社     2010/8

 

 

 

恐怖の琉球――南国のもののけ奇談

アカマタ――魔物の子を宿す

・ある日のこと、乙女が畑に出て芋を掘っていた。乙女が一休みして、また畑に戻ろうとしたところ、岩のうしろから赤い鉢巻をした若者が顔を出してはまたひっこめたのに気づいた。歩こうとすればまた顔を出し、立ち止まればまた隠れる。乙女がその若者の顔に見入って動けなくなっていた時、乙女の様子がおかしいことに気付いた農民たちがかけつけて乙女を畑に引き戻した。

 乙女が見ていた若者の正体は、アカマタという蛇だった。アカマタは誘惑した乙女と情を通じ、自分の子供を産ませようとしていたのだ・・・。このパターンの民話は、沖縄の各地に伝わっている。

 

石垣島の宮良では7月の豊年祭にアカマタ・クロマタという神が現れ、一軒一軒の家を回り祝福していくという(なお、この祭りは秘祭とされ撮影が一切禁じられている)。

 沖縄では同じアカマタという名で、若い女性にとりつく蛇のもののけと、豊作を予視する来訪神の二通りの異界の者が現れる、というわけである。

 

・さて、蛇ににらまれた女性が動けなくなるという話は、本土の古典でも、たとえば『今昔物語集』などに見ることができる。また、蛇身の神が女性の元を訪れて交わるという話は古くは記紀にも見られ、さらに日本各地の伝説・民話などに見ることができる。ちなみに記紀ではその説話の舞台が大和の三輪山(現・奈良県桜井市)の麓とされているため、神話・民話研究者の間ではそのタイプの説話はその三輪山型神婚説話と呼ばれている。沖縄のアカマタの話はその三輪山型神婚説話に発展する可能性を秘めながら中断させられた話とみなすこともできよう。

実は、沖縄にも三輪山型神婚説話に属する類型の話が残されている。

 

・これは江戸時代の琉球王府が正史『球陽』の外伝として、琉球各地の口碑伝承を集めた『遺老説伝』に記された宮古島の始祖伝承の一部である。

 この話に登場する大蛇には、娘が魅入られるという点からすれば憑き物的側面があり、夜に訪れるという点からすれば来訪神的側面もある。この話は、憑き物としてのアカマタと来訪神としてのアカマタの関係を考える上で暗示的だ。

 ところで私はかつて、三輪山型神婚説話の起源について、異なる共同体に属する男女間の婚姻がその背景にある可能性を指摘したことがある。

 

キムジナー 日本のエクソシスト

・沖縄ではその昔、樹木に住む精霊の存在が信じられていた(あるいは今でも信じられている)。

 

沖縄では古木の精をキムジナー(木に憑く物、の意味)という。また地域や木の種類によってはキムジン、キムナー、ブナガヤー、ハンダンミーなどの別名もある。赤い顔の子供のような姿とも全身が毛に覆われた姿ともいわれ、水辺に好んでよりつくことから、本土でいうところの河童の一種とみなす論者もいる。

 

・『遺老説伝』の話の全般に見られるように、キムジナーは友だちになれば魚をわけてくれたり、仕事を手伝ってくれたりするという。また、他愛ないいたずらを好む、ともされ、たとえば、夜、寝ていて急に重いものにのしかかられたように感じたり、夜道を歩いている時に手元の明かりが急に消えたりするのはキムジナーのしわざだという。

 

・キムジナーが出没するという話は現在でも沖縄ではよく語られる。ただし、最近では、観光客のおみやげなどでキャラクター化されたかわいいキムジナーが流布する一方、人に憑いて苦しめるような悪霊めいたキムジナーの話が広まる、という形でのイメージが二極化する傾向があるようだ。

 

キンマモン――海からの来訪神

・その昔、屋部邑(現・沖縄県うるま市与那城屋慶名)は幾度となく火災に遭い、多くの家が失われていた。ある日、その村に君真物(キンマモン)と名乗る神様が現れて村人たちに仰せられた。

「ここに火事が起こるのは屋部という村の名が悪いからです。屋慶名と改名すれば火事が起きることはない」

  村人たちがそのお告げにしたがったところ、その後は火事が起きることはなくなった(『遺老説伝』より)

 

・キンマモンに関する記録は、江戸時代初期の僧・袋中(1552~1639)の『琉球神道記』にすでに見ることができる。それによるとキンマモンは琉球開闢以来の守護神とされる。キンマモンは、ふだんは海底の宮に住んでいて、毎月、人間の世界に現れて遊んでは宣託を与えていくのだという。

 

・また、曲亭馬琴の『椿説弓張月』(1807~1811年)は保元の乱に破れて伊豆に流された源為朝流刑地から脱出して琉球にたどりつき琉球最初の王朝である舜天王統の祖になったという伝説を読本にしたてたものだが、その中でキンマモンは「きんまんもん」と呼ばれ琉球を守護する神だとされている。ちなみにこの読本に挿絵を付したのは葛飾北斎だが、北斎は「きんまんもん」を、魚の胴体に人間の顔、鱗だらけの手足

があって直立するという異形の姿に描いた。

  キンマモン=君真物で、「君」は君主もしくは神女は君主もしくは神女への尊称、「真」は真実、本物という意味の尊称、「物」は精霊の意味とみなせば、キンマモンは、精霊の真の君主ともいうべき偉大な精霊といった意味になる。「物」はまた本土の言葉で言う「もののけ」にも通じている。

 

・キンマモンは海から人里にやってくる宣託神であり、典型的な来訪神である。最近の沖縄では、この神について、単に沖縄の守護神というだけではなく、世界の救世神だとして主神に祭る新興宗教も出現している。

 沖縄の習俗伝承には、憑き物系のもののけや来訪神に関わるものが多い。これは沖縄の社会事情とも深く関連している。後述するように、沖縄では、ノロやユタといった神女たちがさまざまな祭祀をとりおこない、庶民の生活に深く関わる存在となっている。

 そして、彼女たちの職掌というのはつまるところ来訪する神を迎え、憑き物を払うことなのである。彼女たちが人々の生活に深く関わっている以上、来訪神や憑き物は社会的・文化的に認知された存在であり続けるし、またそうしたものたちが認知されている以上、神女たちの職掌も必要とされ続けるのである。

 

メリマツノカワラ――神女と異神

・沖縄には各地に御嶽と呼ばれる聖域がある。それらは神がかつて降臨した(あるいは今も降臨する)とされる聖地である。本土でいえば神社の本殿に相当するといえようが、御嶽は神社のような建築物ではなく自然の岩や洞窟をそのまま聖域と見なすものである。

  その御嶽の由来の中には、異形の神の降臨について伝えるものもある。

 

・13か月が過ぎ、真嘉那志は一人の男の子を生んだ。いや、それを男の子と言っていいものかどうか・・・生まれた子供は頭に2本の角を生やし、両目は輪のように丸く、手足は鳥に似て細長く、奇妙な顔立ちで少しも人間らしいところはなかったからだ。

 目利真角嘉和良(メリマツノカワラ)と名付けられたその子供は14歳になった時、母と祖母とに連れられて雲に乗り、空へと去って行ってしまった。

 しかし、その後、メリマツノカワラは彼らがかつて住んでいた近くの目利真山にたびたび現れ、その度に人々を助けるような霊験を示した。人々は目利真山を御嶽として崇めるようになったという。

 この話は『遺老説伝』や『宮古史伝』に出てくる。

 

・一部の古代史研究家は、メリマツノカワラの容貌が鳥に似ていたとされるところから、中国の長江流域にいた鳥トーテムの部族が漢民族に追われて海に逃れ、沖縄に渡来して鳥崇拝を伝えたのではないか、と考察している。

 

神女が重んじられる文化

・明治政府の廃藩置県によって王政が廃止された後も聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする神女制度は存続し、現在は聞得大君こそ空位だが、各地のノロ祝女、各地域の神を祭る女司祭)は祭祀によってそれぞれの地元の人の精神的なよりどころとなっている。

 

・一方、正規の神女制度に属さないユタという人々もいる。彼女らは庶民の祖先祭祀について指導したり、憑き物落としをしたりする民間の神女であり、その存在は沖縄の人々の生活に深く根付いている。ユタは祖先崇拝を通して庶民生活における伝統を伝えようとする存在ともいえよう。

 

ノロやユタが沖縄の人々の精神生活に深く関わっていることを思えば、沖縄の民俗伝承に来訪神や憑き物系のもののけが多い理由も改めてよくわかる。

 ノロの大きな職掌は来訪神を迎えることであり、ユタの仕事の一環には憑き物落としが含まれているからだ。沖縄の異神やもののけは、神女たちの存在意義を支えてきた。

そして、彼女らが沖縄の人々の生活に深く関わっているということは、とりもなおさず、彼女らに関わる異神やもののけが沖縄の人々の生活と密着しているということでもあるのだ。

 

もののけ天国・蝦夷地――アイヌもののけ

蝦夷地の妖怪や異神

コロポックル――妖精はどこにいる?>

アイヌの伝説で本土の人にもよく知られているものと言えば、筆頭に挙げられるべきは、コロポックル(蕗の下に住む人)という小人族に関する伝説である。彼らはまた、トイチセウンクル(土の家に住む人)、トンチなどとも呼ばれる。この小人族たちは、伝承上、あくまで「人間」とされており、カムイ(神)でもカミムンでもないが、西欧の伝承における妖精などとよく似たところがあることも否めない。

 

・また、十勝地方の伝説では、コロポックルアイヌに迫害されてその地を去ったが、その時、川に「トカップチ」(水よ、枯れろ)という呪いをかけた。これがトカチという地名の由来だという。

 この伝説に基づき、コロポックルを北海道におけるアイヌ以前の先住民族とする説を唱える論者も多い。明治20年(1887)には人類学者・坪井正五郎コロポックルは北海道のみならず日本列島全域の先住民族で、日本民族に追われてかろうじて北海道に残っていたものが、そこからさらにアイヌに追われた、という説をたてた。

 

魔女ウエソヨマ――北国の天孫降臨

アイヌの伝説を論じる場合に避けて通れないのはユーカラといわれる口承叙事詩だ。その中には、もののけと戦って人間の世界に平和をもたらした英雄たちの物語も含まれている。

 

水の精ミンツチ――半人半獣の謎

・ところでアイヌの信仰で、和人のカミ(神)にあたる霊的存在を「カムイ」ということはよく知られている。

 

・ミンツチは半人半獣のもののけで小さい子供くらいの背格好をしているという。肌は海亀のようで色は紫とも赤とも言われる。

 川辺に来る人を襲って水の中に引きずり込むとして恐れられる一方で、山や川で働く人を苦難から救うこともあると言われる。

 

・ミンツチの行動パターンには和人の伝承における河童に似たところがある。さらに言えば、ミンツチは和人との接触アイヌの伝承にとりこまれた河童とみなした方がいいだろう。ミンツチの語源「みずち」は、水の神を意味する日本の古語(「蛟」という漢字を当てられる)だが、一方で青森県における河童の呼称「メドチ」と同語源でもあるのだ。

 

 

 

 『エイリアンの謎とデルタUFO』

飛鳥昭雄・三神たける)(学研) 2003/5/27

 

 

 

グレイは地球産UMAだ

・とくに、グレイは日本人にとっては非常に馴染みが深い動物であるといってもいい。日本でもグレイは住んでいるからだ。昔から日本人はグレイをしばしば目撃してきた。ただ捕獲された正式な記録はないので動物というより、妖怪変化にされてしまっただけである。日本におけるグレイ、それは「河童」である。一口に河童といっても、そこには古代の被征服民や神話、それに呪術に至るまで、様々な要素が含まれる。その中のひとつに、実は未確認動物(UMA)としての河童があるのだ。アイヌの伝承に登場するコロポックル奄美地方のケンムン、沖縄地方のブナガヤやキムジナーもまた、そうした河童の一種でいわばグレイなのである。

 

 

 

『鬼』

高平鳴海、糸井賢一、大林憲司、エーアイスクウェア

 新紀元社   1999/8

 

 

 

「伊吹(いぶき)弥三郎・伊吹童子(創造神とドラ息子)

・弥三郎の特殊能力;鉄の体、巨体

  童子の特殊能力;不老長寿、仙術、怪力

出自;『御伽草子』『三国伝記』『仮名草子』『伊吹童子絵巻』

 

<容姿>

伊吹弥三郎も伊吹童子もその姿は一般的な鬼のイメージとは違う、ものもとの伝承から推測するに単なる巨大な男、いわゆる巨人であり、その他の細かい特徴は不明である。特に弥三郎は富士山などを造ったとされており、その体の大きさは他の鬼と波比べられないほどだろう。

 

・伊吹童子の方は、童子と呼ばれるだけあって童(わらわ)の姿をしていたらしい。不老長寿の薬といわれる「サンモ草の露」を飲んで以来、老いもせず、14~15歳の少年のままだった絵巻に書かれている。

 

伊吹の山神

近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。その息子の伊吹童子も多くの部下を従えて暴れまわった鬼である。

 

実は近江の伝説だけでなく、弥三郎は多くの文献にも登場している。

 

天地を創造する

・近江地方の伝承では、伊吹弥三郎は巨人として扱われている。日本のみならず、世界中の天地創造神話には、山や河川、湖などを創ったとされる巨人がよく登場する。世界の初めに巨人が存在していて、それが地形を創ったり、巨人の死体が山や川や海になったという話だ。弥三郎もそうした創造神の一種と見るべきだろう。

 

・彼は伊吹山や富士山、七尾村(現在の岡山)を創ったと伝えられている。

 

 魔物に堕とされた巨神

・古に神は、時代と共に魔物に凋落していくことが少なくない。弥三郎はその典型といえるだろう。

 

近江の伊吹山に弥三郎と言う男がいた。その体は、鉄のようで、千人力を持つ超人であり、人々はこれを恐れて「鬼伊吹」と呼んだ。

 

<戸隠の女盗賊><紅葉(くれは)>

・各地の伝承でも能楽で語られる場合でも、絶世の美女であったと伝えられる。しかし、罪に問われて戸隠に逃れ、その後は悪事を重ねるごとに醜い姿になっていった。一説には、その身長は3メートルほどもあったという。

 

英雄を助けた鬼女、鈴鹿御前

・どの伝承を見ても絶世の美女だったと記録されている。鈴鹿山の鬼女も「女」で「盗賊」だったことから、立烏帽子と呼ばれるようになったと考えられる。

 

・彼女は記録によって鈴鹿御前と呼ばれる場合と烏帽子と呼ばれる場合がある。

 

・鬼女を御前と呼ぶのは変かもしれないが、伝説を見ると、どうも、彼女は、完全な悪玉というわけではなかったようである。あるいは、鬼神レベルの力を有していたために、敬称が付けられたのかもしれない。

 

御前は田村丸を「光輪車」という神通力で飛行する乗り物に乗せたかと思うと、瞬く間に内裏に降り立った。そして、光輪車で去っていった。

 

熱き情念の化身>(清姫・(異名)白拍子白拍子花子

和歌山県熊野地方の伝承。容姿については、伝承のパターンによって、ふたつ存在する。ひとつには夫に先立たれた寡婦(やもめ)で、イメージとしては妖艶な中年女性だろう。もうひとつは白拍子の少女の姿である。清姫といった場合、特にこちらの少女を指す。

 

 さらに彼女は、全長10メートルもの大蛇に変身することができ、これが第三の姿と呼ぶこともできる。

 

 清姫の物語は、熊野権現と関係が深く、その舞台は道成寺という寺である。主な登場人物は、清姫と彼女が恋焦がれる安珍という僧だ。

 

<●●インターネット情報から●●>

 

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より、

 

鈴鹿御前の物語

 ・現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。

 

 

 

『鬼』  (高平鳴海、糸井賢一、大林憲司)

新紀元社)1999/8

 

 

 

鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?

童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだそうです。

 

日本の伝承に残る鬼として

・桃太郎の鬼(温羅)(うら)

 

蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)

 

有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)

 

黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)

 

霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承

 

飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)

 

・「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀御伽草子に登場)近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。

 

・天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)

 

・同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。

 

 

 

『異人その他』 

岡正雄) (岩波書店)  1994/11/16

 

 

 

異人

・異人もしくは外人は、未開人にとっては常に畏怖の対象であった。あるいは彼らは、異人は強力な呪物を有していると考えて畏怖したのであろう。あるいは悪霊であるとも考えたのであろう。

 

・自分の属する社会以外の者を異人視して様々な呼称を与え、畏怖と侮蔑との混合した心態を持って、これを表象し、これに接触することは、吾が国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与えた呼称の民間伝承的表象は、今もなお我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成と参加している。

 

  

 

『鬼がつくった国・日本』  歴史を動かしてきた「闇」の力とは

小松和彦内藤正敏   光文社文庫    1991/11

 

 

 

「東北」の怨念を語りつぐ「田村三代記」

・それで、こういう中央とまつろわぬ者の関係、日本の過去における京都を中心とする光の領域と、東北に代表される闇の領域との関係を象徴的に表している『田村の草子』という坂上田村麻呂の一族をモデルにした説話があるので、ここで紹介してみたいと思います。

  まず、田村利仁という人物が出て来て、妻嫌いをする。つまり、かたっぱしから縁談を断るんですが、ある日、大蛇が変身した美女を見初め、妻にする。女は妊娠し、自分の姿を見ちゃいけないといって産屋にこもる・・・。

 

・そう、タブーを破って見ちゃうわけ。それで、まさに「見たな」というわけで、「おまえは数年を経ずして死ぬが、子どもは英雄になる、覚えとけ」と預言して姿を消してしまうんです。

 

それでね、いまの『田村の草子』には中央から見た鬼=まつろわぬ者のイメージがよく出ていると思うんですが、東北にも東北版『田村の草子』みたいなのがあるんですよ。『田村三代記』といわれているもので、話を簡単に紹介しますと、平安時代前期に都でまりのような光る物体が夜となく昼となく飛び回り、米俵、金銀、はては天皇への貢ぎ物まで持ち去ってしまうという騒ぎが起こるんです。

 

未知との遭遇だね。第三種接近遭遇(笑)。

 

・そこで、陰陽師の博士に占わせると、伊勢国鈴鹿山に天竺から来た魔王の娘である、巫女のいでたちをした立烏帽子というものがいて、日本転覆を計画しているという。しかも、日本にも立烏帽子におとらぬ鬼神である蝦夷の大嶽丸がいて、ほっておくといっしょになって攻めてくるというんです。で、そりゃたいへんだというので、田村利仁に追討を命じて、鈴鹿山に向かわせるんです。ところが、二万余騎の軍勢で探しても、立烏帽子は見つからない。そこで、魔の者に会うときは大勢で行くなという父利光の教えを思い出して、利仁一人を残して軍勢を返すと、三年以上たったある日、やっと立烏帽子を見つけるんです。すると、これがなんと紅の袴を着た歳のころは十六、七のピチピチのギャルちゃん。

 

・なんせ相手がかわいい女の子でしょ、さしもの田村丸も迷うんです。原文に「かようなる美麗なる女を討つとは何事ぞや。このうえはなかなか彼女にしたしむべきかと思召し賜えしが、いやまてしばし我心」とありますもの。

 

・ちょっと待て、だいたいそれで男は損しちゃうんだよね(笑)。そういえば、この『田村三代記』ってちょっとまえまで東北の座頭が奥浄瑠璃でやってたんでしょ。

 

・それでね、二人の戦いはなかなか勝負がつかないわけ。すると、立烏帽子が利仁の出自について語り始めるんです。それによると、利仁の祖父は星の子どもで、彼が龍と交わってできたのが父親の利光で、その利光が奥州の悪玉姫、これも鬼ですよ。それと契ってできたのが利仁だというんです。そして、田村三代は日本の悪魔を鎮めるための観音の再来だというんです。それで、自分は日本を転覆させにきて、蝦夷の大嶽丸にいっしょになってくれと何度も手紙を出したんだけれど、返事もくれない。でも、自分は女の身だからやっぱり男がいないとだめなの、あなたといっしょになって、二人で力をあわせて日本の悪魔をやっけようといいよるんです。

 

・それで、二人は結ばれて近江の高丸という鬼を退治するように命じられるんです。二人が攻めていくと、高丸は常陸の鹿島の浦(茨城県)に逃げてしまったので、立烏帽子は利仁を光りん車というUFOみたいな乗り物に乗せて飛んでいくんです。で、高丸を攻撃するときの戦法っていうのがまたSF的で、呪文をかけて十二の星を降らせて星の舞いをさせたり、一本のかぶら矢を打つと、それがビーム砲か散弾銃みたいに千本の矢先となって鬼神に降り注いだり…。結局、高丸は二人に退治されてしまう。

 

連綿と続く東北独立国家への試み

・『田村三代記』の主人公である田村利仁は、征夷大将軍坂上田村麻呂鎮守府将軍、つまり蝦夷に置かれた軍政府の長官であった藤原利仁とを合体させた人物なんだけど、彼は星の子どもと龍が交わってできた父親が、さらに悪玉姫という鬼と契って生まれたといわれるわけでしょう。龍と鬼という二重の異類婚によって生まれるわけですよね。その利仁が、立烏帽子という外来の魔性の女と交わって呪力を得て、蝦夷の鬼神の大嶽丸を倒す。これはまさに、まえに話した「異には異を」、「夷をもって夷を制する」という古代東北侵略のパターンそのものだと思うんです。

 ただ、東北の『田村三代記』がものすごく伝奇ロマンっぽくなっているのは、京都でつくられた『田村の草子』が東北でもう一度再生産され、京都を他界として描いているからでしょうね。

 

日本史のすぐ裏側に、闇の文化史――鬼の日本史のようなものがあるのではないか

・『田村の草子』『田村三代記』については、すでに西村寿行氏が、それをネタにして傑作を書いておられます。これらとはり合うつもりの方、おられますか。おられませんか。

 

 

 

『異星人遭遇事件百科』

 (郡純)(太田出版)(1991年)

 

 

 

星座の名前は知的生物の姿?

星座の名称はこれまで単純に「星の形」とのみ関連付けて語られてきたが、近年その常識に見直しの気運が高まっているのは周知の事実である。

 

・星座の名称の由来は星の配列を似た動物にあてはめたとされるが、はたしてスバル(牡牛座)やシリウス(狼犬座)の配列が牛や狼の形に見えましょうか?これは他の星座すべてにいえることだが、(中略)星座の名称とは、その星座における代表的な知的生物を表現しているのではあるまいか?そして牡牛座と狼犬座の知的生物は、その名称通り「牛」と「狼」のような風貌をし、しかも、古くから交流があり、互いに月を前哨基地にして地球にも頻繁に訪れていた、と考えれば聖書を含めた多くの古代文献の記述も矛盾なく納得できるのである。

 

・ただ、異星人は単一の種族ではなく、様々な母星からきていたという立場に立つと話が違ってくる。人間をはじめ生き物はすべて異星人による被造物、と考えることが可能になるのだ。

 

人間、牛、馬、鳥すべての動物は異星人がみずからの姿に似せて創造した。太古の書においては相互の「交配実験」も行われたのかもしれない。

 

 

 

『金髪碧眼の鬼達』

村昻 日本デザインクリエータズカンパニー  2015/9

鬼・天狗・山姥は白人的特徴を持っていた

 

 

 

<白人的特徴>

・過去の伝統的存在、鬼・天狗・山姥達は金髪・碧眼(黒以外の目)などの「白人的特徴」を持っていた……。再発見の数多くの資料や新しい科学的データも交えながら、彼らの正体に迫る!

 

鬼・天狗が白人!?

鬼の絵と天狗のお面を見ると……そして驚くべき人類学の研究と

・まず、鬼の絵を見て頂きたい。これは江戸時代に描かれた鬼の絵巻物だが、絵の中央で首を切られている大男がその鬼だ。名を酒呑童子という。この絵では鬼の首は宙に浮き上り、また、左方の武人の頭に噛みつく、という図にもなっている。しかし、ここでこの鬼の髪の毛を良く見てみよう。あれ、……これは金髪ではないか?そして、目の色も良く見れば金色になっている。これはどういう事なのだろうか?

 

・次は、天狗を見てみよう。これらは天狗のお面だが、これらのお面は群馬県の迦葉山弥勒寺という、天狗の信仰で有名な寺に奉納されている大天狗面というものだ。この図では、中央と左方に大天狗面が、また右下に小さく、普通の大きさの天狗面も写っている。しかし、いずれの髪色も淡いが金髪に見える。また、図の大天狗面の髪も金髪だ。これらでは、目の色も金色になっている。

 しかし、鬼にしろ、天狗にしろ、この様に髪や目が金色なのは一体何故なのだろう?私達は金髪などというと……ヨーロッパ人のそれを想い出さないだろうか?また、ヨーロッパ人では金色の目の人も存在しているのだが……。

 

・実は驚くべき研究がある。今から十数年前に自然科学分野での専門論文として発表されたものなのだが、その中で「過去の日本列島に少数の白人系集団がやって来た可能性がある」という事が述べられているのだ。この研究は、東京大学医学部などの医学研究者達によって組まれたグループによる研究だった。

 

 その研究の事を次に、まず簡単に触れておこう。この研究グループでは。最初、人間の体内に寄生する「JCウイルス」というウイルスについて医学的な研究をしていた。すると、このJCウイルスのDNAの型(タイプ)が世界各地の人類集団によって少しずつ違っている事が分かって来たのだった。

 

・そこで、研究グループは、このウイルスのDNA型の違いを利用して世界各地の人類集団の「系統分け」を試みる事にしたのだ。こういう手法は、生物学(分子系統学)で良く用いられているものだ。

 そして、その結果、現代日本人の一部からも、ヨーロッパ人などの「白人」と対応している様に見えるJCウイルスの型が検出されたのだ(調査された日本人800余人の内の約2%)。

 

・そして、また、この研究グループが、日本人の中のこの白人対応と思えるウイルス型について、さらに詳しく調べてみると、このウイルス型が、ヨーロッパ人など白人の持つウイルス型と相似だが、少しだけ違いがある事も分かって来た。この事について、この研究グループは次の様に考えた。ヨーロッパ人など白人の持つウイルス型と日本人の持つ白人対応と思えるウイルス型とが「古い時代」に隔離したもの、と推測したのだった(この考え方は、この手の研究分野では、いわば情動的なものだ)。そして、この事をさらに進めて言えば、こういう事になった。白人対応のウイルス型を持っていた白人集団と、日本人の、白人対応らしきウイルス型を持っていた集団とが、古い時代に分れて別集団となった、という事だった。

 さて、この事から、この研究グループは以下の様な驚くべき推論を導いた。

「少数の日本人の中から発見されたヨーロッパ人(白人)相似のウイルス型の存在は、古い過去の日本列島に少数の白人系集団が移住してきた事を示唆している」

 つまり古い時代に、白人集団から分離した白人系集団が日本へ流入し、その後、この集団のウイルス型が、現代の日本人の中の白人型ウイルス型となった、とこの研究グループは考えたのだった。

 

・ところで、皆さんご承知の様に、この「白人」には、金髪、碧眼といった人達が大きい割合で含まれていた(碧眼とは青い目など、黒以外の色の付いた目の事)。という事は、過去の日本列島に、金髪、碧眼の集団が流入して来た可能性もあるという事に……なる筈だ。しかし、ここで思い出すのは、先の冒頭の、鬼、天狗の金髪、碧眼なのでは無いだろうか?

 

柳田国男氏の山人=異属説

・ところで過去、明治時代から昭和時代にかけて、民俗学者柳田国男という人がいた(1875-1962)。歴史の教科書にも載る位の大学者だったこの人が、実は、鬼、天狗などの問題に関係して、一つの注目すべき説を提唱していたのだ。柳田氏は、江戸時代を中心とした資料中に、「山中で一種異様な者に遭遇した」という話が多数残る事を見い出し、その集団を鬼、天狗、山姥の末裔と想像して、「山人(やまびと)」と名付けていた。そして、この「山人」について、「山人=異族説」とでも呼べる説を提唱していたのだ。

 この柳田氏と言えば、民俗分野でかつての大学者だった人で、しかもその人が自身の専門分野である民俗学で、山人や、また、鬼、天狗、山姥の資料を多数扱った上で、「山人=異族説」とでも言うべき説を唱えていた。これは見逃せない事ではないだろうか?

 

・柳田氏は、この山人達の、普通の日本人にはない様な「身体特徴」にも注目していた。彼の、この山人の身体特徴の指摘には、例えば次の様なものがあった。

 赤頭というのは髪の毛の色でそれが特に目に付いた場合もあろうが、顔の赤いというのも山人にはそれ以上に多かったのである。或は平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかという事も一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖の種らしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の性質である。

 

・柳田氏は上述の様に「山人」の身体特徴の指摘をしていたのだが、但し、この文では、その身体の特徴が「人種的特徴」だろうとか、山人が「人種的傾向」を持っているらしいなどという様な事は何も言っていない事がわかる。そして、彼の他の文献を見てもやはりそういう指摘は見つからない。しかし、それは彼の、自分は人類学の専門家ではないから、という学問的慎重さゆえだったのかもしれない。ただし、上述の様な山人の身体特徴の指摘は、それが人種的特徴であるかも知れない、と連想させるもので、それを暗に示唆していた、という言い方はできるのではないだろうか。

 

丹後大江山の鬼=外国人説

・ところで、柳田氏は、以上の説を突然、思い付いたものでもなかったのかも知れない。というのは実は、科学的には不完全なものとは思えても、鬼が外人ではないかや、白人では?或は天狗にもそういった説が柳田説以前から存在していたのである。それらは彼らの髪色や、そして、良くは分からないが、何らかの伝説などを元にか、そういう説が唱えられていた。そこで、以下、それらの説がどんなものだったのかを、いくつか見てみる事にしよう。

 まず、最初に見るのは、京都の丹後地方の大江山に昔住んでいたという伝説の残る鬼、この冒頭に出した「酒呑童子」という名の鬼なのだが、この鬼とその配下の鬼達が実は外国人ではなかったか、という説である。この説は、現在、この大江山周辺では比較的良く知られている説の様だ。ただ、説そのもののルーツはかなり古い様で、江戸時代に既にこの説を書いたものが見つかる。江戸時代の当地の地誌の中に、その鬼=外国人説が載っている。

 

・この様に、鬼とは「言葉が通じない」「衣服が人と異なる」(これは当時の普通の日本人のものと違ったという事か)者だったというのである。また、粗暴な性格だったともある。そして、こうした事から、鬼とは、日本人ではなく、外国より日本に上陸したいわゆる海賊だったのではないか、という説だ。

 ここで、鬼が海賊だったというのは、この著者(?)の想像の部分だろうが、しかし、「言語通じない」「衣服人に異なる」という部分はそうでもなく、少なく共「伝説」として書かれている様だ。その「伝説」の真実味は果たしてどうだったのだろう?

 

天狗の外国人説

・以上、鬼に関する外国人説を見た。しかし、鬼に少し似た存在としてか、日本には天狗という存在も伝えられて来た。そして実は、この天狗にも、鬼同様に外国人説があった。この天狗の外国人説は現在でも少しは知られている説だが、最初に唱えられたのは近い年の事ではなく、少し以前の事の様だ。筆者の知る、最も古い天狗=外国人説というのは、菊地晩香氏という人物が唱えたもので、これは、戦争よりも以前の時代に唱えられたものらしい。

 その菊地氏によると、天狗とは、昔、日本にやってきたユダヤ人だろうという。ユダヤ人は古くから中東やヨーロッパに居住していた民族だ

 菊地氏が何故、天狗をユダヤ人だろうと言ったのかといえば、まず天狗が頭に付けている兜巾(ときん)と呼ばれる小さな黒い箱、これがユダヤ人の誓文筥というものと同じだという。そして、もう一つには、天狗は、棒状に突き出た鼻形だけでなく、いわゆる鉤鼻形の天狗も少なくないのだが、この鉤鼻がユダヤ人に見られる鼻形だというのだ。

 これらの理由から、菊地氏は天狗を日本にやって来たユダヤ人だと考えていた。そして、この天狗=ユダヤ人説は、現在では他にも証拠をいろいろと加えて、さらに日ユ同祖論者達によって唱えられている様だ。